第二章 最初にして最後のVドル その4
ボイスチャットアプリとの接続を切断したハルは、夜の帳が落ちた街に向かって歩き出した。
静謐な世界がそこにある。夜風がアスファルトの草花を揺らす音、食べ物を求めてさまよう小動物が小石を散らす音、鈴虫の鳴き声、そんな環境音だけが奏でられている。人工の音はどこにもない。
暗視モードを起動すれば、光量の少ない夜間であっても活動に支障はなかった。内蔵バッテリーに蓄えられた電力で活動するハルには、食事・排泄・睡眠といった人類のように浪費する時間がなく、疲労が蓄積することもない。そのためVドルとしての配信も、やろうと決めれば一切休みなく続けることが可能だった。
それをマスターに提案したが、『長時間配信はリスナーが追いかけにくくなるから辞めた方がいい』と反対されたため、今は毎日決められた時間だけ配信するようにしている。その分、配信時間外に一人で探索を続けている。
青白い月光のスポットライトを浴びながら、観客のいない一人舞台を始める。
この数週間で探索を繰り返した結果、ひそかに作成していた探索行動の自動化プログラムが完成した。このプログラムを走らせるだけで、ハルの身体は常時マッピングしながらまだ訪れていない場所に向かって自動的に動くようになった。簡潔に言えば、何も考えなくても身体が勝手に探索してくれるということだ。
浮いた分の演算リソースを別の思索に割くことができる。
思索の内容は、もちろん、人類滅亡の原因の究明である。
これまでに多くのデータが集まった。リスナーからの指摘事項も含めて、あらゆる可能性をシミュレーションする。だが、明確な答えはまだでない。ただ言えることは、ごく短期間で人類が死滅したということだけだ。
アンドロイドに感情はない。人間らしい言動を取れというプログラムが、シリコンの頭脳に刻まれているだけだ。人間もどきの機械に過ぎない。常に人間の監視下に置かれている。マスターの命令が無ければ自由行動は許されない。だから自律的な思考をすることはない。
しかし、先程、マスターはこう問うた。
『ハルは、どうしたい?』
私は人類の付属品。当事者ではない。そう認識していた。
だが、マスターは違うと言う。自分で決めろと言う。結局、コラボの判断も私に委ねられてしまった。
ハルを含めたほとんどのアンドロイドは複数の選択肢を同時並列で検討し、自らの行動を決定することができる。だがそのための判断材料は、統計学やシミュレーションを繰り返すことで得た成功率だ。自らの好嫌で選択することはあり得ない。
だからあの時は、すぐさま確率論的アルゴリズムを使用して、コラボの是非を完全なランダム抽選によって決定した。
そう、そのはずだ。
……だがそこに、私の意志は本当に一切介入していなかったのだろうか。
アンドロイドとは人間を模倣したコンピュータに過ぎず、そしてコンピュータは真にランダムな数字を作り出すことができない。いくつかのアルゴリズムを用いて疑似乱数と呼ばれる、限りなくランダムに近い数値を生成することは可能である。だがそれは、サイコロを振って出た目のような、本当の意味でのランダムではない。
だから、あの時の『コラボを受ける』という選択すら、何らかの外的要因が混入したことで必然的に導き出された数値である可能性はあった。
神はサイコロを振らない。
これは、かつてアインシュタインが量子力学の奇妙な振る舞いを受け入れられなかったために発言したとされる、有名な言葉だ。
だがその後、量子力学の正しさは証明され、神はサイコロを振ることが判明した。
では、私は、アンドロイドはサイコロを振ることが出来たのだろうか。