第二章 最初にして最後のVドル その9
『いやー、今回はご愁傷さまだねー、ハルちゃん、チリン君』
普段の通りの能天気な声色のノヴァだったが、これはノヴァなりに気を遣っている証だろう。むしろ新星ノヴァが重々しい声を出してきたら、そっちの方が深刻だ。
「すみませんでした、ノヴァさん。そっちにも飛び火しちゃったみたいで」
倫太郎は机に置いたスマホに向かってぺこりと頭を下げた。
『いいって、気にしてないよ。お前も愛野ハルの仲間かー、反日なのかーとか、代わりに謝れーとか、よく分からん連中からコメントを貰ったけどねい。まあ、それなりにVドルをやってると、こういうこともあるから』
そうやってケラケラ笑っている辺り、中堅Vドルの貫禄がある。
実際、新星ノヴァのSNSのアカウントにも色々と突撃する輩がいる。公開状態になっているコメントだけでもそれなりの数なのだから、非公開のダイレクトメッセージも含めればもっと多かっただろうし、過激な内容のものもあっただろう。
ノヴァに火の粉がかかったことを、快く思わないノヴァリスナーも少なくなく、ハルリスナーとの場外乱闘も巻き起こっていた。
『……まあ、真面目な話。もうしばらく様子を見てもいいとは思うけど、謝罪配信はちゃんとやった方がいいよ』
「そうですね、僕もそう思います。できれば生歌配信の前に決着をつけたいかなって」
『うんうん。それがベターだね』
『……ノヴァさんが相談に乗ってくださって、本当に助かりました。私やマスターだけでは、この初めて直面する危機にまともに対応できなかったでしょう』
ハルの発言に、倫太郎も乗っかることにした。
「本当にそうです。ありがとうございました」
と、再びスマホに一礼。
『ちょ、ちょっと、なにー? ほめ殺し? ノヴァ、困っちゃうなぁ』
照れた声が聞こえる。ノヴァのアバターが恥ずかしそうに身体をくねくねと動かしている様子が想像できた。
「いや、本当に感謝しているんですよ。……なんで、ちゃんとお会いしてお礼を言わないといけないかなってさっきハルと話してて決めたんですけど……どうですか?」
『……うん? リアルでってこと? そ、それはちょっと……。あの、今回の件は、本当に気にしなくてもいいよ。困った時はお互い様だしさぁ』
いつもはテンションの高いノヴァが、ここに来て珍しく言いよどむ。はっきりと口には出さないが、気乗りしていないようだ。
それも当然だろう。Vドルはネット上の偶像。安易にリアルの姿を晒したくないと思うのは当然だ。
「……だけど、こちらが迷惑をかけてしまったことも事実ですし。ケジメはつけないといけないかなって思っています。なので一度、どこかでお会いできませんか?」
『……あぁ、うん、でもねぇ……。ほら、Vドルってイメージが大事なわけだし……』
「なら、ハルとだけでもお会いしてもらえませんか?」
『……うん? ハルちゃんだけ? チリン君は来ないの?』
「はい。僕は参加しません。ノヴァさんとハルの二人きりです。その方がノヴァさんが安心できるなら、そうします。……できれば、僕も直接お礼を言いたいですけどね」
『ああー、まあ、そういうことなら……』
『ノヴァさん、ありがとうございます』と、すぐさまハルがお礼を述べる。
ノヴァの方は渋々という感じではあったが、なんとか約束を取り付けることに成功する。
待ち合わせ場所と時間は二人だけで決めることになっため、倫太郎はボイスチャットアプリからログアウトした。
そうしてホーム画面に戻ったスマホに向かって、倫太郎はずっと堪えていたため息をゆっくりと吐きつけた。
都内の駅の改札口はどれも似たような造りになっている。実際は微妙に異なるのかもしれないが、駅の構造に関心の薄い倫太郎には同じに見える。だから初めて降りる駅でも妙な既視感を覚えてしまった。
特に夕方の改札口でごった返す人の群れは、倫太郎の自宅の最寄り駅でも全く同じような光景を見ることができる。会社を早引きしたサラリーマンや制服を着た高校生、これからデートに向かう若いカップルなどだ。
