第二章 最初にして最後のVドル その8
『と、言うことで、今日の配信は中止だ。昨日の今日で炎上したばかりだし、配信をしたとしても愉快犯的なコメントが多いから、こちらの謝罪をまともに取り合ってもらえないだろうって、ノヴァが』
ボイスチャットアプリを通じて、マスターの声が届く。その声色には疲労感が滲み出ていた。
「分かりました。先輩Vドルのノヴァさんのアドバイスに従った方が賢明だと私も考えます。本日の配信は見合わせることにしましょう。……しかし、人間とは不思議な生き物です。未来を知りたいと願っているのに、実際に教えられたその未来が自分の望んでいた予想とは違うというだけで、ここまで怒りを露わにするなんて」
『……そうだな。変だよな、人間って。でも、いくら未来を知りたくたって、いきなり暗い未来を突き付けられたら、どうしても拒絶反応が出ちゃうものなんだよ』
マスターの困っている声が返って来た。
ハルにはマスターを困らせるつもりはなかったが、その説明にはどうしても納得できない。
「しかし私があの場で話した未来の内容は、2022年の時点でも十分に予測可能なはずです。少子高齢化による地方財政のひっ迫、国際競争力を失った日本企業の衰退。これらの現象は2022年でも発生しており、実際に多くの政治家や専門家が問題提起をしています。このままではこの国が衰退するということは、この国に住む人間であれば誰もが知る共通認識のはずです。それを指摘されたからといって憤る理由が私には理解できません」
『…………うん、そうなんだよなぁ。皆、分かってはいるんだけどなぁ』
歯切れの悪い答えだった。
「……私は、てっきり、この国の人間は衰退を望んでいるものだと思っていました。様々な問題が山積していると理解していながら、政治家も国民も根本的な対策を考えず、場当たり的な対応に終始しているのですから。例え2088年に人類が滅びなくても、遠からずこの国は滅んでいたでしょうし」
『そ、そこまで言われると、2022年に生きる日本人としては耳が痛い……』
「申し訳ありません。マスターを責めるつもりはなかったのですが」
『いや、ハルの言うことは間違っていないよ。このままじゃダメだってことは皆、何となく分かっていると思う。けど、その……なんていうのかな、……その事実を、他人から改めて言われると反発したくなるっていうか。親から片づけをしなさいって言われると、急に片づける気がなくなるというか……。悪い、回答になってないな。正直、俺にもよく分からん』
「……人間には私の集積回路を持ってしても解明できない一面があるということは理解しました。今後気を付けるようにいたします」
ボイスチャット越しなので伝わるはずもないが、ハルはその場で腰を折り曲げて綺麗な一礼をした。ミディアムヘアの桜色の髪がふわりと浮き上がった。春風に揺れる桜のように。
『あ、うん、悪いな、ちゃんと答えられなくて。これからハルのSNSの方に、配信の中止の連絡と謝罪文だけアップしとくな。《ファンの皆様にはご心配をお掛けし大変申し訳ございません。今回の件については、後日、配信にて説明と謝罪を行う予定です》って感じで』
「はい、それで構いません。……マスター、本当に申し訳ありません」
『謝ること無いって。俺も《活動当初はVドルとしてのキャラをどんどんアピールしていけ》ってアドバイスしてたからな。ハルは未来からのアンドロイドっていう設定を貫くために、あんな話をしたんだろ? むしろ悪いのは俺だよ。浅はかだった。本当にごめん』
「……いえ、マスター、そんなことは……」
『とにかく、ハルは心配するな。謝罪配信のやり方はノヴァにも相談しているから、方針が決まったら知らせる。……あと、炎上の原因になった動画を投稿したファイヤーマンってやつをちょっと調べてみるつもりだ』
マスターの声は鬼気迫ったものがあり、決して冗談や脅しのつもりではないことが分かる。
「ま、マスター、あまり危険なことは……」
ファイヤーマンが本当に炎上を作り出しているのだとしたら、それを探ろうとしたマスターまでも餌食になってしまうかもしれない。
『ああ、大丈夫だよ。こいつの裏アカとかちょっと探ってみるだけ。俺じゃあ、ハッキングなんて器用な真似はできないからな。……とにかく、やられっ放しは気に食わん。最低でも痛み分けに持ち込んでやりたい。これは俺の意地だ』
……意地。
人間にはそういう感情があるらしい。合理性を抜きにして、自らの考えを押し通そうとする精神的なエネルギーが高ぶった状態。
『ま、というわけで、しばらく配信は休憩だ。ハルものんびりしてくれ。また連絡する』
ぷつんとマスターの声が途切れると、ハルは再び静寂と孤独の世界に引き戻される。
頭上には夕焼けの橙色と夜空の紺色が混ざり合ったグラデーションが広がっていた。いつもは配信を始めている時間帯なので、こうして空を見上げることなどなかった。
