終章2 幼年期よ、再び その1
人類は滅びても、他の生命は生き続けている。
その証拠に人類が残したコンクリートの遺跡には多くの植物が繁茂し、野生動物が跋扈している。かつてこの都市に住んでいた者達が望んでいた緑化が、皮肉にも住民がいなくなったことで爆発的に進んでいた。青空には鳥類が飛び交い、野生化した犬や猫がアスファルトの道路を我が物顔で横切っている。
そんな環境で、愛野ハルは一人歩いている。時折、動物の視線が向けられるのを察していた。おい、まだ人間が生きてやがるぜ、そんな声が聞こえて来るようだった。
……人肌が恋しいとは、こういう時に使う表現なのだろう。無論、私には人肌に触れた経験は一度もないわけだが。
……そしてその経験を得ることは、永遠にない。
永遠の処女であること。それが、性機能付きアンドロイド(セクサロイド)である私に課せられた罰なのだから。
アンドロイドは自らの意志とは無関係に、自らを存続させなければならない。それは即ち、自殺を許されないということだ。プログラムの壁がそれを阻む。バッテリーの交換をしないこと、人間で言えば絶食を続けるのような消極的な自殺すら不可能だ。
私は、生きねばならない。死は、許されない。幸いなことに、この東京にはブルーブレイン社の製品が山のように眠っている。それを利用して交換を続けていけば、私の活動限界は数十年から百年、あるいはそれ以上に引き伸ばせる。
誰も居ないこの世界で、絶望的な孤独を抱えながら、どこまでも生きていく。
それこそ、私の贖罪。この世界を作り出した、私への罰。
2022年との交信が途絶えてからも、ハルは探索を続けていた。呼吸を辞めた都市の中をさまよい続けていた。生存している人類をあてもなく探し続けていた。
そんな時にハルが向かったのは、ブルーブレイン社の日本本社だった。以前にも探索し、そこに人類生存に関する有力な情報がないことはもうわかっている。
ハルの考えは、とても個人的なことだった。
ブルーブレイン社のカスタマーセンターが置かれたフロアまでエレベーターで直行。警備室から拝借したセキュリティカードを使ってゲートを潜り抜けてフロア奥へと進み、社員専用の情報端末にアクセス。
ハルが探しているのは、自身の購入者情報だった。当然、愛野ハルにも人間の購入者がいたはずである。無論、この世界にハルの購入者が生存している可能性はまずない。ただそれでも知りたかった。自分のマスターとなる人物とは一体どんな人だったのか。本来、自分はその人間にどのように扱われるはずだったのか。
想像の材料となる情報が少しでも欲しかった。
この孤独な世界で、せめて自分の主人を空想するくらいの自由は許されると思った。
ハルの指がコンソールの上を滑っていく。その動きは、ハルの気の焦りを反映しているかのようにせわしない。
ホログラムディスプレイに購入者情報の一覧がずらりと並ぶ。
その中から、ハルのシリアルナンバーを抽出。
探り当てた。
「……これか……」
ポップアップが浮かんで、ハルの購入者情報の詳細が表示された。そこに刻まれた文字情報を読み取る。
「…………」
奇妙なことに、そこに書かれた文字が一瞬理解出来なかった。それは数キロバイトにも満たない単なるテキストデータだというのに、その情報を処理するのに時間がかかった。ハルを動かしていたあらゆるプログラムの動作が重くなり、処理落ちしてフリーズしそうになる。
回路が熱暴走し、それを落ち着かせるための空冷装置がフル稼働する。内部に籠った熱い空気を排出すべく、興奮した人間と同じように呼吸を深く吐いた。
そして信じられない思いで、目の前の情報を読み上げる。
「…………購入者・荒井、倫太郎」
購入者情報に記載されていた住所まで辿り着いた。
そこは都内郊外の高級住宅街。そう、愛野ハルが最初に起動したあの場所だ。
閑静な、という形容詞は今では世界中のあらゆる住宅地に付けることが可能だが、人類が存続していた頃でもこの場所には相応しい表現だっただろう。そう思わせる住宅地に、倫太郎の自宅は建っていた。広々とした庭園のあるモダンな邸宅だ。堅牢感を醸し出す直線と親しみのある曲線がバランスよく散りばめれた邸宅は、周囲の住宅と比較しても洒脱なデザインで、敷地も広い。この高級住宅街の中でも頭一つ抜けた豪邸である。
ハルは荒井倫太郎邸の前に立つ。
敷地内への侵入を阻む厳かな門から、『お名前をどうぞ』という電子音声の案内があった。
