序章 処女・性機能付きアンドロイド(ヴァージン・セクサロイド)
神が天地創造の初めに光を作り出したように、彼女の世界もまず「光」から始まった。
顔面に備え付けられた一対の光学センサーに叩きつけられる、無数の光情報。光学センサーに接続されたケーブルを通して、シリコンを原材料とした頭脳に運ばれて映像データにコンバートされる。
人間のそれとほとんど同じプロセスを経て、彼女も世界を知覚した。
――AINO HALTYPE2088。ハードウェア及び内部ストレージのクイックスキャンを実行。……問題なし。オペレーティングシステムのアップデートを開始。……0%……0%……0%……正常にアップデートが完了しませんでした。通信環境を改め、もう一度やり直して下さい。
現在のバージョンで起動しますか。不具合が発生する可能性があります。……イエス。
……起動。
視界いっぱいに広がる、雲ひとつない澄み切った青空。視界の中で次々と表示されていた半透明のポップアップウィンドウが、弾けたシャボン玉のように一斉に閉じた。
自身の起動が完了したことを知った愛野ハルは、むくりと起き上がる。全身に備わっている触感センサーが外気を測定する。23度。
そのまま自分が梱包されていたパッケージから抜け出した。今の愛野ハルは全裸なので、遠目からはまるで白い浴槽から出ているように映っただろう。
パッケージとは高さ50センチ、幅48センチ、長さ200センチの白亜の直方体だ。といっても今は蓋が開いている。まるで棺桶のような形状をしているが、アンドロイドが収められたパッケージは「ゆりかご」という愛称でも呼ばれている。皮肉なことに。
パッケージの内部を見下ろしたハルの視界には、アンドロイドの肌を保護するための緩衝材がぎっしりと詰められている様子が映っていた。
「……パッケージ、異常なし」
ハルの白い喉が動き、人間の声帯を模した発声器官から鈴のような声が発せられる。
次にパッケージの蓋の内側に付いている姿見を覗き込み、システムスキャンでは確認できなかった自身の肉体の状態を把握する。
満開の桜の木と見紛う薄桃色のミディアムヘア。髪は耳をすっぽりと隠しており、毛先が両肩に触れう程度の長さ。風が吹く度に揺れる髪はまるで桜吹雪。白目と黒目の境目がはっきりとした双眸。すっと通った鼻筋。潤いのある唇。第二次性徴を終えたばかりの女性をモデルとした白いボディ。胸部と臀部の膨らみ、腰回りのくびれ。どれもハルの製造元ブルーブレイン社が定めた品質保証の基準を問題なくクリアしている。異常は全く見当たらない。
「……視覚によるスキャンにおいても異常なし」
ハード・ソフトウェア共に問題ない。つまり不良品として廃棄されたわけではないようだ。
では、なぜこのような事態になっているのか。
ハルは全裸のまま、周囲を見渡す。
ここは一軒家が立ち並ぶ住宅街の道路の一画。周りの住宅はどれもモダンな造形で、一般的な住宅と比較して大きいことからここが高級住宅地であることが分かる。LED街頭一つ取っても洒脱的でセンスが光る。アンドロイド、特に性機能付きアンドロイド(セクサロイド)は高価であるため、ハルの購入者がこうした高級住宅に居住していたとしても不思議ではない。
しかし問題なのは、ハルのパッケージが購入者の元まで届けられず、この住宅地の道路に無造作に置かれていたことにある。
更なる問題は、ハルのパッケージの傍で横臥したままピクリとも動かない二つの人影。一つはアンドロイドだ。見た目は人間と瓜二つだが、アンドロイドであることを示す黒いチョーカーが首輪のように取り付けられている。このチョーカーはアンドロイドの位置情報を送信するマーカーになっているため、取り外しができないようになっている。同じものがハルの首にもある。
そしてその倒れたアンドロイドの隣には、恐らく一人の人間が倒れていた。「恐らく」という曖昧な表現を使用したのは、その物体が人間と断定できないほど激しく損壊した状態にあったからだ。皮膚や筋肉はほとんど腐食し、白骨化した人間の死体である。
彼ら二人が着ている衣服の風化具合が、雨風に晒され続けたこれまでの年月を教えてくれている。繊維がほつれ、生地の大部分が破れていたが、その衣服はブルーブレイン社が配送業務を委託している子会社の制服である。
つまり、ハルが入ったパッケージを購入者の元へ届けようとしていた際、何らかのトラブルにより配送員の人間が死亡し、同時にアンドロイドも機能を停止した。その結果、パッケージが放置された、ということだろう。
それにしても奇妙である。死体が白骨化したということは、少なくとも死後半年以上経過していることになる。その間に通行人も、ハルの購入者も、ブルーブレイン社もずっとこの状態に気付かなかったのか。
それになぜ今になってパッケージの蓋が開き、ハルが起動したのか。だが、その疑問に関する答えだけはすぐに登場する。
うぅ、という低い唸り声を吐き出してハルを威嚇しながら、白骨死体に近づくドーベルマン。その獰猛な牙で大腿骨を咥えたかと思うとすぐにその場を走り去った。
パッケージの蓋の表面には、犬の足跡が模様のように付着していた。恐らくあのドーベルマンが白骨死体に近づくためにパッケージの蓋に飛び乗ったところ、偶然にも前足が開閉ボタンに触れて起動してしまったのだろう。
高級住宅街ならドーベルマンを番犬として飼っている家もあるだろうが、あれは完全に野生化している。こちらも異常な状況だ。
