29.ささやかな出会い
バルコニーからは中庭全体が一望できた。着飾った人々がそこをそぞろ歩いているさまは、水面に浮かぶ色とりどりの花びらを思わせた。顔を上げると、今度は満天の星空が目に入ってくる。
王宮のあちこちにともされた明かりと相まって、どこまでが空でどこからが地面なのか分からなくなりそうな、とても幻想的な眺めだった。
大広間の二階をぐるりと取り囲むように設けられたこのバルコニーはとても広く、まばらに人影が見えていた。私と同じように人込みを避けてきた者がいるのだろう。
心地よい夜風に吹かれながら、階下のざわめきをのんびりと聞き流していた。宴が終わるまでここでゆっくりするのも悪くないかもしれない。王と会うこともできたし、もう私がここにいる必要もない。
そう思っていたのだが、じきに自分の考え違いに気がついた。バルコニーにいる人たちは、ただ人込みを避けてきたのではなかった。人気の少ないここにやってきて、男女で親しく語り合う……要するに、ここは逢瀬の場所になっているようだった。
この宴は一応無礼講ということになっているし、よほど羽目を外さなければとがめられることもないだろう。声をひそめて幸せそうに話している恋人たちの姿は、私の目にも微笑ましく映った。
せっかくいい避難場所を見つけたと思ったのに、どうもここでは私は場違いのようだった。どこかよそに移動した方がいいだろうかと思い始めた時、いきなり後ろから声をかけられた。
「……こちら、落とされましたよ」
振り向くと、私と同年代の男性が私のハンカチーフを手に立っていた。比較的質素な身なりと生真面目な態度は、辺り一帯にひしめいている貴族たちとは異なっていた。
彼はぴしりと音がしそうなほど姿勢よく立ち、礼儀正しい笑みのようなものをほんのわずかに浮かべていた。少々風変わりな人物のようにも思えたが、彼の態度は決して不快なものではなかった。
「あら、本当ですわね。拾っていただいて、ありがとうございます」
柔らかく笑いかけて、彼の手からハンカチーフを受け取る。用が済んだ筈の彼はなぜか立ち去ろうとはせず、何か言いたげに視線をさまよわせている。しばらくして、彼は小さく頭を下げながらゆっくりと口を開いた。
「……私はウォレスと申します。この王宮で、法官を務めております。どうぞ、お見知りおきを」
女性と口を利くこと自体に不慣れなのか、低くかすれた声で話すウォレスの口調はどことなくたどたどしかった。修道院のみなの中にはこういう男性が好みの者も多かったな、などと関係のないことを思い出しつつ、ドレスのすそをつまんで礼をする。
「私はミランダよ、どうぞよろしく」
彼は私がフェルム公爵夫人だと知っているかもしれない。けれど私は、どうしてもその名は名乗りたくなかった。それが子供じみた抵抗でしかないと、分かってはいたけれど。
私が名前だけを名乗ったことを気にも留めていないのか、ウォレスはバルコニーの柵の手すり越しに見える中庭に目をやった。中庭の明かりを受けて、彼の横顔が温かな炎の色にほんのりと染まる。
「……ミランダ様は、あちらへはいかれないのでしょうか。この宴の中心は、あの中庭ですが」
「こうして見ているだけで十分よ。下は少し人が多すぎて、それだけで酔ってしまいそうだから」
「奇遇ですね。私もです。にぎやかなものを見ていると心躍りますが、その騒動の中に入るのはためらわれてしまいます」
ウォレスはあまり感情が表に出ないたちなのか、淡々と話している。だがそれでも冷たそうに聞こえないのは、その声にこもった優しい響きのせいだろうか。
法官のウォレス、その名には聞き覚えがあった。彼は平民出身ながら、若くして異例の大出世を遂げた有能な官吏だ。修道院のみなが手当たり次第に集めていた情報の中には彼の名もあった。だから、彼の人となりについてもそれなりには知っている。
彼はその有能さとは裏腹に私生活は質素なもので、おまけに令嬢たちの誘惑にも全くなびかない。いい年をして独り身であることと相まって、彼をよく思わない者たちは陰で彼のことを朴念仁だの冷血漢だのと噂しているようだった。
しかし実際に会った彼は、無表情で物静かな、けれど好感の持てるごく普通の人物だった。
「おや、新しい手品が始まったようです」
中庭を見ていたウォレスが、わずかばかりの驚きを声に込める。つられて彼が見ている方に目をやると、一人の手妻使いがひらひらと舞っているのが見えた。その動きに合わせて、色とりどりの紙吹雪がどこからともなく現れて、辺りに美しく舞い散っていく。
「まあ、素敵……」
思わずそんな声を漏らすと、彼が笑った気配がした。そっと横目でそちらを見ると、彼はその涼しげな顔に、とても優しげな笑みを浮かべていた。しかし私の目線に気づいたのか、彼はすぐにその笑みを引っ込め、元通りの無表情に戻ってしまう。そのことがほんの少しだけ残念に思えた。
「そうですね。私はこの宴に出席するのは初めてですが、話に聞いていた以上に華やかで幻想的な眺めですね」
「ええ。毎回趣向が変わるから、何度出席しても飽きないのよ」
ついそんなことを答えてしまっていた。若干得意げに聞こえてしまったかもしれないと焦りながら彼の様子をうかがうと、幸い彼はまったく気にしていないようで、感心しながら中庭の方を見つめ続けていた。
「……宴の最後には、盛大に花火が上がるの。よければ一緒に見ていきません?」
彼を誘ったのには深い意味はない。ただ何となく、一緒に花火を見ることができればきっと楽しいだろうと思っただけなのだ。自分が一応は夫のある身であることなど、きれいに忘れてしまっていた。ずっと夫のことを警戒し続けていたせいで、少し疲れていたのかもしれない。あるいは、気が緩んでいたのかも。
けれど彼は悲しげに目を細め、ゆっくりと首を横に振った。きっと無表情のまま断られると思った私は、彼が表情を変えたことに驚かされる。
「申し訳ありません。この後すぐに、用事があるのです。私は宴の諸事にまつわる管理に関わっておりますので。……せっかくのお誘いを断るしかできないのは、とても残念です」
「気にしないで。仕事だというのなら、仕方ないわ」
「お気遣い、ありがとうございます。……それでは」
そう言うと、ウォレスは滑るような動きでバルコニーから去っていってしまった。後にただ一人取り残された私は、少し寂しいような気分になりながら、バルコニーの手すりにもたれて中庭を眺める。
相変わらずこのバルコニーには若い恋人たちがたくさんいるが、なぜかもうそのことは気にならなくなっていた。ウォレスが見せた優しい笑顔を思い出しながら目の前の幻想的な風景を眺める。たったそれだけのことが、とても贅沢なことのように思えていた。




