束の間の再会
「それでは準備はよろしいですか?」
私の問いに青年はこくりと頷く。
事前にスーツを着てくると話をしていたが彼は普段着だった。
曰く、この方が彼女に自分の現状が伝わりやすいだろうと。
「かしこまりました。それでは今から一時間だけ」
そう言って私は幾つかの魔法を唱える。
歌うように自然に、時に古代の言葉を交えて、ゆっくりと生と死の世界を繋ぐ。
青年の喉が息を飲み、そして。
「あなた!」
泣き叫ぶ声と共に繋がった世界から三年も前に死んだ青年の妻がかけてきた。
それを見て青年もまた大泣きをしながら彼女に駆け寄りその体を思い切り抱きしめようとした。
「なんで! なんでこんなことを!」
しかし、その腕が最愛の妻の体に触れるよりも早く彼女は青年の頬をぴしゃりと叩いた。
「分からないのですか!? この女は悪魔ですよ!?」
そう。
私は悪魔だ。
愚かな人間が捧げる魂を最上の食物として生きる存在。
「なんでこのようなことを……」
そう叫ぶ彼女の体を青年は思いきり抱き締める。
その行為だけで青年が何故このような愚行を犯したのか妻は悟った。
彼女は泣きながら、それでも青年の体にこれ以上ないほどに身を寄せた。
「残り57分。それでは時間になりましたらまた参ります」
そう言って私はその場から離れた。
一時間後。
私は再び青年の下へ戻る。
そこには泣きはらした顔をした青年が居た。
「いかがでしたか?」
「最高の気分だったよ」
一筋の涙を流しながら彼は呟いたが、その次の瞬間に顔を強張らせて私の方を向く。
「悪魔に魂を捧げたことに僅かな後悔をしないほどにね」
「それは幸いです」
深々と頭を下げた私に青年は跪く。
「さぁ、持っていけ。僕の魂を」
そんな滑稽な様に私はくっくと喉を鳴らして笑う。
「焦らないでください。私は取り立ての時期についてまだお伝えしていませんよ」
訝し気な表情をする青年の目を覗き込みながら言った。
「あなたの魂をいただくのは今ではありません」
「ならいつだ?」
青年の瞳に私の姿が映っているのを確認して言った。
「また後日まいりますよ」
そうして姿を消していく私を青年は呆然と見つめていた。
それから六十年近く経って、今まさに死に至ろうとする青年の下に私は姿を現した。
彼は路地裏でゴミに身を寄せて横になっていたが、私の気配に気づき垢と髭にまみれた顔をこちらに向けた。
「来ると思っていたぞ、悪魔」
「さようでございますか」
「あぁ、あの後、僕はお前がいつ来るか待ち続けていたんだ」
「存じております」
そう。
あの日から今日に至るまで彼は一度として私から意識を離したことがなかった。
いずれ必ず悪魔が魂の取り立てに来ると知っていたからこそ、彼は全ての人間との関係を断ち、手に入った金は『自分には役に立たない』と判断し全て匿名で寄付をしていた。
「いつ来るか、いつ来るか……そう震えて待っていたがようやく来るとはな」
彼は舌打ちを一つしたが、意外なほどにそこに憎悪はなかった。
「情けないことだが、僕は先ほどまでようやくこの苦しい生から解放されて彼女に再会できる……なんて本気で考えてしまっていたよ」
私はくっくと喉を鳴らして笑う。
「さようでございますか」
「流石は悪魔だ。最後の最後に希望を摘み取るなんてな」
私は無言のまま上空を見上げるとそこから二人の天使が降りてきた。
老人はその姿に一瞬言葉を失った。
「ここまでするか、悪魔め」
彼の言葉が心地良い。
あぁ、やはりこの瞬間が最高に幸せだ。
天使達は私を一瞥すらせずに彼の下へ行くと微笑んで手を差し出した。
「お疲れさまでした。さぁ、共に天国へ行きましょう。奥様もお待ちです」
老人はびくりと一度震えたが、すぐにか細い声で言った。
「申し訳ありません。私はそちらに行かれません」
「何故ですか?」
「私は一時の感情に負けて悪魔と契約をしたからです」
絞り出すように告げた彼の声を聞いた天使の内の一人が優しく微笑み彼の腕を強く掴んだ。
「あなたは多くの善行を積みました。その程度の罪を愛の化身たる神様が許さぬはずないでしょう?」
その言葉に老人は呆然とする。
「参りましょう。奥様が首を長くしてお待ちですよ」
「しかし……私は悪魔と契約を……」
天使の一人が老人を伴い空へ舞い上がり、彼が混乱したままにこちらを見たので私は目くばせを一つして見送った。
その姿を見送っていると残っていた天使が蔑むような声で言った。
「悪魔め。人間の人生をなんだと思っている」
「別に良いじゃないですか、あの人は天国に行かれたんですから」
あぁ、やっぱりこの瞬間がたまらなく楽しい。
「どれだけ苦しんだって、絶望したって、生涯にわたって悪魔に怯えながら生きていたとしても」
くっくと笑って私は天使に言う。
「ちゃんと天国に行かれたんだから」
たった一時間の再会のため生涯を無為に過ごしてしまった人間が天国へ入っていくのを私は見送る。
きっと、天国であの仲睦まじい夫婦は再会し幸福に包まれるだろう。
実に喜ばしいことだ。
青年から捧げられた六十年近くの時間の味を思い出しながら呟いた。
「終わりよければ全て良しと」
「黙れ。悪魔」
「はいはい」
侮蔑の視線を向ける天使に踵を返して私は静かにその場を去った。