3 つまみ食い行脚
46
「どうなっておるのだ? まだセレンは見つからんのか?!」
「はっ、申し訳ございませぬ。全力を挙げて探させているのですが…。もっと犬たちの官憲を増やしましょう。そして広告も大々的に」
ライオン王はその顔に険を湛えていた。そしてそれは、片目が完全につぶれていることでますます醜さに拍車をかけていた。
「で、その広告料。いかほどかかるのだ?」
「はっ、三万グルモーンはかかるかと」
ライオン王はため息をつき、険しい表情をした。
「今月の予算は後どのくらい残っている?」
「広告料を出すと、かつかつにはなりましょう」
王はため息をついて、言った。
「なあ、侍従よ。この世は力の世界ではなかったか? どうしてこうまでお金のことで頭を悩ませねばならんのだ?」
侍従は節目がちに答えた。
「力の世界であることに間違いはござりません。ただ、そこまで単純には行かぬが世の常。力のあるものがこの困難に立ち向かう。それが王様なのでございます」
「ふう」
王様は玉座に座り頬杖をついて、少しうんざりした表情をした。
「どうして料理がうまいだけではいけないのだ?…。この力があるだけでは」
ライオン王はそう言って、頭に不意にまたセレンの顔が浮かんできた。
「その力のある王様だけが、この世を治めることができるのです」
「もう良い。徹底的にキャンペーンを張ってセレンの居場所を洗い出すのだ」
「はっ」
侍従は引き下がった。そして今度はもう一頭別のトラの侍従が、またライオン王に奏上をした。
「今度は何じゃ? 今晩のおかずか?」
「いえ、それは他の侍従がまた伺いに参ります。それより王様。わが王立レストランの経営の状況ですが」
「うむ。どうなっておる?」
ライオン王は身を乗り出した。
「おおむね良好のようでございます」
「そうか。それは良かった。なにせ、わが王政の歳入のうちで一番の収入源だからな」
しかし侍従の表情に冴えはなかった。ライオン王はそれを見のがさなった。
「どうした? なにかあるのか?」
「はっ。それが、少し気になることが…。八丁目の裏路地の方なのですが…」
「八丁目? そこがどうかしたのか? あそこは表通りなら結構な高級店が建ち並ぶところだが」
「はい。表通りはもちろんその通りですが、奥深く入った東地区の裏路地は表通りとは打って変わって古くから酷く廃れていて、ほとんど動物の陰もなく、居てもまばらのはずです。しかし、その裏路地に、最近レストランがあるのが判明したのです」
ライオン王は訝った。
「最近判明したとは? 確かギンザのすべての飲食業は調査済みのはず。それにもれた地域があると申すか?」
「はい。まことに申し上げにくいのですが…、その地区は調査の必要がないとの判断で先代、先先代の王の時代からあまり関心は持たれませんでした。基本的には猿などの乞食や貧民しかいない区域ですので、めぼしいレストランなどあるわけがございません。せいぜいあったとしても本当に貧しい料理を出すのが関の山で、ろくに税収も上がりません。それ故、今まではノーマークだったのです」
「で、それが何か変わったというのか?」
ライオン王は何か胸騒ぎがした。
「ええ。それが民衆のうわさではそこのレストランが飛ぶように連日おお賑わいということで、朝から晩まで行列のできる始末」
「ほう…。しかしいくら売れても売り上げは高が知れているのだろう? どうせ売価も格安なのだろうし」
「それが…そうでもないらしいのです」
「そうでもない?」
「実はこれを…」
そう言って侍従は品書きが載ったメニュウをライオン王に見せた。
「これは?」
「はい。入手したものですが。そのメニュウの額がまた…」
「牛のつぼ焼き? なんだこれは? 聞いたことない。しかしその地域で牛を出すなどという暴挙!」
「それだけではありません。値段のほうを」
ライオン王は促されて値段を見た。
「あっ!」
ライオン王はしばらく絶句した。
「馬鹿げておる。600グルマンだって? あるわけがなかろう? 冗談であろう?
牛のつぼ焼きがどんな料理かは知らぬが、いくらなんでも600グルマンとは無茶がある。600グルマンといえば、庶民の一ヶ月の給料ではないか。そんな値段、余の在籍したレストランですらありえなかったわ」
「わかっております。王様のレストランは最高ランクのレストランでございます。味も最高なら値段も最高。仮に同じものを出すのなら、高くても6000グルモーンが相場でございましょう」
「うむ。うちのレストランで一番高いのでも30グルマンであった。それも在庫をかかえるわけにはいかぬので、予約注文しか受け付けられない。最高の食材、シャントワゾーですらな。それを600グルマンだと? 600グルモーンの間違いではないのか? それでも庶民の店にしては高すぎのはずだ」
「いえ、それが最近では貴族階級のものもお忍びで食べに出かけているとの情報がございます」
「何だ! これ」
ライオン王は新たに別のメニュウの記載を見た。
「このレストランはシャントワゾーも出すとな?! しかも…」
王様は値段を見て絶句した。
「6000グルマン!!」
ライオン王は怒りで震えが止まらなかった。
「でたらめもいいとこだ。ぼったくりとはこのこと。いくらなんでも6000グルマンはひどすぎる。そもそもシャントワゾーは幻の魚。滅多に手に入るものではない」
「ええ。ですからまさか、誰も頼むものはおりますまい。その辺は高をくくっているのではありますまいか」
「6000グルマンといえば庶民の家だったら一棟、いや二棟もたつやもしれん。それをこのレストランは! ただちに捜査をするべきであろう」
「確かにそうですが、まだ被害届も一件も出されたことはありません」
「お客はその値段で満足をしているということか?」
「もちろんシャントワゾーを頼むことはないでしょうが、今までは」
「ならばシャントワゾーを頼んで化けの皮をはがすか。もし用意できないようであれば。あるいはその値段に見合う味でなければ取り潰すことも可能。そのときはすべての利益を接収することができる」
ライオン王はにやりと笑った。
「よし、早速そのレストランの調査にかかれ!」
「はっ」
侍従はその命令に迅速に従った。
47
今日もセレンのいるレストランは大盛況だった。早速、昼間から雪崩のように沢山の数のお客がやってきていた。
「ちょっとセレン。手伝っておくれよ」
ウエイターの玄さんだった。ホールスタッフで今日出勤してきているのはまだ一匹だけだった。それで、キッチンにいるセレンに手伝いの要請が回ってきたわけである。
「でも俺…」
戸惑うセレンに元さんが畳み掛けた。
「少しくらい良いだろう。大丈夫だって。ここにくるお客のなかでセレンのことなんて気にする動物は誰もいないよ」
「ええ…」セレンはそれでも逃亡中なので、もしもの身バレだけは避けたかった。
「ああーもう、忙しいんだから。そんだったらあれ被ってよ、あれ」
玄さんは手をいっぱい広げて被り物のジェスチャーをした。
「ああオッケー」
セレンは早速被り物をしてホールに出た。ただ被り物といってもセレンの場合は少し大きめな猿の被り物だったので、あまり劇的な変身はできなかった。セレンも一度は料理長みたいに、ライオンの被り物をして威張ってみたかった。
「ああセレン」
セレンは玄さんの方を向いて、口の前に人差し指を立てた。あんなに大っぴらに名前を呼ばれたらたまったもんじゃない。
「ああ、ごめん。そこのお客様、会計やっといて。計算はそこにできてるから」
「うん、わかった」
セレンは言われるがままに伝票を取ってテーブルに近づき、テーブルに提示した。
「こちらが本日のお会計です」
お客は最近富に増えてきたライオン系の仲間だったので、セレンは平静を装おおうと落ち着いて聞こえるような声を出した。貴族階級を前にすると体の大きさも原因かもしれないが威圧を感じてかどうしても緊張してしまう。
お客は伝票を確認してすぐ財布からお金を取り出すと、セレンに渡した。
セレンには見たこともない札だった。券面を見ると百グルマン紙幣が六枚あった。
「お、お客さん。偽札はいけませんよ」
「な、なにをぬかすか。お客にたいして失礼な。これは正真正銘の百グルマン紙幣だろう」
「グルマン?」
セレンはもう一度紙幣を検めてみた。そこには確かに百の隣にセレンが見慣れたグルモーンではなくグルマンと明確に表示されていた。セレンはあわてて計算表を見た。思わずセレンの眼が飛び出そうになった。
「ろ、六百グルマン!!」
セレンはもう一度メニュウを概観した。そのどれもが桁外れの金額だった。
「いいんだろう? あってるな?」
「は、はい」
セレンは緊張のあまり震えてなかなかお札をもてなかった。その後も二三件会計をしたのだが、どの客席もその桁外れの値段にセレンはびっくりしどうしだった。
「おい、セレン。そろそろキッチンに戻ってくれ」
「はい」
普通にセレンと呼ばれるのも気が付かないくらいセレンはショックだった。もちろんその金額にである。セレンが一年くらいかけても稼げるかどうかわからないくらいのお金が今目の前で、いやむしろ自分の手で取引されたのだ。
「おいセレン。頼むぞ」
「あ、ああ。何からやればいい?」セレンは後からきっちり聞いてみようと思った。
厨房では滝のような数のオーダーが溜まっていた。
「次はそろそろヤマウズラがそろそろ到着すると思うからその準備を」
セレンはもう驚いてる場合ではなかった。いったいどこから誰が仕入れるというのか? 疑問はあったが、次から次へと来るオーダーに、もはや余分な考えてる暇はなかった。ただ目の前のことをやるので精一杯だったのだ。今やらなければならないのはそのヤマウズラのソテーのためのソースを作っておくことだけだっだ。
玄さんはお店のドアーが開くと一瞬ぎょっとした。見るからに大柄なトラが二頭、威圧的な態度で現れた。ぱっと見身分が高そうだった。二頭は入るなり、あたりを胡散臭そうに見回した。そして顔を見合わせてニヤニヤ笑っていた。
「オーダーはいります」
少し緊張した面持ちで玄さんがキッチンに入ってきた。
「おう、玄ちゃん。どうしたの? 表また忙しくなってきたかい?」
「いや、とりあえず満席で後は少しウェイティングがかかってるけど、ただ…」
「ん?」
「ついにとんでもないものが入りました」
「何だって?」
老猿と玄さんの間に緊張が走っていたようだった。
「シャントワゾーが入りました」
「シャントワゾー! また景気が良いねえ。どこの成金だい?」
「わかりませんが…」
セレンはシャントワゾーなるものを聞いたこともなかった。
「ねえ、爺さん。シャントワゾーって何?」
「シャントワゾー? おまえ知らんのか?」
「知らないよ。何なの? それは」
「うーむ。無理もないか。シャントワゾーというのはなあ。伝説の魚なのじゃ。ピンク色をして、とても大きくてのう」
「へエー、でもそれ伝説なんでしょ? だったら捕まらないじゃない? そんなの何でメニュウに載せるのさ」
「う、うーん。どうせ誰も頼まんと思って…」
そう言って老猿は頭をかいた。
セレンは呆れていた。
「それがうちで一番高い6000グルマンする奴なんでしょ?」
「よくご存知で」
「知らねえよ! 大体爺さん。あんたのやっていることはぼったくりだよ。失望したよ。そりゃあじいさんのつくる料理はとてつもなくおいしいけどさ。それをあんなに高い値段で出して良いわけ?」
セレンは老猿を問い詰めた。
「いや、それにはちゃんとした根拠があるのじゃ」
「どうでもいいけどどうするんだよ? そんないるのかいないのかもわからない動物をメニュウにのっけちゃってさ」
「いやセレン、そうは言ってもなあ、お前のレストランにもあったはずじゃぞい、確か。乾燥した奴だけど」
「ええー! そうなの? 絶対なかったよ。うそばっか言っちゃって」
セレンは少し楽しくなってきた。いつも老猿にやり込められていたので、たまには形勢逆転も悪くないと思った。
「いや間違いないはずじゃ。というよりそのくらいのクラスのレストランでは置いてあるのが普通なんじゃ。それが、一流の証でもある。ただもちろん乾燥したものであって、辺境の地に生息しとるから生のシャントワゾーは手に入らんし、入ったとしても保存が難しすぎて無理だし乾燥であってもあまりにも滅多に入手できないので、一ヶ月前くらいからの注文という形をとっているのだ」
「へエー。だったら断れば良いじゃない。一ヵ月後ということで」
「うーむ、それはまあ大丈夫じゃ、多分」
「じゃあ今あるの?」
「ない」老猿は悪びれず答えた。
「何それ。今ないのなら絶対できないんだから同じことじゃないか。輸送だけで一ヶ月くらいかかるんでしょう?」
「だから、うちの場合大丈夫だって言ってるのだ」
「なんで? じゃあ仮に大丈夫だとして、何が困るの?」
「うーん、それなんじゃが。乾燥していればいいのだがなあ」
「だから乾燥してるんでしょ?」
「いや、生じゃ」
「何で? 乾燥を使えば良いじゃん」
「それは一ヶ月かかる」
セレンはだんだんといらいらしてきた。
「何言ってんだよ。生が手に入るならそれで良いじゃん。何でいけないのさ」
そういいながらセレンもおかしさを感じていた。どうして生が手に入るのだろう? 話の筋からして乾燥が手に入るのならわからんでもないが、生だったら相当保存を良くしておかなければいけないということだろう。
「生は調理が難しいんじゃ。乾燥なら良いのだが生は…」
「エー! いまさらそんなこと言われても…」
「料理長! 早く頼むだそうです」
「エー、でも玄さん。食材がないんだよ」
「もう少しで届きます」
「セレン。お前、頼む」
老猿は頭を下げて言った。
「えー! 何言ってるのあんた。勝手にメニュウに載せたのは爺さんじゃないか」
「だってわし、シャントワゾーを調理をしたのは三回だけ。それも生は一回だけ北の海でやったことあるけど、気難しくてなあ」
セレンは開いた口がふさがらなかった。
「俺は一回もないよ」
突っ込みしきれないほどの突込みだった。
「あー、メニュウになんか載せなければ良かったなあ」老猿は本当に不安を抱えているようでシワシワの顔がもっとしわくちゃになって苦痛を訴えた。
「いまさら何を言ってるんだこの爺は」
セレンはもう知らないといった感じだった。
「まだかね」
険のある声だった。声の主はトラだった。二頭とも衣服は最新のもので固め、装飾はこれでもかというほどに贅を尽くした堂々たる出で立ちで明らかにお金を持ってそうだった。
「は、すみません。もう少しで出来ると思いますが、少しお時間を長めに頂ければ幸いなのですが…」
「ふん、本当にシャントワゾーを出してくれるのかも怪しいよ。こんな高いお金を取ってね」
「その辺は重々承知しております。必ず新鮮なシャントワゾーをお口に入れてご覧になります」
「ふん、生のシャントワゾーなどと言っておいて、乾燥だったらただじゃ置かないぞ。覚悟は良いであろうな」
「は、はいー。た、ただいま確認して参ります」
玄さんはちびりそうになりながら、厨房へ半ば逃げ込むように消えていった。
「料理長! もう私嫌ですよ。本当に大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫じゃ。ここにいるセレンが何とかしてくれる」
「しないっつうの。大体シャントワゾーはいつだよ。そんな伝説の魚が生で来るわけないだろうが」
「おまたせえー」
セレンはびっくりして尻餅をついた。そこにいるのはまさしく、噂に聞いたシャントワゾーのようであった。
48 ●グランシェフの資格の片鱗●
少し前。
「早くせい」
一頭のトラが更に弦さんににじり寄って、圧力をかけた。
「はい、ただいま。今ちょうど捌いているところです。もうすぐ、もうすぐですよう」
玄さんはそういいながら、キッチンのほうをちらちら見やった。
「お前そんなこと言って、本当にシャントワゾーなんだろうな」
「はい、それはもう」
「乾燥だったら承知しないぞ!」
玄さんの細い体は、トラが胸倉を片手でヒョイと摘むだけで高々と持ち上げられた。
「ひ、ひいい! 助けて…」
玄さんには足をばたつかせる以外、抵抗の方法はなかった。
そのときだった。颯爽というには長過ぎるほど瞬間的に、いと珍しき動物がエレガントな蝶ネクタイをしたまさしく正式ないでたちで現れた。瞬きをする間にいつの間にか居たといったほうが良いだろう。その動物は、トラたちに向けて言った。
「はいはいお客さん乱暴はおやめください」
「な、なんだあ? お前は」
「当店の食材調達係兼、給仕補佐のハリージと申します」
トラたちは新たに出現したこのウエイターに圧倒された。それは力とか体格ということではなしに、何か根本的なところで畏怖するような、そんな感覚だった。
「ハ、ハリージさん?! ハリージさんなんだね! 実在したんだ!」
セレンは眼を輝かせた。
「知ってるのか?」
「なんだよ、じいさん。ハリージさん、ここで働いてたの。それだったら最初に言ってよ。それですっかり、今までの謎が解けたよ」
「ふぉっふぉっふぉ。まさかお前とハリージが知り合いだとは思わなんだものだから。ハリージのこと知ってなきゃ、いくら説明しても納得せんだろう?」
「納得」
セレンは深くうなずいた。誰だってハリージのことを知らなければ、こんなからくりはインチキだと思うだろう。しかしハリージならそれが可能なのだ。なんでかはわからないが、いづれにしてもハリージならどんな遠くでも、それはもうほとんど瞬時に行って戻ってくることが出来るのだ。
「それよりこのシャントワゾー。じいさんどうするんだよ? 俺知らないよ。そもそもまったく初めて見るんだから」
「わしでも無理じゃ」
「だから出来もしないことを引き受けるから悪いんだよ。この耄碌じじい」
セレンはポカッッと殴られた。
「いてえ。何すんだよじじい」
「良いか? セレン。お前が調理するのじゃ。お前なら出来るはずじゃ」
「はあ? 勝手なこと言うんじゃないよ」
「いいややれ」「やらない」「やらない」「やれったらやれ」「ぜったいやだ」
延々と口論が終わらなかった。
「セレンやってあげたら?」
「やらねえって言ってんだろうが…」
セレンは言いつつも、どこか聞き覚えのある声だったことに気がついて、振り返った。
「あっ! ハナコ! ハナコじゃないか! どうしてたんだよ」
そこにはハナコが居た。
「いやあ、ハリージについて遠征に出てたんだよ」
二匹は久しぶりの再開に抱き合って喜んだ。
「いたのかあ! ハナコはハナコでもハナコ違いだと思ってたよ。豚の紳士だのなんだのってじいさん言うから」
「どこがだよ! 立派な猿だよ、これでも」そう言って胸を張るハナコの花はますますあがって丸い鼻面を見せたため、セレンには余計に豚の紳士に見えて笑いをこらえるのに必死になった。
「でも全然姿見せなかったからさ」
「いや、今まではとにかく暇がなかったし今日だってハリージと、シャントワゾーをつれて一緒に来てたんだけどセレン、お前は最初にシャントワゾーにひどくびっくりして、それからハリージにびっくりしたものだから俺にまったく気づかなかったんだよ。寂しいわ」
「ごめん。そりゃあでも、こんなものを見させられたらびっくりするよ」
「ああ、それよりこのシャントワゾー、すぐに弱って死んでしまうから、本当にすぐ料理してしまわないとやばいぞ」
セレンはシャントワゾーを見ながら困惑した。
「いやあ、そんなこと言われても」
「セレン、やるのじゃ。もうすぐシャントワゾーは手を施さねば生きながら腐っていく。その特性こそが、このシャントワゾーを幻の魚にしているのだ。だからほら」
事実、シャントワゾーは輸送だけで一、二週間もかかる辺境の生息地でしか元気で居られなかった。それは現地で活け〆して直ぐに冷凍しても無理だった。唯一、現地での乾燥のみが考えられる最善の方法だったが、それも極地法であるにもかかわらず比較的温度が高く、湿地帯でもあったためか、非常に困難を伴う作業で、それがシャントワゾーを比類なき高級食材にしていたのだった。
「そんなこと言ったってさあ」セレンは仕方なくそのシャントワゾーと相対峙した。すると突然ヨシナリにいた時最後に書かされたレシピがセレンの頭に浮かんだ。
「このためだったか」セレンは改めてシャントワゾーを見た。
そのつぶらな瞳は、魚類にはとても思えなかった。吸い込まれそうになって、見つめているうちにセレンは思わず頬が赤くなった。
「どうしてほしい」
セレンはやさしく、シャントワゾーに問いかけた。
「覚悟は出来てるわ。私、甘いものが好きなの。最後というなら一生に一度、その甘いものに浸かったまま料理されたいわ」
セレンは目を丸くした。あれ?
