第113話 後悔の涙
満身創痍という言葉を日常的に使うことはなかったが、今のオレたちがまさにそれだ。いや、疲労困憊という方が正しいかもしれない。
「終わったぞ凜花。立てるか?」
「へへっ。毎回のように思うけど、死ぬかと思ったわ」
オレが差し伸べた手に、力なく笑う凜花がすがった。引き上げて立たせてやるのだが、辛うじてという有り様だ。よろける様子からも、限界ギリギリの戦いだったと思い知らされる。
「衣織も大活躍だったな。平気か?」
「ええ、何とかなりました」
「それにしても凄かった。お前が一番アニマを上手く操れるのかもな」
「そんな、たまたまですよ。イメージ通り出来ただけで」
謙遜しながら微笑む衣織が、オレの手を掴んで立ち上がった。立ち眩みがしたらしく、眉間にシワを寄せては、その場に立ち尽くした。
だがそれくらいだった。大きな怪我もない。強いて言えば、身体が鉛に取り憑かれたような倦怠感があるだけだ。今すぐにでも横になりたい気持ちは、拳を握りしめながら堪えた。
「2人とも。近くで休んでろ。オレは結菜のもとへ向かう」
「だったらアタシらもついてくよ。なぁ衣織ちゃん?」
「もちろんです。この旅の最後ですから、ぜひとも見届けたいです」
「お前たちも疲れ切ってるだろうに……まぁ好きにしてくれ」
今すぐに地下牢獄へ行きたいのだが、問題があった。ルートを探すのに苦労させられたのだ。
病院はガレキの山と化していた。打津木自らの手で破壊したのだ。もっとも、アニマで建て替えなり建て増ししただろうから、どのみち最期は打津木と運命をともにしただろう。
「やっぱり、ここから降りるべきか」
オレが指し示したのは、牢獄に直結する穴だった。降りた先は結菜の牢屋の真ん前だ。しかし、出入りするために空けられたのではない。階段やスロープといった、文明的なものは何も無かった。
深さは4、5メートルはあるだろうか。落ちても死ぬことはないだろうが、捻挫くらいならありえる高さだ。今のコンディションでは、骨の1本も折れるかもしれない。
「なるべく安全に降りられそうなルートを探す。少し待っていてくれ」
穴は断崖絶壁、というほど厳しくはない。穿たれた穴の縁には、アスファルトや土に大きな凹凸が見られた。ロッククライミングの要領で行ける気がした。
オレが「ついてこい」と手を振って呼びかけた。すると、凜花と衣織も縁に取り付くようになる。危なっかしくはあるが、どうにか2人ともオレのあとに続いていた。
「結菜さん、大丈夫でしょうか」衣織がポツリと囁いた。口ごもる凜花の代わりにオレが答えた。
「たぶん平気だ。みろ。霧が止まっているだろ」
「言われてみれば、呼吸もいくらか楽です」
「打津木も決戦の最後の方には、結菜を手放していた。だから大丈夫。無事のはずなんだ」
オレたちはアニマの枯渇に陥ったせいか、エクステンドゾーンを解除していた。全身を覆う膜も失っている。それなのに、咳き込むこともない。せいぜい砂埃がノドに引っかかるくらいだ。
だから大丈夫。アイツは無事なはず。下に降りた途端、正気を取り戻した結菜が「会いたかったよ!」だなんて言いながら出迎えてくれる。そうなるハズだ。
しかし、何度も不安が込み上げてくる。どんなに打ち消しても嫌な予感が消えなかった。早く結菜の様子を早く確かめたい。しかし角度が悪い。ここから見えるのは荒れ果てた床のみで、牢屋の中まで覗き見る事はできなかった。
「じれったいな。アニマが回復してたら、これくらいの高さからでも……うわっ!?」
不意に足場が崩れた。左足が落ちるとともに、身体は虚空に投げ出されてしまった。それからは、背中から床に叩きつけられてしまい、あまりの衝撃で息が止まった。
「グハッ……! いててて」
まともな受け身も取れなかったせいか、しばらく悶絶してしまった。眼の前で星が舞う。だがそれよりも結菜だ。懸命に目を凝らして、正面の牢屋の方を注視した。
打津木のアニマは途絶えていた。そのせいか、あらゆる電灯が消えており、薄暗い。しかし、それでも見て分かる事がある。オレは、あまりにも冷たい現実を突きつけられた事で、その場に立ち尽くしてしまった。
「嘘だろ……」
