幼馴染みに「君を愛することはない」と言われて白い結婚契約したのに、なぜか溺愛されています。
穏やかな昼の光が差す執務室で、お父様が口を開いた。
「アデライド、お前の結婚が決まったぞ」
私はごくりと息を飲む。
貴族の娘である私は、願い通りの人のところへ嫁ぐことなんてできない……そう、思っていた。
「お相手は、どなたですの……?」
「ふふ……」
お父様の不敵な笑いに、心臓が痛くなる。
「アディ。お前の夫となる人は、ハーディング侯爵家の令息、フィックスだ」
「え……? フィックス、なの?!」
名前を聞いた瞬間、私の体は勝手に飛び跳ねた。
そのままお父様に駆け寄ると、ぴょんと抱きつく。
「ありがとうございます、ありがとうございます! お父様!! 大好きよ!!」
「ははは! かわいいアディのためならなんでもしてやるさ!」
あああ、なんて幸せ!!
こんなに幸せな伯爵令嬢は私くらいのものよ!
幼い頃から、大好きな大好きなフィックスと結婚できるんだもの!
「ただし、アディ」
「なぁに、お父様?」
お父様は少し悲しい目をして、人差し指を自分の唇に当てた。
「あの力は、なにがあっても絶対に使ってはいけないよ」
「はい、お父様! わかっていますわ!」
私はお父様と誓いを交わす。
力なんて使わないわ。
だって私は世界一幸せな女なんだもの!
お父様の机の上にあるお母様の小さな姿絵が、私を見守っている気がした。
力なんて使わない──そう思っていた、次の日の朝のことだった。
「アディ……僕は君を愛することはない」
フィックスの言葉に、私は脳天が割られたのかと思うほどの衝撃が走った。
しかもここは、アヴェンタリス教会の前。
普通なら愛を誓うであろう場で、私は愛さないと宣言されてしまった。
フィックスは幼い頃からこの教会に通う、いわば幼馴染み。
敬虔なアヴェンタリス教徒で、風邪をひいた日や遠出している時以外は、毎朝同じ時間に礼拝に来ていた。
世の中には呪いや魔女も存在しているから、恐ろしがって宗教にすがる人も多い。
私は敬虔なふりをしてフィックス目当てに毎日通っていた、不純なアヴェンタリス教徒だったけど。
その大好きなフィックスに、まさか『君を愛することはない』と言われてしまうなんて……!
「えと……フィックス……? 今なんて……」
だめだわ。衝撃が強すぎて、言葉が出てこない。
フィックスは申し訳なさそうな顔をしているけれど、その意志は強い。
幼い頃からずっと見てきているんだもの。それくらいわかるわ。
「ごめん、アディ。君を幸せにすると言えなくて」
「どう……して……?」
「理由は……聞かないでほしい」
ああ、天国から一気に地獄に突き落とされてしまった。
理由すらも教えてもらえないなんて。
フィックスの整った顔が、涙で滲んでよく見えなくなる。
「アディ……」
「私との結婚が、嫌なのね……」
「そういうことじゃないんだ。だけど白い結婚になる。それを、承諾してほしい……僕のわがままだ」
白い結婚……偽の夫婦になるということ?
婚約の解消もせず?
