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猿のレストラン  作者: あんまん。
5/5

5 世界を救え

99

 夜陰のうちに王宮の近くまで来た。途中何匹かの野良豚に出くわした。彼らは身なりからも明らかに豚の紳士ではなかったが、それでも流暢にライオネス語を話すようで。恐らく家畜小屋から脱走したようだった。いくらライオネス語を話すといっても逮捕されていないのは不思議だった。それだけ王宮の警備と王国周辺の警備で国内の警備がおろそかになっているのかもしれない。ただ、それ以上に家畜達の不満は最高潮にまで達しているようだった。王宮を見るとセレンは魚が銛で射られた時のような目をした。犬たちは王宮の前で一斉に並び、同じ体制で片足を一歩前に出し、その後ろの犬が開いているところに片足を入れ、それが上へ横へとどこまで続いていた。犬の警備は稠密を極め、空気さえも閉じ込めるのではという密集ぶりだった。門以外のエリアは何メートルもあろうかという難攻不落の分厚い壁がアリンコ一匹すら侵入を認めなかった。これでは何も出来ない。空を仰ぎ見ると月が煌煌と王宮を照らしていた。明日には満月だった。セレンは王宮をぐるっと一周してどこにも開くところが無いのを確認すると意気消沈した。これでは縄から解放されたところで無意味だ。

セレンはなんとか打開策は無いかとそこから一度踵を返した。

すると、セレンの後ろからボソボソと会話が聞こえた。

「五名ね。このお方たちだね?」

別の見回り警備犬が話をしていた。何やら仕事の話のようだった。

「いずれも立派な今をときめくライオン族のスターシェフだ。決して無礼の無いように」

「この中からまた王が生まれるかもしれませんからな」

どういうことだろう? セレンは何の話をしているのか見当もつかなかったが、何かが引っかかった。いずれにしても明日は満月だ。セレンは一旦引き返すことにした。

店に帰る訳にも行かなかった。帰ればまたとめられる。道すがらセレンは街が以前にも増して乾いているような気がした。何の乾きだろうか? セレンにはそこまではわからなかった。風にひらめいて豚の紳士監修のレストランブックが風にパラパラとめくられながら転がっている。セレンはおもむろにそのガイドブックを拾った。今度は自分でめくってみた。このガイドブックのお陰もあって、セレンの店は繁盛を始めたのだ。その最新号にはトップ5レストランシェフ特集とあった。セレンは思わず期待した。ひょっとして自分の名前があったりして…。

しかしそこにあるのは五人の厳ついライオンだけだった。そりゃそうか。自分が入るわけない。でも五人は無理でも。五人? 

「あっ」思わず心の声が出た。セレンは今一度そこに載っている五人のスターシェフを見た。これだ。もしかしたらこの五人のことかもしれない。セレンはすぐにそれぞれ五カ所のレストランに実際行ってみた。行けば何か分かるかもしれない。


「あいつどこいった?」

「セレン? セレンがいない」

「あっ、レシピの書も無い!」

「あいつ、まさか。ばかな」

「もしレシピの書と引き換えにすべてを投げ出すなんてことがあったとしたら」

「全ては終わりじゃ」


お鼠は、鼠たちに感謝のウインクをすると再び老猿たちに向かい合った。

「まだセレンが行った様子は無いようじゃの」

「はい。決行は明日ですか?! 満月の次の日では?」

「それはカムフラージュっぽい。とにかく解読は明日じゃ。セレンもそれを知っているようじゃ。恐らく解読後その場で鹿の娘は処刑されるかもしれん」

「お鼠様、それは本当ですか? それじゃセレンは」

「分からんが、奴が、いや我々が出来るとしたらそれくらいじゃ」

「それでは私たちは…」

「大将を置いて生き伸びる訳にも行かんじゃろう」お鼠は快活に笑った。



「え? ちょっと前にも同じものを頼んだお客さんが居たよ。写真持ってきて。これと同じものをお願いされて、さっき取りに来たよ」

「え、誰?」

「名前は名乗らなかった。若い猿だったけど」

「セレンだ! 5人全部頼んだの?」 

「いや、この中の一人だけど。これ」

「やっぱり…」

「で、どうするの?」

「…、これを除いた4人分を今すぐにお願いします」

「ええー、今すぐは無理だよ」

「お願いします。時間がない。俺も手伝うから」

 

とある有名レストラン。料理長とおぼしきライオンが書類を確認しながら首を傾げた。目の端に鼠がちょろちょろしていたのを気づいていたものの、気はそぞろでそれどころではない様子だった。

「あれ? 日にちが…、明日だったっけ?」

「さあ…、確かに今日だったはずですが。一度他の方に確認した方がよろしいのではないですか? 王宮に確認するもの憚れますし」

「それもそうだな。そうする」


「招待のシェフたちは来ているのか?」

「一名まだな様ですが、他は揃っているようです」

「うむ、他は絶対に誰も近づけるのではないぞ。もうすぐ式典が始まる時間だ」ライオン王は侍従たちに号令をかけた。

「そちらはお任せください。五万もの憲兵達を王宮に張り巡らしてございます。祝勝会のお料理の用意もだんだんと整いつつありますので」

「うむ。任せたぞ。我が王国全ての力を結集してでも成功させなければならない」ライオン王はそうしながらも体力増進に余念がなかった。


100

セレンは王宮の裏手の門を探した。相変わらずそこは沢山の犬の官憲達の壁が立ち、その周りを更に官憲が警備をして到底抜けられそうには無かった。盛大かつ厳重な警備が敷かれていた。

「おっほん。本日のお手伝いで来たのですが」官憲達はセレンを怪訝そうな眼で見た。セレンは大きなかぶり物をしていたのだ。この時のために調合しておいたライオン臭クリームもたくさん塗り込んでおいた。官憲達は一瞬顔を見合わせたが、IDチェックをすますと案外すんなりとセレンを王宮の裏口、そのキッチンに繋がるところに通した。

セレンは緊張した。これが王宮か。一目でピカピカに清潔に保たれているのが分かった。塵一つ無かった。

王宮のキッチンは食材が精密な配列で整然と並べられていた。そこはセレンが予想していたのとは違い、必ずしも力の強さを優先したものではないようだった。ただただ、全てがこと細かく管理されているようであった。

セレンは一先ず挨拶をどうしようか迷った。仮にもライオンであるからには卑屈になるのも考えものである。

「お、おっほん。おはよう…」

厨房から刺すような視線がセレンに、というよりセレンのかぶり物に注がれた。セレンはばれたのではないかと気が気ではなかった。なおもそのライオン達による視線は続くかと思われたが、すぐにそれはおのおの自分の作業台へと注がれた。セレンは頭の中で、カムネルカムネルと唱えた。自分の演じているライオンの名前だった。

キッチンでは絶え間なく食材がコンベアーに乗って流れている。最新式だ。

食材は夥しい数が一所にまとめられ、まだ生きているようであった。セレンにはそれが物悲しい雰囲気を醸し出しているのがよおくわかった。セレンはキッチン服に仕込んでおいたお菓子を作業台の下にそっと置いた。どなたか存じませんがありがとう。小さな声が聞こえた。が、すぐに大きな声が遮った。

「おい、お前確か、ロクサールじゃないか」

「え、いや、あ、はい。いや違います。カムネルです」咄嗟に否定したセレンの頭に、招待状の詳細が浮かんだ。確かロクサールは店名だった。

「…ロクサールのカムネルだろう?」

「もちろんだ、です」

セレンは肝をつぶす思いだった。紛らわしい。店名で呼び合ってるのかよ。

「じゃあ、早速そこの魚を焼いてもらうぞ」見ると小振りの魚達がグリルの上に大量に、しかし順序よく乗っけられるところだった。

「まだ沢山焼いてもらうぞ。何しろ上帝様のお祝いなのだ。さあ早くしろ次から次へと流れてくるぞ」

「は、はい。じゃあ、もう解読は終わったんですかい?」

「解読? レシピの書のことかい? なに、造作の無いことだろうさ。ご令嬢はそのために今迄生かしておいたんだ」セレンはその言葉を聞いて、落ち着いていられなかった。ひょっとしたら処刑はもう…、もしや鹿の娘が既に絞められているのではと、恐る恐るいろいろなポジションを見渡した。


しかし、幾種類もの大量の魚がコンベアーに乗って流れてくるのでセレンはよそ見をしても居られなくなった。魚を言われた通り種類別に焼き用と油漬け用に仕分けして専用のコンベアーに仕分けなければならなかった。已む無くセレンは目の前の魚に集中した。見るとその一匹一匹の魚達は活きが良いはずなのに生気を失っているようにセレンには感じられた。今から命を失われるというのに、少しも抵抗をしなかった。というより完全にあきらめている様子だった。

「ごめんよ。命を戴くよ」セレンは優しくその魚達に話しかけた。

「………」

「ごめんよ。命を戴くよ」

「………」

「ごめんよ…」

一匹一匹に話しかけて行くうちにやがて、油漬け用のコンベアーに乗った一匹の魚がとうとう返事をした。

「はいよ」

それは気のない返事であったが、セレンにはなんだかうれしかった。そして思ったことをその魚に言ってみた。

「ねえ魚さん」

「…イワシだよ」

「ごめん、イワシさん。君はこれから油漬けなんだろう?」

「ああ、そうだよ。どうせ十匹一絡げにオイルサーディンさ。イワシはイワシだからね」

「オイルサーディンになるのは嫌なのかい?」

「俺はイワシはイワシでもカタクチイワシなんだ。ご先祖様から代々上等のアンチョビになるのが習わしなんだ。それをいきなり油漬けなんて…」

「いきなり油漬けじゃダメなのかい?」

「塩漬けだよ。油はずっと後で良い。まず発酵が無きゃ。今の上帝とやらはどうやら発酵がお嫌いなのさ。一生の最後に油漬けにされるのがどうやら運命さ」そう言いながらカタクチイワシはかたかたとコンベアーを流れていった。セレンは自分の今のレストランの来歴を思い出していた。

「どうすればいい?」セレンの返答にイワシは目をギョッとさせ、寝ていた体勢を飛び上がらせた。

「え?」

「分かんないけど、僕なら君の意見を参考に最高のアンチョビにしてあげられるかもしれない」

カタクチイワシの目は一気に光を帯びた。しかし裏腹にイワシの言葉はあきらめの言葉だった。

「もう無理だよ」それはそうだとセレンは思った。もう既にそのイワシは油壺に落ちる寸前だった。今更それを戻す訳に行かないのはセレンが一番良く分かっていた。

「でも、仲間を助けてやってくれ。立派なアンチョビに」

「わ、わかった。きっとそうする」カタクチイワシはそれを聞くと満足そうに油壺に落ちていった。セレンは他のカタクチイワシにも話しかけた。

しかし他のライオンの鋭い目がセレンを射抜いた気がしてこれ以上会話を交わせそうも無かった。セレンは仕方なく小声で言った。

「ところで鹿の娘さんを見なかったかい?」

「鹿の娘さん? うーん、どうだったかな? 鹿だったらあっちにあったよ」

「えっ、もう、鹿の娘さんは…」セレンは必死に探したかったが、自分が変装していることと、正体をばれたくないことが相まって露骨にやるのを避けなければならなかった。セレンは極力平静を装ったが、しかしその心中は古池どころか火の海に放り込まれる直前のカエルだった。チャポンではなく一瞬でジュだろうがそれでもセレンは飛び込む覚悟だった。

「鹿だったらほれ」

セレンは指された指の方を見やった。そこには雌鹿があられもなく皮をもがれ横たわっていた。

「リ、リカさん!」目の前が真っ暗になるようだった。セレンは恐る恐るその遺体に近づいた。だがそれは見るも無惨に変わり果て、とても生前の鹿の娘を彷彿とさせるものは何も無かった。

「バカ、騒ぐんじゃない。ばれるだろうが」

「そんなこと言ったって、リカさんが…」

「しっ! 静かに。そしてよく見ろ、それは別の鹿だ」

 セレンは言われるままにもう一度その鹿を良く見た。確かにそれは鹿の娘とは違った。それどころかそれは雄だった。セレンは一気に安堵して我に帰ると、今度は違う不安がよぎった。この声の主に自分のことがばれてる。もう一度恐る恐るそのささやき声の主のライオンを見た。それはセレンにはよく見覚えのあるライオン。そう、猿のお爺さんがかぶり物をして潜入していたのだった。

「じいさん! ついてきてくれたんだね」

「バカ、だから静かにしろって言ってるじゃろがっ」

「ごめん」

「それにほれ」セレンは変装した老猿が指す方を見た。それは老猿ほど大きくはないがそこそこ立派なライオンがはたまた油たっぷりのドレッシングを作って味見していた。セレンはじっとそのライオンの動作を見た。

「ハ、ハナコ!」ハナコの変装したライオンは、手をセレンに向かって微かに振って見せた。

「おい、セレン。お前そんなきょろきょろしてたらすぐにばれるぞ」これまた後ろから囁き声ながら聞き慣れた声。

「ハリージさん!」ハリージはかぶり物の上からウインクしてみせた。

「リカさんはどうしたかわかる?」

「わからねえ、もしかしたらメインダイニングで料理されるのかもしれねえ」

「うむ」ハリージの脇からおネズミ様がひょっこりと顔を出していた。

「そのメインダイニングって?」

「多分あっち!」

指の指す方には見たことも無いほど筋骨隆々のライオンが、仁王立ちで大きな肉を捌いていた。そのライオンはその刹那、射るようにセレンのほうを見た。



101

「はて、あなたは今回選ばれたモーリッツのソートネルさんでしたね。そんなに荷物を抱えてどうしたんですか? 宴は明日に延期でしたよね? 確かに通知は明日でしたが、てっきり私は今日だと思ってましたよ。もしかしてあなたも間違えました?」

「え? だから今から帰るんですよ。王宮の手前でさっき教えてくれたばかりじゃないですかライネルさん」

「え、そんな馬鹿な。私はたった今ヨードランさんに教えられて引き返すところで、あなたに会うのは今が初めてのはずですよ」

「え? 間違いなくさっき教えてくれたじゃないですか」

「そんな馬鹿な! ライオン違いでしょう」

そこへもう一頭のライオンシェフがやってきた。

「いやあ、先ほどはどうもお教えいただいてありがとうございます」

「え、あなたヨードランさん? 何か教えましたっけ?」

「いや、王宮の宴が明日に延期になったというのを…」

「??? どういうことですか? 逆にあなたが私にさっき明日に延期になったと言ったばかりじゃないですか!」

「え、誰に? あなたでしょう?」「いや言ったのはあんたでしょうが?」「いや、あんたのほうこそ」「そんなバカな絶対あんたが…」

口論の最中に三頭はもう一頭の参加者を見つけた。

「カムネルくん!」

「こんにちは、お揃いでどうしたんです? 王宮の宴は明日に延期になったはずでは?」

「そうだね。通知もそうなってたし。でもみなさん記憶では確か今日だったので確認していた。カムネルくんはどうやって知った?」

「いや、犬の憲兵が直接私の店に」

「犬の憲兵?」

「はいこの通り」

そう言ってカムネルと言われるライオンは他の三頭に通知を見せた。

「なるほど…、これは確かに…」

三頭は顔を見合わせた。

「きっと、新しい通知が来たのを知らずに居たんですかなあ」

「最近忙しかったし」

「まあ…、明日ということで」

三頭はどこか腑に落ちないといった顔だったが、解散ということでお互い踵を返して帰り路を行った。

「ちょっと待ってください! あれは…」

一頭のライオンが他の三頭を呼び視線の向こうを指した。大きな肉球が指した先には犬の被り物が捨ててあった。

「あ! これはさっきの…」

カムネルは気がついたようだった。

「?……」

「もしや…」四頭は顔を見合わせた。

「ひとっ走りして確認してきます」一番若いカムネルがすぐ申し出て王宮に向かった。

「我々も行きますぞ」



102

「おい、そこのもの!」

セレンは声のあまりの迫力にそこに立ち尽くした。ばれた…。

「無駄話をするんじゃない」

「は、はい。すみません」ふう、ばれたわけじゃないのか。

「まあいい、そこの金貨鳥、もってきてくれ」

「あ、はい、わかりました」

セレンは金貨鳥を探しながら王宮へと繋がる出口を探した。しかしどうやってここを抜けてメインダイニングまで行くんだ? どうやら選抜されたライオンと言っても5名の他にもたくさん居て、ここでは自分は、顎で使われるほどの下っ端らしかった。まあその方が慣れている。セレンは気を取り直してそこにいた金貨鳥と呼ばれる鳥を見た。その鳥の数は、百羽は優に超えるようだった。そのいずれもが何かに怯えているのは話すまでもなくわかった。それは美しく、もの凄く肉付きがよく、それぞれ三羽ずつセットのように束ねられ、箱に入ったまま微動だにしなかった。セレンには金貨鳥がその美しさに反比例するかのように、まがい物の作り物のようで、何ら生気を感じなかった。入れられた箱をなんとか持ち上げようとしたが、やはり非力なセレンには土台無理な話だった。

「何だ、お前。どうかしたのか? まさか、そのくらい持ち上げられないなんてことはなかろう?」セレンは内心ばくばくだったが、ばれたくない一心で口から出まかせを言った。

「いや、ちょっと来る前に怪我をしまして、すみません。すぐお持ちします」

セレンは再びその箱を持ち上げようとしたが、当たり前なのだが一向に持ち上がらない。他のライオンからの鋭い視線も感じた。なんとかしなきゃと思い、セレンはその金貨鳥達に、小さなささやき声で話しかけた。

