第25話「女王VS大鬼」
「ぶるああああぁぁぁぁぁ!」
オーガの咆哮が10階層を震わせる。己を鼓舞させるためのものであるそれは相手が格下であるならば威圧されて恐怖を覚えるものだがアンコは違う。アントらしく脚をセカセカと動き回らせてオーガから距離を取るが、それは恐怖を覚えてからではない。一定の距離を取り、今にも襲い掛からんとするオーガへと自身の腹を向けて蟻酸を発射。
「!?」
それが何かはわからずとも危険だということは理解できたオーガが横へステップを踏んで避ける。蟻酸が着弾した地面の床は微かに溶ける音と煙を上がらせる。それに驚きの表情を向けつつも、すぐにまたアンコへとオーガは走り出す。彼の優れた武器は強靭な肉体と手に持った魔法樹の大槌だ。それを活かすためにはとにかく間合いを詰める必要がある。
そんなオーガの足元がふと爆発。
「なに!?」
何が起きたかもわからずに吹き飛ばされたオーガだったが、滞空している中で自分を吹き飛ばした場所を見て、すぐに察した。
「つちの……まじゅつ」
滞空にあっては何もできないオーガへと容赦ない蟻酸が降り注ぐ。
「ぐ……ぐぐ」
肌の焼ける音と匂い、そしてそれ以上の痛みからくぐもった声を漏らす。
本能的に体を丸めて身を守った彼だが、地をも溶解する蟻酸だ。当然、ただでは済まない。そのまま蟻酸に吹き飛ばされるようにして地面へと背中から滑り落ちた。
――まだ……やる?
「……」
頭に直接響くアンコの問いかけに、オーガはわざわざ返事をしない
身体のいたるところから皮膚が焼かれ破れてしまった赤い肌から血が流れ落ちる。最も蟻酸を浴びた左の肩は一部肉がえぐれており、もう動かせないことが明白だった。それでも何事もなかったかのように立ち上がった彼は「ぐる」と喉を鳴らして、また走り出す。
これに狼狽えたのはアンコ。もうオーガが戦えないと考えたせいで、無防備だった。
一歩。彼我の距離が大きく詰まる。それでも一度吹き飛ばされたオーガとアンコの間合いは遠い。
また一歩。彼我の距離が半分になった。放たれた巨大な岩の槍を、オーガの大槌が粉砕する。
一歩。ついにオーガの間合いまであと僅か。また放たれた地面の爆発。
だがその前にオーガの本能が跳躍という選択肢を選んでいた。全力疾走からの跳躍に、爆発の勢いが乗りかかり、加速。ふと彼の眼前に突如として生まれた、オーガの前では紙切れでしかない薄い土の壁。それをそのまま突っ込んで破り、アンコの頭へと大槌を全力で振り下ろす。クィーンアントの全身を包む甲殻は硬く柔軟性もあり、斬撃に強い側面だけでなく、その艶やかさから殴打を滑らせて衝撃を和らげる一面ももつ。
そのことを本能的に理解しているアンコは、この一撃をあえて受けることで反撃に移ろうと考えて魔力を練るのだが、オーガの一撃はアンコが想定していた一撃ほどに軽くはなかった。
頭が揺られ、一瞬だが意識が遠のく。練っていた魔力が霧散して、無防備な姿をさらしてしまった。
渾身の一撃を放ったオーガは大地へと着地して、そのまま顎を跳ね上げるように下から上へと大槌を振り上げる。
――っ゛!?
アンコの体が一瞬だが、確かに浮いた。
理解が追いつかずに放心状態になってしまった隙を見逃さず、オーガはもう一度大槌を同じ箇所へと振り上げる。隙だらけの顎に大槌が突き刺さり、彼女の身を守っていた甲殻が割れた。殴られた衝撃でまた体が一瞬だけ浮くのだが、その痛みがアンコの意地に変換されて意識が復活する。
――このっ!