なぜ、と聞いても教えてもらえないんだろう。
利用されるだけなんだ。さすがにそれくらいは気づくのよ。
幼いころからずっと大好きだったフィックス。少なくとも嫌われてはいないと……思っていたのに。
悔しくて悲しくて、目から冷え切った雫がはらはらと地面に落ちていく。
「……ごめん。白い結婚が嫌なら、父上に頼んでこの婚約は解消してもらうよ」
婚約を解消……
私が喜ぶと思って、お父様が取り付けてくれた婚約を解消する。
ああ、どれだけお父様を落胆させてしまうだろう。そして心配させてしまうだろう。
白い結婚だったとしても、私は大好きなフィックスと一緒にいられる。たとえ、愛されることがなかったとしても。
「フィックス……」
「なんだい?」
「フィックスは、私と白い結婚をしたいの……?」
本来なら、フィックスだってちゃんと愛する人と結婚したいはず。白い結婚なんて、望んでするものじゃないから。
愛すこともできない私との白い結婚を、望んでいるのか知っておきたかった。
親に言われたから仕方なく……というのであれば、ちゃんとお断りをした方がいい。
「ああ。アディさえ許してくれるのなら、僕は君と白い結婚をしたいと思っている」
フィックスが私との白い結婚を望んでいる。一体、どういう事情があるっていうんだろう。
他に好きな人がいるけど、絶対結婚できない相手なのだろうか。
でも、今の言葉で私の心は決まった。
フィックスが望むのなら、私は利用されてあげる。
白い結婚でも、なんでもしてあげる。
「わかったわ。白い結婚を受け入れる」
「アディ……!」
「でも、ひとつだけお願いがあるの」
「お願い?」
愛のない結婚を受け入れるんだもの。
これくらい、いいわよね?
「人前でだけは、ちゃんと仲の良い夫婦のふりをしてほしいの」
「わかった。必ず」
私の要求を、フィックスは承諾してくれた。
***
私とフィックスは結婚をして、書類上の夫婦となった。
十八歳で初めてしたキスは、とても悲しくて。
結婚式場では涙を隠して笑っていたけど、胸が張り裂けそうになるくらいに痛かった。
「行ってくるよ、アディ」
そう言って毎朝してくれるお出かけのキスも、周りに使用人がいるから。
〝人がいるところでは仲の良いふりをして〟と頼んだことを、忠実に守ってくれているから。
……の、はずよね?
でもなぜか、人がいないところでもしてくるの。
特に、私たちしかいない寝室で。
私は初夜の日、てっきり別々の部屋が与えられるのだと思っていた。
だけど部屋は同じで、しかもベッドはひとつだけ。
「おいで」ってフィックスの甘い顔でベッドに誘われて、ふらふら入っちゃったわ。
白い結婚は、嘘だったのかって思った。
たくさんキスをしてくれて、好きだって囁いてくれて……そしてフィックスはそのまま……
寝ていたけれど!
毎晩生殺しですけど、私!
……わかってるわ。白い結婚だもの。
朝起きてから眠るまで、人の目があろうとなかろうと、フィックスは細心の注意を払っているのよね。
私たちの白い結婚がバレないように。
でもそこまでされると、余計につらいのよ……愛されないことが……。
本当は愛されているんじゃないかって、勘違いしそうになることが。
今日もフィックスが帰ってくると、私たちは使用人に見せつけるようにイチャイチャした。
おかえりのキスをして、今日はどんなことがあったのかをお互いに話して、笑って、一見すると本当に幸せな夫婦。
夜になると、フィックスは今日も私をベッドに引き込んでキスをしてくれた。
「アディ、かわいい……好きだよ」
耳元で囁かれると、本気なんじゃないかって思ってしまう。違うってわかっているのに。
だから私は、絶対に好きだなんて言わない。言っても虚しいだけだから。
ねぇ、どうして抱いてくれないの?
どうして白い結婚が良かったの?
私のこと、本当はどう思ってるの?
たくさんの疑問を飲み込んで、私はフィックスに微笑みを向けた。
「ねぇフィックス。明日はお仕事お休みでしょう? 礼拝が終わったら、どこかに出かけましょうよ」
私がそう言うと、フィックスは途端に気まずそうな顔になった。
「……ごめん、ちょっと明日は予定があって……」
「先週も、先々週もそう言ってたわよね?」
「ごめん」
「大事な用事?」
「……ああ」
目を逸らすフィックス。長く一緒にいるから、わかる。嘘なんだって。
「そう……なら仕方ないわよね」
「埋め合わせは今度、必ずするから……」
「もういい! 触らないで! キスもいやよ!」
「アディ……」
私が拒否すると、フィックスはものすごく傷ついた顔をした。
どうしてフィックスが傷つくの? 傷ついたのは、私の方だわ……!