「ねえ、鳥さん」

「……………」

「鳥さんちょっと頼みがあるんだ?」

少し間があったが、とうとう返事が来た。

「…あーん、どうしたっていうんだよ?」鳥は眠っている訳ではないのに寝ぼけ眼だった。

「鳥さん、大丈夫かい? 出来れば僕がこの箱を運ぶ間、少し浮いててほしいんだよ」鳥はやっと今明確に自分に話しかけられたのを認識したようだった。

「これは珍しい。喋れるのかい? ライオンさん。でも今更何を言うんだよ、もう嫌だよ、こんな世の中。早くおさらばさ。早く料理しちゃってくれよ」

「いや、僕は本当はライオンじゃないんだ。猿だよ。僕はきっと、君をすばらしい料理にしてあげるよ」

「だったらうれしいねえ」鳥は半信半疑のようだった。

「とにかく頼むよ」

「おい、何さっきからぶつくさ言ってるんだ」

「は、はい」そう返事すると、セレンは箱を持ち上げた。すると鳥達は外からは気づかれない程度に羽をばたつかせ、おかげで箱の重さだけ持ち上げれば良いので、さすがのセレンにも軽々持って行くことが出来た。

「ありがとう、鳥さん。きっとおいしい料理に仕上げるからね」

「おい、ぶつくさ誰としゃべっているんだ。いいから早くしろ。宴に間に合わない」別のライオンに注意された。

「は、はい。何時からでしたっけ」

「もう解読は済んだということだ。いよいよ上帝様がグランシェフになるのだ。早く仕上げねば。もう30分も無い」

「解読って?」セレンはばれそうなのも構わず思わず聞き返した。

「何だ知らないのか? レシピの書のことだよ。解錠が済み、解読が無事終わったら本日の一番のメイン、鹿の娘を上帝手ずからお料理なされるという寸法さ。解読どころか解錠さえ終われば娘は用無しみたいだからね」

「え、それは明日じゃなかったっけ? もう捌きは終わってるの?」

セレンは敢えてかまをかけた。何気なく聞こえるように言ったつもりだが、内心はまるで自分の心臓が飛び出して耳元まで上がってきたかのようだった。

「何言ってるんだよ。明日は余興みたいなものさ。重要なのは今日。だから君たちを今日呼んだんじゃないか。セレンとかいう猿が乗り込んでくるかも知れないらしいからね。だから公表せずに元々明日だったのを結局一日早めたらしい。だから今日のメインは鹿の娘。三十分後に捌きが始まるんだ。だからその前に仕上げなきゃ」

それを聞いて、気ぐるみの中のセレンの表情はこわばった。

やばい、少し遅れたら終わってた。後三十分だ、どうしよう…。

「ねえ、鳥さん。上帝のいるところはどこだかわかるかい?」

「上帝? 偉い人のことかい? だったら多分あっちだよ」鳥はそう言って勝手口の方を嘴で指した。セレンはその嘴の指す方を見て一瞬びくっとした。

そこには岩のように大きな体躯のライオンが居た。それは恐らく、いや間違いなく次期王様の呼び声の高いケルーアックだった。その筋骨はセレンが見たライオンの中では群を抜いて逞しく。セレンの記憶の中でのライオン料理長の比ではなかった。

「おい、おまえ」セレンはもの凄い威圧を感じた。それは間違いなくそのケルーアックから発せられた声だった。

ばれたのか? セレンは気が気ではなかった。ケルーアックは以前の天下一料理大会において、予選ぶっちぎりだったにも関わらず本戦で現王に敗れた経緯があった。本選でセレンのミンチがなかったら、ほぼ間違いなくこのケルーアックが王位に就いていたはずだった。更には現時点でのケルーアックの腕は大会の時よりも遥かに上がっていた。もしセレンのミンチがあっても、もう一度やっていればもしかしたらケルーアックが上まわっていたかもしれない。それほどの実力者だった。

「お前、こっちに来て俺のサポートをしろ」セレンは困惑した。他のライオンならまだしもケルーアックは全てに優れていると聞く。もちろん嗅覚も犬並と聞く。汗でライオンクリームも流れ出してきたセレンだったが返事をするしか無かった。

「あ、はい」恐る恐る近づいていくとますますケルーアックは大きく見えた。しかし同時に立ちはだかるケルーアックの後ろに扉が見えた。セレンは内心ドキドキした。早くもチャンスが訪れたのだ。これなら一気にここを突破して、王宮の間にたどり着けるかもしれない。しかし、どうやってここを通り抜ければよいのだろう。

 セレンは、自分の匂いが発散しないように気をつけつつもケルーアックの一挙手一頭足を見逃さなかった。


先ほどセレンにし分けられた魚達が、こんがり焼かれてケルーアックに渡された。既に油漬けされたイワシ達もその中に居た。結局こうなったか…。セレンは申し訳ない気持ちだったが、それでもセレンにはその魚達が満足そうで、セレンに微笑んでいるようにさえ感じた。心無しか、水槽にまだ居る魚達も、セレンに微笑みかけているかのようだった。ケルーアックはその魚を渡されると、金貨鳥のグリルをセレンに任せた。そして、ケルーアック自身は自らその皿を持って、その大きな肉球を誇る手で壁に触れると、その扉が開いた。そして奥に消えて行った。

「あの向こうに…王宮があるのかい?」セレンの質問に金貨鳥は答えた。

「ああ、そうだよ。あそこを通っていつも、あいつは行くのさ」


103

目の前にその魚のありとあらゆる技巧を凝らした盛り合わせが運び込まれると、貴族達は上帝不在のまま今か今かとその宴の始まる合図を待ちかねていた。そこへ侍従が現れ、上帝がそう時間も待たせないうちに現れるという約束をして先に始めておくように指示を出していた。その合図とともに貴族達は遠慮もなしにその魚料理から手を出した。テーブルのそこかしこから、うなるような感動の歓声が漏れた。ただ、王様だけはそれには手を付けずに、苦虫をつぶしたような顔でその料理を見つめていた。王様はそのケルーアックをにらんだが、ケルーアックは王様に不敵の笑みを送った。王様は面倒くさそうに眼をそらし一人心の中でつぶやいた。

ケッ、何がグランシェフだ。王様は俺様だ!


「さあ、早く。この鍵を開けるのだ」上帝は鹿の娘に迫った。

「絶対にいやよ。絶対に」上帝は鹿の娘の抵抗に苦笑を禁じ得なかった。

「どうしてそんなに嫌がるのだ。別にお前の裸などに興味は無い。ここのレシピの書を開けられるのはお前しか居ないのだ」

「嫌よ、あなたなんかの為に」

「どうしてだ、このわしこそ、グランシェフにふさわしい存在」

「ふん、あなたなんか、絶対に認めない。これはセレンの為にあるものよ。セレンこそグランシェフに成るべき動物だわ」

「ふ。良かろう、それなら実力行使をするまで」


「鳥さん、あの扉はどうやって開くんだろう?」今や金貨鳥達はセレンの質問に活き活きと答えるようになった。

「ああ、あれは簡単さ。あそこの扉のところに手を合わせるところがあって、そこに手を当てると扉が自動的に開く寸法さ」

「えっ、そうなの?」セレンは試しに手を当ててみたが一向に開く気配はなかった。もう一度やってみたが、それでも扉はびくともしなかった。

「開かないじゃないか」

「おかしいなあ。やり方が違うのかなあ」

セレンはいろいろなやり方で手を当ててみた。逆さにしたり手の甲を当てたりして。すると突然図らずも扉が開いた。

「やったあ! 開いたぞ」

しかし、喜びは一瞬で消えた。そこにはケルーアックが仁王立ちをしていた。

104

「ちょっとすみません。わたし、カムネルと申す」

官憲達は眼をぱちくりさせた。

「はて? いつ外にお出になられたので?」

「いや一度も外に出ておらぬ。寧ろずっと外に。この厨房の中に私の名を騙る偽物が侵入しているはずであるが…」

「えー」官憲はびっくりして仰け反った。

「それが証拠に私のIDを調べればわかることだ」そう言ってカムネルはIDを官憲に見せた。官憲はそのIDを手に取ると、鼻をクンクンさせ、識別番号と照らし合わせた。前もって渡されたセレンのIDと嗅ぎ照らし合わせた。それは官憲にとってもほんのわずかだったがそれでも目の前のIDを見れば火を見るより明らかに、どちらが正しく本物か嗅ぎ分けられた。

「こ、これは失礼いたしました。直ちに偽物をつまみ出しまする」


「隊長! 壁が乱れました!」

「そうか、ついに、ついに隙が生じたか! 今だ。突撃」

「おう」黒い集団は隊列を組んで混乱に乗じ、一気に門を突破した。


「そんなこと言ってられるのも今のうちだ」上帝はほくそ笑んだ。

グィーー、ドアが開くと侍従が血相を抱えて飛び込んできた。

「じょ、上帝様」

「いかがした?」

「侵入者にござりまする」

「侵入者だと? 馬鹿な! どのような?」

「それが、どうやらセレンかと」

「何と!」鹿の娘の眼がみるみる輝いて行った。

「ほうら、セレンはやっぱり助けにきてくれたんだわ」

上帝はしかし驚きよりも一瞬にやりと笑ったように見えた。

「フッ、自ら飛び込んで来おったわい」想定の範囲内という顔だった。

「少し急がねばなるまい」そう言って親衛隊を呼ぶと無理矢理鹿の娘の服を脱がそうとしたが激しい抵抗に遭った。部屋中悲鳴がこだました。

「ふふふ、わかった。役目を果たさんつもりだな。良いわ。この我が親衛隊ならばレシピの書すら開けられる。これは猿の王の時代には想定されていなかったはずだ。その代わり娘よ、お前はもう用無しだ。死んでもらうぞ」

親衛隊たちは娘は諦め、万力のような力でレシピの書の箱をこじ開けようとした。最初はびくともしなかったが、さらに親衛隊が力を入れるとめきめきめきと音がして、とうとうレシピの書が開かれた。

しばし沈黙があった。

「……こ、これが…レシピの書か…なるほど、やはりな」上帝は笑った。


105

セレンは仁王立ちをしたケルーアックを前に一瞬硬直した。

「お前、何をやっているのだ」

「いや…、ちょ、ちょっと王宮に行ってみたいと思って」

「ふざけるな!」これは後ろからの官憲の言葉であった。

「どうした?」

「そのものはカムネル様ではございません」

「何を言うんだ! 私は正真正銘間違いなくカムネル__あっ!」セレンは振り向いて言葉を失った。セレンの視界に本物のカムネルの姿が見えた。思わずセレンは顔を背けた。ケルーアックはセレンと本物のカムネルとを見比べて眼をぱちくりさせた。

「いいえ、それだけではありません。今日招待された他の5名様のうち、ここに居る他3名も偽物です。かの大悪党セレンとその一味です!」

「なに!?」

厨房に居るライオン達はお互い顔を見合わせてざわつき始めた。

「あわわわわ」セレン達は声にならない狼狽ぶりを見せた。ケルーアックはまず一気に近くに居たセレンのかぶり物をひっぺがした。そこから小さなセレンの頭がひょっこりと顔を出した。セレンは慌てて体を引きずって逃げ惑った。老猿やハリージ、ハナコはまだ特定されていなかったが、それは本物が現れるまで時間の問題だった。

「こりゃあいい。新たにスペシャルの追加だ。上帝様もさぞかし歓ばれるだろう」ケルーアックは徐々にセレンとの間合いを詰めて行った。セレンは後じさりした。老猿やハリージは、それをハラハラしながら見ていた。

「ど、どうすりゃいいんだよ。じいさん。俺も今日は早く動けねーんだよ」ハリージは近くに居た老猿に耳打ちした。

「うーむ」

セレンは周囲を見渡したがが逃げ道は無かった。

「つ、捕まえろー」ケルーアックはもの凄い剣幕で追いかけた。老猿達も自分たちが偽物だと思われないためセレンを捕まえる振りをした。

セレンは食材とライオンたちを縫うようにして逃げた。

どこも他のライオンがいるので逃げ仰せるのは至難の業だった。セレンはキッチンの中をしっちゃかめっちゃかにして逃げた。作業台の上に乗ったりコンベアーに乗ったりして行ける方向に出来るだけ素早い動きで逃げた。

「お願いだ。助けてくれ」セレンが発した言葉はこのライオンの集団の中では無意味に思えた。だがセレンは食材に話しかけていた。必死に逃げたがいくら素走っこいセレンでもそれ以上にスピードのあるライオン相手では限界があった。セレンの顔よりも大きな肉球が髪を掠めた。すんでのところでかわしたと思うと今度は後ろから違う肉球がセレンを襲った。セレンはよけた反動で生け簀にぶつかった。そのとき、ぶつかった衝撃以上に生け簀が揺れた。突然魚達が思いっきり水槽を揺らし、床を水浸しにしたのだ。追いかけるライオンは滑って転んだ。

 セレンはそれでなんとかその場を免れたが直ぐにその行く手には再び大きなライオンが待ち構えているのが遠目にもわかった。やはり、そして思ったよりも早く肉球がセレンを襲って来た。セレンは必死に攻撃をかわした。

「お前も手伝え」ライオンは後ろに居たライオンにも攻撃に参加するよう促した。

セレンの位置からは死角だったが、そのライオンも肉球に何か持って後ろに控えていた。さっき滑って転んだライオンもすぐ体勢を整えて攻撃に加わるはずだ。セレンはもう目の前のライオンだけで絶望だと思った。そのすぐ後ろにも、控えたライオンの肉球が見え、白っぽい何かをセレンに浴びせようとした。何か毒か神経麻痺剤のようなものかもしれない。すんでのところでセレンは躱したがその液体は床に広がり、前に居たライオンの足下をすくった。生け簀の水で転んで起き上がっては再び追いかけてきたライオン達も再びすっ転んだ。その粘性のある液体は、脂肪分たっぷりの生クリームだった。投げたライオンの口元にも生クリームが付いていた。ハナコだった。

 しかし安堵もつかの間だった。今度は前からまた一回り大きなライオンが現れた。

「偽物も混じっているようだが俺は本物だぞ」ライオンの肉球が、その鋭い牙がセレンを襲った。今度ばかりは今までのライオンとは確かに違った。その動きも抜群に速い。一瞬ハリージかもと思ったが、セレンの腕を掠めた肉球には間違いなく渾身の力と悪意が込められているのがわかった。体制を整えた別のライオンも数名既にすぐ後ろに来ていた。

「ふふふ、さすがにお前も終わりだな」

セレンは辺りを見回したが鳥達はひもで結ばれているし、魚はこんがりと焼かれ、そうでないものは油漬けにされとうに息を引き取っているという態で、最早味方になりそうな食材は居なかった。このライオンの言う通りか。そう思う暇もなくライオンの肉球がセレンを襲う。セレンは必死にかわした。なおも肉球が迫ってくる。セレンは寸でのところで身をかわしたがそれは幸運にも後ろから迫ってきたライオンの肩をえぐった。

「うぎゃあ」

悲鳴が厨房に響き渡ったが、それは肩をえぐられたライオンだけではなくセレンの目の前のライオンからも聞こえてきた。ライオンは目を押さえていた。よく見るとライオンの身体には黒く蠢くものが…。

「蟻達だ!」

蟻の大群がライオンの立ち位置を埋め尽くし、数匹の先発隊がライオンの眼まで到達して続々と続いた。

「助太刀しますぜ」蟻の隊長がセレンにささやいたが、それは蟻に取っては叫びだったかもしれない。

「あ、ありがとう」セレンは蟻達に礼を言ったがそこには言葉以上の気持ちが込められていた。

ライオン達が蟻の大群で右往左往しているうちにセレンは扉を探して前を見た。

とうとうセレンは一周して元のところに戻ってきた。しかしそこに居たのはこの厨房で恐らく間違いなく最強のケルーアックだった。

「ふ、どうやら。セレンとやら。食材と、いや文明外の動物と話す特別の能力を持っているようだな。だが、蟻だろうが何だろうが俺には通用せん。もう逃げられまい」

「だからどうしたって言うんだよ」セレンは強がりを言ったが顔は強ばっていた。

「ふふ、そんな力があったところで無駄だって言うんだよ」

「無駄なんかじゃない。大体がこんなの料理じゃないよ。素材達は誰も歓んじゃいない」

「ふん。何が喜ぶだ? どんなに言ったところで無駄だ。これは厳密に決められた完璧なレシピなのだ」

「完璧なレシピ? 誰が決めたんだよ? 上帝かよ?」

「ふふふ、どんなに粋ったところでお前は上帝様には敵いっこ無いのだ。何しろレシピの書ももう解読される。そうすれば上帝様はとうとう本物のグランシェフになられる。この世は完璧なるレシピに則った、完璧な世界になるのだ。お前のようなバグの排除されたな」

「それはどうかな? そのレシピの書が本物だったら良いがな」

「何を言っているんだ? まるでレシピの書が偽物みたいな言い草だが」

「ああそうだよ、本物は俺が持ってらい!」そう言ってセレンは被り物の背中から本が入った箱を取り出して掲げた。

「なに?!」

厨房はにわかにどよめいた。

「嘘だ。偽物だ」

「へん、どうだかねえ」セレンの言葉にケルーアックは一瞬動揺したが直ぐに落ち着きを取り戻したようだった。

「ふふふ、もう遅い。どっちにしてもお前はこのままメインのもう一品にに加わるのだ」

「加わるって、今日の元々のメインは何なんだ?」セレンは内心聞かなくてもわかっていたが、それでも動揺を隠せなかった。

「もちろん鹿の娘だ。それももう間もなくだろう。本日のメインは上帝様自ら捌く鹿の娘のグリルなのだ」そう言ってますますケルーアックはセレンに近づいた。

「そこにセレン。お前も加わるのだ。本望だろう」ケルーアックは間合いを詰めセレンに襲いかかった。セレンの顔よりも大きな拳が顔にものすごい勢いで迫った。

ごつん!

