第110話 賭けに未来を委ねて
聞き覚えのある声色、そして靴音。オレは振り向くことが出来ず、床に倒れ伏しているが、現れたのが打津木だと理解できた。
「テメェ……いったいどこから!」凜花が吠えるも、打津木はこう唱えた。「ひれ伏せ」
すると、凜花も衣織も悲鳴をあげては、その場から動けなくなった。アニマによる拘束を受けたのだろう。
「ご婦人方、命が惜しくば大人しくしたまえよ。もっとも、死期が数分延びる程度の話でしかないが」
靴音は調子を変えずに響き、間もなく、オレの傍らで止まった。
「調子はどうかね、鬼道渉君。実に苦しそうだ。しかし、それだけ失血してもなお意識を保てるとは、称賛に値する生命力だ。学の無い者というのは、往々にして体力や腕力で不足を補おうとする。それは生存本能からくる戦略なのかな?」
「打津木、このやろう……カハッ!」
「先程までは、さぞや気分が良かったろうな。この私を出し抜き、念願の姫様を助け出す寸前までこぎ着けたのだから。手のひらの上で踊っていただけと知らないままに。いやはや、実に滑稽、滑稽」
わざとらしくかぶりを振った打津木が、さらに続けた。
「君は疑問に思わなかったのか。ご丁寧に計画書だの、覚書が残されていたことを。多少なりとも知性があれば、『誰のための文書だ?』と訝しむだろうにねぇ」
「じゃあ、あれは、オレをたきつけるために……」
「無論だ。それだけではない。猿でも分かるレベルの手がかりに、辛うじて切り抜けられる程度の窮地。全ては君が、結菜君に対して想いを傾倒させるための、御膳立てでしかなかったのだ。加減の調整には苦心したものだが、完璧だったらしい。まさにパーフェクト!」
ひどく饒舌な打津木は、そこで「見たまえ」と言ってはアゴをしゃくった。指し示された方で佇む結菜は、鉄格子の向こうで身悶えていた。
「いや! そんな、ワタル君が……あぁぁぁッ!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ結菜に、やはり打津木は悠々とした足取りで歩み寄った。そして優しく語りかける。だが、放たれた言葉は冷たく、微塵の慈悲すらも無いものだった。
「辛いか、苦しいか、結菜君。無理もないさ。長年に渡って牢獄に閉じ込められ、来る日も来る日も心労に堪えながら、今日という日を待ちわびたのだから。君の未来が変わること、そして心待ちにした男と再会することをね」
そのセリフは暴力だった。親身に寄り添う素振りでありつつも、心を深くえぐるナイフも同然だった。
打津木はなおも続けた。
「なんということか。ついに悲願が叶おうとした、まさにその瞬間だ。眼の前で無情にも潰えてしまったではないか! あぁ実に、実に哀れだなぁ!」
「どうしてこんな事に! ワタル君は! 私に関わったせいで!」
「そうだねぇ。君が呼び寄せなければ、彼は凍京に来ることもなく、こうして死ぬこともなかったろうよ」
「私がいけないんだ! 私が悪い子だから、夢なんて見たから、ワタル君が死んじゃうの!」
「あぁ悲劇に見舞われし娘よ。哀しいかな、この世は絶望で満ち溢れている。耐え難いまでの苦痛、辛酸、暴力、悪徳、欺瞞があるだけだ。そんな哀しい世界は、そろそろ終わらせてしまおうじゃないか」
「終わらせる……って?」
「君にはその力があるんだ。この不完全で、苦しみに満ちた世界に終止符を打とう! 君が責苦から解き放たれるには、それ以外に方法はない!」
打津木の言葉は、結菜の心に響いているようだ
聞くに堪えない暴論が飛び出すたびに、結菜のアニマも不穏なほどに膨らんでいった。
「やめろ、結菜。口車に、乗るな……」
オレのかすれた声では結菜に届かない。何を伝えようとしても、結菜の悲痛な叫びにかき消されてしまう。
すると辺りが突然に曇り始めた。霧だ。この地下牢獄に、なんの脈絡もなしに霧が立ち込めるようになった。
「ハーーッハッハ! ついにやったぞ、霧の女王の誕生だ! これでロイド様もお喜びになるだろう! そして晴れて、私も、アップスの一員に!」
打津木が身体を反らして高笑いをした。霧は突風に乗って、狭い通路を駆け巡った。
すると、後ろの方から咳き込む声が聞こえだす。
「ゲホッ! なんだこれ……息が……!」
「ダメです凜花さん、この霧を吸っては! 心に強く作用して、意志を乗っ取られてしまいます!」
「そうは言うけどよ。身体が動かねぇし、避けようがねぇ……」
これはただの霧ではない。それは理解した。だがそれだけだった。
もはやオレに、立ち上がるだけの力は残されていない。五感も遠く薄れている。だから毒性のある霧を浴びせられても、痛みすら感じず、咳き込むこともなかった。
「ここで、終わるのか……。オレは……」
気を抜いたとたんに目蓋が閉じてしまいそうだ。眠い。途方もなく眠い。このまま睡魔に全てを委ねたくなる。
だが、視界の端に映る結菜の姿が、それを許さない。オレの身体は動かなくとも、辛うじて意識はある。かすかにアニマも残されていた。
ならば戦えるということだ。
(最後の一撃を、どうくれてやるか……。チャンスは一度きりだぞ……)
意識が途切れそうになる最中、何かできないかと、必死に思考を巡らせた。
