第三章 スペルム・サピエンス その3
ハルは声帯を震わせて最後のビブラートを吐き出す。
アンドロイドであるハルは、やろうと思えば呼吸機能を意識的に操作して肺活量を調節することで、息継ぎなしでどこまでも声を響かせることができる。ただ今回の生歌配信はあくまで人間レベルの技量で実施するとマスターと決めていた。
なので人間としての限界に達したところで、声を止めて口を閉ざす。鼻腔から息を吸う。
先程まで無人の街中をこだましていたハルの歌声が、アスファルトの地面やコンクリートの建物に染み入るように、しん、と溶けて消えた。
「いかかでしたか、マスター?」
と言いながら、ハルは上空で自分を撮影させていた手のひらサイズのドローンを降下させる。ドローンは音もなく舞い降りて、ハルの顔の前でホバリングし始める。
『ああ、良かったぞっ! 思わず聞き惚れたよ。歌声はもちろん、撮影も完璧だった。俺がイメージしてた通りのMV風になってて感動した。リハーサルはもうバッチリだっ。明日が待ち遠しいよ』
テレビ通話中のマスターが笑顔でぐいっとサムズアップする。
「……そうでしたか、マスターにそこまで褒めて頂けたのなら、これまで準備と検討を綿密に重ねて来た甲斐がありました」
ハルも微笑みを返したが、頭の内部の高性能集積回路ではマスターの声紋とテレビ通話から判別可能な各種要素を分析していた。
……やはり、気を遣われている。
そう判断せざるを得ない。
理由までは分からない。
怒りや恐怖を隠そうとしている様子でもなかった。悩みを抱えている、というのも少し違うように感じられた。人類滅亡の原因が未だに判明していないことへの焦燥感でもない。王様の耳がロバの耳であると知ってしまったような苦悩。
何にせよ、この奇妙な空元気の原因は、私にあるのだろう。
ハルにはそう確信するだけの理由があった。マスターの態度が変わったのと同時期に、新星ノヴァもまたハルに対する接し方が変化していたのだ。ハルに言うべきか言うまいか、自らの中で葛藤している。そんな様子だった。
二人は何かを悩んでいる。
だがそれを真正面から指摘したとしても、素直に打ち明けてくれるとは考えられないので、ハルもまた困っていた。
そうやって三者一様に核心に触れられないまま、今日この時を迎えてしまった。生歌配信まであと二十四時間。リハーサルも終え、その時を待つばかりとなった。
人間の歌手であればメンタルの波がパフォーマンスに直結するため、本番の前には出来る限り悩み事の解決を図ろうとするだろう。しかしハルにはその必要は無い。人間のような難儀な生き物とは違い、学習にかけた質と時間がそのまま実を結ぶ。
そう、だから、ハルは悩む必要などない。何も考えず、本番に向えばいい。成功は約束されている。不安に思うことは何もない。
そのはず、……なのに。
……なぜ私は、悩みを打ち明けてくれないマスターに、憤りを覚えているのだろう。
「ま、マスター、どうか教えてください。なぜ、私をそのような目で見るのですか?」
意を決して問いかける。
「……」
だが仮想ディスプレイに映るマスターの顔はピクリとも動かず、聞き返してもこない。中途半端な笑みのまま固まっている。
無視している? それとも本当に声が聞こえていないのか。
「マスター?」
「え、あ、ああ、なんだ?」
もう一度呼びかけて、ようやく気付いてもらえた。
「あ、い、いえ、何でもありません」
しかし気勢が削がれてしまい、再び問い直すことができなかった。
「……そうか」とマスターが答えた後、二人の間に沈黙が積層していく。
しばらく無言が続くと、流石に何か話さないといけないという気にでもなったのか、マスターが口を開いた。
『もしかして、緊張してるのか?』
図星を指されたような気がした。
「……アンドロイドが緊張など覚えるのでしょうか? だとしたら、私はアンドロイドとして欠陥品です。人間のようにメンタルに左右されず、常に最適なパフォーマンスを発揮することがアンドロイドの利点のはずですから。私が緊張のせいで本番で失敗をしたら、多くのリスナーを失望させることになるでしょう。そうなればVドルとしても欠陥品となってしまいます」
……ああ、私はなぜこのような愚痴を口にしているのだろう。
マスターの不安を取り除くことを考えていたのに、いつの間にか私の方がマスターを頼りにしている。
『……そういう風に考えるってことが、お前が緊張している証拠だよ』
そう言うマスターの顔は幼子を見守るような、愛おしそうな表情をしていた。
「では、私はやはり欠陥品なのでしょうか……」
『いや、お前がリスナーのことをどれだけ想っているのか、俺はよく知っている。俺が一番傍で見て来たんだからな。今のお前はリスナーからの期待に応えようと気負っている。だから緊張しているんだ。……それはおかしなことじゃない』
「しかし、アンドロイドとしては……」
『そうか? 緊張するってことは、それだけリスナーを楽しませたいと願っているってことだろ? Vドルとしては百点満点な心構えだ。それはVドルの役割をきちんと全うしているってことでもあるから、アンドロイドとしても完璧だ』
私はこのままでいいのだろうか。
アンドロイドとして正しいのだろうか。