セレンはぎりぎりのところでそれをかわした。もうあと数センチセレンが動くのを遅れていたらお陀仏だった。息つく暇も無く再び拳がセレンの顔に迫ってきた。セレンはまた本当にギリギリのところで躱した。ごつごつごつ。ケルーアックの大きな肉球の拳が壁を捕らえ、その度にセレンは間一髪でかわす。そして再びケルーアックの拳がセレンの顔めがけて今度は今まで以上のスピードで襲いかかる。

ああ。無理かも。万事休す。

た、たすけてー

セレンは思わず助けを求めた、と思った。しかし、声は自分の声ではなかった。

この声は…、リカさんだ!

ブーン。

セレンの目は俄かに光を帯びた。セレンは確かに王宮の方から鹿の娘の悲鳴を聞いた。

ケルーアックの攻撃は続いたが、セレンは今まで以上に本当にぎりぎりのところ迄自分を追い込んだ。徐々にセレンは自分の立ち位置をスライドさせていた。セレンは少しずつ少しずつあるスポット迄ケルーアックの拳を誘い込んでいたのだ。

そしてもう何回目のことだろうか、ケルーアックのストレートがセレンの顔の真正面に近づいてきた。それをセレンは最後の気力を振り絞って髪の毛一本でかわした。ケルーアックの拳は壁を奇麗に打ち抜く。瞬間セレンはしたり顔をした。

「しまった」ケルーアックは痛恨の顔をした。

拳が扉のボタンを強く打ち抜いていた。その瞬間、扉が開きセレンは迷うこと無くその扉の向こうへと出た。

「ま、まてえ」ケルーアックは追いかけたが、一歩踏み出すと大きく転倒した。

ケルーアックの足下は油まみれだった。そこには油から抜け出した小さなカタクチイワシ達が満足そうにぴちぴちと跳ねていた。まだ死んではいなかったのだ。

あ、ありがとう。きっと良いアンチョビにするよ。

セレンはカタクチイワシ達に心の中で約束をした。その隙に老猿やハリージ達もセレンに続いた。三匹も今やライオンのかぶり物をすっかり脱いで、扉が閉じるぎりぎりのところで滑り込みセーフで体をねじ伏せた。丁度外からは本物の三名も現れた。

「ま、まてえ」とうとうケルーアックが再び扉を開けて物凄い勢いで追いかけてきた。

 セレンは扉を抜けると一目散に走り抜けた。しかしケルーアックは体制を整えると三匹を飛び越え一気にセレンに追いついた。そしてセレンを掴んだ。

「ふふふ、もう捕まえた。逃しはしないぞ」そうしてセレンの体をじりじりと締め上げた。もう一方の腕を振りかぶり、一気にセレンを仕留めようとした。セレンもとうとう最後かと思った。

ゴーン。鈍い音がした。やられた。眼をつぶるセレン。

しかし、セレンに衝撃が来るどころかセレンを縛っていた力は一気に弛緩した。痛みを感じる前に天国にでも来たのだろうか。しかしそうでもなさそうだった。

ゆっくりセレンが目を開けると、眼下にケルーアックが大の字に伸びていた。セレンは何が何だか分からなくて見上げた。

「料理長!」セレンの前には今やケルーアックよりも遥かに逞しいライオン王が仁王のごとく立ちはだかっていた。

「行け」ライオン王は本当の王のように威風堂々としていた。

「ど、どうしたんだよ?」ライオン王の片目は相変わらず鋭かったが、そこには仄かな包容の萌芽があった。

「いいから…料理人は…例えグランシェフでも力のある王様に従うものだ」

ライオン王はそう言ってセレンをメインダイニングへと促した。


106

めらめらと強い火が立ち、一本の長い串に貫通された本日のサブメインがこんがりと焼き上がっていた。サブメインはさっきまでつぶらな瞳で佇んでいた豚たちで予備の豚も控えていた。

「さあ、鹿の点家のご令嬢よ。今度はお前の番だ。こちらに来るのだ。最高の焼き上がりにしてくれよう。外はこんがり中はロゼでしっとりと…」鹿の娘は頑として抵抗したが絶望で熱も感じなくなっていた。その時だった。

「恐れながら___」何事か侍従が報告をしてきた。

「なに! ダイニングに侵入を許したか! 愚か者め。あれほど厳重に言いつけておいたのにケルーアックも王も何をやっているのだ?」鹿の娘はそれを傍から聞いて一瞬にして眼を輝かせた。

「どうやら王が手を貸した模様で」

「馬鹿な! わきまえない奴だ…。王は廃位にする。これからはわしが直接支配に乗り出す。もはやライオン達の役目も終わりだ」

「申し訳ございません。全力で捕まえますので」 

「まあよい。解読も終わり今や全ては我が手にある。ふふふ、とんだ火に入る夏の虫、いや猿か。食材が自ら飛び込んでくるとはな。この我が手で料理してくれようぞ」

薄暗がりの照明を映して上帝の眼球が細く鈍く光った。

「どちらも処分しろ、今日はトリプルメインにしてくれるわ」

「アイアイサー」

「やっぱりセレンは助けにきてくれたんだわ。もうあんたなんておしまいよ」

「??? 何を言っているんだお前は。言っていることがわかっているのか? 奴はお前と一緒にメイン料理になるのだ。この屈強な親衛隊を前にどうすることも出来ないのはわかるだろう?」上帝の背後にはライオンの裕に三倍以上はある怪物が上帝をしっかりと護衛していた。鹿の娘はそれを見て再び肩を落とした。

「さあ、こちらへ来るのだ。そろそろメインを出さねばならん。この金属の棒にくくりつけて、じっくりと遠火のあぶり焼きにしてくれようぞ」そう言って上帝は後ろの虎の侍従に目配せをした。侍従は鹿の娘に迫った。


きゃああああああああああ

メインダイニングから悲鳴が轟いた。これは間違いなく鹿の娘の悲鳴だった。セレンは一目散にメインダイニングに走った。自分でもびっくりするくらいのスピードが出た。王すらセレンには追いつくのがやっとだった。犬の警備隊がずらーっとメインダイニングの扉の前を取り囲んでいたが王様がそれらを蹴散らしてくれた。


中では虎に引きずられて鹿の娘がグリル台に持ち上げられる所だった。

「やめてやめてやめて」その時だった。ドコーンと扉が開け放たれた。

「やめろ!」メインダイニングキッチンに一匹の猿と一頭のライオン、その後ろから例の三匹が入ってきた。

「セレン!」鹿の娘は救世主の登場に歓喜した。

「リカさん!」セレンは鹿の娘が生存しているのを確認して、天にも昇る気持ちだったが、そういう余裕のある状況でもなかった。他にも屈強な親衛隊がいたし、いつでも自分自身が天に召されるともしれない。

「よくここ迄来た。褒めて遣わすぞ。もう遅かったがな」

「リカさんに何をしたんだ!」セレンの怒気には凄まじいものがあった。鹿の娘はめらめらと炎のあがるグリルの横で、あられもない格好で縄を縛られていた。それを貴族達は好奇の眼で眺めていた。

「心配するな、何もしておらん。するのはこれからだ。解読はもう終わった。グランシェフは今ここに誕生した」セレンは茫然自失だった。

「それじゃあリカさんは…」セレンは鹿の娘の姿を見て、これ以上は聞きたくなかった。

「だったらもう良いだろう、早くリカさんを返せ」

「フフフ、本日のメインを返せと抜かすか?」

「はあ? いいから返すんだよ、ねこじじい」

「むっ」貴族の間でもどよめきが起こった。

「返す訳が無い。お前らまとめてメインにしてやるのだ」

「ふざけるな。偽グランシェフが! 猫じじいのレシピの書は偽物だよ」

「なんだと?!」

「ほうらこれが」そう言ってセレンは背中からレシピの書の箱を取り出すと、上帝に向かって掲げた。一同はどよめいた。上帝もそれには瞬間、動揺したようだったが直ぐに我を取り戻して言った。

「もう確認済みだ。レシピの書は本物だったのだ。今更そんなものに惑わされない」

「こっちも確認しなくていいのかよ? 俺が先に読むよ」セレンはなるべく挑発的な態度に出た。

上帝はにやりと笑った。

「それならその偽物も確認しておこう。ただしお前を料理してからだ」

上帝はいつものように暗がりの後ろに控える親衛隊に何事か目もくれずに命令した。

多分「やれ」だったろう。それは怪物語を自在に操れるんだぞという周囲への示威もあったのかもしれない。

上帝の背後の暗がりから大きなシルエットが出てきた。

その親衛隊の顔が見えるか見えないかのところでバッとセレンは後ろから肩をつかまれ、そして投げ飛ばされた。それはライオン王の手だった。セレンは勢いよく吹っ飛ばされ、くぼみにはまり込む形になり視界が遮られた。ライオン王がセレンを守る形でその大きなシルエットの怪物と対峙した。

「余が相手になってやろう」

「どこまでも馬鹿な奴だ。あれほど力の差を見せ付けらて尚、刃向かってくるとはな」上帝は余裕の表情で隣の侍従につぶやいた。

「勘違いするな、俺は王様だ!」ライオン王は親衛隊に叫んだ。

「上帝陛下の命令だ。覚悟」親衛隊は答えたがライオン王は何を言っているのか分からない様子だった。

「口から風を送っているだけじゃわからんわ。ライオン語を話せ。成敗してくれるわ」

大きな親衛隊とライオン王ががっぷり四つで組み合った。セレンの所からはよく見えなかったがいくら王の身体が前に比べて格段にビルドアップされたとはいえ、その大きさは明らかにライオン王が不利であった。その親衛隊はつい先日、牢番から昇進したばかりだった。昇進には定期的に開催される力くらべの上位に入ることが条件だった。しばらくつばぜり合いが続いた。ライオン王は最初優勢だった。しかしやがて地力に勝る親衛隊がライオン王をそれでもやはりこてんぱんにやっつけてしまった。

「だから言わんこっちゃ無いのだ」

上帝は満足そうに怪物の後ろ姿を眺め隣の侍従に耳打ちした。

「またいつの間にか第一位がかわったようだな」

「は、つい先日変わったようです。報告が遅れまして」

「良い良い感知せぬ。こっちは本当の実力主義だからな。ははははは」

上帝は満足そうに笑みを浮かべて今度は怪物に向けて言った。 

「それ、次はあのセレンを捕まえてこい」怪物は振り返ることなく窪みに顔を向け歩き出した。大きな足が近づいてきた。セレンんは心臓がよじられるような思いだった。幾ら何でもこの怪物を相手にして無事でいられるわけがない。逃げようにも逃げられない。もちろん鹿の娘を助けにきたセレンに逃げ出すという選択肢は無かった。

ハリージとハナコもなす術無く絶望の顔でセレンのはまり込んでいる窪みを最早見ようとも思わなかったが、老猿だけ何かピンときたのか、考え事をしているようだった。怪物は身体をかがめて窪みに顔を近づけた。

 ぬうーっとでてきたその大きな顔を初めて見て、セレンは恐怖よりもなぜか懐かしさを覚えた。

「あっ」セレンは思わず声を上げた。しかしそれは親衛隊の怪物も声を出さなくとも同じ反応だった。親衛隊はまんじりともせず動かなかった。

「どうしたのだ? 早く仕留めよ」

「…セレンと俺、友達。手出ししたくない」セレンは眩しい表情で怪物を見た。

「君は…、君がいつの間にか親衛隊になってるなんて…、出世したなあ」

「セレンのおかげ。あのお菓子でパワー百倍。セレンがセレンと思わなかった。ごめん」

「ありふれた名前でもないけど」セレンは照れ笑いをした。

「友達? 私の言うことが聞けぬというのか」上帝は憤った。

「上帝の言うこと何でも従う。でもこれだけは聞けない」上帝はあらためて怪物の顔をまじまじと見た。

「あっ! おまえはあのときの…、牢番か!」

「へっヘー。頼みの綱の親衛隊もあんたの言うことは聞いてくれないよ」

「ぐぬぬぬう」上帝は口惜しそうに顔を歪めた。

「ほら、これあげるからリカさんを放せよ」そう言ってセレンは持ってきたレシピの書の箱を上帝の前に差し出そうとした。

「お前馬鹿! やめろ」老猿がそれをとがめた。

えっ、偽物だし。いいだろ? 小声でセレンは老猿に言った。

わかるものか。お前みすみすグランシェフを逃すことになるんじゃぞ。グランシェフになるのはお前の夢。そして我々の夢じゃ

そんなこと言ったってリカさんがいなけりゃこんなのただのゴミだろうが。

そう言ってセレンはポイッと上帝の方に放り投げた。


107

「あっバカ!」老猿はセレンをポカッと殴った。

「さあ、そのレシピの書、あげるからリカさんを返せ!」侍従たちの間でもどよめきが起こった。

「馬鹿な奴ですな。例え偽物でもあのまま渡して返してくれるとでも思うのか」

しかし上帝はセレンの放り投げたレシピの書には手を付けずしばし何事か考えていたようだった。そしてやがて口を開いた。

「ふふ…、いいだろう。もちろん偽物かどうか確認してからな。そして条件がある。いや何も命まで取ろうという訳ではない。心配するな」

「なんだよ。まだなんかあんのかよ」言いながら少しセレンは少し安心した。

「このわしに、最高の手料理を作るのだ」セレンは拍子抜けをした。

「はん、そんなのお安いごようさ」

「ふふふ、それは良かった。だがな、よく聞くのだ。手料理だぞ」

「手料理だよな…。無添加で作るよ。材料は何か指定あんのか?」

上帝はニタっと笑った。セレン達に緊張が走った。何を要求されるのだろう? やっぱりあんなに安易に与えるべきではなかったとセレンは後悔しかけた。

「ふふふ…、今材料は指定したはずだ」上帝はにやりと笑った。

「え? 嘘だよ。手料理って言っただけじゃねえか。いったいどんな材料を使ったどんな手料理をご所望だい?」

「だから言っておろう。フフフ、お前の、その手の料理だ!」

「俺の手?!」

「左様。お前の手を使った料理だ。お前の手をな。すなわちお前の手料理だ」

「ふざけるな!? この期に及んで駄洒落かよ」

「嫌なら良いんだよ。返さないまで。ああ、そうそう。それが嫌ならそうだな。お前の仲間をメインにした手料理でも良いぞ。もちろんこの場合、全部使ってもらうがな」

「てめえ…」

「汚いわ。セレンこんな奴の言うこと聞くことなんか無いわ」

セレンは一瞬目の前が真っ暗になったようで、下を向いた。いろいろなことがセレンの頭の中を駆け巡った。

「手か…」セレンは自分の手を見つめた。セレンの頭には自分の手で様々な料理を生み出す自分のイメージが浮かんでいた。セレンにとってそれが出来なくなることはすなわちすべてをあきらめることを意味した。そうかといって仲間を売ることはみじんも考えられなかった。

「お前、それは駄目だ。それだけは…、お前のその手は、これからも沢山の動物を救うんだ。早まるなセレン」セレンはいっそう苦しそうな顔をした。

「さあ、どんな料理で楽しませてくれるのかなあ?」

上帝はしたり顔で、セレンを見つめた。

セレンはじりじりと汗をかきながらお湯を沸かし始めた。おもむろにセレンは上帝を睨んだ。

「セレン! 止めて。私のためにやることなんて無いわ」

セレンは鹿の娘の言葉には耳を貸さずに上帝だけを睨み、言った。

「本当だな? 本当に俺の両手を差し出せば、リカさんは助けてくれるんだな?」

上帝は、にやりと笑い、うなずいた。

「ああ、本当だ。お前の望みどおり、この娘を返してやろう」

「嘘よ。絶対嘘だわ。このいんちき上帝はセレン、あんたの腕が邪魔なだけなのよ。あんたの手を差し出したって、どうせ私は処刑されるわよ」

「ふっふっふ、そんなに信用して無いのか? 心配するな。必ず返してやる。それにお前だって命まで取られる訳ではないのだ。これほど慈悲深い支配者も居ないであろう。ふふふ、その代わり、最高の料理に仕上げるのだぞ」

上帝は舌なめずりをしていた。

「嘘よ。それどころかセレンが手をなくした後で、私とセレンを両方料理する気ね?」

「ふ、どこまで信用がないのか。悪い取引ではないと思うがな」

「セレン、いいから私に構わず逃げるのよ!」

「セレン、そんな取引すべきじゃない」「絶対ダメだぞ」老猿やハリージ、ハナコも一斉にセレンを思いとどまらせようと説得して来た。セレンは下を向いたままだった。しびれを切らした鹿の娘は言った。

「セレン!」

セレンは優しいまなざしを鹿の娘に送った。

「わかってるでしょう? レシピの書が解読されてしまった今、私なんか救ったところで何の価値も無いのよ。あなたの手が犠牲になってしまったら…そのあなたの手は本当に沢山の動物たちを幸せにしてくれるわ。だから、お願いだから逃げて」

「セレン、お前本当にいいのか? シェフになるのが夢だったんじゃないのか? お前の夢はこれで終わってしまうんだぞ」今度はハリージだった。

「ああ、」セレンはぐいと進み出た。そして言葉を継いだ。

「悔いは無い。たとえ俺の手が無くったって料理は出来るよ、きっと。それより…」セレンは言いかけて鹿の娘の方を向いた。

「リカさんを失ったりしたら僕は生きられない。そしたら誰も救えないよ」鹿の娘は瞳が潤いで決壊して涙が溢れ出てくるのを辛うじて抑えていた。そして首を振った。

「駄目よお願い、逃げて」

「逃げろ! セレン」

メインキッチンを囲ったダイニングの分厚い壁の外を厳重に警備していた犬の憲兵たちも野次馬や野次豚たちのあまりの圧力におされ気味だった。

「ふふふ、随分と人気があることだねえ、セレン。別に逃げてもいいんだよ」

セレンの額からは汗がドバドバと噴出していた。

「いいや逃げない。あんたにはもったいないけど、この世で最高の料理を作ってあげるよ」

「そりゃ楽しみだ。包丁をこの公の場で使うのは仕方ない、今回に限り認めてやろう。お前の手料理、楽しみにしておるぞ」上帝は笑いが止まらないと言った態だった。

「くう」ハリージはこの上帝を張り倒してやりたかったが、それは到底無理なことだった。周りにライオンをはじめトラがぎっしりと上帝の周りを囲み、更にその周りを犬の憲兵が囲み、そしてその後ろには親衛隊が控えていた。先ほどのムームーマはいつの間にか伸びていて他の親衛隊の手には注射器があった。反逆の制裁が加えられたのかもしれない。その他にも同じくらいの実力の親衛隊はいるのだ。


108

老猿はハリージの手を暴走しないようにつかんでいた。ハリージは冷静では居られなかったが、それはセレンのことばかりでなく、さっきから何故だか異様に大きな異形な顔が頭に浮かんで離れなかったからだった。何だろう。思い出せなかった。

大釜がゆらゆらと煮えたぎり始めていた。

「ハナコ、手を切ったら俺の調理はたのむよ。指示は出すから」

「お、俺が?!」

「さあ、じゃあ出汁からだ」出汁は豚が使われた。どうしても使ってくれとうるさく言うものだからセレンも仕方なくといった感じだった。

「それじゃあいくぜ」

みんなはセレンが手を切るのを、固唾を呑んで見守った。セレンは目をつぶった。

沈黙がしばらく続いた。

ごめんセレン。せえーの! 勢いよく包丁がセレンの手めがけて振り下ろされた。

ゴキーン

「あっつ!」鈍い音が響き渡った。

あれ? セレンは何一つ痛みを感じていなかった。しかし間違いなく手は見事になくなっていた。何も痛みは感じられないのが変だった。逆に老猿が顔をしかめていた。

「じ、じいさん、もしや」

老猿は手を隠していた。よく見るとセレンの手は何か違う物で覆われ無事だった。セレンは目の端にお鼠の部下の尻尾を捉えた。老猿は本当に目立たないようにウインクをした。

「じゃ、じゃあハナコ。行くぞまずこの手を…お湯の中に突っ込むんだ」

セレンは何がなんだかわからなかった。老猿が何らかのトリックで身代わりになってくれたのか?

