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黄金の残響

「叫びと照明ルミエール


夜は、もう真夜中をとうに過ぎていた。

観客の熱気が、まだ室内のどこかに澱のように沈んでいる。汗と血、そして安物の香水の匂いが混ざり合った、この「場所」特有のむせ返るような空気。全てが終わり、照明が落とされて数時間が経っているにもかかわらず、心臓はまだ、さっきまでの大音量のビートに合わせて脈打っているように感じた。

黒いケープを肩にかけた女は、静まり返ったフロアの中央、四角いリングをじっと見上げていた。そのケープの下で、彼女が昼間の仕事で使った古いカメラがわずかに冷たい。

スポットライトはもう消えている。だが、リングを取り囲む周囲のミラーボールの破片や、壁の蛍光塗料が、外部から漏れ入るわずかな光を反射し、奇妙な残像の光を放っていた。

そのとき、黒いコートの男が、リングの縁に座り込んだ。彼は疲れ切っているが、その顔には、過去の贋作アートの取引で見たような、卑しい欲は一切ない。あるのは、「なま」の美しさを掴み取った者の、清々しい狂気だけだ。

「……よかったな。今日も、彼らは叫んだ」

影浦達也は、その日、人生の絶頂にいた。

テーブルの上のシャンパンタワーは、優美な光を放っていた。彼のギャラリー「ロダン」の三周年記念パーティー。二週間前にオープンしたばかりの、六本木ヒルズを見下ろす最上階の新しいスペースは、成功の匂いで満たされていた。

「達也さん、本当にすごいセンスだ。この『メデューサの抱擁』、どうやって見つけたんですか?」

耳元で、有名美術評論家の高慢な声が囁いた。批評家が達也の肩を叩くたび、彼の纏うイタリア製のカシミアスーツから、高価な香水の甘く複雑な香りが立ち上った。その嗅覚的な感覚こそが、達也の「中の上」、いや、「上の上」に手が届きかけている幸福な証拠だった。

達也はグラスを傾け、フロアを見渡した。壁には、彼が全財産を投じた、今回の目玉作品が堂々と掲げられている。

それは、現代アート界の新星、ヴィクトル・レイエフ作の巨大なインスタレーションだった。作品名は『光のアルケミー』。

黒い巨大なキャンバスに埋め込まれた無数のLEDチップが、鑑賞者の動きや、室内の音に反応して、制御不能な光の奔流を放つ。まるで、ブラックホールから流れ出る銀河の光のように、刹那的で暴力的。彼のギャラリーの目指す「静的な美から、観念的な暴力性への転換」を象徴していた。

パーティーの熱狂は最高潮だった。大音量のハウスミュージックが、彼の聴覚を麻痺させる。彼はかつてないほどの高揚感に包まれていた。

「達也!おめでとう!君は、天才だ」

背後から、ライバルとなるはずだった男、神楽岳が声をかけた。神楽は、国内最大のエンタメ興行会社「G-FEST」の若き経営者。達也のパーティーの演出も、彼が率いるチームが担当していた。

「岳もありがとう。君の照明と音響がなければ、このヴィクトルの作品もただの電気回路だった」

達也は神楽とグラスを合わせた。そのグラスが触れ合う軽やかな音は、彼らの友情とビジネスの蜜月を象徴していた。

神楽は笑った。しかし、その笑みは、達也の胸に、説明のつかない冷たい触覚を与えた。

「しかし、達也。君は、いつも『価値』を見誤る。このアートにいくら突っ込んだか、僕にはわかるよ。これは美しい。だが、君のギャラリーが本当に欲しかったのは、『金になる熱狂』だったはずだ」

神楽はそう言い残し、別の人と話し始めた。達也は一瞬、手のひらに爪が食い込むほどきつく、グラスを握り締めた。

(違う。俺が求めているのは、価値ではない。真実の美だ。神楽の作る、大衆迎合の熱狂とは違う!)

