28.王の誕生日
私がフェルムの屋敷に戻ってから三日が経ち、とうとう宴の当日となってしまった。
その間、夫もエヴァも怪しげな動きをすることはなかった。私は怪しまれないように注意しながら可能な限りの情報を集めたが、特に目を引くものはなかったし、彼らが不審な動きをすることもなかった。
こうなってしまったからには、もう覚悟して宴に出るしかない。ここを乗り切れば、堂々と修道院に戻れる。こんな吐き気のする場所からは、一刻も早く立ち去りたい。
私はまるで頑丈な鎧を身に着けるかのような心持ちで豪華なドレスをまとい、単身戦場に出るような覚悟を決めて屋敷を発った。
夫と二人で馬車に乗り込む私を、エヴァが一見したところしおらしく見えなくもない顔で見送ってくれた。彼女のスカートにへばりついたジョンは、やはりこちらと目を合わせようとはしなかった。
今日は王の誕生日を祝う宴だ。王はもう老齢だというのに驚くほど元気で、お祭り騒ぎが大好きな子供のような男性だ。五年に一度、彼は盛大に誕生日を祝ってもらうことにしている。
できることなら毎年大騒ぎしたいんじゃが、それだと国庫を圧迫するからのう、と王が悔しそうにしていたのをよく覚えている。
実は、王は私の母方の大伯父なのだ。その縁もあって、私は昔から王に可愛がってもらっていた。私の実家は王都から離れていたが、私は子供の頃からよく泊まりがけで王のもとを訪ねていたものだ。
八年前、私が結婚することになった時、王はそれは喜んでくれたものだ。あの小さなミランダが花嫁になるとはのう、と言いながら、彼は深いしわに覆われた顔をくしゃくしゃにしていた。
六年前、私が不義の疑いをかけられた時、王は私を信じてくれた。できることならお前の無実を証明してやりたかった、わしが王でさえなければ、お前のために存分に動くことができたというのに。そう言って、王はひどく悲しそうに私の手を取った。その気持ちがとても嬉しかったのを、昨日のことのように覚えている。
そして五年前、王の誕生日を祝う招待状は私のもとには届かなかった。王が気を遣ってくれたのか、夫が握りつぶしたのか、その辺りは分からない。その頃の私にはまだこちらに戻ってくるだけの覚悟はなかったので、取り立てて気にせずにいた。
夫が今回の宴にかこつけて私を呼び出したのは、彼が何か良からぬことをたくらんでいるからなのかもしれない。そんな懸念は拭えなかったが、久しぶりに王に会えると思うと心が浮き立つのを感じていた。
王宮の大広間と、そこに隣接する中庭。今日の宴は、そこを丸ごと会場として華やかに繰り広げられる。楽しいことが大好きな王の意向により、珍しい楽器を抱えた楽士や華やかな衣装をまとった舞い手、様々な手品を繰り出す手妻使いなどが呼ばれていて、とてもにぎやかだった。
夕方過ぎに私たちがそこに到着した時、既に会場は華やかに着飾った人々であふれていて、祭りのような熱気にあふれていた。
「さあ、行くぞ。まずは陛下にあいさつをしなければな」
やはり気持ち悪い笑みを浮かべたオーガストが、慣れた動きで私に手を差し伸べる。私は思わず尻込みしそうになったが、覚悟を決めて彼の手を取った。
汚物を掃除している時の方がまだ清々しい気分だ。そう言い切れるくらい、私は今の状況に嫌悪感しか覚えなかった。私を裏切って陥れた男に、手を引かれて歩く。まったくもって屈辱だ。こいつにしてやられてからの様々な思いが、一気によみがえってくる。
あの修道院に送られてからずっと、私は自分の過去から目をそむけてきた。最初の頃は、裏切られたという事実から心を守るためだった。
けれど次第に心の傷も癒えてきて、愉快で頼れる仲間たちもたくさんできた。その気になれば、私はみなの力を借りて過去にけりをつけることもできただろう。
だが、私はそうしなかった。やはり心のどこかで、夫と立ち向かうことに恐怖があったのかもしれない。夫に裏切られたと知った時の絶望を、思い出したくなかったのかもしれない。
だから私は、修道院での平和な生活にのめりこんでいた。どうせ夫が私を呼び戻そうとすることなどないのだから、ずっと私はここにいるのだからとたかをくくっていた。それが問題の先送りに過ぎないと、心のどこかで気づいていながら。
ああ、こんなことになるのなら、どうにかしてしっかりとこいつとの縁を切っておくのだった。
心の底から後悔しながらも、私は不快感をかけらほども顔に出すことなく、貴婦人らしくしとやかな歩みで王のもとに向かっていた。小さい頃からしっかりとしつけてくれた両親に感謝しながら。
正装をまとった人々が集う中を、鎧姿の騎士たちが固まって移動している。その真ん中に、王がいる筈だ。五年に一度のこの盛大な宴の主役である王は、じっとしていたら面白くないじゃろう、などと言いながら、こうやって会場の中をふらふらしているのだ。
王のこんな自由な振る舞いのせいで、警備担当の大臣は宴のたびに胃薬が手放せなくなっている。前にそのことを王に教えたところ、王は大臣にとびっきり良く効く胃薬を差し入れていた。違う、そうじゃない、と言いたくなったことを今でもよく覚えている。
久しぶりに会う王は、前と変わりなく元気そうだった。そのことに安堵していると、王の方から声をかけてきた。
「おおミランダ、会いたかったぞ!」
そう叫ぶなり驚くほど機敏に騎士の囲みを突破してきた王は、大喜びで私の両手を握って飛び跳ねんばかりにしている。しわしわで温かいこの手が、私は子供のころから大好きだった。
「伯父様、騎士たちをまいてしまっては駄目でしょう。伯父様に何かあったら、彼らが責任を取らされてしまいますのよ」
そう口ではたしなめたが、私は笑顔になるのを止められなかった。柔らかく微笑みながら、ゆっくりと頭を下げた。
「お久しぶりです、伯父様。息災のようでなによりですわ」
「お主こそ元気そうじゃの。……ああ、本当に良かった」
私は表向き、病に伏していることになっている。修道院のことはここで口にするべきではない。お互いにそれは承知していたから、自然と言葉は限られてくる。
だが、私に向けられた王の目はとても優しく、何も語らずとも私のことを思いやってくれていることはひしひしと伝わってきた。私も感謝の意を込めて、もう一度微笑みかえす。
そうして見つめあっている私たちの間に、黒豚が割って入ってきた。
「陛下、本日もご機嫌麗しゅう」
「ん、オーガストか」
邪魔するなとばかりに王がオーガストをにらみつけている。そのあまりにぞんざいな口調からも、王が彼のことを良く思っていないことは明らかだった。
といっても王という立場ゆえに、彼がそのことをはっきりと口にすることはない。一応は何の落ち度もないことになっている公爵を王が罵倒したとなれば、色々と問題になってしまうのだ。
それもこれも、オーガストの手際の良さのせいだった。彼は私に不義という濡れ衣を着せた時、それはもう用意周到に証拠をでっちあげていたのだった。あの時の私は、あの証拠が偽物だと主張できるだけの強さも情報も持っていなかった。かえすがえすも口惜しい。
渋い顔をした王とオーガストが話し込んでいるのを尻目に、私は二人に会釈してその場を離れた。王にあいさつするという目的は果たしたのだし、これ以上オーガストのそばにいたくはない。
私は人込みを避けるようにして、大広間にある大階段に向かった。そのまま階段を上り、二階のバルコニーに足を運ぶ。もう日は落ちていて、一面の星空が私を出迎えてくれた。