もう一度の大槌が完全にアンコの甲殻を突き破り、顎ごと体を跳ね上げた。身を守る甲殻がなくなったことでその衝撃を一身に受けて体が半回転。仰向けにひっくり返されることとなったのだが、アンコの意識は途切れていなかった。
腹によじ登り、もう一度大槌を振り上げていたオーガへと巨大な土の塊が四方から襲い掛かる。無視してしまえば一気に吹き飛ばされてしまうほどの質量をもった土塊を、オーガは粉砕して、弾き、時には避けて、その間隙を縫うように大槌をアンコの腹へと振り下ろす。
が、その前にオーガの体を、アンコの割れた顎が捉えた。
「なあっ!?」
驚愕のオーガを壁に叩きつけるように投げ飛ばして、アンコの土魔術と蟻酸がオーガを容赦なく襲う。
天井から岩の槍、地面から地柱が、そして真正面からは蟻酸が降り注ぎ、オーガの体を貫き、潰し、溶かしていく。
――ふぅー。
先ほどのようにまだ戦えるような傷など比較にもならない。決定的となりうるほどのダメージをアンコはオーガへと与えた。
それを意識したのか、大きな息を吐き出すが、今度はもう油断はしなかった。オーガの様子を見逃さないように睨みつけながら魔力をいつでも発動できるように高めていく。
そして――
――……うそ。
オーガがゆっくりと立ち上がったその姿に、魔術を撃ち込もうとして驚愕のあまりに魔力を霧散させた。
右足がない。左腕もない。胸には穴が開き、顔は左半分が焼かれており、目も映っていないはずだ。
それでも大槌を杖のように扱い、歩き出そうするオーガに、アンコは魔術を撃ち込むことも忘れてただ見入る。オーガが一歩を踏み出して、それが上手くいかずに体から地面へと倒れる。
「ふっ……ふっ……ふっ」
短い、浅い呼吸を繰り返すオーガは遂に自分の体が動かないことを悟り、それは即ち負けたということを悟った。
「っぶるあああぁぁぁぁぁ!」
それは一体、誰に向けての咆哮なのか。
咆哮として放たれたひたすらの怒りに、アンコが後退ったところで、オーガの体が徐々に消え始める。
――か、勝った
自身のダメージもさることながら、オーガの散り際に気圧されたアンコが体を地に伏せて安堵の息を零した。
「ふむ」
と。
どこかで一部始終を見ていたテンマがアンコの横を通り抜けて、荒ぶるオーガへと近寄っていく。
悔し気にテンマを睨みつけるオーガに「まずはアンコを倒せるほどに強くなってみるが良い。良い戦いだったぞ」と呟き、それを聞いたオーガが驚愕の表情を浮かべてそのまま消えていった。
「さて、大丈夫か? アンコよ」
――……別に。
戦闘が終わってすぐに自分ではなく、オーガへと声をかけたことがなんとなく気に入らないアンコがそっぽを向いて答えるのだが、テンマはそれを気にも留めずにアンコの側に立って頭をなでる。
「最後の時間。オーガに恐怖していたな?」
――っ……うん。怖かった。あんなにもボロボロで。それでも立って……あの姿勢はちょっと今の私には出来ない。
「うむ、そうだな。そう思えただけでも収穫だ」
――……うん。
少しばかり元気がない様子の娘へテンマが察してまた声をかける。
「あれは今のお前では不可能な境地だ」
テンマとて、このダンジョンの歴史をほとんど知らない。ひたすらに敗北を積み重ねてきた歴史、その表面だけを聞いて知っているだけだ。その間に積み重なられた歴史の全てがオーガの戦いには含まれている。
「お前にはお前の戦い方がある。真似をする必要はない。あれほど一戦一戦に命をかけて戦う相手には滅多に出会えない。これから先にそれほどの熱量を持った敵と出会うこともあるかもしれないことを考えると経験の少ないお前には最善の相手だ」
アンコの割れてしまっている顎がゆっくりと修復されるクィーンアントの生命力の強さを眺めながら、テンマは言葉を続けた。
「お前はオーガを相手に経験を積み、オーガはお前と戦うことで格上との経験を積む。良い関係を築くことが出来るだろう。経験が即ちお前の強さになる。励むが良いぞ。そうすればまだまだお前は強くなれる」
アンコの頭を撫でていた手が、その言葉を皮切りにポンと叩かれて離れていく。
ダンジョンの歴史、それ以上に重みを感じる父の言葉に、アンコは無言で小さく頷いた。
どことなく言葉を失ってしまったアンコへと、その気持ちを知ってか知らずか。テンマが笑みを浮かべた。
「ところで、一つ聞きたいことがあるのだが」
――……?
その笑みに、アンコは素直に首を傾げたのだった。