達也は自分に言い聞かせた。彼の目には、彼の信じた光のアートだけが、真の価値を持っていた。

しかし、その瞬間、彼の完璧な世界は、一瞬にして崩壊した。


スマートフォンが鳴った。振動音が、彼のカクテルテーブルの分厚いガラスを伝って、腹の底に響いた。

電話をかけてきたのは、彼の財務担当者。達也は、誰もいないテラス席に出て、夜景を背に電話に出た。夜風が、彼の顔の熱を冷やした。

「──影浦社長……、ダメです。完全に繋がらない」

「何を言っている?ヴィクトルと連絡が取れないことか?」

「それだけではありません。社長、入金がない。今朝の美術市場の急落で、ヴィクトルに繋がるすべてのファンドが……消滅しました」

達也の視界が、一瞬にしてブラックアウトした。数秒後、彼の五感は、極端なまでに研ぎ澄まされた。

「消滅……?何がだ?」

「作品ですよ!社長!あの『光のアルケミー』は、美術史に残る詐欺でした!ヴィクトルは最初から逃げるつもりで、資金調達は全て、彼のファンドを介した空の取引だった。贋作がんさくです!彼の過去の作品も全て、精巧なコピーと断定されました!」

「嘘だ…」

達也の耳の奥で、パーティの歓声が遠ざかっていく。さっきまで大音量で鳴り響いていた音楽も、突然、水中に沈んだようにくぐもって聞こえ始めた。

彼の喉は乾ききり、砂を噛んだような味がした。

達也が信じ、全財産を注ぎ込み、人生を懸けた「真実の美」は、単なる精巧な「偽物」だった。

彼はテラスの端まで行き、背後のギャラリーの壁に立つ『光のアルケミー』を凝視した。

光。 それは今も、不規則な輝きを放っている。しかし、達也の目には、それはもはや芸術的な光ではなく、虚無を照らす安っぽいネオンにしか見えなかった。

「あれは、ただの光のバケツだ……」

達也は、テラスの冷たい大理石の床に、額をつけた。その冷たい触覚が、彼の頭を殴りつけるように現実を突きつけた。

彼は、人生で初めて、「美」に裏切られた。


一週間後。

影浦達也の日常は、天国から地獄へと突き落とされていた。

ギャラリーは閉鎖。資産は差し押さえられ、彼は友人も、仕事も、そして何よりも「美への信仰」を失った。

彼は、借りた安ホテルの薄暗い部屋から、新宿の街へと這い出た。目的はない。ただ、過去の自分の成功の残骸を求めるように、さまよっていた。

彼の目の前に広がる新宿の夜景は、一週間前、テラスから見下ろしていた光景と同じはずだった。しかし、今は全てが違う。

視覚: 街のネオンサインは、以前は「都市のエネルギー」に見えていたが、今は「欲望と孤独の冷たい光」にしか映らない。特に、パチンコ店の青と赤の原色の光は、彼の網膜を嫌悪感とともに焼いた。

嗅覚: 彼は、高級な香水ではなく、雑居ビルの裏から漂う生ゴミと、雨に濡れたアスファルトの強い匂いを嗅いだ。現実の、生々しい匂いだ。

触覚: 達也の着ているスーツは、もはやカシミアの光沢を失い、くたびれた麻袋のような肌触りになっていた。

彼は路地裏のバーで、安いウィスキーを喉に焼き付くような感覚とともに流し込んだ。

「オーナー…もう一杯…」

達也の掠れた声が、カウンターに沈む。彼は、自分の人生の全てが、ヴィクトルの仕掛けた「安っぽい幻想」だったという事実から逃れられずにいた。

バーを出た達也は、ふらふらと夜の街を歩き続けた。彼の足が一歩踏み出すごとに、ジャリ、ジャリ、と細かく砕けたアスファルトを踏む音が響いた(聴覚)。

彼は、見覚えのあるビルの前に立ち止まった。それは、かつて彼が神楽岳と打ち合わせをした、巨大なイベントスペースを擁する雑居ビル。その地下に、彼が探している光の残骸があった。

そこは、彼の人生の転換点となる、ディスコ「ネオン・ミューズ」だった。


影浦達也は、ディスコ「ネオン・ミューズ」の重い扉を、金属が鈍く擦れる不快な音を立てて押し開けた。夜遊びなど久しくしていなかった彼の体は、瞬時に音と光の濁流に飲み込まれた。

聴覚: 鼓膜を突き破るかのような重低音ベースが、彼の内臓を直接揺さぶった。音の振動が、空腹で頼りない胃の腑にまで響き渡り、彼は思わず胸元を押さえた。高級ギャラリーで聴いていた整然としたクラシックやミニマルミュージックとは違う、制御不能なエネルギーがそこにはあった。