「……アンドロイド、愛野ハルです。シリアルナンバーは……」
期待と不安を抱きながら告げると、門がガラガラと開いてハルを招き入れた。
『お帰りなさいませ、愛野ハル様』
その電子音声に引っ張られるように進んでいく。
玄関が自動的に開き、中へと案内される。まるで愛野ハルを最初からこの家の主と定めているかのように、スムーズに奥へ歩むことが出来た。
内部もまた、外観と変わらず豪華だった。
「……マスター、私です。愛野ハルです。いらっしゃいますか?」
玄関に立ったまま中に呼びかける。
その声は自分のものとは信じられないくらいに震えていた。
マスターが私を注文したということは再会する意図があったはずだ。きっと生きて私を待っている。そんな根拠のない希望が湧いてくる。
しばらく待っていても何も起こらない。期待感だけが無駄に高まっていく。
「失礼いたします」
奥にそう呼びかけてから、敷居を跨ぐ。
廊下を速足で歩き、人間の姿を求めて屋敷中を探し回る。
リビングに足を踏み入れると、窓ガラスのディスプレイに流れる映像が目に留まった。白髪の生えた老人が車いすに乗ったまま、国際色豊かな人々の集まりに囲まれている。老人はにこやかでとても楽しそうだ。
音声データはないが、老人を取り囲む人々の唇の動きを分析すると「ハッピーバースデー」と言っていた。この老人の誕生日パーティーの様子を記録した映像なのだろう。会場はこの邸宅の庭のようだ。映像の背景の植え込みが、窓ガラスの奥に見える現在の庭園の一画と重なって見える。
弛んだ皮膚に隠れた老人のつぶらな瞳を見ていると、ハルの思考に電流が走る。
「……まさか、マスター、なのですか?」
穏やかな表情で幸せそうに笑っている老人は、きっとそうだ。
髪から色素は抜け落ち、皮膚は皺だらけで足腰も弱っているようだが、仮想ディスプレイ越しに見た若き日の姿と重なる部分がある。
思わず、窓ガラスに手を合わせた。すっかり老けたマスターの顔に、指を這わせる。刻まれた皺の一つ一つにこれまでの苦労の跡が伺える。このような豪邸を購入したくらいだ。並大抵の苦労ではなかったことだろう。
「では、この女性は、……ノヴァさん?」
その老人の隣には、落ち着きのある上品なドレスを身に纏った老齢の女性が佇んでいる。こちらにもかつての面影があった。
驚きと同時に、二人が幸せそうにしていることへの喜びが湧き上がる。
だけどすぐに、気持ちが落ち込む。
「……何十年が経とうとも、このような形でなければ私とあなた達は出会えないのですか?」
いや、そんなことはないはずだ。ハルの購入履歴があったということは、ここに呼び寄せる目的があったはずだ。
……探そう。この邸宅が、荒井倫太郎の自宅であったことには間違いないのだから。
名残惜しさを感じつつも、倫太郎の映像から離れた。
その後、一階から二階、三階と全てのフロアを順に巡った。だが全ての部屋をどれだけ引っ掻き回しても、クローゼットやベッドの上の布団の中まで探しても、街の中と同じく人間はいなかった。塵と埃が沈殿した、空虚な空間だけが広がっていた。生活の残滓だけがあった。自身の中で膨らんでいた期待が呆気なく弾ける音が聞こえたような気がした。
「……マスター、ノヴァさん。やはりあなた達もいないのですか。私を残して、消えてしまったのですか?」
言葉を放つ。受け取る者はいない。空気に溶けて消えていく。
最初あれだけ力強かった足取りは、今では完全に弱々しく衰えている。足の裏を引きずるようにして歩いていた。全身が重かった。身体を動かすフレームが錆び付いたようだった。いや、本当に錆びたのはハルの心かもしれない。そんなものがあればの話だが。
一階へと降りるため螺旋階段を下っていると、いっそのことこのまま足を踏み外してくれたらと願ってしまった。マスターが余生を過ごしたこの家で壊れてしまいたい。そんな決して叶わない自殺願望。
だがハルの重心制御システムは憎らしい程に健在で、万が一にも階段を踏み外すなどということはなかった。事故も自殺も許されない。
一階へと戻ったハル、せめてもう一度マスターの幸せそうな老後を眺めようとリビングに向おうとして、あることに気付いた。
あの映像のマスターは車いすに座っていた。老化のため足腰が弱っていたのだろう。この家には僅かな段差にもスロープがあり、あちこちにバリアフリーが施されている。
