4 ただ鹿の娘のために世界のために
*72
「何? やはり鹿の点家が所有しているのは本当だったか!」
「やはり火の無いところに煙は出ません。更にレシピの書自体のめぼしもつきそうです」
「シャントワゾーか」
「ご名答にございます」
「ふふふふふ、これで私の理想とする世界は近い。想像亡き世界。沈黙の世界だ」
「これからは会話も禁止ですか?」
「ふふふ、そう言うことではない。食材との対話。すなわち現世界との会話の殲滅だ。食材は世の完璧な調理によって管理されるのだ。最早そこに対話は必要ない。対話とは未熟なコミュニケーション。完璧な世界は沈黙なのだ」
「母君の傷が癒えぬのは当然のことにございます」
「ふふふ。どれだけ昔の話をしておるのだ。もはやどんなに想像の翼を広げ、パイプを広げても母上は存在しなかったのだ。どんなに想像を重ねても…」
「殺されたものがどちらにも存在できないのはこの世の常ではございます」
「わかっておる。だからこそ、最早世には想像でこの世を満たすのは許しがたいのだ。あの、王の、猿の王の理想は…、断じて否定しなければならない」
侍従はそれを黙って聞いていた。
「五大家、特に鹿の点家の監視とシャントワゾーの独占を進めるのだ」
*
リカは服を脱ぎ捻ったり後ろから振り返ったり入念に全身の様々なところを鏡に写してチェックし、実際にメジャーで身体の書く部位を計測していた。それを朝昼晩寝る前やった。もう物心ついた頃から習慣になっている。それは何も自分の美しさに対する自尊心からくる行動ではなかった。もちろんそう言う時期もあったが、それは鹿の点家の娘に生まれたからには欠くべからざる儀式であり義務であった。いつからか定かではないが、どうやら鹿の点家には厳格に美の基準というのが決められていて、成長するとその基準と寸分も違うことは許されなかった。奇妙な伝統だとリカは嫌悪した。
*
微力ながらこじ開けようとしているパイプも、やはり一人では心もとない。カイレンはどうしているだろう…。浮浪者はギンザの路地裏の片隅で瞑想に耽っているかと思うと残飯に語りかけ、そして上手く行かなくてため息をついた。
わしもさすがに寄る年波には勝てない。カイレンとけんか別れして既に30年近くになる。浮浪者はカイレンとのけんか別れを昨日のことのように思い出していた。今はもう老いているだろうがこと手先の器用さ、技術、仕事の速さにおいて弟弟子の中でカイレンは随一で、唯一上帝に対抗できる可能性があった。しかしあいつには決定的に誤解し、それが故に欠けているものがあったのだ。それが本当の食材との対話、そして想像力だった。食材との対話とは決してたとえ話や方便ではない。例えば家族や上司、それこそそこに居る他人と会話するように、本当に食材と会話をすることだ。とはいえ理解していることと出来るのは別で、自分自身も出来る訳ではなかった。
浮浪者は尚のこと残飯に話しかけたが一向に食材から語りかけられることは無かった。そして端から見て当然予測されることととして、通行者は悉くそれを見て避けた。しかし、ただ一匹、よってくる小動物があった。
「あっ、ご機嫌うるわしゅうございます」その小動物はほとんど通行人から見えなかったので、ますます周りからは猿の浮浪者は怯えられた。
「これそう言えば欲しい?」
「何ですか? また新しい発明ですか?」
「いや、まえ作ったやつ。自動で野菜の皮向けるやつ」
「大丈夫です。間に合ってます」
「他にもいろいろあるぞ」
「またですか? どこから持ってきてんですか。そんなの」
「まあまあ、動員掛ければな」よく見ると小さなシルエットが無数動いて、次々と新しい品々を持ってきては持ち去った。
「…どうです? 最近は…。あのカイレンのところのあの若者はどうしてますか? 確かセレンという名だったかな? 逮捕され店が取り潰しになったところまでは知ってますが」
「セレン? おお、そうかお前よく覚えておるのう」
「もちろんです。この私をカイレンと同じくらいだと言ったあげく、華さんのスープも知っていたんですよ? もうこの歳ですから、すっかり昔の記憶は残ってはおりませんがあの時のことだけは」
「ほおー、華さんのスープを知っておったか。もうずいぶん昔のことのように思えるが…」
「でも現界では10年も過ぎてないんですよね? 我々の存在なんてかくも泡沫のようなものですね」
「まあそうかもの。しかしお前はハリージの存在も知っておろう?」
「風の噂です。時間使いとか」
「ハリージの場合は現界とは逆の時間圧縮が起きている結果じゃ。もちろんその圧縮比は驚異的なものじゃが、時間使いとかそんなのではない。それはオカルトの類いじゃ。通常ではありえないのだ。しかし、千年に一度、現界で言うと百年くらいで出現することがあるのじゃ。それはリアルモンスターも同じことじゃ」
「リアルモンスターが! ということは…、その出現は近いということですか?」
「いや、まだ前回の出現が700年くらいだから本来あと300年くらいあるはずじゃ」
「それならどうして…?」
「つまりは早まっているということだ。何らかの要因で」
「それは…」
「上帝じゃ」
「やはり…。パイプも今ではもう、ほとんどありません」
「そうじゃ。まさにそれが原因じゃ。上帝の徹底した管理システムのお陰でこの世から想像は減り、急速に現界とのパイプは細くなり、閉じられてい来ている。残りはわずかじゃ。このままでは現界との切り離しが現実になってしまう。ハリージはだから神の投薬だと言って良い。しかしということはもう末期症状じゃ」
「だとしたらレシピの書が必要になりましょう」
「ところがグランシェフの資格があるとしたら恐らく上帝しかいない…、お前が出来れば良いのだが…。いやもう一匹いたか」
「もう一匹と言いますと…、カイレンですか? 私の方はそれは残念ながら到底不可能です。今となってはなんとしても上帝にレシピの書が渡らないことを祈るのみです」
「それでも時に及んではレシピの書はなんとしても運用されねばならん…」
二匹の間で沈黙が流れた。重い口を浮浪者が開いた。
「私が間違っていたのでしょうか…?」
「カイレンのことかのう?」
「はい。猿の王様のご子息を導けず、そして一番弟子のカイレンを導いてやれなかった」
「そんなことは無い。いくらカイレンやご子息を導いたとしても上帝には到底敵わなかったであろう。動物にはそれぞれ、役割があるのじゃ。それに…」
「それに…、なんでございましょう」
「ふふふ、まあ心配するな。弟弟子は導けなかったとしても孫弟子がいる? それがもう一匹じゃ」
「えっ…、それでは…グランシェフの候補が…?」
「そう」
「セレンですか? それは本当ですか?」
「うむ。間違いないじゃろう」
「ついに本当の救世主が…、あの若者が…」浮浪者は感慨に耽っているようだった。
「でも、カイレンの下で大丈夫でしょうか? あのとき、私が導いてやった方が良かったのではと後悔しております」
「ふふふ、なんだかんだ言っても上帝を除けば技術とスピードにおいてカイレンの右に出るものは居ない。そのカイレンに鍛えてもらえば言うことは無いだろう。猿が谷の生き残りとして」
「生き残り?! それは本当ですか?」
「ああ生き残りじゃ」
「やはり…、名前から所縁があるとは思っていたが…、やはりあの若者には猿が谷王家の血が…」
「ふふふ、今となっては何が吉と出るかなんてわからん。まあ見守るとしよう」
*73
苦しいよ。全然あがってこない。血が、血が全然上がってこない。
「では見てみましょう。投薬は効果を発揮はしていますが、なにぶん末期ですので。対象にフォーカスすると擬人化されますので。この場合人よりも動物ですね。患者さんの場合。通常より脳と身体の乖離が進んでいますので。血流がかなり細ってます」
「でもフォーカスした対象ってどうやって決めるんですか? 自分も神様のアバターになってんですよね」
「そうです。実際特定できる訳じゃなくて目立つ分子がそのままアバター化する感じですね。まるで意志を持っているみたいですよほんと。そんなわきゃないんですけど。自分の気になった、ご自分のフォーカスがそのまま…。まあ自分の身体ですから神様みたいなもんですからね。もちろん自分で何にも出来る訳ではないので、その辺がちょっと違いますが…。でも、現実でも案外そんなもんなんじゃないですか」
「なるほど…、そういえば最近あの人来ないですよね?」
「ああ、あの、ダークスーツの…。そうですね。あっ準備できました。どうぞ」
「はい」
*
「はあ〜…となりのくそじじいが」
「どうされました? 今日はもうよろしいですか?」
「あ、すみません。いえ、アバターの話です。隣の神様がやたら邪魔してくるんですよ。華ちゃん超かわいかったんですよけどね。絶対隣のくそじじい神が黒幕ですよ。不正ログインされてないすかねえ」
「はあ。まあ繋がってる以上そう言うこともゼロではありませんが…。今日はもうそのくらいになさった方が…」
「そうですね。むかつくことばっかですもん。やっぱどうにかこの上帝をどうにかしないと。結局この猿…、この一匹の猿に期待するしか無いのか」
*
この潜入生活を始めて既に数ヶ月以上経つが、セレンたちはいつしか王立レストランを除く主だったギンザ中のレストランのシェフを含めたシフト休日一覧表を手に入れていた。これは誰が発行者かは不明だった。もちろん市販はされていないし、昨今はやりの豚の紳士監修でないことは明らかだった。記述が独特な視点から描かれていたのだ。例えばこうだった。
まず料理長だが、そこには種族別以外にそれぞれ様々な評価が書かれていた。腕はもちろん得意分野、スペシャリテ、凶暴性、清潔度まで様々な情報が網羅されていた。腕や味の評価と言っても客観的にどう評価するのかやはり執筆者の主観から脱することは難しいのか、チーズを多用するレストランのシェフが好評価を得る傾向があった。そして何故か力に関する評価は無く、一番強調されているのは靴のサイズ、靴の特徴と歩き方とその速度だった。そして良く履く靴下の柄なんていうのもあった。何の必要があるのだろうと最初は訝ったが、それでも靴の有無で今居るかどうか確認できるし、無いよりはありがたかった。そしてもっとも驚いたことには、その情報は更新されるということだった。
こうも都合良くセレンたちが欲しい情報がピンポイントに入るのは気味が悪かったが、それを利用しない手は無かった。しかしひょっとしたら監視されているのではないかという懸念も無くはなかった。
*74
「あれ…、ママ、ここの美味しいじゃない。シェフ代わったの?」
「そんなこと聞いてないけどね。確か珍しくここはバッファローさんだったと思ったけど」鹿の娘と母親は一見遠目からは双子と見まごうばかりに瓜二つだった。近くでよく見れば確かに違うが、こと背格好は全く等しいと言っても過言ではなかった。
「そうよね。私魚介苦手だからあれだけど、これなら食べられるわ」
「それまだサラダじゃないの。あなた基本的に草食系だけど、ちゃんと良質なタンパク質は取っておかなければだめよ。でも食べ過ぎはだめ」
「はあい、ママ」
セレンは緊張を強いられていた。それはホタテ貝をはじめとした食材の貝類の処理の膨大さに対してではなかった。正確には斜め前方の作業台に、セレンに後ろ姿を見せている存在だった。それはどうやら雌ライオンだった。
老猿とともに初めて厨房に潜入して空いているポジションに収まるまでは良かった。出している料理も下調べが出来ていてポジションごとにやるイメージも出来ていた。間違いなく今日はシェフが休みのはずだった。見間違っていたかそれとも一覧表の方が間違っていたのか、それとも直前になって予定が変更され更新が遅れたか、あるいはシェフが突然代わったか、いずれにしても全ては手遅れだった。雌ライオンは場合によっては雄ライオンよりも兇暴だと聞く。まさかライオンにここでも出くわすとは思わなかった。ライオンだけは避けたかったのに目の前に居るのはまごうこと無きライオンだった。あの二度と思い出したくもないライオン王のレストランの修業時代に戻った気持ちだった。
「お猿さん、ちょっと」いきなり振り向き様にそのまさにライオンが話しかけてきた。
「は、はい」ばれてたし案外ソフト! しかも思っていたより野太い声。今までに無いタイプのライオンで面食らった気持ちだった。
「そろそろポジション代わってもらえますう?」
「え?」セレンは混乱した。自分のポジションは下ごしらえと簡単な料理だし、ライオンの居るところは明らかにメインのシェフがやるポジションだった。
「私、元々そこのポジションなんですう。たまたまここ入ってて戻ろうと思ったらいつの間にかあなたがいて…、それで恥ずかしくて言えなくて我慢してたんですけど、もう無理ですう」ライオンは涙目だった。どうやらオカマのようだった。
「わ、わかりました」なんだこれはどうしたんだ? こんなライオンは初めてだ。セレンは仕方なくメインの魚をさばくポジションに代わりに収まった。例によってオーダーはもの凄い数がたまっていた。どうやら一つもやっていなかったようだった。結局、一覧表に間違いは無かったが、従業員までカバーしてほしいと痛切に思うセレンだった。
「うーん、魚介もいい〜」鹿の娘は舌鼓をうった。
「本当シェフ変わったわね、これは。なんかいつもと全然違う」
「これなら毎日でも食べられるかも」
「そりゃそうよ。スタイル維持には必須なのよ。あなた今朝サイズいくつだった?」
「変わってません」
「もう代替わりだし本当くれぐれも気をつけてくださいね。鹿の点家の娘が実は肉好きなんて決して世間様に公表できませんからね。恋だけにしてもらいたいものだわ」
「わかってるわよ。割と順調に行ってるんだから干渉しないで。そっちの方は公表してないから」
「まああなたは確かにやせの大食いだからいいけど私なんか本当に昔は苦労したのよ」
「ママとは違うし。でも、どうしてサイズまで厳密にしなきゃいけないの? 少しくらいいいでしょ。今時こんなの鹿権に反するわ。まあ無いけどこの世界」
「それは昔からの伝統で、私も正確にはわからないわ。でもそのことが、この事実が、鹿の点家を鹿の点家足らしめてるの。それが…、レシピの書の鍵なのよ」鹿の母は、最後のところだけは小声でささやいた。
「あ!」鹿の娘は小さな声を上げた。ホールスタッフが出来たての料理を持って出てくるとその一瞬暖簾が上がり娘のテーブルからデシャップが見えるのだが、一瞬、ほんの一瞬、鹿の娘の目に見覚えのある猿の姿を捉えたような気がしたのだ。
「どうしたの? 何かあって?」
「何でもない」
「何よ。いい男でも居た? ところで最近ボーイフレンドはどうなの?」
「全部振っちゃった」
「ふふふ、まあいいわ。気に入ったライオンをお探しなさい。正夫として」
「ねえママ…、ライオンじゃないとだめ?」
セレンの位置からはホールスタッフが通るたびにひらめくのれんから客席がちらちらと見えたが、そこには大柄なライオンが居たので極力そちらは見ないように努めた。時間が経って客も入れ替わっているかもしれないが、猿がシェフポジションで働いていることが知れたら、どんな嫌がらせに遭うとも知れない。ましてや自分自身だとわかったら…。セレンはじっと下を見て食材と合対峙し莫大な量のオーダーをこなした。わからない部分はマニュアルを見たり、食材と対話して自分の解釈をたくさん取り入れてこなしたが、何より驚きだったのはライオンが悉くサポートしてくれたことだった。特に言葉を交わした訳ではなかったが、時折聞こえてくる厨房スタッフの雑談から、このライオンはまだ日が浅く、争いが嫌いで肉より魚介が好きで純粋に料理に興味があって働いていることが何となくわかってきた。他の動物も奴隷の身分であるセレンのことを全然詮索しないばかりか、少し暇ができては水を持ってきてくれたり妙に優しかった。だからつまみ食いをするのが却って気が引けたのだが、それでも十分な量を食べてそのレストランを後にした。ちなみに妙になじみ過ぎてか、閉め作業までこなしていた。
*
セレンと老猿はそこの魚介レストランと言わず、何度も何度もなるべく魚介系かつシェフが不在のときを狙っては潜入してつまみ食いをして帰ってくるという生活をしばらく続け、セレンの行くレストランは次第次第に評判になっていった。そのことは口コミで広がり、最近発行を始めた豚紳士によるギンザレストランガイドにも触れられていた。それを知って知らずか、最早セレンたちのレストラン潜入は咎める者が居るどころか、密かに歓迎されているらしかった。
*
「進捗を聞かせてもらおう」
「時間の問題です。確実に切断まであと一歩のところ」
「しかしこの前もまたその前も同じことを聞いた。どうしてこんなに長引いておるのだ」
「申し訳ありません。意外としぶとく想像が生成されておりまして」
「というと?」
「少々面倒くさい奴が現れまして」
「それは何者だ」
「猿です。一匹の猿」
「一匹の猿ごときに何を手間取っておる? 異物は早めに取り除かないと知らぬぞ。手は打ってあるのか? 上帝よ」
「はい。あともう少しです。さすればこの世界は完全に主のものに」
*75
「最近さすがに魚介ばっかだから、そろそろ肉食べたい」
「そうだな。たまには肉にするか。どれ、最近評判のレストランで、シェフが休みで従業員も怖そうなのが居ないと…」
「もうそんなのに対応してる!」セレンと老猿は一覧表を見ながら代替のレストランに目ぼしをつけた。
潜入したレストランは例の一覧表で料理長の不在は確認済みだった。
いつものようにちょうどピークも終え、つまみ食いも一通り済ました。今日のつまみ食いとその前の労働はセレン自身とても満足の行くものだった。久しぶりに快適なキッチンで遺憾なく自分の力を発揮したような気持ちだった。そしてそろそろ帰ろうとするころだった。
「ちょっと待って」やばい、見つかった! 一瞬にしてセレンと老猿に不安が走った。