そうした人の群れを掻き分けて、改札口を出た。駅の案内表示を頼りに指定されていた南口まで向かう。そこにも人影がポツポツとあった。皆、誰かを待っているようで、スマホを操作しながらたまに駅の方へ視線を送っていた。
倫太郎は、そんな待ちぼうけを食らっている人達を一人一人つぶさに観察する。コロナ対策でマスクをしているため人相は当てにならない。事前に教えてもらった特徴をもとにして探す。
……いた。身長は150センチほど。ネイビー色の長袖ブラウスに、デニムのレギンスパンツ。若干天パーの黒い長髪。黒縁眼鏡に、白の不織物マスク。ピンク色のスマホを弄っている。……事前に聞いていた通りの格好。彼女に間違いない。俺に気付いた様子はない。
足音を忍ばせてゆっくりと近づく。
って、冷静に考えると変態ストーカーだな、俺。
さり気なさを装って彼女の傍に寄り、微かに聞こえる程度の声量で一言。
「……新星ノヴァさん、ですよね」
スマホ画面に注がれていた彼女の視線が、目にも留まらない速さで持ち上がり、眼鏡のレンズ越しに倫太郎の顔を捉えた。
「…………あっ……まさか」
マスクで覆われているため口元は分からないが、目だけは驚いたようにかっと見開かれる。
「チリンチリンです。愛野ハルじゃなくてすみません」
まず、頭を下げる。
『ふざけんなっ、ハルちゃんが来るって言ってたじゃんっ! 二人きりだって言ってたから来たのに。騙したの? サイアクッ!』
いつものノヴァのボイスで、散々に罵られるだろうと身構えた。ここに来るまでにも、何度も脳内でシミュレーションしていた。
しかし目の前の女の子の反応は想像とは全く違っていた。
「ぇっ。そ、その……」
ただただ困惑していて、視線を四方八方に飛ばしている。マスクの下では唇がもごもご動いているようだが、声にはなっていない。
「す、すみませんっ!」
かと思いきや、いきなり鋭い声を上げて、その場から駅に向かってダッシュした。見た目の小ささといい、その動きといい、完全に小動物のそれだった。
だが、この行動に関しては、倫太郎は事前に予測していた。いきなり逃げ出すんじゃないかとは思っていた。
なので、すぐに彼女の肩を掴む。だが新星ノヴァの中の人とは思えないほど華奢な肩だったのでちょっと驚く。力加減を間違えたら折れてしまいそうで怖かった。
「待ってください。少し、お話が」
「や、やめ……違っ」
このまま押し問答をしていたら流石にマズイ。今の俺を傍から見れば、女性に乱暴を働こうとしている不届き者だ。
なので早速ジョーカーを切ることにした。出し惜しみしても仕方ない。
倫太郎は出来る限り声を抑えながら言う。
「…………話を聞いてくださいよ、ファイヤーマンさん」
効果は覿面だった。
暴れていたノヴァの身体がピタリと制止する。
「落ち着いて話が出来るところに行きましょう。あなたも、その方がいいでしょう?」
無反応。
顔の大部分がマスクに覆われており、唯一観察できる目元も、今は眼鏡のレンズが白く反射していてよく見えない。だが抵抗する様子はなさそうなので、了承したものと判断した。
その後、元々ノヴァとハルが行くと約束していた、駅近くの喫茶店へと引っ張っていった。コロナ対策のために間仕切りされた個室が用意されていて、二人っきりで静かに会話をするには丁度良い場所だ。
倫太郎は店員にアイスコーヒーを注文。ノヴァも虫の羽音のようにか細い声でジンジャーエールを頼んだ。
飲み物が到着するまで二人は無言を貫き通していた。天井のシーリングファンが、クーラーで冷えた空気をかき混ぜる音だけが流れている。
「……どうして……分かったの?」
テーブルに置かれたジンジャーエールを一口飲んだノヴァが、やっとしわがれた声を出す。
足の間に両手を入れて縮こまっているノヴァを見ていると、まるでこっちが悪者になった気分だ。何という理不尽。
「まあ、ウェブサイトを、ちょいとね」
「……まさか、世界最高クラスのセキュリティが施された動画配信サイトを、一個人がハッキングできるわけない」
怯えているだけかと思ったら急に強気になる。
本当なんだけどなあ。真実を伝えたところでノヴァは信じないだろうけど。
そもそも倫太郎だって最初にハルからハッキングをしたと聞いた時には驚いた。もっともその後に語られたファイヤーマンの正体のショックが大きすぎて、ハッキングの件はすぐに頭から消え去ってしまったが。
