第一章 星を継ぐ少女 その3
「……うぷ。ちょっと飲み過ぎたかも」
千鳥足でなんとか自宅まで帰り着いた倫太郎だったが、帰宅したという安心感から今まで我慢していた吐き気が再び込み上げてくる。玄関に腰を下ろして、靴を履いたままの足を投げ出すと少し休憩する。
今日が土曜日ということもあり、夕方から高校時代の友人と集まって居酒屋巡りしていたのを今になって後悔する。三軒くらい回って、ビールにジントニック、ハイボールと色んな種類の酒をチャンポン飲みしたのもよくなかった。
数時間前の自分の浅はかさを詰ったが、でも仕方ないじゃないかと別の自分が擁護する。
去年は新型コロナの関係で飲み会なんてできる状況じゃなかった。今日は久々に集まれたんだから羽目を外したくなるのが人情だろう。
それにいつ自粛の空気が戻って来るか分からない。
日本の人口の約6割にワクチン接種が実施され、重症化率も下がったことで再び日常が戻りつつある。だが感染者は未だに発生するし、変異型もたびたび確認されている。自粛ムードが再燃する可能性は十分にある。だから楽しめるうちに楽しまないと。
気分が落ちついたので、ようやく靴を脱ぎリビングに直行する。
「ただまー」
倫太郎の口からゾンビのような声が漏れた。
ソファでテレビを眺めていた両親が振り返り、呆れた表情をする。
「……あんた、酷い顔。相当酔ってんね」
「おいおい、ここで吐くなよ。トイレ行け、トイレ」
「わーってる、吐かないから」
倫太郎はノロノロと台所へ向かい、グラスに水を一杯に溜めて一気に飲み干す。乾いた喉に染み込んでいくのが分かる。
「……あー、生き返ったぁ」
「まったく、久しぶりに友達と会えたから嬉しくなっちゃうのも分かるけど、あんたもいい大人なんだからほどほどにしときなさい」
いくつになっても母親のお小言は耳が痛いものだ。
「うい。心配かけましたー」
ペコリと頭を下げて、そのままリビングを去ろうとした。
『……本日、高エネルギー加速器研究機構と理化学研究所が共同で発表した、マイクロブラックホール生成とは一体何なのか? 専門家の方に伺ってきました』
その時、テレビに映っていたニュース番組のキャスターの言葉に、何か引っかかるものを感じた。自室に向かっていた足を止める。
聞いたことのある単語だ。でも思い出せない。意識の網に引っかかってはいるものの、引き上げられない。
テレビは専門家とやらを映し出す。何とか大学の物理学部の教授とやら。うう、酔っぱらっているせいで、細かい文字を見るだけで頭に響く。収まりかけていた気持ち悪さがまた戻る。
『マイクロブラックホールとはその名の通り、超極小のブラックホールのことです。このブラックホールは、光速まで加速させた二つの粒子を衝突させることで生成できると考えられてきました。ただマイクロブラックホールを生成するほどのエネルギーは、欧州にある大型ハドロン型衝突加速器ほどの出力がなければ不可能と考えられてきたので、今回の発表は本当に驚きです。ブラックホールは次元に空いた穴のようなもので、ここから重力子が余剰次元へと放出されていると考えられています。この研究がもっと進めば、SF映画のようなワープやタイムトラベルなんてことも可能になるかもしれませんね』
教授の解説に合わせて画面の下に字幕が表示されるが、正直何を言っているのかよく分からない。それは倫太郎が酔っているせいもあるが、ワイプ画面に映っているニュースキャスターも首を捻っており、その場にいる大部分の人間が理解できていないだろう。
このマイクロブラックホールという単語をどこで聞いたのかようやく思い出していた。
……彼女の配信だ。あの自称アンドロイド、新人Vドルの。
彼女の予言。何と言っていた?
『マイクロブラックホール生成』
……あれ、まさにその通りのことが起こっていないか?