デシャップの向こうからやや野太い声が、セレンの耳に突き刺さるように襲い掛かったのだ。今まで何回かこういうことはあったが、今回ばかりは何かセレンには胸騒ぎがした。
「お客さんがお呼びです」まずい…。
セレンはますますここに居られないと思った。恐らくクレームが来たのだ。自分的にはいい仕事をしたと思ったが、久しぶりの肉料理ということで攻めすぎたのかもしれない。これは直ぐに帰った方が良い。老猿にもメニューを無視しすぎていると止められていたのだが、調子に乗ってどんどん出してしまったのだ。
二匹は顔を見合わせると出口に一目散に向かおうとした。
「こんなにすばらしい料理は初めてだそうです」
「へっ、」
セレンは思わず振り返ってみてしまった。
「お客様がぜひ、これを作った料理長に会いたいと。是非客席まで」
「そ、そうなんだ?」
セレンは良い気分だった。既にもうお腹いっぱい食べていたため、このまま放り出されたところで痛くもかゆくもないし、何が一番って、自分は指名手配ではないのである。そして料理長という響き。セレンは一度でいいからそう呼ばれてみたかった。それがこんなにも早く実現するとは夢にまで思わなかったのである。
セレンは老猿ともう一度顔を見合わせた。老猿はうなずいた。
「いって来いよ」セレンは仲居に連れられて客席まで案内された。
「あら、料理長あなただったかしら? お猿さんが…?」
「いやあ、今日休みみたいで代役です」セレンは舞い上がっていて取り繕うこと無く正直に言っていた。
「そうよね。居ないって言ってたわね。でも…、どっかで見たことあるわね、あなた」
「いや、よくいる顔ですから…」セレンはちょっぴり後悔したが、もう逃げ出すわけにはいかない雰囲気になっていた。それに首をかしげていた仲居も、案外強引にセレンの手を引いていた。
「さあ、あそこのお客様です」セレンは仲居に案内されるままにお客を見た。
「あああー!」
セレンは思わず顔をそらした。逃げ出したいよな、恥ずかしいようないろいろな感情が一度に押し寄せて、セレンを押しつぶしそうになった。そこにいたお客とは、セレンが恋焦がれた鹿の娘だった。
76
「リカさん!」
鹿の娘もすぐにセレンと気がついた。奥の席ではライオンが目を光らせていたが、セレンの目には、この鹿の娘以外は入りようが無かった。
「あ、あなた…あなたなの!? 料理長は…」
セレンはこの瞬間、天にも昇りたい勢いだった。
「左様でございます。お客様。お気に召しましたでしょうか」
「勘違いしないで頂戴」
「へ?」セレンはあまりにも冷たい口調の鹿の娘に面食らった。
「呼んだのは褒める為じゃなく、文句を言うためよ。最初から文句って聞くと逃げて部下に押し付けるシェフが多いから」
「え、ど、どう言うことだよ? 何がいけなかったんだよ?」
「はあ? 大体がこんなにセオリーを無視して肉だって焼き過ぎだし鮮度も最悪よ。やっぱり猿如きが料理をやるなんて無理ね。2度とこんなまずいの出さないで頂戴」
「はあ? お嬢さん舌おかしいんじゃないの? どう考えてもあれが最適だよ、文句があるなら来るなよ」セレンはついカーッとなってしまったが言葉が止まらなかった。
「ふん、よく客にそんな口聞けるわね。今度不味かったら承知しないわよ」
「上等だよ」娘は聞くまでもなくプイっとして帰って行った。セレンは何であんな啖呵を切ってしまったのか後悔しても仕切れなかった。
キッチンに戻るとまだ少し忙しいようだったが、セレンと老猿は今のうちにとりあえず、この店を離れることにした。セレンが帰った後、目を光らせていたライオンは、隣の犬に耳打ちをした。犬はすぐに店を出て行った。
「おい、お前ぼーっとしすぎだぞ。いくら奇麗な雌のお客に文句言われたからって、いい加減そろそろ目を覚まさなきゃだめだぞ」
「ああ、わかってるよ」
セレンはそれでも正直怒りが沸沸と湧いてきた。あんな言い方しなくても。
次の日も、明くる日の夜も、それからというもの毎日のようにセレンは老猿に散々とめられたにも拘らず押し切って、例の肉料理専門のお店に裏口から侵入をした。悔しい。絶対に認めさせてやる。もはや料理長が居ようが居まいがおかまいなしのつもりだった。従業員も鹿の娘のクレームは全然気にしていない様だったし幸いなことに肉食系の大規模店のご多分に漏れずこの店もライオンだった料理長が王立系にヘッドハンティングされ、料理長不在が続いていたので、誰かしらが料理長クラスの働きをしてくれるのは店側としても渡りに船だったのだ。やはり今日は従業員のかけ声はあまり聞こえなかったが頻繁な足音と揚げ物の音や食材を処理する音からいつも以上に忙しそうなのはわかった。
「慢性的な働き手不足だ」
セレンは厨房に入ろうとした。あれ以来鹿の娘とはあっていないが、セレンはリベンジを図るべく気合を入れた。ひょっとしたら今日また鹿の娘は料理を食べに来るかもしれない。
厨房に入った。従業員はめまぐるしく動いている。セレンは昨日と同様気づかれないようにそろそろと着替えをしにいった。いい加減ここの従業員も気づくのではないか。いや気づいていない訳が無い。セレンはそう思っていたが、これだけほぼただ働きで貢献しているのだ。気づいていたとしても咎められることは無いだろう。ここ数日は、仕込みこそしないが本当に実質セレンが料理長のような感じになっていた。
しかしその日は違った。厨房にたった瞬間、ずどーんと重い空気がセレンを圧したと思うとスタッフの視線が一斉にセレンに注がれた。
えっ、どうして? これは最早ばれているという次元ではなかった。明らかに歓迎されていない。本当になにがあったのだろう。セレンは何かを攻められていることが厨房スタッフの刺すような視線の強さでなんとなくわかった。
「オーナーが…」厨房スタッフの一匹のブルドックが声を震わせた。
「オーナーがどうされました?」セレンの質問に返事をしたのは別のスタッフだった。
「オーナーがあんなことに…」オーナーがどうしたというのだろう。もしかして自分が責められてる訳ではないのかもしれないとセレンは思った。しかしその期待はもう一匹の言葉ですぐ裏切られた。
「お前のせいだ」いきなりセレンを糾弾する声が上がった。
「わ、我がオーナーは…」厨房のスタッフはオーダーがたまっているにも拘らずすすり泣きを始めた。
「????ど、どういうことですか?」セレンは何を言われているのかまったく理解できなかったがやはり自分の料理の評判が悪いのか、不安になった。
「我がオーナーがしょっ引かれていったんだよ」
「え!」セレンはもしや、と思った。鹿の娘が不味すぎて当局に訴えた? あるいはあの立て看板の予告通り先日客席に出たせいで、自分を雇ったとみなされたのかもしれない。でもそれでしょっ引かれた? それはおかしい。
「それはすみません。でも勝手にやってることですから。誤解も晴れると思います」
セレンはとりあえず、思いつきのまま言い訳を言った。本当にリカさんが言いつけたんだろうか?
「りか様が」「り、り、リカざまがじょっぴがれだあ」
「リカさん?」言いつけたんじゃなくて?
「お嬢様」「りかさまが死刑んなる!」「りがざんじょっびがれだあん」「びがじゃん…あん」「りかしゃあんあんあわあーんわんわん」めいめいがセレンに抗議するように言った。厨房スタッフどころか表のスタッフまで泣き崩れた。
「リカさんが何で? どう言うことです?」セレンは胸騒ぎがしてもしやと思い尋ねた。
「リカ様は五大家の一つ鹿の点家のご令嬢で我がレストランのオーナーなんだよ」
「えええっ!!」セレンは心臓を大きなで杭で打たれたような思いだった。
「そんなことって…いや、絶対に間違ってる」
セレンの頭に立て看板の文言の「この者たちを雇ったら死刑」が鮮明に思い出された。
「リカ様は全部知ってたんだ。気づかないふりしてくれって、頼まれた結果がこれだ」鹿の娘はセレンの働くのをわざと黙認していたのだ。
「そんな…、俺のせいだ。絶対に死刑にさせてたまるかよ!」
セレンは宮殿へ夢中で走り出した。
セレンが向かった先の宮殿では、考えられうる限り最大限厳重な警備が敷かれていた。番犬たちが密集して隊列を成し、一部の隙間も与えず、ありんこ一匹通さない構えのようだった。
「ちょっと通してくれよ。ねえ、お願いだから」
セレンは強行突破を試みるものの、無残にも払いのけられた。
「ちょっと話だけでも聞いてください」
「あっちいってろ」
番犬は警棒でもって、強かセレンを殴った。
「お願いだから、話だけでも聞いてください。ここに鹿の点家のご令嬢のリカさんがいるはずだ。リカさんは関係ないんだ。俺が勝手に働いてただけで。全ては俺が悪いんだ。お願いだ。リカさんを解放してくれ、代わりに俺が罰を受けるから」
「うるさい」
番犬は思いっきりセレンを殴った。セレンは数メートル吹っ飛ばされた。
セレンはその後も執拗に食い下がった。その度に徹底的に殴られ、それでも意識を失いながら何度も何度も立ち向かった。
「りか…さ…ん」
最後はとうとうぼろ雑巾のようになって門の前に打ち捨てられた。
77
セレンは目を開けた。
「気がついたようじゃな」
「はっ、リカさん!」
セレンはがばんと跳ね起きた。
「あちちちちい」
セレンは自分の体中が腫れているのに気がついた。
「ああ、寝てなきゃだめじゃ」
老猿は、傷だらけのセレンを無理やり寝付かせようとしたが、セレンはてんで聞こうとしなかった。
「いくんだよ、リカさんが…、死刑になってしまう。いかなきゃ。全部俺が悪いんだ」
「ばかもの」
老猿はセレンを張り倒した。セレンは驚いてほほをさすった。
「何すんだよ…、行かなきゃ殺されちゃうんだよ! 行かなきゃ」
「行ったところで同じ目に合うのは目に見えておるわい。行けばあちらの思う壺じゃ」
「そんなこと言ったって、リカさんが」
「心配するな、仮にもあのお方は五大家のご令嬢。例え上帝といえども滅多なことは出来まい。今は、なにより体力を回復することじゃ。策を練るのはそれからじゃ」
「策ったって、どうすればいいんだよ。五大家だからって大丈夫な根拠あるのかよ」
「だからそれを今から考えるんじゃ。レシピの書を開ける鍵を持つのは鹿の点家じゃ。いかな上帝といえども早まったことは出来んはずじゃ」
「でも…、何とかならないのかよ」
「今は絶対無理じゃ。お前も見たろう。面会すら絶対許されない。ありの子一匹通さないつもりじゃ。時を待つ他ない」
「そんなこと言ったって…、この気持ち、どうすればいいんだ。謝りたい。気持ちを伝えなきゃ悶え死ぬよ」
「仕方ない。元々上帝はこれを狙っていたんじゃ。幸いなことにレシピの書が発見されたという情報はまだ無い」セレンはそれを聞いて無理矢理自分を納得させるしか無かった。
くんくん、くんくん。セレンは鼻を引くつかせた。そう言えばさっきから、なんだか妙にくさい。
「ここはどこだい? この匂いはひどいよ。近くに肥溜めでもあるんじゃないのかい?」
「ここか?」
老猿はいうのをためらっているようだったが、ごまかしきれなくなったと見て、諦めていった。
「ここは王宮近くの豚小屋じゃ」
「えー! 豚小屋?! 通りでくさいと思った。勘弁してくれよお」
「仕方ないじゃろう。最早潜入は不可能になってしまったし、食っていくにはこの選択しかない」
セレンが周りをよく見ると、確かに豚たちは気持ちよさそうに寝息を立てているようだった。ときどき、ブヒ、ブヒッと鳴きながら。
「まあいいからこれを食え」
老猿が出したのは、豚の料理だった。その料理はとてもいい匂いがした。
「なんだあ、いつの間に…、なんか複雑だなあ、このいい匂いの合間に、ちょっとでも途切れるとまた豚小屋の匂いになってるんだから」
「ふぉっふぉっふぉ、臭いのと良い匂いは紙一重じゃ。臭さは旨さに繋がる。まあ匂いさえ我慢すれば食材はいくらでもあるんだ」
だが、セレンは違った意味でも複雑な気持ちだった。それは以前、豚が会話をしているのを聞いたからだった。セレンにとっても豚は食材以上の存在になっていた。
「うまい…」セレンは豚の三角煮を口に入れながら今後の策を考えていた。じいさんはそう言うが、いくら鹿の娘が五大家のご令嬢だとしてもそんなに猶予があるかはわからない。助け出したいが自分の力ではどうすることも出来ないのはわかっていた。せめて今はどうにかして鹿の娘に一言謝りたかったし励ましてやりたかった。
「でもこの豚さんたちってどうなるんだろう?」
「? 全部とは限らんが大体王宮や王立系のレストランで使われるじゃろう。関係者も来るからわしらもあまり長居も出来んぞ」
「それなら」
「あ、ああん?」
老猿はセレンの行動をいぶかしげに見た。セレンは寝ていた豚を起こした。
「ねえ、ちょっと起きて」
豚はブヒブヒいいながら、眠たい目をこすっていた。
老猿も手をたたいた。セレンは豚とも会話が出来るのだ。もちろん老猿には、豚がブヒブヒ鳴いているようにしか聞こえなかったのであるが。
「どうしたの?」
豚の眠たくも優しい目がセレンの瞳を捉えた。
「あしたはどうしてるの?」
「あした? 明日は宮殿のパーティーで晩餐会があるから、食材として納入されるんだ」
「納入?」
豚は素直にそう答えた。セレンは豚の、自分の運命に対してなんら恐れを抱いていないその達観したような態度に、複雑な気持ちになった。
「それって、君、料理されちゃうのかい?」
「そうだよ」
「そうだよって…、それでいいのかい豚さん」
「仕方がないさ。紳士に教えてもらってもどうしてもライオネス語が覚えられなかったんだ。落ちこぼれは家畜のままさ」
「紳士ってあの豚の?」
「そうだよ。豚の紳士は僕たちのエリートさ。トンビから鷹。豚から紳士だよ。彼らは僕たち仲間を解放しようとしてくれてるんだけど、ライオネス語は難しいや。文明動物にはライオネス語が必須らしいからね」
それを聞いてセレンの方が心が痛んだ。しかしセレンにはどうしてやることも出来なかった。例えこの豚たちをこのギンザから放して、野生に帰しても獣たちの餌食になるのが落ちなのだ。それよりもこの豚たちは食材になる直前まで餌を与えられ、最後は料理として芸術にまで高められるのを望んでいるのかもしれなかった。セレンは意を決して言った。
「豚さん。お願いがあるんだ。宮殿に行ったら、手前の監獄にとっても綺麗な鹿の娘が囚われていると思うんだ。その娘さんに出会ったら、渡して欲しい物があるんだ」
そう言ってセレンはすぐに手紙をしたため、それにお菓子を包んで豚に渡した。
「お安い御用だよ」
豚はその包みを受け取ると、すぐ再びまどろみの世界に旅立った。
78
セレンはねずみを探すことにした。あのねずみ、そう、セレンをレストランに紹介したねずみのことだった。あいつに聞けばきっと何か教えてくれるかもしれない。淡い期待を持って、セレンはねずみと出会った場所を探した。
「この辺だったんだよなあ…もうどっかいっちゃったのかなあ?」
「どんな鼠だい? ワシらにとっちゃネズ公なんてのは敵以外のなんでもないんだから」
「でもそいつが爺さんのレストランを紹介してくれたんだぜ。この辺で」
「本当かあ? セレンなら言葉がわかる良いけど、そもそもねず公なんて基本どこだっているんだからな。それだったら大した知恵も拝借できないぞ」
「いやでも、今考えるとそのネズミはライオネス語話してたような気がするな」
「バカな。そんなのはあり得ない。一つないこともないが、徹底的な駆除にあって壊滅したはずだし…でもまさか」
「おーい、セレンじゃないか」
「あっ!」
セレンと老サルの視線の先に居たのはそのまさにネズミだった。
「あ、あなたは! 生きていたんですね!」
「なんだじいさん知ってるんじゃないか」
「いや、このおねずみ様だけは特別じゃ。この方こそは五大家の一つ鼠野家の当主じゃ。まさかお前がこのおネズミ様を知っておろうとは。亡くなったとばかり」
「まあいいよ、じいさん。久しぶり」
ねずみもかたっくるしい事は嫌いらしく、老猿とも久しぶりの再会に関わらずすぐさま本題に入った。
「ところで困ってるようだな、セレン。どうした?」
二匹は今までの経緯を説明した。
「ふむ。これは計画的じゃろう。狙ってやったのだ。鹿の点家ですら囚われるということは、上帝が完全支配のためにレシピの書の力を手にしようということだろう。レシピの書の鍵は鹿の点家が代々所有してきた。これではギンザのどの勢力であろうとももはや太刀打ちは出来ん」
「何か良い案無いのかよ」
「今は機を見て潜伏し、力を蓄えるしか無いだろう」
「そんな悠長なこと言ってたらリカさんが処刑されちゃうんだよ。何か無いのかよ」
「慌てるな。レシピの書はまだ王宮には無い。少なくともそれまでは処刑なんてことは無いはずじゃ」
「でも鍵を奪われてたら?」
「それはない…気がする。あれ…?」おねずみは不安げな顔をした。
「いやいやいや自信無いじゃん」
「我が鼠族のネットワークを見くびるな! ただ何か忘れてる気がするだけじゃ。ただ少なくとも上帝はレシピの書を手に入れるまでは処刑は出来ないはずじゃ」
「だったらそれどこにあるんだよ?」
「それはわからない。それより今は体制を整えるのが先決じゃ」セレンはそれを聞いて、少しだけ安心したのか。急にお腹がすいていることに気がついた。
「どこかいいとこないかい? もうどこも忍び込めないかなあ」
「うーん、難しいなあ…。監視はキツくなっている。五大家といえども、ここまで上帝が全面に出てくるとな。我々がいくら力があると言っても今回は難しい。われわれも自由を手に入れる代わりに、権力を放棄した。まあわしは死んだことになっておるがの。その我々の自由も無くなるのは時間の問題じゃろう。今回の件で例え雇用契約の前に厨房に入れるのですら嫌がるだろうし管理の締め付けは段違いに厳しい」
「なんでもいいんだよ。どこかちょっとしたご飯屋さんの出来るスペースでも」
おねずみ様は渋い顔をした。
「ギンザに空いているところはない。どこもライセンス製になってしまって、新規参入は物凄く厳しいものになっているんだ」