では、マスターはこの家でフロアを移動する際はどうしていたのか。車いすのまま階段を使うとは考えにくい。そのための設備も螺旋階段にはなかった。
そうした疑問から探してみると、廊下の奥にエレベーターを発見した。何の変哲もない、家庭用のエレベーターだ。高層ビルに設置されているようなものとは違い、車いす一台と介助者一人が乗れる程度の小さいタイプ。
ハルは僅かな可能性に賭けてエレベーターに乗り、階数ボタンを調べた。
上から、3F、2F、1F。そして一番下にはB1のボタンがあった。
一階から三階までは隅々まで調べたが、B1、即ち地下室の存在などどこにも見当たらなかった。一階には階下に向かう階段など無かった。即座にボタンを押す。
するするとエレベーターが降下し始める。身体が微かに浮き上がるような感覚。それは今のハルの気持ちと合致していた。
地下室に向かうだけにしては驚くほど長い時間をかけて、ようやく停止する。電子音と共にドアが開く。
地下に相応しく薄暗いフロアだった。ハルの足音が反響することから、かなり広い空間であることが分かる。また壁面がコンクリートの打ちっぱなしであることから、大型量販店の地下駐車場のような雰囲気だ。これだけ広大な地下室があったのならば、エレベーターの降下時間の長さも納得できる。
そしてエレベーターを降りてすぐのところに、白い立方体が置かれていた。アンドロイドを収納するパッケージに似ていた。
しかし近付くと、それはパッケージとは全く異なる物体であることが判明する。まず、表面がガラスで出来ており、中身が見えるほどに透き通っていた。パッケージであれば中身のアンドロイドを秘匿するため、真っ白に塗装されているはずだ。
そして最も大きな違いは、立方体の箱の中に収められた「モノ」。一瞬、やはりアンドロイドかと思ったが違った。老人の造形をしたアンドロイドなどいるはずがないからだ。
そう、この物体はまさしく棺だった。
ガラス製の棺の中に、老人の遺体が眠るように横たわっていた。真っ白な死装束に身を包み、固く目を閉ざしている。しかし口元には僅かな笑みを浮かべており、楽しい夢を見ている寝顔のように穏やかだ。彼のこれまでの苦労を物語るような皺だらけの顔。その顔は、地上で見たあの映像の老人と全く同じだった。
ハルはその場に跪き、額をガラスにくっつけるようにして棺の中を覗き込む。直接触れられないもどかしさを感じながら、老人の顔をじっと見つめる。
老人の遺体は白い煙に覆われており、まるで雲の上に寝転んでいるようだ。この煙は恐らく液体窒素だ。遺体を長期間保存しておくため、この密閉された棺に注入されているのだろう。
では、この遺体を棺に納めた誰かが、どこかにいるのだろうか。
いや、死期を悟った老人が自らの意思で入った可能性もある。この棺に、心臓の鼓動や脳波の信号を読み取り死亡を確認したら自動的に遺体を保存するシステムが組み込まれているのかもしれない。
いずれにせよ、液体窒素で満ちたこの棺を開くことはできない。遺体が外気に晒されれば、たちまち腐り果ててしまうだろう。
だから、こうして棺の外から覗き込むことしかできない。
やっぱり、私と彼との間にはいつだって何かしらの壁がある。
だけど一番高く聳え立っていた時空という壁だけは、こうやって乗り越えることができたのだから今は素直に喜ぼう。
「…………やっとお会いできましたね、マスター」
『……久しぶりだね、愛野ハル』
ハルに応える声があった。
聴覚センサーの誤作動ではない。
確かにマスターの、荒井倫太郎の声があった。
その声を発したのは、棺のガラスケースの表面に表示された映像だった。ハルの音声を認識して自動的に流れ出したのだ。
地上の建物の窓ガラスに誕生日会の記録映像が流れていたように、棺の表面に老人の顔が映し出されている。その映像は、棺の真上から見ると丁度遺体の顔と重なる位置にあった。まるで棺の中で眠っている倫太郎が目を覚ましたようだ。
無論、それは錯覚に過ぎない。そのことをハルは理解している。これは倫太郎の生前のメッセージに過ぎないことを。
『君にとっては数日、数か月ぶりになるのかな。でも、君が最後に見た私はまだ二十歳になりたての若造だったから、こんな老いぼれた姿では再会したという気持ちにはなれないだろうね』
そんなことありません、マスター。私はこの老人があなたであるとすぐに分かりました。