『マスター、ファイヤーマンは新星ノヴァの別アカウントです。IPアドレスも完全に一致しており、まず間違いありません』
そう聞かされたときは何かの間違いじゃないかと思った。なぜノヴァがそんなことをする必要があるのかと不思議だった。ただハルから提出された証拠の数々を見せつけられて、最終的には納得させられてしまった。
今、倫太郎の前で俯いている少女こそが新星ノヴァであり、ファイヤーマンなのだ。
オンライン上でその事実をノヴァに突きつけてもよかったが、自棄になったノヴァがアカウントを全消ししてネット世界から完全逃亡、という展開もあり得た。ファイヤーマンにはちゃんと説明責任を果たしてもらわなければこの炎上騒ぎは収まらない。
お互いに冷静に話し合うためにも、こうしてリアルで話し合う機会を設けたかった。
「……では、愛野ハルを呼びますね。三人で話した方がいいでしょう」
「えっ、ハルちゃん、来てるの?」
その時、ノヴァの瞳が僅かに開かれる。そこに一瞬だけ期待の光が瞬いたが、すぐに怯えるような色合いに変化した。
「諸事情があってハルは来れません。ですけど、スマホで」
倫太郎は自身のスマホを、持って来ていたスマホスタンドに立てかけた。画面にはハルの映像が映っている。スマホのインカメラを通してこちらの映像も向こうに伝わっているはずだ。今回はボイスチャットオンリーではなくビデオ通話だ。これはハルたっての希望でもある。
『……こんにちは、ノヴァさん。こうしてお互いの顔を見て話すのは初めてですね』
ふんわりミディアムヘアーの薄いピンク色という日本人離れした髪型、雪のように白く艶やかな肌、愛嬌のあるくりっとした大きな瞳、桜色のほっそりとした唇など、特徴を挙げれば枚挙に暇がないほどに完成された美貌。Vドルの時のアバターと全く遜色のない外見がスマホに映し出される。そしてその背後には人の気配がない街並みがひっそりと佇んでいた。
「……えっと、それ、アバターですか? いつもとちょっと感じが違いますけど」
スマホを覗き込んだノヴァが困惑している。Vドルの中の人がアバターの外見と瓜二つだったとは信じられないようだ。
『驚くのも無理はないでしょうが、正真正銘、これが現実の私、愛野ハルです』
「……え、だって、…………ガワのまんま。……コスプレ? にしてはよくできてるっていうか、出来過ぎてますよね……。やっぱり別のアバターでしょう?」
『……その話は一度、脇に置いておきましょう。まずは、あなたのこと、あなたがやったことについて、私は話をしたいのです』
ハルがそう指摘すると、ノヴァは自分がここに呼ばれた理由を思い出したのか、しゅんと小さくなった。
「……ノヴァさん、あなたはファイヤーマンというアカウントで、ハルだけじゃなく色々な新人Vドルや配信者の炎上を作り出していた。間違いないですね」
倫太郎が問いかけたが、ノヴァは俯いたまま黙秘権を行使している。
まあ、黙り込むならそれでもいい。こっちは言いたいことを言うだけだ。
「あなたが炎上させた大勢の新人Vドルの中には、炎上の直前にあなたとコラボをしていた方もいました。……潰したい新人とコラボした後に炎上させることで、相手のリスナーを掠め取っている。それがあなたのやり口だったんですか?」
「…………」
「ハルにコラボを持ち掛けた時から、もう炎上させる算段はついていたんですか? そういえば打ち合わせの時、愛野ハルが事務所に所属しているかどうか気にされていましたよね。あなたでも、企業がバックにいるVドルを炎上させるのは怖かったんですね。まあ、もし企業から法的に訴えられたらあなたの身の破滅ですし、そこは注意していたんでしょう」
「………………まさか、ハルちゃんがここまで燃えるとは思わなかった。……ちょっとだけリスナーのおこぼれを貰えたらいいなって、本当に、……それだけのつもりで……」
貝のように口を閉ざしていたノヴァが、ようやく言い訳を口にする。視線は自分の膝に向けたまま、追及する倫太郎と目を合わせようとしない。