「ごめん……」
フィックスはいつも謝ってる。申し訳ない気持ちがあるのは、ちゃんと伝わってくる。
でも私ばかりが苦しい思いをしているようで、やりきれないのよ。
「フィックス。私、浮気するから。いいわよね?」
私は心にも思ってないことを言った。
だって、ずるい。フィックスには想い合う人がいて、私には本当の愛をくれたりしない。
でも浮気したいわけじゃないの。フィックスの気を少しでも引きたかっただけ。
もしかしたら、浮気なんかするなって嫉妬してくれるかもしれないって、私は──
「……わかった」
フィックスの承諾の言葉に、私は息を詰まらせた。
ああ、なにを期待してたんだろう? ばかみたいだ。結果はわかっていたはずなのに。
「白い結婚をさせておいて、アディを僕に縛りつけようなんて……思って、ない、から」
フィックスの言葉はそこで終わった。
喉から搾り出すような声の「おやすみ」を一言だけ残して、そのまま布団を頭までかぶっている。
ああ、フィックスの気持ちがよくわかった。
私は愛されてない。
わかっていたけど……でもあんなに優しくしてくれていたから、もしかしてって……っ
私も布団をかぶり込み、声を殺して泣いた。
ああ、使ってしまいたい、あの力を。
フィックスの心を私に縛り付けてしまいたい。
でもいけない。
お父様との約束だから。
魔女のお母様と、同じ道を歩みたくはないから──
翌朝、私たちは少しギクシャクしながらも、教会に向かう。
熱心にお祈りを捧げていたフィックスは、教会を出た後「それじゃあ、用があるから」と私に背を向けた。
私は……帰るフリをして、こっそりとフィックスのあとをつけた。
しばらくすると、街中のある一軒の家の前でフィックスは立ち止まり、そこでノックをしている。
貴族の屋敷じゃない。一般家庭のようで、私の胸はドクドクと嫌な音を立て始めた。
「まぁ、来てくれたのね! フィックス様!」
「ミランダ……」
中からきれいな女の人が出てきて、心臓が止まりそうになった。
ミランダと呼ばれた女性は、フィックスの腕をとって嬉しそうに引っ張っている。
「朝から抱いてもらえるなんて、嬉しいわ!」
「僕は……っ」
「ほら、遠慮は無用よ。早く入って?」
フィックスの姿が、私の視界から消えていく。
扉が閉められるのを確認して、私はその場から逃げるように走り帰った。
あの人が、フィックスの想い人だったのね……!
きれいな人だった。
庶民が侯爵家に嫁ぐことはまずないから、仕方なく私と結婚しただけだったんだ……!
すべてがつながった。
もう二度と、勘違いなんてしない。
私は……私は、本当にただのお飾りの妻なんだって!
帰って部屋に閉じこもると、私は泣いて泣いて泣き濡れた。
白い結婚を持ち出された時から、覚悟はしていたはずなのに。
相手の女性を見てしまうと、狂いそうなほどに嫉妬してしまう。
「もう……だめ……っ」
愛されなくても、一緒にいられるだけでいいと思ってた。
貴族の結婚なんて、そんなものだからって。
でもやっぱり、つらすぎる! 私だけがフィックスを愛しているって事実が……!
ずっと敬虔なアヴェンタリス教徒だと思っていたのに、妻を愛さずに別の女性を愛していることも許せない。
ああ、気が狂いそうになる。
このまま一緒にいては、私はきっと我慢できなくなる。あの力を使ってしまう。
決意した私は、夕方ようやく戻ってきたフィックスに話を切り出した。
「離婚、してほしいの」
私の言葉に、フィックスは息が止まったように固まっている。
「いいわよね?」
「待ってくれ」
即座にフィックスに止められて、私は首を傾げる。
「どうして? 隠れ蓑が必要なのはわかるけど、私でなくてもいいでしょう?」
「隠れ蓑? なんの話だ?」
「もちろん、ミランダさんの話よ」
私が彼女の名前を出した瞬間、ビクリと大袈裟なほどにフィックスの体が震えた。
「ミランダさんと愛し合っているのなら、ちゃんとお義父さまとお義母さまに相談してみたら? とにかく、私はもう無理なの!」
「アディ!」
パシンと腕を掴まれた。フィックスの顔を見ると、「違う……」と苦しそうな声を上げている。
「なにが……」
「僕は、ミランダなんか好きじゃない」
「え?」
「逆だ、むしろ憎んでる!」
憎……む?
