44.恋をするのも自由
そうして、私はようやく解放された。着せられた濡れ衣からも、虐げられた妻の座からも、私は自由になったのだ。
これでようやく、修道院に戻れる。退屈だけど愛おしい日常が私を待っている。
あの招待状が届き、フェルムの屋敷に戻ってからずっと、私は修道院に戻りたいと心から願い続けていた。ようやっと、その願いがかなうのだ。
けれど今は、そのことを素直に喜べない自分がいた。胸の中に、切なくなるような寂しさが居座っている。私はその理由に、ちゃんと気がついていた。
「ちょっと王宮まで行ってくるわ」
みなにそう告げて、別邸を出る。帰る前に、どうしても確認しておかなければならないことがあるのだ。みなは意味ありげな笑みを浮かべて、私を快く送り出してくれた。
ちょうど休憩をとっていたウォレスを見つけ、話があるといって連れ出す。誰にも邪魔されずに話をできる場所を探しているうちに、自然と足が大広間に向かっていた。あの夜、宴が催されていた大広間は、今は人影もなくがらんとしている。
足のおもむくまま階段を上り、二階のバルコニーに出る。私たちが初めて会った場所だ。こんなところまで来てしまうなんて、我ながら感傷的にもほどがある。そう思いながら、私は手すりにそっと触れ、彼のほうを見ずに口を開いた。
「私、そろそろ修道院に戻ろうと思うの」
彼はその言葉に目を見開く。気のせいか、最初にあった頃より彼は表情豊かになっているように思える。単に、私が彼の表情を読み取るのがうまくなっただけかもしれないが。
「修道院、ですか? 貴女はもうフェルム公爵とは離縁されたのですし、修道院に戻る必要はないと思うのですが」
「今はあそこが私の居場所なの。悪い意味じゃないわ。あの修道院こそが、私の帰る場所なのよ。気が置けない素敵な仲間たちがいる、大切な場所なの」
その言葉に偽りはなかった。王都を去るのが寂しいと思っていても、やはり私の帰る場所はあの修道院なのだ。
「だから、帰る前に一度あなたに会っておきたかったの。あなたがいてくれなかったら、今の私はなかったかもしれない。ありがとう、ウォレス」
「礼の言葉なら、既にいただきました」
「ふふ、そうね。でも、まだ感謝の気持ちを伝え足りないのよ」
静かに笑うともう一度彼から目を外し、下に広がる中庭を眺めた。あの夜、彼と並んで見た光景が脳裏によみがえる。
そのまま口を閉ざし、彼の言葉を待った。私は自分の気持ちをちゃんと理解しているし、彼の気持ちにも気づいている。私が胸の内の思いを告げれば、きっと彼はそれに答えてくれるだろう。
けれど私は黙ったままでいた。ちょうど、王宮の一室に軟禁されていたあの時と同じように。
あの時、私は自分の身を守るために沈黙を貫いていた。そして今も、私は自分の心を守るために黙り込んでいる。もし、私の思いに彼が答えてくれなかったらどうしようと、私はそれが怖かったのだ。万が一にも拒絶されてしまったら。そう思うと、どうにも勇気が出なかった。
私はあの修道院の取りまとめ役として、酸いも甘いもかみ分けた一人前の女性のように振る舞っていた。それが今ではどうだ、まるで初めて恋を知った小娘のようにおびえ震えている。自分がこんなに弱くて情けないなんて、思いもしなかった。
動かなければ、何も変わらない。変わらなければ、幸せはつかめない。今までヘレナたちにさんざん言い聞かせてきた言葉が、私の胸を無慈悲にえぐる。そんなことは分かりきっているのに、動けない。今の私にできるのは、ただ心の中で何者かに助けを求めることだけだった。
私の祈りが通じたのか、ウォレスがすぐ横にやってきた。あの夜と同じように並んで中庭を眺めながら、彼はゆっくりと口を開く。
「……貴女がいなくなってしまうと、寂しいですね」
その言葉に、すくんでいた私の心は一気に明るくなった。彼も私との別れを惜しんでくれている、たったそれだけのことを、私は嬉しいと感じていた。
「貴女さえ良ければ、なのですが……また、会ってはいただけませんか」
軟禁が解かれ王宮を出たあの日と同じ言葉を、彼はもう一度紡ぐ。あの時よりずっと切なげな声で、すがるような目で。
「貴女はもう自由です。誰のものでもありません。ならば、これから私が貴女と会ったとしてもとがめられることはない、そう思うのです」
「……あなたはどうして、私に会いたいと思っているの?」
分かりきった答えをわざわざ尋ねる。そんな駆け引きをしてしまっている自分が嫌になる。けれど彼は少しためらっただけで、すぐに言葉を返してきた。
「私は、貴女ともっと近づきたいと思っています。今だから白状しますが、私はフェルム公爵がうらやましかったのです。そして同時に、彼のことを憎いと思っていました」
彼の眉間にかすかにしわが寄る。彼は怒りをあらわにすることに慣れていないのか、その表情はどこかぎこちなかった。
「彼は貴女にもっとも近いところにいながら、貴女をないがしろにし、苦しめていた。濡れ衣まで着せて……私は法官として、そして一人の男として、彼を許せませんでした」
ウォレスはそろそろと手を伸ばし、バルコニーの手すりにかけられていた私の手を取った。私たちが触れ合うのは、これが初めてだった。
「私は貴女と共に、人生を歩んでいきたいのです。どうか、私を受け入れてはいただけないでしょうか。今すぐに、とは言いません。少しずつでも貴女と親交を深めていけたらと、そう思っています」
私の手が壊れ物であるかのように優しく包んでくれている彼の手から、心地よい温かさが伝わってくる。そのぬくもりに後押しされるように、私は微笑みながらうなずいた。
「はいこれ、王宮までよろしく頼むわ」
いつも通りの日常、そこに一つ新たな日課が加わった。私とウォレスは、毎日のように手紙をやり取りするようになったのだ。馬車では数日かかる道のりも、空をまっすぐに飛んでいける鳥なら一日もかからない。少しだけ、鳥がうらやましい。
今朝ウォレスから手紙を受け取った私は、すぐに返事を書きあげて修道院の塔を上っていた。いそいそと伝書士のもとを訪ね、手紙を差し出す。
「おや、今朝手紙が届いたばかりなのに、もう返事かい。お熱いねえ、まったく」
伝書士がにやりと笑う。明らかに冷やかしている彼女に、私は満面の笑みで答えた。きっと、私はとても幸せそうに見えているだろう。
「ええ。だってこの修道院はとても自由な、女たちの楽園でしょう? だから」
そこで言葉を切り、胸に手を当てる。胸の内にあふれる幸せを留めるように。
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