「おいハナコ。へんな声色使うなよ」
「俺なんにも喋ってないぞ」
「えっ?」
セレンは老猿のほうも見たが、老猿は、首を激しく振ってそれを否定したし、セレンもそれはないと思った。
「今聞こえた?」
「ぜんぜん」
老猿とハナコの声が一致した。セレンは改めてシャントワゾーのほうを向いて、まじまじとその綺麗なフォルムを眺めた。
「早く料理して頂戴」
「ええー!!?」
セレンは驚きを隠しきれなかった。これが伝説の伝説たるゆえんなのか? 話の出来る食材なんて!
「何を驚いているのか知らんが、お前は…、声が聞こえるのじゃな。お前、やっぱり…」
老猿は眩しいものを見るようにセレンを見た。
「やっぱり間違いなかった。お前は間違いなく猿ヶ谷の継承者じゃ」
「何だよそれ」
「食材の声が聞こえるのが何よりの証拠じゃ。わしは今まで食材と話をするのは比喩だとばっかり思っておった。しかしそれは本当だったのだ」
「みんな本当にわからないの?」セレンが問い詰めるとみんなは首を揃えて横に振った。
「さあ、セレン。思う存分に料理するが良い」
言われても戸惑うばかりだったが、今ではセレンは、シャントワゾーが本当に自分と話していることが良くわかった。
「良いから早くう。甘い甘いスープに浸して頂戴。私これ以上だと臭い匂いを発してしまうわ。そんなの耐えられないからあ。少なくともあなたにそんな匂いかがせられない」
セレンは意を決してシャントワゾーに歩み寄ると、形見の父からの包丁を取り出し、呪文を唱えた。そうして、優しくシャントワゾーをなでてから、目をつぶって静かにシャントワゾーの息を引き取らせた。
セレンはシャントワゾーの言うとおり、甘い甘いスープに浸して煮込んだ。その前にカルパッチョにするのも忘れなかった。甘いスープに浸すと、シャントワゾーはすでに息を引き取っているにもかかわらず、とても幸せそうな顔をしていた。セレンは合唱をした後に叫んだ。
「できたあ」
49
トラはニヤニヤと何か二頭で話をしていた。しかし、ウエイターが通るたびに不機嫌そうな顔を作り、無言の威圧を与えていた。その威圧に玄さんはまんまと見事に押されていたが、ハリージの方は別段気にしてはいないようだった。
「お待たせいたしました」
とうとう、そのシャントワゾーのカルパッチョからトラたちに供することになった。
「来たか!」
トラたちは疑いと期待の入り混じった表情で色めきたった。これが本当にシャントワゾーなのか。しかも生。トラたちは顔を見合わせた。そしてうなずくと一方がハリージに言った。
「本当に生のシャントワゾーなのだろうな? 嘘だったらわかっておろうな? 必ず公安に突き出して、この店を取り潰しにしてしまうからな」
「それはもう、絶対に自信があります。何せわたしが直接捕ってきたんですから、間違いありません」
「そんなわけないだろう」
「ホントです。信じてもらえないでしょうけど」
「ふっ、食べてみればわかることだ」
そう言ってトラはシャントワゾーの切り身を一切れ口に入れた。
トラはゆっくりと、そのシャントワゾーを咀嚼した。
「ふ―ん…」
トラの表情は変わらなかった。
「どうだ?」
一方が他方に聞いた。
「別段どうということはない。食べてみろ」
もう一方のトラもそのシャントワゾーを口に入れてみた。
「む、これは乾燥ではないか?」
トラはクレームをつけた。
「そ、そんな馬鹿な! カルパッチョがどうして乾燥になるんですかい? じっくり味わってください。嘘はついてませんから」
「まあ良い。次はないのか?」
ハリージは不満たっぷりに次の料理を持ってきた。
「シャントワゾーの姿煮、スウィートスープ仕立てでございます」
ハリージはこいつら本当に味がわからないのだろうかと疑った。もしまともな舌をしていたら、どんなに素人だって、その類まれなる美味珍味はわかろうというものだ。
トラたちはしかしまた、しかめっ面をした。
「なんだこれは? シャントワゾーが生だの言う以前に、料理としての質が問われるよ」
「どれどれ」
もう一頭もシャントワゾーを口に入れると、顔を左右に振りながら顔をしかめた。
「うーん、どうして甘くしたかね。食材に対する冒涜である」
「え、ええー? どうして? そんなことはないはずです。これは本当の生のシャントワゾーを調理したものですから」
「この際関係あるのかね? もし仮に百歩譲って生のシャントワゾーだったとしても、こんな料理に6000グルマンも払う価値なし。出るとこ出てもらうよ」
トラはハリージをにらみつけたまま立ち上がった。
「いくぞ」
そのままトラたちは店を後にした。
「ちょっとお客さん! そりゃないんじゃないの? ちょっと!」
トラはハリージが食って掛かるのをものすごいパワーで跳ね返した。そして倒れこんだハリージを威嚇した。
50
「ごめん」
セレンは頭を下げた。
「いや悪いのはワシじゃ。最初から出来ないことをやらせたワシが悪いんじゃ。まだセレンには早かったのう」
「ったく、あの客も客だよ。いくらなんでも原価くらい払えよ。全部食っといてよ」
「まあ実際原価はかかっとらんのだし」
「そうだけどさあ」
ハリージは悪態をついた。
しかし、今回は失敗したがそのあまりに大きなな額のお金のやり取りが成立したかも知れなかったことを考えると、まるで現実とは思われないような気がして、料理長をはじめ、ハナコ、そしてセレン、玄さん、ハリージはぼおっとしていた。
がちゃーん、がっちゃーん、がこーん。
どうやらホールの方からなんか争いごとが起きているようだった。みんなは顔を見合わせた。
「どうしたんだろう?」
「もしかして、またお客が怒って癇癪でも起こしたんじゃ…。ヤマウズラかなあ」
セレンは顔をしかめて気弱そうに言った。おじいさんも苦笑いをして少し責任を感じているようだった。
「た、大変だあ!」
弦さんがキッチンに駆けてきた。セレンは言われることを予想してか、思わず顔をそらし、ばつの悪そうに顔をしかめた。
「や、やっぱりクレーム?」
弦さんは息を切った調子で手を振って、声に出すのに少し時間がかかった。セレンは正直穴があったら真っ先に頭から入りたい気持ちだった。
「そ、そうじゃないんですよ。お客様同士でお皿を取り合いになってまして」
「どういうこと?」
「はい。何でもあのシャントワゾーのプレート。6000グルマンだってんで、庶民には一生かかっても食べれるような代物ではなく、一度で良いから残り汁だけでもと、お皿を舐めたお客様がいらして、そのう」
「その?」
「失神したそうです」
「失神?」
「そんなにまずかったのかなあ」
セレンはますます申し訳なさそうだった。
しかし玄さんは一生懸命顔の前で、蠅が百匹くらい居るかのように手を振った。
「いえいえいえ。逆です。美味しすぎてだそうです」
「えっ?!」
みんなはその言葉にびっくりした。
「それで今、そのお皿の取りあいが始まっているという次第で…」
「それ本当かよ。ちょっと確かめてみる」
ハリージはすぐさまホールに向かうとその持ち前の光のごときスピードで、すぐにその争いの中からお皿をぶんどると、それを持ってキッチンに引き返した。残された動物たちはそれとは全く気づかず、その中で強い力を持つ熊さんが今まさにお皿をなめんとして、舌をぺローンと嘗め回した。しかしそこにあったのはその直前まで争っていた、もっともその熊さんの嫌いな豚の紳士の顔だった。その豚の顔を丁寧にくまは嘗め回したあと、そのことに気がついたのか首を両手で押さえて、必死にはくポーズをした。
ハリージは一なめしてみた。
「うんめえー!」
ハリージは絶叫した。そして軒並みみんなもその残り汁を味見してみた。
「う、うわあ」
具体的な言葉はなかった。ただみんな残らず、目はうつろになり、口はだらしなくたれ、そこからよだれが止まらなかった。
「ちょっとあれ何? 変な顔したトラがいるよ」
「しっ、見るんじゃない。目合わすんじゃないよ」
鹿の親は小声で子供をたしなめ、その口を押さえた。
トラニ頭は口をだらしなく開け、よだれをたらし、目を見る限り完全に天国にいるようだった。それも二頭そろって。
51
王は鏡の前に自分の肉体を写し、うっとりとなった。
すごーい、かっこいい〜、いよっ! 世界一!
様々な心の声が去来して引ききることが無かった。実際よくここまで鍛えることが出来たと思う。思えば今までは自分の肉体がとても王にふさわしいとは言えなかった。それくらい前王との特訓は充実したものだった。自信もついたが前王の話によると上帝はそれどころではないということだった。王はそれを聞いてますます身体を鍛えた。真の支配者、真の王になるにはいつか上帝を倒さねばならん。密かに王はそう決意していた。
「___ですか? 王様」
急に声が耳元から聞こえてきて王は振り返った。
「うわ、なんだお前。いつからいたのだ?」そこにいたのは侍従二頭だった
「ずっと前から話しかけております」
「だからいつからだ?」
「最高! 世界一! と鏡の前で宣っていたあたりからです」
王はそれを聞いて赤面しそうになったがなんとかこらえた。
「ふっ、それは心の声である」
「やっぱり」
「う、うるさいわい。それより例の報告であろうな」
「は、かくかくしかじか」侍従は耳元で報告をした。王就任当時は控えめに言っても明らかに侍従の方が王にふさわしい感じだったが、今では間違いなく王臣の序が行き届いているようだった。
「むう、それほどか…。一度余も食してみたいものだ」
「はい、それはもう。この世のものとは思えませんでした。どうやってあれを手に入れたのでしょう?」
「わからんな…。しかしとかくお客は金額に騙されるものだ。高ければそれだけでその価値があると思い舌も騙される。そんな不正が許されるものではない。そうであればそのレストランを潰さねばならん」
「その辺はばっちりでございます。しっかりと言いがかりをつけておきました」
侍従二頭は誇らしげだった。
「うむ。金額マジックもあろうがそれほどの美味いのであれば、素材もそうだが、よほどの腕と力がなければ出来まい。今後必ず脅威になる。今のうちにその脅威の芽は摘んでおかなければなるまい」
ライオン王は前王との修行を思いながら言った。王にとって力の意味は王に就任してから、特に前王との修行を経てから著しく変化した。その修行は苛烈を極め、ライオン王は自らの力不足を否応なく知った。しかし前王との修行でわかったことで意外だったのは調理として必要とされる力よりも見栄えとしての力の重要性だった。それが最終的に集金に繋がるというのだ。それは調理の技術を上回るという。それでもライオン王は納得がいっていかなった。お金は確かに無視できないし、重要なのはわかっていたがそこはどうしても力を大事にしたかったのだ。それは料理に対する気持ちも同じだった。しかしいづれにしてもお金の流れに脅威を与える存在は潰しておく必要があった。
それは文字通りの力を持っているものに限定されなかった。力のシステムを脅かすもの。それらが排除の対象だった。そのためにも比喩的にこの王室よりも力を持ちうるレストランを野放しにすることは、決して許されないことであった。さもなくばそれこそこの王朝の存続を危ぶむものであった。
王は一番の力を持ち、それゆえ一番料理をうまくするのだ。それ故に余は王に選ばれたのだ。王の頭にはまた俄にセレンの顔が浮かんできた。ライオン王はどこかで、そのレストランにセレンの存在を感づいていたのかもしれない。
「さて、侍従よ。これからいよいよ、わが王立レストランをあまねくギンザ中に展開させなければならん」
ライオン王は威儀を正した。筋骨は逞しく今ではまさに王にふさわしい迫力を備えていた。
「はっ!」
「そのためにも例の変てこなレストランは即刻つぶすのだ」
「しかし王様。それを実行するには名目がなければなりません」
「うむ。しかしそんなものは必要があろうか? 余が命令さえ下せばよいのだ」
「しかしあまり無茶なことをすれば上帝陛下が黙ってはおりますまい」
ライオン王はそれを聞いて嫌そうな顔をした。
「また上帝か! 聞き飽きたわ。いったい上帝が何の力を持っておるのだ」
「上帝陛下に逆らうわけには参りません」
「ふん。そんなに上帝は力があるのかね?」
「さあ、わかりませんが…」
「侍従よ。聞くが上帝陛下とは何者なのだ? この世の統治者は余ではないのか?」
「王様。もちろんあなた様こそが、この世の統治者でございます。ただ上帝陛下はこの国が始まる時からおられる神のような存在。決して犯さざるべき存在といえます。それはいくら王様でも許されるべきものではござりませぬ」
「むうう」
王様は臍をかむ気持ちだった。
「上帝の権限は…、王の任命権だけではなかったか? だとすれば余のやり方に口出しをするのはやめてもらいたい」
「そのとおりですが決まりは王様とて勝手に変えられえませぬ。ですが王立レストランの繁栄は、上帝陛下のもっとも望まれているところです。王と上帝の財務は一蓮托生ですので」
「王の儲けにかかっているというのだな? 他にも徴税すればよいものを。王のみが徴税されるというのもどうも納得いかん」
「力のシステムを維持する上で致し方ないのです。その分援助も王室のみ受けられるのですから」
「ふん。まあ良い。王として余の力を見せてくれよう。今度はギンザの一等地に最高のレストランを作るのだ。金はいくらかけても良い。ギンザ中の金持ちを顧客にするのだ。最高の食材、最高のサービス、最高の料理を出すのだ。そして今まで手付かずだった路地の奥のほうにも、より庶民的な王立レストランを展開せよ!」
「はっ」
「そのために邪魔は徹底的に排除する。猿狩りの徹底だ」
「王様、それでは恒常的に猿料理が堪能できるというわけですね?」
「そのとおり」
ライオン王はほくそ笑んだ。
「さて、今日の料理は?」
「もちろん猿の料理のオンパレードでございます。脳みそスープなどまさに絶品で」
ライオン王の表情は今までと一変してもう締まることはなかった。
「セレンを見つけるまでは、決して猿狩りの手を緩めるな!」
「はい。もちろんでございます。それではと言っては何ですが王様。本日の猿を、王様自ずからお選びください」
ライオン王は言われるままに、トラの侍従に連れられて来た、今日処刑されるはずの猿を十匹ばかし吟味した。
「ええい、めんどくさい。まとめて料理してもらおうか」
「わかりました。どうせ毎日毎日猿が監獄に増えるので、却ってちょうど良いくらいです」
王様は満足そうに猿を見ていた。しかしその目の奥は決して満足していなかった。欲していたのはただ単衣にセレンの血だった。
52
満を持して王立最高級レストラン「キュー」がギンザの一番の一等地にオープンした。重厚な扉を開けて店内に入ると、きっちりとした正装の猿の給仕に迎えられ、給仕の案内で控えの間を通り過ぎ奥へと通される。その道中、そこかしこに世界中の辺境から集められた珍品宝玉や瑪瑙や瑠璃色の置物が品良く配置されているのが楽しめた。店内は薄明かりだったが、それらはごくわずかな明かりを頼りに通るお客に幻想的な輝きを届けていた。いよいよ扉を開け客席のホールに入ると、一気にパッと明るくなり、そこには飛びきりのおしゃれをした、いと高貴な動物たちがそのありとあらゆる食材に及ぶ料理を、心行くまで堪能していた。
客のお皿には瑠璃や瑪瑙、はては宝石をちりばめたものもあった。よく磨かれたルビー色のグラスには、この世で最高の液体、アバウールがなみなみとつがれていた。
キッチンでは現最高の料理人と誉れの高い、見事な体躯と鬣を蓄えたライオンが采配を振るい、従業員に檄を飛ばしながらも時折自ら手を出してはその力を存分に見せ付けていた。彼はビルドアップされたライオン王にも勝るとも劣らぬ筋力を持っているようで、鋭く力強く大きな爪は、硬い鋼鉄をも切り裂くかのように思えた。
料理長は今日のメインの大きな豚を軽々と抱えると、抗うのををいとも簡単に力でねじ伏せ、瞬く間にその鋭い爪で、そしてその鋭い牙で眼にも留まらぬ早技で解体してしまった。豚はギンザのはずれにある王立キュー専用の特級特別養豚場から毎日直送されていた。豚たちは数十頭無理やり洗浄され、生きたまま強引に冷蔵庫に入れられていた。豚たちは養豚場で特別に最上のえさを無理やり多く与えられ、丸々と肥育されていたために脂ののりがすばらしく、濃厚で冬場にはもってこいのブランド高級食材として特に人気が高かった。他にもシンバシ牛はもちろん、全世界から取り寄せた山海の珍味が王立キューに一堂に集められていた。
そして猿と並びこのレストランの最大の呼び物は、幻の魚シャントワゾーであった。この魚は幻とされ、よほどの大金持ちや権力者をのぞき、一般で未だ食したものはほとんど皆無といってよかった。それは環境が変わると生きながら腐っていくので、その場ですぐ食べるか、その場で活け〆にして乾燥させてから持ってくる以外なかった。瞬間冷凍しても身が台無しになるし、乾燥法にしてもシャントワゾーの生息地域は極北の地であり、たどり着くまでその環境の厳しさ故めったに動物が立ち入れないばかりか、そのシャントワゾーの生息地域は常にそれでも湿度があり、極北にも関わらずそこだけ暖かくその地域特有の奇妙な強いバクテリアなどの微生物も多いため、乾燥もかなり苦労が伴い、一般には誰も食べ物とはみなさなかったのだ。ましてやこのギンザで生食など想像さえしてはいけないものであった。
それを食べようというのだから、如何にコストがかかろうかということは容易に想像できよう。しかも伝説によればベストの状態で活け〆にしてうまく乾燥させることが出来たとしても、半分の確率で味が抜けてしまうことがわかっている。そして近年では元々多くはないシャントワゾーの数自体が減少傾向にあった。それほどに困難で希少な食材であった。
よってここ、王立レストラン「キュー」では1000グルマンの値段がつけられ、これはおよそ考えられるレストランの出費の中で最高の価格といって良かった。しかしそれがセレンのいるレストランでは6000グルマンだった。レストランといっても、内装から言って場末の定食屋の域を出ないセレンのレストランがこの値段をつけるのは、どう考えても常軌を逸していた。
一方、猿は依然として高級食材だったが、最近ではライオン王の政策により猿たちを乱獲して、王室直営でほぼただで独占的に仕入れることが出来たため、価格はそのままでかなりの利益を上げることが出来た。
「うわあ、すごい!」
客席ではにわかにどよめきが沸き起こった。猿の給仕により、丸々と太ったブランド豚が丸のままこんがり焼かれた状態で供された。そのメインディッシュは、腹の真ん中から詰め物がなされていた。それを給仕長のブルドック氏が切り分けてくれた。ちなみに給仕の仕事は殆どが猿だけでまかなわれたが、ことこういう切り分けは給仕長のブルドックまたはそれ以外の動物の仕事だった。いくら火が入って柔らかくなっていても鋭い爪の無い猿たちでは勤まらなかったのである。そうはいってもこういった切り分けは専用手袋で切りやすくもなっていた。
話を豚の丸焼きに戻そう。丸焼きの中は香草の香り高いミンチが詰められていた。それは芸が細かく、それでいて大胆で、よほどのパワーと技術がなければとても完成出来ない代物であった。死後硬直さえ許さない程の迅速な調理により出来上がった新鮮さはまがいもなく、ひとたび口に入れれば、現実的には有りえない仮定を許されるならば、一ヶ月でも熟成させたのではないかという柔らかさを誇った。タレは秘伝の極上ソース。その極上ソースを豚が飴色になるまで贅沢に何度も何度もまんべんなく掛けて丁寧に焼き上げており、えも言われぬほのかな甘みと旨みを長時間かけて引き出している。まさに調理技術の極みといっても過言ではなかった。それが光り輝くお皿で供されるのであった。
「これほどの豚を食べたことはございませんわ」
雌豹の貴婦人は、口に入れた豚をゆっくりと喉に通して言った。
「ありがとうございます」
「これだけ味を引き出して…、これだったら豚さんも家畜冥利に尽きるってもんではないですの? おほほほほ。で、次は何ですの?」
「はい。猿の脳みそのビスクでございます」
雌豹の表情がパッと明るくなった。
「まあ! いいわねえ。私好きだわあ。あの濃厚な…」
そう言って雌豹は舌なめずりをして、うっとりしていた。
「あら、ごめんなさい。あたしったら…。あなたのお仲間なのにね」
猿の給仕は若干どう取り繕っていいのか困っているようだったが、やはり教育が行き届いているのであろう。すぐ顔を引き締めて言った。
「いえ。わが料理長が料理してくださるのです。料理長は時期王様との呼び声の高いお方。その料理長に調理していただけるのですから、食材になるのが例え私になったとしてもかまいませんよ」
そう言って猿の給仕は微笑んで見せた。
「それなら今度はあなたの脳みそを食べてみたいわね」
雌豹は調子に乗ったが、さすがにそれ以上は猿の給仕も付き合ってはくれなかった。
「ちょっと! このシャントワゾーいただける?」
雌豹と猿の給仕は思わず声のする方に振り返った。シャントワゾーという言葉に反応したのである。さすがに最高級レストランとはいえ、シャントワゾーが注文されることはめったになかったのである。少なくともキューの開店以来初めてだった。一匹と一頭の視線の先には、美しい一匹の鹿の娘がいた。伏し目がちなその瞳が、一瞬目をあわせ、きらりと輝いた。
53
「な、なんなの? あの女…」
雌豹は鹿を見ていぶかしんだ。なおも雌豹は言葉を注いだ。
「この店にライオン族以外の動物がお客でいるなんて、このレストランも案外たいしたことないわね」
「は、はあ。申し訳ございませぬが、他のお客様の中傷はおやめくださいませ」
「あなた、猿の分際でよくそのようなこと私に言えるわね。どうなってるのこのレストランは。だいたい私の横に鹿の小娘なんて何ておこがましい。席替えてちょうだい」
「あのお客様は鹿の点家のご令嬢でございます。どうか他のお客様の中傷は…」
猿の給仕は小声でやんわりと雌豹を諌めた。そして図らずも、その効果は覿面だった。
「鹿の点家!」
雌豹はそう言ったまま絶句した。いくら世間知らずの雌豹といえども、その家の名は聞いたことがあった。そう、五大家のひとつ、鹿の点家は王族ですら侵すことの出来ない家という噂だった。その鹿の点家の令嬢は、シャントワゾーが運ばれると、たちまち軽く手づかみでひょいとつまんで見せた。雌豹はそれを見てすっかり元気がなくなったようだった。猿の給仕は、雌豹の方はもういい加減にして、令嬢に本日のスペシャリテを勧めに行った。
