4.友情と愛情、そして決意
それから数日の間、私たちは何事もなかったかのようにほぼ普段通りの暮らしを続けていた。ドロシーは不慣れな生活に戸惑っていたが、それ以上に驚きの方が大きいようだった。目を真ん丸に見開いたままきょろきょろしている様は、子リスのようで可愛らしく、私たちの心を日々和ませていた。
彼女が驚くのも無理はない。私たちの暮らしぶりは、普通の人間が想像する修道院の姿とはまるで違うのだから。といっても、私もよその修道院のことはよく知らないし、もしかしたらよそはよそで同じように楽しくやっているのかもしれないが。
それでも、私たちは普段よりはほんの少しだけつつしみ深く振る舞っていた。いつも新入りが来てからしばらくの間は、おとなしくして様子を見ることにしているのだ。新入りがどんな人間なのかを見極める前に、手の内を全て明かすのは危険だからだ。別にドロシーのことを危険だなどとはこれっぽっちも思っていないけれど、万が一ということもある。
だから、朝の礼拝の後の報告会もしばらくはお休みだ。けれどみなの顔に不満はなかった。今はもっと面白く、もっとわくわくする作戦に手をつけているのだから。
私は修道院の中をぶらぶらと歩きながら、出くわした相手と気軽なお喋りを楽しんでいた。報告会がない分、どうしても情報が不足するのだ。私は一応この修道院を取りまとめている立場なのだし、周囲に気を配っておくのは大切なことだ。
もちろんこれは言い訳でしかない。結局、私も他のみんなと同じで噂話が大好きなだけなのだ。
そのことを認めるのが少し後ろめたいと感じられてしまうのは、私がまだごく普通の貴族の令嬢だった頃の記憶の名残なのだろう。あの頃は私もきっちりとしつけられていた。他人の噂話に花を咲かせるなんてはしたないと、口を酸っぱくして言われていたものだ。
あれからまだ十年も経っていない。その十年足らずの間に、私はあの男と結婚し、そして捨てられた。あの頃はまだ私も何も知らない小娘だった。どうしようもなく従順で、愚かなほど純粋だった。
懐かしさよりもほろ苦さが勝ってしまう思い出に浸っていた時、突然声をかけられた。そちらを振り向くと、楽しそうな笑顔を浮かべたアイリーンが立っている。
「ミランダさん、ちょっと聞いてもらえませんか?」
「アイリーン、どうしたの? そんなに目を輝かせて」
そう問いかけながらも、私には大まかな見当がついていた。きっとアイリーンは、ドロシーが隠していた思いを多少なりとも聞きだすことができたのだろう。
「実は、ドロシーのことなんです」
やっぱりね、と思いながらうなずきかけ、先を促す。アイリーンは両手をぱんと打ち合わせると、声をひそめた。
「あの子、実は昔からずっと好きな相手がいたんだそうです。それもどうやら、両想いみたいです。けれどどうせ親は認めてくれないだろうと、彼女はあきらめてしまっていて……これって、絶対に何とかしてあげないといけませんよね!」
「アイリーン、声が大きいわ」
「あ、済みません。そういう訳なので、一度あの子からじっくりと話を聞き出してあげてください」
「今ここで、あなたが私に報告してくれてもいいのだけど」
「それは駄目です。友達だからって言って、彼女は特別に私だけに打ち明けてくれたんですよ? 勝手に他の人に詳しく話すだなんて、そんな裏切りみたいな真似できません」
アイリーンが誇らしげに胸を張る。たった数日で、彼女たちは見事に仲良くなっていたようだった。そのことを嬉しく思いながら、くすりと笑う。
「分かったわ。だったらドロシーを探してもらえるかしら? 私は部屋で待っているから、そこまで来るように伝えて欲しいのだけど」
「了解です!」
答えるなり、アイリーンは元気よく走り去っていった。あの分だと、彼女はドロシーの居場所を知っているのだろう。
あっという間に小さくなっていく背中を見送りながら、私は自室に向かっていった。