「じいさん、あんただけずるいぜ」

「いや心配するな、これは」ハリージと老猿は小声で話した。そして空を見上げた。

風は強く、遠くギンザを超えて吹き渡っていた。上帝は愉悦の顔を浮かべていた。

ハリージは物思いに耽っていた。それはほんの数分だったかもしれないしほんの数秒も無かったかもしれない。しかしハリージはふと何かを確信したのか口を開いた。

「怪物ってあの親衛隊だけだろうか?」

「何を言ってるんだ? 確かに辺境ならまだいろいろ居るだろうが、その最強の怪物を牛耳るのがこの上帝という訳だ」

「いや、それよりももっと本当の怪物が居るんじゃないかということさ」

「…それはどうだろう? おまえ…何が言いたいんだ?」

「居るんだよ。絶対に。あれは幻じゃなかった」

「………」

「怪物が? それと今の状況とどう関係あるんだよ?」セレンにはハリージが何を言っているのかわからなかったが何かを決意したように見えた。

「帰る時が来たんだなってな」

「はあ? どこへ?」

「いくら手を提供したところで、あの上帝が俺たちを解放してくれることはなさそうだ」

そしてハリージはセレンに向き直った。

「本物のシェフは別世界に連れてって元気にして返してくれるんだ。それに怪物に対処できるのは本物のシェフだけだ」

「…どういう意味だよ?」セレンは浮浪者の言っていたことを思い返していた。

「そうじゃ、お前のじい様はよく言っていたぞ。食材だけじゃない。世の生きとし生けるものは誰も、いや動物だけじゃない。植物だって鉱物でさえももう一つの世界でその分身が生きているんだって。この世界は向こうの住民の心の中だって。だからこの世界の料理人の役割は想像力溢れる料理を作って向こうの世界の住民を惹きつけることだって。それが二つの世界を繋いでおく唯一の方法だって」

ハリージは老猿の言葉にうなづきながら言った。

「今がその返してもらう時だ。お前ならそれが出来る。だから向こうの世界に帰ってもまた引き出してくれるよな。あの時みたいに…」

「あの時って? どういうこと?」セレンはハリージの言っていることがわからなかった。だが老猿は何かピンと来たようだった。

「お前まさか?! 辺境の怪物を信じてるのか?」

「信じてるんじゃない。奴のそばを通って俺は来たんだ。セレンの料理に惹かれてな」

「馬鹿な! やめろ。そりゃ夢を見たんだ。おい、お前は本当に関係ないだろう。やめろ。本当だったとしてもお前はモノリーなんだ。料理ではどうにもならん」老猿はすぐさまハリージを捕まえようとしたが、ハリージが満月のときにしては速い動きだったのと老猿自身の手が怪我をしていたのでするりと抜けて捕まえ損ねた。既にハリージは鍋に身を乗り出すところだった。

「頼んだぞ、セレン。俺をまずあの辺境のところまで飛ばしてくれ。なに、今日は満月だ。雑作も無いことだろう。最高のトリップを任せたぜ。またな」

そう言ってハリージは自ら熱湯ぐらぐらした大釜に飛び込んだ。

「あ!!」セレンは手を出して止めようとしたが老猿に止められた。

「ハナコ、すぐ火を止めるんだ!」セレンは叫んだ。老猿は何か思い当たる節があるのか下を向いていたが、何かを確信したのかおもむろに顔を上げた。

「いや…、いや、逆だ。もっと火を強くだ! 最強にするんだ!」老猿は言った。

「そんな、死んじゃうよ」

「馬鹿やろう、もう遅い。それにあいつは元々向こうの世界からやって来たんだ」

「え?!」セレンは裏腹に驚いてはいなかった。しかし自分でもどうしたら良いか分からなかった。

「わからないのか。ハリージの気持ちが。これは引き出すんじゃなくて送り込むやつだ。奴は料理したところでモノリーで同じ世界にいる以上引き出す事はできん。奴は伝説を、お前を信じているんだよ。それにかけるしか無いんだ」

「何だよそれって」

「モンスターだ。伝説のモンスターを呼び出すんだ」

「でもモンスターってそこにいるじゃないか」

「ふ、馬鹿な。そのモンスターはすでに世がつかっておる」上帝はほくそ笑んだ。

「分からんがハリージには何かの確信があるのじゃ。遠くへ遠くへ飛ばすのじゃ」

「ふ、下らん。まだそんな伝説を信じているのか。く、くはあああはあはははは」上帝は笑いが止まらないようだった。

セレンは悔しくて納得もいかなかったが、どのみちもう最早手遅れなのを悟り涙を滲ませながらハナコに火加減を上げるように命じた。

素材を飛ばすって言ったって…。素材を引き出すのは何となく分かるどころか得意なセレンだったが、逆に飛ばすのは初めての経験だった。それに飛ばしたところでこのメインダイニングは外に繋がっていない。外では無数の犬の官憲が壁を作り蟻の子一匹通さない構えなのだ。既に自分たちも蟻もネズミも通っているけれども。それでも今回はさすがに無理だと思った。どこにあるか知らない辺境に飛ばすだなんて。

「じいさん、どうすりゃいいんだよ? 排気口にでも吸わせる気かよ」

「わからん。考えるのじゃ。こればっかりはお前にしか出来ん」

セレンは戸惑った。通常、素材の味を引き出すためには弱火でじっくり煮出すが、逆に風味を飛ばすためには強火で一気に煮出すことが必要だった。どっちにしても弱火ではそれだけ長時間ハリージは苦しむことになる。ハナコは戸惑いつつ指示通り一気に火力を上げた。セレンは傍でハナコの調理を見守りながら頭の中はハリージとの思い出でが次から次へ巡った。特別なことは何もしなかった。というより出来なかった。ただとにかくハリージのことを考え想像し続けることだ。セレンは何故だかそう考えた。ひたすらハリージのことを思った。心の中でハリージと会話をした。そうするとハリージが別の姿になってセレンに話しかけてくるようだった。

その時だった。

「あ」セレンは声を上げた。

「なんじゃ?」

「じいさん分かんないのかよ」セレンは中空を指した。

セレンは中空、丁度ハリージの入った寸胴の上に確かにぽっかりと穴が開くのを見た、正確に言うと感じた。

「わからん」老猿の返事を聞いて、セレンはそれ以上口を閉ざした。

不思議なことにハリージの身体はどんどん溶け亡くなっていた。まるで火葬ならぬ六右衛門の釜湯でを見ている気持ちになった。辺りによい香りが立って来るとそれは其の穴に吸い込まれた。穴は再び閉じられた。そうセレンは感じた。セレンはハリージの旅路の安全を祈った。

 

109

 恐怖や苦しみは一瞬だけだった。水蒸気と一緒に気体となって、ハリージは自分の体が分解されて行くのを感じた。不思議と熱さは感じなかった。中空の穴に吸い込まれて、楽々と王宮のセレン達を囲っている檻を抜けることが出来た。その周りには犬の官憲達がびっしりと取り囲んでいるのが見えた。ハリージは意識が朦朧とするのを必死につなぎ止めた。このままでは散開してしまうばかりだ。もはや水蒸気と気化した物体でしかないハリージだったが、その眼はまだ残っているのかのように意識を集中させると鮮明に見えてきた。まるで意識の中に全て生きるための器官が備わっているかのようだった。とはいえあまり凝集させる訳にも行かなかった。そうすれば再び固体になってしまうかもしれない。(ハリージの仕事はとにかくその伝説のモンスターのところ迄自分を飛ばして、ここ迄呼ぶことにあった。)

 気体は野を越え山を越えた。どのくらいそれらを越えたかわからない。幾千も野山を越えた。そしてそのモンスター山と見まごうばかりの図体でそこに横たわっていた。

「おーい、おきてくれえ」しかしモンスターは何も気づく様子も無く大きな大きな寝息を立てていた。

「ちっきしょう、このやろう!」ハリージは腹立ち紛れにこのモンスターにけりを入れたが一向にモンスターは起きない。それもそのはずでハリージはもはや自分が気体であることを忘れていた。声を出したとてモンスターに聞こえようはずもない。困り果てたハリージはとうとう意を決してこのモンスターの鼻の穴に飛び込むことに決めた。

「う、うわあ」最初、モンスターの鼻の前に立つと、セレンはもの凄い勢いで吹き飛ばされた。そうだ、息を吸うタイミングを逃さないようにしないと。ハリージはタイミングを計った。息を吐き出し、そしてそれが止まった瞬間、ハリージはあらん限りのスピードでモンスターの鼻の穴に飛び込んだ。ハリージは勢いよく鼻の穴に吸い込まれた。ハリージはそのまま意識を失った。気化したハリージはそのまま分子に迄分解され、この世でハリージはハリージでなくなった。

 モンスターは眼を覚ました。モンスターは鼻をひくひくした。そしてこの匂いの流れてきた方を向いた。モンスターは立ち上がった。百年の眠りから目覚めたのだ。


110 夢が開く


「フフフフ、なかなかの美味。しかしハリージとやらの風味は見事に飛んでいる。こうも香りが飛んでいたのではな。しかも猿の手の味はしない。豚だ」そう言って上帝はにやりと笑った。セレンは焦った。そりゃ自分の手じゃないけど…、じいさん…。ひやりと汗が出る。それでもひるんでも居られない。

「さあ、約束だ。リカさんを返せよ」

「甘いなセレンとやら。ハリージの味はともかく、香りは完全に抜けていた。これでは満足のいく料理とは言えまい。それに手は、セレンお前のものに見せかけて実はそこの老いぼれの手、と更に見せかけその実、豚のミンチ。そのようないんちきは私の舌にかかれば通用せんぞ」セレンはキッと老猿をにらみ、老猿は申し訳なさそうな顔をしてしっかりとある手で頭をかいた。

「汚いぞ! 約束は約束じゃないか! いくら手が偽物だって、ハリージが犠牲になってくれたんだ」

「約束? どっちが汚いのだ。どのみちあのクオリティーでは約束以前の問題だ、おい」そう言って犬の官憲を呼ぶと、セレンをひっ捕らえるように命令した。

「やはりセレン。お前の腕の料理を頂くとしよう。どれ、今度はわしが自ら料理して進ぜようか」上帝の命令に従い、犬の官憲たちがセレンを取り押さえた。

「く、はなせ! はなせよう」

「上帝陛下、ちょっとお待ちください」一頭の虎の侍従だった。

「なんだ? まさか助けろと言うのではないであろうな」しかし周りの侍従や官憲たちも何か異変を感じ始めたのか、それぞれが辺りを見渡した。

「聞こえますまいか?」

侍従の言葉に一同は一斉に周りに耳を傾けた。

「こ、これは」

壁伝いに怒号が振動になって伝わって来た。メインダイニングからは何カ所か外の明かりを取り入れる窓があったのだが、今まで犬の壁で覆われてのがすっかり消えて、そこから家畜達が顔を覗かせていた。そしてとうとう窓ガラスをぶち破った。

 逃げて! 汚いぞ! ふざけんな! 初めて見た! あんな猫やろうだなんて…。

そうだ、そうだ! お願いだから逃げて!

メインダイニングの窓の外から複数の声が聞こえてきた。

「ど、どういうことだ? なぜ奴らはここにいるのだ?」上帝は王宮の周りの野次馬、いや野次豚を見渡した。いつの間にか王宮は彼らに取り囲まれていたのだ。

「は、申し訳ございません。あれだけ警備犬を置いておいたにもかかわらず圧力が甚大で破られた模様です」

「まさか?! あれだけの屈強の警備犬の壁が破られる? 王宮への進入はさすがに大丈夫だろうがな? これだけ堅牢なのだ」窓ガラスは破られたとはいえ、そこには極太の鉄格子がはめられ、家畜達にとってもさすがにそれ以上の侵入は不可能だった。更に上帝は王宮のメインダイニングの壁を見た。その壁は分厚く、たとえ親衛隊が束になって体当たりしても破られそうにはなかった。

「はい、それはもう。すぐ排除いたします」

「家畜どもが…、すぐ取り押さえておけ」上帝ははいて捨てるように言った。しかし豚や牛の家畜達の数は圧倒的でいかな屈強な侍従といえどもとても抑えておくことは出来なかった。それどころか不平のヤジはますますエスカレートしていった。

「うぬぬ、うるさいやつらめ」

「約束は約束だろうがほら返してくれよ。そうでなきゃこのギャラリーが黙ってない」

上帝は思案したがそれでも一つも慌てるようなことはなかった。

「わかった。それならばセレン。世と勝負しよう。お前が勝ったら文句無くこの娘を返してやろう。そのかわり世が勝てば約束通りお前は今日のメインとなるのだ。良いな?」

「分かった。望むところだよ」


   111料理対決

「テーマはなに?」

「ふふふ。何でもよい。美味しかった方が勝ちだ。調理補助として仲間を使うのは構わない。審査はそこの貴族達にやってもらう」セレンはそれを聞いてメインダイニングに一同に会して座っている貴族達を眺めた。決してライオンばかりではなかったがほとんどいや全てがライオン族出身だった。

「不公平じゃないか?!」

周りからもヤジが飛んだ。

「嫌ならやらなくてよい。そのまま娘共々メインに供するのみ」

セレンはほぞを噛んだ。どのみちやるしか無かった。

「わかった」

「食材はここにあるものなら何でもよい。制限時間は一時間」

セレンは声を発すること無く頷いた。

「はじめよう」緊迫とはかけ離れたそれが開始の合図だった。

セレンはあたりを見渡した。最早どうでも良いと思って自分の手を解放していた。それは老猿も同じことだった。上帝も気にしている様子ではなかった。むしろ完全体のセレンを料理することを喜んでいる風だった。

 上帝は決して速い動きではなかったが着実に調理を進めていた。上帝は余裕そうだった。どう転んでも審査は自分の味方なのだ。もはや頭の中は目の前のセレンをどう調理するかで一杯だった。

なにを作れば良い? 材料はいくら用意されているとはいえ限られている。どれも生気を失っているようでちょっと齧っても味が薄かった。これでは上帝といえども調理に苦労するはずだ。

 しかし上帝の調理はセレンの予想を超えていた。親衛隊と侍従が補助に廻り何頭もの牛肉を焼いて香味野菜と一緒に煮込みはじめた。あれだけ屈強の侍従や親衛隊なら大きな牛を捌くのもわけは無かった。そして一斉にコンロを出し同時に煮込み始めた。

「これは…」

「じいさんあれどうするつもりなんだろう?」

「あれは…いやまさか…コンソメだ」

「コンソメ!? コンソメって凄く時間かかる奴だろう? 一時間で間に合うの」

「確かに普通にやったら無理だ。でもあの寸胴のスープをそれぞれ違うように煮詰めてから合わせたら」

「そんな…、大胆な」周りの貴族もよだれが垂れるのを抑えきれないようだった。

「しかももしそうなら奇をてらっただけだがよく見ると一つ一つのやり方…あれはどこかで見たことがあるような…」

「ふふふカイレン。よくぞ見抜いた」上帝はそのそれぞれの寸胴に生のハーブと良く調合されたと思われるハーブを振り入れて廻っていた。生のハーブは庭の専用のハーブ畑から厳選のハーブを侍従が刈り取ったばかりだった。

「そうだ。レシピの書だ。そもそもこんなものどうでも良いのだがせっかくだから参考に作ってみるわ。完成したら処分させてもらうわ。わっはっはっは」上帝の高笑いは止まらなかった。今更ながらセレンはレシピの書をただであげたことを後悔した。

