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猿のレストラン  作者: あんまん。
2/5

2セレン逃亡する

20


「そんなのどうだっていいじゃない」

「しかしお嬢様はお若いからご存知ないのも無理はありませんが、これは重要なこと。何せ今回の決定は10年ぶりのことなのです」

「ふーん、どうせ傀儡なんでしょう?」

「いった。ぶったわね…お母様にだってぶたれたことないのに」

「そういう発言は金輪際二度となさいませんよう。殿方との御縁も遠のきますよ」

「ふん、決められた縁談に従う気はさらさらないわ」

「まったく…あっ! どこへ行かれますお嬢様」

「ちょっと隣町」

「おやめください、このギンザから離れるのは危険です。第一どうやって?」

「電車で行くわ」

「まあ…、そんな庶民の乗り物。おやめください」

「しーらないっと。じゃあねー」

「あ…、お嬢様!」


 大通りの街路樹は俄かに枯れ始め、街は冬の到来を受け入れ冷気が蔓延りつつあったが、それを覆す活気があった。おのおのが新作の冬物の外套を着て、小躍りするようにギンザの大通りを闊歩した。民衆は久しぶりの新王の誕生に沸いていたのだ。四つ角の真ん中にある時計台の下の大きなオーロラビジョンには、大きく新王の姿が映し出されていた。セレンはギンザの裏路地から、動物たちの集まっている様子を眺めていた。ひっきりなしにどよめきが伝わってきた。

「今度の王様は片眼が潰れてんだねえ」がやがやと動物たちの鳴き声はやむことが無い。

セレンも興味がわいてきた。新王は片目だって? セレンが勤めていたレストランカネサークをハナコと共に逃げ出し、逃亡生活を続けて三日がたとうとしていた。ハナコとは最初に逃げて別れたとき以来全然行方が分からなかった。それ以来、セレンは浮浪者の生活で残飯を漁って食いつないでいた。

「これから挨拶だよ。新王様の挨拶だ」

動物たちは注目した。セレンも注目した。画面はぱっと、新王らしきライオンを捕らえた。セレンはそれを見てぎょっとした。

「みなさん」

セレンは思わず眼をそらした。そこに映し出されていたのは、紛れも無くセレンの勤めていたレストランの料理長サッツカだった。セレンはすかさず背を向け走り出した。なるべくそこから離れようとした。何を隠そう、料理長の目がつぶれていたのは明らかにセレン自身のせいだった。遠く離れ行くセレンの背中を料理長、すなわち新王の言葉が突き刺さった。

「このサルです。このサルが私の目を、拾った私のこの鋭い爪で突き刺した。私は断固許さない。必ずこのサルをーーー」

セレンは必死の思いで逃げた。間違いなく新王は自分のことを言っているのだ。セレンはギンザを、迷路のような裏路裏を逃げた。幸いまだセレンの存在に気づいているものは無いようだった。

でもどうして? セレンの頭の中はごちゃごちゃに混乱した。いったいどうして料理長がよりによって王様に?


           21

 ギンザの街は華やか過ぎて逃亡中のセレンには堪えた。衣服も薄汚れてきた。行き交う者はみなきらびやかな服を身にまとい、沿道では動物たちがオープンテラス席で山盛りの海桃のパフェを食べたり天然肥育牛の発酵バターコーヒーを飲んだりしていた。セレンはそんなキラキラした街並みを尻目に、ここ何日も色々な場所に逃げて休まることが無かった。

「おい、追え、あっちだ!」

犬の官憲はセレンを執拗なまでに追い続けた。セレンは全力で逃げに逃げた。ビルの谷間、ビルの階段、ビルの中、そして路地から路地へと犬とセレンの追っかけっこは休みなく続いた。もはやセレンには大通りに出て行く勇気はなかった。と言うよりは現実的にほぼ無理だった。この前一度出たときなどは、自分の写真がでかでかと貼られているのにぎょっとした。ギンザの街中いたるところに自分の写真が指名手配として貼られているのだ。それ以来、ギンザの街を二分する大通りをその向こう側に行く事はほぼ不可能に思われた。あるとしたら、生きとし生けるものがしんと寝静まる暗闇が支配する間深い深夜を狙って、目にも留まらぬほどのスピードで渡る。それ以外に方法は無いとセレンは思った。それも、ほとんど眠ることの無いこのギンザでは事実上無理な話だった。