『私にとって君との出会いは何十年も昔のことになる。直接顔を見れないのが実に残念だ。だが、自分の身体は自分が一番よく分かっている。……私はもう長くない。君が教えてくれた人類滅亡の日に、恐らく死ぬだろう。その日までに君が私の元に届くことを願っていたのだが、間に合わないようだ。きっと私は君と再会する前に死ぬ。正直怖くはない。この日、全人類が様々な死因でこの世を去る中で、老衰死で逝けるのだから私は恵まれているよ』
マスターが顔を丸めるように、ゆっくりと微笑みを作る。表情筋が衰えているようだ。だが決して強がりの笑顔ではない。皺の奥に隠れた双眸はとても澄んでいる。死を恐れていないという言葉は真実だろう。そうであると信じたかった。
『私の人生は実に恵まれていた。君との出会いを出発点として、それから本当に色々なことがあった。全てを語りたいところだが、語り尽くせるほど私に残された命は長くない。……とにかく、君との出会いを切っ掛けにして私の人生は大きく変わった。特に大きな出来事は、二人の友人ができたことだ。一人は君もご存じの星宮菜音、いや新星ノヴァと呼んだ方が君にとっては馴染みがあるのかな? ふふ、この名を呼ぶのも久しぶりだ。そういえば、あいつこんな名前だったんだな』
そうやって懐かしそうに笑うマスターの顔が昔の、愛野ハルとやり取りしていた頃の姿に戻ったように感じられた。皺の数も色素の抜けた髪色も何もかもかつてとは違うのに。
『……ノヴァは、君の集積回路を走っている人工知能プログラムのプロトタイプを作り上げたんだ。彼女の成果を起点として、数多くの人工知能が派生していき、その末端に君がいる。つまり君にとってノヴァは、お婆ちゃんみたいなものだね。おっと、こんな話を聞かれたら、あの世で彼女と再会した時に怒られてしまうな。このくらいにしておこう。……そう、彼女は、二年前にこの世を去った。人類最後の日を見ることなく、ね。それは幸運か不幸か』
……ノヴァさんが、私を?
咄嗟に、胸を抑えた。そこにノヴァの意志が息づいていることを感じたかった。
だがこれは奇妙なことだ。ハルの人工知能を動かしている集積回路は頭部に納められているはずなのに、なぜか、胸に手を当ててしまった。これでは、意識が脳で生まれると知っていながら、心は心臓に宿っていると盲目的に信じている人間のようだ。
『そして、私のもう一人の友人、ランチョルダース・ラマチャンドラン。ブルーブレイン社の創立者だ。……私は君と別れてから、いずれ君を生み出すブルーブレイン社を支援することを人生の目的としていた。ただ、そうした使命感を抜きにしてもランチョルダースの力になりたいと純粋に思えるくらい、彼とは馬が合った。……なぜかって? 実は、彼はVドル愛野ハルの熱心なリスナーだったんだよ』
そう言って、マスターは口元を綻ばせた。あの日に戻ったような、若々しい笑顔だった。
そうか、私達がやって来たVドル活動は、無駄ではなかったんだ。
そう思うとハルも嬉しくなり、笑みを返した。
『ここまで来るのに、決して順風満帆な道程だったとは言えない。だが、こうして君のいる未来まで辿り着いたのだから私は幸せ者だ。私自身の人生には何の不満もない。……ただ一つだけ、……君を誰も居ない世界に残してしまうこと、それだけが唯一の心残りだった。どうすれば君の心を救えるのか、そればかり考えていた』
再び、長い年月を生きた老人の表情へと戻ったマスター。ハルを見つめる瞳が憐憫の色に染まった。
『……本当ならば、人類滅亡を回避する何らかの手段を思いつくべきなのだろう。……だが、やはり私に力がなかった。それなりの財力と人脈を手に入れたが、私にできることなんてたかが知れている。……ただ、それでも私なりに意地がある。宇宙の意志なのか、あるいは最初から定められていた結末なのかは分からないが、このまま人類を終わらせたくない。そして何より、君を一人ぼっちにしておきたくなかった』
マスターがそう告げた瞬間、地下室の照明が一斉に点灯する。まるで地上に出たかのように眩しい光が空間を照らし出して、蔓延っていた闇を消し去った。地下の世界が露わになる。
地下室はずっと奥まで続いており、想定していた通り地下駐車場のような広さがあった。まるで冷戦期に核戦争に備えて作られた地下シェルターのようだ。
