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価値の鑑定(アプレイザル)

1. 乾いた契約(交渉)


新堂明日香の仕事場は、新宿の雑居ビルの地下深くにあった。外の喧騒が嘘のように静まり返り、現像液のツンとした薬品の匂いが、地下の冷たい空気に満ちていた。壁には、廃墟となった商業施設や工場の、無人の写真が規則正しく並べられている。

「ここは、過去の熱狂の静かな死体置場ね。ようこそ、影浦達也」

明日香は、達也の汚れたスーツを冷たい目で見据えた。彼女の着ているケープは、昼間でも夜と同じように影を深くしていた。

「この場所で、あなたの『SKRIMM』、つまり『魂の叫び』をやる、と?」

「ええ。ネオン・ミューズの四角いフロアは、過去のアートでは到達できなかった、最も真実の舞台キャンバスとなる。私はその熱狂をビジネスにする」

達也は熱弁を振るったが、明日香は感情を見せない。彼女は達也の目の前のテーブルに、分厚い賃貸契約書と、一冊の美術書を置いた。

「面白いことを言うわね。ビジネス。あなたはつい一ヶ月前まで、『金儲け』を低俗だと吐き捨てた男でしょう」

明日香は美術書を開いた。そこには、15世紀の画家が描いた古い油絵の『十字架』が写っていた。

「あなたが過去に傾倒していた抽象画の前に、まずこれを考えてみて。この十字架よ。縦の線と横の線」

明日香は硬質な声で言った。

「縦の線は、資本主義を表している。富は上へ上へと伸びていく。あなたのように、一点の『真実の美』を信じ、それを頂点に置こうとした者の思想よ。そして、上に行くほど、裾野は狭まる。あなた一人が成功し、多くの人間がその下に立つ」

彼女は達也の目をまっすぐ見た。

「それに対して、横の線は、社会主義的な広がりよ。富を広く横へ分配し、裾野を広げる。しかし、あなたの言う『SKRIMM』は、この横線が、上下する」

明日香は指で十字架の横線をなぞった。

「富の分配を示す横線の『高さ』が、下に下がるにつれて『幅』が広がる。民衆の欲望に近いほど、その熱狂の裾野が広がる。あなたのボクシングは、どちら側で、どれほどの熱狂(価値)を生むの?」

達也は、この女がただの不動産屋の娘ではないことを改めて悟った。彼女は、芸術、経済、そして人間の欲望の本質を鋭く見抜いていた。

「私が目指すのは、資本主義の頂点ではない。人々の最も低い場所、最も原始的な欲望から湧き上がる熱狂だ。横線が最も下に、そして最も長く広がる場所で、金を稼ぐ。それが、私が贋作に敗北した後の、新しい『美』への復讐だ」

達也の返答を聞いた明日香は、初めて、わずかに口元を緩めた。その表情は、達也に冷たい安心感を与えた。


2. 秘密の通路(担保)


「わかった。あなたのコンセプトに、美術的な価値はある。しかし、ビジネスは別よ」

明日香は契約書を達也の前に滑らせた。

「あなたは無一文。ネオン・ミューズは、一ヶ月分の賃料と光熱費だけでも、数百万単位。担保は何がある?」

達也は、テーブルの下で手のひらをきつく握り締めた。彼には、もう金目のものは何も残っていなかった。

「……金はない。だが、一つだけ」

彼は、汚れたスーツの内ポケットから、古びた銀製のライターを取り出した。

「これは、私が初めてアートを買い付けた時、ギャラリーのオープン前に、自分への決意として買ったものだ。高価なものではないが、私自身の『信念』を担保にする」

達也はライターをテーブルに置いた。その金属の冷たい触覚が、現像液の匂いと混ざり合う。

【ここで伏線を張る】

「そのライター、デザインは面白いけど、二束三文よ。『信念』なんて、あなたの過去の失敗で既に焼失しているでしょう」

明日香はライターを一瞥すると、すぐに興味を失った。

「そうね……。私にとっては、あなたが生きた『残骸』こそが価値を持つ」

明日香はそう言って、達也が座っている椅子の裏側の、壁の目立たない汚れを指さした。

「あなたが贋作に騙された原因は何?『美』の価値を、誰かに『鑑定』させなかったからよ。その失敗の経験、『贋作を見抜く目』を、この場所の賃料と相殺しましょう」

「どういうことだ?」

「ネオン・ミューズの契約条件は一つ。一ヶ月以内に、この場所で最初の興行を打つこと。失敗すれば即時退去。 そして、あなたは、私に『SKRIMM』の価値を証明し続けること。それができれば、この場所はあなたのものよ」

明日香は、彼女が持っていたケープの裾を素早く翻し、達也に「決定権は私にある」という無言のプレッシャーを与えた。

達也は、明日香の要求が、単なるビジネスを超えたゲームであることを悟った。彼は、自分の再起の物語そのものを、彼女の前に差し出すことを強制されていた。

彼は、契約書にサインする前に、先ほどのライターを手に取った。

「このライターは、私が初めて『真実の光』を求めた時の証だ。あなたを信じる」

彼はライターをポケットに戻し、契約書に、震えながらも力強い署名をした。


3. 最初の課題と光と泥


達也は、ネオン・ミューズの空っぽのフロアに立っていた。契約はした。しかし、彼の頭は猛烈なパニックに襲われていた。

(ボクシング。ボクシングって、どうやるんだ?)

彼は、ボクシングの知識はゼロに等しい。選手は?ルールは?レフェリーは?彼は「空間のプロ」だが、「競技のプロ」ではない。一ヶ月という期限が、彼の喉を鉄の輪で締め付けているような触覚を与えた。

彼は、残されたわずかな金で、ネットカフェにこもり、情報を集めた。

視覚/聴覚: 彼の目の前のモニターには、ライバルの神楽岳がプロデュースした、華やかな巨大ボクシングイベントの煌びやかな映像が流れていた。大物選手、ドームでの興行。

(神楽は、資本主義の縦線の上で、完璧なショーを打っている。俺は、その真逆を行く)

彼は必死に検索を続けた。やがて、その神楽岳の興行の裏側を撮った、粗い画質のドキュメンタリー映像を見つけた。

その映像の隅に、埃と汗にまみれた、古びたジムが映し出されていた。

嗅覚: 達也は、そのジムの映像を見つめながら、画面越しに革とカビ、そして本物の汗の匂いが漂ってくるような錯覚に陥った。それは、ディスコの香水の匂いとも、薬品の匂いとも違う、「真実の努力」の匂いだった。

そのジムで、顔に深い傷のある一人の男が、黙々とサンドバッグを叩いていた。達也は、その男が、かつて国内タイトルマッチで名を馳せた、しかしスキャンダルで表舞台から消えた元プロボクサー、「鬼熊おにぐま」であることを突き止めた。

達也は、最後の望みを懸け、そのジムの住所を握りしめた。彼の再起の「光」に必要な、「泥」のプロフェッショナル。

「真実の美」を信じて裏切られた達也が、今、「最も泥臭い真実」を求める旅が始まろうとしていた。


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