「…だったらどうすりゃいいんだよ…。また浮浪者でもやれって言うのかい?」
「それはわしが絶対いやです」老猿がそこは頑として譲らなそうだった。
「ふふふ、そうじゃったな。まあ一つだけなくはないが…サルが谷家固有の土地なら…」
セレンは顔を上げた。
「一つだけ? それどこだよ。あるなら言ってくれよ」
「いや…、やっぱりやめておいた方がよいだろう。もはやあそこは…、死の場所。とてもとても…飲食店はおろか他のどんなお店だって開けやしない」
「でもそれってどこなんだい?」
「無駄だ。今では誰であろうと立ち入ることさえ出来んわい。あそこは呪われておる。行く者はほんの数日で死んでしまう。例え生き残っても、そこで商売することは出来まい? お客さんあってのことなのだから…」
セレンは首を横に振った。そして激しくねずみをゆすった。
「そこにつれてってくれ。お願いだ。もうそこしかないんだよ。そこにかけるしか」
「イタイイタイタイ、わかったわかった、殺す気か!」セレンは鼠を両手で力強くつかんでいた。
「ごめん、つい。でもとにかくお願いします」
「ただし遠巻きに見るだけじゃぞ、入るのはおろか、近づくのも危険なところだ」
お鼠はセレンと老猿をそこに案内した。
79
ギンザ一の大通りを越えて東へ進むと、それに次ぐくらい大きさの通りがあった。そしてそれを越えて更に進むと、次第に動物はまばらになっていく。とうとうギンザの東の外れまで来ると更に雰囲気は一変して、辺りは打ち捨てられた廃墟で動物の気配の全くしない沈黙が広がっていた。周辺も既に住人は引っ越しているようで、もう数十年も誰も寄り付いていないのではと思われた。
「こんなとこあったんだ。全然知らなかった」
「ここは元々市場があったところじゃ。セレン。もうこれ以上近づくのはよした方がいい」
「ここは本当にギンザなのかのう?」老猿も辺りを見渡していた。ギンザに長く住んでも知らないことはまだいっぱいありそうだった。
「おじいさん、ここ来たことあるんだろう?」
「うーん…、いろいろと区画がかわってなあ。レストランからは表通りは挟んで向こうだったし指名手配ということもあり、西の方に引っ込んでてそうそう自由に歩けなんだからなあ」
「ふふふ、最後の激戦地だったからのう。思い出したくないこともあるじゃろう。ここにはたくさんの亡骸が眠っておるのじゃ」
「そうでしたっけ? もうかなり時間が経っているし」
「カイレンはすぐに料理長に連れられて疎開したから知らんじゃろう。上帝は王宮を襲撃してギンザを制圧した。猿王系で生き残った者はこの市場に集結した。この市場が最後の抵抗地帯だったのじゃ。猿王系は最後まで抵抗したが結局掃討されてしまった。しかし、上帝軍でこの地に踏み入る者は悉く原因不明の病に冒され、とうとうこの地を征服出来なかったのだ」
「何となく聞いたような…」老猿は自信無さげだった。
「ええ? じいさん、なんだってそんな大事なこと忘れてるんだよ。ぼけ過ぎだよ」
「ぬ、ぬかせい、お前だってそのうちなるわい」
「フォフォフォ。まあセレン。無理を言うな。カイレンの場合はむしろ昔のことを思い出している段階じゃ。昔より断然覚えている」
「なんだそりゃ」
いろいろなところを遠巻きに観察しているうちに、老猿は思い出したようだった。
「ああ、確かに。なんと荒れ果てた…。昔は毎朝ここに通ったもんじゃ。革命が起こってからだから、もう三十年以上くらいは来ていないことになる」
「さすがにこれでは無理じゃわい」市場だった往事の面影はすっかり無く廃墟そのもの。今にも幽霊が出てきそうだった。
「何だか気分が悪くなってきたわい。わかったじゃろ、さあそろそろ…」
しかしセレンは、老猿やおねずみの話も聞かず中へと入っていった。
「あっ! おい! セレン。行くな」
「死ぬぞお前! それ以上行くな」
「戻ってこい!」
二匹のとめるのもお構いなく、セレンはずんずんとその先にある建物に近づいていった。建物はずいぶんと年代を感じさせるもので相当薄汚れていた上、草の生一本生えてないその光景はとても動物に優しい環境には思えなかった。
誰か来たぞ? 珍しい
セレンは誰かの声が聞こえた気がして辺りを見たが誰もいなかった。気を取り直して恐る恐る建物の中に入ると、中は見るも無残な状態だった。長年打ち捨てられていたせいか見渡す限り壁一面びっしりカビで覆われていた。時折風なのか、声のような音が聞こえきた。それが笑い声のようにも聞こえ、セレンは体中がぞわぞわした。こうまでぼろぼろで汚いとあきらめざるを得ない。さすがのセレンも、商売は無理だと悟った。仮にも飲食店を開くべきところではない。それどころかここに短時間いるだけでも自分の健康を害してしまうことは容易に想像がついた。セレンはあきらめてきびすを返した時再び不気味な笑い声が聞こえてきた。セレンは急いで外に出ようとした。今度ははっきりとその笑い声の主の声が聞こえてきた。しかも今度は複数の声だった。
ふっふっふ、久しぶりに獲物だぜ。
ああ、ずいぶんと久しぶりだ。
これで我々の仲間も久しぶりに大増殖だ。
「誰?」セレンは振り向いた。誰もいなかった。これは本格的にヤバい。出ると言うのは本当だった。ただセレンにとって物理的に害を受けない者ならば何でもなかった。今まで散々自分より大きな動物に痛い目に遭ってきたのだ。幽霊の方がまだましだと思った。
「誰だ? 返事しろ」セレンは幽霊に話しかるつもりで壁に話しかけた。
そこは古くてカビだらけで汚かったが、良く見ると造りのしっかりしたキッチンだったのがわかる。それでもこのカビだらけの巣窟では仕方が無い。セレンはひとまず引き返そうとした、その矢先だった。
いい度胸だ。わざわざ自分から飛び込んでくるなんて。
今度ははっきりとした声だった。
「誰?」セレンは振り返ったが、やはり誰の姿も見えなかった。幽霊の声といえどもこんなにはっきり聞き取れるとはセレンには驚きだった。
なんだ今の?
「なにが?」セレンが声に応えるとしばし沈黙があった。
おかしい、こいつわれわれの言葉がわかるらしい。
「ん?」セレンは建物のいろいろな場所を探したが、どこもかしこもかびの死骸臭さがあるだけで生き物は見当たらなかった。
こいつは慎重に行ったほうがよさそうだぞ…。
だな。今もこいつには会話が聞かれているわけだから。
「おい、どこでしゃべっているんだよ? どこだ?」
かかれ!
「うっ」セレンはおなかを押さえた。おなかが痛くて死にそうだった。朦朧とする意識の中、セレンは確かにそれまで黒かった壁から黒いものの集合が、少しずつ渦を巻きうごめき、セレンに迫ってくるのを見た。
「まさか! でも…、わ、かった、ぞ…」
その黒い渦はその言葉で一瞬ひるんだ。セレンは死にそうになりながらもその建物を命からがら逃げ出した。
「セレン! 大丈夫か! だからいわんこっちゃない」
「じ、じいさん、水、水を持ってきてくれ。出来れば砂糖の入った水を」
それを聞いて老猿とねずみはあわてて水道を探した。近くの井戸を見つけたが、すでにからんからんに干涸びて空だった。
「行ってくる」
「バケツいっぱいにお願い…」
セレンは苦しさでもだえていた。ただ外に出たことで幾分か痛みも和らいでいるようだった。
「はあ、はあ、はあ、はあ…」
「大丈夫か、セレンよ」
「あ、ああ、何とか…」
「おーいセレーン!」
老猿がバケツいっぱいにまで水を入れて走ってきた。砂糖はお鼠の号令とともにたくさんの鼠たちが手に頭に砂糖をそれぞれ携えて次々にバケツの中に放り入れた。十分甘い感じになった。
「さっ、これを飲め」
「ありがとう」セレンは息も絶え絶え起きあがるとそれを受け取り、再び建物の中に入っていった。
「お、おい。セレン! 何をする?!」セレンは聞かずにずんずんと建物の中に入っていった。
「おうい、みんな。今はこれだけで勘弁してくれ」
そう言ってドンとそのバケツいっぱいの水をそこの中央に置いた。
黒い渦はそのバケツめがけてものすごい勢いで集まっていった。それは端から見たら、バケツの上に黒い竜巻が起こっているようであった。水は瞬く間になくなっていた。
「これでよしっと」
セレンのおなかは何事もなかったように回復していた。
80
「フフフフフ。気分はどうだね?」
「最悪よ」鹿の娘は両手を広げた状態で鎖に繋がれていた。
「下らん猿を雇うからそうなるのだ。大人しくしておけば良いものを」
「雇っては無いわ」
「あの猿が勝手にやったという訳か? だとしたら違う罪で猿を捌かなくてはな」
「ち、違うわ…」
「だったら何なんだ?」
「…偶然よ…、そう偶然なのよ。いいからもう釈放してよ」
「フフフフフ、苦しい言い訳はもうよい」
「天罰が下るわよ。私は鹿の点家の当主なのよ。私にこんなことをして許されるとでも思っているの?」
「ふふふ、誰のお陰で家が存続していると思っているのか?」
「あんたとか関係ないから。昔からだし」
「それじゃあ鹿の点家の存在理由はなんだ?」
「それは…、美を保つことよ。美を世にあまねく広げるの。そのために理想の美しさを磨いて、保つのよ。あんたなんかにわからないでしょうけど」
「ふふふ、馬鹿を言うな。その本分は平時にはレシピの書の鍵を保持し、時がくれば提供することだろう? 美だのなんだのは余興に過ぎん」
「そんなの知らない。聞いたことないわ。昔の話でしょ?」
「フフフフフ、知らないのも無理は無い。必要だったのは遠い昔だからな」
「どういうこと? そもそもレシピのしょって何よ?」
「ふふふふ、とにかくレシピの書を入手するまではお前に用はない。それまで食事だけはしっかり与えよう。その時までな」上帝は含み笑いをした。
ぶひ、ぶひ、ぶひいいい。
王宮の厨房へと続く廊下を行く豚の行進を見守る侍従と王様がいた。だが、王様も侍従もその匂いに顔をしかめたようだった。
「今日の晩餐会のメインは豚か?」
「はい。よりすぐった特選豚にございます」
「匂いの方も特選だな」
「はっ。臭さは旨さに繋がると昔の言い伝えにもございます故」
「昔の言い伝えか。上帝陛下には聞かせられない言葉だぞ」
侍従は。まずいことを言ったと思ったのか、口を手で押さえた。事実、昔の話が上帝は極端に嫌いで公共の場で昔の話を話すのも憚られた。特に王朝成立のころの歴史を探るのはタブーとされていた。
廊下では豚のぶひぶひいう鳴き声に混じって、鳥のさえずりのような可憐なすすり泣きのような声も混じっていた。それは鹿の娘の鳴き声だった。鹿の娘は、牢獄といっても特別に部屋をしつらえられていた。基本的に犯罪者は食べ物になるのがこの世界の常だったため、見せしめと品定めのために牢獄はいつでも王宮のあらゆるところから見えるように位置し、それが丁度豚の行進の通り道でもあった。
「しかしなんと美しいのだ。あの鹿の娘。食べたい」
「王様、なりませぬぞ。あのお方は、囚人は囚人でも上帝直法の囚人なのです。一切手出しはなりませぬぞ」侍従はライオン王に釘を刺した。
「むうう、わかっておる。レシピの書を開けられるのはあの娘だけと聞く。それにセレンを完全に排除するための生贄でもある。わかっておる…」
ライオン王は自分でどうともできないことが悔しかった。
「しかしこれでセレンに協力する者は出てこまい。我が王立レストランも安定と繁栄を取り戻す。上帝陛下のご叱責もまぬかれるというものだ」
「そうでございますね。鼠族も長老が死んで久しいですし、他の五大家も居るかどうかも不明ですし完全支配も時間の問題です。先日の大々的な報道で完全にセレンの雇用に関する罰則が周知されました。そのせいか、昨日の時点で早くも王立系のレストランの売り上げが戻ってきています。効果は的面でございます」
「ふふふ、そうか、それはいい」
「ささ、今日は完全支配への足がかりを記念する特別な晩餐会でございます。例の特選豚のなかでも選りすぐりが、メインディッシュとして供されましょう」
豚はメインにふさわしく晩餐会仕様に粧し込まれ、四つん這いで犬に引かれていた。豚は引かれている途中、首を振り振りさまざまな所を見ているようだった。首には手紙がくくりつけられていた。そして、鹿の娘が収監されたおりの前で立ち止まった。
「こらこら、余所見をするな。まっすぐ歩け」
犬は豚を先導するが、なかなか力が強くて言うことを聞かなかった。
「なんだこれ?」犬は豚に括り付けられた手紙に気がついた。豚は取られないように抵抗した。
ぶひぶひ。
「何だ、見せてみろ」犬はそのくくりつけられた手紙をひったくった。
ブヒヒヒー、豚は必死の抵抗を見せたが無駄だった。犬が豚を寄せ付けずその手紙を読んでいる間、豚はしかし微笑んだ。そして今度は懐から、もう一袋の手紙を取り出し、そっと鹿の娘の檻に放り込んだ。
「あら、なに? これ」鹿の娘はそれを受け取った。
「何だお前これは…、くだらん」犬はようやく読み終えたのか豚に罵声を浴びせ、その手紙をその場で打ち捨て再び豚を引き連れていった。その後は豚も穏やかだった。
81
「あいつ大丈夫かなあ…」
「ヤバいです。昨日も一晩中中に居て…。死んでないですよね」
「入りたくないものなあ…、わしら鼠族でもあそこは無理じゃよ」
「それでも…、ちょっとのぞいてみますか」
「しかたがないのう」お鼠と老猿は恐る恐る昨日からセレンがこもっている廃墟のキッチンに入った。
セレンは寸胴を大きな木べらでかき回しているところで、火を入れては止めを繰り返していた。キッチンには昨日とは打って変わってかび臭さは消え、代わりにアルコール臭が充満していた。
「おい。大丈夫かセレン」
「ああ、平気だよ。割と順調」セレンは目の下に隈を作っていた。
「かなり掃除は進んだみたいだが、さすがにこんなところで料理を作ったって、だあれもよりつかないよ」キッチンは掃除をしたからか昨日よりは大分綺麗になっていたが、壁はまだびっしりカビに覆われていた。むしろ久々の栄養のある水分をすって増殖しているようでもあった。
セレンはお構いなしに寸胴にスープを作っていた。ただし、火入れはほとんどしていない様で湯気はたってなかった。中をのぞくとスープの中もカビが進出しているような感じで老猿とお鼠は顔をしかめた。
「ひー、きったねえ。考えられないね。さすがにこれはまずいよ」
「じゃあ味見だけでもしといてよ」
そう言ってセレンはまだ途中と思わしきスープをボウルによそい、老猿に渡した。老猿は更にいっそう露骨に顔をしかめた。
「ほら、ほんの一口」
「お前それは虐待だぞ。殺す気か!」
「良いから良いから。死んだと思ってさ」セレンはずんとスプーンを渡した。
仕方なく老猿は悪態を吐きながら恐る恐るそれを口に運んだ。
「どう?」
「うっへえ、だめだ、食えたもんじゃない」老猿は直ぐに吐き出した。
「まだだったかなあ」セレンも味わってみた。
「確かにまだだ」
老猿は信じられないという顔をした。
「お前お腹、いや頭大丈夫か? まだなんてことは無い。やっぱり全部捨てろよ。こんなカビの巣窟みたいなスープ。アルコールでごまかしたんだろうが無理だぞ」
「うーん、でも…もうちょっとかな」
「勘弁してくれセレン」
「まあ、とりあえず今日はこのくらいでいいや。もうひと頑張りしてもらおう」
「おいセレン。これで開店は無理じゃ。食中毒出して完全にまた監獄いきだぞ。今度は本当に死刑だ」
セレンはしかしそれには動じていなかった。
「大丈夫だってさ」セレンは他人事のように言い、老猿はあきれていた。
82
「どういうことだ! お前さては、また徹夜で掃除をしていたのか?」
「いやあのあと一緒に居たじゃん」セレンも老猿もびっくりしていた。一夜明けて厨房はピッカピカに磨き上げられたように綺麗に生まれ変わっていた。だが、セレンはにやりと笑っていった。
「ここまでとは…、あいつらがんばってくれたんだ」
「あいつらって? 誰のことじゃ? 掃除スタッフでも雇ったのか?」
「いいや、まあ…だから…、何て言うんだろう」説明はやめてセレンは、嘘のようにピッカピカになったキッチンで、昨日から一晩置いておいた未完成のはずのスープをあっため始めた。中のスープは昨日とは打って変わってすっかり変色していた。
「何だこの色は? 嫌だなあ、またおなか壊すぞ」
セレンはそれを火にかけ、ゆっくりとかき混ぜた。沸騰するとスープを一杯すくった。
「じいさん、味わってみて」
「お前、またワシを殺す気か?」
「まだ一回も死んでないじゃん。じゃあ俺から行くね」
「おい、セレン! お前が死ぬぞ。今死なれたら困る」
セレンは二匹の制止をよそにゆっくりとスープを飲み干した。セレンは老サルの方を驚きの顔で見た。そして一言。
「うまい!」
老猿はセレンを疑いの目で見た。
「嘘付け、我慢しておるくせに。すぐに吐き出せ」
「ほんとだよ、一口でいいから、お願い」
「嫌だ」
「いいからいいから」
「嫌だよ、おい、やめろ」
老猿は本当に嫌そうだったが、セレンに無理やり口に押し込められた。
「やめれお………」
老猿は瞬間、言葉を失った。口を開くのにはそれからもう少し時間を要した。
「…何をしたんじゃ? セレン」
「どうだった?」
「おいしい、本当においしい。ものすごい旨味が濃縮されてる。でもどうやって?」
「なにもしてないよ」
「じゃあ誰がやった? 一晩かけて…このキッチンだって、これだけ綺麗になったんだ」
「カビたちだよ」
「カビたち? あのカビのおかげだっていうのか?」
「そうだよ。あのカビたちがこのスープのもとになってくれたんだ」
「うへえ…」
老猿はそれを聞いて、思わず飲んだスープを吐き出したくなった。
「大丈夫だよ、じいさん。このカビたちは害がないんだ」
「あるだろどう考えても。酵母菌とかそういう発酵系の類じゃないんだから。これは正真正銘ただのカビじゃ」
「でも現に、ここまでキッチンをきれいにしてこのスープをおいしくしてくれたのも、カビ達なんだよ」
「そんな馬鹿な…カビはカビのはず」
「ほら、チーズとかカビでも良いカビはあるじゃないか」
「いやこれは種類が違う。その類のカビではないはず…」
