泥の契約(ブラッド・スウェット)
1. 泥の聖域
影浦達也は、住所を頼りに、都心の片隅にある「泥」の聖域へと足を踏み入れた。
彼が辿り着いたのは、雑居ビルの地下にある、「KUMAGYM」とだけ書かれた、剥げたペンキの看板が目印の場所だった。ディスコ「ネオン・ミューズ」が放つ安っぽいネオンの光とは、対極にある光景だ。
嗅覚: 地下へ降りる階段の途中から、達也の鼻腔を強烈な匂いが襲った。それは、革が擦り切れたグローブの古い匂い、換気の効かない室内に染み込んだ汗の酸っぱい匂い、そして、ごく微かに混ざるカビの匂い。達也が過去に嗅いだことのない、本物の肉体労働の匂いだった。
重い鉄扉を押し開けると、達也の視覚が、ジム内の薄暗い光景を捉えた。蛍光灯の半分は切れており、生き残っているものも砂嵐のような音を立てながら、黄色く疲れた光を放っている。
リングの周りには、太い麻袋のようなサンドバッグがいくつも吊るされており、その表面には、無数の拳によって叩きつけられた黒い汚れがこびりついていた。達也の目には、その全ての汚れが、かつて彼が逃避してきた「泥臭い現実」の象徴に見えた。
ジムの隅で、一人の男が黙々とトレーニングをしていた。彼の背中には、大きな熊のような筋肉の隆起があり、まさに「鬼熊」という二つ名が相応しい。彼の皮膚は、長年の激しいトレーニングによって分厚く、硬い触感を持っていることが見て取れた。
「…すみません」
達也は、喉が乾燥して張り付く感覚を覚えながら、声を絞り出した。彼のイタリア製の高級な革靴が、ジムの滑るような床の上で、場違いな音を立てた。
男は、鉄塊を思わせる重い足音を立てて、達也の方へ振り返った。それが、元プロボクサー、鬼熊 豪だった。
2. 価値の剥奪
鬼熊の顔には、現役時代の激闘を物語る深い傷跡があり、その表情はまるで風化した岩石のように動かなかった。
「何の用だ。ここは、お前さんみたいな香水の匂いをさせたヤツが来る場所じゃねぇ」
鬼熊の声は、荒い砂利を噛み砕くような乾いた響きがあった。達也は、この男の前に立つと、自分の過去の成功と現在の落魄が、全て見透かされているような感覚に陥った。
達也は、必死に胸の震えを抑えながら、言葉を繋いだ。
「私は影浦達也と申します。元々、アートギャラリーを経営していました。あなたに、協力をお願いしたい」
「アート屋だと?帰んな」
鬼熊は、サンドバッグに向き直ろうとした。
達也は、この機会を逃せば再起はないと悟り、手のひらに爪が食い込むほどきつく拳を握り締め、最も核心的な言葉を投げつけた。
「私は、あなたのボクシングを、アートの贋作と同じだと、かつて思っていました」
鬼熊の体が、ピクリと動いた。しかし、彼はサンドバッグを叩くのを止めなかった。
聴覚: 革のグローブが麻袋にめり込む「ドスッ、ドスッ」という鈍い音が、達也の言葉の重みを強調した。
「すべてを失った今、私にはわかる。あなたたちがここに置いているのは、偽物ではない。誰も複製できない、痛みと、真実の生の熱狂だ。私は、その熱狂を、最も美しい光の舞台で、大衆に見せたい」
達也は、ネオン・ミューズでのひらめきを、鬼熊にぶつけた。
「ディスコでボクシングをやる。大音量の音楽と、回転するミラーボールの下で、選手たちが命を燃やす。私はそれを、『SKRIMM』と名付けた。一ヶ月後に最初の興行を打ちたい」
鬼熊は、サンドバッグを叩くのを止め、ゆっくりと振り返った。彼の冷たい眼光が、達也を射抜く。
「ディスコだと?ケッ。お前さんたちの安っぽい光は、ボクサーの汗を偽物にするだけだ。俺たちが求めてるのは、真実の価値。泥の価値だ」