来る日も来る日も官憲に追いかけられては裏路地から裏路地へと逃げる日々が続いた。ただ、セレンが初めて知ったのは幸いにギンザの大通りを挟んだその両奥側には、華やかな表の大通りとは打って変わって混沌とした別世界が広がっていたことだった。何でも以前はこのギンザも東西南北に碁盤目状に整然と区画されていたというが、この数十年の間にギンザはすっかり社会状況が変わったのか、中央部分は統制がとれていたものの、奥は新しく路地と路地がつながり、道路が横断され、ビルとビルがくっついたりして独自の発展を遂げていたのだ。そしてその外は下界とされ言葉を話さない野生動物が棲息していた。とは言えセレンが王の追及から逃れるにはギンザを脱出するしかなかった。

この路地裏では、セレンのことなど気にとめる者はいなかった。案外、王様のことさえもそれほど関心を持っていないのかもしれなかった。セレンは毎日ギンザの裏路地の街を安住を求め歩きとおした。

 数日が過ぎ、今ではすっかりと見た目が変わり、誰もセレンの元の姿がわからなかった。時折何事かを怪しんで、鋭く正体を暴こうとするものもいたが、セレンは何とかごまかして難を逃れてきた。無数に張り巡らされた路地裏は、往年の端正なギンザの面影もなく、そんなことも些末なことに変えてしまうような別世界が奥深く、どこまでも広がっているように思われた。それは昔のギンザ以上だという。

22

 逃亡生活も既に一ヶ月が経とうとしていた。ギンザの街はすっかり冬模様で、大通りを行きかう動物たちはもうとっくに衣替えを完了していた。今年の冬の流行は羊の毛皮らしく、殆どの動物が羊の毛皮を召していた。そのためか羊たちは需要に供給が追いつかず、逆に毛が頭髪までがツルツルになっていた。いつもは自分たちの毛を編んで着ているのが、代わりに蓑のような藁を纏っている者がでる始末だった。

 とはいえ基本的にギンザの動物達は、自分の体毛を伸ばすということがなかった。ただ例外的に頭髪や顔は慣例としてそのままではあった。サルたちもご他聞にもれず、基本的に体の毛を剃って、何か他の動物の毛皮等を着るのが当たり前だったが、稀に貧乏な家庭では自分の毛を束ねて、それをわざわざ毛皮にして着ると言う手間を掛けていた。それほどまでにいわゆる体の毛をそるというのは、一種の文明生活の根幹を成すものであり、ほかの動物の毛皮を着るのはステータスであった。故にライオン族も今年の冬は好んで羊の毛皮を纏っていた。

 そのためセレンの傍をさまざまな動物たちが通りがかると、その眼は一種けだものを見るような警戒のまなざしだった。セレンは指名手配の身の上を気づかれはしないかと気が気ではなかったが、どちらかと言えばそれは杞憂であり、動物たちの眼はセレンが毛皮を着ていないことに対する不審と偏見、もっと言えば、体毛をそのまま生やしていることに対する蔑みと言うことの方が当てはまった。

セレンは何度もこのギンザからの脱出を試みたが、境界を始めどこもかしこも狼の官憲が常に眼を光らせているため、それは簡単なことではなかった。それでも今ではセレンも髭がぼうぼうになり、レストランに勤めていた頃の面影は消え、誰が見てもわからないほどだった。故に何とか官憲をごまかすことは出来たが、バレるのも時間の問題だと思った。

早くこの街から脱出しなければ。セレンは焦ったが、既にギンザは厳重に封鎖されていた。以前からギンザと下界との連絡は制限されていたのだが、今回の新王就任でさらに厳しくなったようで、現在、このギンザから徒歩で別の場所に抜けることは事実上不可能に近かった。その上これから本格的にギンザの街を捜査するということにでもなれば、セレンにとっては衆人監視の透明の檻の中から逃げ出す様なものだった。