「進化したんだよ。そう言ってる」
老猿はセレンをまぶしそうに見た。
「セレン、お前…。カビたちとも話が出来るのか…」
「ああ、そうみたい。頼んだんだ。一晩もすれば何とかなるかもって…、それで本当になんとかなったみたい」
「それにしても信じられん…どうしてカビが…、カビの一生はそんなに長くはない」
「ああ。だけどじいさん、カビの一生は短いし、一世代の変化はほんの少しだけど、俺たちが一晩寝ていた間に、数十世代にわたって世代交代をしてきたんだ。だからその間にカビたちは、自分たちをものすごいスピードで進化させられたんだよ」
「お前が進化をさせたというわけか?」
「進化はカビたちが自分でしたんだよ。おれじゃない」
とうとうセレンはカビまで友達にした。
「でもだったらどうして…、セレンがカビと話せるなら上帝も話せるはず。それをどうして上帝はいままで手を付けなかったのだろう?」
「ふぉふぉふぉそうだったかそうだったか。わしも記憶が飛んでたわい」いつの間にかお鼠が匂いに釣られてやって来ていた。
「どういうことですかお鼠様」
「この歳になると、まこと昔のことをよう覚えてられんようになる。そう…、ここは元々市場じゃがクーデター後は猿王系テロ組織のアジトだったんじゃ。テロというのも気が引けるが、まあ反乱軍は力では当然勝てん。それでここで主に細菌兵器と刃物による武器を作って、最後まで抗戦したのじゃ。時には包丁をより強力にしたナイフで王立系のレストランを襲い、そして時には細菌兵器を使ってターゲットのレストランに食中毒を広げたのだ。そしてその首謀者が、お前の父親プリンスだ」
「と、父さん?!」
「お前の父親は反乱軍を率いここに立てこもって、刃物と細菌、つまりあのカビたちじゃな。それを大量に製造して武器にした」
「父さんもカビたちと話せたの?」
「ああ、そうだった。あのお方は料理には全く関心を示さなかったが…思い出した! 思い出したぞお。カイレン、お前も居たんだよここに」
「えっ…、そうでしたっけ…?」老猿はきょとんとした顔をお鼠に向けた。
「さっきからどういうことだよ? 自分たちのことなのに全然覚えてないし…」
「無理も無いのじゃ。殺鼠剤のせいじゃ」
「殺鼠剤って? 鼠を駆除する奴?」
「そうじゃ。あの時上帝軍は強大なライオン軍を率い襲撃し、更にこの一帯に強力な殺鼠剤や滅菌材をまいたのじゃ。それで猿王系の反乱軍は細菌とともにほぼ絶滅させられた。生き残った者もその時の障害や薬害で記憶をほとんど失ってしまったんじゃ。あ〜、腹立たしい。30年以上前の記憶が蘇ってきた」
「そういえば…」老猿もやっと思い出し始めたようだった。
「じゃあ父さんは…?」
「いや、あのお方も命からがらここを抜けたが、その後のことは知らん。ひょっとしたらまだまだ思い出せないだけかもしれんが。そのくらいあの殺鼠剤は強力だったのだ。わしもだから死んだことになってたのか! いまわかった」お鼠はそう言ってからから笑った。
「確かに言ってた。カビさんたち自分たちは猿が谷王家に忠誠を誓う。上帝は敵だって」
「そうじゃ。だから、ここのカビたちは当時の生き残りじゃ」
「生き残りというより子孫な」セレンのつっこみにおねずみはちょっとむっとした。
「ま、まあな。とにかく、お前の父さんは凄くここのカビをかわいがっていたもんじゃ。だから生き残ったカビは殺鼠剤にも、恐らくその後もしつこいくらい滅菌材を掛けられただろうにも拘らずなんとか耐えて、進化して生き残った訳じゃ。しかも幾世代も猿が谷王家に忠誠を持ったままじゃ。いくら上帝が手名付けようとしても出来んかったわけじゃ。それ以降上帝は五大家の一つ狸家を使って薬を作らせ、菌の増殖を防ぐためにまいたり食品に添加をしたりして徹底的な衛生対策をした。そしてこれはもう一つメリットがあった。それは動物の記憶力を低下させる作用があったのじゃ。それでその後も実は上帝は長きにわたりごくわずかながらレストランの食材や万能調味料という名で巧妙に忘却材を仕込んでいた。だから上帝の進める美食はこれでもまやかしだとわかる」
「っていうかねずじいほとんど知ってるじゃん」
「いや、殺鼠剤の威力は凄い。いままで忘れてたんじゃから」
「なるほど、お鼠様。それで物忘れが酷買ったんですね。ぼけてるのかと思ってた」
「カイレン! お前の物忘れには負けるしお前のは本物のぼけじゃ」
「あいたた」お鼠様は老猿の首を噛んだ。
「その後あの猿の動向はどうなっておる?」
「ご令嬢逮捕の後、目立った報告は上がっておりませんが、ただ少し気になる情報が…」
「気になる情報…? 申してみよ」
「は、あくまで噂に過ぎませんが…、セレンと老猿カイレンとおぼしき猿が、東の廃墟地区に分け入っていったという目撃情報が上がっております」王様は片方の目を見開いた。もっとも本人にとっては両目を開けた感覚だった。
「東の廃墟地区だと? 何を企んでおるのだ? あそこは悪性のカビだらけでとても生物の近づけるところではないはず」
「はい。わかりませんが…ひょっとしたらレストランを開こうとしている可能性も…」
「レストラン? わっはっはっは、ばかな! あり得ぬ。あそこはいかな消毒をしてもカビ根絶を果たせず放置され廃墟になったところだという。封鎖同然ではないか。それにそもそもあそこの権利は帝室にあるのではないのか? どっちにしろあそこのカビがなくなることはない。あれは一般的なカビとも違う呪いのカビなのだ」
「われわれもそう思って調べましたところ、正確にはあの廃墟地区は現王室でも帝室の所有でもないとのこと。そして現在の所有者は五大家の一つ、ネズミ野家の所有でありました。ただ、当主も死亡しており跡継ぎも不明になっておりまして権利もあやふやになっております」
「ネズミ野家? ああ、あそこは断絶寸前だと聞くが、ふふふ、本当だとしたらよいところに目を付けたわ、はははははは。せいぜいカビと戯れればよいのだ」
83
ハリージは全王立系の辺境の稀少食材の調達を一手に引き受けていた。とは言っても基本的に稀少食材の注文は表通り一等地の最高級レストランに限られていた。
「ハリージ、また頼む、今度はもっと腐りにくいシャントワゾーを頼むぞ」
「ほあ〜い」
セレンたちの死刑免除を交換条件に王立レストランの食材調達係に従事させられていたのだ。しかしこのバーターは偽りだった。あるいは上帝と王様で命令系統が違った結果でもあった。執行命令は王だったがその前に条件を上帝に打診されていたのだ。いずれにしてもセレンたちは結果的に生き延びたがすでに死刑は執行されているのだ。だから最早義理立てする必要も無かったが、逃げ出せばセレンたちが殺されるかもしれないという心配があった。だからハリージは納得もしていた。名誉も給与も破格で待遇は申し分なかった。だが、何かが物足りなかった。
ハリージは以前と変わらず光のスピードで食材を調達した。他の動物が一ヶ月かかるところをハリージは数分から数十分で運んだ。新鮮どころか生きたままそのままをつれて来られ、幻の魚シャントワゾーすら生きたまま運ぶことが出来た。運んでいる時はその重ささえコントロールできた。だが、ハリージの能力にも例外は二つあった。一つは満月の夜にはそのスピードが一切出せないこと。そしてもう一つは、上帝の居る周りでは時折その力がいかんなく発揮できないということだった。
王立レストランではオーダーが入ると食材のストックを確認し、なければハリージに調達を指示する。その際料理長は、どこ産のどこどこの何と指定。それに従ってハリージは現地に向かう。
それから現地に出向いたハリージはそこで獲物を探す。すぐに見つかればいいが、見つからなければ延々探さなければならない。それでもハリージのスピードからしたら造作もないことだった。指定のものを見つけたら、さっとさらって持っていくのだ。
しかし、最近ハリージに更にもう一つの能力が芽生えはじめていた。それは僻地の野生動物の話す言葉もわかるようになってきたということだった。これはセレンと出会ったことがきっかけで開花した能力だった。あるいは上帝だったかもしれない。ともかく毎日毎日現地に赴き、毎度直接その野生の動物たちの相手をしてきたのも能力を授かった原因かもしれない。
だが、それはハリージにとって、またレストラン側にとっても歓迎すべきものではなかった。不都合が生じたのだ。野生の動物のいうことがわからなかった時代はもとより、セレンと一緒に仕事をしているときでも、ハリージは基本的に無理に食材となる動物を捕まえるということはしていなかった。それも話すことが出来るようになってからは特にそうしていた。しかし、最近なかなか野生動物の方でも応じてくれる動物が少なくなってきたのだ。それでハリージは仕事のため強引な手段を使わざるを得なくなっていた。食べられることがわかって、自ら進んで食材になろうとするものなんているはずはない。しかしこんなことはセレンと一緒に仕事をしていたときはなかった。最近のハリージは、オーダーが来て、自分の仕事が回ってくるたびに心苦しくなっていた。次第にハリージのこなす仕事は遅くなっていった。
ハリージは極北の極寒の海に来ていた。シャントワゾーを調達するためである。
ハリージは目にも止まらぬスピードでこの界隈を走り抜けると、とうとうシャントワゾーの家族が浜辺で団欒しているところに出くわした。これを見るとシャントワゾーは魚というよりはもともとは陸の生物だったのかもしれない。
「こんにちは」
ハリージは背後から静かに語りかけた。その声にシャントワゾーたちは驚き、一斉に身構えた。ハリージはこの瞬間が嫌だった。
「……単刀直入にいうけど、今日も来てもらうよ」
どうせ抵抗されるのは目に見えていた。とは言ってもハリージにとって、抵抗は抵抗ではなかった。ただ、シャントワゾーは気難しい魚であるためそれが味に影響するのは間違いなかったので、その辺はあまりに強引過ぎるのも考え物だった。だからとりわけシャントワゾー相手にはハリージは神経を使った。
「あんたが来たのなら、いくら抵抗しても無駄なんだろうけどね」シャントワゾーからは自分はさぞ悪徳業者に見えていることだろうと思うとハリージは心苦しかった。
「さあ」
中から父親らしきシャントワゾーが進み出た。
「ご覧のとおり、我がシャントワゾーはもう残り少なくなり、本当に幻になりつつある」
「ああ、そうかい」
ハリージはあまり聞こうとしなかった。聞けば悲しくなるだけだったからである。
「さあ」ハリージは引っ張っていこうとしたが、いつもよりも重く感じた。シャントワゾーはその場で踏ん張っていたのだった。
「何も嫌というわけじゃないんだ。覚悟は出来てる」
「だったら…」
「でもあんた連れてくところは嫌だ」
「連れてくところ?」
「王立レストランってところだろう? あそこじゃ浮かばれない。われわれは前のところだったからこそ協力を惜しまなかった。でも今のところは嫌だ」
前のところって…。ハリージは少し考えた。セレンのレストランということだろうか。
「食べられるのだからどこに行こうとも一緒じゃないか?」
「違う。わかってる。われわれはみな最後は死ぬ。それはみんな同じ。でも前のところ最高。死んでるけど私死なない。誰も死なない」
ハリージは何を言っているのかわからなかった。まだ自分の言語能力の拙さに感謝した。却って言葉なんか話せない方が都合がいいのだとハリージは自分を言い聞かせた。
「死ぬのは一緒でしょ?」
「物理的には一緒。でも前は違った。前のとき、みんな会いに来る。生きてるっていいに来る。幸せっていいに来る。でも今違う。誰も来ない。戻ってこない」
ハリージは言葉の通じない振りをして強引にシャントワゾーを連れて行った。ハリージは振り返らなかったが、後ろの家族がどんな顔をして見送っているのか痛いほどわかった。
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「どんだけある?」セレンは老猿に言われ、寸胴からお玉にスープを一杯掬って、大体何杯出せるかざっと計算した。
「100はある。売り切れ御免だ。売るぞお〜」セレンは拳を突き上げ、気合いを入れ直した。とうとう本当の意味で自分の城が出来た気がする。自分の父が最後まで戦っていたこの地で。
「ふふふ、全部売っても一杯300グルモーンだから…、3万グルモーンか」
「3万? それだけ? もっと作らなきゃ。上帝を倒してリカさんを取り戻すには足りないよね?」
「そりゃそうじゃ。一日二日でどうにかなるものでもない」
「うーん…、じいさん、値上げしたらだめかな? 100万とか」
「ばか! 原価も何もかかってないんだし、第一そんな値段で売ったら一発でまた不当価格法に引っかかるわ。もう違法は出来ない。需要によりけりとはいえ現段階では300グルモーンが限界じゃ」
「そうかあ…」先を考えるとセレンはどよーんと頭から重しがかけられたようだった。
「でも…、売るしかねえ。売って売って売りまくるんだ!」
「ふふふ、さあオープンだ。まずは100杯。次の100杯も取りかかっておいた方がいいじゃろ」
オープン後は期待していたのとは裏腹に全然お客が来なかった。ランチが終わる頃にようやく一匹のイタチが来たが、それも半分くらいのこして帰って行った。他に3組来たがこれもほとんど残して帰って行った。
「なんで残すんだよ」セレンは客の下げものを片付けながらぶつくさ文句を言った。
「先入観もあるのかものう」
「でもさあ、すんごい旨いんだよ?」
「確かにこのスープがとびきりおいしいのは否定しないが、やはりほんの前まで誰も立ち入れなかったのじゃ。無理も無かろう」
「まあでもそのうちくるでしょ」
しかし初日は結局その4組のみで、あくる日そのまたあくる日は一組すらお客が来なかった。店の前で呼び込みをしたりチラシを配るものの、殆どの動物は汚らわしい物を見るような目でまともに取り合ってはくれなかった。
「だめだ、全然来ない。これじゃあ閑古鳥も寄り付かない」ランチの時間も終わろうとしていた。
「さすがに直ぐには無理じゃよ、いままで廃墟だったのじゃから」
「どうすりゃ良いんだよ。これじゃあまた今日も廃棄だよ」セレンは寸胴に手をかけた。
「伊達にここが廃墟だった訳ではないという訳じゃ。動物の心はそんなにすぐに変わるわけではない」
「でもそんなこといってたら俺たち餓死しちゃうよ。この発酵スープだけじゃそんなに栄養になんないし」
「そんなこと言ったって他に何か仕入れるお金ないしのう」
「目標額いくらだっけ?」
「20万グルモーンくらい欲しいところじゃったがな」
「20万で?! 上帝を、リカさんを戻すのに20万あればいいの?」老猿はそれを聞いて頭を激しく振った。
「馬鹿言うな。上手く行った場合の一日の売り上げじゃ。上帝を相手にするなら億どころか兆以上の世界じゃ」
「一兆だとして一日20万で何日? えーと…」
「500万日。年数にするとざっと一万三千年くらいじゃ」
「そんな…、絶対無理じゃん…」セレンは肩を落とすどころか食って掛かってきた。
「そりゃ一店舗じゃそうじゃがそれを何店舗も増やせば不可能ではない。仮にこのギンザ中のレストランを傘下に収めれば飲食店の数は約一万三千店くらいあるというから一年で達成する」
「だけどそれだって店舗を増やすのに自分の一生分くらいはかかっちゃうよ」
「まあそうかもしれんが…。地道にやっていけば光は見えるさ」
「そんなんじゃ間に合わないよ! 今にもリカさんは拷問されて、処刑されちゃうかもしれないんだよ」
「まだまだ大丈夫だわい。レシピの書も見つかってないし」
「そんなのわかんないじゃないか!」セレンと老猿の口論はしばらく続いた。その後、二匹はぷいとお互いそっぽを向いてしばらく黙っていた。怒っていたのも半分あったが、セレンは必死に考えていた。そして突然セレンが口を開いた。
「そうか…、わかった! 場所が悪いなら変えれば良いんだよ!」
「それはそうだがここ以外にある? 路上の無許可販売は固く禁止されておるんじゃぞ?」
「わかってるよ。売ってくる」
「おいどこいくんじゃ? セレン」セレンは打ち捨てられた年代物のリヤカーに寸胴を載せると、街を練り歩いた。
早速犬の官憲に捕まった。
「なんだこれは? 路上で売るんじゃないだろうな?」
「違います。路上では売りません」。
「もし違反したら即逮捕だからな」セレンはそれも手だと思った。それならひょっとしたら鹿の娘の近くに行けるかもしれない。しかしそう都合よく行かないのは鹿の娘を助け出そうとして散々打ちのめされたことをを思えばわかっていた。
「わかってるよ」セレンはそう言って足早に犬を撒いた。
セレンは居並ぶレストランの一つの勝手口の扉を叩いた。
「ごめんくさださい」ここはかつてセレンが潜入したレストランだった。
「お久しぶりです!」
「ああ、この前の…」しかしでてきたのはライオンの料理長だった。一瞬ぎょっとしたがここは引き下がるわけにはいかなかった。背に腹は代えられなかった。
「言っとくけどうちは雇わないよ。俺の居ない間にちょくちょく入ってたみたいだけど今後お断りだからそう言うの」ライオンの声が冷たく響いた。
「わかってます。違うんです。そうじゃなくて」
「何? 悪いけど何にも上げないよ。今日のメインにならメニューに上げても良いけど。あるいは賄いにするかな」そう言ってライオンは舌なめずりをした。
「あ、いや、このスープを買ってほしくて」そう言ってセレンは寸胴を見せた。
「はあ? てめえふざけてんのか! うちは誇り高きレストランなんだ。うちでも作っているスープをわざわざ猿から買う馬鹿がいるかよ」セレンは強烈に罵倒され、断られてしまった。
その後も何十件もあたってみたが悉く断られた。そのことはまだ予想の範囲内だったのだがセレンにとってショックだったのは、何軒かの店では味見をされた上で断られたことだった。さっきも頭によぎったように仮に売れなかったらいっそのこと路上で販売して官憲に捕まって王宮に乗り込もうとも実際思っていたのだが、セレンはすっかりこのことで自信をなくしてそれどころではなくなっていた。セレンは失意のうちに自分のお店に帰ってきた。