「本日のスペシャリテはそのう…」
「脳みそでしょ? あんたたちの」
「ご名答でございます」
「要らないわよ。あんた見ながらそんなの、食べられるわけないでしょう?」
そう言って令嬢はデザートも食べずに会計をして、店を出た。令嬢のテーブルにはシャントワゾーが半分以上残されていた。
54
街にはそこかしこに王立系のレストランが建ち始めていた。いずれも王立ブランドのおかげで大盛況だった。そして一方、廉価版の王立チェーン店も立ち上げ、一時一斉に値下げをしたため、町中の比較的庶民的なレストランは価格競争で大打撃を被り、たくさんのレストランが閉店を余儀なくされた。
「王様、最近ギンザの庶民的なレストランが一斉につぶれまして、民の不満が出ています。失業者が溢れ、このままでは何かとまずいのでは?」
ライオン王は怒気を隠そうとして隠せてはいなかった。
「まだ、セレンは炙りだぜんのか?」
「はい。いまだ消息は掴めておりませんが…これでは却って地下に潜るやも知れませぬ」
「まあ良い、失業者は身元調査を徹底した上、王立系で雇用してやれ」
「はい」
「大衆店にいないとなると、反対にとびきり高級なところにいるのか…」
「それは考えにくいかと。高級店は王立でなくとも徹底して身元も含め管理されており、王室への報告義務がございます。申告漏れは軽くても大金の罰金。重いものでレストラン取り潰し。最近は表立った猿の雇用も控える傾向にございます故」
「高級レストランには大衆店にはない罰則がある故というのだな?」
「はい。その通りにございます。高級店は認可制故」
「しかし庶民的だが高級な店もある。高級といっても額ばかりのな」
「例の店ですか?」
「侍従たちはまがい物の魔法に騙されているのだ。不当価格である。あの例のレストラン、生のシャントワゾーを出す、あそこを潰すのだ。やはりセレンは絶対にそこにいる」
「御意にござりまする。直ちに憲兵を送りましょう」
「いや、ここはなるべく目立たぬよう。閉店後を狙うのだ。騒ぎ立てられて上帝とやらの干渉があってもめんどう臭い」
「かしこまり候」
王様は振り返って、再び今日の晩餐のメインの猿を探しに行った。
55
「ちょっとちょっとお」
「おかしいよね? 今までこんなことって…回数多すぎ」
「あっ、来た来たよお…お犬様が…」
!“#$&%‘’&%%$&がってやるぜ。
「????何だって?」
「何とか…かわいがってやるとか何とか…」
「どういうことだろう? いまだに犬語は難しいや」
「馬鹿! お前悠長なこと言ってんじゃねえ。連れてかれるんだよ」
「うーん…短かった。来世はきっと犬で」
「いいか? 犬語じゃないんだよ、こいつらが喋ってるのは。紳士も言ってたろうが」
「犬が喋ってるのなら犬語だろう?」
「違うよ。ライオネス語という言葉なんだ。これは犬だけじゃなくここの辺りにいる連中はみんなそうなんだ。俺たちはそれさえマスターすれば家畜というものから抜け出せるらしい」
犬の仲買人は豚にけりを入れた。
「ぶひぶひうるせえんだよ。さっ、いいからこっちきな。かわいがってやる」
ぶひー、ぶひひー、ぶひ、ぶひぶひ。
豚たちは最初、抵抗したものの慣れたもので、案外覚悟は出来ているらしかった。犬を見ると、もはや命運が尽きたという風に捉えていたのであろう。
「ドイツもこいつも同じような顔しやがって」
犬は豚たちをしょっ引いていった。
ぶひ、ありがとう。ぶひ、どういたしまして。
豚たちの覚えたてのライオネス語が痛々しかった。犬はそれ以上聞きたくなかったのか、手を使わずに耳を動かして塞いだ。
ぶひ~。豚の鳴き声が一帯にこだました。
56
外はすっかり暗かった。夜空には暗闇に細く弧を描いた三日月が明かりを漏らしていた。狼の官憲隊は店をゆっくりゆっくり、少しずつ包囲していた。店が終わるのを待っていたのだ。それまで狼たちは隊長の指示の下、一糸乱れね規律を保ち、少しの無駄な動きをも排し、直立不動、目は上弦の三日月で、それが何個も集まっていた。
「おーい、セレン。まだやってんのか。飯にするぞ」
「うん、もう少しだよ」
セレンはオーブンを見つめ、耳を傾け、何事かオーブンに向かってささやいているようだった。セレンは完全に別世界に浸っているようだった。その中では小麦粉とフルーツがセレンに話しかけ、またセレンも話しかけた。セレンは彼らとともにどこまでも会話を続け、歩き、遊び、ダンスをし、議論を戦わした。
「うひゃひゃひゃ、すっげーなー」
ハリージは玄さんとお金を数えながら笑いが止まらなかった。
店内ではお客も既にはけ、料理長をはじめハリージ、ハナコ、弦さんは目が下弦の月のように有頂天になっていた。
「出来た? 出来たの?」
ああ出来たよ
「よーし!」
「おいセレン、誰としゃべってるんだ。早くこっち来な。最高売り上げだってよ」
甘い匂いに敏感なハナコがやってきた。
「いただき〜」
すかさずハナコはオーブンを開け、できたてのクッキーをほおばった。
「おい、ハナコ! はえーよ。乾燥行程がまだ」
「お! ばくうま〜」
ハナコはほっぺたがほとんど落ちていた。
「フフフ、どれ、わしももらおっと」
老猿は一口食べると言った。
「ちょっと甘過ぎじゃないか?」そう言いながらもう一つ懐に入れるところだった。
「あ、じいさん二つも! 嫌いならやめてくれよ」
「まあいいじゃん。甘過ぎるのはおとぎの国に通じるって言うし。自分は割と現実主義者じゃからちと合わんが他の誰かはきっと好きじゃ」そう文句を言いながらも老猿は止まらない感じだった。
「しかしよくやるな、感心感心」
「いや、シェフパティシエのハナコがやってくんないんだもん」セレンは少し鼻が高くなっていった。
「えー、俺、開発するの苦手だし」
「お前が得意なのは食べるのだけだろうが」
ハナコはセレンに小突かれた。
「あ、もうない! いつの間に。じいさん食べた?」
「わしは知らんぞ。ねずみじゃないかのう」
「とぼけてんじゃねえ、じじい。どう考えてもじいさんのお腹不自然に膨らんでるんだけど」
「いや、本当に食べてない」老猿は頑なに言い張った。それでも下手人は老猿だとセレンは確信していたが、呆れもあり照れもあり仕方なく話題を変えた。別の方から老猿を責めようとしたのだ。
「でも最高売り上げってすごいなあ。料理長のじいさん。ちょっとボッタクリ過ぎじゃね? これは儲かりすぎだよ」
「いいじゃないか、これで女の子連れて豪遊しよ?」
「はあー、いくつだと思ってんだよ? そんなことのために金儲けなんて、年を考えてくれよ」
「いいじゃん別に…、お前だって遊びたいだろ?」
爺さんはいやらしそうな笑いをセレンに向けたが、セレンは下を向いて赤くなった。
「馬鹿言うな!」
セレンはちょっと赤くなった。ハナコは首を振って爺さんに合図した。
「だめだよ、こいつ。まだそっちの方は経験がねえ」
「お前だって同じようなもんだろう」
するとハナコもほんのり顔を赤くした。
「そ、そんなことないよ」
「なんだお前ら、そんなおこちゃまなのか? 今度いいとこ連れてってやろう」二匹とも更に赤くなる。
「いいよ、そんなの」
「無駄だよ、料理長。こいつ鹿の娘に惚れてるんだから」
「鹿の娘? やめとけやめとけ。猿は猿が一番じゃ」
「うるせー、そんなの関係ねーよ!」
セレンは更に赤くなって怒り出した。
「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ。しかしお主も恋をするのだのう。で、どんなおなごじゃ? べっぴんかの?」
老猿はいやらしそうな顔で横からセレンの腹を小突き、問い詰めた。
「そ、そんなんじゃねえよ」
「ぐわっはっはっはー。こいつ照れてるぞ。ハナコ何とかしてやれよ」
「知らないよ、ははっははっはー」
笑いが止まらない閉店後の店に、ひたひたと暗雲が忍び込んできた。そしてそれは突然だった。
「そこまでだ!」
セレンたちの笑いが止まった。フロントの方で声が聞こえた。官憲たちがいっせいになだれ込んできた。セレンはどうしようもなく顔を伏せた。後ろを振り向くとすでに老猿の姿が見えない。どこに?
「ちょっと、なんなんだよ? もう閉店だよ」
ハリージが官憲たちに突っかかった。
その間、セレンとハナコは奥のほうから小声で老猿が話しかけるのを聞いた。
「じいさん?」
「セレン、ハナコ。これを」
「なるほど」
官憲たちはハリージを突き飛ばし、奥へと入っていく。
「料理長はどこだね?」
「ちょっと、ちょっと待てよ。あんたたち。どうして、どうしてだよ?」
「不当価格法に引っかかる。通報があった」
「馬鹿な! ボッタクリだとでも思っているのか? これは立派な計算の上に成り立っているんだよ」
「何を根拠にそんなことを言っておるのだ? 見たところ…」
官憲隊長はひょいとテーブルにかかったメニュウを拾い上げると、そのうちのいくつかを読み上げた。
「シャントワゾー、6000グルマン。こんなものが有り得るか?」
「そんなこと言ったって、生で出せばそんくらい行くわ。極北の地まで行って探して、ものすごいスピードで持ってくるんだから。もしそれを王立レストランあたりでやってごらんよ。もっと高くつくぜ?」
「王立レストランで出しているシャントワゾーは1000グルマンである」
「あれは乾燥だからだよ。乾燥だったらうちだったらその十分の一で出せるよ」
「いづれにしてもありえない」
「ありえるんだよ。この俺が持ってきたんだから」
「嘘をつけ」
「これが、嘘なのかい?」
ハリージはものすごいスピードで動いて見せた。しかし速すぎる上にそのまま元の位置に戻ったため、実際のところ彼ら狼たちの眼には、ハリージが動いているようには見えなかった。
「さっきからそこにいるではないか」
「えー!? ちょっと! あんなに速く動いたじゃないか!」
「まあそんなことはどうでも良い。それよりも通報があったのは間違いないのだ」
「トラたちだろう? あいつら嘘ばっかりだよ。皿なんかきっれいに平らげちゃってるんだから」
「私だったら乾燥のシャントワゾーでも平らげるがね」
「うぐぐぐ…」
ハリージはほぞを噛んだ。
「料理長に合わせてもらおう」
「ちょっと待てよ」
ハリージは隊長を止めるのだが後から後から狼たちがそれに続くので、圧力に屈せざるを得ない。この場合、力はスピードに優越するようだった。
「ああー、ちょっと待って」
狼は無視した。
「君、従業員かね? 料理長は?」
セレンに聞いた。狼たちは聞きながらどこかで見たような、といった疑いの目をセレン、そしてハナコに注いだ。
「お前、どこかで…」
セレンは被り物をかぶっていた。とは言うものの、いつ見破られるか心配で仕方がなかった。狼はなおも疑いの目でしげしげとセレンを穴が開くほど観察した。
「お前…」
「私が料理長だが?」
狼の背後から声がした。狼は振り向くと一瞬にして後ずさった。その圧力に二歩、三歩とじりじりと後退していく。そこに現れたのは大きな大きなライオンのかぶり物をした料理長だった。
うわあ、やったあ! セレンは内心ほくそ笑んだ。ライオン王以上の圧力だろう。寸法だけでもライオン王以上あるはずだ。
「何か用か?」
隊長は平静を装うのがやっとのようだった。下手を打てば自分たちが束になってかかっても食われてしまうかもしれないのだ。
「い、いえ。あのう、一応政府にここのレストランの価格が不当に高いというクレームがあったものですから…」
「で? 問題あったのか?」
料理長はなおも隊長ににじり寄り、圧力をかけていった。
「そ、そういうわけでは…。い、一応ご報告までに…」
ライオンの被り物はなおも隊長を見下ろし、圧力をかけ続け、隊長はこの場から一刻も早く抜け出したい気持ちでいっぱいのようだった。隊長の姿勢はライオンをよけるように折れ曲がり、ライオンはますます近づいて…。
「もういいか?」
「ええ、もう、もう帰りま…」
くんくん、くんくん。
何かの異変に気がついたのか、狼の隊長は鼻をくんくんさせた。そしてもう一度気を取り直して、恐る恐るながら、まじまじとライオンを見た。
狼の眼がきらりと光り、口元はにやりと牙をむいた。老猿はそれを見て一瞬にして凍りつく思いがした。
「だまされるところだったぜ。俺をだまそうとおもってもそうは行かない。こんな猿くさいライオンがいてたまるか!」
そう言って隊長はライオンの被り物を一気にひん剥いた。老猿の抵抗虚しく、そこにはどうしようもなく途方にくれた、年老いた猿の料理長が立っていた。
「ひったてえい」
「ちょっと待てよ! おい」
押し問答があったが、多勢に無勢。いとも簡単に五匹はしょっ引かれていった。
57
時代が下り、とある境界で
「うーん、とってもデリシャス」
「本当美味しい。夢がとってもジューシーで溢れてる。でもさ、これだけなんだよね?」
「ん? そうだね」
「最近本当に減ったと思わない? ここ二ヶ月くらいで目に見えて」
「二ヶ月?」
「いやだからこっちのじゃなくて」
「ああこっちのじゃなくてあたいらの時間か。まだ文明開化が始まる前はよかったなあ」
「魔女狩りの時なんて、やばかったらしいね。あ、でも標準地でいうとオウニンノランあたりだっけ? あたいらムームーマはまだ居なかったし怖がらせ系は苦手だけどその頃はほら入植ブーム真っ盛りっていうか、歴史始まってからずっとそうだけど。でもホントついここ最近だよね。あたいら本国じゃ変わり者で除け者だし。この先食べていけるんだろうか? どうしよう…」
「トマポーンのレッテルは逃れられないよ。とにかく最近じゃ子供たちからですら取れる量が格段に少なくなってる。でも大人じゃあね。やっぱり子供の夢にはかなわないからなあ」
「困ったな。昔は大人たちからでも容易に取れたのに…。これじゃああたいら本当食い上げだよ」もふもふとした体の存在たちがそれほど大きくないチューブを大事そうに吸っていた。
「放せ、放せよう!」
一行はめいいっぱい抵抗したが多勢に無勢だった。そして牢屋に放り込まれることになった。
セレンと料理長のおじいさんは調査の末今回の主犯格であり、更に指名手配犯だったということも判明して起訴されることになった。ハリージは調査の末、王室に協力することを条件に結局釈放になった。もっとも特に囚われたところでハリージのスピードを持ってすればいくらでも間隙を縫うことが出来るだろうし別段行動を制限されるわけではなかった。ハナコは指名手配ではあったが、当時から名前がわかっていなかった上に、ますます太って当時の原型をとどめていなかったためか、一応証拠不十分として釈放された。玄さんも余罪がなく、重労働を課され釈放されることになった。
58
「似顔絵と骨格が完全に一致しているようです。セレンです。もう一匹はカイレン」
「持ち物は?」
「こちらに」
王の前に犯人の持ち物が差し出された。そこにあったのはライオン王の爪とセレンの包丁だった。カイレンの持ち物には一枚のビスケットがあるだけだった。
「なんですか、このぺらぺらのナイフみたいなおもちゃは。やはり間違いなくこの王様の爪で犯行に及んだようですね。さすがに鋭い」
「さすがにこれだけ鋭いと、王様といえども怪我を負う訳ですね」
「ふふふ、まあそうだろう」
「こちらのおもちゃはどうしますか? ペラッペラで、何も切れませんよこれでは」
「どれ、貸してみろ」
そう言ってライオン王はそのセレンの包丁を手に取った。
「なんだこりゃあ。これじゃあたしかに何も切れない。あの瞬間、こんな奴を取り出したような気もするが…」
「いあもう間違いなく、おもちゃですよね。どうします?」
侍従はセレンのナイフを指していった。
「ふん、本人に返しても良かろう。冥土の土産だ」
「ビスケットもですか?」
「お前食うか?」
「とんでもございません。こんな薄汚い物をどうして口に出来ましょう? それに老猿の方は本人によりますと腹部ペラペラ症患者とのことです。実際腹部がぺらぺらと糜爛状に焼けただれているようで」
「ん? 聞いたことが無いな」
「感染の恐れもあるかもしれませんのでなるべく早めのご処断が良いでしょう」
「ふふふ、ならば尚更だ。土産に持たせろ。残務処理が終わり次第すぐに処断する」
「御意」
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結局、セレンと老猿だけが刑を受けることになった。詳細は王が最終的に判断を下すということで未定だった。実は案外事細かに法律は決まっていたのだが、実際猿にとって裁判はあってないようなものだった。不当価格法くらいでは、本来微罪の部類だったが、王の権限で超法規的にいくらでもいちゃもんをつけて極刑までもってくることが予想された。
「ちっきしょう。何だってそんな言いがかりを…」
「仕方なかろう。例えレストラン経営の不正は見当たらなくても、われわれはその前に指名手配だったのだ」
「だったらなんでもっと目立たないようにやらなかったんだよう。もっと庶民的な値段にしとけば、こうまで大事にならなくても済んだのにさあ。いい歳こいて女のことばっかり考えているからだよ。この強欲すけべじじい」
「仕方ない。どの道安く売ったってすぐ噂になっていたさ。実はセレンが来る前はそんな高い値段ではやってなんだ」
「そうなの? でもハリージが居てこそ成り立っていたんでしょう?」
「それはそうだが、ハリージが来てからも値上げなんかして無かった。ハリージのお陰で仕入れは必要なくなったしハリージはハリージで居心地良くしてくれたし店は繁盛するしで、ずっとこんな感じで出来たらなと思ったものじゃ。それにセレンが来てからも、庶民に対してはもっと安く提供していたんだ」
「なんだ、それならそうと…。でもいくらお客が金持ってたって、あんな値段をつけなくても…。それになんで俺が来たら値段を上げることになんかなるんだよ」
「うむ、迷ったのじゃがな…、もうあきらめていたのじゃ…。お前が来るまではな」
老猿はセレンを見た。
「あきらめていた? 何を? どういうこと?」
「正確にはお前の包丁を見るまではだが」
「包丁?」
「王朝の再興のことじゃ」
老猿の表情は険しくなった。
「王朝の再興? どういうこと? 今だって王様がいるじゃない」
老猿は首と手を左右に振って、否定した。
「今の王朝は傀儡じゃ。それに王様というても本当の権力者じゃあない」
セレンは初耳のこととて、目を丸くしながら老猿の言葉に耳を傾けた。
「傀儡って? 他に王様がいるってこと? そもそも包丁関係ある?」
老猿はそれには直接答えなかった。
「なあ、セレン。王になる条件って何じゃ?」
「王になる条件? …力でしょう?」
「いや、料理じゃ」
「それはもちろんわかってるよ。でも、料理をうまく作るにはどうしたって力が要るでしょう? 俺たちはそれを補うために工夫してるけどこの世は結局力の世界なんだ。それだったら今の王様以外やっぱり妥当な動物なんて見当たらないじゃないか?」
老猿はかぶりを大きく振った。
「本当にそう思うのか? 本当に…」
セレンは言われてみて、そのことを考えてみた。確かに、馬に豚小屋まで突き飛ばされた時はライオンよりも力があるのではと疑ったこともあった。そして、うちの常連だった熊さんも、力だけだったらライオンよりもひょっとしたら強いかもしれないと思ったことは何度かある。しかし正直セレンにはわからなかった。
「わからないよ。でもわかっていることは少なくともみんな俺よりもずーっと、力があるってことだよ」
「力だけだったら確かにそうだろう。でもお前はだったら料理が下手なのか?」
「いや、そう言う訳じゃないと思うけど…、やっぱり力が無いから料理がうまいと言えないや」
「いいや、お前はまだ料理がへたじゃよ」
「なんだよ、そりゃじいさんみたいにいろいろな技術は無いけどさあ」
「ふふ、まあ料理はまだまだのところがあるがな。でもな、それは力が無いからじゃない」
老猿はさっきにも増して真剣な顔をした。
「良いかよく聞け。本当に王族になるべき動物はライオンなんかじゃない。それは、猿なのだ。そしてその王になるべき猿こそが――」
老猿はセレンを見た。
「セレン、お前だ」
セレンは何を言われているのかわからなかった。
「俺が? どうして…。料理が上手いのが一番だってのはわかってるけど、その前提には力がある。だから結局はこの世は力なんでしょう? どうして力のないこの俺が? それに料理が下手だって言ったばっかじゃないか」
「本来料理と力には何の関係もない。まやかしだ。現にあの王はセレン。お前も気付いていると思うが恐らくお前のおかげで王様になった」
「でもあれは父さんの形見のお陰だよ」
「その包丁を作ったお方こそがプリンス。お前の父上だ」
「ええ!?」セレンの中でいろいろなものが一つに繋がったような気がした。
「あの大会の審査の場には実は五代家のわしの仲間が潜んでいた」
「????? 五大家って?」
「五大家というのは前の王朝から続く五つの特別のお家で、絶対不可侵の家系なのだ。例えそれが王様であろうと侵すことはかなわん」
「?? 爺さんはその五大家だったの?」
「側近じゃ。わしは猿族じゃから、その五大家の中でも王族の猿ヶ谷家にお仕えしておった。宮廷の料理部所属じゃった。そこでは副料理長として仕えていた。先々代には随分とかわいがってもらったもんじゃ」
セレンはいつになく神妙に老猿の話に聞き入っていた。
「それで、その今の代がおまえなのだ」
セレンはそんなことを言われてもという気持ちが正直なところだった。
「猿はもともと奴隷なんかじゃない。王族なのだ。中でも五大家の猿ヶ谷王家こそが本道。その唯一の子孫がお前なのだ。わしはお前に出会うまでは、漠然とこの世界を何とかせねばと考えていたが、やがて年月がたち、時代が変わり、細々とだが暮らしていけるしこれはこれで仕方が無いのかとも思った。しかし、お前と出会って考えを変えた。だって、あの先代の子孫がまだ生きていたのだ。それにわしももうそんなに長くはないと思ったし、そのためには先立つものが必要だった」
「お金儲けでしょう?」
「ああ。でも目的がある。我が猿族の再興、そしてサルが谷王家の再興、これこそがワシの最後の願いだった。そのためには現実的にどうしてもお金が必要なのじゃ。五大家の中で唯一奴隷に滅せられたのが猿が谷家。そしてそれを奴隷に陥れたのは、あろうことか今の上帝なのだ」
「上帝?」
セレンは以前にもその言葉を聞いたことがあると思った。どこでだろう?