「じいさん内容知ってるのかい?」

「もちろん知らない。だけどあの作り方は昔見たことがある」

「あの鍋を並べて作るのが究極の作り方ってこと?」

「そうではない…だがどこかで…はて」それ以上老猿は答えられなかった。老猿の肩にはお鼠がちょこんと乗り渋い顔で状況を見ていた。いずれにしてもあれだけの牛を同時に使われたらいくら一頭一頭の肉の味が薄くても合わされたら結果まねの出来ないくらい濃厚で美味になるのは予想できることだった。いくら手伝いは何人でもよいと言ってもこちらに力のある動物は居なかった。ライオン王は伸びてるし仲良くなったムームーマも注射を打たれ眠らされている。

「ただ流石に煮詰める時間はないじゃろう」だが老猿の見込みはすぐに裏切られた。

二〇にも及ぶ寸胴はそれぞれが分厚い蓋をされ、耐熱防備を装着した侍従たちや親衛隊の怪物たちが上から万力のような圧力をかけていた。

「あれなら短時間で終わるよね」セレンは焦った。これでは審査員が仮に公平に審査してもとても勝ち目が無い。上帝は着々と作業を進めていた。ここにある食材はとうに命を奪われていた。いくらセレンが食材と会話が出来ると言っても死人に口無しでは限界がある。かつてのミンチを作った時のように微生物に協力を頼むのもこの完璧に滅菌されたキッチンでは無理そうだった。

「どうする? セレン。何でも使っていいと言っても使える食材は限られてるぞい」老猿は話しかけ、ハナコは心配そうにセレンの顔を覗き込んだ。この特設キッチンには既にさっき向こうの厨房で仕込まれた食材が運び込まれていた。

セレンは食材を見ながら何か思案しているようだったが何故か足はリズムを刻んでいた。不規則な振動が自分の内からわき起こってくるのを感じていた。それはいつしかセレン自身の内なる衝動に取って代わっていた。

「イワシを使うよ」

「イワシだってえ?!」

会話を耳にしたのか上帝はほくそ笑んだ。そして我慢しきれずに会話に割って入った。

「くくく、イワシでなにを作るんだ? イワシ丼か? イワシの寿司か? そんなもんで勝てると思うのか?あはははは」

「まあちょっと見ててよ」セレンは淡々と、優しく、死んだはずの小さなカタクチイワシ達に話しかけた。

上帝は傍目でセレンを見ながらにやにやが止まらなかった。

「あれ? おかしいな」

「セレンどうした?」老猿は心配そうだった。

「声が全然しない」

「声だって? 死んでるのにするわけないだろう」

「いやそれは分かってるんだけど、そうじゃなくて…、」

「ああ?」老猿は怪訝な顔をした。

「ふふふ」上帝は余裕の笑みを浮かべた。

セレンは必死にカタクチイワシに話しかけていた。

「はあーはっはっは、気でも狂ったかセレン。さすがのお前でも死んだ魚と話すことは出来まい。はあーはっはっは」上帝の言った通り、カタクチイワシ達の目は一向に蘇りそうになかった。

「セレン…」セレンを心配して老猿やハナコはセレンを囲んだ。尚のことセレンはぶつぶつと死んだ魚にささやいていた。

「まさかお前、本当に上帝の言っている通りおかしくなったんじゃないだろうな」

お鼠も離れたところからセレンを見守っていた。しかし急に上帝の表情が一変した。

「馬鹿な!アンチョビか?」

「お、さすが上帝さん」

「ふふふ、本当に気が狂ったようだな。せいぜいイワシの塩がけでも作っておくんだな」

「セレンお前、本当か? いくら何でも無茶だ。まともにやったら3ヶ月かかる代物をどうやって」

「え、そんなにかかるの?」まわりはずっこけた。

「知らないでやってるのかよ。今すぐ戦略を練り直せ」

「いや、冗談だよ冗談」セレンは急に慌てるそぶりを見せた。しかし一向に作業を変更することは無かった。

「フッフッフッフ、馬鹿が。アンチョビはどんなに早くても最低1ヶ月はかかる代物。しかも微生物の助けをほとんど必要としない。そもそもこのキッチンは菌一つ発生しない徹底的な滅菌厨房だ。ナンセンスだ」上帝の指摘を他所に、セレンは一心不乱にまだぶつぶつと独り言をつぶやいていた。

「おまえ、そんな…、死んだもんは生まれ変わっても生き返らんぞ」

セレンはなおも集中していた。

「おまじないか。こりゃあ愉快だ。まじないで料理がうまくなれば世話はない。わーはっははあはあ」

時間は既に30分経過していた。それまでに上帝の方は着々と調理が進んでいた。

一方セレンの方はと言えば未だキャベツをカットして洗っただけだった。

しかし喧噪の中で、一瞬セレンと上帝の表情が止まった。

「いた!」突然セレンは叫び声をあげた。

「いただと? 突然なにを」老猿はセレンに問いただした。

「…、ふふふふふわははっはは、嘘を言うな。お前は何も分かっていない。それではアンチョビは作れないわ。自己消化を知らんと見えるわ。わーはっはっはっは」上帝は笑い転げた。

セレンは構わずにカタクチイワシの死骸に向かって話しかけ続けた。

「おいセレン。後どうすれば良いんだよ? 本当にキャベツ切っとくだけで良いのかい?」

「ああもうすぐだ。もうちょっとまってくれ」

一方、上帝チームは既に並列したそれぞれの寸胴の中身を順々に濾して合わせ始めていた。

「ものすごい物量だ。水じゃなくてコンソメでコンソメを作ってるんだ。しかもそれぞれの鍋を合わせれば10頭分だ。圧力鍋効果も手伝っていくら短時間でもものすごい濃厚なコンソメが出来そうだ」

事実出来たコンソメに更に肉を入れそれを順に繰り返し、20もの寸胴は今や3つまでに濃縮され、審査員のところにまでえも言われぬ抗いがたい芳香を届けていた。

「うわあ、何て匂いだ!」更に卵の殻を入れ澄まし工程にも手抜きは無かった。

「こんな短時間でここまで仕上げるなんて。第一、一時間でコンソメを作る何て聞いたこと無い」審査員は口々に上帝への賞賛を惜しまなかった。それに引き換えセレンの方は未だ何も進んでいないようだった。残りは五分を切っていた。

「セレン! 後五分だぞ。もうさすがにだめだ」老猿は肩を落とした。アンチョビをこの場で即席で作ろうとしたところで不可能なのは火を見るよりも明らかだった。

「どちらも常識では考えられんが、これは上帝陛下に軍配が上がりそうですな」

「当然ですとも。どうして猿ごときが」審査員も舌なめずりに忙しかった。

セレンは最後まで塩漬けにして油漬けになったイワシに語りかけることを辞めなかった。

「最早宗教。ナンセンスも甚だしい。見込み違いだったか」上帝は勝利を確信した。

「セレン、もう時間がない。形だけでも料理にしよう」あきらめムードの中老猿ははっぱをかけた。

「じゃあキャベツと和えて、と」セレンはキャベツと茶色に変わったカタクチイワシを混ぜ、味見をした。

「どうしよう…、後ほんの少し酸味が欲しい。そしたら完璧——」

くわあーん

無情にもプロレスのゴングのような鐘が鳴った。それが終了の合図だった。


112

「どちらからサーブしよう?」

「どちらでも良いよ。スープ冷めてもなんだからそちらからどうぞ」

「ふふふ、ならば遠慮なく先に出させてもらうぞ」

上帝の完成したお皿が審査員の席に運ばれた。

「まあ、何て綺麗なの?」

「そしてこの香り」

巨大な20個の寸胴が、今では小さなデミタスカップ10杯に濃縮されていた。供されたコンソメスープは決して雑に煮詰められた訳ではなく、綺麗な琥珀を帯びた黄金色に光輝いていた。それを目にした審査員達は、その輝きに劣らないくらいに目を輝かせた。

「さあ、召し上がれ」上帝の合図とともに審査員達は一口飲み、簡単の声を上げた。

「うわあ、すごい! 信じられない」

「ものすごく濃厚。もはやスープというよりステーキ」

「本当に事前に仕込みも無かったんでしょうか?」

「美味しい。信じられないくらい美味しい。さすが上帝陛下です」

賞賛と感嘆が止むのにしばらく時間がかかった。

「さて、次に、この猿の料理を審査願います」

セレンのお皿が各審査員に運ばれた。

「ふふふ、アンチョビキャベツか。この真剣勝負で、世もなめられたものだ」

「本当ですなあ、見た目だけは本当にアンチョビっぽくなって…、どうせさっきと同じようにごまかしたんでしょう」

上帝は何となく侍従の言葉が気になってもう一度セレンの完成した皿を見た。例えアンチョビっぽいものでもあのカタクチイワシがこの一時間で発酵して分解されて赤茶色のアンチョビになるわけはないのだ。

「馬鹿な…」上帝はその皿を一目見て思わずつぶやいた。上帝は今日の食材を全て把握していた。上帝の把握している食材のリストに発酵アンチョビは無いはずだった。

「どうせまたごまかしたのであろう?」

「そんなことはないよ。いや、そうともいえるかも」

「ふ、まあ結果は明白だ。例え本物のアンチョビが持ち込まれていようともたかがアンチョビキャベツが世のコンソメを越えるはずも無い」

「うん。そうかもしれない」セレンはあっさり認めた。鹿の娘はそれを聞いて卒倒しそうなのを必死にこらえていた。嘘でも良いから勝利宣言が聞きたかった。

「でも負けるとも思わないよ」セレンはしきりにさっきから後ろをちらちら気にしている様子だった。

「もしや猿。まさかこの期に及んで逃げようとしているのではないだろうな?」

しかしセレンはそれには答えずに無言で何かを目で追っているようだった。

「ありがとう。完成だ」そうつぶやいたセレンは上帝に向き合った。

「いま何て言ったの?」上帝はセレンの言葉にいきり立った。

「おのれい…、さあ、早く審査を。直ぐにこの猿を料理すると約束しよう」

しかし審査員は上帝の促しにそのアンチョビキャベツを口にするどころかのけ反った。

「ひっ、これは…」

「ありんこだ」それぞれのお皿には何故か感じよく生きた蟻が散らばっていた。

「さあ、どうぞ」

「ふざけるな! 蟻の這っている料理なんて多べられるか!」

審査員は口々に罵詈雑言浴びせ、すぐさま上帝の勝ちを宣言した。

「なるほど蟻によって酸味を足したという訳か。しかし見た目も料理のうち。お前の負けだ。勝負を認めよ」

「え? ちょっと待ってくれよ。一口も食べずにそれは無いよ」

セレンの言葉に渋々審査員はそのアンチョビキャベツを口にした。緊張が走ったが咀嚼音はしかし振動にかき消されがちだった。この震動源はセレンにはわからなかった。

「ふふ、旨味などあろうものか。一時間でアンチョビの旨味など出る訳が無い」上帝はほくそ笑んだ。

沈黙があった。しかしそれは地を揺るがす音が緩やかに埋めていた。

「どうだい?」

「………」

「だからどうなんだい?」セレンは詰め寄った。

「どこで手に入れたんだ? このアンチョビは」一名の審査員が沈黙を破り、次々に他の審査員が呼応した。。

「食感もプチプチして、心地よ、いや気持ち悪い」

「ちょうどいい酸味、いや酸っぱい」

「それにこの旨味、いや旨すぎる。じゃ無かった不自然な発酵臭と完璧な食感、いやインチキだ」

「ほめてんのかけなしてんのかどっちだよ?」セレンはなにを言われているのか分からなかった。

「アンチョビが1時間で出来る訳が無い。いかさまだ」

「いや、見てただろう? 正真正銘今作ったんだよ。正確には作ってもらった」

「ばかな」口を挟んだのは上帝だった。上帝は審査員から奪ってそのアンチョビキャベツを口にした。

「ど、どういうことだ?」

「食べてもらった通りだよ。今度はインチキじゃないのは分かっただろう?」

上帝はそれには答えなかったが納得がいかないようだった。

「どうして…、微生物が発酵を手伝うにしても、通常アンチョビの発酵は微生物の働きは極僅か。基本はイワシ自身の持つタンパク質酵素による自己消化によるもののはずだ。微生物は関係ないんだ」

「いやでも実際やってもらったもん」

「嘘をつけ! このキッチンは徹底的にサニテーション管理をし滅菌しているのだ。微生物一つもいないはずだ」

「でもいたんだなあ、これがまた」

「ばかな! イワシはあらかじめ徹底的に洗浄もしている、抜けがあったと申すか、あっ」

上帝の言葉に周りの侍従が縮み上がらんばかりだったが、上帝は何かに気がついた。

「そうだよ。菌や微生物は表面だけに居る訳じゃない。現に内蔵にいたんだ。それにすでに蟻さんはこのキッチンに侵入してるし」

「ぐぬぬ、しかし…、アンチョビは自己消化によるもの。微生物の働きは極僅かのはず。この一時間で発酵は不可能。それに仮に微生物が増殖したとしても発酵に役立つ類いとは限らない」

「だから、そうじゃなかったけど協力してもらったんだよ。その上で増殖してもらった」

「馬鹿な…、」上帝は言葉を失った。毎度ながらこの言葉が発せられる度に馬と鹿は過剰に反応した。

「見くびるな! 微生物に命令など世にも出来る。しかしいくらその生き残った微生物が増殖したところで10が1000になるのがせいぜい。アンチョビになるには桁が違うはず。それぞれに命令が行き渡るのにいくらなんでも1時間は無理だ」

「命令なんかしてないよ。友達だから。どんどん集まってくれたんだ」

上帝の顔

「そうか…、一匹一匹の微生物にはそれでも数えきれないくらいの人生を裏に抱えている。命令だったらその一匹までだが友達なら連鎖する、か」お鼠はつぶやいた。

「ともだち…」上帝は呆然とした。

「おねずみさまどういうことですか?」老猿は尋ねた。

「この世界はまだ、辛うじてあちらの世界と細いパイプで繋がっておるのだ」上帝はお鼠の言葉にはっと我に還ったようだった。

「それだ。それを断ち切るために世がここに居るのだ。さあ、審査員達よ」

上帝の促しにより判定は下された。各々が美味しい方を申告した。

「判定は10対0、勝者、上帝陛下!」

「えええ、そんな馬鹿な! 上帝自身が納得してんじゃん!」セレンは猛然と抗議した。

「そうだそうだ」

「ありえねえ!」

「ありえないでぶ〜」

「ぜったいおかしいも〜」

高窓の隙間から家畜達も抗議の声を上げた。

「うるさいわ。誰が納得したと言った? 確かに驚いたのは間違いないが、審査結果は審査結果だ」

「だけど審査員は完食みたいだけどね。それに引き換えあんたの作ったコンソメはどうなんだい?」

見ると、各審査員のデミタスカップにはまだ半分以上の液体が残っているようだった。

「いやこれは、熱かったので」そう言って審査員はこぞってデミタスカップの中身を飲み干した。

「えー、今更? それこそインチキだ」

「そうだそうだぶひ〜」

「あり得んも〜」

野次馬、野次牛、野次豚達の抗議は激しさを極めた。官憲は必死にとめようとしたが、どだい元々持っている圧力が違うのかそれは無理な話だった。それどころかますます抗議の圧力は強まった。

 ずどどどどどどどどどどどっどどお。振動がますます強くなって来ていた。

「そんなにこの王国に家畜が多かったのでございましょうか?」侍従はますます大きくなる野次と振動に不安になって上帝に尋ねた。

「な、なんだ? なんなんだ? この地響きは?」

今まで倒れていた王の耳に、食事をしている貴族たちに、そして侍従にも、そしてギンザのそこかしこでも明らかに地響きが聞こえてきた。

 「あわわわわわ、ど、どういうことだ? これは家畜達の反乱か?」 

「恐れながら上帝陛下、どうやらそれだけでありません、や、野生動物どもが王宮に!」

全辺境で圧倒的な野生動物の圧力に犬の官憲達は抵抗していたがやがて辺境の犬壁は崩壊し、ギンザへ王宮へとなだれ込もうとしていた。

「上帝陛下! 恐れながら上帝陛下!」

「どうしたというのだ?」

「どうやら野生動物だけでなく伝説の動物達が次々と―ー―」

「もの凄い数です、上帝様。これ以上無理です」


113

「ど、どうやらハリージの奴。やってくれおったようじゃ」

「ハリージさんが?!」セレンは眼を輝かせた。

「そういうことか!」

やった! ハリージ! 歓声が沸き起こる。

「次々と?」

「次々とこの王宮に向かってきているようです」

「…しかしこの堅牢な王宮のメインキッチンをなめてもらっては困るぞい」

野生の動物、並びに伝説の動物達は大挙して王宮に押し寄せ犬の官憲達をなぎ倒した。家畜達に道を譲られ、そのままの勢いで王宮の壁に圧力をかけた。しかし犬の壁はなぎ倒せても堅牢な王宮の壁は高く聳え立ち重厚な石造りで悠久の風雪に耐えてきた風貌で微塵も揺らぐ様子はなかった。

「ふふふふ。野生や伝説の動物が如何な怪力であろうともこの壁を揺るがすのは土台無理というもの。あらゆる衝撃に耐えるように作られているはずだ。世がこの国を支配して以来未だ誰にも破られていないのだ」

「いやこれ、すぐ壊れるわ」お鼠がぼそっと言った。

「でもこの王宮の壁はもの凄く頑丈そうじゃないか。こんな頑丈なのがそう簡単に壊れるはずが…」しかしお鼠の言葉通り意外とすぐに壁がギシギシ悲鳴を上げ始めた。そして裂け目がまずメインダイニングの壁をたちまち走り始めた。そこから王宮は簡単にみるみる破壊されて行った。