不可解な言葉に、私は眉を寄せる。
「どういうことなの」
「……すべて話すよ。どうして僕が、アディと白い結婚をしたのかも」
「フィックス……」
そうしてフィックスはすべてを教えてくれた。
フィックスは三年前、ミランダに一目惚れをされてしまっていたらしい。
それからずっと、フィックスはつきまとってくる彼女に何度も断りをしていたのだという。他に好きな人がいるから、と。
「どれだけ断っても、彼女はしつこかったんだ。僕もいい加減いらだってしまって、ミランダを愛すことは絶対にないと言い切った。そうすると彼女は……」
フィックスはシャツのボタンをひとつひとつ外し始めた。
初めて見るフィックスの肌に、私は思わず口元を押さえる。
「なに……それ……!」
「呪いだよ……魔女ミランダのね」
「呪い……」
さらけ出された左胸には、呪詛の文字と紋様が書かれていた。
フィックスは……その魔女に呪われていたというの……?!
「大丈夫なの?!」
「日常生活に問題はないんだ」
「じゃあ、どんな呪いが……」
私の問いに、フィックスは激しく言い淀んで、そして……
「人を、愛せなくなる呪いなんだ……」
そう言った。
「人を愛せなく?」
「その、つまり……ミランダ以外の女性を、抱けなく……」
「………………あっ」
愛せなくなるって、そういう意味?!
いつもこれからってところで眠っていたのは……呪いだったのね……。
「それで、呪いを解いてくれと何度も頼みに行ったんだ。だけどミランダは、『私と結婚すれば問題ない』の一点張りで……。僕が別の女性と結婚すれば諦めるかと思ったけど、今度は抱かなければ解呪しないと言い出す始末で」
「断ったの?」
「もちろん! あんな魔女の言うことを聞いたら、次は何をされるかわからない。この体に呪いがあるのが彼女を抱いていない証拠だ! だけどそれとは関係なく、僕は愛しい人以外を抱くつもりはない!」
フィックスの言葉に、私の体は勝手に熱を持った。
そういう人だから……私はフィックスが大好きなんだわ。
「その魔女のところに行きましょう。呪いを解除してもらわなくっちゃ!」
「頼んで解除してくれるような相手じゃないんだよ……!」
「大丈夫よ、少しだけ待ってて!」
「え?」
私は自室に向かうと、小瓶を取り出してピッチャーから水を入れた。さっと蓋をして、これで完成。
フィックスの元に戻ると、その小瓶を大仰に取り出してみせる。
「それは……?」
「我が家に代々伝わる聖水よ」
「聖水?」
本当は、ただの飲み水だけど。
自分の欲のために何年もフィックスを苦しめるだなんて、許せない。
だから私はこの聖水を利用させてもらうことにするわ。
「これをかけると解呪できるのか?」
「ええ、でも呪いをかけた本人に掛けなきゃダメなの。彼女は一生苦しむことになるでしょうけど……できる?」
「やるよ。それでこの呪いが解けるなら……!」
フィックスの決意の言葉を聞いて、私も覚悟が決まった。
「あ〜ら、フィックス様、今日二度目の訪問嬉しいわ」
フィックスが家をノックすると、ミランダの美しくもおぞましい笑顔で出迎えられた。
「妻も一緒だ。話がある」
「ふふ、中へどうぞ?」
「いいえ、ここで結構ですわ」
中にどんな呪いの道具や魔法陣があるかわからない。私たちはむしろ一歩後退した。
「単刀直入に言うけれど、フィックスの呪いを解除してもらいたいの」
「彼が私を抱いてくれたら解除できるのよ。簡単でしょ?」
「それは何度も断ったはずだ」
「じゃあ無理。ずっと呪われていて?」
ミランダは、無条件で解除することはしないらしい。
それをしてくれる人なら、フィックスも苦労はしなかったはずだ。