「はあ…馬にでも乗れればなあ」セレンがため息をついて歩いていると急に下から轟音と共に熱風が吹き上げてきた。

「あちちちち」セレンは熱がった。地下を通る汽車の蒸気が通気口から抜け出てきたのだった。汽車が地下を通るのはこのギンザくらいであったが地下から蒸気を逃がすために幾つかの地点に通気口が必要だったのだ。出入口は大通りだけでなく裏路地にもあった。昔は汽車ではなく電気駆動の列車が走っていたということだ。

 「汽車かあ」徒歩以外でこのギンザを抜け出すには馬を駆ける以外にはこの汽車に乗って行くしかなかった。馬は大通りしか走っていなかった。

セレンはポケットの中を探ってみた。中にはかろうじてジャラジャラとしたコインが入っている。セレンはそのコインを数えてみた。

「百六十グルモーン…」それは給料のないセレンが以前ホールの猿からお客さんからのチップだと言って珍しくて記念にもらったものだった。駅はそこからそう離れていないところにあった。以前、何度か駅の前を通り過ぎた時は厳重な官憲の警備を前に乗車など夢にも思わなかったが、考えてみれば今では見てくれも変わっているしギンザを抜けるにはもはや汽車に乗る以外道は残されていない気がした。

「うわ…、思った以上に混んでる…」セレンは駅のそばに来て一瞬怯んだ。セレンは何度か駅の前を行ったりきたりしたがとうとう意を決した。コインを固く握り締め、なるべく怪しく見えないように堂々と駅に向かうことにした。


23

 地下の駅の入り口はギンザに来る者帰る者で押し合いへし合いだった。ギンザの表の街は新王のお祝いで相当盛り上がっており、その余波は裏にまで及んでいたのだ。

セレンも押し合いへし合いを進んでいかなければならなかった。

ここでも力の論理は歴然としていて、力のあるものが強引に我先に通るので、弱いものはいつまでも身動きが取れないか下手したら押し戻されて進むどころかますます遠ざかって行くことが頻繁に起きた。ただ、ネズミなどの小動物はそんな論理など関係ないという風に時折、群衆をすり抜け、周りをちょこまかとしていたりした。

このまま群集に紛れられればとも思ったが、セレンは一瞬ひるんだ。駅前にでかでかと、セレンの顔写真が指名手配者として張り出されていたのだ。

 乗車するまでにはもう一つ大きな難関があった。それが切符の購入だった。

キーイイ。

豪奢な車が駅の前で止まり、群衆の目を引いた。中から大柄なライオンが運転席から颯爽と降り、すかさず助手席に回り込んでドアを開けた。セレンの動きが一瞬で止まった。眩しい光がセレンの心の中を突き抜けた。助手席から出てきたのは眩いばかりの美しさを放った鹿の娘だった。セレンはすかさずポケットにお金を勢い良く突っ込むと、手を膝やお腹で拭いて綺麗にした。自分でもなんでそんなことをやったのかわからなかったが半ば本能だった。

「本当にいいのか? 最後まで送るよ。汽車なんか君が乗るのは間違ってる」

「自分で行くから本当、イイわ、ありがとう」鹿の娘はにべもない様子でライオンを振り払い、つかつかと駅の構内へと向かった。群衆は自然と美しい娘に道を開けた。


 セレンはなるべく顔を見せないように頭を編んでおいた蓑で覆って、切符売り場の行列に並んだ。こうするともう猿かどうかも判然としないようだった。幸いギンザでは丁度帽子が流行っていた。もちろん流行っているのは蓑製の物ではなかったが、目深に被ればほぼ完全に顔が隠れる。どうもさっきから心なしか後ろの方がざわついているがセレンはあえて振り向かないことにした。やぶへびだけは避けたい。

行列は程なくしてセレンの順番になった。券売用の番台には一匹の狐が居て、その鋭い視線をセレンに投げかけた。

「はい、次。どうぞ」番台まで進んだセレンだったが早く購入を済ませてその場から立ち去りたかった。みんなが自分のことを注目している。それは買う段になると独りだけ行列から離れなければならないためにセレンにとっては余計敏感に感じられることだった。却ってこの帽子まがいの蓑が失敗だったか。気にし始めるとありとあらゆるものが気になる。