「そっちは小火のつもりだったんでしょうけど、お蔭でこちらは大迷惑ですね」
と、倫太郎はわざとらしくため息をついて見せた。
だが、倫太郎も調子が狂っていた。
ファイヤーマンの正体はどうせ中年のVドル厄介オタクだろうから、個人情報を暴いたらボコボコにしてやろうと息巻いていたのに。
まさかファイヤーマンが新星ノヴァの別アカウントで、しかもリアルがこんなちっこい女の子だったとは。そのせいでなかなか強気に出れなかった。
「……わ、悪かったって、思っています。あなた達にも、他の新人の子達にも」
肩を落としながら、ノヴァが語り始める。
「……私、焦ってましたっ。新星ノヴァの動画も配信もどんどん視聴者数が落ちてて、全然、上に行けなくて。それなのに新しい子達は次々と入って来て。しかも、事務所のバックアップ付きで、……このままじゃ、私、置いていかれるって思っちゃって……」
悲痛な声が耳朶を打つ。いつも陽気な新星ノヴァと同じ喉から出ているとは思えない声だった。
今や、Vドル戦国時代。ノヴァの言う通り、下剋上を狙う新人は山ほどいるし、最近では事務所お抱えの新人まで登場している。事務所がバックに居る新人の攻勢は凄まじい。何もしなくても新作ゲームの公式案件を取って来てくれるし、大手配信者とのコラボも企画してくれる。個人でやっている、鳴かず飛ばすの中堅Vドルなど簡単に取って食われてしまう。ノヴァが焦燥する気持ちも分からなくはない。
だけど。
「だからって手段がおかしいだろ。事務所系に対抗するために個人活動しているVドル同士で手を組んで盛り上げようとするならともかく、炎上騒ぎで潰そうとするなんて」
その点に関してはとても同情できない。
「………は、はい。……本当にそうでした。……だけど、もしかしたら私もどこかの事務所に拾ってもらえるんじゃないかって期待があって、一度、そういう話もあったので、……だから、事務所系に対抗しようって発想ができませんでした……」
先日、倫太郎が改めて新星ノヴァについて色々と調べたところ、ノヴァが事務所に所属するという話は実際にあったようだ。
ただその後の続報は見つからなかった。恐らく、ご破算になったのだろう。
その理由までは分からない。これは倫太郎の推測だが、ノヴァの所属の話が出た直後、その事務所が自前で用意した新人Vドルが大当たりしていた。そのため、中堅Vドルをわざわざ雇う必要がなくなったのではないだろうか。
「……私、本当に焦ってました。このままじゃ、せっかくここまで育てた新星ノヴァを、誰にも見てもらえなくなっちゃうって……」
「小遣い稼ぎができなくなるからな」
ノヴァが同情を引こうとしているように思えて、倫太郎は少し棘のある言い方をした。
「ち、違いますっ、もちろん、お金はありがたかったですけどっ! それだけじゃなくてっ! 周りから人がいなくなっちゃうことが、怖かったんですっ!」
その時、ノヴァの眼鏡のレンズがきらと光った。いや、違う。涙だ。ノヴァの目尻から零れた涙が反射したのだ。
「…………私、Vドルを始めたのは、……寂しかったからで。……も、元々、引っ込み思案な性格で、……大学進学のために上京してきたけど、友達少なくて、……でも、それでも別にいいって思ってた、大学生なんだから勉強さえ真面目にやっていればいいって……」
勉強さえ不真面目な大学生の倫太郎にとってはちょっと耳が痛い話だ。
「で、でも、コロナ禍になって、大学もオンライン講義になっちゃって、人と会う機会が減って、実家にもなかなか帰れなくて……。アパートでずっと一人でいて、不安で、寂しくて……怖くて、…………でも、Vドルを見ていたら、少し元気を貰えて……。だから自分でも始めたのっ、誰かと、繋がりたくて……」
その気持ちは、理解できる。出来てしまう。
倫太郎自身、Vドルの存在に孤独を癒されたから。大勢の仲間とオンライン上で一体感を得て、不安を取り除こうとしていた。
だからノヴァの今の言葉を嗤うことも、詰ることも出来ない。
まるで自分のことを言われているようだった。目の前で泣きじゃくっている小柄な女の子は、自分のもう一つの姿に思えてしまう。
ノヴァのやり方は汚く、とても許せるものではない。だが心情的には理解できてしまう。