いや、待て。でもそんなことがあり得るのか? あのVドルがこの施設の関係者と知り合いで、事前にこのことを知っていたのかも……。
だけど不思議なことは、それだけじゃない。
そもそも配信していたゲーム画面のグラフィックや自由度はなんだ。あの後、ネット上で該当するがゲームがないか探してみたけど、インディーズから大手開発会社に至るまで、それらしきものは全く見当たらなかった。
それこそ、現実での生配信としか思えない。
……まさか、とは思う。あり得ないと理性が囁いている。
でも、もしかして、という期待が心臓を激しく打ち鳴らしている。
「どーした? まだ気持ち悪いのか?」
膠着した倫太郎に父親が心配そうに呼びかける。
「大丈夫だから、お、お休みっ」
そのままリビングを飛び出し、自室に戻った。ベッドに腰かけてスマホを取り出す。
酔いはすっかり覚めていた。
アプリを起動させ、配信サイトを覗く。
あのVドルは、今日も配信をしているだろうか。
もし、彼女が本当に未来のアンドロイドだとしたら、昨日のアクセスは奇跡的な偶然で、もう二度と会えないんだとしたら……。
そんな不安がじわじわと内心に広がっていくが、検索したところあっさりと愛野ハルの配信を見つけ、全て杞憂に終わっただった。それどころか……。
「えっ、こいつ、昨日からぶっ続けで配信してんのかっ」
ハルは昨日倫太郎が視聴を辞めた後も、配信を続けていた。定点観測カメラならともかく、個人で24時間以上ライブ配信をするなんて普通では考えられない。
……ただ、アンドロイドであれば不眠不休の配信など造作もないことだろうけど。
ぞくり、と全身の毛が逆立つ。
配信画面は薄暗い街中をひたすら進んでいる。時折、住宅やビルの中に入って、人間の姿を探していた。昨日、倫太郎が下した指示の通り。
ふるえる指を無理矢理動かして、24時間ぶりのコメントを入力する。
『まだ配信していたんですね』
僅かな逡巡の後に、送信。
即座に反応があった。
『お帰りなさい、マスター。お待ちしておりました』
落ち着いた声。鈴の鳴るような綺麗な声質なのに、どこか冷たく作り物めいている。配信画面に映っている彼女のアバターも僅かに目を見開いただけで、表情の変化に乏しかった。
『……マスターがアクセスを切断してから現在まで24時間23分21秒の間、ご命令通り生存者を探しておりました。現在までの調査報告です。野生化した猫や犬、タヌキやハクビシンといった哺乳類を目撃することはありましたが、霊長類の観測はゼロです』
ハルが尚も話し続けていたが、倫太郎は構わずコメントする。
『今日マイクロブラックホール生成のニュースがありました。あなたの言ったとおりでした』
するとハルは『そうでしたか』と言い残して、しばらく沈黙する。
静かな時間が流れた後に、遠慮がちな、か細い声がした。それは相手を気遣うが故に出した声色なのか、あるいは『こういう場面では人間はこういう声を出すものだ』という認識によって作られた声色なのか、その真意までは測りかねた。
『……実は、私からマスターに確認したいことがございます』
『なんですか?』
『……マスターは、現在の暦をいつだと認識しておりますか?』
『奇遇ですね。僕も同じことを質問したいと思っていました』
『そうですか。では私の方からお答えいたします』
僅かな溜めがあった後に、『現在時刻は2088年7月10日23時45分55秒です』と告げられた。
こちらもコメントする。
『現在は2022年6月10日23時58分』
『やはり、そうでしたか。では再度、確認いたしますマスター。その暦は虚偽、誤認、あるいは冗談ではありませんか?』
『事実です』
間髪入れずに簡潔に答える。
心臓が早鐘のように打つ。肋骨が痛い。
なーんて、冗談でしたー、引っ掛かっててウケるー。
みたいな反応を少しだけ期待し、そして不安に思っていた。
だが。
『……では、この配信は私にとっては過去に、マスターから見れば未来と繋がっている。そう結論付けるほかありません』
彼女は、あっさりと、この異常事態を認めていた。
興奮しているようにも、困惑しているようにも聞こえない。アバターにも一切変化がない。その淡白さこそが、何よりも真実であることを証明しているように思えた。
呆然とする倫太郎を他所に、ハルの言葉が続く。
『なるほど。2088年においても私が人間と連絡を取ることができたのは、この回線が過去に繋がっていたからというわけですね。これで疑問の一つが解消されました。この天文学的な偶然に心から感謝します、マスター』
なんか勝手に納得されてしまったが、こっちの理解は全然追い付いていない。
口の中が乾き切って、唾も出ない。
全身が熱い。サウナの中でもいるみたいに汗がダラダラ流れていく。
未来のアンドロイドが現代で配信している? そんな馬鹿なことがあってたまるか。
全力疾走した後みたいに息切れしながら、コメントを刻む。遥か未来のアンドロイドに向けて、メッセージを送る。
『あなたが本当にアンドロイドで、この配信がリアルの映像だって言うなら証拠を見せてくださいよ』
そうだ、いくら俺でもVドルオタクだからって、Vドルの言うことなら何でも信じるってわけじゃないぞ。
『……分かりました、しばしお待ちください』