「あのう、猿ヶ谷まで一枚ください」

猿ヶ谷は、ギンザ外で唯一猿の多く住む、今では大変貧しい地域だった。

「猿ヶ谷?」狐はいっそう疑わしそうな目をセレンに注いだ。その細い目が一段と細く、光を帯びて輝いた。何かまずいことでも言っただろうか? 一応補足するとこの頃の猿ヶ谷はまさしく主に猿の棲む地域で一般的には著しく蔑まれていた地名であって、それが狐の偏見を助長していたことは間違いない。それに猿達は滅多に汽車に乗ることはなかったので、猿ヶ谷に降りるものは極めて稀だったのだ。

幸いにもそんな事情は、汽車に乗る経験のほとんどないセレンには知る由もないことだったので、それ以上無用な心理的圧迫を感じることはなかった。むしろ限界まで圧迫を感じそれ以上無感覚になっていたのかもしれない。

 しかし困難はそれだけでは終わらなかった。 

 あっ! セレンは声を上げそうなのを辛うじてこらえた。ふと見ると狐の後ろには指名手配者のポスターが掲げられていたのだ。

セレンは逃げ出すしかないと思った。このままじゃ逃げ道は無い。逃げ出すなら今だ。

 セレンが断ってその場を立ち去ろうとすると、狐は言った。 

「一六〇グルモーンね」

「あ、一六〇グルモーンですか」

「ないの?」

「あ、いや…あります!」拍子抜けしたセレンはポケットにすかさず手を入れ弄った。

あれっ? 無い…。さっき迄あったはずなのに。まさかスリにあったのか?! 

「どうしたの? ないの?」

「いや、さっき迄は絶対にあったはずです」ネズミにでも盗まれたか! そう言えばさっきからちょこまかとネズミが動いていたような気がする。

セレンは何度も何度もポケットや自分の持ち物を裏返しにして迄コインを探したが、一向に見つからなかった。容赦なく鋭い視線がセレンに突き刺さる。

「あっ!」焦ってもう一度ポケットに手を強く入れるとそのまま手が腿を直接触っていることに気がついた。ボロくて穴が空いていたのだ。どこかに落としたか! 

「それじゃあ仕方がないね」セレンは自分にますます注目が四方八方から集まるのに耐えかねて、すぐにでも逃げ出したかった。その時だった。

「はい、これ」ネズミが直前まで近づいていた気がしたが急に引っ込んだ。そしてセレンの目に、白く細い雪のような、白魚のような可憐な手が伸びた。その上には新品の輝くコインがあった。見たこともない物だったが一目で価値のあることが分かった。戸惑うセレンにその手の持ち主は言葉を継いだ。

「早く、これ使いなさい」

セレンはその手の持ち主を見た。セレンはひっくりかえりそうになった。それはさっき車から降りたとびっきり美しい鹿の娘だった。

セレンは状況が掴めずぽかーんとしていたが、すぐにでも状況を打開したい一心でそれを受け取ると、再び番台に向かってそれを差し出した。セレンはお礼を言おうと振り返ったが、その鹿の娘はツーンとしてそのまま改札に向かってつかつかと進んで行った。

「お釣りでないけど良いのね?」

「あ、はい」セレンはいったい渡したコインにいくらの価値があるんだろうと思ったが流れを止めたくない一心で思わず返事をした。

「これはそのまま持って駅員に見せてください」

番台の狐の口調が若干変わった気がした。渡された切符は思いの外分厚くしっかりとした紙だった。

セレンは改札を通り抜けるとホームで駅員にその紙を見せた。

「上等席!」

「上等席?」駅員は僅かに感嘆の、というより疑いから来る驚きの声を上げた。それはセレンも同じだったが自分も思わず声を上げたことを悔やんだ。ばれたり難癖を付けられたらおしまいだ。駅員は券面を表から裏から、続いてセレンを上から下から舐め回すように交互に見たが、その間もセレンんは極力平静を装いつつドキドキだった。結局駅員はそれでも丁寧に乗り場を教えてくれてその通りにセレンは従った。

(上等席って…本当に乗っていいのか…しかも9800グルモーン!!)