「どれだけ頼んでも無駄だというなら、こちらにも考えがあるわ」
「あら、なにかしら?」
ちらりと視線を送ると、フィックスは聖水を取り出した。
私はすかさず、フィックスの後ろに隠れるように位置取る。
「ふふ、なぁにそれ? 水?」
「これは、妻の家に代々伝わる聖水だそうだ」
「せいすい〜? 悪霊じゃあるまいし、そんなもの効くと思って?」
「効くわ」
「じゃあどうぞ、試してごらんなさい!」
自信満々のミランダに、フィックスは蓋を開けると躊躇せず彼女にばしゃりとふりかけた。
その瞬間、私は即座に魔法陣を展開し、呪い返しをフィックスの後ろから発動する。
「きゃああ、あああああああああああああああ!!」
聖水が彼女にかかった瞬間、フィックスの体から呪いが弾き出されてミランダの体に返っていく。
呪われた文字や紋様が、ミランダの顔や手、至るところに浮き上がり始める。
「いやあ!! どうして! 聖水にこんな効力が……!!」
「あなた、自覚していないだけで悪霊だったのではなくて?」
「そんな、ばかな……!」
苦しんで倒れるミランダに、私は彼女を見下ろしながらそう言ってやった。
呪い返しをすると、呪った時の何十倍もの効力になり、多数の呪いに化けて使用者に返っていく。
返された時のリスクが高いのが、魔女の呪いなのよ。
だから魔女は呪いを扱える分、葛藤する。
使うべきか、否かを。
欲に負けて使ってしまった人が負けなの。
私の、お母様のように。
呪いと言っても、普通の魔女は大したことはできないから。
使うだけ、損をするだけ。
「フィックス、呪いは消えた?」
もちろん、呪いが返っているんだから消えてるに間違いないんだけど。
フィックスは自分の胸を確認して、首肯した。
「ああ、消えてる」
「じゃあもう用はすんだわね、帰りましょう。さようなら、ミランダさん」
「さようなら、ミランダ」
「あああああああ、どうして、どうしてこんなことにぃいいいい!!」
私は泣き叫ぶ彼女を置いて、フィックスと共に魔女の家をあとにした。
「後悔してる? 彼女をあんな目に遭わせて」
誰もいない帰り道。
すっかり日の暮れた空を仰ぎながら、私はフィックスに聞いてみた。
「いいや。さっきも言ったけど、僕は彼女を憎んでいるんだ。アヴェンタリス教徒として未熟だとは思うけれど、呪いが解けたなら、彼女がどうなっても僕にはもう関係ない」
意外。そういう面も、フィックスにはあったのね。
「それにこれで、ようやく抱きたい人を……抱ける」
その言葉に、私は家でのやりとりを思い出した。
抱きたい人……そういえばフィックスは、好きな人がいるからとミランダのことを断っていた。
なんだ……結局私は、お飾りの妻だったんじゃない。
私の心に、また暗雲が立ち込めてくる。
愛する人を抱けないのは可哀想だから、その人と結婚はせずに、手頃な私と結婚したのだろう。
でももう、フィックスは自由の身なんだから。その人と幸せになるためには、私からも解放してあげないといけない。
私は想いを振り切るようにして、くすりと笑って見せた。
「じゃあ、早く離婚手続きをしてしまいましょう」
「……え?」
「私の気持ちが変わらないうちに……ね?」
「……呪いは消えたっていうのに、アディの気持ちは変わらないのか……?」
周りは薄暗くなってきて、フィックスの表情ははっきり見えない。
「アディ……君が僕のことを好きじゃないのは、わかっている」
「え?」
「一度も好きと言ってもらったことはない。だけど、それも当然の話だった。僕はアディに酷いことをしたのだから」
確かに、好きとは言わなかったけれど……勘違いしてる?