「その上帝こそが実際この世を支配している存在であり、権力者なのだ」
セレンはいきなりのことでいったい何を信じていいのかわからなかった。いったい上帝とはそもそも何者なのか?
「上帝による王権の簒奪、そして支配の時代以降、ワシは失意のどん底だった。わしは当時料理長とヨシナリでお店を開いたが結局対立した。料理長は猿が谷近くのヨシナリで伝統的な料理を伝えていくと主張したが、わしはそんなんじゃ間に合わないと思ってギンザに出てきた。たとえ片隅でも密かにやって、来るべき時が来るまで待つしか無いと思っておった。結局上帝の支配は力を宣伝にしたグルメと見せかけた、お金集めなのだ。これに最終的に対抗するにはやはり力とは違ったグルメの力によるお金集めしか無い。しかしやがて時がたち、上帝はますます盤石な支配体制を敷いて最早抵抗は不可能なほどまでになっていた。そんなあきらめムードの中なぜかお前が現れたのだ。最初はそれでもただのちび猿だと思った。まさか子孫が生きてるなんて思わなかったからな。しかしお前の包丁を見た時、わしは飛び上がらんばかりにびっくりした
お前の父上、プリンスは呼び名の通り王子だったが最後まで王族宗家の掟だった料理人にはならず、その代わり当代一の刀鍛冶になった。超稀少の金属に先代のみ持ちうる高度な金属加工を施し、生化学的な処理も施されている。あんなのを作れるのは先代しか居ないし、それを使いこなせるのは選ばれし者のみ。知らなければ誰が見てもただのおもちゃだろう。恐らくセレン、お前のためだけにわざとおもちゃに見えるように作ったのだろう。しかしあそこに刻まれた紋章。あれこそ王の紋章なのじゃ。ワシはそれを見て心底びっくりしたわい。まさか未だ猿が谷王家の子孫が生きていたとは! そう、お前の生まれる前、お父上の幼きころ、クーデターが起き、王朝は滅ぼされた。だが五大家は猿が谷王家を除いて残された」
「…………」
「猿族その他は散り散りになったが、四家は利用価値が高く身分外の者として取り潰しを免除されたのだ」
「四つの家って?」
「まずリス、ねずみ、鹿、そして狸。この四種族の中のそれぞれの特別な家のことを指すのじゃよ。彼らは神聖不可侵としてライオン族をはじめとする貴族はおろか、王様ですら侵すことは出来ない。彼らは決して腕力のような力は無いが、物理的な力以外のありとあらゆる力を持っているんじゃ」
「例えば?」
「まず高鼠家。つまりおネズミ様は、主に頭の力がある。発明の神様と言ってよい。
そして鹿の点家。当主は雌が代々受け継いでいる。これは美の力。美のカリスマじゃ。
それにリスベル家のリス伯爵。これは親密力。そっと忍び寄っていつの間にか親密になってしまう力。
そして似狐狸家。つまりお狸様。こちらは化かす力。悪く言えばだます力だが。まあよく言えば宣伝とかにも使える力。彼らが集まると、とてつもない力を発揮するのじゃ。まあ力のシステムを大々的に宣伝したのはお狸様の力と言って良い。いずれにしても四家は今の力のシステムの構築、維持に最も貢献している家だと言って良い」
「どういうこと? それって王様よりも強くなるの?」
「ある意味そうじゃが…、いや、もちろん腕力じゃないぞ。社会を動かす力があるんじゃ。まあ、有り体に言えば財を生む力じゃ」
「財を生む力? それって何馬力?」
「いや、だからその力じゃないっつってんだろうが。いっぺんそこから離れろ!」セレンは必死に老猿の言葉を咀嚼しようとがんばっていた。
「確かに…、そうだよね…。でも結局僕たちからしたら敵ってこと? 今のシステムを維持してるのはその動物たちがいるからなんだよね? それじゃその動物たち、居ない方が良いんじゃないの?」
「いや、そうとも限らん。裏切りというものも居るが、わしはそうは思わん。わしはきっと猿族の中から立ち上がる者を待っているのだと思っている」
「でも、」
「彼らは自分たちの力を蓄え、いつでも時が来たら我々を助太刀してくれる。そのはずだと信じたい。そしてその力がそう。だから、これなんじゃよ、これ。お金じゃ。正確には彼らの力はお金を生む力じゃよ」
そう言って老猿は親指と人差し指で輪っかを作った。
「お金!」
「そう、この世で一番力のあるものは、実は腕力でもなんでもない。結局現実にはお金の力なんじゃよ。もっとも腕力はお金を稼ぐには一番わかりやすい力になってるがな。もちろんそれ以外の方法はある。その方法を彼らが持ってるのだ。結局なんにせよお金があるのが強いのじゃ」
「でもその前に料理なんじゃないの?」
「そんなの嘘じゃ」
「え!」
「力は猿族を抑えるためのもの。非力な猿属を隷属させるためのもの。そしてそれでも料理が重要なのは料理がもともとうまい猿族への当てつけじゃ。だから料理がうまく無くっちゃダメだというのは…、少なくとも今は…もっと偽りの建前じゃ」老猿の頭にあったのはかつてヨシナリで口論した料理長の顔だった。
セレンは呆然としていた。小さなころから力が絶対だと思わされていたセレンにとっては、俄かには老猿の言葉は受け入れがたかった。それ以上に料理の上手さがそれほど力を持たないという老猿の言葉が一番衝撃だったかもしれない。
「いいかセレン。だから、だからこそお金を稼ごうと、本当の力をつけようと考えたのだ。猿が谷王家のために、いや猿族再興のためにこそ」老猿の言葉は、どちらかといえば自分に言い聞かせるようだった。
セレンは静かに老猿の言葉を聞いていたが、だんだんと怒りがこみ上げてくるのを押さえては置けなかった。
「じゃあ、爺さんは金儲けのために料理をやっていたのかよ」
老猿は少し驚いた。
「いや、だから、われわれ猿族のためだといっているだろう。この隷属状態から一刻も早くわれわれは脱しなければいかんじゃろ」
「………俺は嫌だ」
老猿は意外な顔をしてセレンを見た。
「奴隷のままでいたいのか?」
「もちろん嫌だ。でも爺さんがやってるのはお金の奴隷だよ」
「…仕方ないだろう? これも猿族のためだ。お金はそのために必要なのだ」
「お金は必要かも知れないけど、なんでも買えるのかも知れないけど、とにかく俺は、料理がしたい。お金のためじゃない。お金がなくったって、力がなくったって、とびっきりうっとりするようなおいしい料理が作りたいんだよ。この気持ちはどんなにお金を積まれたって手放せない。そんな料理が出来るなら俺は逆にいくらだって払う。お金ないけど」
「…………」
老猿はセレンに、仕えていた王様の姿を見た気がした。ちょうど若き日の上帝に対してセレンと同じことを言っていたのだ。いつの間にか自分自身があの上帝と同じ考えをしている。老猿はそう考えるといたたまれなくなっていた。それをこの若い、幼いと言っていいセレンにたしなめられている。しかし今では幼稚とも思えるその理想が同時に、かつて猿族を破滅へと導いた理由でもあったのだ。
「いいかセレン、先代先先代のことはともかく、ヨシナリの犠牲になった猿たちのことは忘れるな」老猿が言い終わるかどうかのうちに外から声がかかった。
「おい、お前たち」看守がいつの間にか来ていた。
「こっちへ来い。王様がお呼びだ」
二匹は看守に連れられて王様と謁見することになった。
「何! 生のシャントワゾーだと? そんなことがありうるのか?」
「しかし現にそれを出していたと…」
「むうう、食べたい。是非…」
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ライオン王はセレンを前にして溜飲が下げられたような表情を浮かべていた。
「よう今まで、この王をおちょくってくれたわい。セレンよ」
「だからどうだっていうんだよ。あんたが悪いんじゃないか。力づくで俺をとって食べようとしたんだから。食材の喜ぶように調理をしなけりゃ最高の料理はできないよ」
「ふふ、くだらん。猿の分際で小ざかしいことを言いよる。まだ、余が一介のレストランの料理長であればお主も助かる見込みがあったのかも知れんが、ふふふふ。お前も運が尽きた。今では余はこの力の帝国に君臨する大王である。まさかお前も余が王になろうとは思いもしなかったであろう」
「どうだかねえ…」
セレンは嘯いて見せた。それが今では大王と名乗るライオン王を苛立たせた。
「ぬう、何を言いたいのだ?」
「へっへー、本当に実力で王様になったのかなあなんて、思ってるだけだよ」
「むうう、何を申すか!」
「まあ本人がそう思うなら勝手だけどね。あのミンチがなかったら王様になってたかねえ」
王は大会のことを思い出していた。王様の中で兼ねてより恐れていた疑惑の炎が急に大きくなり、今まで築き上がった自信と誇りの氷柱が音を立てて氷解するようで、王はすぐにそれをかき消そうとした。そんなはずはない。運もあったかもしれないが、ここまで来たのは余の実力があってこそなのだ。決して、このセレンが…。
「だ、黙れ! 死刑だ! 侍従よ、この者と老猿、二匹を即刻処刑台へ連行しろ」
「ちょっと待ってよ。本当のことを言っただけじゃないか。何が悪いんだ?」
「早く処刑台へ」
「はっ、上帝陛下の承認を早速賜りまして」
「そんなの知るか! 官憲ども! 二匹を連れて行け!」
「さあ来るんだ」セレンと老猿はめいいっぱい抵抗した。
「おい、いい加減にしろ。おーい!」抵抗も虚しく、セレンと老猿は犬たちに処刑台に連れられていった。
「ものすごい勢いで刑台房に向かっております。王自ら死刑に処すると意気込んでおります」
「馬鹿な! すぐ止めるのだ」
「しかし不当価格法違反に加え指名手配犯だった故妥当性はございますが」
「そのようなことがワシに関係あるか? 手前勝手に作ったくだらん法律によるものじゃろう? 重税を掛ければ良いものを、馬鹿げておる。所詮はまぐれの非力筋肉バカが考え付きそうなことじゃ。とにかく世は生のシャントワゾーが食べたい。即刻そのセレンとやらを釈放し、ここに連れてくるのだ! これでは王の廃位も考えねばならん」
「かしこまりました」直属の近衛の一頭がすぐに王のところに向かった。
「そもそも死刑執行は許可制にしたはずだぞ。王による猿の乱獲でムーマーマの餌が足りないのだ。勝手に王による処刑はならん。あいつがムーマーマをはじめとするやつらの餌を作れるならまだしも出来もしないくせに勝手なまねをしおって。まだその猿に作らせた方が良いわ」
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「さあ、入るんだ」
ライオン王が自ら立会って、セレンと老猿は処刑室まで連れてこられた。入った部屋の奥には檻がついていた。そしてその檻の奥には飢えた獣たちが、餌が投入されるのを今か今かと待ちわびていた。
「安心せよ。あやつらにお前たちをあげる訳ではない。この場を借りるだけ」
セレンの姿を見て、見たこともないような獰猛な動物たちはほえまくった。その野生の動物たちは一週間にもわたって殆ど何も餌を与えられないでいた。実際には王が猿を横取りするために餌が回ってこなかったという方が正確だったかもしれない。
「ふふ、セレンよ。お前には特別に余が死刑執行者になって進ぜよう」しかし王の言葉に真っ先に反応したのは侍従だった。
「それはなりませぬ。昨日更新されたギンザ刑法においては死刑は上帝陛下のご許可を賜った上で専門の処刑官によって速やかに処刑をするというのが決まりとなっております。まだそのご承認が下っておりません。刑法は聖法ですぞ」
侍従がいさめるがライオン王は聞く耳を持たなかった。
「うるさい! 決めるのは俺様だ!」
言うや否や、ライオン王は物凄い形相でセレンに飛び掛った。物凄い轟音がセレンの耳元を掠める。セレンはすんでのところでそれをかわした。しかし王は再び嵐のような、そして確実に料理長だったころよりも比較にならないほどにパワーアップしたその腕っ節でもってセレンに襲い掛かかった。セレンはそのスピードも段違いにアップした王の動きに、瞬く間に捉えられてしまった。
「ふふふ、さあ捕まえたぞ、猿。今度こそは観念しろ」
「王様、どうか御自分でおやりになるのはお止め下さい」
「何故だ? 何故猿に直接手を下してはならない?」
「上帝陛下の定められた聖法を破ることはたとえ王様でもできません。処刑の執行は処刑官のみ。上帝陛下の御許可無くなさることだけはどうか…」
じょうてい? じょうていってあの上帝か! セレンは頭を抑えられながら思った。
「へん、なんだい。王様ったってたいしたこと無いじゃないか。許可をもらわなけりゃいけないんだろう? なんだったら言いつけてやろうか。あの大会の料理は俺が作ったって。その“じょうてい”やらなんちゃらって奴に」
「なんだと! 何を言うか!」ライオン王の表情は明らかに動揺しているようだった。
「王様!」丁度今度は別の侍従が急いで王のところに馳せ参じた。
「何だ?」
「たった今上帝陛下が、即刻此度の処刑を止められるようにとのご命令でございます」
「な、なにい…小癪な」
「更に直ちに釈放の後、二匹に謁見をさせる勅命が下されました」
「ばかな! ありえんわ」セレンは隙に乗じてライオン王の手から逃れる方法を模索していたが、思いのほか王の手はセレンをがっちりつかんだままだった。
「ほら、どうなんだい? 上帝陛下の言うことに従わなくて良いのかよ?」
「う、うるさい! 余はこの王国の王である。上帝が何者だというのだ! 誰が権力者かわからせてやるわい」
「王様そのようなことをおっしゃいますな。今ならまだ間に合います。どうか王様」
更に別の侍従が来て、ライオン王に耳打ちをした。セレンには聞こえなかったが、ライオン王の表情がにわかに変わった。
「お、おのれい…、いっそ、この場でこやつらを…、いや…、ぐぬぬ」」
ライオン王はこぶしを固め怒りをあらわにした。しかし、それと同時に脂汗がたてがみにも滴り始めていた。
「侍従よ」
ライオン王は別の侍従を呼びつけた。
「わかった、決まりは決まりだ。悪法もまた法なり…か。そこの部分は法に従おう。しかし勅命は死刑執行のあとに聞いたことだ。ふっ、そこの二匹、その檻に突っ込んでおけ」
そう言って王はセレンとその近くにいた老猿を引き渡そうとした。セレンは何とか逃げ出す隙を窺っていたが、たとえ王の手を逃れてもこのたくさんの侍従たちの手を逃れることはできないことはわかっていた。
「しかし、このもの達の釈放は上帝陛下の命ですぞ。上帝陛下に逆らうのですか?」
更に侍従たちは王の命令を拒否する形となった。
「直前になって言われても遅いわ。聞く前に一歩遅かったと報告すればよかろう」
「それは致しかねます」
「上帝に報告されんのが嫌なんだろう? あの大会は自分の実力じゃないって」ライオン王の顔はセレンの言葉に完全に理性を失ったようだった。
「よいわ。おまえがやらないのなら余がやる」
そう言ってライオン王は再び二匹を手繰り寄せると、そのまま強引に檻に放り込んだ。
「うわあ、いてえ」
「ほら冥土の土産だ」
ガチャリとその堅牢な扉が閉められる音がした。同時にセレンの包丁の形見と老猿のビスケットが投げ入れられた。
「お前たちの最後が見られなくて残念だな。何が上帝だ。成敗してくれるわ」
ライオン王はそう言って処刑室を後にした。
「お待ちください。それだけは、それだけは王様」
侍従は力でライオン王を止めようとしたが、もはやライオン王にとってかつての強大なトラの侍従は名実ともに敵ではなかった。ライオン王は抑えるトラを引きずったまま上帝の神殿へと向かった。
62
「お待ちください。お待ちください、王様。上帝陛下だけは、上帝陛下だけは…」
「うるさい。もう我慢ならんわ。居場所はもうわかっておる。今日こそその正体を暴いて成敗してくれるわ。誰が上かをわからせてやる」侍従は王をなんとか止めようと食い下がったがほとんど引きずられていた。そしてそれをも王は振り払った。
王はずんずんと、王宮の奥にある神殿の方まで進んだ。
門のところまでやってくると、意外にそこにいたのは前の王だった。
「なりませぬ、ここを通るなら私を倒してから行きなさい」
「ふっ、前の王ともあろうお方が、落ちたものよ」
ライオン王はひるむことはなかった。前の王に果敢にアタックすると、しばらく爪ぜり合い、牙ぜり合いがあったが、とうとうこれを力でねじ伏せた。もはやライオン王を止めるものはいなかった。ライオン王は前に立ちはだかる狼たちの憲兵を蹴散らし、とうとう上帝の住まう奥の院の禁断の扉を開けた。長い通路を駆け抜けた。そしてついに突き当たりの一室の中に入った。
「うわあ」ライオン王はまぶしくて片目を押さえた。恐る恐る眼を開けると、白く輝いていた中に、うっすらと朧だがとても巨大なシルエットが浮かび上がった。王は後じさりしそうになったが心を落ち着けてよく見ると白い絹のような光沢を放つ覆いがあった。
「どこだ? 上帝とやら…」王は覆いを勢いよくはぎ取るとまた同じ覆いが現れた。王は再び白い光沢の覆いをはぎ取った。
現れたのはまたまた光沢のある白い覆いだった。もう一枚。ライオン王は次こそと勢いよく覆いをはぎ取ったが、次も、その次も現れるのは白い光沢の覆いだけだった。どうやら覆いは幾重にも幾重にも続いているようだった。ライオン王は絹の覆いをかき分けシルエットの正体を追って奥へ奥へと進んでいった。永遠と続くかと思われるこの絹の覆いも、真ん中のルエットだけが次第次第に濃く、巨大になっていた。恐らく多くの歴代の王が上帝に反旗を翻し、そしてこのシルエットの次第に濃く、巨大になっていくのを見て途中で引き返したのではないか。王はそう思った。だとしたらその先に行くのは余が初めてかもしれない。王の鬣には脂汗がつたった。
めくり続けると光沢を放つ覆いは急に無くなり最奥部の壁のような覆いにぶつかった。そこでシルエットはすっと消えていた。
「ふっふっふ、そこにいるのはわかっておる。上帝よ、よくも今まで余のやり方に邪魔をしてくれたな」
ライオン王は分厚い覆いの向こうの存在の返事を待った。しばらくしてとうとう上帝のものらしき声が、発せられた。
「良くここまで来た。褒美を取らすぞ」
ライオン王は返事をする代わりにその最後の覆いをひっぺがえした。
「!!」ライオン王は思わず悲鳴をあげそうになり、のけ反った。
大きな、二つの目が、ライオン王を見下ろしていた。ライオン王よりはるかに逞しいその体躯。これが上帝! ライオン王の頭には一瞬にしていろいろなことが去来した。
「どうした? 何を恐れている?」
「お、恐れてなどは…」ライオン王は脂汗が止まらなかった。心なしか目も霞むように感じていた。
ライオン王は自信を喪失していた。なんだか捕食される猿の気持ちがわかる気がした。自分がおかしくなったような気もしてきた。上帝を見れば見るほど平たく、平面に、二つに分かれるようになったのだ。かすかな違和感はあったが、何か魔法にかけられているようなそんなふわふわした感覚があった。
何かがおかしい。あるいは自分がただおかしくなっただけかもしれないが。眼もますますかすむ。
ライオン王は覚悟を決めた。このままでは猿と変わらない。今まで誰にも負けないくらい修行を積んできたのだ。ライオン王はもう一度良く上帝を見た。この違和感…。なぜ、薄い? なぜ二つに分かれているのだろう。これって…。
上帝が双子でも分身しているわけでもないことだけは王には確信が持てた。何かがある…、からくりが。
いや、やっぱり…。
疑念は更に大きくなった。それはとどまること無くライオン王の頭をかけめくり、いつになく王の頭はフル回転した。
「引き返すなら今のうちだぞ。ここまで来たからにはただでは帰さぬぞ」二体の上帝は更にライオン王に詰め寄ったがしゃべるのも動きも完全に同時だった。ライオン王は確信した。
これは、
魔法ではない…、いやホログラムだ!
