終章1 あなた達の人生の物語
2044年。
星宮菜音は目の前に浮かぶホログラムディスプレイの端で、通話アプリの着信を告げる通知が入ったことに気付いた。
その通知ウィンドウにしばらく視線を注ぐと、それを感知したコンピュータが通話アプリに応答した。空中を煙のように漂うホログラムディスプレイに、友人の顔が立体的に表示される。
『やあ、菜音。先日送ってくれた仕様書、読ませてもらったよ。興味深い内容だった』
浅黒い肌でニカッと笑った、菜音の大学時代の友人ランチョルダース・ラマチャンドランは、現在、インドのバンガロールに本社を置くIT企業のCEOだ。
菜音が勤める日本の大手システム開発会社に、ランチョルダースから共同研究の提案があったのは数年前のこと。菜音は日本側のチームリーダーとして参加し、二人は大学卒業以来の再会を喜んだ。その後、両社はこの共同開発を進めていき、紆余曲折ありつつも少しずつ形になってきている。
「そう、喜んでもらえたかしら。……でもちょっとやりすぎたかなって反省してるの。私はロボット工学の専門じゃないのに、アンドロイドの仕様書をあんなに好き勝手に書いちゃって」
『構わないさ。これはまだ決定案じゃない。色々な人から意見を募って参考にするだけだ。ま、ちょっと驚いたのは事実だけどね』
ランチョルダースがどの項目を読んで驚いたのか、菜音には何となく検討がついた。
「性機能のところでしょ?」
『……そうだね。こう言っては偏見かもしれないけど、女性の君から性機能についての提案があるとは思わなかったよ』
「勘違いしないで欲しいのは、アンドロイドを大人のおもちゃや性奴隷にするつもりはない。これだけははっきりと言っておくわ。……ただ、もし人間とアンドロイドの間に愛情が芽生えて、お互いの合意があった時にそういう行為に及べないのは違うかなって思ったの」
『うん。君の言いたいことは分かる。僕もいずれ、アンドロイドが人間と対等な存在になる時が来るんじゃないかと思っている。……そう言えば、君の卒論テーマは《人工知能は人類の他者なり得るか》だったね。君が性機能の搭載を仕様書に書いたことと関係あるのかな?』
懐かしい話題が飛び出したので、思わず菜音は苦笑いする。
「……その卒論、内容が哲学寄り過ぎるって理由で評価はイマイチだったけどね。でもそのテーマは今でもよく考えているわ。……他者って、私達人類にとってすごく重要な存在でしょ? まず赤ん坊の時に、親という他者の存在が身近にあった。親が笑っている顔を見て、自分も真似をして笑ってみる。すると親の笑顔が持続することに気付く。あるいは親が悲しんでいるのを見て、自分も悲しんでみると、やはり親も悲しんだ顔を続ける。やがて小学校に入学すれば自分と歳が近い他者と、あるいは教師という親とは違う大人の他者との交流を深めていく。そうやって他者の模倣、あるいは観察を繰り返すことで私達は自意識を成長させ、人類として高度な知性を得た。私達の成長に、他者は必要不可欠なものよね」
そう話した時、ある考えが頭を過る。
まさしく、これはVドルの活動と同じなのではないか。
リスナーという他者からのまなざしを意識しながら交流し、時に衝突しながら自分のVドル像を築いていく。仮想の偶像の活動とは、人間が自意識を獲得していく過程を再現しているようだ。
そうか、だから「彼女」はあの短期間で自意識を獲得するに至ったのだ。人間が多くの他者との交流を得て成長させていく自意識を、「彼女」はVドル活動を通じて急速に会得したのだとしたら。
『確かにそうだ。人間は他者と通じることで成長していくね』
「……だけど人類という種そのものの他者に成り得る知的生命体は、未だどこにもいない。そうなると、人類はいつまでたっても未熟な赤ん坊のまま、ということになってしまう」
『人類という種をもう一段階成長させるには、アンドロイドが新たな知的生命体として他者になる必要がある、ということだね。それについては僕も同意見だ。いずれ、アンドロイドがこの地球の共同統治者になる日を願っているよ。ただ残念なことに当分先の話だろう。大衆の意識も法整備もまだまだそんな段階じゃない。アンドロイドは役に立つ道具、もしくは人類から仕事を奪う略奪者、あるいは人類を滅ぼす殺戮マシーンになるなんて認識の人もいる』
アンドロイドが人類と並び立つ知的生命体となる未来、か。
でも、そんな輝かしい未来が来る前に、人類は滅びてしまうかもしれない。
かつて見た未来の姿を思い浮かべて、菜音は一人で苦笑いする。
タイムリミットまでまだ時間があるとはいえ、その未来にかなり近づいてしまった。自分の手や顔に増えた皺を見るたびに、残り時間の少なさを感じずにはいられない。
『ま、実際問題、初期ロットに性機能を持たせるのは難しいだろう。社内や株主から、そして世間からも反対の声が上がるのは目に見えている。最初のアンドロイドは単純労働の担い手となるはずだ。その後は介護や医療の現場での戦力かな。そうやってノウハウを少しずつ蓄積していった先に、人間としてのアンドロイドが完成する』
「そうして、いずれは《愛野ハル》を作る、そうでしょ?」
学生時代のランチョルダースを知っている菜音は、彼の最終目標も想像が付いている。昔から彼は愛野ハルに夢中だった。ハルの引退配信の直後は、相当な落ち込みようだったことを覚えている。