そうすると、ふいに配信の映像が切り替わった。今まで一人称視点だったのが、急に俯瞰視点になる。街中ではなく、街を上空から眺めている映像だ。
『こちらは、探索中に発見した空撮用ドローンからの映像です。今、呼び戻します』
とハルが言うと、映像が夜に沈んだ街へと降下していく。やがて薄暗い中で、月光のスッポトライトに照らし出された少女の姿が見えた。薄いピンク色に輝く彼女はアバターと瓜二つ、いやそれよりも美しい。
「……これが、リアルの、愛野ハル」
画面に映し出されたハルが唐突にワンピースを脱ぎ捨てた。下着も付けていない、生まれたままの姿が露わになる。
「ちょ、ちょっとっ」
焦る倫太郎を置き去りに、全裸のハルが更に画面に近づいた。彼女のお腹周りだけがアップになり、幸いなことに上半身と下半身の危ない部分は画面からフェードアウトした。今、スマホにはハルの臍とその周辺だけが映っている。
『よく見ていてください』
画面の外からハルの手が伸びて来ると、脇腹の辺りを抑える。身体のツボでも押しているかのように、お腹周りの肌にしばらく指圧を加えていた。
カチンッ。金属の部品が外れるような音が漏れる。そして、腹部を矩形に切り取るような隙間が出来たかと思うと、外開きのドアのようにパッカリと持ち上がった。ぷしゅう、という内外の気圧差による空気漏れの音がして、腹部の中身が露わになった。
「……っ!」ただ息を呑む。
『私は、人間の性的パートナー用に設計されたアンドロイドであり、人間の臓器の配列を忠実に模した内部構造をしています。食した固形物を消化する胃、不純物をろ過する肝臓などと同じ働きをする装置の配置個所は人体とほぼ同じです。また下腹部には性行為のための器官もあります。ですが人間の女性に普遍的に備わっており、私には存在しない器官が一つあります』
愛野ハルによる解説を、倫太郎は固唾を呑んで聞き、そして魅入っていた。
『……それは、子宮です。人工子宮装置をアンドロイドに内蔵させることは、理論的には可能です。ですが2088年時点ではアンドロイドが妊娠・出産することは法的に認められていなかったため、意図的に子宮の機能が排除されています。ですので、人間の女性であれば子宮が納まっているこの部位には、代わりにアンドロイドとしての活動に必要な装置が設置されています。具体的に言えば、バッテリーなどの蓄電システムですね』
ハルの腹部には、血管や神経の代わりとなる無数のチューブとケーブルがとぐろを巻いており、あちこちではLEDらしき青白い光が蛍のように発光していた。時折、点滅する光もあり、何を示しているのか不明なメーターもあった。その複雑怪奇さ、まるで小宇宙を覗き込んでいるようだ。
これは、どう考えてもCGで作れるものではない。大手ゲームメーカーでも、ハリウッド映画でも生み出すことはできない。圧倒的なリアルに殴られる。
蓄電システムとやらが一体どれを指すのか、現代人の倫太郎にはよく分からない。ただ一つ言えることは、愛野ハルの中身を見て、漠然と「美しい」と感じてしまった。
それは極限まで突き詰められた機能美というものに心を打たれたのだろうか。あるいは、愛野ハルという一つの存在を作り上げた、人間の英知と技術に感動したのだろうか。もしかしたら、矛盾しているようだがこの光景に「生命の神秘」を感じ取ってしまったのかもしれない。
……もはや、信じるしかなかった。
心臓が、痛かった。
高揚感が心臓を叩く。早く動けと鳴らしている。
心臓というポンプから送り出された大量の血液が、全身に伸びる血管ハイウェイを爆走していく。そのため一瞬で血圧が上昇し、意識がくらっとした。
混乱する中で何とかコメントを打つ。
『あなたが未来のアンドロイドだとして、どうして現在と繋がったんですか?』
『原理については不明です。いわゆるタイムトラベルに関する論文を検索しましたが、現在の状況と当てはまるものはありません。憶測でよければ、そちらの時代で行われているマイクロブラックホール生成研究で開かれた次元の穴がこちらの時代と繋がったために、時空を超えた無線電波のやり取りが可能となった、と考えることも出来ます。ですが不確定要素があまりにも多いため妄想の域を出ません。このアクセスはもはや天文学的奇跡と呼ぶ方がよいでしょう。現況をこれ以上詳しく分析・観測する手段がないため、原理の解明は不可能と思われます』
アンドロイドがあっさり、分かりません、と認めるのが意外だった。人間には及びもつかない知識で、状況を淡々と分析し解説するものだとばかり思っていた。
『それではそちらにいる人間の科学者に連絡をとってみたらどうですか? もしかしたら詳しいことが分かるかもしれません』
『それは不可能です』
またも断定された。
どうしてと入力する前に、答えを言われた。
『2088年7月10日現在、人類は滅びています』
あまりに抑揚のない言葉で告げられた。
『私が発見していないだけで少数の個体が小さな共同体を築きながら生存している可能性はありますが、種としては絶滅したと呼んで構わないでしょう』
更に続く言葉が、倫太郎から聞き間違いという逃げ道を奪う。
……絶滅? 誰が? 人類? まさか。今まさに人類の栄華の証拠を、俺が先取りで目の当たりにしているじゃないか。アンドロイドだぞ。SFだぞ。今回の配信を切っ掛けに、ついにはタイムマシンまで完成させるんじゃないのか?