「おかえり…。どうした? 売れたかい?」老猿は聞いてみたもののセレンの顔を見れば結果はわかりすぎるほどわかった。
「なあ、じいさん。どうして…、どうしてなんだよ。なにが足りないんだよ。はっきり言ってくれよ」
「…わしは…美味しいと思うぞ」老猿は別段嘘を言っているようでも無かった。
「でもだめだった。全然評価されなかったよ。物足りないってさ」
「…それはそうじゃろう。カビ以外に材料が無いんだから。それに猿の作るスープと言う先入観もきっとあるんじゃ」
「でも味見した上での判断なんだよ。何かが足りないんだよじいさん」セレンは老猿の肩を激しく揺すった。
「わかったわかった放せ」
「あ…、ごめん」解放された老猿はため息をついた。
「ちょいと修行してみるか?」
「え、これから? また? じいさんやってくれるの?」セレンはその言葉に驚いたが、藁にも縋りたいセレンにとってはその話は光に思えた。
「違う。わしじゃない。本当は紹介したくないのだが、わしは限界のようだからな」
「えっ! 誰だよ? じいさんより凄い料理人って居るの?」
「いない…と言いたいところじゃが今回ばかりは完敗じゃ。というよりお前と出会ってから初めて料理長の言葉の意味が分かったわい」
「料理長?」その言葉を聞いてセレンの頭には現在のライオン王と老猿の顔が頭に浮かんだだけだった。
「今は疎遠になっておるが元王宮料理部総料理長。わしの唯一の上司じゃ」
ハナコは注文の外套の配達を終え、戻ってきたところだった。
「お帰り」
「ただ今戻りました。あれ?」ハナコはいつものところにある自分の作ったライオンのかぶり物が亡くなっているのに気づいた。
「親方、ここにあったのは…」
「ああ、あれかい。処分しちまったよ。邪魔でしょうがないんでな」
「そんな…」ハナコはそれを聞いてしょんぼりした。勝手に捨てられたのは今回が初めてではなかった。止められているにも拘らずついつい暇を見つけては作成してしまう自分の悪い癖も重々承知していた。それでも懐かしさからつい作ってしまうのだ。感慨に耽っているうちに何とも言えない良い匂いが漂って親方の方を見ると美味しそうに何かを飲んでいた。
「親方、何飲んでるんですか?」
「ああ、さっき小さなお猿さんがな。ここにもあるからお上がりよ」親方に言われてハナコはカップに入ったスープを飲んだ。
「これは…」今まで味わったことの無い深い味わいに驚いた。
「お前のが良いって言うからそれお代を貰わずあげちまった。そう言えばお前、前は料理人だったな」
「はい。そうです」
「俺には料理のことはよくわからねえが、これは凄いっていうのはわかる。お前も精進して本物を目指さなきゃなきゃ駄目だぞ」ハナコはセレンの顔を思い浮かべた。
「はい」
「今度はお金をとってやるから」ハナコに何のことを言われているのかわかってか、今度は元気よく返事をした。
「はい!」
*85
「なるほど、これがな」セレンが老猿に道を聞いてやってきたところは、昔逮捕前に働いていたレストランの近くだった。そこには自分では見つけられなかったあの浮浪者が目をつむってセレンのスープを味わっていた。
「どう? やっぱりだめ?」
「いや、見事だよ。これを作れるのはギンザでも三人、いや二人か」
「だったらなんで…」
「確かにカイレンの言ったように先入観もあるだろう。悪い先入観があれば、例えそれがどんなに美味しいものでもまずく感じてしまうことは良くある。これをライオンが売り歩いていたら結果は変わっていたかもしれない」
「そっかあ…、もうしそうだったら良い案があるよ」
「しかしそれだけではないぞ」セレンはその言葉に威儀を正した。
「売れないということはそれが本物ではないということだ」
「えっ? どういうことだよ。足りないのは認めても本物じゃないって」
「これはまやかしだ。本物じゃない。本物であれば売れる」
「偽物だって言うのかよ? そんなわけないよ。これはカビたちの命をかけた作品なんだ」セレンは憤慨した。
「まあよく聞け! 偽物だと言ってない。本物じゃないと言っているんだ」
「同じことじゃないか」
「偽物と本物の間には宇宙の果てと果てくらいの差があるのだ。そして本物を作れるものは恐らくこの世にまだ居ない」
「どういうこと? おじさんもわからないの?」
「そういうことじゃ」そう言って浮浪者はにかっと笑った。
「なんだよそれ」
「ただな、お前ならやれるかもしれん。パイプを作り出し、パイプをつなげ拡張すること。それが肝心じゃ」
「それはおじさんの仕事でしょ? それと料理と関係あるの?」
「そのつもりだった。だが、地中に埋まっているようなその辺のパイプとは違うぞ。パイプと言っても空き地に積んであったり水道を繋いだりするパイプじゃない。そのパイプはこの世とその世を繋ぐもの」
「その世? あの世じゃないの?」
「はっはっは、たしかに変だが、あの世ではない。死んだらいくところのことだろう? そんなところが実際にあるのかどうか本当の所はわからん。しかしその世は現実にある」
「えー! そんなの初めて聞いたよ。なんだよその世って」
「カイレンたちは殺鼠剤や滅菌材をもろに喰らったからな。わしは幸運にもそこまで被らなくて済んだ。それにこれは猿が谷家の秘中の秘だったからそもそも奴もあまり理解してない。本当は誰もわかってないかもしれない。元々世界は一つだったがある時この世とその世に分けられた。その時我々の体も分けられた。その世っていうのは重たい世界なのだ。我々よりももっともっと重たい世界じゃ。実態の世界であり、我々と合わせ鏡の世界だ。そして我々の体はその世に分身があって、この世は主に思念の世界なのだ。それらはかつて世界に無数にあるパイプで太く繋がっていたが今ではそのパイプもギンザと辺境にごくわずかが残るのみ。世界も離れてしまっている。本来食材もこの世とその世で別れている。そのパイプを通してその世から食材を引っ張り出すのが料理人の役割なのだ。食材と対話し味を引き出すと言うのは本来そう言うことで、それは想像力が無ければ実現しない。ただ、上帝の場合は真逆のことをやってきた」
「どういうこと? 力の世界と見せかけて実際は金儲けだってじいさんは言ってたけど」
「ははは、それは間違いではないが、それはそうじゃな…、本当の肝を捕らえていない。表面的なことだよ」
「お金は重要じゃないって言うの?」
「そうではない。ただ、お金は手段に過ぎない。上帝がそう認識しているかはわからんが。ただ言えることは、上帝はこの世とその世のパイプをつなげ拡張するのではなくパイプを切断し縮小させることばかりやって来ている、ということだ」
「そのパイプってどこにあるの?」
「それはもうほとんどない。それをも切断されたらその世との繋がりは断たれてしまう」
「パイプもほとんどないとなるとどうすればいいんだろう?」
「新たにつくるんだよ」
「えーどうやって?」
「そのパイプを作るにはもちろん普通のパイプを作っても出来ない。ここが難しいところなんだ。そのパイプは何も鉄やコンクリートで出来ているわけじゃない。夢と想像力で出来ているんだ。この世とその世との間に出来た夢を通す通し穴だ。その穴を、パイプを作って拡張するには本物を作るしか無い訳だ」
「本物?」
「ああ、本物の料理だ」
「本物の料理ってだったらおじさん料理辞めなきゃ良かったじゃん。料理長だったんでしょう?」
「わしが料理をしてても仕方がない。わしにはその才能はなかった」
「そんなことないよ。おじさんの腕は最高だよ」
「ハハハ、ありがとう。でも足りない。わしにはとうとうパイプは作れなかった。わしには想像力が足りなかった。食材と対話をして引き出す力が無かった」
「………」
「料理は上手く、おいしく作るだけではダメだ。だからわしは待っていた。カイレンの行く末もここで見守っていたのだ。いつか本物が作れるようにと願いを込めて。だが、それではもう追いつかん」セレンにはほとんど浮浪者の言っていることが分からなかった。
「本当に夢のある、想像力あふれる料理を作った時だけにこの世とその世を繋ぐパイプが出来る。それが世界を救うことになる。恐らく上帝も出来るだろう。しかしあいつはその力を切断する方に使っている。だから俺はお前を待っていた」
それから丸一週間、浮浪者とセレンの修行が続いた。
*86
「じゃあ行ってくるよ」
「しかし凄い迫力だなあおまえ」老猿はセレンの声のするライオンを前にしていた。セレンはライオンのかぶり物をしていたのだ。猿の格好ではどんなにそのスープが美味しかろうが売れない。だからいっそ、ライオンの振りをして働こうというわけであった。かぶり物の調達は老猿が知り合いのつてで頼み込んだのだ。今までだったら寸胴をリヤカーに引いて持ってったのだが、それだと力の無いのがすぐばれるのでもう少し何個かに分けて、セレンの力でも持てるようにした。それをリヤカーに乗せての訪問販売だった。もう一つの方針転換としては敢えて王立系のレストランに行くことだった。そもそも今ではギンザ全体でも王立系の方が多くなっているのだから、そちらの方が効率が良かったのだ。
10件あたったが駄目だった。ライオンの格好なので無碍にはされなかったがどこも丁重に断られた。味見さえ断られる。さすがにスープをレストランに売るというのは悪手だったのかもしれない。今日もゼロか。セレンはかぶり物を取って公園で項垂れていた。興味を持ったのか一匹のリスが寄ってきた。
「飲むかい?」
リスはセレンの声かけに一瞬びっくりしたようだった。
「僕たちの言葉話せるのかい?」
「えっ? あ、そうか。それよりこのスープ飲むかい?」
「え、いいの?」今度はリスの方がライオネス語で話してきた。
「全然売れないんだ」
「へえ。美味しそうだけど」そう言ってリスは一口スープをもらった。
「なんだこりゃ…」リスは一口飲むなり止まってしまった。セレンは不安になった。自分では浮浪者との修行をへてスープの味もより洗練され一皮むけたと自負していたが、不安になった。
「どう? 美味しくない?」
「あ、ごめん。いやおいしいよ、これは。おいしい」
「お世辞はやめてね」
「お世辞じゃない。本当だ。なんと言っていいか僕は束の間その世に飛び立っていた」
「その世?! 知ってるの?」
「ああ、その世は重たいからね。僕も売るの手伝うよ」
「えっ、いいの? ありがとう」
「うん。だけど条件があるんだけどね」
「そうだよね。どのくらい欲しいの」セレンはさすがにただというわけにはいかないと現実の厳しさを突きつけられた気がした。しかも売れるとは限らない現状を見れば、ここから更にお金を上げるとなるとそれは無理な話だった。
「条件はね。ただで配るんだよ」
「ただ? 無料ってこと?」意外な答えだったがセレンはまだ警戒を解かないでいた。
「そうだよ。それなら手伝おう」セレンはそれでは儲けが無いと言いたかったが、心が折れそうだったのも手伝って了承することにした。もしかしたらこのリスは、半分手分けして自分だけ高額で売り付けて労せず自分の利益にするのかもしれないが、それでも半分損するだけだしそもそもまた売れるかもわからないのだ。
「じゃあ行こう」その後意外なことにリスは最後から最後までセレンに着いていった。
「どうだった? いくら儲かった?」セレンが帰ってくると老猿は出迎えた。
「だめだ。ゼロ」そう言ってセレンはつぼの中身が空っぽなのを見せつけ、にかっと笑った。
「そうか…、仕方ないな。って、空じゃないか! こぼしたのか?」
「いや、ただで配った」
「お前なあ、あんだけ苦労して作ってるんだぞ。いくら原価が実質ただだとは言えそりゃ無いじゃろう」
「うん。そうだけど。何か気持ちがいい」今日一日ひょっとしたらリスに騙されていたのかもしれないが妙な充実感を感じていた。
「何を考えてんだお前は。そうだ。リスボン家にも依頼しておいたぞ。これで多少は違うかもしれん」
「リスボン家って、あの?」
「そうじゃ。辣腕のセールスマンと言われた五大家のおリス様じゃ。お鼠様に紹介してもらってな。だからそのうち応援がくるじゃろう」
「だったらもう来てた」
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その後も数日間同じことの繰り返しだった。ただ、違うのは三日目位からリスボンが用意した茶色の名刺も添えたことくらいだった。自分の店の名刺は悪い気はしなかったが、奇妙なことにそこに連絡先も店の名前も無く書かれていたのはただ、スープという文字と数字だけが表記されているのみだった。セレンのお店には電話も無いしその番号を見てセレンは首を傾げた。そして一週間も経った頃だった。
「どうしたセレン。今日は出かけんのか?」
「いや、もうリスから行かなくていいって言われてんだよ。ひたすらここで出来るだけありったけ作れって」
「えー、正気かえ? わしも今まで留守番してたが店には全く客来んかったぞ。やっぱここで店をやるのは無理じゃ。確かに訪問販売くらいしか無いわい。それを止めるとなると絶望的だわい」
「まあそうだけど、今までだって訪問販売で一杯も売れてないんだから」
「うーむ」
「どういうことだ? これは」ライオン王は収益週報を見ながら笑いがこぼれるのを隠しきれなくなって最早大口を開けて笑っていた。
「はい。私もびっくりしております。各店続々と売り上げを達成しております。最高売り上げ達成の報告がこれほどまでとは」
「何かあったのか?」
「はい。どうやらスープが飛ぶように売れているようでございます」
「スープ? なんだそれは。何か目玉になるスープがあったかな?」
「…目、目玉になる」
「まあよい。目出たい目出たい。わっはっはっはっは」
88
「何か口惜しいよ。結局全然お客来ないし。一週間散々配ってこれじゃ配り損だよ。こんなときにも今にもリカさんは処刑されるかもしれないんだよ? 本当にあのリスは辣腕なセールスマンなのかい?」
「いやあ、まあそう言うな。結局報酬はもらってない訳だしどのみちここに居ても売れないのは同じなのだからな。それに今ではこうして配下のリスさんたちが毎日せっせと胡桃や木の実を差し入れしてくれてるんじゃ。ありがたいだろう」
「そうだけどさあ。王立レストランは連日大繁盛らしいぜ。敵に塩を送るとはこのことだよ。敵にスープを送るだけど。これじゃあ上帝を倒すどころかますますその日は遠のいちゃってるよ」
「まあそう言うな」
「だけど五大家っていってももう猿族の味方とは限らないんでしょう? だったら怪しいよ」
「うーむ。確かに五大家の一つ狸家は完全に上帝についていると言っていいかもしれん」
「そうだろう? それに紹介したって言うねずじいは最近どこ行ったんだよ? 全然姿見せないじゃん」
「うーむ…、疑う訳じゃないが今回のことで後ろめたさで隠れておるのかもしれんのう」「ちわーす。失礼しまーす」突然狸が数匹、建設作業員の出で立ちで入ってきた。
「い、いらっしゃいませ」セレンと老猿は色めき立った。久しぶりの客だ。
「どうぞこちらへ」セレンはカウンターの席へ促したが、狸たちは首を振った。
「看板の取り付け工事で来たのですが大丈夫ですか?」
「え? 頼んでませんけど」
「いえ、チェスとナット商事様からの依頼でして、こちらに看板を取り付けるように言われましたので」
「チェスとナット商事?」セレンと老猿は顔を見合わせた。作業員は返事を待たず作業を始めていた。作業は案外すぐ終わり、狸の作業員は帰って行った。確認しに外に出てみると、茶色い枠と茶色い立て看板があるだけだった。
「ちわーす」今度こそ客か! 色めき立った。しかし声が聞こえるだけでよく見ると。
「ねずじじい! 何しにきたんだよ!」
「いやリスボンさんから頼まれて…、作成したものを置いてくぞ」
「どうしてくれんだよ?! 何が凄腕のセールスマンだよ! 全然客来ないよ!」しかし鼠は悪びれもせず、ある見慣れない機械を設置していっただけだった。
「お顔が優れませんがどうされましたか? 上帝陛下」
「かなり最近伸びているようだな、王立系の売り上げが」
「はい。そのようでございます。王もやっと心を入れ替えて本腰を入れたのでございましょうか」
「だといいのだがな」
「他に要因がございましょうか?」
「想像量が…、パイプがわずかではあるが開き始めているのだ」
「パイプが? パイプとは?」
「まあ良い。その話は忘れろ」
「は。それともう一つ、よい知らせがございます」
「どうした?」
「ついにレシピの書が」
「なに? 見つかったか?!」
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とある王立レストラン
「どうすれば良いんだ? 客はあのスープを求めてきてるんだ。在庫は無いのか?」
「もうあの業者は来てないので」
「もう来る客くる客スープですよ。ガイドブックにも載ってるらしいです。もう断るのいやですよ。作ってくださいよ」
「他の王立系で在庫無いのか?」
「もう何件も連絡してますが、どこも在庫が切れて無いそうです」
「またオーダーです」
「あの業者、そう言えば名刺あったっけな」
「鈴虫が鳴いてる…」
「はあ?」
「あれっ、聞こえない? 気のせいかな…、くぐもってるけど」
「わからんが、鈴虫の言っていることももお前にはわかるのだろう?」
「うーん、でも良く聞き取れないや。空耳かも。なんとなく…、もう売りませんとかなんとか言ってるように聞こえるんだけど。さっきから頻繁に」
「わしにはわからん」
「あ、やっぱり…、まただ。また売りませんって言ってる…」
「確かに何となく鈴虫の声。でもお前頭大丈夫か? いくらスープが売れないからって売りませんって」