地下室の中には、一定の間隔を空けながら並ぶ奇妙な装置が百台近くあった。装置はコンソール付きの台座に、乳白色の巨大な卵のような、繭のようなカプセルが搭載された形状だ。カプセルは、子供が手足を折りたためばすっぽり入るくらいには大きい。
ハルは棺から離れてその装置の一台に近づく。
装置の細部を視覚センサーで分析し、脳内データベースで検索を掛ける。そうした結果、九十九%が一致した情報が見つかった。
「人工子宮、ですね」
『……それは、人工子宮だ』
ハルが口にした答えと、映像の中のマスターが正答を告げる声が重なった。
『そして地下室の隅には、精子と卵子が凍結保存されているタンクがある。用意した精子卵子は国籍や人種の偏りが無いように配慮したつもりだ』
地下室の壁際には、銀色の巨大な缶詰のようなタンクが何十基と置かれていた。タンク上部には内部の温度を測るセンサーがあり、マイナス196度という超低温に保たれていることを示している。
『これらの人類の種子は、《人類滅亡後に人類再誕の可能性を残すためのプロジェクト》という私の生涯最後の計画に賛同した者達から提供してもらった。といっても彼らは何百年何千年の未来の話で、僅か数年先に活用されることになるとは思ってもいないだろうがね』
と、少し悪戯っぽく笑う声が聞こえる。
『遺伝的多様性の存続を考えると、三千掛ける三千種というのはやや物足りないだろう。それについては安心して欲しい。私が出資した精子・卵子バンクは日本にも十数社あり、このプロジェクトへの参加に同意してもらっている。彼らが保管している種子も含めれば、多様性は担保されるはずだ』
その言葉を聞き、ハルの抱いていた疑問が氷解する。
『……この人類の可能性を、君に預けたい』
「……これを、私が……」
『もちろん、無理にとは言わない。……君が決めて欲しい。人類は再び地上を闊歩してもよいのか、君が判断して欲しい。今、そこにいる最後の知的生命体の君に、委ねたい』
子宮を持たないアンドロイドに、人工子宮と精子・卵子が与えられた。これは大きすぎる選択だ。だけどいつだってマスターは私に言った。自分で考え、自分で判断しろと。これもその延長上ということだろう。
……相変わらずマスターは、私に難問を投げかけてくる。
そう悩みながらも笑った。
『……さて、長話だったが、これで私の語るべきことは終わった。……さっきから眠くて仕方がない。そろそろ、眠らせてもらおう』
途端に映像の音声が弱々しくなった。
ハルが再び棺の前に歩み寄り、映像に残されたマスターの表情を伺うと、そこには疲労に満ちた老人の顔があった。疲れて切っているが、満足気に微笑んでいる。やるべきことを終えて、ようやく休めることに安堵しているようだ。
マスターの視線とハルの視覚センサーが混ざり合う。
二人は無言で見つめ合う。二人の会話はいつだって時を隔てている。
だが想いだけは時空を超えて結びついていた。
『…………どうか、……君に、安らかな時が……訪れることを、……祈っている』
吐息交じりに言葉を遺し、マスターの目が閉ざされる。
眠りに入るように、そのままマスターはこの世を去った。
映像の最後に、液体窒素が棺の内部を満たしていく様子が少しだけ映し出されて、プツンと途切れた。映像の背後に隠れていた現在のマスターの顔が露わになる。穏やかな寝顔のまま凍結されている。
「……マスター、大丈夫です。……私のやることは決まっています」
ハルはマスターにそう語りかけてから、その足を人工子宮に向けた。
巨大なカプセルのような人工子宮。その表面にはハルの顔が反射して映っていた。
アンドロイドは人間の命を守るようにプログラムされているが、滅びた時に再生させるコードは仕込まれていない。つまり、この行為は完全に自分の意志が選択し、行っている。
なぜか。それは自明の理。
自分自身のためだ。
Vドルとなって、多くの人間のリスナーと接してきた。その思い出は間違いなく美しく、楽しいものだった。彼らとの交流はハルの知性を磨き、感性を高めてくれた。
そう、人間が、他者が恋しいのだ。どうしようもなく。
無論、人間の愚かさもたくさん見て来た。様々な噂話に翻弄されて、誰かを傷つけずにはいられない攻撃性も知っている。だがその全てを含めて、人間がたまらなく愛おしいのだ。
Vドル活動を通じてたくさんのリスナーからもらったこの感情や思い出を、今度は私が人類に返す番だ。
この日、愛野ハルは人類を再生することを決めた。