鬼熊は、床に落ちた、錆びついた金属の重りを指さした。
「それが、お前さんの言う『美』とやらを追求した結果か。アート屋が、今度はボクシングの『泥』に縋ろうってか。俺の時間は高ぇぞ。お前さんに払える金はないだろう」
鬼熊の言葉は、達也の金銭的な無力さを、冷酷に突きつけた。彼の喉の奥には、安酒の苦い味が戻ってきた。
3. 光と泥の交換条件
「金は、今はありません。だが、価値は提供できる」
達也は、意を決して、最も重要な交渉材料を提示した。
「あなたは、現役時代、あの神楽岳がプロデュースした興行で、最後の試合を戦いました。そして、不当な判定でタイトルを失ったと、私は見ています」
鬼熊の瞳が、初めて怒りに揺らめいた。その怒りの熱い視線が、達也の顔を焼くような感覚を与えた。
「口を慎め」
「私は、あなたの真実の熱狂を、あの神楽が作った『偽物の光の舞台』とは違う場所で、正当に評価される場所で復活させたい。あなたは指導者として、選手を集め、興行の『真実の価値』を担保する。私は、私のすべてを失った人脈とセンスを使い、この『泥』を、『金』になる熱狂に変える」
達也は、自分が唯一持っている「空間を操る力」と、鬼熊の「ボクシングの本質」を交換しようと持ちかけた。
鬼熊は、腕を組み、しばらく達也を無言で見つめた。ジムの換気扇の唸るような音だけが、二人の間に響いた。
「面白いことを言う。俺は『光』が嫌いだ。『金』も嫌いだ。だが、『神楽岳』の作った舞台を、別の『光』で上書きするっていう、その復讐の匂いだけは、悪くねぇ」
鬼熊は、達也の耳元に顔を寄せた。その息の荒さと、古い汗の匂いに、達也は思わず身体を引いた。
「いいだろう。俺がお前の『ディスコ・ボクシング』に、本物の『泥』を注入してやる。ただし、選手集めは、最も困難な道を選ぶぞ。誰も見向きもしない、負け犬どもだ」
「結構です。私と同じ、再起を誓う者たちこそ、私の新しいアートに相応しい」
達也は、契約成立の喜びではなく、新たな地獄の始まりを予感し、奥歯を強く噛み締めた。
4. 明日香への報告(試金石)
ジムを出た達也は、ネオン・ミューズへ向かった。明日香への報告義務があった。
ネオン・ミューズの裏口。明日香は、夜勤明けのような疲れた表情で立っていたが、ケープは変わらず羽織っている。
「鬼熊豪に会ったそうね」明日香は言った。
「契約を結びました。彼は、私の『SKRIMM』の興行を指導する」
「彼は、トラブルメーカーよ。あなたと同じく、過去の汚点を背負っている。……賭けが、さらに大きくなったわね」
明日香は、達也の瞳を深く見つめた。
「あなた、この泥の交渉で、何か失ったものはない?」
【
達也は、鬼熊に会いに行った際、ポケットに忍ばせていた銀製のライターに触れた。泥にまみれた交渉の中で、彼はこのライターを出すタイミングを逸し、結局、軽視したままだったことを思い出す。
(そういえば、あのライター、鬼熊に見せても、ただのガラクタで終わっただろうな)
「何も失っていません。むしろ、本物の真実の光を見つけました。後は、選手と金を集めるだけだ」
達也は、ライターのことは口にせず、強気の姿勢を保った。
明日香は、彼の言葉を信じたわけではなかった。彼女は、達也の熱狂と、その裏にある傲慢さを見透かしていた。
「そう。では、次の課題。興行の『熱狂の種』となる、最初の選手を見つけてきなさい。あなたの審美眼が、肉体にも通用するか、見せてもらうわ」
彼女はそう言い残し、ケープを翻し、夜の闇に消えていった。達也の心には、一ヶ月という残酷なカウントダウンと、鬼熊という名の新たな試練が、重くのしかかっていた。