ライオン王は確信した。これは間違いなくホログラムだ。ライオン王が片目であるがゆえに気がついたのだ。よく見るとその上帝は、明らかに身体の向こうが透けて見えていた。
「恐れてなどおらぬし引き返すつもりも無いわ」ライオン王は、今度ははっきりとした声で返した。そして、目の前の半透明の上帝の身体をすり抜けた。
「さあ、どこだ? 本物の上帝様よ」
ライオン王は、勢い良く飛び込んだが、そこには誰もいなかった。
「どこだ!」
「お前の目の前だ」確かに返事があったが、ライオン王には見えなかった。
「どこなんだ?!」ライオンは右往左往した。どこにも見当たらない。
「だからここだよ、王よ」ライオン王は前方を凝視した。どうやらそこにはもう一つの覆いがあり、ぼんやりとかすかにシルエットが浮かんでいるようだった。
「ときにあの生のシャントワゾーを出すとかのコック。あれはどうしたのか? まさか処刑はしてないであろうな」上帝はライオン王の非礼に対して何ら頓着している様子を見せずに話しかけた。
「どこからしゃべってるんだ? いい加減姿を見せろ」
「だから目の前におるといっておろう。それよりも答えよ。猿のコックはとうしておるのだ?」
「ふっ、今頃野獣どもに食われているだろう」
「なに!」瞬間、覆い越しのシルエットからも上帝の毛は総毛立ち、にわかに上帝の怒気が伝わってきたかのようだった。
「あれほど釈放しろと言ったものを。言うことが聞けぬと申すか」
「悪かったですね。ご勅命が届く前にもう既に処刑房に放り込んでおったあとでして、どうしようもありませんでした」
「もったいない。そもそも死刑の執行を世の許可制にしたはず。貴様、知らないですまされんぞ」
「知る前に処刑させましたので、前もって知っていれば」
「わしに逆らってただで済むと思うのか?」
「うるさい。知ったことか! 逆らうも何もそれを決めるのは俺様だ」王は見えない存在に悪態を吐いた。もはや上帝を遅れてはいないようだった。
「よいか、悪いことは言わない。すぐそのものを釈放して、ここへ連れてくるのだ。さもなければ貴様の王位は最早無いものと思え」
「ぬかせい。もう手遅れだ。なんと言おうと俺は王だ」そう言ってライオン王は猛然と覆いの向こうに走り抜けた。
「どこだ?」またしてもそこには上帝は居なかった。
「だからここだって」間違いなくどこにも上帝はいない。ライオン王はそう思った。ただ、向こうに良く整えられたテーブルの上でディナーを楽しんでいる、小さな猫を認めただけだった。猫はライオン王の出現に一つもあわてる様子が無かった。
「いや、どこだ? 猫ちゃん知ってるかな?」王は猫を見るでもなく尋ねた。
「だからここにいるっつーのにゃん」
「まさか!」ライオン王は驚きのあまり周囲を見渡したが、どうやらその声の主がそれと認めるのに時間がかかったようだった。
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「まさか、そんなことが…上帝は猫か!」
「み〜た〜な〜。ふふふ、だが世はただの猫でないぞ」
「なんと! これは驚いた。上帝は…、上帝とはお前のことか?」
「よくぞ来た。この秘密は守れるな?」最初は小さな子猫だと思ったがよく見るとかなり年を取っているのは明白だった。そして太っていて猫にしては案外大きめだった。
「…ははあああ、はは、はっはっはっはっはっは。これは良い。上帝がこんな猫だったとは! 今すぐ公表だ!」
「猫ではにゃい!」どうやら上帝はむきになると語尾が変わる傾向にあるようだった。
「俺様からすれば虎も猫よ。どういう経緯でお前が上帝という訳の分からん位についたのか知らんがもう終わりで良かろう。そのままお前の死によって解放してくれよう。すべてを世に暴き、これから俺が真の支配者として歴史に名を刻むのだ」
「ふふふふふ、よく言うわ。インチキ王が。秘密を守れないからには仕方がない。わしの正体の秘密を口外するものは成敗されなければならぬ。秩序のために」
「ふ、何を言っている」
ライオンは余裕だった。歴代の王がこんな得体の知れない動物、いや猫一匹に踊らされていたとは笑止だった。しかし今このライオン王が始めてその禁断に踏み入る。いやそれを握りつぶすときが来たのだ。
「死ねえ」ライオン王はじりじりと上帝に近寄った。
「仕方ない。お前が如何に力不足かを思い知るが良い。世に逆らう者は生きていけない」
そう言って上帝はライオン王にわけのわからない、呪文のような文言を唱え始めた。
「ふっふっふ、せいぜい神様にでも祈ってろ。言い終わるのを最後まで待っててやる。お早く頼むぜ。猫ちゃん」
「ふふふ、では待つがよい。%($#”%”)’(%)‘#&%$“#&”%##“$」
しばらくして後、その呪文は終わった。
「終わりか? 覚悟はいいな。お前に敬意を表し、最高の料理にして進ぜよう」
そう言ってライオン王は静かに上帝に手をかけようとした。もう上帝はライオン王の手の内にあると言ってよかった。これで完全にこの世は余のもの。
ライオン王が上帝の体に触れようとしたとき、確実に上帝の表情が笑いになった。
「何がおかしい? すぐ楽にしてくれるわ」
ライオン王は一気にその大きな、一日も研磨を怠らなかったその爪で上帝の喉下を掻っ切った、かに見えたが手応えなく、瞬間、足首に激痛が走ったと同時に目の前から上帝はふっと消え、ライオン王の見る景色は逆さまになっていた。ライオン王はめまいを感じた。
どういうことだ?! ここはどこか違う世界にいるのか? これが上帝の魔法なのか?
だがライオン王はどこにも連れて行かれていなかった。ただ、頭から真っ逆さまに中空に浮いていたのだった。両足首に圧力がかかり、足をばたつかせようにも動かない。ライオン王はやっと自分が何者かに吊るされていることがわかった。必死に身をくねらせて後方を見ると、ライオン王は思わず失禁しそうになった。そこには、見たことが無い位の大きさの怪物たちが、ライオン王の後ろを取り巻いていた。その中にはヒグマ、サイ、巨象などおよそ自分よりも断然力がありそうな野生のものたちばかりだった。そして自分の足を片手でとらえている動物、というより怪物はライオン王が生まれて初めて見る存在だった。
「ど、どういうことだ? おい!」ライオン王は逆さで手をばたつかせながら叫んだ。
「無駄だ。どうあがいてもお前には到底敵いっこない。力のあるものがこの世を支配する、お前はそう思っているようだが、それは正しくもあり、また正しくはない。しかしいづれにしてもお前がこの世の支配者になることは絶対にないのだ。お前などはこの世界では非力なのだということを思い知れ」
「何を。このう」ライオン王は抵抗したが、その怪物の力はびくともせず、ライオンをがっしりと捉えていた。
「無駄だ。“$%&#”“!$$%%$$%&」上帝の一言で他の野生動物も動き始めた。どうやら上帝は野生動物と話が出来るらしかった。呪文に聞こえたのは野生動物との会話だったのだ。そしてライオン王に対するいたぶりが始まった。ライオン王はぼろぼろになった。完膚なきまでいたぶられた。
上帝は追い討ちをかけるように言った。
「世が命令を下せばこのようにこの者たちは言うことを聞く。どんなにお前が身体を鍛え力をつけようと無駄なのは納得したであろう。この力の世界を操るのはこの上帝なのだ。この世界のシステムがこの上帝であり、上帝こそがこの世界のシステムそのものなのだ。野生語を操れるこのわしこそがな。お前はこの世界のせいぜい歯車操業者に過ぎん。せいぜいもっと見栄えのする力を鍛えよ。この造られた力の世界は、わしが作り上げた幻想だ。これがエターナルワールドオーダーだ。は、はは、はあ、はははっはー」
上帝はそう言って二の腕をせり上げて何もない筋肉を見せて大笑いした。ライオン王はそれ以上どうすることも出来なかった。
神殿に備えつきの調理場で、上帝は怪物たちに取って置きの料理を振舞った。それを野生の怪物たちは天国にでもいるような気持ちで味わった。もはやそこからは抜けられない禁断の果実だった。上帝はライオン王にもそっとその料理を振る舞った。ライオン王はそれを粛々と食べた。ライオン王は深く頭を垂れた。上帝は満足そうに笑った。
怪物たちの顔には愉悦が浮かんでいた。野生動物や怪物達は口々に賞賛をしていたがライオン王には何も言っていることはわからなかった。
やはり上帝様をおいて我々を満足させてくれる味などないわ。
ふふふ、それに…、あの王の引きつった顔、最高のご馳走だわ。久しぶりに満足。
まあ辺境仕事はすっかりあの狂った奴らに取られたからなあ。
処刑仕事もな。ま、あれ半分あいつらの監禁みたいなもんだけど。
ま、この護衛の仕事だけは譲れんわ。
だなあ。
美味しい。やっぱり上帝さんの料理最高。対話がしっかりしてる。本当はたまには子供たちの夢が良いんだけど。それも今となっては贅沢品だよね。
変わってるなあ、おまえ。大丈夫か?
いや、冗談だよ冗談。本気にしないで。
それは本当もう言っちゃダメだよ。トマポーンと疑われるよ? 計画は着々と進行している。今はこうして上帝はんの手料理が食べられるんだから。それに…夢なんて所詮恐怖にはかなわないさ。たとえ子供の夢だってそれよりは大人の恐怖の方がいい。あっ、これももう御法度か。俺らも所詮故郷でははみ出し者の変わり者だから仕方ないけど、とにかく夢がいいなんてあいつらだけさ。トマポーンの。
ああ、ムームーマか。あいつらは厄介払いだからな。それもしかしもう…。ふふふ…、でも前の王もがんばってる。実際上帝さんに近づいてるよ。
だけど今の王はやばいらしい…。
みたいだね、対話も無ければ想像のかけらもありゃしない。あっ、また言っちゃった。とにかくそれ以前の問題だね。今度のはすごいって言ったのに。だめだこりゃ。まあ上帝さんが作ってくれれば文句はないけど…。
64
少し時間を遡ってセレンと老猿がライオン王に無理矢理処刑房の檻に入れられた後。
半狂乱のオオカミや見たことの無い大きくて獰猛な獣がセレンたちを追い回していた。
ひいー、
セレンと老猿は檻の中を逃げまわった。
「あ、あそこにもう一つの扉が!」セレンは入り口と反対側にもう一つの扉を見つけた。
「出口じゃ!」
「とりあえず行くっきゃねえ」
セレンと老猿は一目散に扉まで逃げた。囚人服は半ばほとんど食いちぎられていた。
「でも開くわけがないぞい」
「そりゃそうかも」
セレンは力任せに扉のノブを掴むと力任せにひねりを効かせた。
がちゃり
「あれ?! 開いちゃった」扉は鍵がかかってなくて簡単に開いた。
「助かった!」すぐさま扉の向こうに滑り込んだ。しかし喜びもつかの間だった。
「ひっ」悲鳴を上げたのもすぐに引っ込んだ。
「…………」
セレンたちの前に、更に見たことも無いほど巨大な怪物のような獣たちが、仁王立ちで待ち構えていた。それは獣というよりも鬼だった。どこか昔のおとぎ話に出てくるような鬼のイメージだったが、それでもそのあまりの身体の大きさは、ライオンをもしのぐ力を持っていることは容易に想像がついた。
「じいさん。どうすればいいんだよ。戻ったほうがよくない?」
セレンの望みは直ぐに断たれた。獣たちのうちの一頭が扉側にすばやく回りこんで、戻り道を阻んでいた。
「おしまいじゃ…、これは…こいつらは」
よだれをたらした獣たちは、少しずつセレンと料理長に詰め寄っていった。ひいいい、セレンと料理長は恐怖のあまりちぢこまった。獣たちの顔がにじり寄ってくる。
「どうしよう、絶対にかなわない」
「お前、包丁返してもらったじゃろう。あれで対抗してみ」
セレンは言われてすかさず首から下げた包丁を取り出そうとして手探りしたが無かった、あまりの恐怖に落としてしまったらしい。あたりを探すと一頭の怪物が不思議そうに包丁を手に持って観察していた。
「取られた。どうしよう」
「でも、どのみちさすがのお前の包丁でも奴らに歯が立たんわ」
「どうするよ? どうしようもないよ」
「あいつらは伝説の怪物、ムームーマじゃ」
「ムームーマ? 今名前なんてどうだっていいよ。それよりどうすりゃいいんだよ」怪物たちはさらにセレンたちににじり寄ってきた。
「こりゃあ最高だぜ。久しぶりの猿だ。うまそうだあ、みんな」
「うまそうじゃないよ」
セレンは聞こえてくる声に素直に反論した。すると檻の中の獣達の態度が一変した。
「うまそうじゃないだって?」
獣たちの動きが止まった。
「セレン、今なんて言ったんだ?」
老猿は聞いた。
「知らないよ。うまそうじゃないって」
獣たちは顔を見合わせ、ひそひそ話になって何事かを相談しているようだった。
「うまそうじゃないってお前。確実にそんなこと言ってなかったぞ。聞いたことない言葉だった」
「え、そんなこと無いよ。普通にしゃべってたじゃないか」
再び獣たちは戸惑いつつもセレンたちに襲い掛かってきた。
「ひいいー、たすけてー」
セレンたちは逃げた。しかしすぐに体の大きな獣たちは、セレンたちを囲む形となった。そして再び、セレンたちに襲い掛かる。
「まさか…、もしかして…」
老猿も攻撃を避けながら何か思案しているようだったが、ふと思い当たる節があるのか、セレンに問いかけた。
「セレン!」
セレンは獣たちの攻撃をよけながら老猿の問いかけに答えた。
「あん? なんだよ」
返事をしながらもセレンはすんでのところで獣たちの攻撃を避ける。
「助けを求めるのじゃ!」
「だからさっきから助けてっていってるじゃないか」
「違う。わしにじゃない。直接あいつらに助けを求めるのじゃ」
「直接?」
セレンはいまだに老猿の言葉に合点がいってないようだった。そのときだった。今までひそひそ話だった獣たちが最後の断末魔のように雄たけびを上げて、総力を挙げてセレンたちに襲い掛かった。
「捕まえたぞお!」
「た、たすけてくれよ」
捕まえていた獣の手がその瞬間、緩んだ。
「おい、おまえ」
獣はセレンに話しかけた。セレンは恐る恐る獣に顔を向けた。獣はまるで不思議なものを見るような目つきで、セレンの顔を見つめた。
「お前、われわれの言葉を喋れるのか?」
「喋れるに決まってるよ。誰が喋れないんだい?」
獣たちは一同、お互い顔を見合わせた。信じられないといった顔だった。それは別の意味で老猿にも同じことが言えた。
「おいセレンお前、獣たちになんて言ってるんだ?」
老猿の発言に、セレンは初めて意味がわかったようだった。
「じいさん、あいつらの言うことがわからないのかい?」
「わしにはわからん。どうしてわかると思うんだ?」
セレンはそういわれて初めて、自分が老猿と話すのとは別の言葉を、この獣たちに使っていることに気がついた。
「わからないって、でも食材と話すのが猿が谷王家の証って言ったのはじいさんだぜ? 食材じゃなくて怪物だけど。言葉が違うのは当たり前じゃないか」
「あれはあくまで比喩じゃ。まさか本当に話してたとは思わなんだ」
「えーシャントワゾーだってちゃんと話してたじゃないか」
「うん。だから恥ずかしい話だがわしは勘違いしておった。その時は心の声が聞こえる程度にしか思わなんだ。それでも十分に王の資格があると思ったわい。われわれはこのギンザの中だけで生きているんだ。その外の動物の言葉はわからない。食材との対話何て先先代はよく言っていたがそんなの比喩だと思ってたわい。せいぜい心の声が聞こえるだけだと。わしは長く生きてるからともかく、ギンザの連中にとっちゃ普通は他に言葉があることすら知らない。このライオネス語以外にな。セレン、お前は正真正銘、間違いなく猿が谷王家の末裔じゃ。あれは伝説なんかじゃなかった。先先代と料理長の言ってたことはほんとのことなんだ」
「何ごちゃごちゃ言ってるんだ?」獣たちが再び話しかけてきた。
「そんなことより、俺たちは話が出来る動物を食べるわけには行かない。でもここに閉じ込められておなかがすごく空いてるんだ。だからお前のその隣の年取った猿、不味そうだが、それ、食べていいか?」
「いま何だって?」
老猿は身の危険を感じたのか、必死にセレンに通訳するよう要請した。
「爺さんを食べるって…」
「冗談じゃない。わしはまずいぞお。勘弁してくれ。セレン、言ってくれ」
セレンは必死にその旨を獣たちに伝えた。
「ここから出しておくれよ。そうしたら必ずもっとおいしいものを食べさせてあげるから」
セレンは必死に説得を試みた。
「そうじゃ! セレン。いいものがある!」
「なんだよ?」セレンは後ろを振り返った。
「これ」それはさっき返してもらった一片のビスケットだった。
「あっ、俺が作った奴! まだ持ってたのかよ」
「ふふふふふ」
「いや、でもさすがにその一個だけじゃあ…」
「心配するな」
老猿はそう言って懐に手を入れ、腹をはだけてみせた。
「じいさん、それ爛れてるの見せて食欲をなくさせようって魂胆か!」
「違うわ」
そう言って爛れたように見えたぺらぺらの脇腹をまさぐった。するとべりべりと爛れがはがされていった。それは爛れを偽装したテープだったのだ。老猿はテープをひっぺがし、中からしまってあった小さな袋を取り出した。
「え? あっ! フェイクだったんだ! しかもそんなところに、これ…これも俺が昨日作ったお菓子じゃねえか。やっぱりじいさんが取ったんじゃねえか」
「ふふふ。いいからいいから。いや、何かあると思ってな、それで非常食用にとっておいたんじゃ」
「でもこんなもの、大して腹の足しになんかならないよ。それに、その前に数足りないし」
「いいからあげてみろ…とりあえず多少時間稼ぎにはなるじゃろ」
セレンは仕方なくそれを受け取ると、その獣の中のボス格にこれを与えた。
「これ、あげるよ」
獣はそれを見て不思議そうな顔をした。見たこともないのだろう。
「これなんだ? 馬鹿にしてるのか? こんなちょっとで俺たちが足りると思ってるのか? 足りるわけない」後ろには更に数頭、同じくらいの図体の怪物が控えていた。
「まあそう言わず」
獣はそういいながら結局空腹には敵わず、そのお菓子を口に入れた。
その瞬間獣は飛び上がった。
「うっほっほっほー、これはすごい! 爆ウマ!」
急に獣はご機嫌になった。獣たちはボス格に群がって分けてもらっていたが到底数が足りなかった。
「まだ他にないのか?」
セレンは老猿に助けを求めた。
「もうないよねえ」老猿は首を横に振るだけだった。さすがにそれっぽっちで満足する訳が無い。
「ごめん、もうないんだ。でも今見逃してくれたら、絶対に、もっとおいしいものを腹一杯食べさせてあげるから」
「本当か!」ボス格はセレンを揺さぶってその真意を確かめた。
「い、痛いよ。本当だよ。本当」
「わかった」
「え?!」
獣は意外にも簡単に納得したようで、逆にセレンたちの方が驚いた。そして、獣は扉を開けて裏道を案内してくれた。