視覚: 彼の過去の失敗作『光のアルケミー』を嘲笑うかのように、無数のレーザー光線とストロボが、彼の網膜を激しく叩いた。光は青、赤、緑と目まぐるしく変化し、フロアで踊る人々を一瞬ごとに切り取り、繋ぎ合わせる。それは、人間という生物が持つ肉体の熱を、そのまま光に変えたような、原始的なスペクタクルだった。

嗅覚: 彼の鼻腔を満たしたのは、ウィスキーと汗、そして安価なコロンのきつい匂いだった。高級な香水が持つ洗練された調和とはかけ離れた、生々しい人間の匂い。彼は、胸の奥底で、かつての自分自身の清潔すぎる生活を吐き出したいような衝動に駆られた。

達也は壁伝いに進み、カクテルを注文した。喉に流し込んだ酒は、ウィスキーというより、ただの火の塊のように感じられた。

(これが、神楽岳が言うところの「金になる熱狂」か…)

彼は人混みを避け、一段高くなったVIP席(と言っても、ただの古びた一段上のスペース)に身を寄せた。彼の視界に入ってくるのは、ただ踊り、叫び、酒を飲む、熱狂に取り憑かれた群衆だ。かつてのギャラリーでは、人々は静かに、畏敬の念をもって作品を鑑賞していた。そこには知的な会話と、洗練された「美の規範」があった。

しかし、ここにはそれがない。ただ、剥き出しの感情が、光と音によって増幅され、放出されているだけだ。彼は、この光景をどこか冷めた目で見ていた。贋作に人生を賭けた男の、最後の高慢さがそうさせたのかもしれない。



その時だった。

フロアの中心、一際派手にレーザーが飛び交う場所で、空間の「調和」が乱れた。

聴覚: 大音量で流れていたビートが、突然、ブツリと途切れた。一瞬の静寂が、熱狂的なフロア全体を支配した。その静寂は、数秒前までの騒音のせいで、より深く、心臓の音すら聞こえるほどに感じられた。

誰かが誰かに、グラスの酒をかけたのだ。そこから口論が始まり、瞬く間に乱闘へと発展した。男たちが、お互いの顔を目がけて拳を振り上げる。

達也は、その暴力的な光景から目を離すことができなかった。

視覚: 乱闘が起きた瞬間、ディスコの照明が、まるで舞台監督の指示のように変化した。無数のレーザーは引っ込み、代わりに、リング状の天井の縁を走るストロボライトが、彼ら二人の男たちを、一瞬ごとに白く切り取った。

パンチが相手の顔面にめり込む。飛び散る汗。そして、一瞬遅れて鮮血が、ストロボの光を受けてガラス細工のように輝いた。

達也は、VIP席の手すりを震える手で握り締めた。彼の心臓は、静寂の中、激しく脈打っていた。

(……これだ)

彼は息を飲んだ。彼の脳裏に、かつて全財産を注ぎ込んだ、あの『光のアルケミー』が蘇った。あの作品の光は、制御された、虚ろな光だった。しかし、今、彼の目の前にあるのは、生身の肉体が、生身の感情を、生身の痛みを伴ってぶつけ合う中で生み出す、予測不可能な、真実の光だった。

贋作ではない。 誰にも複製できない、その場限りの「剥き出しの真実アブソリュート・トゥルース」。

(あの贋作アートの光に、どれだけ金をかけた?何億だ?だが、この光景は……この場所は、それを遥かに凌駕する「熱狂」と「価値」を生み出している!)