「そんなはずはないよ。売るつもりは満々だし。やっぱりきっとあのリスに騙されてるんだよ。王立系だけ繁盛させて二度とこっちが立ち上がれないようにさあ。虫の知らせっていうじゃないか」
「うーん、使い方違うんじゃがそれもそうかものう。お鼠様だってその辺わかってなさそうだしのう」
セレンの焦りはこんなところにも現れていた。
「あー、もうイライラする。今度はまた違うこと言ってる。もうずっとだ」
「鈴虫か? 確かにどっかで鳴いてるが内容は気のせいじゃないか? いくらお前がしゃべれると言っても幻聴かもしれん。これだけ売れてなければ精神も病むよ。今日はもう休め。もう何日分かのスープストックもある」
「そうかなあ…」セレンは売れないことも相まって不安は最高に達しつつあった。セレンは自分が働けなくなったらおしまいだと思い、どうせお客も来ないのだからと少しだけ後ろで休むことにした。また時折鈴虫の声が聞こえていた。休みながらもセレンは鹿の娘のことが気になって仕方が無かった。娘が囚われて既に2週間が経とうとしていた。その間セレンは廃墟地区でカビと仲間になり、店を開いて、浮浪者のところで修行をして、王立レストランにリスとともに売り歩き、そしてひたすら店でスープを作ったが、結局鹿の娘を助け出すために何もすることは出来なかった。いくらこの世界の穴をあけるといってもお客が来なければ食材も調達できず、料理が出来なくなる。おまけにやってきたことは逆に王立系を繁盛させただけだったのだ。セレンは今後の展望に絶望を感じ、休むどころではなかったが無理矢理横になって目を閉じた。
「セレン! 来た。とうとう来た。猿が三匹だ」老猿にいつの間にか意識の遠のいていたセレンは老猿の声にがばっと飛び起きた。
「ええ?」表に行くとどうやら猿の三匹組がやってきた。
「いらっしゃいませ」例によってセレンの誘導に三匹は頭を振って否定した。
「いえ、食べないです」またか、今度は何なんだよ。セレンは落胆した。
「だけど、電話で言われた通りおたくのスープを買いにきました。お願いです。100万でどうでしょう?」
「え? 100万? 電話?」セレンと老猿は顔を見合わせた。
「足りませんでしょうか? お金はいくらでも出すよう言付かっています。寸胴丸々もらっていきましょう。」
「そ、それはもう。ありがとうございます!」セレンと老猿は嬉しくて飛び上がらんばかりだった。その後も直接来るものが後を絶たなかった。
「ど、どうなってんだよ。みんな凄い高額で買ってってくれるんだけど。しかも電話したって」セレンはしかし細かいことを気にしている場合ではなかった。スープ造りが追いつかずてんてこ舞いだったのだ。
「あっ」忙しさの拍子に鼠が置いていった黒い機械を蹴飛ばしてしまった。筐体の端が外れたと思うと
りんりんりーん。りんりんりーん。突然その小さな筐体から突然ベルが鳴っているのが聞こえてきた。鳴り止んでしばらくすると中から鈴虫が二匹でてきた。
「やっぱり鈴虫だ。ここに居たのか! これってもしかして電話だった?」
「みたいじゃのう」、
そして鈴虫は再び機械の中に入って何かを話している様子だった
セレンにはそれが聞き取れた。
「なんだセレン? 鈴虫はなんて?」鈴虫は機械の中で話を終えると大人しくなった。
「“どうしてもというなら直接来てください。値は張りますよ。茶色い看板が目印です”だって…、そういうことか! 防音になってたからわかんなかったけど。これでなぞが解けたよ。リスボンさんは味方だった! リスボンさんごめんなさい」セレンは手を合わせてそこに居ないリスに謝った。
「どういうことだ? 鈴虫がまさか交渉してたのか? そんなこと言ったって鈴虫の言葉じゃ相手はわからないだろう?」
セレンは改めてその黒い筐体を取り上げ、中を見た。鈴虫は尚忙しそうに必死に電話の向こうの相手に話していた。
「この機械、自動翻訳機機能のついた電話になってる。相手の音声が鈴虫語に変換され、鈴虫語が相手にはライオネス語に変換されてるんだ。どうやら今まで鈴虫が留守番電話の応答サービスをやってくれてたみたい。しかも値段つり上げ交渉まで」
「まさか…、だから昨日まで売らないって聞こえたのか?! より品薄状態にして飢餓感を煽って値段をつり上げるために」
「あっ」突然、もう2匹の鈴虫がやってきた。そして電話の所に来て中に入っていた二匹の鈴虫と入れ替わった。
「どうやら交代制みたいだ」
「こんなところまで労働環境が整備されている! リスさんには足を向けて寝られないわ」
「お鼠様も、よくもまたこんなものを…」老猿は感に堪えた表情をしていた
「どうじゃな?」突然ひょっこり顔を下から出したのは例のお鼠だった。
「あっ! お鼠様! こんなものまで作っていただいて、ありがとうございます」
「ねず爺、やるう。本当ありがとう!」
「まあこんなもんじゃろ」
「よし! 反撃の狼煙だ」
その後も王立系のレストランの買い出しが後を絶たなかった。
「ど、どういうことだこれは?!」
「はい。最高売り上げまたまた更新でございますね」
「そうではない! 原価率を見ろ。どうしてこんなに跳ね上がっているのだ?」
「は、それは…、恐らく…目玉のスープ代の仕入れ値ではないかと」
「スープ代の仕入れ値だと? 馬鹿な! 何を考えておるのだ?! 仕入れていると申すか? どこからだ?」
「それが…、よくわからないのですが、なにやら廃墟地区の方にある飲食店との噂も…」
「ん? 廃墟地区の方? 周りにちらほらと老舗があるにはあるが…」
「未確認ですが例の猿が関わっているとの情報もございます。そのあたりでレストランを開いたとのこと」
「まさか! デマもいい加減にしろ。貸し付ける所もあるまい。路上は即逮捕だぞ。ありえんわ」
「まだその辺の調べは詳しくはついておりませんが」
「いずれにしても仮にも王立レストランとあろうものが他所より仕入れるなど言語道断…。恥を知れ! 即刻全面禁止だ!」
「は、即刻そのように」
「あと、目玉は余分だ」
「申し訳ございません」
90
ハリージはセレンがどうしているのだろうと思った。風の噂にレストランを開業したということを聞いていたが、どこでやっているかとまではわからなかった。ハリージはいつもと違う道を通ってみることにした。もしかしてセレンの居場所がわかるかもしれない。王立系のレストランはその殆どが表通りや目立つところに位置しているため、近頃は裏路地にくることはほとんどなかった。そんなことを考えながら裏路地を回り、小さな小さな小道を迷路のように迂回して見た。確かあそこだ。
ハリージはとても懐かしかった。前の、セレンとの思い出のレストランが在ったのもちょうどこんな感じの裏路地を曲がったところだった。やはり今ではそこは完全に取り潰されて、更地になっていた。ハリージは少し胸が痛くなった。
それにしても似たようなところがギンザには星の数ほど存在したがハリージの居た頃に比べ、路地裏全体、言わば裏ギンザの活気が無くなっているのは否定できない事実だった。。ハリージは感慨に浸りながら、通りを挟んだ両隣の路地裏をくまなくクルージングをして、そろそろ王立レストランに引き返すことにした。しかしここに及んでハリージはゆっくり歩いていた。裏路地で珍しい行列を発見したのだ。
あれ? ここって以前通ったことがあったような? まさかな。綺麗すぎる…。
「へえそうなんですか? あんなところでねえ。大丈夫なんですか?」
「いやそれが、一夜のうちにぴっかぴかで、料理もこれまた美味しいのなんのって言ったらもう」
「本当ですかい?」ハナコはお客の世間話をなんとはなしに耳を傾けながら、黙々と自分の作業をこなしていた。
「あっ、おい、ハナコ。またそんなもの勝手に作って! 何やってるんだよ! そんなことでは毛をくれた動物さんに申し訳がないだろう!」
「あっ、すみません。つい懐かしくて」
いつの間にかセレンは大きなライオンの着ぐるみを作っていた。山積した毛を前に、ハナコは忙しい毎日を送っていた。何せ寒さもこれからという季節で、毛皮の需要は引ききることがなかったのである。ハナコも、すっかりこの仕事に慣れてきたようだった。余裕ができると思い出されるのはセレンのことだった。あのお客の話はひょっとしたらセレンの店のことだったりして。今頃どうしているのだろう? もうずいぶんと会っていない。
「親方、ちょっと売って参ります」
「あーちょっと、お前! 持ってくのそれだけか?」ハナコは返事もせずに新作の外套を一着だけ持って外回りに出た。そして裏路地で行列の飲食店に出くわした。
91
「どうにもならんわ。本当に」
「しんどい、やっぱ玄さんにでも手伝ってもらわなきゃ…」
店内は動物のお客で一杯だった。彼らは直接スープを飲みにきたお客だった。王立系のレストンランがセレンの店のスープ販売を取りやめたのはギンザ中のショックとなり、ガイドブックでは消えた王立系店のスープの話題で持ち切りだったが、その製造元の所在がどこからかリークされたのだ。そしてとうとう、今までの王立系に流れていた客が大量に殺到してきた。王立系のレストランの買い出しはぱたりと無くなったものの、他の独立系の仕入れもくるようになっていた。お陰でスープ以外の食材も仕入れて遅ればせながら本格的な飲食店として再スタートできた。店先には入店待ちで延々とブロックを越えて長蛇の列が出来ていた。今まで全くお客が寄り付かなかったのが嘘のようだった。これは上帝の今も続く微量に巧妙に殺鼠剤などを水道等に混入させ物忘れを進行させる企みが裏目に出たのかもしれない。今ではすっかりこの廃墟地区の昔の危険で汚かったことを覚えている動物はおらず廃墟地区だったことに対するアレルギーは払拭されていた。
「ひいい~、ものすごい並んでる」
悲鳴のし通しだった。行列には大抵低所得の身分の低い動物が主だったが、ねこ科の動物もちらほらと見られた。普通に猿もたくさんいた。今ではスープだけでなく、値段の割りに比較的新鮮でおいしいものを提供するというので評判になっていたのだ。だが一番特徴的だったのは、今までレストランには来ないような連中が食べに来ていたことである。
その中でもとりわけ目立ったのは豚たちだった。豚は豚の紳士の計らいによる啓蒙で、ライオネス語が話せるようになって家畜から開放されたものたちだった。ただ、セレンは彼らに対し心苦しかった。彼らが頼むのは決まってかつて仲間だった自分と同じ家畜の豚だったからだ。これは他の今までレストランに来なかったような動物にも概して当てはまることであった。
今もカウンター前には家畜から開放されたばかりの豚がおり、それがなぜか自分と同類の豚の料理を頼んでいくのである。そして決まって涙を流して帰っていく。ゆえにお客の中で彼ら豚が多いときには、一種お通夜のような雰囲気になって困った。実際の経営としても、あまりにも豚たちが感傷的になるために、なかなかそこを立ち去らなくて大渋滞を巻き起こすことしばしばだった。ある豚が一匹つぶやいた。
「俺、家畜に戻ろう」
もう一匹もつぶやいた。
「ぼくも」「ぼくも」
セレンはなぜ彼らがそう言うのかがわからなかった。しかしもう一匹がそれとは正反対のことを言い始めた。
「僕は嫌だな。前、紳士に連れられて王立レストランに行って仲間だった豚を食べたけど、嫌そうだった。ここの料理ほど幸せではないよ。料理されるということは」
「そうかもしれないな。僕たちは家畜だったせいで、容易に肉を提供して貢献している割に個性がないなんて揶揄されて…、これじゃあ家畜のまま生涯を終えるなんて悲しい。もっとここみたいに家畜であろうとも幸せにしてくれればいいのに。僕、それだったら家畜の方がいいんだけどね」
「いやいずれにしても王立レストランで調理されるのはごめんだ。ここだったっら家畜でも、調理されてもいい」
セレンはそれを聴いて苦笑いをした。家畜がそんなことをいう日が来るとは到底思われなかったからだ。とにかくセレンの思いは一刻も早く鹿の娘を助け出すこと、これだけだった。そして鹿の娘にまた自分の料理を食べてもらい、あわよくば一緒に働いて、そして、そして…。セレンの妄想は膨らんだ。しかしそのためには今のままではだめだ。もっとレストランを大きく立派にして、王立レストランに匹敵するくらいにしなければならないのだ。しかも今すぐだ。
「おいしゅうございました。御代はいくらでしょう?」
「あ、いいですよ」
「いえ、そういうわけには…」
「いやあ、今回は気持ちだけで…本当いいですから。あなたのご家族を食べてるんだからお金を取るいわれはありませんし」
「そうですか? すみません。じゃあ今度来た時きっと払いますね」
豚は感動して帰っていった。
「じゃあ僕も御代、今度来たとき払いますから」
「あんたはだめ」
「えー、ひっかからなかった?」
「あたりめーだよ。うちはねずみだしてねーんだ。っていうかなんでそこで食ってんだ? お手伝いロボットでもつくってよ!」ねずみが様子を見に食べに来ていたのであった。
「ちえっ、お前は厳しいのう。誰のお陰で繁盛してると思ってるんだ? 少しは敬ったらどうじゃ」
「ああ、おかげさまで敬う暇もありませんよ」
「この礼儀知らずが」
「いてっ」お鼠はセレンの首筋に噛み付いた。
二つの影が更にセレンのこの店を訪れた。それはセレンと老猿にとっては久しぶりの再開だった。ハリージとハナコが連れ立って現れたのだ。
92
王立レストランでは、ここ最近、急激に客足が減っていた。評判にする予定だったシャントワゾーもあまり思わしくなく、それが王をはじめ上帝をいらだたせた。
「どうなっておるのだ、これは? 客数売り上げともに落ちているではないか。どういうことだ? 説明してもらおうか」
「王立レストランのブランディングが確立するまでの辛抱でございましょう」
「それでは低価格は逆効果だったのではないか。むしろ高く売らねばならないものを」
「それはそうですが、それはあくまで廉価版のレストランの話です」
「…うーむ、そもそも低価格にしているのは、価格競争で他のレストランをつぶして寡占状態にする目的だったはず」
「最初はそれでも上手く行っていたのです。客数も順調でしたし。そして目玉のスープ…、こほん」王は片方だけの目でギロリと侍従を睨みつけた。
「失礼いたしました。謎のスープのサンプルがほぼ全ての王立系のレストランに配られて、王立グループ全体の売り上げは史上最高を記録。他のレストランをほぼ完全に潰す寸前まで行ったのです。その後、謎のスープの試供が終わり、高額で仕入れることになって売り上げは更に増えましたが原価は上がる一方でした。そこで王様のご命令により取引を停止いたしましたのを王様もご存知のことと存じます。しかし件のスープの仕入れを止めた途端、廉価版のレストランが売り上げを落としました。民衆は件のスープを求めています。あともう少しというところで他のレストランも首の皮一枚で生き残りまして、逆に我が廉価版の王立レストランの低価格路線は自分たちの首を絞めるだけになってしまいました」
「余のせいだと申すか? 」
「いえいえ、めっそうもございません」
「だったら作ればよかろう? 再現くらい出来るだろう?」
「それが…、似たようなところまで行くのですがあまり評判は良くないようでして結局止めてしまったようです」
「何をやっておるのだ。その仕入れ元は結局どんなところだったのだ?」
「それが…、調査報告がさっき上がったところでして…」
「なんだ? 申してみよ」
「例のセレンとか言う猿のレストランだったようです」
「な、なんだと!」
「はい。しかも現在、レストランは待ち客で長蛇の列のようです」
「まさか! そんなばかな…、どこなのだ?」
「廃墟地区内です」
「廃墟地区内だと? まさか! あそこでは営業自体できないだろう?」
「しかしそのまさかなのです。店舗もピカピカで奇麗になっているとのこと」
「まさか? 本当に本当か?」
「はい。今度ばかりは間違いはございません」
「…信じられん。どうやって? やはり廃墟地区から外れて路上でやっているとかではないのか? それだったらすぐ取り締まれる」
「いえ、間違いなく廃墟地区内でございます。そして現在、法的に何ら違反は見られません。仕入れ価格も適正。我が王立レストランとの取引もどうやらこちらから価格を提示しているため法外の印象ですが違法ではありません」
「どうなっておるのだ…、うぐぬぬぬぬ、おのれい…、馬鹿にしおって…」ライオン王の顔は憤怒にうち震えていた。
「そもそもたかが猿の作るスープ如きで我が王立レストラングループが傾くとは何事か! 奴のところは一店舗のみであろう?」
「申し訳ありません。しかし王立系以外のレストランがこぞってそのセレンなる猿のレストランのスープを仕入れているようで全体の売り上げも逆転されつつあります。当初の予定ではいったん他のレストランを価格競争で潰し、それと並行して最高峰のレストランで一気にブランド化を図るところだったのですが」
「そちらもうまくいかなかったということか?」
「はっ、高級路線では思ったほど目玉のシャントワゾーの評判が芳しくなく…、そして廉価版も低価格路線でも他を潰せず、結果的に自分の首を絞める結果となったものと思われます」
「なぜシャントワゾーの評判がよくないのだ? セレンの店が出したシャントワゾーは絶品だったという話であったが、それと比べてやはり味が落ちるというのか? 我が王立レストランでは、あのかつてのいんちきレストランのわずか六分の一の値段で提供しているのだぞ」
「残念ではございますが、私めが恐れながら申し上げますと、あのいんちきレストランのシャントワゾーに比して我が王立レストランのシャントワゾーは…、いくらか劣るかと…」
「いくらかというのはどのくらいだ?」
侍従は言いにくそうだったが、ライオン王の圧に押されて思い切っていった。
「……天と地ほどの開きがございます。あれなら乾燥の方がよろしいかもしれません」
「それはいくらかどころではない。どうしてだ? 料理長の腕も申し分無いはず。あのハリージとやらはしっかり働いておるのだろう?」
