39.久しぶりの自由
ヘレナがここを訪ねてきてからしばらく経ったある日、いつになく軽い足取りでウォレスがやってきた。いつも無表情な彼の目に、柔らかな光がともっている。
何かいいことがあったのだろうかと尋ねるより先に、彼が口を開いた。
「貴女の疑いはほぼ晴れました。こちらから出ても良いと、許可が出ました」
「その口ぶりだと、どうやら王都から出る訳にはいかないようね?」
「はい、お察しの通りです。あの場で貴女が毒を入れることはできなかったという証言が集まり、ひとまず貴女は第一の容疑者から外れました。しかしこの事件そのものは解決していませんので、しばらくはすぐに連絡のつくところにいてください」
「分かったわ、ウォレス。……軟禁されている間、色々と良くしてくれてありがとう」
可能な限り穏やかに、そして優しく微笑みかける。きっと彼はいつものように頬を染めるのだろうと思ったが、予想は外れた。彼はひどく切なげな顔になると、ついと顔を横に向けたのだ。
「いえ、私にはあの程度のことしかできなかったのです。感謝されるほどのことはしていませんので、礼は無用です」
「謙遜しなくていいのに。ねえウォレス、あなたに何かお礼をしたいのだけど、希望はあるかしら?」
自分の口からするりと飛び出た言葉に、自分で驚いた。彼には感謝しているが、わざわざ礼をしようだなんて。まるで私が、礼にかこつけて彼にまた会いたがっているようではないか。
けれど彼は私の動揺には気づいていないのか、ゆっくりとこちらに目を向けた。薄い青色の優しい目が、まっすぐに私を見つめている。ほんの少しだけ、体が熱くなったような気がした。
「礼など……いえ、もし可能であれば……また、会いにきてくれませんか。何かのついでにでも」
「お安い御用よ」
そう答えながら、私は久しぶりにひどく心が浮き立っているのを感じていた。また彼に会える、また彼と話せる。それも、周囲に気兼ねせずに。
たったそれだけのことが、とても幸せなことのように思えた。自分が小娘のようにはしゃいでしまっていることを自覚しながら、表情だけは余裕の笑みを浮かべてみせた。
珍しいことに、ウォレスもはっきりとした笑顔で私に答えてくれた。その笑顔に見とれそうになりながらも、どうにか平然とした様子をよそおう。
「ありがとうございます。貴女の疑惑が完全に晴れるよう、私も手を尽くしますので。それでは、行きましょうか。お迎えの方が来ておられます」
ウォレスと並んで部屋を出た。彼が私のカバンを持ってくれている、たったそれだけのことが、とても嬉しく思えていた。こんなささいなことで喜びを感じるとは、いよいよ私もどうかしてしまったらしい。
部屋の外には安堵の笑みを浮かべたヘレナが、ロディと二人で立っていた。
「おかえりなさい、ミランダさん」
「ありがとう、ヘレナ。それにロディも」
「いえ、俺はみなさんの手伝いをしていただけですから」
ロディといいウォレスといい、どうしてこうも謙遜したがるのだろうか。オーガストのように傲慢に振る舞うよりも、ずっとずっとこちらの方が素敵だというのに。
私は二人と共に、迎えの馬車へと歩いていった。そしてウォレスに見送られ、王宮を後にしたのだった。
王宮を出られることになったものの、王都からは出られない。フェルムの屋敷には絶対に戻りたくない。そう主張した私を、ヘレナは快く別邸に招き入れてくれた。
彼女の別邸まで馬車に揺られながら、彼女はそれは嬉しそうに笑っていた。隣のロディも幸せそうで、見ているこちらまで心が温かくなる。この二人を結びつけることができて、本当に良かった。
ヘレナが以前よりもずっと穏やかな微笑みをこちらに向け、口を開いた。
「ミランダさんをお招きできて嬉しいです。部屋はまだありますし、修道院のみなさまも来ているのでにぎやかで楽しいですよ」
「あら、みんな来てるの。じっとしていられないだろうとは思ってたけど、あなたたちと一緒にいるなんて予想してなかったわ」
「私の方から申し出たんです。王都に来られるのなら、私の別邸を拠点としてくださいって。交渉ごとに長けた精鋭十人に、アイリーンとシャーリーが来てくれたんですよ。それと、ドロシーとグレースもいるんです」
ヘレナが楽しそうに挙げていく名前を聞いていると、胸にこみあげてくるものがあった。これだけの人間が、私の危機にかけつけてくれたのだ。
「……一人じゃないって、いいことね」
しみじみとつぶやいた私の声にはわずかに涙がにじんでいたが、ヘレナとロディはそれを指摘しないでいてくれた。
「ミランダさん、ああ、本当にミランダさんだ!」
「おかえりなさい、ミランダ」
「大変な目にあったわねえ」
ヘレナの別邸についたとたん、待ち構えていたみなが一斉に飛び掛かってきた。もちろんみなには私に危害を加えるつもりなどこれっぽっちもない筈だが、それでも思わず身の危険を感じずにはいられないほどの勢いだった。
あっという間にみなに幾重にも抱きしめられてしまった私は、その重みと温かさに安堵しつつも、照れくささをごまかすように苦笑していた。
「ありがとう、みんな。でも、また全部終わった訳じゃないのだから、気を緩めるにはまだ早いわよ」
そんな風にたしなめたところで、みなの喜びは少しも変わることがなかった。いつものように大はしゃぎで、私を抱きしめている。
「良かったです……このままミランダさんが戻ってこなかったらどうしようって、私ずっと心配で」
人の壁をかき分けるようにして近づいてきたグレースが、しっかりとしがみついてくる。初めて会った時はあんなに礼儀正しく取り澄ましていたのが嘘のように、彼女は表情豊かに泣きじゃくっていた。
少し離れたところでは、ドロシーがアイリーンと手を取り合って大喜びしている。彼女の顔には、もう暗い影はなかった。
かつて私たちが面白がりながら救った彼女たちが、今度は私を助けてくれた。まったく、何が起こるか分かったものではない。これだから、人生は面白い。
そんな風に茶化すことで、浮かんでくる涙をどうにかこらえる。もうみんな笑い泣きに忙しくしているし、私が少しばかり泣いたところで誰も気にしないだろう。だからこれは、私のちっぽけなこだわりでしかなかった。
私はあの修道院の取りまとめ役で、一応は院長だ。自由気ままに騒ぐみなを、頃合いを見て落ち着かせるのは私の役目なのだ。
「ほら、みんなそろそろ離してちょうだい。私は軟禁を解かれたのだし、ゆっくり話す時間ならあるのだから」
並んでこちらを見ている笑顔を見渡しながら、私はいつも通りの笑顔を浮かべてみせた。
その日の夕食は、久しぶりにとてもにぎやかなものになった。ヘレナは大急ぎでこの別邸に移ってきたらしく、ここには最低限の使用人しかいない。だから、食事の支度は自分たちでこなしていたようだ。
ヘレナまで加わってみなで楽しげに料理をしている様は、私にあの修道院の日々を強く思い起こさせた。その後の食事の風景も、同じだった。
先ほどは気を緩めるなとみなに言ったものの、私はすっかり安心しきっていた。みなで力を合わせれば何も怖くないと思えたし、ウォレスも私のために動いてくれている。きっと、万事うまくいく筈だ。
そんな私の予想をちょっとばかり裏切るような事件が起こったのは、その日の夜中のことだった。
深夜、みなが寝静まった頃。男の叫び声が突然夜闇をつんざいた。