「扉空いてんのかよ。だったら逃げればいいのに」
セレンは老猿とぶつくさ文句を言いながら牢屋を後にした。怪物たちはご丁寧にも再び鍵を自分たちで掛けた。
65
セレンたちはそこから一目散に逃げた。しかしその途中、離れたところでセレンは一体の動物が二足歩行でいるのを発見した。
「あれ? あのマーク見たことある。じいさんあのマークなんだっっけ? 花の。あの猫の、あっ、いやなんか違うなあ。猫って四つ足だし。なんだかけったいな動物だなあ。きも!」セレンは老猿に話しかけた。
「ああ? どれ。いやあれは花じゃなくて肉球…あ」老猿の表情は一遍に変わった。開いた口がふさがらなかった。
「どうしたんだよ、じいさん。知り合いかい?」
「じょ、じょ、じょ、あいやなんでもない」
老猿は一気に震えだし、その場にひれ伏した。その動物はセレンたちに気がついたのか、セレンたちを一瞥した。セレンと動物は眼が合った。
「おい、じいさん、何やってんだよ? じょ、じょ、じょって? なに? そんな、この老いぼれ猫、まさか王様よりもえらいの?」
「馬鹿、何言ってるんだ。とにかく頭を下げろ。上帝様じゃ」老猿はセレンの無邪気な質問を遮り、セレンの頭を強引に下げさせ
た。
「これが上帝!」セレンは思っていたのと著しく違う姿に衝撃を受けた。
「でもなんで? こんなちっこいのに? 割と大きいけど」
「ばか! セレン、口を慎め!」老猿は慌ててセレンをたしなめた。老猿に抑えられた首根っこから手をなんとかほどき、セレンは再び頭を上げて見た。黒いが猫というには大きめで、地毛かフェイクかわからないが鬣らしきもので顔を覆っていた。年老いていたとはいえ、身に着けているものといえばたくさんの異なる毛皮を重ね着にしてきらびやかな宝飾品を首といい手首といい足首といいあらゆる首に飾らせ、まさに限りなく贅沢三昧を尽くしたといった風体であった。セレンは一目見ただけで嫌悪感がこみ上げるのを押さえられなかった。なにより根本的に表情が違って、とても冗談の通じそうな雰囲気ではなかった。観察をするセレンに対して老猿は執拗に頭を下げさせた。
「お、おっほん。表をあげい」
「最初から上げてるよ」
「………」
セレンも小さかったがどちらかと言えば少し見下ろす形だったセレンは正直に答えた。
「馬鹿! 余分なこと言うな」老猿はなおも頭を下げたままセレンを思いっきり小突いた。
「ふふふ、まあ良い。それよりカイレン、久しぶりだな。お前だったか。なるほどそれなら今回のことも多少合点がいく。しかし…」
上帝は老猿に話しかけた後、再びセレンに視線を戻した。
「なんだよ、じろじろと」しかし言った後にセレンは初めて後ろの存在に気がついた。
後ろには先ほど牢屋に居た怪物とは背格好は変わらないが比べ物にならないくらいがっちりとして、力強い野生の動物たちが控えていた。そしてその怪物たちがセレンたちに覆いかぶさるように迫ってきていた。セレンと老猿は思わず後ずさりしていた。
「お前は、指名手配の?」セレンはいわれて思わず逃げ出そうとした。
「冗談じゃねえ、こんな化け物たちにつかまったらさすがにお手上げだ」
ここで捕まったら今度は監獄どころかその場で処刑されてしまう。例の後ろに控えた怪物たちはライオン王よりもよっぽど力があって強そうに見えたし、それ以上にさっきの監獄に居た怪物とも違って雰囲気的に悪意があきらかにあるようだった。
「待て、お前たちを処刑するつもりなど最初からさらさらない」
「え? 本当? じゃあ釈放でいいの?」
「もちろんだ。そんなこと一度もわしは望んでおらん」セレンはその言葉を聞いて拍子抜けした。
「しかしお前たち、どうやってあそこから外に…。あの処刑牢から免れた者はかつて一匹も無い。さてはあの王、あんなこと言って、結局いう通り逃がしておったというわけか?」
「いや、あいつら」セレンはすかさず老猿に小突かれ口をつぐんだ。
「へ、へい。それはもう…」老猿は余分な詮索をされまいと話を合わせてその場をしのごうとした。
「ふふふ、どうやら今回あの王が即位したのもカイレンの細工のようだな。いつからあんなやつの下で働いておったのだ? もったいない」
「いや、あっしは何も。こいつが働いていたので」
老猿の言葉に上帝は今度はまじまじとセレンを見た。
「これは驚いた。この若い猿が…。あの暗愚な王が頑なにお前を消そうとしたのも、目を突いた以外に他に理由がありそうだ。名はなんと申す?」
「セ、セレンだよ」
「セレン?」
上帝はそれを聞いてしばらく何か考えている様子だった。
「ふむ…どうだ。上宮で働かないか? もちろんカイレン、おまえも一緒だ。これから余の完全支配に向けてまだやらなければならんことがある」
「え、いやあ、はい、それはもう、よ、喜んで」老猿はセレンにかわって答えた。
「王宮?」セレンは聞き間違いではないかと思い聞き返した。
「王宮ではない。上宮だ」
「上宮? 王宮じゃないの?」
「違う。ようするにこの上帝の住まう宮で世の料理助手をするのだ。王は仮の存在であるが故に王宮など形だけで何も意味は無い。世が前の君主を倒して以来な」上帝は特に老猿に勝ち誇るように言った。
「???」
「しかしお前の、前の主君を消しただけではまだ足りない。主の理想とする完全なる美食の世界にはな」老猿は聞きながら顔をきつく歪めた。
前の主君? セレンは上帝の言葉を考えてみた。
「前の主君って?」セレンは小声で老猿に聞いた。
「黙っていろ、静かに」
「あっ、わかった。俺のじいちゃんか?!」
「しっ」老猿は人差し指を口に当てて何とかセレンを黙らせようとした。
「何をこそこそ言っておるのだ? カイレン、良いな? 理想とする完全なる沈黙の世界はあと少しだ。完全に管理された、対話のいらない、完璧な美食の世界は」
「そ、それはもう。もちろんですとも」老猿は俯いたまま答えた。
「前のお前の君主、猿の王は本当に馬鹿でわかっていなかったからな。あの猿王は世が粛正して正解だったが、お前たち猿がもっと奴隷として忠誠を尽くせば粛正は考えておらぬ。お前たちは奴隷としてなら有能だ」
「は、ははあ」平身低頭しながら老猿はセレンのことが気になった。ここで下手に出たらせっかく檻から出てこれたのにすべて台無しになってしまう。事実、老猿の顔の位置からはセレンの表情はわからなかったが、肩は怒りでブルブル震えているように思えた。ここは何としても凌がなければ…。
「はあ?」老猿の願いむなしく、セレンは怒りの声を上帝に向けて挙げたようだった。
「沈黙だって? 何言ってんだ? 冗談じゃない…、美食は沈黙じゃなくて楽しいものだろう」
「そこ!?」老猿はずっこけそうになった。
「沈黙こそ至高。無駄のない、対話の必要の無い、食材に対する統制のされた完璧なアプローチの結果にこそ、至高の美食の世界があるのだ。そこに想像の余地はない」
「冗談じゃない! そんなの絶対ダメだ」セレンは引き下がらなかった。老猿はセレンの怒りのベクトルが想定とは違って少し安堵して複雑な気持ちだったが、なんとかここをしのいでこの場を離れる、その思いだけが頭にあった。
「ふふふ、世に従っていれば考えも変わる。大丈夫だな? カイレン」上帝は苦笑いをしながら老猿に向き直って尋ねた。
「へ、へえ。それはもう」
「じいさん待てよ。何でこんなわけわからん奴の下で働かなきゃいけないんだよ。そんなのまっぴらごめんだよ」
「いやセレン、それはな。もちろんわかってるけれども」バカ、いいから従ってろ! ほとんど声にならない声で老猿はセレンを叱責した。
「何がわかってるだい! 絶対いや」
セレンはそう言って取り合おうとしなかった。
「ふふふ、威勢の良い返事だ。だが今度はあの間抜けの王のようにはいかんぞ。小僧」
「へん、どうだかね」
「おうい!」
啖呵をきるセレンに、先ほど牢獄に居た処刑官の怪物が寄ってきた。それを見ていた上帝の表情が、俄かに変わった。
「あ、ああ、どうしたんだよ。もうちょっとお菓子のほうは待っててくれよ」
「うん。それはもちろん楽しみだけど…」
「お前もしゃべれるのか!」
上帝は驚きの表情でセレンに問うた。
「ああ、誰がしゃべれないっていうんだい?」
怪物たちは上帝の存在に気がついてぺこぺこし始めた。
「いいよいいよ、それよりどうしたの?」
「はい、わすれもの」
そう言って怪物はセレンに落とした包丁を差し出した。
「あ、ありがとう。それ大事なものなんだよ」
しかしそれを上帝はいち早く取り上げた。
「なんだ、おもちゃか…」しかし上帝が異変に気付くのに時間はかからなかった。
「いや、こ、これは…」
「返して。これ父さんの形見なんだから」
「父さん?…」上帝は頭の中で次々と今まで収集してきた猿が谷家の情報の断片が繋がっていくようで目眩がした。
セレンはすぐにその包丁をひったくり返すと、さらに怪物たちに礼を言い、すぐにその場を退散した。怪物たちもすぐに持ち場の牢屋に引き返した。
半ば茫然自失の上帝は側近たちに支えられ、かろうじて立っているようだった。
「大丈夫でございますか?」
「あ、あの者を追うのだ!」
上帝はよろめきながら言った。
「しかし先ほど上帝陛下が釈放を許可したばかりでは?」
「むう…そうだったな。わかった」上帝は何事かショックで混乱しているようでもあったがそんなに間をおかず自分を取り戻したようだった。
「よろしいのですか?」
「よい。どのみち無駄なことだ。このわしの…、世の世界では…」
「あやつは何者ですか?」
「カイレンがいたのだ。もっと早く気付くべきだった。あの紋章は…猿ヶ谷、猿ヶ谷王家じゃ。まだ、まだ生き残っておったか…おのれい。だが、このわしが作った完璧なシステム。これから逃れられると思うなよ…」
上帝は侍従に振り向いて言った。
「打ち切った捜索プロジェクトを性急に再開するのだ」
「レシピの書ですか?」
上帝は返事をする代わりに付け加えた。「鍵も併せてだ。五大家がきっと秘密を持っているはずだ」
「御意」
「グランシェフの資格は世にのみある」
しばらく上帝はその場から動けなかったという。
66
「上帝様のお達しもある。全力で王立レストランの浸透を促すのだ」
一見変わらずライオン王が支配者として采配を振るっていたのだが、以前と違うのは完全に王が上帝の軍門に下っていたということだった。歴代の王もこのように、上帝に反旗を翻しては結局征伐され、自らその上帝の敷くシステムの管理者としてその職責を全うするようになったのだろう。ライオン王は今では深く上帝の支配するこの世のシステムを理解しているつもりだった。
「セレンの方はいかがいたしましょう? 脱獄をしてから依然、行方が知れませんが…、上帝陛下のお達しの通りこのまま指名手配解除でよろしいのでしょうか?」
「個人的な恨みもあるが…、そもそも既に処刑は執行されているのだ。処刑官から免れるというのは前代未聞のことのようだがそれ以降の法律が定められていない以上、追求する術はこの王には無い。仕方が無い。法の遵守は絶対。いや、上帝様の決定を翻すのは許されない」
「ただ、御変節がございましたようで、上帝陛下ご自身がどうやらセレンの討伐を検討しているようですが」
「その辺の事情はもはや王の与り知らぬこと。上帝様も決して明かしてはくれぬ。それより王としては今は王立レストランのギンザ全域の浸透。これが大事だ。そしてそれに立ちはだかる恐れがあるはやはり、あのセレンたちであろう。とにかく今の所在地のレストランは没収。逮捕は規則であるから出来ないが、圧力は掛けるしかない。ギンザの商業地区を完全ライセンス制にして、あやつらを締め出せ!」
「はっ」
「いやっほい! これで大手を振って昼日中から大通りを歩けるぜ」
「ふふふふ」
老猿はあわせて笑っていたものの、その胸中や複雑だった。
「なあ、セレン。ワシにはどうしても、あの上帝が追求してこんのが納得できんのだが…」
「んなこと関係ないよ。せっかく見逃してくれたんだ。もうおれたちゃ自由だぜ」
老猿は複雑な気持ちだったが、セレンの明るさを見て気を取り直した。
「とにかく新しく店を開くためにも、資金を何とかしなきゃな」
「おう、久しぶり!」
セレンは行きかう動物たちに挨拶をして回った。こんなに堂々と挨拶をするのは本当に久しぶりだったのだ。
「気持ちがいいねえ。本当に、外を普通に歩けるって本当にすばらしい」
「こんにちは」「こんちは」
セレンは、行きかう動物が知っているものであれ誰であれ、声を掛けずには居られなかった。本当に楽しい。セレンは心底そう思った。例え自分が奴隷という身分であろうとも、そのことがセレンをなんら微塵も卑屈にはさせなかった。老猿の方といえば、その逃亡生活は三十年にもわたり、日陰で生活するのがすっかり身についていたと見え、セレンの行動には罰の悪さを感じたが、だんだん慣れてくると、もともと持っていた老猿の性格だろうか、後の方では老猿のほうが調子に乗って挨拶をしていた。特に若い女の子が通ると、動物の分け隔てなく声を掛けていた。
「あー、なんて楽しいんだろう。外を歩くって」
「ほんとじゃのう」
街を歩いているうちにただで手に入るギンザのガイドブックを手に入れた。
「あ、これってあの豚紳士さんの作ったガイドブックだ。レストランガイドだ」
「最近は便利な物があるのう。長いこと表通りを歩かなんだから時代の流れに取り残されてしもうたわい。昔は豚の紳士なんてそんなに居なかったからな」
「そうなんだ。昔より今の方が自由がなさそうなのに」
「うん。そりゃ、お前のじい様がなんとか語学を教えてたんだ。当時は猿語に加えて第二言語のライオネス語まで。最初は全くうまく行かなかったが、とうとう最近になってその成果が遅ればせながら出てきたということじゃろう」
「え? あいつらの猿に対する態度はかなりいけ好かないんだけど」
「まあそう言う運動をお前のじい様がしたのも今となっては昔のことだからなあ。紳士たちもほとんど知らないじゃろう。事実、ある一匹の天才が現れるまでそんなの実現不可能だと思われてたし、皮肉にも世の中がライオネス語一本にしぼられたというのも原因かもしれん」
「へえ、でもこれ便利だわ。ほとんどのレストランが網羅されてる。ちょっと良さそうななとこ行って見ようぜ」
「ふふふ、しかしそんなのあってもどこも行けんわい」
「なんで?」
「金がない」
「あそっか」
「そうじゃとも」
セレンはお金がなくとも解放された喜びの方が勝ったのか、はたまた元々財産を持っていなかったからか少しも気にすること無く、街の見る物見るのもが新鮮で散々歩き回った。
二匹がはしゃいでいるうちにあたりはすっかり夕暮れに変わろうとしていた。
「セレン、こんなことしている場合じゃないわい。早いとこ職を探さねば、今日のご飯にもありつけんわい」
「ぐううう、そういやあ腹減った。自分たちのレストランに戻ろうよ」
セレンはおなかを押さえた。
「馬鹿、こういう場合は取り潰しじゃ。法律で決まっている」
「法律? そんな厳密にやるかよ? あの上帝だって釈放だっていってくれたんだから関係ないだろ?」
「いや、この法律は聖法といって上帝自ら定めた物だから神聖にしておかさざる物として絶対に覆すのは無理なのじゃ。王が定める法ならいくらでも変更は可能じゃがな。何故か上帝自身が頑にこの聖法は覆そうとはしない」
「えー、まじかよ。それじゃあ本当に職を探さなきゃ」
「ああ、もう未練は無い。やり直すしか無いわい」
二匹は良さそうなところを選んで面接を頼んで回った。しかし、最初の数件はことごとく門前払いだった。
「はあ、仕方ないねえ。解除されたとはいえ俺たちは指名手配だったんだ。早々仕事があるわけじゃなし。表通りはあきらめて、裏通りの個人レストランを当たってみよう」
二匹はギンザの大通りの奥に入り、目に付くレストランに入っては片っ端から働かせてくれるように申し出た。しかし数十件あたってみたものの、どこも顔を見るなりすぐ断られた。
「どうしてだろう? もう指名手配じゃないんだから、雇ってくれたって罰はあたらないはずだよ」
「世間の目は思った以上に厳しいってわけだ」
セレンと老猿は丁度自分たちのレストランの近くに来ていたので、寄ってみることにした。もしかしてまだ取り壊されずに何か残っているかもしれないし、ひょっとしたら忘れられてて、そのまま経営に復帰できるかもしれない。あるいはあの時以来離れ離れになっていたハリージやハナコ、玄さんがいるかもしれない。セレンと老猿は希望を持ってレストランに直行した。
「もうすぐだ。こんなに堂々といくのは初めてだなあ」
「確かに。今まで隠れてやっていたのだからな…あっ!」
二匹は唖然としてその場に立ち尽くした。
そこでみたものは、完全に破壊しつくされたレストランの残骸だった。そして、立て札には「王立レストラン予定地」とあった。
「ああ、こんなにしちゃって…。わかっててもショックだなあ。没収とはいってもここまでしなくても…」
セレンはともかく老猿にとっては感慨もひとしおだった。なぜならこの地で三十年以上もレストランを経営してきたのだから。
「わかるよ、爺さんその気持ち」
老猿は視線をその自分の歴史あるレストランから離そうとはしなかった。
「仕方ないよ…一からはじめるしか…」
「違う!」
「違う?」
セレンは老猿の意図を図りかねて、その視線の先を追ってみた。
「あっ!」
それはセレンと老猿の顔写真だった。但し書きには、「これらのものを雇ったもの即刻死刑」という文面があった。署名欄にはタンポポのような肉球のマークとともに上帝、と記されていた。
67
二匹は夜のギンザの街を彷徨った。寒さは本格的になり、夜をしのぐのさえ困難だった。
「王立や大手はだめに決まってるし、あんな場末のレストランでもだめじゃなあ…」セレンはガイドブックをパラパラとめくりながらため息をついた。
「仕方が無い。上帝の命令は絶対じゃ。王とは重みが違うからのう」
「さ、さむ…、これじゃあまだ監獄に居たほうが良かったよ」
「そうかものう。お前は若いから良いがわしはちと堪えられんぞ。ヒートテクノは無いのかい」
「それはちょっと…。コニクロはないだろ」
セレンはともかくさすがに老猿は堪えている様だった。
「爺さんはところで歳いくつなんだい?」セレンは今頃になってこの老猿の年齢も知らないことに気が付いた。
「わしは来年で90じゃ」
「90う?! 大変だ。早く宿でも探さなきゃ」
「何で90だったらそんな慌てなきゃならんのじゃ。この寒さだったら老人はみんな同じじゃよ。ヒートテクノがあれば別だけど」
「ぜんぜん見えない。せいぜい60台かと思ってた。全然若いよ」
「ふぉっふぉっふぉ、そうかのう? しかしさすがにもう命運は尽きたかのう…」