「それはもう…。あのスピードは驚異的です。従来、動物食材に関しましては、本当に最高のものが瞬時に直送されてくるはずですが…、最近それがどうも…」
「ん? 何かあるのか?」
「それが…」
「恐れながら!」
一頭の侍従がライオン王のところに慌ててやってきた。
「如何した?」
「調達課の特級調達係のハリージ、突然辞表を出して出ていきました」
「何!」
「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ、そうか…。そのようなことがの…。ひょっとしてそれはシャントワゾーだったか」
上帝は声を上げて笑ったが、目は笑ってなかった。間をおいて、再び上帝の口が開いた。
「よいか、わかっているだろうな。お前たち支配階級のレストランがもし、あのレストランとも呼べないちんけな安食堂に評判で負けるというようなことがあればどんなことになるかを」
「は、それはもう重々承知でございます」上帝は在りし日のことを思い出していた。それは革命後の反乱軍との戦いだった。丁度その最大の激戦地だったところに当時反乱軍のトップの息子がレストランを出し、時を越えて反乱の狼煙を上げている。当時上帝にとって正直もっとも手を焼いたのが反乱軍によるカビ兵器だった。それを駆除するために滅菌材を大量に散布し火を放っても、最後まで殺せないカビがあったのだ。それが今ではその反乱軍の息子の味方をしている。上帝は今更ながらそのカビたちを完全に駆除できなかったことを後悔していた。
「世が甘かったようだ…。絶対に潰す。奴は絶対に…徹底的に」
上帝はおもむろに侍従に向き直り、指示を出した。
「まずは犬部隊を遠征させて、壁を造り通行不能にし一切食材を確保させないことだ。我が王立グループで辺境の地の食材を完全に支配するのだ。例えあのハリージがセレンの食堂に寝返ったところで決して意味の無いようにしてやるのだ。そしてシャントワゾー。これを根こそぎひっ捕らえろ! なんとしてでもレシピの書を持ってくるのだ。間違いなく持っているのはシャントワゾーだ」
「はっ。すぐに部隊を出動させます」
上帝は鹿の娘のほうを見やった。鹿の娘は牢屋から出されていたものの後ろ手にがんじがらめにされ、この状況ではどこからも逃げ出しようは無かった。
「な、何よ、気持ち悪い。あんたみたいな中途半端な奴が一番嫌!」
「むっ…、一番気にしていることを…、まあ良い。それより鍵の在処がわかったぞ。近々開放してやる」
「な、何よ」鹿の娘は動揺した。直ぐに母親の顔が浮かんだ。
「ふふふ、心配するな。母親が吐くまでもなかった。自分から提供してくれたわ」そう言って上帝は鍵を娘に見せびらかした。
「お母さん! 何もしてないでしょうね?」
「ふふふ、どうかなあ。まあいずれにしてもこれであとはレシピの書を待つのみ。そうしたら解放してやっても良いぞ」
「ふん、あんたなんかにそんなことしてもらわなくても絶対にセレンが助け出してくれるわよ」
鹿の娘は強がったが、上帝はそれを聞いて顔を抑えながら大笑いをした。
「ふわっはっはっは、だといいがな。それは世も心から望んでいる。だがその前に、一番大事な仕事をしてもらうぞ。猿には死んでもらう。楽しみにしておれ」
鹿の娘は上帝を鋭く睨んだままだった。
93
ハリージは、セレンのところに戻ってきて日々充実していた。自分の意志で仕事をするのは何て気持ちのいいことだろう。王立レストランを出てなんら悔いは無かった。セレンが実際に死刑執行されていたと知った時は怒りでどうしようもなかったが、なんであれ生き残ってくれたのは嬉しかった。セレンは元気だ。騙していたのは王であり上帝だったのだ。だからもはや例え自分が罪に問われたってかまわない。捕まえられるものなら捕まえてみろ。ハリージはそう言う気持ちだった。
ハリージはギンザを抜けて、食材確保のため野を越え山を越え目にも留まらぬスピードで駆け抜けていく。
だが、今日は様子が何か違った。遠くの方から強ばった風の音が流れてくる。それにつれてハリージのスピードもかすかに遅くなっていく気がした。こんなことは今まで無かった。あったとすれば満月の日と、あの上帝の住まう上宮周辺だけだった。今日は満月のでる日ではない。みるみる落ちていくスピードでも、少しずつその音源に近づいているのか次第次第に大きくなっていく。遠くに左右にずーっと広がった黒い盛り上がりが見えた。それは柵のようにも見えた。どうやら音源はその遠くの柵のあたりからだった。
柵なんてあっただろうか? 無かったはずだった。次第に距離を詰めていくと、近づくにつれて壁に見えたそれは何かほんのかすかだが振動しているような気がした。しかも風と思われた音はより明瞭に何らかの動物の吠え声だと確信した。そしてその音源は前方からばかりでなく左右どこからも聞こえてきた。柵は行く手を遮るように見渡す限り延々と続いて、ギンザから出るものを通せんぼしているかのようだった。ハリージはもっと近づこうと歩みを進めるもますます自分のスピードは落ちていった。すこしずつすこしずつしか進まなかった。すぐ着くかと思った柵は全然近づかない。それでも歩みを進めると、漸くそれは柵よりももっともっと高いことがわかった。そしてはっきり呪文のようなものが聞こえてきた。もっと近づく。
「あっ!」
それは巨大な壁だった。しかし単なる壁ではなかった。それは蠢き、大音声で何かの呪文を唱えていた。声の主、壁の正体は無数の犬だった。ぎっしりと一糸乱れぬ隊列を組み何層にも渡って折り重なった無数の犬の壁だった。切れ目はないかと回り込んでもどこまで行けどもハリージの視界に無数の犬が呪文を唱え、密集して展開しギンザの周りをぐるりと犬の壁で覆っていた。
「ごめんよ」呪文のせいか俊敏な動きも出来ないハリージは壁を通してもらおうとした。通らなければ食材となる珍しい動物を手に入れることは出来ない。
「うー、わんわんわん」壁の前に並んだ犬の官憲たちに、ものすごい勢いで耳も劈かんばかりに警告された。背後の犬の壁からはなおも呪文が聞こえていた。
「な、なんなんだあ?」
「だめだ、勝手に通ろうとしてはならない。ここは我が王立グループの管轄だ」
「エー、そんなこと今までなかったじゃないか? どうして急に?」
「今日からの決まりだ」
犬たちは一切取り合ってくれない様子だった。
「あっそ、まあいいや」ハリージは強行突破を試みたが、鉄壁な犬の組織力を誇る鉄のような犬の壁をぶち破ることは出来なかった。それでも少し離れるとスピードが上がるので、延々と大きくギンザを囲むように続く犬の壁のどこかに隙が無いか遠巻きにして、その他者からしたらほとんど時間を止めることができるような光速のごときスピードで捜査した。どうせどこかに綻びがあるに決まっている。
だが姿の見えないハリージに対しても、犬たちは延々と呪文を唱え続けた。ハリージはそのお経のような文言を聞いているうちに再び自分のスピードが見る見る落ちているのがわかった。それは耳をふさいでも同じだった。
「ど、どういうことだ? 今日はまだ満月でもねえって言うのに…」
ハリージは完全に動きを止めてしまった。
「しかしあのハリージのスピードを持ってすればいくら壁を作ってもすり抜けられるのではございますまいか?」
「ふふふふふ、呪文を唱えてさえおれば良い」
「呪文?」
「言葉だ」
「言葉と、いいますと? 言葉だけであのハリージを止められるというのですか?」
「お前もまだわかっておらんようだ。この世界の秘密というものを。そしてわしがなぜこの世界に君臨しているのかを。良いか。この世界の支配原理を言ってみろ」
「力…ではございませんか?」
「ふふふ、正解と言いたいところだが、それが建前だと言うのはお前もよくわかっているはずだ。金でもない。金は贅沢が出来るし何でも買えるがな。よいか。ギンザの住民も建前はこの世の支配原理は力であるが、その根本にはお金があると薄々気がついている。しかしどちらも違う。お金はあくまで信用であり、それを保証するものが無ければ何の価値もない。つまりはそれが何かだ」
「それでは結局やはり力なのではございませんか?」
「だったらこの非力な世が世界を支配できるはずも無い。昔は多少自信はあったが今は見る影も無い。だからもし力を言うならお前にすぐに支配されてしまうではないか」
「いえいえ、滅相もございません。上帝陛下には目に見えない力、怪物たちを操る力が御座います故に」
「ふふふふ、なるほど、怪物たちを操る力か。まあ、つまりそれが言葉なのだよ」
「と言いますと、やはりハリージも怪物ということになるのでしょうか?」
「ふふふ、どう定義して良いかわからんが、怪物たちがあの世からこの世にやってきた
生き物なら、ハリージはその世からこの世に迷い込んできた生き物」
「その世とあの世というのは?」
「向こうの世界、つまりその世ではこちらをあの世とか思考世界と一緒くたに言うが、それはあの世とこの世を一緒にして区別できないでいるのだ。実際はもともとこの世はその世と一体であり、あの世とは別だったのだ。それは遥か遥か昔の話だが、この宇宙の神様がくしゃみをされた。そのときこの宇宙は反動で大きい方と小さい方の二つに分かれたのだ。小さい方は思考、想像の世界が、大きい方は物理法則に従ったいわゆる現実世界だった。そしてその小さい方、つまり我々の世界であるこの世はあろう事かあの世の世界まで飛んでいき、その世とはかろうじていくつもの伸び縮みするパイプで繋がるのみになったのだ。そしてその世とは世が断ち切ろうとしている世界でもあるのだ。早く、早く断ち切りたいのだ」
「何があったのでございますか?」
「話せば長いが、生をこの世で終えたものはその世に向かうという。その世ではこれは反対に捉えらえている。ただし、悪く殺されればどこにも居なくなる。世の母は猿王により実質殺された。世は何度も何度もその世で母上を捜した。しかし母はその世にはいなかった。猿王はその世とのつながりを大事にした。より強固なものにしようとした。正直それを見ていて世は恨んだ。その世と繋がっても最早母上は帰って来ぬのだ。さる王の料理によってこの世とその世が繋がれる。それが世は許せなかった。そのときに掬ってくれたのがあの世の神だった。神は望むものは何でもくれた。これだけ言えばよかろう」
「その世に未練は無いと」
「うむ。その世とこの世は昔は無数のパイプで繋がれていたが、今ではごく細い数本のパイプによってのみ繋がれている。それを断ち切り、あの世と完全に一体化すること。それが世の望みである。そしてあの世は世が唯一世をお救い賜い、帰依する神のおわす世界である。犬たちの唱える呪文は確実にその世とのパイプの道を狭める。そのパイプが狭くなればよりパイプは切れやすくなる。ハリージはその世の住民の不平を吸ってこの世にやってきたスピードマスターだが、それも管が締め付けてブーストしてくれているからだ。ハリージのスピードの秘密はそこにある故。犬どもに仕込んだ呪文はその世の住民が耳を塞ぎたくなる言葉。つまり締め付けるよりも管に蓋をしてしまうのだ。故にブーストはかからん。それはセレンを抑える道でもある。セレンは絶対に潰しておかねばならぬ」
「満月に止まるのはどういうからくりなのですか?」
「それもパイプに関係しておる。満月はどうしてもその世の住民の想像が増えるのだ。そうするとパイプはその時だけ拡大され、圧力が減ってこれもまたブースとはかからない」
「恐れながら上帝様にご報告がございます」一頭の虎の侍従が扉の前で控えていた。
「申してみよ」
「例のレシピの書が見つかりました」
「ついに見つけたか! ふふふ、まさかここで、本当にグランシェフの道が開けたというものだ。今更興味もないが…完全支配には必須。早く王宮に運び込ませるのだ」
「はい。それは早急に手配してあります。それにセレンの店は今回のことで大打撃を受けているようでございます」
「ふははははは、食材が入らなければどうしようもあるまい。いい食材は完全にわれわれが独占する。せいぜい家畜を何とかする以外ない」
「左様でございますね。売り上げも完全に戻りましたし。これであのいんちきレストランが潰れるのも時間の問題でしょう」
「ふふふ、だと良いが…、」上帝の目が鋭く光った。
「レシピの書には精巧に作られた偽物があるという。見つかったものも本物かどうかまだ分からん」
「はい。しかし鍵を開けてみればわかること。そもそも鍵はこちらにあるのです」
「良いか、仮にもあの者は前の王朝の血筋を引くものだ。決して侮るな。本番はこれからだ。レシピの書の鍵は渡さない。それに…」上帝はそれ以上何も言わなかったがその表情は愉悦の極みだった。
94
「なんだろう? そこで行列があったんだけど…」玄さんが首をひねりながらドリンクの瓶をリヤカーに積んで戻ってきた。
「行列? 誰のだい?」
「犬の憲兵達が何か大きなものを警護している感じだった。王宮の方に向かってったよ」
セレンと老猿は顔を見合わせた。
「じいさん、もしやレシピの書が見つかったんじゃ…」
「…、その可能性も否定できんが…」セレンの表情が一気に曇った。
「もしそうだったらどうすんだよ? 上帝がグランシェフになったら」
「まあ落ち着け。そうと決まった訳じゃないし」
「でも…、だとしたらリカさんは、リカさんはどうなるんだ?」セレンは老猿に掴み掛からんばかりだった。
「レ、レシピの書の鍵は代々鹿の点家所有じゃ。それを運用できるのは現在後当主のご令嬢だけじゃ」
「でも鍵は既に王宮にあるんでしょ? 開けたらどうなっちゃうんだよ。リカさん処刑されちゃうじゃないか!」セレンは居ても経っても居られなかった。直ぐにでも飛び出すところを必死にみんなに止められた。
「まあ待て。鹿の点家が鍵を渡したということは、釈放と引き換えということもあるかもしれん。どちらにせよ今行ったところで、またぼろぼろにされて追い返されるのが関の山じゃ」セレンは老猿の言葉を聞いて唇をギュッと噛んだ。
*
辺境には行けなくなったので野生動物の生息する地帯は諦めハリージはギンザ周辺の他をあたった。仕方なくハリージは久しぶりに猿が谷のヨシナリの方に行ってみることにした。もしかしたら何かあるかもしれない。
ところが見事に何も無く街は荒れていた。帰りかけた時、ハリージにはそこに居るはずの無い存在が今まさに朽ちかけていくのを目の当たりにした。
シャムショーはあたりを見渡した。見るも無残に壊された廃墟がどこまでも続いていた。歩けども歩けども廃墟しか見当たらない。本当にここで良いのだろうか。シャムショーは疑問に思ったが、やっとの思いでここまで来た満足感の方がどちらかといえば勝っていた。シャムショーはここまでに至る経緯を思い返していた。
ここか。
シャムショーは洞穴をくぐり抜けた。おじいさんから言いつけられた通りだった。犬の官憲の一斉包囲による捕獲でシャントワゾーはすっかり数を減らし、残りはシャムショーとわずかばかりとなっていた。シャムショーは洞穴の中に入り、何かをぶつぶつと唱えていた。もちろんシャムショー自身にもこれが何を意味しているのかわかっていなかった。ただ、おじいさんの言いつけに従っていっているだけだった。シャムショーはおじいさんとの会話を思い起こしていた。
「シャムショー、良いかね、良く聞け。お前も立派なシャントワゾー族の大人だ。覚悟は出来ているな?」
シャムショーには子供の頃からの様々な思い出が頭の中を巡った。おじいさんの言葉が何を意味しているのかわかりすぎるほどわかったため、それが死刑宣告を受けた囚人のような、それでいて天高く上っていくような晴れやかな相反する複雑な思いが去来してきた。シャムショーは短くも感慨深く返事をした。
「はい」
「犬たちがやってくるまでにこれを猿が谷まで届けるのだ」
「これって?」
「レシピの書だ。昔猿王様から預かった、とってもとっても大切なものなのだ」
「そっちは?」
「こっちは良い」
シャムショーは洞穴の奥深くで眼を閉じて呪文を唱えると、目の前が真っ暗になったと思ったら、急に明るいところに出た。ほとんど瞬間だった。シャムショーは廃墟の猿が谷を歩いた。シャントワゾーであるシャムショーにとって猿が谷はとても過酷な環境だった。既に自分の身体が腐敗してきているのがシャムショーにはよくわかった。
おじいさま、わたしはこれでもういいんだろうね。だって、これを渡すったってもうこの廃墟じゃ誰もいないよ。
「お前は!」
突然どこからとも無く声をかけられのを感じたが、最早意識は遠のいていくばかりだった。その声の主はシャムショーの顔を覗き込んでいるようだった。シャムショーはその顔を見て、誰だかはわからないが安堵し、そして息絶えた。
「遅いな、ハリージ」
「うむ、めずらしいのう」
「これじゃあお客さん待たせすぎだよ、どうしよう」
「いくらなんでも物が無ければどうしようもないからのう」
待てど待てどハリージは戻ってこなかった。お客はとうとう怒って帰っていった。
結局ハリージはかなり遅い時間になって手に豚を二匹だけ連れて戻って来た。
「ちょっと、どうしてたのさ」
ぶひぶひ。
「ごめん。だめそうだ。どこに行っても王立系?の警備が行きとどいていて、何も獲れなかった。おまけにあの呪文? これはまずいぞ。あ、あとこれ…」
「えっ? これって…もしかして、レシピの書?!」客席の犬の眼が鋭く光った。
*95
「壁外の周辺動物の不平はピークに達しておるようです」
「犬の壁はどうなっている?」
「今のところは鉄壁です。ただそれも限界がありましょう」
「なぜに不満があるのだ? 王立系では例え廉価チェーンでも厳密に世のマニュアル通り調理され至高の一品にまで昇華させてやるのだ。それをあの猿の食堂風情の方が良いと言うのか? 理解に苦しむ」
「はい。確かに。しかし家畜達もまた不満を募らせておるようです」
「ふふ、まあ良い。今少しの辛抱だ。これさえ解読できれば全て理想の世界が実現する」