その時、頭上で凜花が叫んだ。「大丈夫かワタル」と。だが、オレは返事をする気力すら湧かない。弱々しい日差しが差し込む中、よろよろと、牢屋の中へと足を踏み入れていった。
そこには、全身が灰色に染まった、彫像のような結菜が待ち受けていた。
「なぁ、結菜……。オレだよ。ワタルだよ。約束を守って、ここまで来たんだぞ」
言葉は虚しく牢屋に響くばかりだ。結菜は声をあげず、そして指1本すら動かさない。事情を知らない人が見たなら、彫刻品とみなすだろう。そう思えるほどに、結菜からは人間らしさの一切が奪われていた。
「おいワタル、結菜ちゃんは――」
地下に降り立った凜花たちは、途中で口をつぐんだ。それからオレの隣に並んで絶句した。衣織も、両手で口元を覆っては、か細い声で呟いた。「そんな、こんな事って……」
やめてくれ衣織。そう喚きたかった。胸が張り裂けてバラバラになりそうなほど、激しく痛んだ。それなのに、口からは何の言葉も生まれず、手を伸すばかりだった。
結菜の指先に触れた。冷たい。一切の温もりもない。かつては生きた人間だとは思えないほどに。
「こんな事が許されるのかよ……」
オレがしぼりだすように発した声は震えていた
「子供の頃は大人に襲われかけて、それだけでも辛い過去だっていうのに。こんな狭くて暗い所に10年も閉じ込められて、挙句の果てに、こんな姿にさせられて……!」
気づけばオレは、傍の壁を拳で殴りつけていた。手の甲よりも目頭の方に痛みを感じ、熱くなり、やがて涙が溢れ出した。
「いったい結菜が何をしたってんだよ! どうして、何の因果があって、ここまで苦しめられなきゃならないんだ!」
叫んだ。立っていられずに膝をついた。直立不動の結菜に許しを乞うような態勢だった。いや、それは正しい。オレは断罪されるべきだった。
「間に合わなくてごめんよ、結菜……辛かったよな。オレがもう少しだけ早く駆けつけてたら、こんな事には……」
這いつくばったまま、今度は床を殴った。殴った。殴った。殴った。殴った。拳が嫌な音をたてる。いっそのこと壊れてしまえばいい。
そこで腕を絡め取られた。「やめろワタル!」と聞こえた気がした。しばらくして、凜花が止めたのだと気付いた。オレは腕に力を込めて、凜花の手を振り払った。
「あのなワタル……。気持ちは分かるが、自棄をおこすなよ。そんなことしたって何にもならない」
「分かったような口をきくな!」
どうしても叫んでしまう。八つ当たりの自覚はあった。だが、そんな冷静さを持ち合わせる一方で、胸に走る凄まじい痛みに耐えかねてもいた。
自然と声が大きくなる。口調が荒々しくなる。そんな自分を止めることは出来なかった。
「オレたちは何のために秋葉腹までやってきた? 数々の困難を乗り越えて、死の危険と隣り合わせになってまで、目指したのはなぜだ? 結菜のためだろう!」
この時、いきなりスマホがバイブした。何かの通知だろうか。確かめる気にはならない。
「オレは間に合わなかった。助けられたはずなのに。打津木をもっと早く倒せたら、こんな事にはならなかった!」
「ともかく落ち着けよ。何か次善の策とか見つかるかもしねぇし」
「策だと? そんなものあるもんか! お終いなんだよ、何もかもが!」
スマホはまだバイブし続けた。着信でも入ったのか。相手は陰木か、大介か。どっちだって良い。オレは壁に向かってスマホを叩きつけた。
「もう良い、うんざりだ。アニマだのアップスだの。そんなものはもう、オレとは関係ない」
そう吐き捨てると、オレは牢屋の中で腰をおろした。結菜を正面にしつつ胡座をかく。
このままでいよう。飲まず食わずでいれば、せいぜい3日で死ねるだろう。そんな償いしか思い浮かばなかった。
「おいワタル、スマホが……」
「壊れたか。どうだっていい。それより2人とも、もう旅はここでお終いにするぞ」
「いや、そうじゃなくて、スマホの画面を」
「お終いだと言ったろ。お前たちは、このままどこかへ行っちまえ。あの世まで結菜に付き添うのは、オレ1人だけで十分――」
「かぁぁ! もうじれったい! 良いから見やがれってんだ!」