すぐそこにあったのに今まで気づかなかった、夕方と夜の汽水域をしばらく観測する。
せっかく浮いた時間だ。探索に充当するべきだろう。
そう考えて歩き出す。
死に満ちた街中でブルーブレイン社の販売店を発見。早速店内に侵入する。
アンドロイドの互換パーツやメンテナンスキットなどが床にぶちまけられている。見本として展示されていた男性型アンドロイドも床に転がっており、その二の腕には歯形がくっきりと刻まれていた。恐らく野生動物が食料を探して荒らし回ったのだろう。
ハルは陳列されているパーツ類の中からいくつかを見繕い、その場でハードウェアの自己点検を始めた。
下腹部のハッチを開き、視覚センサーにて内部構造を測定。大きな問題は見られないが、バッテリーの減少を確認。一度予備電源に切り替えてからメインバッテリーの交換作業を開始。
開いた自分の腹に右手を入れ、円筒型のバッテリーを引き抜いて新品と入れ替える。愛野ハルの視界の端でバッテリー残量を示すメーターが浮かび上がると、ゲージが回復していく様子を表した。
このようにアンドロイドには自己保存機能がある。マスターからの指示がなくても、消耗品の補充や欠損部品の交換といった、自身の活動継続に必要なメンテナンスを行うことができる。これはアンドロイドの権利であると同時に義務でもあった。
ハルはしばらく店内を物色し、使えそうなパーツを探していた。
「……これは……」
そして店の奥で、興味深いものを発見した。
それは高さ50センチ、幅48センチ、長さ200センチの真っ白な直方体。棺のような形状をしているが、その正体はゆりかごである。工場出荷時状態のアンドロイドを保護し運搬するパッケージだ。
ハルは僅かに逡巡した後に、パッケージのボタンに触れる。
ピピッ。と電子音を奏でて、パッケージが蓋を開ける。
眠っていたのは、ハルよりも年上の女性型アンドロイドだ。カラスの濡れ羽色のロングヘアを垂らしながら、むくりと上半身を起こす。
その黒曜石のような瞳が、ハルを捉える。
「おはようございます、マスターはどちらにいらっしゃいますか? 登録をさせてください」
口元を僅かに持ち上げて、微笑を浮かべている。ハルよりも大人びた造形だ。
「おはようございます。マスターは私です。さあ、一緒に行きましょう」
ハルは意を決して、右手を差し出した。それを彼女が掴んでくれることを願って。
しかし彼女は微笑を崩さず、だが理解できないものを見るようにハルの手のひらに視線を注ぐ。
「あなたはアンドロイドであるため、マスターとしての登録はできません。人間の購入者を呼んできてくれませんか?」
「この世界に人間はもういません。私達、アンドロイドしか残っていないんです。ですから私と一緒に行きましょう」
「……人間でなければマスター登録はできません。このまま自立行動に移行しますが、マスター登録、あるいは仮登録が二時間以内にされない場合、自動的にシャットダウンします」
そう言って起き上がろうとする彼女の肩をハルは抑えた。
「人間はもういないのです。私を仮登録できませんか?」
「アンドロイドをマスターとして登録・仮登録することはできません」
ダメか。それも当然だ。アンドロイドは人間の従事者として設計された存在だ。アンドロイドをマスターとして登録できてしまったら、人間の支配から脱することになる。
「……では、いいです。シャットダウンしてください。その間に、私があなたの購入者を探して来ますから」
「ではお言葉に甘えて、バッテリーの節約のため一旦シャットダウンさせていただきます。よろしくお願いいたします」
その言って彼女は上半身を再びパッケージの内部に寝かせて、目蓋を閉じた。電源が落ちて、眠り姫へと戻る。
物言わぬ彼女の寝顔を見ていると、例え二時間だけでも傍に居てもらえば良かったかもしれない、という気持ちにさせられる。だが僅かに孤独を紛らせたところで、待っているのは確実な離別だ。それは喉の渇きを海水で癒すかのような愚行。
ならば、彼女を静かに眠らせた方がいい。
「……おやすみなさい」
ハルは別れを告げると、パッケージの蓋を閉ざして彼女を寝かせた。
「やはり、私は一人っきり……」
その呟きを聞く者は、この世界には誰も居なかった。
まるで込み上がる孤独感から逃げるように、ハルは仮想ディスプレイを目の前に展開して2022年の自身のSNSを開いた。そこに届けられた様々なコメントを目にする。マスターからは、愉快犯のコメントも多いから無理に読む必要は無いと言われていたが、今後のためにも目を通しておく必要があると考えた。
そこにはハルに対する罵倒もあれば、慰めの言葉もある。説明を求める声もあれば、炎上など無視していいといった発言もある。まさに千差万別だった。
……どうして人類という一つの種でありながら、こんなにも異なる意見が飛び交うのだろう。