「ば、ばかな…」上帝もこれには意外な顔をするばかりであった。

伝説の動物達はいとも簡単に王宮の壁を壊すと、今度はセレン達の居るメインキッチンを取り囲む壁をさらに力づくで壊し始めた。

「ど、どういうことだ? こんなことってあるか? この未だ破られたことのない分厚い王宮の壁が…、まさか猿王め、ここまで見越して謀ったか?!」上帝は狼狽ぶりを隠せなかった。セレンもただ、壁の崩壊を呆然と見守るしか無かった。

「じいさん…謀ったってどういう事?」

「いや、これは動物達の圧力が思いのほか強いというべきではないか…」

「いや、まさしくもろいんじゃ」おねずみ様が口を挟んだ。

「どうしてそんなことが言えるのさ? ねずじじい」

「だってこの王宮つくったのわしじゃもん」みんなずっこけた。しかしおネズミは何処か誇らしげだった。

「これには訳があるんじゃ。かつてもこの王宮は同じように壁が壊された歴史があるのじゃ。お前のじい様が王様になった時は既に長いこと壁はそのまま放置されて穴あきの状態じゃった。それでわしが壁の補修を申し出たのじゃ。しかし王様はそれを拒否した。そのままで良いって言うんじゃ。わしはそれでも頑として引き下がらなかった。壁は絶対必要です、と。そしたらお前のじい様は言った。壁があるから侵略されるのだ。そもそも取られるものなんかなんも無いんだからと。その後わしとじい様は長いことやり取りがあったが、形だけでも調えるよう訴えたのじゃ。そしたらお前のじいさん、何て言ったと思う?」

「???わからないよ」

「そこまで言うならすぐ壊れる壁を作れ。それならお前の言うことを聞こう。それでわしも意地になって条件を申し出たんじゃ。壊れるのは承知しましたが見た目はもんの凄く丈夫そうに作ります。それだけは譲れません、と。そしたらお前のじいさん、渋々認めてくれたんじゃ。結局、後にこの上帝に門から正面突破されて蹂躙された訳だが、さすがにこの見た目が厳つい壁を突破しようとは思わんかったじゃろう。壊された門は後にこの上帝が本当に頑丈な門に改修している」

「でもどうしてそんなこと…」

「ふ、くだらない。すでに世に殺されるのを見越していたようだな、わーははははは」

「しかし今度はそれが自分に還ってくる番じゃぞ。この野生動物達をとめられまい。もっともわしらも巻き添えじゃ」

「何のためのレシピの書か、何のためのグランシェフか、今ではよくわかる。これは料理のレシピじゃない。このギンザを、この世を支配するためのレシピなのだ。ふふふ、あの猿王が世に渡したがらなかったのもよくわかるわ」

「でもこの事態を招いているのはおぬしのせいでもあるのじゃぞい」お鼠は老猿の肩から訴えた。既に王宮の壁は完全に壊され、野生動物が周りを囲んでいた。

「ふふふ、そうかな? 世には彼らが祝福に現れたように見える。蛮族が攻めてこようとこのグランシェフである世には関係のないことだ。お前達を料理する前にグランシェフの威厳を見せておこう」

そう言って迫ってくる野生の動物たち、辺境のモンスターたちに対して上帝は進みでた。その表情は今まで以上に尊大だった。

「おっほん、世が誰であるかわかっておろうな?」言われて野生動物達はお互い顔を見合わせた。

「世はグランシェフの上帝であるぞよ。レシピの書の解読はもはや終わっておる」

野生動物の一団は首を傾げ怪訝な顔をするだけだった。

「よ、世がグランシェフである。引き下がるが良い」

しかし上帝の言葉に野生動物達は引き下がるどころかますますにじり寄って来た。すぐ後ろには話にしか聞いたことが無かったような異形の怪物も混じっていた。野生の動物たちの反応がないことに気づくと、途端に上帝は引き下がった。

「何をやっているお前達。迎え撃つのじゃ」親衛隊たち、侍従たちは上帝に命令され、いったんセレンを解放し伝説の動物達と合い対峙した。親衛隊や侍従たちはそのモンスターたちに比べ決して力で劣ってなかったが多勢に無勢、とうとうそれら動物達の前に屈した。

「むううレシピの書が違うというのか、ということはまさかこっちが…」上帝はすぐに怪物達にセレンの持ってきたレシピの書を開けさせ、内容を改めて見た。

「ティモディニ…まさかこれがな…、いやそうか、そういうことか。どちらも本物だ。どちらもあって完成ということなのだな」上帝はもう一度そのレシピの書を読んだ。

「ふん、単純きわまりない…」上帝は再び前に進み出て、辺境の動物たちに対峙した。

ティモディニナリウティモディニナリウ

上帝の唱えた言葉ははっきりとセレンの耳にも聞こえてきた。サブメインで供されるはずだった豚も上帝の言葉を真似て口をぱくぱくさせていた。肝心の動物たちにも良く聞こえているようだったが何も通じていない。

「ど、どういうことだ? ティモディニナリウ、ティモディニナリウ。上帝は必死に呪文を唱えたが一向に伝説の動物達には通じなかった。

「やっぱり通じないじゃないか! やっぱりインチキなんだ、こんなもの。グランシェフなど嘘の伝説であった」上帝は腹立ち紛れに二冊のレシピの書を火にくべた。

「ああー、なんで…」火はめらめらとレシピの書を焼いた。落胆したセレンは気を取り直し、今度は上帝のまねをして言ってみた。

「ティモチー、あれ? キモチー、だっけ? キモ〜?」聴いていた動物たちは初めこそ訳がわからない感じだったが、最後のフレーズを聞いて俄かに顔が険しくなったのをセレンは見逃さなかった。それでもう一度言ってみた。

「キモ〜」

その刹那、セレンは吹っ飛ばされた。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃ…、ともだちになってよ」

「はいよ、きもいとかいわなければね」案外レシピの書がなくても問題なさそうだった。

逆にセレンはその動物たちに協力を取り付けることが出来た。

「頼むよ。あの娘さんを救うのを手伝ってほしいんだ」

上帝はそれを見て、その事実を絶対に認めたくなかった。自分よりうまくセレンがレシピの書を使いこなしているのが。

「ふん、たまたまだ。そんな奴ら」しかしその動物たちの圧力には凄まじいものがあった。おびただしい動物たちが際限なく続くのを見ると、上帝は何を思ったかとうとう行動に出た。上帝はおもむろに鹿の娘を掴むと、自ら檻の中に立てこもった。ナイフを取り出して。


114

「あー!」

「近づくな、娘の命が惜しくば」

「もういいだろう、上帝さん。何がお望みだよ。もうグランシェフなんてどうでも良いんだよ」セレンは問う。

「上帝、もうあんたはグランシェフになれなかったんだ。往生際が悪いぞ」老猿の言葉だった。おねずみ様はいろいろ考えていたようだったが、とうとう口を開いた。

「あー、思い出した。思い出したぞ。そうだ、間違いない。間違いない」

「またかよ。どんだけ忘れてんだよ。何が間違いないんだよ?」セレンは聞いた。

「間違いなく上帝はグランシェフだよ?」

「???…何が言いたいんだよ? いまさら…、現に通用してなかったじゃないか」

「そうじゃないんだよ。この壁が壊れやすいのだってそうさ。全部前の猿の王様。セレンのじいさまが全部考えてわしにやらせたことなんじゃ」

「どういうこと? 全部仕組まれていたってこと?」

「いいや、そうじゃないんだ。お前のじいさまは後継者をあの上帝だと最初から思っていたんだ。だが、知っての通り上帝は道を外した。故にじい様はレシピの書を封印したのじゃ。上帝だってわかっていたはずじゃ。そうじゃろう? 上帝殿」おネズミは上帝の顔を伺ったが上帝は全力で顔を横に振った。

「いいや、それは違う。あいつは、猿王は決して最後まで俺様を認めようとはしなかった。俺様は悉く猿王の能力を上回ったし、要求も全てこなして来たにも関わらずだ。それは俺様の能力への嫉妬だ。そして母を殺したのはあの男だ。あいつは俺を後継者だなんて一度も思ったはずは無い。逆に脅威だと思ったのだ。だからライオンとの間の子である俺を抹殺しようとしたのだ。俺様は生き延びねばならなかった。だから、俺は革命を起こしたのだ。ライオン族の支配するな。そうしてそのためのシステムを作った」

「だがそのシステムも今やこの通り」言われて上帝は悔しそうな顔をした。

「いい加減観念しろ」上帝の表情が変わった。あきらめとも最後のあがきとも。

「…いいだろう。最後のチャンスだ。今この場で世が本当に満足する料理を作ってみてくれ。満足のいく料理を作るならば本当に約束通り娘を返そう。私も消える。だがそうでなければ世はお前を認めない。この娘とともに消える腹づもりだ。食材は何でもいいが、今ここの王宮にあるものだけに限定しよう。ただし、伝説の動物は私の好みではないということは言っておく」

「セレン! 私に構うことなんか無いのよ。まだ何を企んでいるかわからないわ」娘は上帝にナイフを突きつけられたまま叫んだ。

「他にはもう何も望まん。本当に納得のいく料理を作ってくれるかどうか、それが条件だ」上帝は静かに言った。セレンにはこの言葉に嘘は無いと思った。

「わかった」返事に迷いはなかったがセレンは考えあぐねた。納得のいく料理、なにを使えば良いんだ? セレンはあたりを見渡した。本当に使える食材が何も無い。さっきのアンチョビや金貨鳥たちが居た厨房に戻ってもすでにサーブされた後で、跡形も残っていなかった。ハーブ園のハーブもさっきのコンソメで根こそぎ使われ、残っているものといえば片隅の雑草くらいのものだった。

「何にも無いじゃないか。どうすりゃ良いんだよ」セレンは檻の中で娘と一緒に居る上帝に悪態をついたが本心は少し違った。これは嫌がらせではなく上帝からの挑戦なのかもしれない。セレンが途方に暮れていると豚達が寄って来た。

豚達は自分たちを使ってくれとセレンに懇願した。セレンを一番に応援してくれていた豚達を前にして再び心苦しかったが、セレンはこれでおおよその味のベースが出来ると少し安心した。

「だがこう何度も豚を使って上帝がそれだけで満足するとも思えんぞ」

「うーん、でもねずみのじいさん。上帝のこと昔からよく知っているんでしょう?」

「あん? ああ、まあな。昔はよく追いかけられてたし」

「そうなんだ。だったらさあ、上帝はよく何を食べていたのさ?」

「そりゃあ、お前それこそあらゆる食材、あらゆる技巧を使った料理だよ。上帝になってからは更にもっともっといろんな食材を食べていただろう。いろんな珍味を…」

「といってもこれじゃあね」セレンは周りを見渡したがそこには何も無かった。本当に。それこそ雑草くらいしか。

「雑草?…」セレンは少し歩いてハーブが刈り取られた後のところにおもむろにしゃがんだ。庭はよく整えられていたが、刈り取られた側の端に二種類の雑草が生えていた。

「何を見付けたんじゃセレン」

「これって何て名前?」セレンはその雑草をなでた。

「向こうのはフキノトトウだがあれは確か…、なんだっけ。知らん。雑草は雑草だろう」老猿はそう言いながらも何故か懐かしい感じがしていた。それが何かは思い出せなかった。

セレンはまだしばらくそこでしゃがんでいた。そしておもむろに振り返った。

「これでいく」

「え?」

「え、え、なんだって? どれじゃ?」

「これだよ、これ。こっちのフキノトトウじゃない方。似てるけど、この雑草さ」そう言ってセレンはひらりと丸い葉のある草を指した。

「ざ、雑草だって?」やりとりを傍観していた上帝の表情が一瞬変わった。しかしそれは一瞬だけで最早すべてをセレンに託しているかの様だった。

セレンは例のごとく雑草に話しかけた。

「全く、またぶつくさ言ってるよ。雑草迄お話をするのかねえ」

「さあ? セレンに任せるしか無いさ」みんなはセレンを見守った。心無しかセレンは少し青ざめているようだった。

「セレン! 大丈夫か?」老猿は心配になって声をかけた。

「ああ、なんとか。割と危険なんだ。でも、優しい」

「………なにを言ってるんだセレン」

セレンはそれには答えずなおも調理を進めながらぶつぶつと食材と会話をしているようだった。待っているギャラリーは相当数に上ったがあたりは静寂が流れていた。

「それにしても上帝ほどの全てを管理せずにはいられない完璧主義者がなぜあの二種の雑草だけ棲息を許していたのだろう」おねずみは呟いた。上帝の表情は読み取れなかったが、お鼠は必死に何かを思い出そうとしているようだった。        

どれくらいの時間が経過しただろうか? 最後の仕上げにセレンは父の形見を取り出すと新たにフキノトウを丁寧に刻み、ペースト状にして投入した。優しい攪拌を終えるとセレンはやっと安堵の表情を浮かべた。

「できた」セレンはお椀にその雑草のスープを持って上帝に差し出した。

「これは…」お鼠は出来上がったスープをしげしげ見つめた。

「はっ! ひょっとしてフク…」何かを思い出したお鼠を上帝は制した。

「これなんだな…」上帝の手はかすかだが震えていた。

「上帝、いいのか?」お鼠の言葉に上帝は意に介さずそのままゆっくりとそのスープを口に含んだ。

 静かだった。上帝は何も語らなかった。気がつくと上帝のお椀は空になっていた。上帝は静かに涙を流していた。嬉しさでもありほっとしているようでもあった。

「見事だ」

「じゃ、じゃあリカさんは」

「ああ、約束だ。俺は臆病だった。やっと母上と会うことが出来た。ありがとう」

上帝は本当に鹿の娘を解放した。セレンは飛び上がって歓んだ。二匹は抱き合った。上帝は本当に最後だと覚悟しているようだった。

それまで黙って上帝の様子を見ていたお鼠が声を上げた。

「やっと思い出した」

「なにを?」

「いや華さん」

「話してよ」

「いやそうじゃなくて、上帝のお母さんじゃ。華さんがよくその雑草のスープを作ってくれてたんだよな。そしてこれこそが第一のレシピの書なのじゃ」上帝は頷いたがセレンは驚きを隠せなかった。

「これが?! だってこれは…お母さんの良く作ってくれたスープなんだ」

「でもこれは福毒草…。レシピの書も華さんが作ってたのもフキノトトウのはず」

「へえ、フクドクソウって言うのか」

福毒草と聞いてその異様な響きにギャラリーはどよめいた。しかし上帝はそれを聞いても微動だにしなかった。

「確かに毒が強いから取り除くのに苦労したんだ。でも全部やり方教えてくれたよ」

「母さんは…、母さんは何て言ってた?」上帝は身を乗り出した。

「そうか、やっぱり上帝の母さんだったんだな。本当に上帝さんのこと心配してた」

「解せないのは何故福毒草…。確かに上手くやれば薬にもなる雑草だが華さんの作るスープはフキノトトウだったはず。生まれ変わるにしてもフクドクソウになることはない…」お鼠は腕組みをして考察をした。

「そんなの知らないよ。ただ、間違いなくその華さんっていうのはこのフクドクソウをなんとかしようとして死んだらしいんだ」

「フクドクソウを? 敢えて? この作り方はほぼ完全にフキノトトウのスープの作り方と一致する。事実、フキノトトウのスープは確かに華さんがセレンのおっかさんの小さいときに教えたスープでもある。でもなんで敢えて毒性のあるフクドクソウを…」お鼠は言った。

「よくわからないけどお父さんを守るためだって」

「お父さん?…そうだったのか……」上帝は深く頷き、感慨にふけっているようだった。そして涙を流した。

「今にして思えば俺は怖かったんだ。フキノトトウのスープは母さんとの思い出のスープだった。だから何度も何度も作った。惨殺された母さんにもう一度会いたくて。しかし母さんはそこに居なかった。何度も何度も作っても逢えなかった。それは無駄だったのだ。俺はフキノトトウのスープをあきらめた。絶望だった。それ以来俺はフキノトウに触ることをやめた。他の食材自体と対話をするのも辞めたのだ。それは猿王への反発でもあった。猿王が結果的に母上を殺したと思ったからだ。そして後継者に認めなかったのもそのせいだと思った。母さんは父の乱暴によって俺を生み、そしてその父の乱暴によって殺された。そしてそれを不注意にせよ死に追いやったのは猿王。ずっとそう思ってた」

「でも違った。そう言うのじゃな? フキノトウもフクドクソウも除草しなかったのはそのためじゃ。逢えないと分かっているのにフキノトウを最早調理する勇気はなかった。絶望するだけだからな。それでもう一つの疑念がお主に湧いたのじゃ」上帝はお鼠の言うことを静かに聞いていた。

「もしかしたら父の乱暴によって御主が生まれたのではないのではないかと。お主は薄々気付いておったのじゃろう? だからそのフクドクソウを除草しなかった」上帝はおねずみの言葉にうなずいた。おねずみは続けた。

「確かに華さんはあのライオン、つまりお前の父親に恋をしておった。猿王はいい気はしていなかったがな。それであるとき、そのライオンが心臓の病気になった。華さんはなんとか助けられないかと思い、薬効のあるフクドクソウで薬のスープを作ることを思いついた。そうだな? セレン」

「ああ、間違いないよ。その上帝のおっかさんはライオンを助けたいがためにそのフクドクソウのスープを作って完成のスープを味見して息絶えたんだ。もちろんすぐじゃない。だけどライオンのところに行き着くまでにおっかさんは死んじゃった。ライオンなら薬でもさすがに猫には毒性が強過ぎたんだ。その後、ハイエナがやって来て、ライオンが助けにくる頃には…」

