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30.陰謀の始まり

 私は気分が良かった。久しぶりに大伯父である王と話すことができたし、先ほど知り合ったウォレスは気持ちのいい男性だった。そしてバルコニーから見下ろす中庭には、驚くほど幻想的な風景が広がっている。ずっと夫を警戒していたことも忘れ、私はこの夢のような夜に酔いしれていた。


 今夜は一人で花火を見て、そうして明日の朝一番に修道院に戻ろう。みなの待つあの懐かしい場所に。そうして夫のことなど、もうきっぱりと忘れてしまおう。そう決意すると、自然と笑みが浮かんできた。


 しかしその甘やかな酔いは長く続かなかった。ふと大広間のほうを見ると、黒豚がのっしのっしと階段を上がってくるのが目に入ってしまったのだ。


 だらしなく太った黒豚は、たったそれだけの動きでもう息が上がってしまっている。動くのがおっくうだというのなら、おとなしく下で待っていて欲しかった。


 ずいぶんと時間をかけて二階に上がってきた黒豚ことオーガストは、息を整えながらこちらに近づいてくる。彼の右手には、半ばほどまでワインの注がれたグラスがしっかりと握られていた。


 彼は私の姿に気づくと、たっぷりと肉のついた顔をわずかにゆがめた。たぶん、笑っているのだろう。


「ここにいたのか、ミランダ」


「申し訳ありません。少し人込みに酔ってしまったので」


 そう答えた自分の声はどうしようもなく冷たいものだったが、オーガストの上機嫌そうな笑顔は変わることがなかった。やっぱり不気味だ。そして、どこか不吉だ。


「まあいい、もうすぐ花火が上がる。せっかくだ、一緒に見ようではないか。そう思って、お前を探していたのだ」


 今まで、夫にこんな優しい言葉をかけられたことはない。つい先ほどまで甘い夢に酔っていた私は、まるで冷や水を浴びせられたかのように身震いした。まだ油断するには早い、十分に警戒しろ、そんな自分の声が頭の中で鳴り響いた。


 きっと私はとても鋭い目になっていただろう。夜の闇に表情を隠しながら、私は手すりに近づいていく夫の後を追った。数歩下がって、静かな足取りで。


 彼が手すりにたどり着いたちょうどその時、花火が上がった。夜空に咲く大輪の花に、みなが目を奪われる。小さな感嘆の声があちこちから漏れた。


 花火に目をやりながら、オーガストが手にしたグラスに口をつける。次の瞬間、彼は目を極限まで見開いた。苦しげに喉を押さえ、こちらを向く。非難するようなそのまなざしに思わずたじろぐと、彼は野太い叫び声を上げながら床に崩れ落ちた。






 石の床に両膝をつき、獣のように叫びながらのたうち回るオーガスト。あまりに急なその変わりように、私はただ目を丸くして見ているしかできなかった。


 彼が上げる叫び声に、周囲の人たちが困惑しながらこちらに目を向けている。花火の大きな音ですら、彼の叫び声をかき消すことはできなかった。バルコニーにいる人間は、もう誰も花火を見ていない。


 私が我に返るより先に、彼に駆け寄る者があった。貧相な中年男性だ。その顔をどこかで見たような気がするが、気が動転していてうまく思い出せない。


 その男性は体を二つに折って苦しんでいるオーガストの横にひざまずき、背中に手をかけて軽く揺さぶった。


「大丈夫ですか、オーガスト殿!」


 オーガストはうめき声で答える。男性は真剣そのものの顔で周囲を見渡し、すぐ近くの床に置かれたワイングラスに目を留めた。おそるおそるグラスを手に取り、ワインの臭いをかぐ。男性の目が、驚きに見開かれた。


「ああ、この臭いは間違いなくキチトの毒! 貴殿は毒を盛られたのですな!」


 どこか芝居がかったような大きな声で、男性が叫ぶ。周囲の人たちが恐れをなしてじりじりと後ずさる。どこかで女性が小さな悲鳴を上げていた。みなこちらを見ているが、どうしていいか分からずに様子をうかがっているようだった。


「早く、誰か医者を! それと衛兵を呼んでくれ!」


 誰もが戸惑うしかできなかったこの場で、ただ一人この男性だけが冷静なように見えた。彼は周囲の人たちに、次々と指示を飛ばしている。その声に後押しされたのか、誰かが弾かれたようにバルコニーを出ていくのが見えた。


 すぐに血相を変えた医者が、衛兵に守られるようにして駆けつけてくる。彼らがてきぱきとオーガストの手当てをしている間も、私は動けずにいた。呆然と立ち尽くしたまま、目の前の状況を必死に理解しようと鈍った頭を働かせる。


 夫は何か企んでいるように見えた。きっと、私の身に何か起こるのだろうと思っていた。けれど現実に危機が迫ったのは、オーガストの方だった。こんなことになるなんて、これっぽっちも予想していなかった。


 私は彼の妻として、彼に駆け寄り介抱するべきなのだろう。けれどどうしても、足が動かなかった。私と彼の距離は数歩ほどしかないが、その数歩の距離がとても遠いものに思えていた。


 まだオーガストを介抱し続けていたあの男性が、医者や衛兵と何か話している。周囲の音はひどくひずんで、何を話しているのかまともに聞き取ることはできなかった。


 しっかりしなさい、と自分に言い聞かせる。オーガストは何者かに毒を盛られた。何者かの悪意が、すぐ近くで渦巻いている。これから何が起こるか分からないのだから、今はしっかりと目を開き、耳を澄ませなくてはいけない。ぼうっとしている暇など、これっぽっちもないのだ。


 ここに修道院のみながいてくれたら。あの気ままで陽気な、それでいて的確なお喋りは、いつも私に色々なことを気づかせてくれた。乱雑に散らかったままの情報も、みなで話し合うことでどんどん整理されていった。出口が見つからないような状況も、みなで力を合わせれば解決できた。


 でも今、私はここで独りぼっち。


 悔しさに奥歯をかみしめた時、頭の中でアイリーンの声がした。みんな一緒だから、大丈夫。修道院を発つ前に、彼女はそう言って私を励ましてくれた。


 その声が、私を思考の迷宮から現実へと引き戻してくれた。そうだ、私はあの修道院に集う女たちを取りまとめるミランダなのだ。たかだか夫が毒殺されかけたという程度のことで、取り乱してどうする。


 やっとのことでいつもの調子を取り戻し、きぜんとした態度で顔を上げる。しかしそんな私を、険しい顔の衛兵が取り囲み始めていた。

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