浮ついた心
今日の夜は、昨日よりかは楽しい。昨日は4番目だから僅差なのだけど。
つまり、まあ大体3番目くらいのお気に入りの子が今日の相手だった。カラオケの個室のような暗い空間にはガラスが無くて、白々しく置かれたシングルベッドに2人で入った。
外から見られることは当然無く、監視カメラがあるわけでも無い。そんな都合の揃った完全密室という異空間には、ルームフレグランスのラベンダーの香りだけが、馨しく放たれていた。
「先にお風呂入ってきたら?」
「ほんと?ありがと。」
わざとらしく吐息を混ぜた俺の声に反応した日向ちゃんは、白いシーツにシワを作って強く握りしめていた。
待ってるよ、そんな彼女の声が聞くことなく聞こえてきた。その目と鼻と手と、全てから。
シャワー室のドアを開いた。今日のお風呂もいつもの通りのレインボーバスだった。浴槽の中がその名の通りレインボーに輝くお風呂で、バスルームの中を、一瞬でライブ会場の雰囲気に変えてくれる優れもの。
だが問題なのは、レインボーバスに入る時の特別感は、とうに無くなってしまっているということだ。俺にとってはレインボーバスなんかじゃ、今更テンションは上がらないのだ。
そう考えたら、昨日の夜のお風呂は良かった。
ボタンを押すと、積乱雲のような泡が大量に溢れ出してきて、体を真っ白くのみこんでいった。浴槽の中でくっついては離れて、くっついては離れてを繰り返していく泡と一緒に、俺と由香も一緒にくっついた。
体が密着して暑かった。心まで本当にのみこまれてしまいそうな熱が、俺の頭から背筋までの先の、肝心な冷静さを消失させて、そこからはもう我を忘れたようにめちゃくちゃに溶けた。
昨日の俺は珍しく本気だったのか。深く考えてみれば、やっぱり昨日の方がずっと良かった。昨日の由香の方が日向ちゃんよりもずっと綺麗だし、声もやはり可愛かった。
「はぁ。」
だけど、日向ちゃんは身長が低い。由香はちょっと身長が高いからって、たまにプライドまでもが比例して高くて嫌だった。それに比べて日向ちゃんは違う。
日向ちゃんはなんと152センチで、俺の176センチと24センチもの差があった。だから、俺に対していっつも下に出てくれてプライドも低め。性格もゆったりとした感じで、しかもたまに抜けてるところがあったりして余計可愛いかった。
やはり日向ちゃんは3番目で適正ライン。それ以上の見込みはないけど。
「うい、次いいよ。」
お風呂から上がった俺は、濡れたままの前髪をかけあげて、シングルベッドのシーツの上に座っていた日向ちゃんを呼んだ。
「うん。分かったー!」
調子の良い返事をすると、すぐに立ち上がった日向ちゃんは、貧血気味の体にフラフラと揺さぶられながら、シャワー室に入って行った。
やっぱり可愛い。抜けている部分が可愛すぎる。俺にはこういう天然的な部分がよく効いた。女子のか弱さが堪らなくこう、グっとくる。
でも別に俺は、彼女を守ってやろうとはするつもりはなかった。てか、そんなことはできなかった。
なぜなら、俺にとっての恋愛が、相手を本気にさせちゃいけないというポリシーの上に成り立っていたためだ。
だから俺は、相手の体には触れても、相手の心にまでは踏み込まないで、触れないようにしていた。日向ちゃんの心をもしも掴んでしまったら、由香の心まで掴まなければならなくなってしまう。
由香だけじゃない。優も絵梨も、みんなの心を掴まないといけない。そんなになるくらいなら、最初から心には触れない方がいい。
俺にとっては1番懸命な判断がこれだ。ただの思わせぶりをして沼らせて遊ぶというのが、懸命なのである。
「もう座っとこ。」
俺の頭の中の糸が網目状に張り巡らされて、張り巡らされた糸は脳内で爆発、増幅しつつ、様々な場面を連想させた。
「上がったよー!」
日向ちゃんの明るい声がだんだんと耳元に近くなってくると、俺の目線の前まで来て立ち止まった。
「どうしたの?そんなに笑って」
ピンクの頬が動いて、赤い色に変わった。照れ笑いを浮かべた日向ちゃんは、そのまま俺の手を握ってきた。
「これがしたくて。」
「ああー、なんだ。」
「いっつもいっつも塩対応だよね。たまには笑ってよー!」
「うん、嬉しいよ。ありがと。」