「そうだったのか…知らなかった」上帝はさぞ無念だったろうと母親のことを思った。

 「…もちろんそれがフクドクソウだということは知っていた。だからその雑草だけは残しておいた。本当はお前の使った雑草、それが母さんが転生した草だということは薄々感づいていた。どことなく咲いた花が母に似ている気がしていた。でも調理してまたそれで会えなかったら…、それさえも否定されたら、俺はもう生きていく希望も無い。だからこの歳になるまでそれだけは調理をしなかった。俺が調理をしたら会えていたかどうか。その前に俺は毒にあたって死んでただろう」

「そんなことないよ」思わずセレンは上帝を慰めていた。

「いや、上帝の言う通りじゃ。お前様が調理をしていたら食材は会いにこんしお前様も、食材も死んでいたかも知れんな」

上帝はお鼠の言葉を神妙に聞いていた。

「俺の腕がまだ未熟だと言うことか?」

「違う。逆じゃ。それはな、お前の調理が完璧だからじゃ。完璧だから食材は対話を必要としない。そしたら大元に母がいてもよう気付かんのじゃ」

「それは酷いよ。まるで俺が完璧じゃないみたいじゃないか」

「馬鹿者。正解だが最後まで良く聞け。世界はこの世とその世があるが食材はな、食材だけでなく我々はみんな死ぬと大半が頭の中をこの世、体をその世と両方の世界に分かれて生まれ変わってくるのじゃ。稀にどちらかにしか生まれん者もいてこれをモノリーと言うのは知ってるな。ハリージがそうじゃった。いずれにしても両世界は繋がっておるのじゃがそれは脆弱じゃ。それを太く繋げるのが実は料理じゃ。アイデアあふれる自由で発想豊かで愛情深い料理は、向こうの世界の住人を引きつける。それが新たなパイプを作り補強する。昔はたくさんの太いパイプが世界間を繋いでいたが、上帝の完璧な仕事のために今は極僅かじゃ。人は完璧な仕事に自分の参加する余地を見いださない。完璧であるが故にこそ想像するのを辞めてしまう。それはしかし上帝ばかりのせいではなくあの向こうの神様の意向でもある。この両世界を断ち切ってこちらの世界を自分の世界に組み入れようとしているのじゃ。上帝は利用されたんじゃ。そして今両世界は首の皮一枚で繋がってるだけと言って良い。わしらの世界は軽いんじゃ。その世で言う思念の世界が実はこっちの世界なんじゃ。だからグランシェフの仕事は料理によってこの思念の世界を繁栄させてしっかりと向こうの世界とのパイプを繋ぐことなんじゃ。楽しくなくっちゃ誰が夢見るものか。だがな、やっぱりその雑草の調理は別じゃろうな。お前さんが調理しても、そして文句無く完璧でも雑草は心を開いたじゃろう」

「………そうだろうか」

「当たり前じゃ。お前のお母さんだ」上帝はそれを聞いて少し浮かばれたような顔をした。

「思えば王様は、王様はこの俺を」

「そうだよ。事情を知らなかった猿王がライオンのせいにしたのは想像に難くないだろうがそれはライオン側も同じじゃ。猿王が毒殺したからハイエナの餌食になったと思ったかもしれん。だがな、上帝殿。猿王にとってお前さんは最初から後継者だったんだ」今では全てを思い出したお鼠が補足した。

「この俺が…?」上帝の表情はすっかり険が抜け、青年の頃に戻っていた。

「ああ。お前さん、レシピの書はこの上帝にあげないために隠したんじゃない。お前さんを守るためなのさ」

「俺を守るため?」

お鼠が理由を説明しようとしたその時だった。そこに居るすべての存在が異変を感じた。

「ちょっと待ってこれ何の音?」今迄とは比べ物にならないくらいの地鳴りがこだました。どすんどすんという物音。いや足音が地平線の向こうから聞こえてきたのだ。


115

「こ、これは?」あたりが突然暗くなった。音はどんどんどんどん大きくなってくる。その迫り来る存在の速度は思いの外速そうだった。そしてその発生源とおぼしき存在のシルエットが現れた。

「と、とうとう、とうとう現れた」お鼠は直ぐに老猿の袖に隠れた。

「うわあ!」影は王宮を軽々覆い、セレンはその存在を見上げてあまりの高さ、大きさにひっくり返った。

「で、伝説のモンスターだ!」みんなが呆然とする中、誰も見たことが無いくらい大きいモンスターがのっしのっしと現れた。

「じいさんこれどうすんだよ? 今までのはもう正直怪物でもなんでもないや、これに比べたら」

「そうじゃ。レシピの書を隠しておいた最大の理由がこれじゃ。伝説のモンスターが目覚めるとき、それはギンザが試されるとき、そしてグランシェフが試される時じゃ。その時のグランシェフは全ての責任を負う。失敗すればこの世界は破滅じゃ」群衆は逃げ惑った。

モンスターは物凄いスピードで近づき、いとも簡単に残っていた王宮の壁を取っ払った。そもそも仮に壁がどんなに頑丈だったとしても意味がなかった事はそこにいる誰もが確信した。その存在はセレンの前で止まり、ギロリとセレンを見た。

「ど、どうすりゃいいんだ…」

「レシピの書じゃ」おネズミは言った。

「そうよ、今こそレシピの書よ」鹿の娘は叫んだが、既にレシピの書は永久に上帝によって廃棄されていた。

「おぼえてるでしょう? 早く唱えるのよ」

「あわわ、何だっけ? キモイヨオマエだったっけ? 頭が真っ白になって忘れてしまった」セレンは焦って、なんとかさっきのことを思い出そうとしてもがいた。

「さっきはなんとかなったが今度という今度ばかりは、一言一句の間違いも許されないぞ。これは本物の境界モンスターだわい。百年に一度の」おネズミ様はくれぐれも慎重を期すように警告した。

「もう…、上帝さんは覚えてるわよね。早くセレンに教えて」鹿の娘は上帝に言ったが、もはや上帝に支配者のオーラは無かった。

「え、あ、すまぬ。完全に忘れてしまった。ティモでぃに何とかかんとかだったかな」上帝が意地悪からそう言っているのでないことはもはや誰もが疑わなかったし事実その通りだったので鹿の娘は自分がその内容を見ておかなかったのを悔やんだ。

「ばか!」

その時だった。一匹の豚がセレンのところにやって来て必死に呪文のようなものを教えた。

「豚さん! 覚えてたのね」

セレンは必死にそれを覚えた。それは上帝がさっき言ったのと同じだった。セレンはそれをモンスターに向かって唱えた。

オマエキモイオマエキモイ

「それ違う!」周りはすぐ違いに気がついた。教えた豚もずっこけた。

「ごめん、緊張して頭が真っ白だ」モンスターは怒っているように見えた。

「間違えないで。それ完全に間違ってる」

「もう遅いかも。こっちが料理されちゃう」モンスターの能面のような表情を見てセレンは本当にこの世の終わりのような心地がした。そしてそれは本当のことだった。

 

隣の神様はビジョンを前に身を乗り出した。

「よおし! 行け〜モンスター。いいぞ猿! この世界も後少しだ。後少しで手に入る。暴れるのだ! さすれば向こうの世界は完全に完全に思念のパイプを閉じ、この世界と永遠に断裂する」


「伸縮パイプがもう一杯で亀裂が入っています。もはや入り込む余地はなく、夢の往来と供給が完全に停止しています。このままですとパイプ切断は確実かと」

「やばい、どうしよう。こんな時のためにレシピの書があるのでは?」

「そうなんですが、通用するでしょうか、この状態で」

「そんな、自分のことなのに何もできないのか!」

「残念ですが出来ません。観念してくださいますよう…」


「フフフフ、あともう少し」隣の神様はほくそ笑んだ。その神様はよく肥え太っていた体を前後に揺らした。

「バカどもめが! とにかくこの領地はいただき。ほれ、破壊しろ」


「やばいやばいやばい、もう耐えられそうにない。ちぎられる。これじゃあ奴のものになってしまう。あいつ何やってるんだ! わしの、わしの大事な体が…パイプの生成はならんか」神様は頭を抱えた。

「変なレシピ教えなきゃよかったんですよ。現世の女子高生に入れ込むから悪いんですよ」

「だってえ…、可愛いんだから」神様は両人差し指を頬にちょこっと突いて小首をかしげた。

「ご、ごほん…。しかしそんなことも言ってられなくなりましたよ。これ以上新たなパイプの生成、拡張は今は不可能です。それよりもモンスターによる破壊が起きればその時点で終了です。もはや一匹の猿次第ということに…」

「んんん…………」神様は悔しいというより、ある種言いようのない憐愍さを湛えた表情だった。

 

銀座では、いや日本中、世界中で人々は同じような会話を交わしていた。

「ダメだ、アクセスできない」

「え、え? どういうこと? 繋がっているはずよ」

「繋がってるんだけど、何か怖くて何にも思いつかない。どこにアクセスするかがそもそも思いつかない。堂々巡りだわ」

「ほんとだ! 言葉が出てこない。怖い。脳がとろけてきそう」同様の現象は世界各地で起きているようだった。脈絡もなく「繋がらない、切られる」という訴えが相次いだが、ネット等の回線が切られたという事実は一切なかった。


「どうした、誰か何か良い案はないのか? さっきまでもうちょっとあったじゃないか」

「それが思いつきかけていたのですが急にぷっつりと切られたように思い出すことすらできません」

「他のものは?」

「………」

「やむを得ん。会議は終了だ」


芸人二人はステージの上、爆笑の渦の中で呆然と立ち尽くした。次に何をしゃべったらいいのか、間違いなくさっきまでスラスラと次の展開を想定していたのが何も思いつかないし覚えてもいなかった。それどころかなんでそこにいるのかさえわからなくなっていた。やがて、観客自身が自分がなんで笑っているのかわからなくなって次第に静かになっていった。そして終いには沈黙が支配したが、それでもそこを立ち去ろうとするものは皆無だった。


「世界が、完全に世界が向こうの世界と分離されようとしている」一人寂しく王宮の離れたところからギンザの様子を伺っていたカイレンが空を見て言った。

「心の世界とリアルの世界が今まさに離されようと」


パイプは軋んだ。中の奔流は悉くこちらのその世に収束されその後の流れを完全に塞いでいた。それどころか「この世とその世をつなぐ長く伸びた裂かれたパイプは今にもほとんど首の皮一枚でつながっているような状態だった。これがこの世とその世をつなぐ、もはや唯一の繋がりだった。それが今まさに断ち切られようとしていた。


116

「もうなんでもいいから言うのよ。さっき言ったのでいいから」鹿の娘は急かした。 

 セレンは一瞬、鹿の娘に向き合った。いっそう迫り来るモンスターを前にそんな暇はないはずだったが、セレンの何かを決意する合図だったのかもしれない。

「わかった。もう自分のレシピ、自分の言葉でやる」

セレン再び、モンスターに向き直ると何事かの言葉を発した。近くで豚は聞いていた。

モンスターの動きが止まった。

そこにいる誰にも緊張が走り、セレンとモンスターの行く末を見守った。

しばらく沈黙があった。ゆっくりとモンスターの顔がセレンに近づいてきた。その表情は無表情で、何を考えているのかセレンには判断が付きかねた。今にもセレンは食われるのではと恐れた。結局レシピの書は、自分自信のレシピになってしまうのか?! セレンは最悪の結末を覚悟した。モンスターがセレンの顔にすれすれに近づいたその時、その顔はくずおれ口が横に広がった。

く、食われる! セレンは固く目を瞑った。今まで散々料理に使った食材さん達ごめんなさい。食われるって痛いだろうなあ。様々な思いがセレンの頭に去来した。しかしそれも長くは続くまいと思ったが、それが止まることはなかった。永遠の時が流れているように感じセレンは恐る恐る目を開けてみた。もしやもうモンスターの口の中にいるなんてことは…。うわばみみたいに丸呑み系? しかしモンスターの大きな顔はセレンの目の前にそのままあった。そしてその顔は先ほどと同じように横に広がっている。

か、顔が崩れていいく?

そうではなかった。

笑ってる。

モンスターはそれから案外豪快に笑ってセレンに手を差し伸べた。

「あれをみろ」上帝はおネズミに言われるままモンスターとセレンのやり取りを見守った。モンスターとセレンは言葉も片言ながら、談笑をしている。今ではこれほどの大きさの違いにもかかわらずお互い肩を組んで何やら歌を歌い始めた。

「レシピの書とは何だったんだろう…」上帝はつぶやいた。

「レシピの書はこの時のためにあったんじゃ。危機のときにギンザを、いや世界を救うためのレシピなのじゃ」

「世界を救う?」

「ああ、これは神様が直々に教えてくれるレシピ。じゃがこれを運用するにはちとコツが要るのじゃ。100年に一回の間隔で目覚めるモンスターに応対するレシピ。今回は想定より早まったが、まあ言わばモンスターの料理法じゃ。それに失敗すればモンスターは暴れ、この世界は終わりじゃ。それを回避するためのコツじゃ」

「コツとは?」

「レシピはレシピってことじゃ。素材はどれも違う。だからレシピ通りで正確にやれば良いってもんじゃない。むしろレシピ通りにやって大失敗することもある」

「それじゃあ猿王さまは…」

「当時のお前さんを見て猿王はレシピの書を渡すのは危険だと思ったんだろう。何でも完璧にやろうとするお前を見て。それにモンスターは通常はこっちの時間で100年は起きない。緊急時を除いて。だからお前さんの生きている間にレシピの書を使う必要はなかったんじゃ。その緊急事態を作り出してレシピの書を使おうとしなければな」

「馬鹿な! でも言い訳する訳じゃないが俺は緊急事態を造りだした覚えは無い。モンスター起こしたのもここに居るセレン、いやハリージだろう?」

「モンスターはそうかもしれんが 間違いなく緊急事態を作り出したのはお前じゃ。そうすればどのみちモンスターは100年も待たずに起きて来ていた。いや、お前さんは協力させられていたというべきか…」

「誰に?」

「神様じゃ。向こうの」

「向こうの神様? まさか…」

「多分お前さんは気づいておらんじゃろう。この世、いやあの世その世を含めたこの世界はもっともっと広く複雑なのじゃ。お主も知っておろう。この世の文明国はかつてギンザだけではなかった」

「もちろん知っている。自分がこの世界を支配して以来徐々に狭まって、今ではギンザだけになったのだ」

「それはどうしてだと思う?」

「俺のせいだというのか?」

「パイプはどんどん切断されていった。この世とその世を繋ぐパイプが切断されると世界は切断され、この世は縮小を余儀なくされる。なぜならこの世はその世の住民の心の中。想像の世界、思念の世界だからだ。そしてパイプは想像力の、創造性のある料理でなければ維持できないし新たにパイプが生まれることもないのだ。向こうの神の狙いはその世から切り離してこの世を我がものにすること。この世とその世に分かれたこの世界のうちのこの世をだ。そしてもし切り離しが成功してしまえばこの世界は心の世界だから本体を失いこの世界の住民は消滅。その世の住民も心を失い大変なことになる。思えばライオンやお前にデマを流したのは向こうの神だったのだろう…」聞いていた上帝はその場にへたり込んだ。

「…思えば俺は母上の死後、母上との交信が不可能だと絶望して悉くパイプを切断しようとしたのだ。猿王様への反発が大きくなかったと言えば嘘になるだろう。どんなに完璧でも認めようとしない猿王様に対する反発からより完璧を目指したのだ。想像の入る余地のないより完璧な料理を作ることによって。想像の余地は怠慢、甘えだと思っていた。想像力の排除こそが俺の使命だと思ったのだ」

「そもそも猿王は確かにお主に対する認めがたい感情もあったかもしれんがそれ以上にお主の母親を死に追いやったという自責の念があったはずじゃ。だからお前さんを守るためにレシピの書を隠したんじゃ。レシピの書は確かに二つとも本物で一つは華さんのフキノトウのスープが元になったレシピじゃ。あのままレシピの書を使っていたら完璧主義のお主は絶望してこの世から完全に想像力を抹殺しただろう。そして仮にフクドクソウにレシピの書を適用していたら完璧なお主は死んでしまうと心配したんじゃろう。それにお主の心の態度ではわかったように…モンスターに」

「確かに…俺が早くにこのレシピの書を手に入れていたら、今頃俺はこの世に居なかっただろう。完璧を目指す俺を決して認めなかったのは思えば当然であり猿王様の慈悲だったのだ。そんな俺では到底使いこなせなかった」

「上帝」上帝は完全に悟った顔をしているとセレンは思った。

「完全に余の負けじゃ。おめでとう。グランシェフ」

言い終えると上帝は王宮を後にした。


「どうやらあのチビざるの幼い頃の記憶は奪えても料理をする楽しさまでは奪えなかったようだの」

「ええい、かくなる上は。最後の作戦だ!」向こうの神様は命令を下した。


117

「待て、どういうことだ?」


セレンたちは喜びに抱き合った。陰がさっと引いた。セレンが異変に気づいて辺りを見回すと、ふっとそれまで視界の大半を占めていた怪物が消えた。

「あれ? どうしたのあいつは?」

「さあ」

「ともあれもう大丈夫なんでしょ。こんなんだけど」ハナコは周囲を指しながら言った。その周囲は瓦礫と祝福するギャラリーであふれ却って居た。

「いや…」お鼠はただ一匹、不安そうな面持ちで居た。

「おい」異変に気づいたのは周囲の野生動物だった。

「なんだ、どうしたんだ? 急に息苦しく…」

ギャラリーの一部は倒れ、一部は不調を訴えた。

「お鼠様、これは」

「おかしい…、モンスターのパイプは神域にあるはず。いくら他のパイプが無くなってもあの神域が侵されてなければ」

「神域のパイプは塞がれつつある!」聞き覚えのある声だった。浮浪者の配管工だった。

「おじさん!」

「料理長!」あの老猿が直立不動になった。

「え? あ、そうか! じいさんの唯一の上司か」

「挨拶はいい。それどころじゃない。パイプが…、パイプが塞がれようとしているんだ」

「パイプが? モンスターが消えたんだからもう大丈夫なんじゃないんですか?」

「普通だったらな。あの太っいパイプは神域に守られていた。もちろん世の中にパイプがたくさん残ってればモンスターのパイプが消えたところで何の問題もないはずだが今はほとんどパイプが消えている。その上最悪なことにどうやら今、向こうの神の差し金で神域が侵されているようだ。モンスターのパイプはもう首の皮一枚繋がっているに過ぎん。パイプが消えればこの世とその世は完全に断ち切られワシらも終わり。そしてそれももう時間の問題だ」