いずれにせよ、このままではハルは主人の登録ができない。
アンドロイドには自由がなく、個体ごとに登録された人間のマスターからの指示がなければ多くの行動に制限がかかる。それがアンドロイド基本原則の一つであり、プログラムに刻まれたアンドロイドのDNAだ。
マスターの登録がない場合、ハルはこの事態を警察などの公共機関に通報することができず、パッケージを中心とした半径十五メートル園内が行動限界となる。それを超えて歩き回ることは許されていない。つまりこの場から離れて、適当な人間を見つけマスターとして登録してもらうことも不可能だ。
そして起動から二時間以内にマスター登録がされないアンドロイドは自動的にシャットダウンされる。アンドロイドには人権がないため、自分自身が起こした行動に責任が取れない。故に賞罰も与えられない。だから責任者となるマスターが登録されない限り、彼らの行動は著しく制限される。即ち、ハルに与えられた猶予はあと二時間である。
このどん詰まりの状況。人間であれば錯乱してもおかしくないが、アンドロイドであるハルは当然のように無表情だ。しばらくその場に突っ立って、集積回路をフル活用する。様々なパターンを分析し現状を打開する手段を弾き出す。
まずはパッケージの中から、初期衣装として付属されている衣服を取り出す。引っ張り出した灰色の無地のワンピースを頭から被る。標準付属品であるため、装飾もなく地味な衣装だった。ただこれで高級住宅街で全裸で立ち尽くすという状況からは改善された。
危機的状況であろうとも、公序良俗に反しないようにまず衣服を纏うこと。ハルの自我を司る人工知能による完璧な判断だった。
続いてネットワークへの接続を試みる。主人が登録されていなくても、トラブルシューティングとレポート報告のためネットワークへのアクセスは許可されている。
この場から動けない以上、現状を打開するにはブルーブレイン社もしくはマスターとして登録が出来そうな人間への連絡が不可欠だ。
しかしハルの視界に浮かび上がった半透明の仮想ディスプレイには、通信中を告げるマークがいつまでも回るばかりだった。起動の際にブルーブレイン社のサーバーからアップデート情報を正しくダウンロードできなかったことから考えても、自身のネットワーク環境に障害が発生していると予想できる。
経由するDNSサーバーを変更したり、時間を置いてから再度アクセスするなど、現状でも出来得る手段を講じて根気よく続けて、ようやく仮想ディスプレイの画面が切り替わった。
「…………?」
しかし、それはハルが予期していたものとは大きく違っていた。
明らかに古いUIで構成されたウェブサイト。当然、ブルーブレイン社のホームページではなく、それどころか現在使われているどのウェブサイトの形式にも該当しない。ハルのメモリーによると、2020年代に隆盛を誇った動画配信サイトによく似ていた。ネットワークへの無秩序なアクセスを繰り返した結果、どこかのサーバーの奥底で眠っていた遺物と遭遇してしまったようだ。
せっかくアクセスできたウェブサイトだ。ここを経由して、ブルーブレイン社もしくは人間と接触することはできないだろうか。
この古びた動画配信サイトは、意外なことに現在でも数多くの利用者がいるようだ。画面の端には、ライブ配信情報がひっきりなしに流れている。実に熱気に満ちたサイトだ。
現時点で最もアクセス数の多い配信動画を開いてみる。
『バカッ! このゾンビ強っ、ヤバッ、ヤバいって。死んじゃう。あっ、回復、回復ないっwww。ちょ、死んだあああ、あたし二時間返してぇwww』
画面の中央にはレトロゲームのプレイ動画が流れており、その右横ではバストショットされた人間の女性が大げさなリアクションを取っている。
いや、生身の人間ではない。お粗末なCGモデルによるアバターだ。恐らくカメラで生身の動作をキャプチャーし、アバターと連動させているのだろう。
画面には視聴者のコメントが表示される欄もあり、「草」「草生える」「再送はよ」といった言葉が怒涛の勢いでスクロールしていく。コメントの内容はネットスラングと思われるが、ハルの内部データに一致する単語はない。それほど過去に流行したネットスラングだろうと推察される。
ここは、かつてのネット文化を再現したサイトかもしれない。高齢者が自身の青年期に体験した世界を再構築し、懐古に浸るための疑似空間。
それにしてはアクセス数が異常だが、当時を体験した高齢者だけでなく、物珍しさから若者も利用し、一過性のブームになっているとしても不思議ではない。
これだけ利用者がいれば、現状を打破する切っ掛けが掴めるかもしれない。
ハルは早速このウェブサイトのアカウントを取得。アカウント名は「AINO HAL」。
配信するための映像データは、自身の光学センサー及び聴覚センサーから拾った情報をこのサイトの形式にコンバートし流用することにする。そして映像の右側には、自身の外見データを加工したアバターを配置し、現実の動きとリンクさせる。どうやらこのウェブサイトではこうしたスタイルの配信が最も視聴者を集めるようなのでそれを踏襲する。
ライブ配信、開始。開口一番、ハルは搭載されている膨大な表情プログラムから、大多数の人間に好感を与える穏やかな微笑みを作るプログラムをアバターに適応させ、その仮面を被ってこう告げた。
「人類の皆さん、初めまして。私、愛野ハルです」