「まだそんなこと言ってちゃだめだよ。一緒にまたレストランやるんだよ。そうだ、他にないのかい? ああいう、身分を隠してやっているところは」
「ない。あそこは革命以来ワシが30年掛けて開拓していったところじゃ。そんな特別なところは他にないよ」
「でも、どこかにあるはずだよ。そういった、何にも囚われずやっている所がさ」
「……………」
「そうだ! 五大家っていうのはどうなの? そこの誰かに頼めばいいじゃないか。王様だって手出しできないんだろう?」
「今回の指令が王でなく、あの上帝から出ている以上、五大家の協力は期待できない。五大家は王には従わなくても上帝には従わなければならないからのう」
「うーん、そうか…、しかし腹減った…」さすがにセレンも考えあぐねていた。
ボーン、ボーン、ボーン。
鐘の音が鳴り、セレンはあたりをきょろきょろした。
「ねえ、じいさん。これ何時の鐘だろう?」
「八時じゃろ…、今頃レストランやってればピークだったろうにのう」
「ピーク?」」セレンの目が一瞬にして輝いた。何かをひらめいたようだった。
「やっぱ大手だよ?」
「ん? 何がじゃ?」
「これはやるしかない。じいさん、ここで待っていてくれ」
セレンは立ち上がった。
「お前どこに行くんじゃ?」
「いいからいいから、ちょっとここで待っててよ」
「どこへ? 犯罪はだめじゃぞ。上帝が乗り出している以上今度ばかりはただじゃ済まされん」
「心配すんなって、雇ってくれなきゃ無理やり働くまで…いや取引だ」
そう言ってセレンは大通りを渡って向こうの裏路地に向かった。たくさんの飲食店のひしめく黄金地帯へ。
大通りにはずらーっと今をときめく有名レストランが並んでいた。大通りを一本中に入って裏路地へ行くと、そのまま各レストランの厨房の勝手口がどこまでも並んでいた。厨房はたいてい表通りとは反対の裏路地に勝手口があった。勝手口は開いているところが多く、そこからセレンはいろいろな厨房の中を注意深く見て回った。何件かよさそうなところを見ていくうちに時折、浮浪者にも見つかった。ただ、老猿のレストランに導いてくれた元料理長と名乗った浮浪者を探したが居なかった。
「よお、若いの。おなか空いているのかい? それならいい残飯が手に入ったぜ」
「いや、もうそんなもの食べないよ」
セレンはもうそんな生活には戻りたくなかった。セレンはほのかに、いつの間にかあの鹿の娘の顔を思い浮かべていた。この無数の飲食店の客席のどこかに鹿の娘が居るかもしれないのだ。そう思うとドキドキした。
淡い期待といろいろな物思いに耽りながら歩いていると厨房の喧騒が今まで以上に聞こえてきた。ガイドブックを片手に王立レストランだけは絶対に入るまいと気をつけた。それによると最近はもうほとんどすべてと言っていいほどライオンや虎などの猫族は王立系のレストランに高額で移籍をしているようで、大手も昔からの老舗をのぞいて結構の数が王立系に鞍替えしているようだった。さすがに王立レストランでばれたら捕まってしまうだろう。何となく目星を付けていたのだがあまりにたくさんの厨房が並んでいるのでわからなくなっていた。
確実に王立系ではなくてかつ良さげなところを発見した。ここはかなり忙しそうだ。悲鳴を上げている。セレンの店を選ぶ基準は忙しそうなところ、そして規模の大きそうなところだった。今はピークタイムのため、たいてい忙しい店のほうが多かったが、その中でも働く動物が多ければ多いほど、紛れ込むチャンスは大きかった。規模が小さい場合見知らぬ者はばれやすいのである。ましてやセレンの顔は張り紙もある上に知られている可能性もあるから尚更であった。
セレンは少し変装をし、意を決して、その厨房の裏口から中へ入った。
怒号が飛び交っていた。
厨房の中はざっと見たところ20匹以上のありとあらゆる種類の動物のクルーたちが、ものすごい速さで仕事をこなしていた。料理長らしき動物は幸い居ないようだった。この大きなキッチンで、さらにこのどピークのオーダー量からして、セレンには3~4匹は頭数が足りないように思えた。セレンの勘は当たっていた。
セレンは素早く控え室を見つけた。そこにもぐりこむと、すぐさま余っていたキッチンのユニフォームを身につけ、厨房に立った。とりあえずここは何屋だろうというところから始めなければならなかったが、置いてあるものやみんなの扱っている食材からして魚系のレストランであることは大体わかった。
「おい、そこのオーダーやってくれ」
セレンに早速オーダーが回ってきた。司令塔らしき動物は狐のようで鋭い目をしていたが、この忙しさのせいか、セレンの方を見る余裕は全く無いようで、オーダーの書き込まれた伝票だけセレンに渡した。
「あいよ」セレンはみんなの掛け声に従ってまねてやった。
「シェフのお任せグリル?」
セレンは小声で自分に言い聞かせるように復唱した。その内容だけではまったく要領を得ない。しかし、オーダーは次から次へと狐の司令塔によって運ばれてきた。次々になだれのように押し寄せてくるオーダーに、セレンは逃げだしたくなった。どんだけ考えてもセレンにはイメージがわかなかったため、仕方なくセレンはとなりで揚げ物を担当していた狸に聞いてみた。
「おい、シェフは?」
「休みだよ」
「シェフのお任せって何だっけ?」
「あー? 知らないよ、俺シェフじゃねーし。シェフ休みだし今日」
無残な結果に終わった。ただ存在を疑われるよりはましだったのかもしれない。狸も忙しくてセレンを一瞥だにしなかった。
「猫魚のムースアラメールってまだ? 遅いよ。お客さん噴火寸前よ、早くして頂戴」
デシャップの向こうからウサギの仲居さんが請求してきた。赤い目がこちらを見ている。最初、セレンは自分のこととは思わなかったが、目の前にたまっている伝票の山から、その伝票を発見した。
「は、はーい、もうすぐいきます」
セレンは仕方なく適当に返事をするしかなかった。もちろん全然どういうものかわからなかったし、そもそも猫魚などという代物を見たことも聞いたことも無かった。ちょっと仕事をして、少し食材を分けてもらってトンずらしようと思ったのだが、これでは完全にどつぼにはまってしまった形だった。セレンは冷蔵庫の中から猫魚を探した。どれも似たようなものでまったく見分けがつかなかった。どうすりゃいいんだ? セレンは半ばパニックだった。以前のライオン王のレストランでは肉料理が多かったし、老猿の店では魚の名前もわからずに獲り立てのものを調理していたので具体的な名前も知らなかった。ええい、ままよ。セレンは中からあてずっぽうに数匹魚を取り出すと、上からぱらりと塩を振りそれらをグリルの上の網に油を塗って置いた。もし間違えたらと思うと心臓がバクバクしていた。
「それじゃない。えら蓋のところに猫の手のマークがある奴じゃ」
どこかからアドバイスの声があった。
「ああ、ありがとう」セレンは気づかれなかったか心配で顔を隠しながら、もう一度冷蔵庫から言われた通りえら蓋に猫の手のマークがある魚を選び、そっと網に置いた。
「そうじゃ」俺、監視されてる。セレンは警戒した。ここでばれたら元も子もない。セレンは声のする方向をそっと横目で見た。生物を扱うそのポジションはセレンの目の前にあった。年老いた猿の…。
「あっ! じいさん、いつの間に」
よく見るとろう猿がいつの間にかセレンと同じように潜入していたのである。セレンは音を立てないように老猿に近づき、小声で会話した。
「どうしてここにいるんだよ?」
「外で待ってるより働いてる方が何ぼかましじゃ」
「だからって危険すぎるよ」
「ほい、オーダーがたまってるぞい」狐の手がセレンのほうに伸びていた。
「あ、はい」セレンはオーダーを受け取ったが、やはり何のことなのかさっぱりだった。しかしそれ以降、ことあるごとに老猿がオーダーを指揮してくれ、次第にセレンは仕事をこなせるようになっていた。
「どうしてそんなに知ってるんだよ」
セレンは小声で話しかけた。
「昔働いていたんじゃ。ここはオーナーが変わっとらんからな」
「通りで…そんなこったろうと思ったよ。」
「シェフのお任せまだですか?」
デシャップの向こうから再び、口元だけではあるが請求がかかった。俺だ。
「あとどれくらい?」執拗に仲居さんの口がセレンを責め立てる。
「はい、すみません。後十分ください」セレンは適当にあてずっぽうで言った。
「…わかりました」仲居さんの口は冷たく閉ざされた。
すかさず、老猿に助けを求めた。
「ねえ、シェフのお任せって?」
「知らん」
「またまたあ、知ってるんでしょう? いいから早く。やばいんだから」
「本当に知らんのだ。他は全部わかるのだが、それだけは本当に知らん。わしシェフじゃないし」
「えー、本当なの? 後十分って言っちゃったよ」
「言ったお前が悪いだろう」
セレンは隣の狸に尋ねようとしたが、ここでばれてもやぶ蛇なのでやめた。
「シェフ休みならメニュー下げといてくれよ」
「まあお任せだから何でもいいんじゃないか?」
「いや、それでもねえ。お任せと良いながら毎日同じの出してるとかあるからなあ」
セレンは絶望に打ちひしがれ頭を抱えた。
もうやるしかなかった。セレンは意を決して冷蔵庫の中を見ると、片っ端からものになりそうな食材をピックアップして、それを全身全霊でイメージした。ありとあらゆる取り合わせを考え、あらゆる方法を考えた。セレンにはその時間が止まっているようにさえ感じられた。セレンは集中し、食材に耳を傾けた。半ば、死んでいるはずの食材たちが口を開き、セレンにささやいてくるような気がした。そこに光を見た気がした。
よし! 決めた。
セレンは猛烈に起き上がると、調理を開始した。迷っている暇は無かったし、もはや迷いも無かった。そして一気にそれを仕上げた。
「お待たせしました」
セレンはデシャップ台にそのシェフのお任せグリルを置いた。しかし仲居さんはすぐさまお皿を見るとそのまま持っていくのではなく、首を傾げ始めた。ヤバい。瞬間的にセレンは思った。すると仲居さんは口を開いた。
「これってお任せ? いつもと違うけど」セレンの心配があたった。どうやらこの店ではお任せと言いつつ、メニューが固定されていたのだ。セレンは苦し紛れに言った。
「お任せですから、今日は趣向を変えてみました」
「そうなの? 常連さんで、いつもこればっかり頼む方だから、気に入ってもらえるといいけど。あれっ?」デシャップ越しに仲居さんと目が合った。ヤバい。こっち見みないで。セレンは祈る気持ちで言った。
「早く持ってってください。冷めてしまいますから」
仲居さんは怪訝そうな顔をしたが催促通りそれを持ってホールに向かった。
これは不味いな。セレンは思った。あまりやり取りが続いて他の厨房スタッフに注目されるのは避けたかった。
そろそろピークも緩やかになってきて、キッチンに居ても、正体がばれるのは時間の問題だった。セレンと老猿は適当なところで味見をする振りをしてつまみ食いをしまくりながら、そろそろ静かにお暇する時間だと思った。なんだかんだで、この忙しい中つまみ食いだけはほぼ働きに見合うだけこなした。
「いくぞ」
二匹はそろりそろおりと厨房を後にした。
「あれ、そう言えば今日シェフ休みだったよな。代理でやってたの誰だっけ?」
「ヘルプ頼んでたっけ? 人数少ないって聞いてたけど途中からそろってた気がする」
「何となく猿っぽかったけど、忙しすぎて確認してる暇もなかったからな」
「そう言えば、見たこと無い気がする」
68
味を占めた二匹は翌日も同じようにピークの時間になると、またぞろ繁盛しているレストランを見つけては潜入し、それに見合った分のつまみ食いをした。翌日もそのまた翌日もそういった生活が続いた。やがて数ヶ月の時が経った。
セレンと老猿のなるべく忙しそうな店のピークの時間を狙った、裏口からキッチンにもぐりこむ戦法は大成功だった。忙しい店はどこもセレンたちにかまっている暇も無いらしく、何事もなく溶け込める事が出来た。また、うすうす感づいていたとしてもそれをとがめるものは誰も居なかった。猫の手ならぬ猿の手も借りたい状況では、どちらかといえば暗黙の了解にさえなっていたのかもしれない。
「うっほー、今日も腹いっぱい食ったー」
セレンはおなかを抱えながら言った。
「お前はいいのう。早食いで。ワシなんか後から腹が減りよるわい」
「手の早さだよ、手の早さ」そう言ってセレンは老猿に手をひらひらして見せた。
「ぬかせい、このー」老猿はセレンをぽかっと殴った。
「あ痛―、何するんだよ! このもうろくじじい」
セレンも負けじと応酬する。通りがかる動物たちは呆れ顔で二匹を見ていた。
「どういうことだ? わが王立グループのレストランが伸び悩んでいる」
ライオン王の鬣が怒りで震えていた。
「わかりません」
「何か要因は無いのか? 大抵の名うてのシェフは取り込んでいるはずだというのに」
「いや、今のところ…」
「老舗の大手で猫族以外もがんばっているところはあるにはあるだろうが」
「それもそうですが…、売り上げが逆に落ちる説明にはなりません」
「なら他に何がある? セレンたちも職には就けてないはず」
「それが、ちょっと気になることが…。これは噂に過ぎませんので王様にご報告するには…」
「いやそう言うことは逆に些細なことでもなんなりと申してみよ」
「それならば。実は、その指名手配だった猿が、脱獄後、いろいろなレストランで夜な夜な神出鬼没に働いているという噂が…」
「何い! それは本当か? あれほど雇用禁止のお触れを打ち出しているというのに。周知が徹底していないというのか? 違反は取り潰しだぞ」
「そうですが、しかし雇用というより無償で勝手にやっているという話でして。あくまでこれは噂でございますが」
「むう…しかしそうだとして、どうして売り上げと関係してくるのだ?」
「これをご覧ください」
そう言って侍従はある本を差し出した。それは豚の紳士の出した最新版のレストランガイドブックだった。
「ほう…最近はこんなものが…」
「はい、最近はこれがかなり影響力を持ちつつあります。それによりますと、『脱獄猿のヘルプを狙え』、とあります」
「脱獄猿?」
「はい、これも憶測に過ぎませんが、それはセレンたちのことではございませんか? そのセレン、いや脱獄猿が出現するレストランは軒並み物凄くおいしい、ほっぺたのとろけるような料理を出すと評判になっているのです」
「…ばかばかしい。いくらそれが本当だとしても、それがわが王立レストランの売り上げになぜ影響を与えるのか?」
「はい、それはそうです。しかし、ガイドブックにはこうも書いてあります。脱獄猿の出没ポイントは不明。しかし王立系のレストランに出没しないのは明白、と」
「………ばかばかしい。一匹の猿が、高々一匹の猿が…」
ライオン王はしばらく、そのガイドブックに目を落としていたが、おもむろにそれを投げ捨てた。そして背は侍従に向けたまま言った。
「理由はどうあれ、これでは上帝陛下に顔向け出来ない。監視の目を光らせろ」
「はっ」
*67
鐘の音が町中に響き渡った。王立のとあるレストランの店内は夜のピークを迎え、八割方席が埋まっていた。
「相変わらず忙しいですね」
「そう思うか? 割と余裕そうだが」
「余裕は無いですよ。それに。席も埋まってますし」後輩の猿の給仕は半笑いだった。
「いや満席ではないだろう。以前だったら間違いなく満席だった。今日は土曜日だぞ。それにウエイティングもかかっていない。ピークが終われば客は引いていく」
「確かに、心なしか以前に比べて客足落ちてますかね。あまり出歩かなくなってるのかもしれませんね」
急に店内がざわつきはじめた。一匹の猿の給仕が客に怒られていた。
「どうゆうことなんだこれは?」客は虎だった。指を指したお皿には口を付けたシャントワゾーの姿煮が乗っていた。
「お口に合いませんでしたでしょうか?」
「ふざけるな! 腐ってるじゃないか」
「左様でございましたか。申し訳ございません。すぐ料理長を御呼びします」きびすを返そうとする猿の給仕を客はあわてて止めた。
「そこまではいい。そこまでは。知ってるので。あの有名な方だよね?」
遠くでやり取りを見ていた二匹の給仕はまたひそひそと話し始めた。
「またシャントワゾーのクレームだ。今月何件目だろう?」
「どうしてなんですか? 生ですよね?」
「シェフの腕は間違いないはずだ。それにあのへんてこなスピード狂のお陰で物流システムは今や完璧だ」
「ハリージですよね」
「今や全王立グループの鮮獣の発注をたった一匹で請け負っているらしいが驚く早さで届けてくれる。食材に問題は無い。しかしシャントワゾーだけはどんなに瞬時に生け捕りしてこようとも環境が変わると生きながら腐っていくんだ」
「それじゃあの八丁目の猿がやってたとかいう店で生のシャントワゾーを出してたと言うのはやっぱりデマだったんですかね」
「そうかも知れんな。でもあのスピード狂も本当だったし、案外猿のレストランというのも本当だったかもしれないよ」
「まさか、そんな…、作り話SFの類いですよ。さるフィクション」
「でもな、俺のじい様に聞いたことあるんだよ。昔料理と言えば猿でその一番うまい猿が王様だって」
「知ってます。それこそSFですわ。荒唐無稽な話はやめましょう。頭おかしいと思われますよ」
店内は予想通りピークを過ぎて急に引き始めた。
「言う通りでしたね。お客さん引いちゃった。本当に出歩かなくなっちゃったのかな?」おもむろに後輩の猿の給仕は外を見た。
「うわあ」外を見るなり猿は驚きを隠せなかった。
通りに面した店の外は動物でごった返していた。虎と言わず熊と言わずあらゆる動物がひっきりなしに明らかに王立系とは別の店に出入りしていたのだった。
「?…」もう一匹はテーブルを拭いていると、一冊の本を見つけた。お客の忘れ物だと思ったがフリーペーパーの類いだと気がついて、ぽいとゴミに捨てた。ゴミを捨てるときに釣られて外を見ると。なぜだか同じペーパーを持つ動物が多くいた。
69
今日の潜入先はバーガー専門店だった。いつものように料理長らしき動物が居ない、それで居て忙しくて手が回ってなさそうなところを選んだ。忙しければばれないし、ライオンの料理長が居るようなところではこき使われるに決まってるし、以前のように自分が食材にされてしまいかねないからだ。そのハンバーガー屋は、いつもの大通りとは違うが、それでも同じ位大きな通りの割と大きな店だった。
よおし、今日も腹一杯くうぞ〜。
今日のセレンはいつもにまして気合いが入っていた。かねてから本格的なハンバーガーを食べたかったのもあるし、老猿が少し体調を崩していたのでセレン一匹で二匹分の食料を調達をする必要があったからである。下調べは出来ていた。数日前から何となくではあるが店の裏を張り込み、その日料理長が来ないのはわかっていた。