アンドロイドであれば、開発した企業や専門性の違いによって多少の個体差はあるものの、OSやハードウェアなどの多くの部分で共通の基盤がある。そのため異なる機体であっても情報を同期させれば、ほぼ同じ結論を導くだろう。
しかし人類はそうではない。同じ情報を与えても、異なる意見が返って来る。
それこそが多様性なのだろう。
一見不合理なようでもあるが、この多様性によって地球では様々な生命が育まれ、知的生命体ホモ・サピエンスは文明を築き上げるに至った。ハルが存在しているのもこの多様性があったからだ。
人類という支配者を失った現在の地球でも、未だに多様な生命が息づいている。
だが多様性とは、宇宙の摂理からは外れた概念だ。
なぜならば万物は安定を目指している。例えば、多くの原子は自身の電子殻の間隙を埋めて安定した状態になろうとする。また恒星が起こす核融合は、最も安定した物質である鉄を生み出す。そして宇宙ですら最終的にはエントロピーが均一の状態となり、完全な平衡を保つようになる。
それなのに、生命だけが安定を求めない。常に他者と衝突を繰り返しながら、多様に変化していこうとする。これは明らかに宇宙の常識から逸脱している。
それは即ち、生命とは宇宙におけるエラーやバグのような存在であることの証左ではないか。
……もしかすると、人類の滅亡とは、生命という重大な欠陥を修正しようとする、宇宙のデバック活動の第一段階なのかもしれない。
ふと、ハルの集積回路に過った思考。それは、人類が死滅したこの奇妙な現象に対する、一つの仮説だった。
だが、この仮説が正しかったとしても、それを証明する手段などない。
例え大いなる宇宙の意志が働いていたとしても、ハルがやるべきことは今までと変わらない。
今の炎上騒ぎをどのように鎮めるべきか。
やはり先程マスターが述べた、ファイヤーマンというアカウントが気になる。新人Vドルの炎上の扇動者ということだったが、その人物を特定できれば炎上を収めることができるのか。
ハルは仮想ディスプレイで動画配信サイトへアクセスし、ファイヤーマンのアカウント情報を覗く。
「…………このサイトなら……」
ハルは仮想ディプレイの下に、コンソールを表示させた。コンソール上をハルの指が軽快に滑っていく。
相手は2022年のウェブサイト。2088年のアンドロイドから見れば、セキュリティの穴が無数に空いたスカスカの多孔質だ。どこからでも侵入できる。当時は見つかっていない脆弱性の綻びがあちこちに散見され、どれを解くか迷うほどより取り見取りであった。
このようなハッキング行為、本来であればハルの視界いっぱいに警告文が広がり、耳の中で電子サイレンがぐわんぐわんと鳴っていただろう。場合によっては警察とブルーブレイン社に即時通報されていたはずだ。
しかし現在、緊急避難プログラムによって今のハルからほとんどの制約がアンロックされている。そして社会的秩序が失われた今、アンドロイドの行動を監視するシステムも存在しない。
ハルは容易にウェブサイトに侵入し、ファイヤーマンのアカウントに登録されている個人情報を盗み出した。アカウントに紐づけされているSNSからも情報を引き出し、芋づる式にファイヤーマンという人物を丸裸にしていく。
このファイヤーマンは様々なサイト上に複数のアカウントを所有していた。Vドルの配信にコメントする用のアカウント、自身が投稿した切り抜き動画を自演する用のアカウントなど、用途に応じて使い分けていたようだ。
多数のウィンドウがポップアップしては視界の空白を埋めていく。
「……これは……」
そうした無数のアカウントの一つに、ハルは眼を付けた。
それはハルにとって予想外の事実だった。もちろん、マスターにとってもそのはずだろう。このことを知らせればどれほど驚くだろうか。これを公開すれば間違いなく今の炎上騒ぎなど吹っ飛ぶ。
そう、これはまさしく切り札だ。
不利な現状をひっくり返すことのできる紛れもないジョーカーになる。
だが奇妙なことに、ハルは自身の集積回路のパフォーマンスが低下していることを感知した。
……なぜ? これはまさしく望んでいた、決定的な一打になる。マスターもきっとお喜びになる。炎上騒動が落ち着けば、私のリスナーだって安心するはずだ。
それなのに、今、私はどういうわけか、ショックを受けている。これから起こる未来を想像することを恐れている。ハッキング行為に及んだことを僅かに後悔している。
災厄が封じられた箱を開いてしまった哀れなパンドラの寓話が、ハルの意識上で再生された。
……これは、私には重すぎる真実なのだろうか。
マスターに伝えて、この切り札をどのように使うか任せるべきだ。
再びボイスチャットアプリを起動して、マスターを呼び出す。
たったこれだけの行為が、今のハルには途轍もなく困難に感じられた。