戦う。誰と。何を目星に。どうやって。霧の風が吹き荒れる中、オレはふと1つの閃きを得た。賭けにしても、ひどく勝ち目の薄い博打だった。
乾坤一擲。外せば死。結菜も、凜花や衣織も救えない。全ては、たった一度の作戦に委ねられた。
「ずいぶんと、楽しそうだなお前」
オレはどうにか声を絞り出し、打津木を嘲笑った。それだけで打津木の視線が、わずかに険しくなった。
「何か言ったかね、負け犬君。そのままくたばった方が楽だと思うが?」
「お前が、哀れすぎて、黙っていられなかった。自分では何も出来ないから、他人を利用して、利用し尽くして、願望達成か。つまらない人生だな」
「知ったような口をきくな」
「小利口なやつは臆病だ。臆病だから、自分では何もしない。他人の成果に乗っかるだけの人生。汚物をコソコソと喰らうネズミと変わらない」
「黙れ、死にぞこない」
「ずっと見ていてやろうか。お前の無様な生涯を。何も成せず、強者にへつらうだけの生き様を、延々と嗤い続けてやろうか」
「黙れと言ったろうクソガキがーーッ!」
打津木が、結菜の傍からこちらに向かって、ツカツカと歩み寄った。そして磨き上げられた革靴で、オレの頭を踏みつけにした。
痛みはない。屈辱でもない。むしろ、釣り竿が引いたような感触に、口元がほころぶ想いだった。
「さっきからベラベラと。お前の役目は終わったんだよ。さっさと舞台から退場してくれないかなぁ? エキストラ風情が、邪魔なんだけどなぁ!?」
打津木が踏みつける力を強めた。オレは今、ポイ捨てされたタバコの吸い殻の気分を味わっていた。
だがそれでいい。打津木は完全に冷静さを欠いていた。だからオレの企みに反応しきれないだろう。後は打津木が見せた、千載一遇ともいえる隙に、全力になって賭けるだけだった。
オレは、ありったけのアニマをこめた右手で、打津木の足首を掴んだ。
「クソッ……何をする、放せ! 靴が汚れるだろうが!」
「汚れくらいなんだ、三文役者め。いや、この場合は、監督やら脚本家って事になるのか?」
「口の減らないガキめが! こいつ、半死人のくせに、どこにこんな力が……!」
「振り払われちゃ、困るんだ。オレたちの全てがかかってるからな」
果たして賭けに勝てるのか。確証はない。だがこれまで衣織と重ねてきたやり取りから、可能性はあるように思えた。
やれるはず。いや、やれる。信じれば叶えられる。いつかインフォが言っていた。
アニマは、願えば全てを叶えてくれると。
「お前のアニマを寄越せ、打津木ッ!」
「な、何だとぉ!?」
オレが叫んだ途端、突然、鼓動が激しくなった。あらゆる血流が逆さまになったと思うほど、脈が異常をおこした。打津木を掴む右手は焼けたように熱く、そして、しびれをもたらした。
それが不快に感じられたのも束の間で、すぐに、全身に温かなものが流れていった。指先にも力が戻っている。
すかさず脳裏に、血止め、失った分の血液を再生、と思い浮かべた。すると、またもや常軌を逸した速度で、傷口が塞がっていった。
「クッ……いつまでも気安く触るな!」
打津木が右手を掲げてアニマを集約し始めた。それを見た途端、オレは打津木から手を離し、真後ろに転がった。身体は動く。むしろ絶好調だ。
「どうした打津木。オレは華麗に復活したぞ。これもシナリオ通りなのか?」
「おのれ、調子に乗るなよ」
「ケリをつけようか。結菜を散々苦しめた落とし前を、今ここで……」
その時、霧の中で奇妙なものを見た。打津木の身体から赤い紐が伸びて、オレの頭上を通り越しては、背後の方へと続いていた。その2本の紐は、それぞれ凜花と衣織につながっていた。
ろくなものじゃない。オレは右手に大剣を呼び出すと、切りつけようとした。だがその刹那、紐は急速に引っ込んで、打津木の体内に消えた。
「貴様、これが見えているのか!?」
「これとは。何の話だよ」
「つい先程まで、エクステンドゾーンは見えていなかったろうが! それがなぜ!」
打津木が激しく動揺すると同時に、背後から激しい咳が2つ聞こえた。凜花たちも危険な状態にあった。
「大丈夫か、しっかりしろ!」
オレはその場で後方に飛び退り、凜花と衣織の身体を抱き起こした。すると、2人は何事もなかったように立ち上がった。その体は、赤い光に包まれていた。
「おっ? おおっ? なんか急に楽になったんだが?」
「助かりましたワタルさん。でもどうして……?」
オレはここに来てようやく確信した。打津木の桁外れな強さに説明がついた瞬間でもあった。
「そうか、そういうことか。精神世界を映し出すディープゾーン。環境を変えて、様々な物を生み出せるセカンダリーゾーン。いずれもアニマによるものだ。ここまで汎用性が高いなら、人間そのものをゾーン化できても、別におかしくはないよな!」
オレは凜花たちと並び立って、剣の切っ先を打津木に向けた。自分の腕も、まるで炎でも燃え盛るかのように、赤く煌めいていた。
「チェックメイトだ、打津木。お前の様な三下はサックリ倒して、結菜を助け出す」
そうだ。打津木に時間をかけていられない。オレは決意を新たにした。ヤツの身体から伸びた赤い紐が、結菜の全身に絡みつくのを睨みつつ。