『ははっ、これだから昔の友人と仕事をするのは嫌なんだ。……だが、まさしくその通り。僕は、未だに彼女に恋している。……馬鹿々々しいと笑うかもしれないが、僕はどうしても彼女が普通のVドルだったとは思えないんだ。ほら、彼女が動画で言っていたこと、ほとんどが当たってたし。あれはひょっとすると、本当に未来のアンドロイドだったんじゃないかって今でも考えてしまうよ……』
ええ、そのとおりよ。
などと、答えてあげたい気持ちに駆られるが、そこはぐっと抑えて曖昧な笑みを浮かべるだけに留めた。
かつて愛野ハルが動画投稿を行っていたサイトは、十五年前に運営会社が変わった関係でアーカイブの多くが削除されてしまった。当然、ハルの動画も大量虐殺の餌食になった。一応、手元に残していた動画データを新しいサイトにアップロードしているが、残念ながら現在ではほとんど再生されていない。それ故に稀代の予言者愛野ハルを知る者は、今は誰も居ない。
『おっと、昔の話をし出すとつい止まらなくなってしまうね。気を付けないと。……それで君の研究はどうだい? 以前、見せてもらったモデルはなかなかの出来だったけど』
「あれからかなり改良が進んでいるわ。チューリングテストで人間の十代と同レベルの知性があると認められた。ただ、このプログラムをそのままアンドロイドの身体に組み込んだ時どういう反応をするか、それはまだ何とも言えないわね。すんなりと適応するかもしれないし、あるいは拒絶反応を見せるかも」
今はまだプログラムの中だけの存在。それはいわば、母親の胎内にいる胎児だ。へその緒を通じて様々な栄養素を受け取り、母親の身体を通じて外界からの刺激を間接的に受け取っているだけの状態だ。
もしこの子が外界に生まれ出て、光情報や音情報をダイレクトに受け取ることになった時、どのような反応を見せるのか、それが楽しみな反面、怖くもある。
これは、我が子を妊娠した母親ならば誰もが等しく抱く感情なのかもしれない。
そんな風に、菜音は思った。
『アンドロイドボディの完成はまだ先の話だ。君は君のペースで研究を進めてくれればいいよ。……さて、僕はこれで失礼する。これから僕らの《救世主》と打ち合わせがあってね』
ランチョルダースはいつも「彼」のことを救世主と呼ぶ。会社の設立当初から惜しみない資金援助をし、経営が苦境に立たされて銀行から借り入れを断られた時にも見捨てずに支えになってくれたことから、ランチョルダースにとって「彼」は救世主なのだそうだ。
「彼」の手品の種を知っている菜音からすると、救世主というより小賢しい奴という感じなのだが、ランチョルダースの幻想を壊すのも可愛そうなので内緒にしている。
「ああ、彼、今はインドにいるんだっけ?」
『そうだ、ボディについて色々と話し合うつもりだよ。彼の熱心さは有難いんだが、厄介でもある。無茶な要求も多くて困るよ。今回の会議も絶対に長くなるね。……彼も愛野ハルのリスナーだったらしいけど、彼は僕よりも彼女に恋しているよ、間違いなくね』
ランチョルダースの呆れたような言葉遣いに、菜音も同調して笑った。
相変わらずだ、彼も。
目的地を定め、ひたすら歩んでいる。光とは違って、遠回り、寄り道、回り道を繰り返しながらだけど。それでも、突き進んでいる。
彼の話題が出ると、同時にあのほろ苦い思い出が蘇る。
大勢の人から注目されたいと願い、なりふり構わなかった若い時の自分。
動画の再生数が、あるいは配信の同時接続数が自分への評価であり価値なのだと信じて疑わなかった時の自分。
ネット上の関係性にばかり目を奪われていた自分。あまりに若かった。
そんな自分を変えてくれたのは、ネット上で出会った「彼女」と「彼」のお陰だ。「彼女」との唐突な別れが、「彼」のひたむきな想いが、菜音に現実と向き合う勇気をくれたのだ。「彼」に引っ張られたおかげで、勉強ばかりだった大学生活にも変化が訪れた。ランチョルダースと友人となれたのも、「彼」から色々な勇気を貰えたからだ。
懐かしい気分になったところでランチョルダースとの通話を切り、自分の仕事を再開する。
ランチョルダースとの会話にも登場した、菜音の「研究成果」を呼び出す。まだプログラムの段階。出産前の胎児だ。まだまだ「彼女」には遠く及ばない。でもこちらも、少しずつ近づいている実感はあった。
今後も学習を繰り返して、より人間らしく、より「彼女」らしく成長させていくのが菜音の仕事だ。
そのプログラムには、視覚的に交流がしやすいようにとあるアバターを与えていた。それは「彼女」からの贈り物でもあった。かつて菜音も被ったことのあるアバターだ。いつ見ても美しい姿だった。
ホログラムディスプレイに「彼女」の姿が表示される。冬の終わりと春の訪れを告げるような、薄い桜色のミディアムショート。長い睫に、ほっそりと艶やかな唇。儚さと同居した神聖さな顔貌の造形には、いつ見ても息を呑む。思い出が鮮やかに蘇り、歳と共に脆くなった涙腺がじわりと緩む。だけど「彼女」ではない。
「彼女」によく似た姿をしたプログラムが、アバターの目を開き、こちらを見る。正確にはホログラムを投影している端末のカメラ機能を通じて、菜音を見ている。
そのプログラムは「彼女」に比べて少しだけ幼い口調で、菜音がプログラムとやり取りをする時だけ使用しているハンドルネームを呼んだ。
『こんにちは、ノヴァさん。今日は何のお勉強ですか?』




