終章2 幼年期よ、再び その2
七十日目。
胎児を孕んでいた人工子宮装置から、突如、アラートが鳴り響いた。
巨大なカプセルの内部は羊水と同等の成分の液体で満ちており、その中央で手足を丸めた胎児が浮かんでいる。人間で言えば妊娠十週目。胎児は手のひらに収まる程度の大きさしかない。
急いで駆けつけて、人工子宮装置の下部に取り付けられたコンソールを叩き、各種計測結果をモニターに表示させる。
全て正常値。それなのに、胎児の活動が鈍っている。
一瞬、ハルがフリーズする。それは人間で言えば頭が真っ白になった状態だ。
すぐに我に返ると、無駄にした一瞬の時間を取り返すべくコンソールを素早く叩く。
人類の再生は口で言うほど簡単ではなかった。
そもそも人工子宮による妊娠・出産はまだ研究段階であり、一般的な方法ではなかった。そのため人工子宮及び出産に関する研究結果があまり残されていない。モルモットや家畜を利用した出産実験の前例はいくつもあった。だが対象がヒトとなるとハードルが大きく上がる。倫理的、法的な問題があったため、実証実験のデータが非常に少なかった。
そうした中で、ハルは手探りで計画を進めていた。しかし想定外の問題が頻出する。必ずしも自然の妊娠・出産を模倣すればいいというわけではないようだ。
受胎能力のない私が、アンドロイドの私がこうやって命を生み出そうとしている。それが神のお気に召さなかったのだろうか。いや、そんなずはない。人類が最もよく知る母親も処女で受胎し、神の子を産んだではないか。
今のハルは、そんな非科学的な神話に縋るほど追い詰められていた。
八十日目。
人工子宮装置から羊水を排出して、中で眠る胎児を取り出した。マスターの邸宅から拝借した清潔なタオルで包み、胸に抱きかかえる。
死産だった。
原因はまだ分からない。今後、ログデータを振り返り、詳細に分析をするつもりだ。だがそれよりもまず、生まれることが出来なかったこの命を弔うことが先決だと思った。
ハルは胎児を抱えたまま久しぶりに地上へ顔を出す。あいにくの雨だったが構わず庭に出た。
庭園の一画に地面を掘り返して再び埋めた跡がある。そこはマスターが眠る場所だ。
マスターの遺体をずっと保存し続けるだけの液体窒素は、あの棺には残っていなかった。そのため、まだ遺体が綺麗なうちに、人間のやり方で埋葬したのである。墓石の代わりに角ばった庭石を置いている。
ハルはマスターの墓の隣に、胎児のための墓穴を掘ることにした。だが、しとしとと降り注ぐ雨のせいで、穴掘りは困難を極めた。土が水分を含んで泥と化したせいで、墓穴を掘ってもすぐに穴の外縁が崩れて埋まってしまうのだ。
雨がやんでから作業をすればいいと気付いたのは、胎児よりも遥かに巨大な穴がようやく完成してからだった。なぜそんな簡単な思考にすぐに辿り着かなかったのか、自分でも不思議だった。
墓穴の中央にタオルで包んだ胎児を置き、泥をかぶせていく。羊水に溺れるように死んだ胎児を泥で再び溺れさせているようで、少しだけ気が引ける。
現実逃避をするように、失敗の原因を考える。
胎児とは、人間が最も変化に敏感な時期だ。子宮内の環境は胎児の成長と共に少しずつ変化していき、その成長を支えている。胎児それぞれに固有の子宮環境が作られていくといってもいい。胎児の成長はランダム性に富んでおり、システムによる管理は困難なのだろう。
また、実際の妊婦の脳内では様々なホルモンが生み出されていた。特に幸せを感じるオキシトシンの分泌量の増加は著しく、一説ではこの現象によって妊婦はお腹の子供を愛おしく思うようになり、母親としての自覚がプログラミングされるという。こうしたホルモン量の増加はあくまで女性に意識変化を及ぼすだけだと考えられていたが、もしかしたら胎児の成長にも何らかの影響を与えていたのかもしれない。ならばそのことも考慮する必要がある。
あるいは、観測できない数値があるのかもしれない。親の愛情という決して数値化できないパラメータが隠れていて、それを弄らない限り子供が生まれないのだとしたら。
だとすると、私が親になることはできないのだろうか。
全てを終えて邸宅に戻ると、全身の泥を落とすために浴室へと直行する。
その時、洗面台の鏡に自分の顔が映っていた。雨に打たれたせいでずぶ濡れだ。
だが、頬を伝うその液体は、雨粒にしては恐ろしく冷たい。
……人類が存命している間でも、ヒトの人工子宮の研究が遅々として進まなかった理由が分かったような気がする。
倫理的、法的な問題ももちろんあっただろう。だが最大の要因は、失敗した時の精神的ダメージがあまりに大きいことではないか。科学研究においてはトライアンドエラーが基本だ。失敗とは成功の基。失敗のデータを参照し、分析することで次へと繋げていく。それこそが科学の髄だ。
しかしこの研究においては、たった一例の失敗でも関わった者達の心に大きな遺恨を残していく。小さくとも人の形をした数百グラムの肉塊を前にした時、多くの科学者の心は壊れてしまったことだろう。科学者と言えど人間の心理の基盤の上に立っている存在だ。
だからこそ、この研究に手を付ける人間がいなかったのではないか。
……なら、アンドロイドである私こそが、やらなければならない。
これが贖罪だというのなら、受け入れよう。どんな苛酷にも屈しない。宇宙が与えた試練ならば乗り越えて見せる。マスターの思いに応えるために。
三百五十五日目。
またもや、人工子宮から羊水を取り除く。カプセルを満たしていた液体の嵩があっという間に低下していく。
すっかり見慣れた光景だ。だが、この時、今までの事例とは全く異なる現象が起こる。
おぎゃああおぎゃあ。
天使のラッパのような歓声が響いていた。
外界の情報を隔絶していたカプセルが割れて、マニピュレーターに支えられた赤子が露わになる。すでに胎盤と赤子を繋いでいたへその緒は切られている。
真っ白いタオルで泣き叫ぶ赤ん坊を包む。まさしく雲に包まれた天使のようだった。
再び、人類がこの地球上に生まれ出たのである。
「……初めまして。私は、愛野ハルです」と懐かしい自己紹介。
暴れ回る赤ん坊の力強さに驚きながら、安心させるべく真っ赤で小さな手を優しく握る。
「これが、人間の幼児。小さいですね。それに、とても熱い」
ハルの五感全てのセンサーが、この赤ん坊の存在を感知する。
わずか三千五百グラムの人間を胸に抱え、ゆっくりと抱きしめる。
ハルが初めて他者と肌を重ねた瞬間だった。
胎児の管理をシステム任せにせず、己の判断で臨機応変に対応をしたところようやく成功した。変化に敏感な胎児を育てるには、マニュアル頼りにはいかない部分があるようだ。
しかしハルには感慨に浸る余裕などない。この泣き叫ぶ赤ん坊をこれから育てなければならない。そして、多くのきょうだい達を生み出す仕事が待っている。
「……ですが、もう少しだけ待ってください。もう少しだけ、この子を抱かせてください」
ハルは微笑みを浮かべながら、赤ん坊を眺める。泣き叫ぶ赤ん坊をあやすため、前後に揺らしてみたり、子守唄を歌ってみる。だがなかなか泣き止む様子はない。だがそれでもよかった。そんな姿すら愛おしかった。
その時の愛野ハルの笑みは、プログラムされているはずのない「慈愛に満ちた母親の笑顔」そっくりだった。




