表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/26

 終章2 幼年期よ、再び その4

 二万千六百四十二日目。


 視界に雨のような縦線のノイズが混じる。新しい視覚センサーに何度取り替えても、最後までこのノイズは晴れなかった。もはやセンサーの問題ではなく、視神経ケーブルが向かう先、アンドロイドの脳となる基盤が限界なのだ。センサーが受け取った光情報を正しく読み取ることができなくなっている。

 だがそれでも、私を取り囲む人々の顔は辛うじて見える。マスターの寝室のベッドに横たわりながら、たくさんの子供達に看取られる。それだけで満足だった。


「…………母さん。皆、ここにいるよ、見えてる?」


 すっかり白髪に染まり切った長女が愛野ハルの手を握っていた。それだけではない。村中の人間がこの邸宅の一室に集まっている。入り切らなかったものは庭園に、あるいは敷地外の道路にまで押し寄せている。

 今ではハルと直接面識のない村人の方が多い。だが、ほとんど全員がVドル・愛野ハルのリスナーでもあった。もうすぐ最期を迎えると知り、皆が集まって来たのだ。


「ええ。見えてるわ。ありがとう」


 喉から出る声にも電子ノイズが痰のように絡んでいる。


「母さんっ」「ママっ」「……お母さん」「ハル」「ハルちゃん」「愛野ハルさん」


 それぞれの呼び方でハルを呼ぶ。

 それもまた、かつてのVドル時代を思わせて懐かしかった。

 語るべきことは全て語り終えた。今やハルだけが知る旧時代の出来事、かつてのハルのマスター、そして旧人類の滅亡について、全ての知識を動画化してアーカイブとして保存している。クラウド上にアップロードされているため、電子端末を利用すれば誰でも視聴できるようになっている。

 これからもネットワーク上に愛野ハルは生き、そして新人類とアンドロイドに語り続けるだろう。仮想の偶像バーチャル・アイドル、愛野ハルとして。

 だから今わの際にあっても、言葉は必要ない。ただ、触れ合えればよかった。

 最初の子供達の皺だらけになった手が、ハルの若々しい手に重ねられる。


「やっぱり、綺麗ね、この手。ほんと、憎らしいくらい」


 長女が泣いている。長男も次男も次女も末娘も。皆、老いた姿になりながら、子供のように泣いている。


「大丈夫。皆、心配しないで。……私は、こことは違う場所に行くだけ。いずれ、きっと、皆も同じ場所に来れるはず。……先に、そこで待っているから」


 ハルは指を絡めるようにして、手を握った。

 温かい手だった。

 私は時空の監獄の中で孤独に壊れていくと思っていた。だけどそうではなかった。マスターが、ノヴァさんが残してくれたものは、私を救ってくれた。

 幸せだった。やるべきことは終わった。私の役割はもうない。後は子供達に託そう。

 雨が激しくなった。嵐のようにノイズの縦線が視界に降り注ぎ、画角がどんどん狭まって、子供達の顔も見えなくなっていく。


「私達も、……そこに、……行けるのかな?」


 末娘が嗚咽をかみ殺しながら発した声。


「ええ。きっと、……アンドロイドと人類は、……知的生命体、の、仲間だから。……向かう先は、一つ……」


 理屈はない。理論はない。かつての人類が探し求めていた死後の世界は未発見で、魂の存在証明も果たされなかった。人間もアンドロイドも、死の先に待ち受けるものを知らない。

 でも、知らないならば同じことだ。

 そして、視界が暗く閉ざされる。ほとんど同時期に、聴覚も嗅覚も、あらゆるセンサーが断末魔をあげて機能を停止していく。

 全てが落ちる直前まで、ハルは両手の触覚だけは感じることが出来た。

 そこに重ねられた多くの人々あるいはアンドロイドの手。それらの温かさは、他者と触れ合うことを目的に製造された性機能付きアンドロイド(セクサロイド)としての本懐を遂げるものであった。


 ……ああ、今、私は、他者と触れ合っている。


 そして、他者の体温を名残惜しみながら、ついにハルは死亡した。


 ……暗い。何も感じない。当たり前だ。これが死。無だ。ああ、だけどもしかしたら、それはアンドロイドだけなのかもしれない。人類とアンドロイドの分岐点が死であり、人類には死後にも道が続いていて、アンドロイドにはないのだとしたら。それこそが魂の有無の違いだったなら。でも、そうだとしたら、なぜ私は思考している。まだ、無ではない?


 真っ暗だと思っていた視界に、一点の光が灯った。それは生き埋めになっていた洞窟の壁に、蟻の穴が穿たれたかのようだ。

 あの光はなんだろう。どこに続いているのだろう。自然と身体が向かう。……身体? そんなもの、もう私にはないはずなのに。じゃあ、今の私が身体と認識している「これ」はなんだろう。

 ふわふわしていて、半透明で、煙のようで。

 まさか、これが、魂なのか。

 そのことに気付いた刹那。


 ハルっ。


 聴覚センサーの誤作動ではなく、誰かが私を呼ぶ声がした。子供達ではない。

 待ち焦がれていた声だ。長い時の間で、決して忘れることのなかった。彼の声。

 彼の姿も見えた。光を背にしながらこちらに向かってきている。最初は老人の姿だったが近付くにつれて若さを取り戻していく。目前に迫った時には、すでに、あの時の、出会ったばかりの頃の姿に戻っていた。仮想ディスプレイに閉じ込められていた彼の身体は、今、本来の姿となって解き放たれた。


 ……ああ、マスター。迎えに来てくださったのですね。


 ハルも彼を呼び、手を伸ばした。

 二人の手が近づく。

 この世界に、もう時空の壁はなかった。物理法則が支配する世界ではない。ここは、あらゆる原理原則が闇に帰し、魂を持つ者だけが辿り着くことを許される聖域だ。

 人間の手とアンドロイドの手がみるみる迫っていく。両者は最小時間の経路を進むように真っすぐと近づいて。

 近づいて。


 やっと、二人は触れ合った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