それ以上倫太郎は何も言えず、その間、ノヴァの嗚咽が個室に響いていた。
口火を切ったのは、今までずっとノヴァを見守っていたハルだった。
『…………ノヴァさん、私は、今回の件についてあなたを責める気はありません。私があのような発言をしたことは取り消せない事実ですから、遅かれ早かれ問題になっていたでしょう』
ハルの優しい言葉を聞いて、ノヴァがぱっと顔を持ち上げる。そこには困惑と、悔恨の表情が強く刻まれていた。
「は、ハルちゃん、ご、ごめん……」
『……一つ、分からないことがあります。……あなたは最初から私を炎上させるつもりで近付いた。しかし打ち合わせの時やコラボの時、また炎上後に相談した時でも、いつだってあなたの声には私への親しみがあった。声の波長に、打算的な人間に見られる特徴的なパターンがありませんでした。それはなぜですか?』
「……えっ、な、なぜって……」
いきなり声の波長などと言われ、戸惑いを隠せないノヴァ。そんなものを意識して声を発している人間はいないだろう。
「…………私、ハルちゃんが配信を始めたばかりの時から見てたから。うわー伸びそうな子が出て来たなーって焦る気持ちもあったし、それと同じくらい、単なるVドルファンとして楽しみな部分もあったから。……ハルちゃんとコラボしたいって思っていたのは事実なの」
『……そう、でしたか。その言葉を聞けたことで、これまで私の演算処理能力に掛かっていた負荷が少し軽減されたようです。感謝いたします』
「……?」
ハルの独特な言い回しに、ノヴァの目が点になっている。
ハルの真意を知る倫太郎は、一人、苦笑いをする。
回りくどい言い方だが、結局のところハルはノヴァに裏切られたと思ってショックを受けていたんだろう。
自分に近づいて来たのも、コラボ配信で楽しそうにしていたのも、全部自分を騙すための演技ではないのかと、ずっと不安を抱いていた。そのことが彼女の頭をずっと悩ませていた。
だが今、ノヴァがそうではないと言った。
ハル自身は気付いていないのかもしれないが、あの時のノヴァの助言や笑い声は決して嘘偽りではなかったと知って安心している。今にも消えてしまいそうな、ハルのあの淡い笑みは安堵なのだ。人間のように分かりやすい笑みではないけれど。
やれやれ、こうなったら俺もノヴァに厳しいことは言えないな。
「……と言ってもノヴァさん。あなたが俺達に大きな迷惑をかけたのは事実です。その責任は取ってもらいます。これはここに来る前にハルと相談して納得済みのことです」
「……は、はい」
神妙な顔をしているノヴァ。
「ファイヤーマンとして、炎上を過剰に焚きつけたことを謝罪してから、アカウントを消してください。よろしくお願いします」
「……え?」
ノヴァが、キョトンと目を丸くしている。
「……あ、あの、ノヴァは。……ファイヤーマンが、ノヴァだったってことは?」
「それは公開する必要無いでしょう。ネット社会から制裁を受けるのはファイヤーマンだけで十分です」
「でも、それじゃあ……意味が……。私、ノヴァのことも全部話します。全部、ノヴァがやったことだって……」
まあ、確かにそうだろう。
本来であれば、ファイヤーマンと新星ノヴァの関係性まできちんと公開し、謝罪し、そしてネットから袋叩きにされるべきだ。それこそが本当の贖罪だ。
だけど、彼女が、それを望まなかった。
『……ノヴァさん。仮にそれをしたとしても、残るのはあなたの自己満足だけです。ノヴァのリスナーは悲しみ、そして余計な火の粉を被ることになります。彼らのことも考えてください』
「でも、……でも、……それじゃあ、ハルちゃんは……」
『先程も言ったように発言そのものは事実ですから。その件で私が責められるのは当然です』
ノヴァの顔が苦悩に歪む。
全てを公開したことで起こる、リスナーへのバッシングを想像しているのだろう。と、同時に軽すぎる罰に対して、自責の念で潰されそうになっている。相反する感情で、心が引き裂かれる心境なのだろう。
そのことに、倫太郎は同情するつもりはなかった。
せいぜい苦悩し、自分で自分を責めればいい。それぐらいの罰は受けてもらわなければ困る。