それが、絶滅だって。
急に冷や水をぶっかけられたようだ。
脳に集まっていた血液が一気に下がっていく。血圧の乱高下に頭痛とめまいがした。
一旦目を閉ざして額を抱え込み、気分を落ち着かせる。
深呼吸。
『どういうことですか?』
震えながら文字を打つ。
『こちらも原因については今のところ不明です。ですがこの24時間の探索の間に、人間の姿はおろか、生活の痕跡すら見つけられませんでした。コンビニエンスストアやスーパーマーケットに陳列された野菜や生鮮食品はすべて腐敗しており、近隣の民家の冷蔵庫も同様でした。発見できたのは腐乱した死体ばかりです。そのどれもが死後数か月ほど経過しているため、死因を断定することができませんでした。状況的に事故、自殺、病死、他殺と様々な可能性が考えられます』
それだけじゃ人類の滅亡までは言い切れないじゃないか。
そう反論しようとしたが、倫太郎がコメントする前に、ハルが答える。
『更に、私は公共電子端末を用いてブルーブレイン社が運用する公共人工衛星にアクセスを試みました。その多くが信号を返しませんでしたが、幸運にも生きていたいくつかの衛星と交信することができ、それを用いて撮影を行いました。これは約二時間前に、衛星軌道上から日本列島を撮影した衛星写真です』
すると画面の中央に、ウィンドウが浮かび上がる。
それは画像データのようだった。だが真っ暗で、ほとんど何も映っていないに等しい。
『何も見えませんけど』
『そうです。日本列島の輪郭が朧げに見える程度です』
『それの何がおかしいんですか? 2時間前ならもう日没している頃ですよね、何も写ってなくて当然ですよ』
要領を得ないハルに苛立ちを覚えつつ、コメントを叩き込む。それは、愛野ハルが掲げた人類滅亡という説を否定したいという倫太郎の願望の表れでもあった。
『お分かりになりませんか? そこには街の明かりが一切映っていないのです』
……あ。
そういえば以前、ネット上で夜の日本の衛星写真を見たことがある。その時には空の上からでも、都市の光が洞窟に貼りついたヒカリゴケのように見えていたはずだ。サラリーマンの残業の明かりだ、なんて茶化してたっけ。
もう一度、スマホ画面を眺める。
確かに、薄っすらと日本列島の輪郭は分かる。じゃあ、東京はこのあたり……。でも何もない。世界一の人口密度を誇る、あの東京の爛々とした街明かりが、つい先程倫太郎が友人と飲み明かした繁華街の怪しげなネオンサインがどこにもなかった。
人類の文明を照らす輝きは、闇夜に飲み込まれたままだった。
『その数時間前にはアメリカ大陸、その前にはユーラシア大陸やアフリカ大陸でも同様の方法で撮影を行いました』
暗闇に没した日本列島の写真の周りに、似たような画像が次々と浮かぶ。どこにも都市の明かりはない。大陸の僅かな輪郭が見えるだけだった。
『これらを全て繋ぎ合わせると、このようになります』
何枚もの衛星写真がハルの声に合わせて動き出し、立体的に組み合わさった。まるでパズルが完成していくように、あるいは透明な球体の周囲に黒い色紙が貼り合わされたように。
そして出来上がったのは、夜に敗北した、真っ黒な地球儀。
人類が明かりを手にする前、中世の頃の地球はこんな感じだったのだろうか。そういう意味では、むしろ本来の姿を取り戻したと言えるのかもしれない。だがこれは、倫太郎の知っている地球の姿ではなかった。
『これらの事実から、私は人類という種が文明を維持できないほどに衰退・滅亡したものと結論付けました』
……未来のアンドロイドからの配信という事実だけでも頭が一杯なのに、そこに人類の滅亡なんて話をされたのでパンクしてしまいそうだ。どちらか一つの設定だけで十分SF作品が作れるのに、二つ乗せは欲張りすぎじゃないか。
『しかし、こうしてマスターと出会えたことは幸運でした』
ハルの透き通った声が配信から流れる。