「はい。しかしなかなか…あの王がやってもビクともしないようです」
「ふふふ、あの王もすっかり力のマニアになっておるからな。勘違いも甚だしい」
「やはり満月まではどうやっても無理なのでしょうか?」
「本当にそう思うか?」
「と、いいますと?」
「ふふふふ、あれが本物だと思うか?」
「鍵がですか?」
「何故あんなにあっさりと鹿の点家が鍵を渡してきたのか」
「では偽物を渡したと? だとしたら鍵はまだ鹿の点家にあるというのですか?」
「いや…、鍵は我が手にある」
「それはどういうことでございますか?」
「ふふふ、まあよい。何が本物かどうか試せばよい。満月が待ち遠しいわ。思えばここまで長かったが、今更ながらグランシェフになる機会が来ようとは」
「…それが、レシピの書に関し一つ気になることがございまして」
「ん?」
「年老いたシャントワゾーを殺めてレシピの書を奪取しようとしたとき、隠れていた小さなシャントワゾーが出てきまして、おそらく年老いたシャントワゾーの孫ではないかと思いますがその老シャントワゾーを庇うつもりだったのでございましょうが、その小さな孫が最後に言った言葉でございます」
「何だ? 申してみよ」
「『これが本物だと思うなよ』、と。おそらく老いたシャントワゾーから注意をそらさせようとした結果なのでしょうが」
「わーはははっははっはは、これは愉快。動物は追い詰められるとありもしないことを口走るものだ」大きな笑い声とは裏腹に上帝の黒目は細く鋭くなっていった。そして上帝の頭にヨシナリの伝説とセレンの顔とが急に纏わり付いてきた。
「邪魔な奴め」
「わ、わたしがですか?」
「いや…、良いか! 解読の日、満月に鹿の娘の処刑を決行だ。告知せよ」
「それではそのように直ぐに号外を出させます」
「いや待て…」上帝は側近を呼び止めにやりとした。
「告知には『処刑執行は満月の次の日』としておくのだ」
「告知と実際の処刑の日は違うということですね?」
「そういうことだ。満月の日は王宮に蟻の子一匹通さないようにせよ。そして次の日は警備を逆に最大限緩めるのだ」上帝の顔は愉悦で歪んで居た。
96
「セレン。何が書いてある?」
蒼白な顔をしたセレンを心配して、老猿が声をかけた。
「リカさんが処刑される」セレンは政府関連の号外を震える手で押さえながらかろうじて読みとり、何度も何度も読み返していた。老猿は号外をひったくった。
「満月の次の日か…」
「むう、上帝もとうとうグランシェフに」お鼠も顔を出していた。
「俺のせいだ」セレンは茫然自失だった。
「お前のせいではない。わしも同じように働いていたんだし」
そばで聞いていたハリージは複雑な気持ちだった、
「どうしよう…どうしたらいいんだ…、どうしよう」セレンは厨房を歩き回った。
「まあ落ち着け。そうは言ってもあの上帝がそう簡単に五大家の娘を処刑することはないはず。レシピの書はまだどちらが本物ともわからん」
「そんなこと言ったって。満月の次の日に処刑って言ってんだよ! 日が無いよ。満月の次の日って正確にはいつだよ?」
「多分丁度一週間後くらいだ。そろそろ俺の動きが鈍ってきてる」ハリージは身体の動きで正確に月齢を言い当てられた。
「じゃああと一週間は大丈夫じゃろ」
「でも鍵は王宮にあるんだろう? もう既に開けていたらどうするんだよ。仮にあっちのレシピの書が偽物でも鍵さえ手にあるならリカさんはもう奴らに必要ないはずだ。それだったら俺、これ持っていく」セレンはすかさずレシピの書と思われる箱を持って出て行こうとした。
「待て待て待て、馬鹿やろう、早まるな」老猿は必死にセレンを引き止めた。
「離せよ、じいさん」セレンは捕まえられた首根っこの腕を振り払おうと抗ったが、老猿に思いっきり殴られた。
「良いから聞け! これは罠かもしれん。わざわざ通達するということはセレン、お前をおびき寄せて抹殺しようとしているのかもしれん。その上本物のレシピの書を渡したら、それこそこの世の終わりじゃ。残念だが、こればかりはリカさんの命でも代えられん」
「見捨てるっていうのかよ」
「いやそういうわけではないが、そのまま行っても奴らの思うツボじゃ。絶対に行くな。こっちにレシピの書さえあれば、いやお前の命があればそのうち解決策はある」
「そんなこと言ったって、そんな見捨てるなんてことできるかよ。それにこれが本物の保証があるのかよ。そうでないならこれ持ってって時間稼ぎも出来るじゃないか!」
「多分満月まで大丈夫じゃ」お鼠様だった。
「何を根拠にそんなこと言ってんだよ!」
「だって満月じゃないとその箱開かないもん」
「えっ? なんで知ってんだよ」セレンはふんぞり返ったお鼠を両手で掴んだためお鼠は苦しくてもだえた。
「いたたたた、はなせはなせはなして〜」
「ご、ごめんなさい。でもなんで知ってるの? もしかしてこれが本物かわかる?」
「それはわからん」
「なんだよ。じゃあなんで知ってんだよ」
「その箱作ったのわしじゃもん」
「え! だったらわかるじゃん。その前になんで今まで言わなかった」
「いやだから、昔のことは記憶が無いって行ったじゃろう。どうも見たことがあるから思い出したけど」
「なんだよ、だったらわかるだろう? 上帝のとこれと、どっちが本物か」
「ぜんぜんわからない。それは全く区別がつかない」おネズミは一つも悪びれるところがなかった。
「なんだよもう、どういうことだよ、自分で作っておいてさあ」
「それは箱じゃから。実際外見の区別がつかん。完璧に作ったから」おネズミは得意げに言ったが、老猿にきっと睨まれ、慌てて付け加えた。
「い、いやあ、でもそれが本物っぽいなあ」
「そうじゃセレン。わざわざ本物を献上する手はない」
「そんなこと言ったってライオン王かあの上帝の親衛隊が力任せに開けちゃうかもしれないんだよ」
「いや、そんじょそこらの力じゃ開かんようになってると思ったぞ。それにな…」
「なんだよ」
「鍵は二つある」
「二つある?! どういうことだよ」
「ああ、間違いない。思い出した、思い出したぞ」そう言いながらお鼠は涎を垂らした。
「何で涎たらしてんだよ」
「いや、思い出してもうた。鹿のご令嬢のお母さんを」
「リカさんのお母さん?」
「そうじゃ。ありゃええ女じゃった」
「だから何でリカさんのお母さんを思い出してんだよ今」
「わからんか?」
「わからんって、思い出すまでわかってなかったじゃん。なんだよ?」
「そのご令嬢とお母さんのスタイル、つまりボディサイズは完全に一致する。今でも一緒なのじゃ」
「なんで今そんな話するんだよ。それと二つあるのと同関係あるんだよ?」
「だから、ご令嬢の身体自体が鍵なのじゃ。しかも裸」
「えええ! どういうこと? 身体が鍵って?」
「だから裸になって身体を箱にくっつけると鍵が開く仕組みになっているわけじゃ」お鼠は得意げに胸を反らした。
「なになになに? 嘘? なんで知ってる訳? テキトーなことこいてんじゃねえよ、この鼠じじい」セレンはお鼠の首を締め上げた。
「あいててててて、本当じゃ、本当。採寸して作ったのわしだから」
「はあ? なんでそんなの作ってんだよ?」
「鹿の点家のお母さん自ら申し出て提案してくれたのじゃ」
「嘘つけよ、何でそんな提案するんだよ? そんな鍵は頼まんでしょ」
「ごほっごほっ、と、とにかく頼まれて作ったのは確かじゃ。それほど自分の、鹿の点家の美容とスタイルに誇りを持っておられるのじゃ。そして鍵は満月の日にしか開かんようになっとる。だから少なくとも満月までご令嬢が何かされることは無い」
「だったら尚更止めなきゃ! リカさんの裸をあの上帝に見られるなんて絶対我慢できない」セレンが飛び出す所を再び老猿は捕まえた。
「馬鹿なまねはよせ!」
「は、放せ」抵抗するセレンをみんなで押さえつけた。
「とにかく処刑日は満月の次の日。一週間後なんだ。今行ったところでお前が娘さんより前に公開処刑じゃわい。そんなことになってみろ、本当にこの世は暗黒じゃ。もうお前だけの命ではないんじゃぞ。いいか? 家畜達や壁の向こうの野生動物達は今暴発寸前なのじゃぞ。お前が死んでしまったら全ては台無しじゃ」
「そんなこと言ったてさあ」
「みんなもう気づいているのじゃ。上帝に巧妙に管理されたこの夢の無い世界の絶望に。夢を、希望を取り戻すのじゃ。よもやこの国はお前の出現で後戻りできないところまで来ているのじゃ。だからもう少しの辛抱じゃ。お前がいなくなったら本当にこの世界は終わる。だからどうか今は自分勝手なまねはしないでくれ」
「…やめろ、放してくれ」老猿がセレンを押さえつけている間にお鼠が縄を持ってきた。
「良いから大人しくしてろ」「やめろ」
セレンは縄でぐるぐるにされて夜通し泣き叫んだ。
連日の王立系による乱獲等で壁外の野生動物達の不満は最高潮に達しようとしていた。
壁を前にして野生動物達がそれぞれ不平を訴えても犬達は当然のように何も答えなかった。そもそも言葉が通じないのだ。
延々と続く鉄の犬壁は、野生動物の圧力で犇めいていたがそれでも未だ揺らがなかった。
「絶対に許せませんよ。絶対」
「あのレストランじゃないなら絶対に行きたくない」「そんだったら他の動物に食われた方がまだましだよ」「返してくれよ。息子を返せ」「レストランはセレンのとこじゃないとやだ。王立なんかに行くもんか」「家族を返せ!」「潰れちまえ」
野生動物達は色々な所から抗議の声を上げ壁の突破を試みたが、それでも犬の壁は壊れなかった。時折、壁の中からライオンやトラ、狼達が集団で外に出ては狩りをして王立レストランに運ばれていった。鳥達ももちろん自由に行き来できたものの捕まって王立系のレストランで料理されるのを嫌がって近頃ではあまり近寄らなかった。それでもたまに来る鳥達に対して名人はいるもので、飛び道具でいとも簡単に仕留められるのだった。
97
喧噪と会話が耳に入って来た。セレンは顔の辺りがもぞもぞするので気がついて起きた。あれから長い間眠っていたようだった。身体はまだ縄で縛られたままだ。顔には何匹か蟻が這っていた。セレンは首を激しく振って蟻を追い払い、ため息をついた。
「なんだって縛り上げられなきゃならないんだよ。これじゃあまるで犯罪者だ」考えてみれば自分はこれまで指名手配だった。その前に奴隷だったのだ。それは今でも同じだし猿族全体にも言えることだった。それがレシピの書によって全て覆せるかもしれないのだ。自分がグランシェフになって。そしてそのレシピの書がここにある。それも娘が死刑にされたら永久に猿族の奴隷解放は無いかもしれない。
駄目だ、全然入れない。
どこからとも無く声が聞こえてきた。セレンは声の出所を探ったがそれがどこからかすぐわかった。蟻だ。蟻の大群が店の前を行進していたのだ。セレンはしかし声をかける元気も無かった。今頃は店の営業が始まっているはずだった。
悉く仲間が殺されてるよ。今回手厳しい。迂回するしかない。
蟻の子一匹とは言ったもんだ。
蟻は蟻で生活があるんだな。セレンには蟻の会話よりも店の営業が気になって仕方なかった。自分が居なくて果たして店は回るのだろうか? 今頃お昼のピークのはずだった。それが証拠に厨房の方からは怒号がひっきりなしにここまで聞こえてくる。
しかしやがて、それも次第に大人しくなっていった。アイドルタイムに突入したか。しかしいったいなんだって縛られなきゃならないんだ。セレンはふてくされた。
セレンは来る日も来る日もキッチンの裏口で縛り上げられたまま、それをじっと耐えなければならなかった。食事は用意されていた。食事はハナコが作っているのか、最初は下手だったのが日を追うごとに上手くなっていくのがわかった。時折顔を見せてはセレンにごめんの合図をするが、決して解放してくれそうでは無かった。
困ったなあ。
セレンは振り向いた。それが自分の心の声でないことを確認するためだった。それは蟻たちだった。
「どうしたの?」
蟻たちはセレンの問いかけに一瞬たじろぎ隊列が乱れた。しかしやがて、一匹の蟻がセレンの前に出てきた。
「君、僕たちの言葉話せるんだね」
「そうだよ」
「すごい!」
「別に凄くはないよ。自然と身に付いちゃったんだ。案外みんな一緒だよ」
「そうなんだ…、僕たちカマキリやバッタの言葉だってよくわかんないのに」
「へえ、やっぱ違うんだ」
「うん。それじゃまた。僕たち急いでるんだ」
「うん、またね」そう言うなりその蟻は再び隊列に戻り、最早他の蟻と区別が着かなくなっていた。蟻達は黙々とどこか悲しげで、いつまでも行進は続いた。セレンはそれを飽きること無く見守っていた。やがていつものように店の方はピークを迎え、阿鼻叫喚の喧噪がこだましたが、セレンはそれをじっと耐え、再び比較的穏やかな時間がやって来た。
*
「さすがにそろそろ壁も限界に来ております。日に日に野生動物達の圧力も増しつつありますし」
「分かっておる。もうすぐだ。もうすぐの辛抱なのだ」
*
「また王立系かい?」
「仕方ないよ。需要は圧倒的に王立系なんだから」
「だからといってこっちだって選ぶ権利があるよ」
「そんなこと言ったって家畜である以上そんなことは言えないさ」
「ああ家畜ならそうさ。でもそれはあの小猿さんのところで料理してもらえると思ったればこそ。これじゃ意味ないよ」
「じゃあ紳士になるっていうのかい?」
「確かになれる。なれるよ」
「でもそれじゃあ本末転倒だよ」
「じゃあどうしろっていうんだよ?」ぶひぶひぶひ〜
豚の議論は活発だったが、監視の犬からはいつもよりぶひぶひうるさい程度にしか感じていなかったようだった。
98
あと処刑日まであと何日だろう? 何も出来ないのがセレンにはどうにももどかしかった。例え今すぐに王宮に鹿の娘を助けにいったところで何も出来ずにただ殺されるのは十分すぎるほどわかっていた。老猿たちの言うことも尤もなことだった。それでもセレンの気持ちは鎮める事はできなかった。
セレンの前に恒例の蟻たちの行進が目に入った。今日の蟻達は更に項垂れ、いつもより一層悲しげに見えた。セレンは数日前一匹の蟻と会話した外、他の蟻と会話することは無かった。蟻の方から話しかけてくることも無かったし、黙々とひたすら隊列を組んで行進する蟻たちをセレンも邪魔をしたくなかったのだ。しかしそんな悲しげな蟻の様子を見てセレンも今日ばかりは話しかけずにはいられなかった。
「ねえねえ、蟻さん」
案の定、蟻の隊列はセレンの一言で大いに乱れた。しかしやがて、その中から一匹の蟻が意を決したかのようにセレンの前に出てきた。
「どうしてそんなに悲しげなの? 蟻さん」
「…、実は。女王様が幽閉されているのです」「幽閉って、それはどこなんだい?」
「それは王宮です」
「えっ? 王宮?」一瞬鹿の娘が蟻の女王になっていたのだと妄想した。
「はい」
「どうして? その王宮ってどこにあるんだい?」
「いえ、王宮と行っても私たちの言うのはあのライオン王と上帝の住まう王宮のことでございます。女王はその王宮の敷地内におわすのですが、何故か数日前からその王宮に入れなくなったのです。これでは女王様にお食事もお運びできませんし本当に困惑しているのです」
「どういうこと? 蟻の子一匹通さないというわけか」
「はい。今月は臨月で、満月には出産予定日を迎えます。どうしてもそれまでにたっぷりのお食事をお届けできなければ女王様は…」
「そんな…」
「隊長! 新たな情報が入りました!」隊列の後方からもう一匹の蟻が伝令としてやってきた。
「どうした?」
「はい。満月の夜に犬の警備を緩めるらしいとのことです」
「満月の夜? それでは間に合わん」
リカさんの処刑日の前日だ! セレンは心の中でつぶやいた。処刑日前日に警備を緩めるってどいうことだろう? 終わったあとならわかる。
セレンは何もかもわからないが、胸騒ぎだけは異常にした。満月と言えば明日だ。明後日には処刑されてしまう。でもどうして処刑の日の前日に警備を緩めるのか。
「あっ」セレンは自分の推測に青ざめた。咄嗟に縄を解いて動こうとしたが、がんじがらめで動けなかった。
「くっそう。おーい、おーい。縄を解いてくれ。おーい」
厨房に向かって何度も大声を出したが全く反応が無かった。疲れ果ててへたり込んだセレンの目に再び蟻の隊列が目に入った。
蟻はその後もとぼとぼと意気消沈したまま、大きな大きな女王への献上品を届けられないまま右往左往するままだった。それにしても蟻は身体の割に力持ちだった。それはある意味ライオン族を越えているのでは? セレンはそう思った。
「そうだ! 蟻さん」セレンは蟻の隊列に話掛けた。蟻の隊列はもはやセレンの声に隊を乱されること無く無気力にセレンに向けて頭を上げた。
「なんですか?」
「君たち、凄い力持ちだよね? 噛み切る力も凄いという。だからこの縄を解いてくれないか? そしたら僕、君たちの女王様、助けてあげられるかもしれない」
「本当ですか?!」蟻の隊列はそれを聞いて乱れに乱れた。しかしそれは混乱の乱れではなく、期待の、希望から来るもので、セレンを一斉に仰ぎ見た。
それからは案外早かった。蟻たちは隊長の号令のもと一斉に何組かに分かれ、各々の組がを引っ張ったり押したり噛みちぎったりして、見る見るうちにセレンの縄は解かれた。セレンは蟻たちに礼を言うと、レシピの書を持ってすぐに外に出た。
「くっそう、ムームーマごときに」怪物は片手を着いて肩で息をしていた。目の前のムームーマはしかし、勝ち誇る風でもなく一位の玉座にゆっくりと腰を下ろし、大事そうに小さな紙包みから小さなかけらを口に入れていた。
「薬打ってやるぞこのやろう」
「まあまあ確かにここ半年くらいの奴の成長は目に見えるほどのものがある。実力でまた勝つしかあるまい」
どうやらこの玉座に着くものがこの世の真の強者、力を持つものらしかった。それは当然、表のまやかしと違い本当の腕力が問われるのだった。其の玉座は表のライオン王選抜と違い忖度の無いもので本当に実力主義のため、めまぐるしく変わるのが常だったそしてそれが親衛隊の第一位に任ぜられたのだった。