凜花はオレの背中からしがみつくと、両腕でオレの首をしめあげた。完全にキマっている状態で、息が吸えず、みるみるうちに苦しさが増していった。
「やめろ、凜花。このままじゃ息が……」
「離して欲しかったら、さっさと画面を見ろやボケ!」
「なんだと……?」
そうして見せつけられたスマホに、オレは一瞬で釘付けとなってしまった。その瞬間だけは、不思議と息苦しさも忘れていた。
――叶井結菜のディープゾーンへの侵入が可能になりました。
「えっ、これは……?」オレが呟きを漏らした所で、ようやく解放された。軽く咳き込んでいると、衣織がこちらに駆け寄り、オレの肩を優しく揺すった。
「ワタルさん。まだ終わってなんかいません。きっと結菜さんは、今も助け出されるのを待ってます!」
「そ、そうなのか……?」
「生きてるからこそ、ディープゾーンの反応があるんです! さぁ!」
オレは凜花の方へ視線を巡らせた。すると、力強い頷きが返された。
「そうか。まだ終わってないのか……!」
スマホを受け取るなり、すかさず画面をタップした。しかし、いつもと変わらない操作をしたのだが、状況に変化はみられない。
すると、スマホが機械的な音声を吐き出した。
――ディープゾーン進入路の確立に失敗しました。要求されるアニマの量を満たしていません。
理由はアニマ枯渇だった。確かに、もうひと仕事を片付けるだけの体力は、残っていないように思えた。
「あらら。水を差された気分だわ。どうするよワタル? 少し休んでから再挑戦する?」
「本来なら、そうしたいところだが……」
そう言いながら、オレは結菜を睨んだ。その身体は、髪の毛先や指先で軋むような音を響かせては、細かな破片をばらまいた。どうやら端から崩壊が始まっているようだった。
「時間をかけるべきでは無いらしい。可能な限り速やかにゾーンへ侵入したい。今度こそ、手遅れにならないように……」
アニマを補給するには、水晶体を探すのが手っ取り早いか。しかし、打津木の病院は完全に潰れており、跡形もないといった様子だ。
果たして、地下研究室が今も無事なのか。無事だったとして水晶体は見つかるのか。無闇に探し回ることも時間の浪費に思えた。
(最適解はなんだ。どうすれば結菜を助けられる……?)
その場で長考していると、不意に手のひらを柔らかな物が包みこんだ。衣織がオレの左手を優しく握りしめていた。
「ワタルさん。ほんの少しですが、私のアニマを使ってください。これでディープゾーンに侵入できると思います」
温かく、優しさの感じられるアニマだった。それは左手から、体内に染み込むような感覚を与えてくれた。
「なるほどな。じゃあアタシのもくれてやるよ」
凜花が空いた右手を握りしめ、同じくアニマを譲ってくれた。こちらは猛々しさのあるもので、オレの体内に注がれた途端に、腹の奥に活力が宿るようだった。
「凜花、衣織、ありがとう。いくらか回復出来たと思う」オレはそこまで言うと、指先で頬をかいた。続けて、視線を端に逸らしながら言った。少しだけ気まずい。
「さっきは、その、済まなかった。どうにも堪えられなくて、つい暴言を……」
すると、衣織がクスクスと柔らかく笑った。
「お気になさらず。激しく荒れてしまうほどに、結菜さんを大切にされてるんですね。あそこまで愛されるだなんて、少し妬いてしまいます」
「いや、別にそういう間柄じゃ」
そこで凜花の方を見ると、不敵な笑みを向けられた。
「今さらアタシらに気を遣うんじゃねぇよ。そんな余裕があるなら気張れよな。絶対に結菜ちゃんを助け出してこい。そして、みんな揃って笑顔になって、ここから出るんだ」
凜花が拳を突き出してきた。隣の衣織もそれに倣う。オレは思わずはにかみながら、拳を軽く突き出した
3人の拳骨が、宙でぶつかりあった。
「よし、行ってくる!」
「がんばれってこい、絶対成功させろよ!」
温かい声援を受けたオレは、スマホを再びタップした。すると、どこからともなく現れた巨大なイモムシに、頭から食われた。ディープゾーンへの侵入が開始した証だ。
「凜花の言うとおりだ。みんな揃って、笑顔で脱出するぞ」
オレは意識が揺らぐのを感じながら、決意を新たにした。もう2度と、後悔の涙を流すことがないように。