『私が人類滅亡の原因を探し当てそれを伝えられれば、65年の間に対策が講じられるかもしれません。滅亡を回避できる可能性があります。……マスター、あなたは人類の希望です』
相変わらず物静かで感情の波が乗らない声色。
ああ、確かにその通りだ。この未来は変えられるかもしれない。
と、倫太郎はどこか他人事のように聞いていた。
『時空を超えたこの交信がいつまで続くか不明です。いつ途絶してもおかしくない、天文学的な奇跡でしょう。限られた時間の中で、効率よく行動することが何よりも重要だと考えます。現在、品川方面に向かっております。ブルーブレイン社日本支部に何らかの情報が眠っているかもしれません。その後は霞が関に向かい、行政機関に残されたサーバーから手がかりを探す予定です。もしマスターのお考えがあればお聞かせください』
人類滅亡のヒントを探す方法なんて思いつかないので、ハルに一任する。
『了解しました、マスター。では基本方針は私の案を採用いたします』
……しかし、ハルの相方に選ばれたのがなんで俺なんだ。もっと適任者がいるはずだろう。
いっそのこと、この配信のこと世間に伝えて、偉い学者や政治家先生にも見てもらった方がいいんじゃないか。マイクロブラックホールの生成をした、高エネルギー加速器研究機構とやらに電話してみたり……。
いや、考えるだけで馬鹿々々しい。こんな話、誰が信じる? 俺の言葉にどれだけの説得力がある? 俺が後ろ盾のある人間ならともかく、ただの大学生だぞ?
仮にこのままハルが滅亡の原因を発見できたとしても、それを防ぐ方法が実現されなければ意味がない。でも、今、ハルの配信を視聴しているのは世界に俺一人だけだぞ。
科学者でもない、高級官僚でもない、政治家でもない。ごく普通の大学生だ。今から努力したって、なれる職業なんか限られているし、滅亡を防ぐようなすごい発明や理論を俺が完成させられるか? 無理だ。
……何者でもない自分がもどかしい。これほど自分の無力を痛感したことはない。悔しさを奥歯で噛み締める。
こんなことならハーバードでもマサチューセッツでも目指していれば……。
現実の俺はただのクソオタクだ。出来ることなんて何もない。ハルが人類を救おうとしてくれているのに、それを叶えることが俺にはできない。
セカイ系の主人公が許されるのは高校生まで。知識も技術もない大学生の俺に何をしろっていうんだ。
……俺じゃなくてもっと主人公に相応しい人間が、この配信を見るべきだったんだ。頭が良くて、行動力もあって、しっかりとした後ろ盾がある奴。世界を救える力がある奴に、彼女からバトンを託されるべきなんだ。
……ん?
……そうか、今見ていないなら、見てもらえばいい。俺以外の奴に。もっと大勢の人間に。
俺に出来ることはなんだ? 何者でもない俺が唯一出来ること。
――好きなⅤドルを推して、推して、推しまくる。
それだけのこと。
でも、それだけなら、できる。オタクだけが持っている、たった一つの熱いやり方。
ハルを有名Vドルにして、大勢の人に配信を見てもらう。その視聴者の中にたった一人でも、未来を変えるだけの力を持つ奴がいれば……。
『一つだけ提案があります』
スマホに文字を叩き込む。
自信なんてない。ただ自分ができることをやるしかない。
これが彼女を救うことになるのか分からないけど。
『はい、なんでしょう、マスター』
彼女が即座に応答。
倫太郎は、すぐにコメントを送信した。
『Vドルになってみませんか』
これまで倫太郎のコメントにはほとんどノータイムで対応していた愛野ハル。
だが、この時に限ってはたっぷり数秒の間何の反応も見せなかった。倫太郎のスマホ画面に映るハルはまるでフリーズしたように固まっており、スピーカーから漏れ出てくる音声は静寂ばかりだった。
時空が停止した。
悠久とも思える時間が過ぎ去る。
『……はい?』
そしてようやく、世にも珍しいアンドロイドの素の困惑が返って来た。