例によって勝手口から入ると、案の定店は大忙しだった。いきなりのピークだったがここからがセレンの真骨頂。空いてるポジションを見つけると直ぐに適応してオーをこなすのだ。パティをこう焼いてバンズに挟んで、ポテトを揚げて…。セレンの中でイメージトレーニングは出来ていた。頭で反芻して、さあいざ、めまぐるしく動いているスタッフの空いている所に入るやセレンは面食らった。
たくさんの動物の顔が目に飛び込んできたのだ。セレンは思わず顔を避けた。どういうことなんだ? そおっと再び目をやると戦慄が走った。ライオンやトラも居る。今までだってこんなに支配階級のそろったレストランは見たことが無い。王立じゃないのに…、すぐ逃げなきゃ。
しかし遅かった。
「まだかね?」セレンは自分が話しかけられたのがわかった。早速監視されてる。
「も、もうすぐです」答えるなりすぐ自分の居る作業台に目を落とした。口からでまかせだったが助かったことに、そこにバーガーのパテが既に10個以上並べられて、それぞれ焼き具合に差はあるが、間もなく焼き上がるパテもあった。
でも、どうしてこんなに動物が…。厨房は思ったより大きくない。再びそっと目を前にやって合点がいった。カウンターだ! セレンが今いるのはカウンターキッチンで、目の前に居るのはスタッフではなくお客なのだった。やばい、いいのか? 自問自答したが次々と焼き上がるパテを前にそんなことも言ってられないセレンは、パテが透明の肉汁を滲ませたのを合図に引き上げ、バンズと合わせ、盛りつけ、先ほどのお客に提供した。更にたくさんのパテが順々に焼き上がっていく。
「ミディアムレアだろうね」
「えっ!」そんなの聞いてない。セレンは混乱した。焼き方の指定があったとは知らなかったのだ。当然よく焼きで焼いていた。
「あっ」セレンが止める間もなく、ライオンのお客はおかまいなしにその大きな口でバーガーを半分咀嚼した。セレンからは、よく焼けたパテの中身が見えた。これはクレームものだし、そうなるとちょっとした騒ぎになって店員にもばれるしどうしよう…。セレンは生きた心地がしなかった。しかし、そのライオンの反応は意外なものだった。
「グッド。最高の焼き加減」そう言って断面を見せながらセレンにグッドサインを見せてきた。最初、何かの罠かと思ったセレンだったが、心底満足そうなライオンの顔を見て、単純にミディアムレアの意味を知らないのだろうかと訝った。何にせよ助かった。他のオーダーは幸いにもよく焼きだった。そこでもまた、ほっと胸を撫で下ろした。
セレンは老猿の待つ寝ぐらに帰る道すがら温かいハンバーガーを持ちながら顔を紅潮させていた。今でも目に焼き付いている。それは、今まで夢にまで見ていた鹿の娘が、店の外を歩いているのを透明の窓から見たからだった。あれは間違いなくリカさんだ。セレンはそのとき店を飛び出して一目散に鹿の娘を追いかけたかったが、オーダーもたまってて無理だった。それ以上に興奮で動けなかったという方が正確だったかもしれない。ひょっとしてこの店に入ってくるのではと期待したがさすがにそこまで都合良くは行かなかった。それでもセレンは大満足だった。同じ街に居るという事実がセレンを元気にした。
*70
「遅かったのう。病人を置いて何をしていたんじゃ」
「はい、お土産」セレンは尚もぼおっとしていた。
「どうしたセレン? またかわいい女子でもいたか?」セレンはぷいっとしてすぐ寝ようと布団を被ったが、もちろん寝れる訳が無かった。
「そう言えばあの鹿の点家のご令嬢って」
セレンはその言葉を聞くや否やがばっと布団をはぎ取った。
「なんか知ってるのかよ?!」
「い、いや。どうしたんじゃ?」老猿はあまりにセレンが勢いよく迫ってきたので一瞬ひるんだ。
「何でもないよ」そう言って再びぷいっとふて寝をした。
「御令嬢は絶世の美しさらしいが、母上の方は知ってるぞい」
「えっ?」セレンは布団を開けて再び上体を起こした。
「鹿の点家はな、代々服飾と美容で名を馳せる家だが、母君は美食にも通じるお方だった。母君はそれは美しいお方じゃった。顔の美しさは言わずもがな、特筆すべきはあのカモシカのようなほっそりとした四肢、稀にも見ないスタイルじゃった」
「じじい、よだれ」セレンは老猿の頭をはたいていた。
「いたっ、何すんじゃあ! 病人じゃぞ」老猿は粗相の処罰の不当性を主張した。
「まあ聞け。ご令嬢の顔は母君と全然違うという。しかしそれは別系統なだけで美しさは母君に匹敵するかそれ以上の美しさと聞く」セレンは真剣に老猿の言葉に耳を傾けていた。今までに無いくらいの真剣さで。
「だが似ている部分もある。というより全く一緒ではないかと噂されている」
「何が?」
「それはスタイルじゃよ」
「スタイル? サイズってこと? それはどうやってわかるんだよ?」
「ボディサイズじゃ。鹿の点家では、伝統的に雌が当主となり代々背格好が同じくらいの婿を迎える。それでかどうか代々親から娘へと同じサイズのスタイルが継承されているのと言う。これは鹿の点家の美意識から来ているのだろう」
「へえ」セレンは聞きながら鹿の娘のお母さんはどんなだろうかと妄想し始めていた。
「あともう一つこれも噂じゃが鹿の点家には秘密の鍵がある」
「秘密の鍵?」
「そう。お前はレシピの書を聞いたことがあるか?」
「知らない。何? レシピの書?」
「そうじゃ。グランシェフのみがこのレシピの書を閲覧できると言う伝説の書じゃ。これがあれば世界を完全に支配できるという。そしてそのレシピの書と鍵を、お前のじい様は上帝に襲われる前に隠したのじゃ。それを上帝はずっと探っているという」
「その前にグランシェフって、本当にいたの?」
「何を言ってる。確かに伝説的な存在でわしの知っている限りは居ない。じい様も優れた料理人であり王であったが決してグランシェフではなかった。だが、それは確かにあった。上帝は王が自分をグランシェフに認めなかったが故に革命を起こしたのじゃ」
「それじゃ上帝はそれなりに凄いんだね」
「恐らく、この世で一番だろう。それは認めねばならん」セレンはそんなことを言われても俄には信じられなかった。頭ではわかっているもののなかなか力の支配する料理人の世界のイメージからまだ抜けきれないでいた。
「あんなに小さいのに?」
「昔はそれでももっと大きかったのじゃ。今ではかなりしぼんでしまったが、今の体制を作るまでは。丁度今のセレンを一回り大きくしたような」セレンは聞いていてショックを受けたようだった。
「どうせ、俺なんか…」
「ばか! 力は関係ないというのはお前が証明してきたじゃないか。それに料理の世界で大事なのは食材との対話、そして想像力じゃ」それを聞いて少し元気を取り戻したセレンは再び老猿の話に耳を傾けた。
「上帝は当時その能力において右に並ぶものは居なかった。それは王がとてもかわいがっていた美猫で上帝の母の華さん譲りでもあった。じい様は上帝を目に入れても痛くないほどかわいがっておった。当然、プライドも隣の宇宙に届くのではないかというほど高くなっておった。しかしじい様は結局、上帝のグランシェフの称号を認めなかったのじゃ」
「どうして認めなかったの?」
「わからん。もしかして上帝の出生の秘密に関わりはあるのかもしれん」
「出生の秘密?」
「ああ。今はライオネス語のみだが昔はもう少し通じる言葉があって、華さんは言葉の天才じゃった。だから華さんもよくトンネルを抜けて辺境まで行くのが好きだったんじゃ。昔から辺境は神の住まう場所と言われるが辺境にはあらゆる野生動物、怪物が居るからその環境で覚えたというのもあるだろう」
「トンネルって?」
「トンネルは満月に開きやすい。昔は至る所に瞬時に辺境へ抜けるトンネルがあったんじゃ。往来も活発で怪物たちもたくさん来てた。今では取り壊されてすっかりお目にかからなくなったがな。上帝の取り巻きに少しいるくらいで」
「ああ、あの処刑房にいた怪物さんも昔はたくさん居たんだね」
「ムーマーマか。居たなあ。じい様の治世の時代はたくさんおった。でもそれより以前はあの上帝のそばに控えていた怪物たちがわんさかと居たもんじゃ。街中至る所に居たもんじゃ」
「それは迷惑」
「ふふふ、しかしのう。奴らは滅多に危害を加えん。驚かして楽しんでるだけじゃった。もっともムームーマはまたちょっと違うんじゃが」
「それで出生の秘密って?」
「おお、そうじゃった。華さんは辺境へ散歩するのが大好きだったんじゃがやはり辺境は辺境。あるとき悲劇が起こったのじゃ」
「何?」
「あるとき華さんが遅くなっても王宮に帰ってこなかったのじゃ。さすがに心配になってトンネルを探ると華さんが倒れていたのじゃ。それもぼろぼろの服になって」
「それって…」
「数ヶ月後、華さんは身ごもった。あまり詳しいことは話さんが、どうやら辺境のライオンに乱暴されたらしい」
「上帝はその時の子供なの?」
「そういうことだろう。だから上帝の身体は普通の猫よりは大きく、普通のライオンよりは小さいのだろう」
「そうなんだ…、でも上帝のことはかわいがってたんでしょう? だったらそれが認めない理由になるの?」
「まだ続きがある。上帝の幼き頃、王は華さんを連れて散歩に行った。華さんはその事件以来外に行かないように散々止められていたから喜んでついていった。通常より大きな赤子である上帝の子守りも小さな身体の華さんには堪えたことだろう。それで息抜きもかねて連れてったのじゃ。しかしそのとき悲劇は起きた」
「どうしたの?」
「王がほんのよそ見をした隙に華さんは居なくなっていたのだ。もちろん王は二度と辺境に近づけないようにトンネルの近くは避けていた。だから、散々探して華さんを見つけた時はどれだけ悲しんだだろうて」
「どうなったの…」
「惨殺されていたのだ。おそらくはライオンによって」セレンは惨いという顔をした。
「じゃあ悪いのはライオンじゃないか」
「真相はわからない。もちろん当時幼かった上帝がこのことを知る由もない。しかし恨みもあったじゃろうがライオンは上帝の父でもあるのじゃ。それでも王は必死に上帝をかわいがった。自分が不注意で華さんを死なせてしまったという負い目もあっただろう。それこそ実の息子以上だった。もちろん、息子、つまりお前の父さんが料理に見向きもしない方だったというのもある。あの方は間違いなく食材と対話出来たはずだが料理に全く興味は無く、反対に偏執狂的なまでに道具、特に刃物に取り付かれていた。やがて当代一の刀鍛冶になった父上の刃物は、天下に切れないものの無いほどの刃物を作ると言われた。だからおまえの包丁を見て上帝は目の色を変えたのだ」
「そうなんだ…、でもそれだったら尚更なんで拒否ったの?」
「上帝はめきめきと才能を発揮していった。食材に対する理解、創造性に置いて並ぶものは無く、王でさえ最早上帝には敵わないと認めていたしライオンの血が入っているだけあって力も強大だった。だが上帝は王に対してどこか華さんを失った恨みもあってか、かわいがられていたにもかかわらず次第に反抗的になっていったんじゃ。そのためか王は最後まで上帝のグランシェフ就任を認めなかった」
「ふうん、よくわかんないや。認めてあげたら良かったのに。でもあの感じだったら確かに嫌だけど」
「うむ。結果的に上帝に恨みを買って猿族の存亡の危機に立たされたわけだからの。しかしその決定的な時期はもう少し先じゃった。上帝は頻繁に華さんのように辺境へ行くようになったのだ。そして帰ってくるたびに上帝と王の対立は先鋭化していった。どうやら悪いことに辺境の何者かによって、華さんの死の本当の原因が王だと吹聴されたのじゃ」
「えっ、不注意だけどわざとじゃないじゃん。責任はあるけど」
「ああ。しかし上帝はそうは捉えていなかった。ふしだらな雌猫をライオンの餌としてトンネルに捨てたと思ったのじゃ」
「そんなの嘘じゃん!」
「もちろん嘘だと思うが、誰も見た訳じゃない。いずれにしてもそれがきっかけで王と上帝の対立は決定的になったのじゃ」
「それで革命が…。レシピの書はどこに隠したの?」
「それはわからん。これは上帝と五大家の一部だけが知っている事実で、隠し場所はネズミのじい様しか知らんじゃろう。ただし、それを開ける鍵を持っているのが鹿の点家という噂なのじゃ。そしてレシピの書の隠し場所に関してもう一つ」
「何だよ。結局なんでもわかってんじゃん」
「あくまで推測や噂じゃ。その噂によると、レシピの書はシャントワゾーが持っている」
「え! シャントワゾーってあのシャントワゾー?」
「その通り。じい様がシャントワゾーに託したという噂だ。そしてヨシナリがそのレシピの一部を受け継いでいる」
「えー、それで上帝が…」
「ああ、殆どは上帝のレシピに書き換えられているが唯一隠し通せたものがある。それがシャントワゾーのレシピだ」
「やっぱり…え? でもなんで知ってるの?」セレンはヨシナリで唯一他と違ったレシピを写させられたのをよく覚えていた。
「あそこの副料理長がわしじゃもん。尤もワシも理解できんかったけど」
「そうだったの? でも小さい頃も何回も行ったよ? 全然居なかった」
「あ、もうその頃にはこっち来てたもん」
「え、じゃあ料理長は?」
「料理長とは王宮でも料理長と副料理長だったが意見が対立してワシが出てきたんじゃ。料理長はあとでギンザに追いかけてきたけど。だから三番手に任せて最後の方はどっちも居んかった。そのヨシナリも今はない」
「そうか…」セレンはヨシナリの店長やカンシローを思い出していた。
「だから鍵だけは鹿の点家が守っててくれるはずじゃ」セレンはそれを聞いて何故だか不安な気持ちになった。
「そんなことより明日はどうするかの?」
「なに? 潜入先?」
「ああ、また魚介系にするか。鹿の点家の奥方もお好きだったからな」
セレンの目はそれを聞いて俄かに輝きを帯び始めた。
「でも娘と好みが一緒とは限らんぞ」
「そんなこと聞いてないだろ」
「ふふふふ」
「グランシェフかあ」セレンは毛布に包まり鹿の娘を思い浮かべた。
*71
「今度は大丈夫だから。さっきも開店前に店の前通ったし、やたら大きい店だけどテーブル席ばっかで、絶対オープンキッチンじゃなかった。魚介系のレストランだからライオンも居なそうでその辺も安心だし」
「本当だろうなあ。比較的新しい所だからなあ。ガイドブックによると魚介レストランでは最大規模だから紛れ込めるとは思うが…、カウンターキッチンだけは絶対に勘弁じゃぞ」
「わかってるってあんな緊張するのこっちこそ嫌だよ。いつ通報されるかわかんないし。ライオン避けてるのに客はライオンばっかなんだから。そのまま食われそうだったし」
「料理作りながら接客だけは本当勘弁じゃよ」
ピークの時間になると二匹は例によって裏の勝手口から潜入を始めた。ドアは閉まっていたが喧噪が明瞭に漏れてきている。始まる頃から出勤動物を観察していて、あらかじめライオンなどセレンたちにとって天敵になりそうな動物が居ないのも確認できていた。扉を引くと、例によって十数匹の従業員が戦争のようにめまぐるしい動きをしていた。
さあ戦闘開始だ。
セレンと老猿は瞬時に空いているポジションと仕事を見つけた。潜入成功。ここまで来たら後は流れに乗るだけだ。セレンがたまっているオーダーに目を通した。
「ふかりのサクランボ酒蒸し!」
定番のやつだ。しかもたくさんあるように見えたオーダーも半分以上が「ふかり」だった。これならいける。セレンは食材を確認すると心の余裕が出たのか老猿の方をちら見した。老猿もオーダーを確認して特段慌てている様子も無かった。しかし安心しているのもつかの間だった。
「あれ? 君」早速ヤバい。ばれた…、つまみ出されるか最悪の場合通報が待っている。
「新人君だよね。ホールが人足りてないんだ。表行って手伝ってくれる?」
「え? あ、はい」セレンは仕方なしにホールに出ることになった。なんかおかしな展開になってる。なんかばれてないけど表に行くことになった。接客は嫌だったがこのレストランは魚介系でお客にライオンも少なそうだし、ひょっとしたらリカさんがいるかもしれない。ホールに向かっているうちに不安より期待の方が高まってきていた。
表に出ると案の定ホールスタッフがてんやわんやだった。
「こっち早く!」早速客席から呼び出しがあった。しかし客席はずいぶんとまたサービスするところから遠いところにある。丁度呼ばれた客席がサービス台から見えた。さすがは巨大レストランだけはある。しかしセレンはその客席を改めて見て思わず目をそらした。恐らく一番遭いたくない類いの客だった。ライオンだ。正確にはわからないがなんと席いっぱいにはライオンの群れ! 呼び声が割と甲高くてかわいかったので驚きは更にというところだった。セレンはそのままキッチンに逃げ帰りたかったが最早直接呼ばれたので行くしか無かった。自分で餌になりにいく心境だった。このレストランはギンザでも指折りの巨大レストランなのだ。客席までは遠い。まだライオンのところにたどり着くまで時間がかかるはずだ。逃げようか迷ったが、進んでいくうちに何か妙なことに気づいた。近づくごとにライオンは大きく見えていくはずだが全然変わらなかった。むしろ萎んでいく感じがして、それとともに恐怖感も薄らいでいった。そして遠く離れて見えた客席は実は思いの外近くてすぐにたどり着いてしまった。
「いいから早くするニャ」
「は、はい」結局そのお客はライオンでもなんでもなくただの鬣の着け毛をした猫の集団だった。客席全体を見渡せるところに来てようやく、セレンは客の殆どが猫、猫だらけだったということに気がついた。ホールは確かに広いが客席が遠く離れていたわけではなく、最初のこのレストランは巨大だという刷り込みが勘違いをさせていたのかもしれない。
その後もひっきりなしにくるのは猫猫猫のオンパレード。料理を運んでるときに頭に乗られるは勝手によそのオーダーを食べちゃうはでめちゃくちゃだった。猫はしかしこのギンザでもっとも高位の貴族だったので、奴隷である身分のセレンは散々こき使われ、逆らうことはゆるされなかった。こうしたところからもやはりこの世界は決して力ばかりでないというのは確認できた。結局、都合よく新人と勘違いしてくれたお陰でへろへろになりながらも賄いをしっかり食べてひっそりと店を後にしたが、二匹は二度とこの店には戻るまいと誓うのだった。
「もうこんなしんどい店嫌」勝手口から去る時の二匹から漏れた言葉だった。ガイドブックをもう一度確認すると猫御用達となっていた。帰る道すがらこのことで二匹が責任のなすり合いになったのは言うまでもない。