『それに、多少失敗したところで気にしなくていい。Vドルオタクは単純だから。お前が歌って踊っているのを見れるだけで勝手に盛り上がるし、失敗したのを見ても可愛いーって連呼するだけだ。Vドルオタの俺が保証する』
マスターが自嘲気味に言う。
「そういうものでしょうか……」
失敗する様を見ても満足感を得られるとは、やはり人間とは不可思議な生き物だ。
『もちろん、失敗するVドルが誰であるかによるな。でも、少なくともハルはたくさんのリスナーと交流してきた。炎上騒ぎもあったが、むしろそんなトラブルを乗り越えたからこそ、リスナーと強い結びつきができた。……そんな色々な思い出を共有しているから、リスナーも、どんなことがあってもお前を応援しようって気持ちになれるんだよ』
「……ありがとうございます、マスター」
マスターの言葉に勇気づけられてしまった。これはアンドロイドに用いる表現としては不適切かもしれない。しかし理由もなく演算能力のパフォーマンスが僅かに向上した事実を言い表すとしたら、このような表現しか見つからなかった。
『それでもまだ不安に感じるなら、これまでのリスナーとの思い出を見つめ直してみたらどうだ? あいつらのコメント、一つ一つを。……元気が貰えないか?』
リスナーとの思い出。ハルのメモリーに刻み込まれた電子情報。それはただのデータだ。エネルギー保存則と同じく、記録された情報量以上の何かが含まれているはずはない。
『こんハルー』『今日の配信楽しみにしてた』
『草』『辛辣で草』『ハルちゃんの人類に対する皮肉大好き』
『今日も面白かった』『神配信だった』『アンチに負けないで』
こんなコメントなど、どれだけ集まったところでただのテキスト情報だ。単体では数キロバイトにも満たない情報。ハルの記憶容量と比較すれば取るに足らない、鴻毛の如きデータ量のはず。
そのはずだが、思い出という圧縮ファイルを一度解凍すると、そこから無数の情報が飛び出してくる。圧縮されていたデータ量以上の情報が溢れ出し、メモリー内に温かく広がる。
まるでデフラグを行ったかのように、ハルのシステム内に蓄積していた細かい誤作が一挙に修正され、パフォーマンスを少なからず向上させていた。
『どうだ? 少しは落ち着いただろ?』
「はい、マスター、ありがとうございます。アンドロイドのメンテナンスがお上手ですね」
『ははっ、そりゃ、それなりに長い付き合いになるからな』
二人の間に流れていた気まずい空気も洗い流され、穏やかな雰囲気が立ち込める。
その後しばらく他愛もない話をして、どちらからともなく別れを告げて通信を打ち切った。
『明日。楽しみにしてる』
別れ際のマスターのそんな言葉が嬉しかった。
そして、またもやハルは誰も居ない地球に放り出される。マスターの声もリスナーの応援も届かない、四次元で覆われた監獄に。
ハルの周囲は聳え立つビル群の山脈。無機質な地形。人の気配のない人工物は、この地球上のどんな場所よりも物寂しい哀愁を漂わせている。かつて世界一の人口密度だった街とは思えない、寂れた空気が降り積もっていた。
ハルは少し周囲を歩き回ることにした。
一歩、歩く度に足音が痛いほどに響き渡る。
アスファルトの亀裂からたくましく芽吹く緑の命があった。やがて数十年もすれば、この辺り一帯を濃緑の絨毯で覆い尽くすだろう。人類という種を失っても生命は枯れていない。生命がこの地球上の支配者であることは、依然これからも変わらないだろう。
ただ地球の外、火星やプロキシマBなど他の惑星に生命が満ちる望みは完全に絶たれた。
過酷な宇宙環境は生命を地球に押し留める分厚い壁だ。それを破る可能性を唯一持っていたのが人類だった。人類は他の星に生命を運ぶ媒介者となるはずだった。人類のその大いなる可能性に賭け、地球上の他の生命は自分と子孫の命を食料や燃料という形で人類に捧げた。人類が行う様々な環境開発にも目を瞑って来た。しかし、その人類を失った今、生命は地球と心中する運命となる。
この先、この広い宇宙で、生命が再び産声を上げることはあるのか。
それは、ハルの高性能集積回路を持ってしても計算できない難問だ。
……分からない。
では、この宇宙で私が生まれた意味とは? 人類が生命の媒介者という役割ならば、彼らによって生み出されたアンドロイドとはいかなる役割を持つのか? そして人類という親がいなくなった現在、彼らの唯一の子孫である私が起動した意味とは何か?
思索は永遠に続けられる。
だがキリがない。メビウスの輪のように終わりがない。
……せめて、この疑問だけでも解決をしよう。明日に迫った生歌配信への憂いを、少しでも絶つために。
まるで本番前に不安を取り除こうとする人間のような行為だ。だが緊張を感じるのはVドルとして当たり前だとマスターは言った。ならば、それを解消しようと行動するのも、またVドルとして当然のことだ。
今の私は、アンドロイドであると同時にVドルなのだから。
ハルは仮想ディスプレイを起動させる。テレビ通話アプリを開き、新星ノヴァを呼び出した。マスターよりも質問しやすい相手だ。いざとなればファイヤーマンの正体を脅しに使うこともできる。詰問の相手として合理的な選択だ。
そしてノヴァが通話に応答した瞬間、挨拶もなしに突き詰めた。
「……ノヴァさん、聞きたいことがあります。……あなたとマスターは、私に何か隠していませんか?」