しばらくして私の部屋にやってきたドロシーは、おどおどとしながら視線をさまよわせていた。お茶を入れてやると、上品に口をつけている。どうも彼女は、この気弱な振る舞いが素のようだ。
「ドロシー、アイリーンから聞いたのだけど……あなた、想い人がいるの?」
そう尋ねると、彼女はきょろきょろするのをやめ、真っ赤になってうつむいた。なんとも初々しい。
「よければそれが誰なのか、話してもらえないかしら。私たちに何かできることがあるかもしれないし」
ドロシーは唇をかみ、口を開きかけては閉じてといったことを繰り返している。話してしまいたいという気持ちと、恥じらいとの間で揺れ動いているように見えた。
「……愛する者同士が結ばれるのって、素敵なことよ。ヘレナの騒動を経て、つくづくそう思ったわ。ドロシー、私はあなたにも、彼女と同じように幸せになって欲しいの」
そう静かに付け加えると、とうとうドロシーが意を決したように顔を上げた。その頬はほんのりと赤く染まっている。
「私……幼馴染のアレックス様と、約束したんです。大人になったら結婚しようって。そうして彼は約束通り、私を迎えに来てくれました。……お父様もお母様も、許してはくださらなかったけれど」
「そのアレックスというのは、もしかしてユスト伯爵家の遠縁の方かしら?」
聞き覚えのある名前に思わず私が尋ねると、彼女は顔を真っ赤にしてこくんとうなずいた。
「彼が傍系の、それも次男だから……歴史ある立派な家を継ぐ者ではないからって、そういって両親は彼の求婚を冷たくはねつけたんです。そしてあっという間に、私とバーナード様との婚約を決めてしまった」
彼女の顔色がすっと白くなり、表情が消えていく。それだけ、彼女がバーナードに負わされた心の傷は深いのだろう。
「私の家は兄が継ぎますから、私はどこかにお嫁に行かなくてはいけません。両親が立派な嫁ぎ先を見つけようとしてくれたのは分かるんですが、でも、でも……」
つっかえながら語るドロシーの目からは、また大粒の涙がこぼれ落ちていた。懸命にハンカチで顔をぬぐっている彼女の姿を見ながら、私は黙って考え込んでいた。
さて、意外な名前が飛び出したものだ。アレックス、彼の名は先日の報告会で聞いた。その人望と人柄を見込まれて、いずれユスト伯爵家を継ぐことになっている男性だ。
けれど彼が伯爵家の後継ぎとして内定したことは、まだ伯爵家の外に漏れないように口止めされているらしい。ドロシーの両親が知らないのは当然だろう。
ならば話は簡単だ。バーナードを退場させた後、アレックスがユスト伯爵家の後を継ぐことになっていることをばらせば、ドロシーの両親は手のひらを返してすぐに飛びつくだろう。
ただ、それではどうにも面白くない。こう言っては何だが、今一つすっとしないのだ。他のみなも、私と同じように考えるに違いない。
無意識のうちに頬の内側を噛みながら、私はドロシーに尋ねた。どんな手を取るにせよ、彼女の覚悟のほどを知っておく必要があるだろう。
「ドロシー、あなたは全てを捨ててでも、アレックスと一緒になりたいって思う?」
「はい」
彼女はまだ涙に濡れた顔をまっすぐに上げ、間髪入れずに返事をした。いつも自信なさげにおどおどとしている彼女とは思えないほど、堂々とした声だった。
口元に大きな笑みが浮かぶのを感じながら、私は彼女に優しい目を向けた。
「そう、いい返事ね。だったら私たちも、やれるだけのことをやってみるわ」
「ありがとうございます。どうか、お願いします」
ドロシーがハンカチを握りしめて、泣きそうな笑顔を見せる。彼女にこんな表情は似合わない。彼女にはもっと、穏やかに明るく笑っていて欲しい。
それがかなうかどうかは、これからの私たちの働きにかかっている。そのことを改めて実感しながらも、私の口元に浮かんだ大きな笑みは消えることがなかった。