一応返事はしたけど、やっぱり笑わない。俺は人前で笑うことが大嫌いだ。ひねくれてるって思われたいとか、かっこつけとかじゃなくて、歯を見せて笑ったりすることが、俺の性にはどうしても合わなかった。
そのせいでみんなから塩対応って言われて、嫌われたりもした。でも今となっては、扱い方が上手くなったおかげで、もう誰も離れてくれないし、離れさせないように操ることだって出来るようになった。
「クズだよね。咲田くんって。」
「うん。よく言われるよ。でも、そんなつもりは別にないんだよね、俺。ただ普通に接してるだけなのに嫌われちゃうしさ、なんなんだろ。」
不満気にアピールをしたけれど、本当はクズというレッテルが自分に張り付いていることが、俺は堪らなく大好きだった。やっぱりかっこよかった。
クズって、人とはぐれたような特別感があったような、そんな気がしたからだ。
「いや、でも咲田くん。私知ってるよ!」
「え?何を?」
突然笑顔をシャットダウンした日向ちゃんが、俺の隣のシーツに座って、耳の近くで囁くように言った。
「3番目でしょ?私。」
「は………?」
俺は唖然とした。思わず、口がガン開きとなって止まってしまうくらいの衝撃だった。だけど、日向ちゃんはそんな俺をお構いなしに、どんどん続けて話していった。
「優ちゃんって知ってるよね?1番目の、女の子。その子と私ね、結構仲良いんだよね。それで一緒に話してたらさぁ、咲田くんに似た男の子の話ばっか出てくるから、くっそウケたよ。」
この時、網目のように張り巡らされていた、頭の中の日向ちゃんのイメージは、一瞬にして無惨にも破壊された。
優しくて、プライドが低め。低身長だから、下に出てくれる。便利な人。関わりやすい、遊び相手。
分かりやすいアホ。
「ねえどうかなぁ。私のこと、今どう思ってる?3番目から、何番目に降格した?それとも上がってたりして。なわけないか。」
そんなことを話しながら、日向ちゃんがもう一度立ち上がって、自分の荷物だけをまとめ始めた。
「違うよ、ほんとに違う。それは俺じゃない。俺は日向ちゃん以外いないよ!誰も!!!!」
焦った俺は、部屋に響くほどの大声を上げて、日向ちゃんの帰りをなんとか止めた。この時は、頭がもう混乱して、わけがわからない状態になって、とにかく日向ちゃんを止めないといけないと必死になっていた。
だけど日向ちゃんは、いつにも増して、今までで1番、俺に対して冷静に話した。
「それだよ、それ。いろんな人にクズって言われる理由。その声とその中途半端な気持ち。」
「私はこんなに好きなのに、こんなに大好きだったのに、結局3番目。なんなの、それ。」
俺の買ってあげた白いバッグ。日向ちゃんはそれを何度も抱きしめていた。銀色のチャックが左右に揺れて、帰りを急ぐような気持ちを透かして露わにする。
「バイバイ。もう2度とメッセージとか送れないようにしとくからね。」
日向ちゃんが立ち上がった俺を遮ると、部屋の扉の前に早足で向かった。
この状況においても、まだ何とかなると思い込んでいた俺は、また大きな声で呼び止めようと叫んだ。
「ごめん日向ちゃん!!次はこんなこと!」
「あ、これもういらないから。勝手に持って帰って。」
俺の言葉を無視して日向ちゃんは腕を動かした。さっきまで抱きしめていた白色のバッグ。それを、ドアの鍵を開ける音と共に、床に放り投げた。
「じゃ。」
日向ちゃんは、部屋から出て行った。
俺は、床に放り投げられた白いバッグの中を確認して見た。すると、中に入っていたのは、財布や化粧品などの類ではなく、全てが俺とのツーショット写真だった。
観覧車の頂上。エメラルドグリーンの池。山の中の温泉。切れた糸や弦が、頭の中に復元されていくのが分かった。
3番目、3番目。
日向ちゃんは最後、大粒の涙を垂らしながら何度も言っていた。
あの子にとって俺は1番で、それ以外なんて無かったのだろうか。だけど、俺にとってあの子は3番目だった。それ以上がなくて、それ以外があったから。
「あれ、なんでだ?何で泣いてんだろ俺。」
気付けば、手の上にあった写真の束がびしょびしょになっていた。
1時間、2時間もずっと1人で泣き続けた。
瞼が腫れるまで泣いて、俺はそこでようやく、自分のクズに気付いた。
日向ちゃんが、俺の中の1番目に、初めて昇格した瞬間だった。