フィックスは私の進路を阻むように、目の前に立ちはだかった。
「アディ。もう一度、プロポーズからやり直させてほしい」
「なに言ってるの?」
「お願いだ。あの日の僕の言葉は最低だった。白い結婚をして欲しいだなんて……でもそれは、決して本心なんかじゃなかった!」
「フィ……」
名前を呼ぶ前にフィックスは跪き、私は手を取られた。
「幼い頃から教会でアディに会うたび、僕には君しかないと思っていた。呪いをかけられて、アディを幸せにできないと思った時は絶望したけど、君はそれでも白い結婚を受け入れてくれた。疑似的な結婚生活だったけど、僕はそれでも幸せだった……!」
フィックスの真剣な言葉。
信じられない……まさかフィックスも、子どもの頃から私のことを想ってくれていたというの?
「今度は、心から愛し続けると誓う。アディが嫌でなければ、抱きしめたいし触れ合いたい。愚かな欲求だと笑われるかもしれないが、これが僕の偽らざる本音なんだ」
「フィックス……」
「僕と結婚してください。アディがいない人生なんて、もう考えられない」
フィックスの気持ちが私の体に流れ込んでくるようで。
だからこそ私は、自分のついていた嘘に耐えられなくなる。
「ごめ、なさい……フィックス……」
「……やっぱり、だめなのか……。そうだよな、あんな酷いことを言った僕ともう一度だなんて、そんな都合のいいこと……」
「違うの! 私、本当は……あの女と同じ、魔女なの!」
「うん」
「うん?!」
え、あっさり納得されてしまったけれど……どういうこと?
フィックスは私の手を取ったまま立ち上がる。視線を上げた私に、フィックスは少し困ったように眉を下げた。
「いくら代々伝わるものだからといって、聖水にあんな効力はないよ。瓶も綺麗で新しい今風のものだったし」
「うっ」
「だから、なにかあるんだろうなとは思ってた」
気づかれていたのね……恥ずかしい。
「ミランダにしたのは、呪い返しだったんだね。アディが放った」
「ええ。しかも私はそれを、聖水のせいに……聖水をかけたフィックスのせいにしようとしたの……」
「それで構わないよ。彼女に呪い返しをした罪悪感が募るくらいなら、僕がやったことにすればいい。元々は僕の問題だったんだから」
フィックスが私の手をぎゅっと強く握ってくれた。
ミランダがどうなってもいいと言ったのも、彼女をあんな目に遭わせても後悔していないという態度も。私の罪悪感を増幅させないための、配慮だった。
そういうところが……大好きなのよ、フィックス……。
「あなたの嫌いな魔女で、ごめんなさい……」
「ミランダが嫌いだっただけで、魔女が嫌いなわけじゃないよ」
「でも私もいつか、嫉妬に狂ってあなたに呪いをかけてしまうかもしれないわ」
「構わないよ、アディになら呪いをかけられても」
そんなに優しく微笑まないで。今すぐあなたを私のとりこにさせてしまいそうだから……
「フィックス、秘匿の魔女って知っている……?」
「……並はずれた力を持つが故に、国家や地下組織に狙われないように自らの存在を消すように生きていく、隠れ魔女のことだよね。それがどうし……」
「それ、私なの。私の、お母様も」
「……」
さすがに、フィックスの表情が固まった。
「……驚いた?」
「……さすがにね……でも、アディが秘匿の魔女だろうとなんだろうと関係ない」
「私のお母様の話を聞いても、本当にそう言える?」
「君の母上……お会いしたことはないが」
「ええ、だってずっと屋敷に幽閉しているんだもの」
「……」
私は絶句しているフィックスに、お母様の話をした。
お父様は伯爵家の令息で、お母様は庶民の身分差婚だった。
反対されたようだったけど、お父様とのお母様の愛は強く、祖父母を説き伏せて結婚したって聞いている。
お母様が秘匿の魔女だったということは、お父様は知っていらした。
お父様は間違いなくお母様を愛していたけれど、お母様はほんの少しだけお父様の愛を疑ってしまい、呪いを発動してしまった。自分のとりこになるという、上級の呪いを。
しばらくして私が生まれて、私が三歳になった時。