彼の凍りついていた感覚が、一気に熱を取り戻した。手のひらに張り詰めていた緊張が、熱い汗となって流れ落ちた。彼は、路頭に迷っていた落伍者の顔から、狂気に満ちた「創造者」の顔へと一変した。

「リングだ。これだ。この光と音の中で……ボクシングをやるんだ」

達也は、乱闘に興じる男たちではなく、彼らを切り取るストロボライトの円環、そして、彼らが立っているフロアの四角い区画に、すべての意識を集中させた。

ディスコ・ボクシング「SKRIMM」のコンセプトが、彼の内に爆発した瞬間だった。



乱闘はすぐに警備員によって収束され、音楽は再び鳴り始め、人々は熱狂に戻っていった。しかし、達也の心の中はもう、以前とは違うビートを刻んでいた。

彼は、オーナーを探すためにディスコの奥へ向かったが、誰も見つからない。気がつけば、店の閉店時間が近づいていた。

午前四時。

聴覚: 音楽が止まり、排気口から響く古びた換気扇の唸りだけが、広大なフロアに響き渡った。

店員たちがテキパキと片付けを済ませ、最後に警備員が裏口の鍵をかける音がした。達也は、先ほどオーナーを探して入り込んだ、VIP席の裏にある物置部屋の陰に身を潜めていた。彼は、泥棒や不審者と間違えられることを恐れ、心臓を早鐘のように鳴らしていた。

(建物全体を借りるんだ。このコンセプトを理解できる人間に…)

数分の静寂の後、店の奥にある非常口が、軋んだ音を立てて開いた。

視覚: 彼の目の前に現れたのは、新堂明日香だった。彼女は、予想通り、ショートカットに、黒いケープ(マントより短い肩掛け)を羽織っていた。ケープの裾が、彼女が歩くたびに、フロアに残ったネオンの残光を反射して、わずかに揺らめいた。

触覚: 明日香の足音は、他の誰よりも軽く、静かだった。彼は、彼女の足音がコンクリートの床をまるで水面を歩くように通過していくのを感じた。

彼女は手に、達也の過去の失敗を思わせる、分厚い古びた帳簿を持っていた。明日香は、フロアの隅々まで歩き、指先で壁のタイルの割れ目や、照明器具の錆を撫でるように確認していく。その様子は、まるで廃墟の遺物を鑑定する美術史家のようだった。

達也が息を殺していると、明日香は物置部屋の入り口の前でピタリと足を止めた。彼女の目が、暗闇に慣れた瞳で、達也が隠れている闇の奥を正確に射抜いた。

「そこに、いるんでしょう?隠れていても無駄よ」

彼女の声は、冷たく、しかし奇妙に澄んでいた。まるで、誰もいない廃墟で録音された古いテープを聴いているような、乾いた響きがあった。

達也は観念し、暗闇から這い出た。彼のスーツは、物置の埃で白く汚れていた。

「…あなたは、オーナーの?」

明日香は、達也の汚れたスーツと、彼の熱に浮かされたような瞳を交互に見た。

「私はこの建物の賃貸権を持つ会社の、オーナーの娘よ。この場所の『記録アーカイブ』を付けている」

彼女は帳簿を片手で軽く叩いた。

「このディスコは、もう十年、赤字の残骸なの。さっきまでここにいたのは、ただの熱狂を消費する虫たち。あなた、何をしにここに残ったの?」

達也は、体中に走る熱を抑えきれなかった。彼は、自分の喉が強く締め付けられる感覚を覚えながら、言葉を絞り出した。

「私は、あなたが見ている残骸を、新しい『価値』に変えるために来た」

彼の瞳は、先ほど乱闘を切り取ったストロボライトの輝きを宿していた。

「この四角いフロアで、最も真実の暴力を、最も美しい光の中で見せる。それは、あなたが見ている廃墟の記録を、未来の熱狂の歴史として書き換えることだ」

明日香は、達也の熱狂的な言葉を聞きながら、ケープの下で持っていた帳簿をさらに強く握り締めた。彼女は、彼の狂気的なアイデアを前にして、無感情を装いながらも、その口元が微かに動くのを達也は見た。

「面白いことを言うわね。贋作フェイクのアートに全財産を注ぎ込んだ末路の男が」

その言葉は、達也の最も痛い過去を正確に突いていた。彼の顔の血の気が引いたが、彼はそこで立ち止まらなかった。

「ええ。だからこそ、私は真実の価値を知った。……この場所を借りる。私の新しいアート、SKRIMMを始める」

「SKRIMM。魂の叫び、ね」明日香は低い声で繰り返した。「あなたは私に、廃墟を売れと言っているのよ。あなたには、その価値を支払うお金がないでしょう?」

彼女の質問は、氷のように冷たかった。達也は、手のひらの爪が食い込む痛みを、今度は別の意味で感じた。

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