15.(これは夢?)
ミランダさんに勇気づけられた私は、予定を少し前倒しして修道院を去りました。そして大急ぎで、ケネス様のもとを訪ねたのです。
「ケネス様、ごぶさたしておりました」
「やあグレース、久しぶりだね」
そういって微笑みかけてくるケネス様は今日も素敵でした。すらりとした手足、力強くも優美なたたずまい、黒目がちの優しい目はきらきらと輝いています。線が細すぎず、かといって武骨でもない。白馬に乗ったならきっとこの上なく人目を引くであろう彼の姿は、貴公子と呼ぶにふさわしくとても優雅なものでした。
私は口元に浮かびそうになる微笑みを隠し……そうになったところで、ミランダさんの教えを思い出しました。淑女の仮面をちょっとだけ外してみなさい、というあの言葉を。
目の前にいるのはケネス様ではなくミランダさん。そう自分に言い聞かせると、驚くほど自然に笑顔が浮かびました。ケネス様の目が、驚きに見開かれます。
「気のせいかな、少し雰囲気が変わったように思えるのだが……」
「はい、ケネス様のために、頑張りましたから」
何をどう頑張ったのかは言えません。けれど、ケネス様のことを思って必死に努力したことに違いはありません。
「そうか。やはり君の笑顔は可愛らしいな。女性は笑顔が一番だよ」
ああ、ケネス様が喜んでくださった。それだけで、私は天にも昇る心地でした。ありがとう、ミランダさん。ありがとう、修道院のみなさま。
心の中で深く感謝を捧げながら、私はケネス様と話し続けました。
ケネス様は私の変化を喜んでくださって、私たちの距離はぐんと近づきました。修道院のみなさまに教わった、殿方の気を引くための手練手管の数々も、それはもう不気味なほど役に立ちました。
修道院のみなさまは「男なんてみんな同じ、単純なものよ」とおっしゃっておられましたが、確かにそうなのかもしれないと、少しだけそう思ってしまいました。いえ、単純でもケネス様が素敵なことに変わりはありませんが。
ただ、私は心のどこかで、何か満たされないものを感じていたのです。
ケネス様が他の令嬢の誘いに乗ることはなくなっていました。そもそも、令嬢たちからの誘いが極端に減っていたのです。
まさか、「ケネス様はかなりの甘ったれで、婚約者と二人きりの時は幼い子供のように甘えている」などという微妙な噂が効を奏するなんて、思ってもみませんでした。多くの令嬢は、その噂でケネス様に少々幻滅してくれたようです。
そうやってケネス様を独占できたのは嬉しいのですが、彼の方は普段となんら変わることがありませんでした。他の令嬢たちと接していた時と同じように、私に対しても礼儀正しい親しさしか見せてくれませんでした。
それを不満に思うなんて、私もわがままになったものです。そう思いながらも、私は胸の中に吹くすきま風を、止めることができませんでした。
そんなある日、修道院から手紙が届きました。期日を指定して、その日にケネス様を私の屋敷に招待するよう書かれていました。その日にこちらから人を送るから、その人物に会ってくれ、とも。
訳が分からないながらも、私は指示に従うことにしました。今のこの幸せがあるのは修道院のみなさまのおかげです。彼女たちの考えに、間違いはない筈です。
そうして当日、私はやってきた人物を見て目を見開くことになったのです。
「やあグレース、君に会えて嬉しいよ」
そう優雅に微笑みかけてきたのは、誰あろうミランダさんでした。けれど彼女がまとっていたのはいつもの質素な修道服ではなく、華麗な男物の略装でした。声も低く改めた彼女は、どこからどう見ても貴族の令息のようにしか見えませんでした。それも、とても魅力的な。
実のところ、私はミランダさんのことをとても素敵な方だと思っていました。私は女性に焦がれるような趣味はありませんが、そんなことを超越するような魅力が、あの方にはありました。
そんなミランダさんが男装していきなり現れたのです。さすがの私も驚きのあまりにぽかんとするほかありませんでした。いえ、正直に言うと、彼女にうっとりと見とれてしまっていました。
呆けたままの私の手をうやうやしく取ると、ミランダさんはそのまま一歩こちらに近づいてきました。ちょうどそこにやってきたケネス様に見せつけているように感じられたのは、私の気のせいだったのでしょうか。
「グレース、彼が君の言っていた客人かな?」
ケネス様はどこか不機嫌そうにそう言います。その爽やかな顔も、ほんのわずかに曇っているように見えました。
「貴方がケネス様ですね。僕はミラ、グレースの親しい友人です」
ミランダさんが動じることなくそう言ってのけました。私の手をしっかりと、とても優しく握ったまま。
「貴方がたが婚約したことは知っていたのですが、忙しくて中々お祝いを言いにくることができず……おめでとう、グレース」
すぐ近くでこちらを見ているミランダさんの目には、とろりとした甘さがたっぷりと浮かんでいました。私は彼女が女性だと知っているのでたぶん問題はありませんが、これではケネス様に勘違いされてしまいます。
思わず身をよじって彼女から離れようとしたところ、逆にしっかりと肩をつかまれてしまいました。ミランダさんはうっとりと私を見つめ、切なそうにため息を漏らしています。
「今だから言うけれど、僕は君に婚約を申し込みたいと思っていたんだ。けれど今の君は、とても幸せそうに見える。こんなに綺麗になるなんて……」
ミランダさんがつむぐ甘い言葉に、私はケネス様がこちらを見ていることも忘れて、また彼女に見とれてしまいました。彼女が口にしている内容がおかしなものであることも、まったく気にならないほどに。
けれど私たちが見つめ合っていたのはほんの一瞬のことでした。ケネス様が普段の優雅な態度からは想像もつかないほど荒々しく私たちの間に割って入り、私の腰を抱き寄せたのです。
今までにない密着の度合いに動転していると、ケネス様はさらにしっかりと私を抱きしめ、まっすぐにミランダさんをにらみつけました。
「ミラ殿、君が彼女の友人だというのなら、節度を守ってくれないか。彼女は私の婚約者だ、なれなれしくしないでもらいたい!」
ケネス様が取り乱している、私を思って。その事実は、どうしようもなく私の胸をときめかせました。
「……実は、貴方が他の令嬢と過度に親しくしているという噂を小耳に挟んだのです。僕の大切なグレースが悲しんでいるのではないかと思って、こうして様子を見にきました」
ミランダさんが一際声を低くしてそう言うと、ケネス様はぎくりとしたようでした。しかしすぐに気を取り直したのか、自信に満ちた声で言い返しました。
「……確かに、かつての私は女性たちと仲睦まじくしていた。だが今は違う。今の私は、グレースを愛しているのだ。彼女を悲しませたりしないと、ここに誓おう。だから君はもう、彼女に近づかないでくれたまえ」
ああ、これは夢でしょうか。ケネス様が私を抱きしめて、愛していると言ってくれている。こんな幸せな夢なら、もう覚めないで。
思わずケネス様にすがる私に、ミランダさんがいたずらっぽく笑いかけてきます。彼女は何も言いませんでしたが、その目は「もう大丈夫ね」と言っているように思えました。