「そんな。なんか手はないのかよ?」

「料理だ。料理を作ってパイプを繋げるしかない。出来るだけ想像あふれる料理を」

「俺が?」セレンは確認した。

「みんなで作るんだ」

「だったらこうしちゃおれない。上帝も呼び戻そう」

「え、また上帝を?」セレンの提案に一瞬老猿は嫌な顔をした。

「そんなこと言ってる場合じゃないよ。絶対上帝さんはもともと想像力あふれるシェフのはずだよ。何てったって俺のじいちゃんが認めた後継者なんだから」

老猿も同意した。それどころではないのは確かだった。ギャラリーの動物達の死傷者数は増えていた。

 どれくらいの時間が経過しただろう。セレンと上帝だけでなく老猿もハナコも、浮浪者も、ライオン達も、ありとあらゆるシェフが必死に料理を、より想像力のあふれる料理を作った。作る度にギャラリーの動物達は回復し、目に見えてパイプは増えていったがそれも直ぐに消えてなくなってはまた生まれるをくりかえした。

「どうして消えてしまうんだろう? あれだけ作ってるのに」

「ところで上帝どの。お主の親衛隊の姿が見えんが…」パイプの浮浪者は尋ねた。

「あれ?確かに」上帝はそうして周りを見渡した。

「あ!」親衛隊はいた。今までの親衛隊よりも増えていた。そして彼らが居るところはパイプの発生している場所だった。

「切断している!」

「おのれい」それに怒ったのはライオン王だったがそれよりも先にムームーマが立ち上がって親衛隊たちを蹴散らしにいった。

「これじゃ、どんなに作ってもパイプは増えない訳だ」しかもその数はますます増えているようだった。

「向こうの神は増員を掛けている」

「どうすればいいんだ?」

「わしらがまだ大丈夫ということは神域のパイプはまだ首の皮一枚でも繋がっているということだ。おそらくあそこのパイプが一番太くて頑丈だ。それを守るんだ。それが切断されたらこの世は本当に終わりだ」

「俺たちは?」

「引き続き作り続けるんだ。新しく生成されたパイプをその神域のパイプに繋げる」

「それなら俺が行く」ライオン王だった。ムームーマと侍従も従った。

「よし、それなら直ぐに神域に向かってくれ。セレン、上帝は直ぐに料理に取りかかってくれ。出来るだけ想像力あふれる料理を作らなければ繋げても十分なパイプの補強は出来ない」

「わかった」セレンは頷いた。

「まかせたぞ」ライオン王はセレンの肩を叩いた。セレンの腕はもげそうになった。

「でも、現地までどうやっていくんだよ。ハリージでもないのに今から神域まで行くのは時間かかるよ」

「それもセレンと上帝どのに任せる。簡単な料理で神域までのパイプなら出来るはずだ。そのパイプをライオン王達に繋げてもらうんだ」

「でも生身を送る何て出来ないよさすがに」

「それは大丈夫。パイプの補強と方向の調節は俺がなんとかする」パイプマンの浮浪者は請け負った。上帝とセレンは老猿とハナコを助手に簡単ながらなるべくいろいろ想像しながら料理を作った。するとぼやーっと空間に穴があいた。

「オッケーその調子」パイプの浮浪者はそれを器用に操作した。

ムームーマとライオン王達は神域まではセレンと上帝の協力でパイプを繋いで送られた。


「あ!」神域に着いたライオン王が叫んだ。

パイプのまわりに上帝の親衛隊とはまた別の似たような怪物が、刃物でもってパイプを切断しようとしていた。

「このやろう」ライオン王と怪物はつばぜり合いが続いたが、ライオン王が不利になるとムームーマが助太刀をしてなんとかこれを片付けた。

「危なかった。これをここまで来たパイプと繋げればいいんだな」今やパイプは本当に切断まであと一歩のところで繋がった状態だった。そこにパイプを繋げれば、セレン達のところから直接その世まで繋がれた。パイプマンの計算のお陰か接続は案外スムースだった。

しかし神域に次から次へと怪物達が侵入して来た。

「これはまずい。倒しても倒しても繋げても繋げても敵が侵入して来る。もっとたくさん料理を作ってもらわなきゃ」

戦闘は続いた。倒しても倒しても怪物は雨後のタケノコのように現れてきりがなかった。

「でもこれじゃもう間に合わないよ。数もどんどん増えてる。切断は免れない」


118

「何か苦しい…。どうなってるんだい?」さすがにぶっ通しで料理を作り続けたセレンだったが、一向に動物達の体調は回復しなかった。セレンはパイプマンに確認をしたがパイプマンは首を傾げた。

「おかしい。全然変わってない。それどころかますます悪化している。パイプを繋げるのに失敗してるか、どっちにしてもうまくいってない」

「そんな…、こんなにやってもまだ?」

「もしかしたら神域は向こうの奴らに完全に包囲されているかもしれん」

「そんな、それだったらこっちで直接パイプ作った方がいいんじゃない?」

「いや、あの神域のパイプが切断されたらこの世界はもたん。その世界も」

「だったら直接向こうで料理作るよ。直接神域でやった方が確実だ」

そう言ってセレンはパイプの中に入った。

「おい、セレン待て! お前待て」後に上帝からハナコから鹿の娘からみんな続いた。

セレンはパイプの中を瞬時に一直線で通過し一気に神域まで到達した。

パイプの折れ曲がったところがあってそこが裂けていた。

ここだ! セレンは一気にその裂け目に向けて飛び込んだ。続いたハナコは止まりきれずそのままパイプの向こうに吸い込まれていった。

「あいたたた」衝撃とともにセレンは地面に叩き付けられた。

セレンの突っ込んだ先はまさに神域で、ちょうどライオン王達が倒しても倒しても増殖する怪物達と死闘を繰り広げていた。

「助太刀するぜ、料理長」セレンはライオン王に声をかけたが、ライオン王はこれを遮った。

「猿、ふざけるな。おまえはその猫ちゃんと一緒に料理を作り続けるのだ」

「グヌヌ、王の分際で」上帝はいきりたったがそれも正論だと悟った。

「料理長、我々も助太刀します」現れたのはブルドック先輩とジャガー先輩だった。

「しかしこれでは総動員でやってもきりがないですね」

「わかっておる」

セレンはパイプの保守はライオン王達に任せて上帝を含め少数で再び料理を作ることにした。

「もう直接このパイプに想像を送り込むことが出来る。だけど作り続けなきゃどんどん細くなってる」

「ああ、しかもあいつらが切り込みを入れてる。切断されたらおしまいだぞ」

「そう言えばリカさん? ハナコは?」

「ああ、あいつらは曲がりきれずその世に行ってしまった。もう戻るじゃろ。とにかく料理を作るんじゃ」

セレン達は守られながら調理をした。なおも攻防は続いたが数に勝る向こうの怪物達の有利は変わらなかった。

「これじゃきりがない。どうしよう? さっきよりまた細くなってる気がする」

パイプマンは腕組みしたまま黙っていたが、おもむろに顔を上げた。

「引っ張るんだよ。引っ張るしかない。パイプを引っ張ってその世をこっちに繋げるんだ」声を発したのはセレンだった。

「え? 繋げるって?………」

「パイプを引っ張って向こうの世界をこっちまで引っ張り上げるんだ」

「馬鹿な、いくら何でも無茶な…」

「大丈夫だよね」セレンはさっきから腕組みをしている浮浪者に尋ねた。

「引っ張ることは出来ない」

「そっかあ、良い案だったと思ったのに」

「引っ張ってみるか」これを言ったのも浮浪者だった。

「え? 出来ないんじゃないの?」

「引っ張り上げるのは無理だ。圧倒的に向こうの世界の方が質量がある。しかしこっちがたぐり寄せるんじゃなくこっちからパイプを引っ張ってたぐりよることなら出来るかもしれない」

「ほらね」セレンはほら見たかという顔をした。

「たぐり寄るってパイプが余るじゃないか?」

「それは心配要らん。パイプは特殊で伸縮性に富んでいてたぐり寄せた分だけ無くなる構造だ」

「でも強度が耐えられるのかい?」

「それはセレン達の料理にかかっている。想像あふれる料理がパイプを補強する。しかしそれに加えて」

「なんだよ?」

「引っ張るには数を要する。だとすれば今まで戦っていたものたちが今度は引っ張らねばならない。とするなら犠牲は免れないかもしれない」

「それなら余が引っ張ろう」ライオン王だった。

「わいも」ムームーマも名乗り出た。

「おれも」「わいも」ヒグマや象を始めたくさんの力自慢が立候補した。

「それではその他のものが護衛にあたるとして…、とにかくセレンと上帝はひたすら料理をつくり続けるんだ。力のあるものはパイプをめいいっぱい引っ張って、この世とその世を繋げてしまうんだ。もうそれしかない」

パイプを引っ張ってこの世ごとたぐり寄れば、理論上その世とこの世をくっつけることが出来るのだ。ライオン王はトラの侍従とムームーマを助手にみんなでパイプを囲い引っ張った。

「せーの」太いパイプがライオン王の号令のもと引っ張られた。みんなで手をつなぎ囲んで締め付けてそれを下に引っ張るのだ。

「お、案外その世とやらも軽いな。これなら」ライオン王に前のライオン王がすかさず突っ込みを入れた。

「いや、軽いのはこっちの世だし。それに」振り返るとまた親衛隊と同種の怪物が現れた。

「うわあ、上帝さま。なんとかならんのか」

「無理だ。あいつらは直接向こうの神様に派遣されてる」

「こっちには神様いないの?」セレンは聞いた。

「神様なんて居るのかどうか知らん。そんなんに頼らなくても俺たちが居るだろう」上帝が口を開く前にライオン王が胸を張って答えた。ライオンの号令ととに再びパイプは引っ張られたがすぐさま邪魔が入った。

「うぎゃあ」囲った動物達めがけて刃物を使って怪物達が襲いかかって来た。刃物はライオン王の目を突いた。

「料理長! 大丈夫かい?」セレンは調理をしながらライオン王に問いかけた。

「大丈夫な訳ないわ! けどお前が突いた方だからもう一つある」セレンは苦笑いをした。攻防は続き、犬や狼達が助太刀と防衛にあたった。セレンと上帝、ハナコと老猿、その他の元ライオン王候補達は必死に作った。しかしみるみるパイプは細くなっていく。

「どうして?」

「上のほうでまた切り込みを入れてるんだ。だから想像が漏れてパイプが縮んで来てる」

「それじゃ意味ないじゃん」

「うーむ…」

「何か無いのかよ? まだ忘れてることない? レシピの書に書いてたりすんじゃない? 究極の世界を救う料理が」

「そこまで耄碌してないわい。いくら何でもわしでももう思い出すことはない…」

「えー」

「それにそんなこと言ったってレシピの書に書かれてたものといえば…、内容は上帝しか知らんじゃろ。上帝どの」

「………」

「どうしたの?」

「まさかとは思うが」

「何言ってみて?」

「たしか前置きに…グランシェフの役割は食材と一体となること。究極は自分の料理を自分が食材となる、と。そしてスペシャリテの項では、明確な指定はないが確かに独創的なアイデアを出し、それを寸分違わぬ正確さで再現せよとある。さすれば究極の料理は完成さる。パイプは盤石だと。そんなのは俺からすれば当然だし、そもそも俺は猿王に対する反発からパイプは切断するためにやって来た。それを自分が食材になるなんて…。それもさすがに心構えのただの比喩だと思ってたが。それって…さすがにな」

「それだ!」セレンは叫んだ。

「それって…現時点ではお前がグランシェフなんだぞ?」老猿が注意するようにセレンに言った。

「でもやるしかないよね? 切断されたらリカさんにもハナコにも永遠に会えないんだ。本当はこの世界は一つなんだから」

「でもセレン、おまえ…」

「バカ辞めろ、セレン。お前は、どっちにしてもお前と上帝は向こうには行けん。お前と上帝はモノリーだ。だからお前が向こうに行くということは本当に死ぬことだ。質量がないお前達は普通のグランシェフと違って向こうの世界に行くには本当に死ななきゃならんのだぞ? それにこれは並々ならぬ正確さを必要とするんだぞ?」

「…やる、やるよ」

「………」

「俺は上帝さんほどの技術はないがアイデアはある。これはアイデアだけじゃなくて正確さも要するんだろう? つまり二人で一つだ。俺のアイデアと上帝さんの正確さでもって調理するしかない」

しばしの沈黙は重かった。

  

119

セレンがアイデアを出し、上帝に調理を説明した。

「上帝さん、よろしく頼むよ」

「本当にいいのか?」

「ああ、俺がやらなきゃ、グランシェフがやらなきゃ、世界は救えない」そう言ってセレンは上帝に顔を向けた。

「痛くしないでよ」いざ料理されるとなると途端にセレンは弱気になった。

「分かった。なるべく痛みを感じないようにスパッとな」セレンはかっこ良く言ったものの、正直怖くて仕方なかった。今まで散々料理して来たけど、本当は本当に食材の身になって料理したことなんてなかったとセレンは思った。セレンは懺悔した。

ごめんなさい。ごめんなさい。心の中で謝っているうちに急に今までどうあっても思い出せなかった母の顔が浮かびセレンに微笑んだ。それも束の間、顔が消えたと同時にセレンの意識も消えた。痛みはほとんど感じなかった。眠りに落ちるようだった。

「セレン!」

「セレン」

「セレン…」

上帝は一皿をテーブルの上に置いた。そこには変わり果て最早原形をとどめないセレンだった料理があった。ライオン王やムームーマは力つき仰向けに倒れていた。今やパイプは完全に切断されていたがその結果に以前の親衛隊は困惑しているようだった。ギャラリーは相変わらず具合が悪そうだったがそれはすこし変化があった。すすり泣きが聞こえる。泣き崩れていた。

「上帝どの。おつかれさん。間に合った。切断と同時じゃった」

「切断されたと同時にくっついたのか」

そして

「セレン、セレンはいるの?」

「おーい」鹿の娘とハナコが戻って来た。

「セレンはどこ?」

「これだよ。セレンが救ってくれたんだ」

「これが? うそ…、うそよ」ハナコと鹿の娘も異変に気づいた。

「だからどこなのよ」鹿の娘に対して老猿は首を振るだけだった。

鹿の娘は声を上げてその場に泣き崩れ、ハナコは呆然と立ち尽くした。

「セレン。世界は、救われたよ」上帝は黙祷した。その黙祷をする動物の中に人間もまじっていった。数はどんどん増えた。怪物もその中に増えた。世界は融合した。


「回復している。急速に回復している。どういうことだ?」

「成功したのでしょう。引き寄せたのです」

「でもなんで隣のじじいがまだ?」

「くっついてきました」

「えー、ってことは…、隣のじじいと今まで以上に?」

「贅沢言わない! 切り取られるより良いでしょ」

「ちぇ」

「何がちぇだよ。元はと言えばあんたが悪い」


「ヌヌヌ、何たる膂力、何たる想像の力だ。取り込むどころか。むしろ隣に一緒に引っぱられたわい」


120 くっついた世界

街には、そして王宮には完全に平和が戻ってきた。何故だか結局王様はもとのままライオン王で変わらなかった。セレレンはと言えば相変わらず場末の料理屋で今日も忙しく仕事をしていた。

「おーい、セレレン。はやくしろ。モンちゃんのパーティー時間がないぞ」

「だからセレンです!」

「セレン? いい加減セレンの名を騙るのは辞めろ。あいつはもう死んだんだ」

「いやだから本人だって」

「うそこけ! 大体あいつはそんなイケメンじゃない」

「いやいやそりゃ見た目変わったけど中身俺だから」

「いいからつべこべ言わず働け!」

「はーい。ちぇ、全く人使いが荒いんだから。これだったらよっぽどライオン料理長の方がましだよ。俺グランシェフじゃなかったのかよ」

「馬鹿もん、お前はセレレンといってもただの生まれ変わりじゃ。おなじ才能があるかも疑わしい」

「だから生まれ変わりじゃなくてそのまんま俺だよ俺。ドッキングしたから生き返ったんだって」

「わしは信じんぞ。生まれ変わることすらないわお前と上帝の場合」

「いやだからそれは世界が分かれてた前提じゃん。わからずやのくそじじい!」

「何をセレン!」

「いやセレンって言ってんじゃん」

「いい間違えた。とにかく従わんと飯抜きじゃ」

「なんだよこの耄碌じじいが、くたばれや」

「なんか言ったか」

「い、いやなんでもありません。まあいいや」

セレンは老猿の言うことに従った。

「はああ、これじゃあ料理長になるのはいつのことやら…」

「さあ一息入れましょう」鹿の娘だった。

「わーい、やったあ」

「馬鹿もん、まだ仕込みが残っておるわい」セレンはしこたま老猿に殴られた。

「いってえ、はやくくたばれじじい」

「まだまだじゃわい、まだ三十年は現役じゃい」

「三十年もかよ。それじゃあ俺の料理長は?」

「三十年後あるかないか」

「そりゃねえだろじじい」

「はっはっはっはっは」老猿は楽しそうに笑った。

みんなの笑いはキッチン中、はたまたレストラン中、いやこの王国中こだまし、引ききることが無かった。セレンはハリージの無事と再会を祈りながら包丁を静かに下ろした。


(完)


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