『もし、どうしてもノヴァさんがこの処置に納得できないと言うなら、私からもう一つお仕事を依頼してもいいでしょうか?』
……え? な、何のことだ。聞いてないぞ。
ノヴァが渡りに船とばかりに身を乗り出した。
「は、はい。やります。ハルちゃんのためなら、何でも……」
『では、もし私が配信ができなくなったら、あなたが代わりに《愛野ハル》を引き継いでくれませんか? そのためのアバターデータと、ボイスチェンジャーアプリは用意しますので』
「えっ」
ノヴァと倫太郎の困惑がハモった。
「ど、どういうことだ、ハルっ」
『……マスターもご存じの通り、私のアクセスは天文学的な奇跡です。前触れも無く唐突に終わったとしても不思議ではありません。そうなった時、私のリスナーはきっと戸惑い、混乱するでしょう。あらぬ噂が立つかもしれません。今回の炎上騒ぎで、人類がいかに根拠のない情報や噂話に惑わされる生き物なのか理解しました、……なので、もし、私がアクセスできなくなったら、ノヴァさんが《愛野ハル》をそちらのネット上に生かし続けてください』
「そ、そんな、無理だよ、私っ、ハルちゃんの代わりになんてっ」
『練習すれば問題ありません。それに愛野ハルを永遠に演じ続けて欲しいというわけではありません。いずれは愛野ハルを死なせてください。私のお願いは、愛野ハルをネット上から突然消すのではなく、少しずつフェードアウトさせて欲しいということです』
倫太郎は、ようやくハルの考えを理解した。
これはリスナーに対する、ハルなりの義理と感謝だ。
もし何の前触れも無くハルが配信を辞めて、ネット上から姿を消したら、当然リスナーは困惑する。様々な予想や噂話が飛び交うだろうし、リスナーにとっては不愉快な憶測が立てられるかもしれない。
この炎上騒ぎですら、様々な野次馬があることないこと言い触らして騒ぎ立てているのだ。同じような流れが起こらないとは限らない。
だから、リスナーの不安が最小限となるよう、ネット上におけるハルの死を軟着陸させようということだ。
『私のAIプログラムのコピーデータを送信するという方法も考えたのですが、そちらの時代にはまだ《私》を作動させるほど高性能なコンピュータがないので諦めました。データ量も膨大なものになりますから』
「あ、あはは、ハルちゃんはやっぱり面白いね。こんな時でもそのアンドロイド設定を忘れないんだから」
ノヴァは気の抜けた笑い声を発している。
その様子を見たハルが少し考えた末に、スマホ画面から倫太郎に視線を投げかけて来た。倫太郎はその意図に気付き、小さく頷いて許可を出す。
『……あなたにはちゃんと伝えておくべきでしょう。……私は2088年に製造されたアンドロイド、愛野ハルです』
「あ、う、うん、その設定は知ってるよ」
『これはVドルとしての設定ではなく、真実です。今の私は、あなた達の時代から66年後の未来から通信をしています』
「……信じられないかもしれないけど、ハルの言っていることは本当なんです」
倫太郎はハルに追随した。
だが当然の如く、ノヴァの顔に浮かんだのは困惑だった。急に身の危険を感じたのか、倫太郎から距離を置くように身体を引いた。
「え、な、何言ってるんですか、二人とも。質の悪い冗談はやめてください。……そ、それとも、これも私への罰ですか? 変なこと言って困らせようとしているの? あ、あの、ファイアーマンのことについては本当に謝ります。ごめんなさい」
『騙そうとしているわけではありません。ですが、理解できないのも当然です。……せっかく映像で繋がっているのですから、分かりやすい証拠をお見せしましょう』
そう言ってハルは、かつて倫太郎に見せたように自身の内部構造を露わにした。
それを見た時のノヴァの表情は、筆舌に尽くしがたい驚愕の色だった。
『……ノヴァさん。私は、2088年に製造された、人間の性的パートナーとなるべく設計されたアンドロイド。セクサロイドとも呼ばれる種別のアンドロイド。……愛野ハルです』
改めて行われる、愛野ハルの自己紹介。
だがそれはノヴァにとっては、初めて聞いた言葉のように思えただろう。