私はお父様の呪いを見つけて、脊髄が反射するように呪い返しを使ってしまった。
以降、お母様は外を出歩けない体になり、ずっと屋敷に幽閉状態になってしまっている。
その話を終えると、フィックスは顔を悲しく歪めていた。
「そんな呪いをかけなくても、お父様はお母様を愛していたのよ」
「ああ」
「でも、今ならお母様の気持ちもわかるの。愛する人に飽きられるんじゃないかって不安……呪いを使わずにいられなかった気持ち……私もいつか、フィックスに同じことをしてしまうかもしれない」
胸中を吐露すると、ふわりとフィックスに抱きしめられる。
「なにがあっても、僕はアディだけを愛していくことに変わりはない。不安になんかさせない。アディに呪いの力なんか使わせないように、全力で君を愛していくから」
「フィックス……!」
「だからもう一度、夫婦となって欲しい」
「……はいっ」
私が承諾の返事をすると、フィックスはさらにぎゅっと私を抱きしめてくれた。
「お母上のこと、つらかったな……。その罪悪感も、僕に半分受け持たせてほしい」
その言葉に、私の目から熱いものが溢れてくる。
大好きだったお母様を苦しめてしまったつらさを、フィックスは全部わかってくれていて。
私は彼の胸の中で泣き続けた。
***
「結婚したんですって?! アディ!!」
「お母様?!」
身も心も夫婦になって一ヶ月、フィックスが私のお母様に会ってみたいというので実家にやってきた。そうしたら……
ど、どうしてお母様が出迎えてくれているの?!
目も見えない、声も出せない、耳も聞こえない、常に痛みが襲っているようで呻き声を上げるしかなかったお母様が……!
お父様の介護がなければ、生きていかれなかったお母様が、どうして!
「まぁ〜、立派な淑女になって! お母さんびっくりよっ」
お母様の記憶では私は三歳だから、そうでしょうね!
「はじめまして、アディの夫であるフィックス・ハーディングです。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
「いいのよーー、私も今さっき、呪いが解けたところだから!」
「お、お母様、本当に?!」
「呪い返しの呪いはいつか解けるのよー。通常は二、三年なんだけどね。私は上級の呪いを返されたから、動けもしない上、十五年もかかっちゃったわね! あははは!」
「そう……なのね……」
私はホッと息を吐いた。
呪い返しは、一生続くのかと思ってたから……。
「よかったな、アディ」
愛する夫の優しい言葉で、心がほぐれていく。
胸につかえていた罪悪感が、どんどん浄化されていくのを感じて私は微笑んだ。
中に入ると、お父様はお母様の呪いが解けて大喜びしていて。
私たち以上にイチャイチャしている。
「もう、二度と人に呪いなんて掛けないでよね、お母様!」
「まさか、身近に呪い返しのできる魔女ができるなんて思ってなかったのよー。そういうあなたも気をつけなさいね、アディ!」
「大丈夫です。アディを不安にさせないように、めいっぱい愛を注いでいますから」
「あらー」
優しい目を向けられると……嬉しいんだけど、家族の前だと恥ずかしい。
お母様がそんな私たちをニヤニヤ見ていたかと思うと、おや? という顔をして声を上げた。
「あら、アディ、あなたお腹に子どもがいるじゃない!」
「「え?!」」
お母様に声に、私たちは目を見合わせる。
確かにあの日、初夜をやり直してから毎晩……あったけれど。
「わかるの? お母様」
「私くらいの魔女になると、わかっちゃうのよね〜」
「じゃあ、本当に子どもが……」
まだぺちゃんこのお腹だけど。愛おしい人との結晶が、ここにいる。
「フィックス……!」
「アディ……嬉しいよ、ありがとう!!」
フィックスは親の目も憚らず私を抱きしめて。
「私の方こそありがとう、フィックス……私を、愛してくれて……!」
私も思いっきり、フィックスを抱きしめた。
お父様とお母様が、声を揃えて「おめでとう」と言ってくれる言葉を、噛み締めて。
私が「大好き」を伝えると、フィックスはくすぐったそうに笑っていた。