セレンは番台でちゃんと普通席を主張すれば良かったと後悔した。きっとあの硬貨は一万グルモーンだったのだろう。それだけあれば一ヶ月暮らせる。

セレンはしっかりと切符を握り締め、指定の場所から汽車に乗り込むことが出来た。

 車内は上等席とはいえ、かなり込んでいた。セレンは先ほどのやり取りが恥ずかしかったということもあって、なるべく顔を見られないよう更に帽子を目深に被った。ただでさえ指名手配なのだ。ほとんど首より下、もっと極端に言うと足元しか見えない中、そおーっと席を探しながら車内を歩いていると、ちょうど足がない。つまり一つ席が空いているのが見えた。ここだ。数字を確認し、セレンはそこにちょこなんと座った。

セレンにとって汽車ははじめてではなかったが、上等席は勿論初めてのことだった。でも正直普通車との違いがわからなかった。

車内は対面で、セレンの隣には豚紳士が座っていた。そして前の席には、細く綺麗ですらーっとした脚が見えた…。セレンは興味をそそられ、顔を一目見ようと蓑を恐る恐る上にずらした。

「あっ、」ぱっとセレンの眼に柔らかい光りが輝いて、楽園が広がる様だった。そこに座っていたのはさっきの鹿の娘だった。

「さ、さっきはほんとありがとうございました」セレンは頭を下げ先ほどのお礼を言ったが、鹿の娘はツーんとして顔をそらした。セレンにとってはその態度は残念だった。それでもここ一ヶ月のことを思うと今こうしてここにいてこのギンザを今にも脱出できる、そのことに興奮してきていた。

 やがて地下から汽車が走り出すと、間も無く地下を抜け地上に上がり、セレンは移り行く街の変化に夢中になった。セレンは思わず窓から身を乗り出し、反対に通路側の窓の外を見ようとしばし豚紳士の方までもたれかかることもあった。明らかに豚紳士は嫌そうで、咳払いをしたりしてアピールしたものの、セレンは外に夢中で気がつかなかった。

車窓から見える風景にはたくさんの広告看板が見えていた。セレンは熱心に見入った。今まで見たことがなかったはずはないが、朝から晩まで奴隷として働いてまた逃亡生活では表通りに出られることがほとんどなかったセレンにとって、こういう情報は見ていて飽きなかった。こうしてみるとギンザは結構広い。昔よりもやや大きくなっているらしかった。

そしてとうとうギンザを汽車は抜けていく。ギンザの外との境界には狼の官憲が多く居て、通行者の出入りを制限しているようだったが汽車だったらこれもスルーなのだ。

(やっと外に出られるんだ! これで逃亡生活も終わる)

しかし安堵も束の間だった。ギンザを過ぎてしばらくのところで車窓を眺めるセレンの視界に見覚えのある姿が写り、思わず身を引っ込めた。拍子にかぶっていた帽子も気づかないうちに飛ばされてしまった。ライオン王だった。もちろんそれもなんらかの広告看板なのだが、その姿がおっきくセレンをにらんでいるようだった。セレンは一気に現実に引き戻された。ギンザを出ても自分はあくまで指名手配なのだ。そして現実はセレンを暗鬱なまま放っておくどころか更に追い討ちをかけてきた。

「ちょっと」声の主は豚紳士だった。セレンはびくんとした。しかしそれはセレンに対して放たれた言葉ではなかった。

24

「はい? お客様、如何なされたので?」受けたのは車掌さんだった。

「この猿…」セレンはすぐさま帽子を目深に被り直そうとしたが、そこでやっと帽子がセレンの頭に乗っていないことに気がついた。いつの間にか飛ばされていた。胃が万力で締めつけられるような心地だった。どうしよう。セレンはもうこの場をどう逃げ出すか、それだけを考えていた。

「あのさあ」

「はい?」豚紳士と車掌のやり取りを乗客みんなが注目している。セレンはそう思った。

セレンは逃げ道が無いか目だけで探した。

「どうして私がこんな薄汚れたサルと一緒に乗らなきゃあならんのだね?」

どうやら気づかれたわけではなさそうだ。

「そうは言われましても…、当列車の規約では原則として切符があれば身分は関係ございませんので…」

「この上等席でもかね?」

「はい、さようでございます」

「ああそうかい、我慢ならんね全く…、どうせどっかで拾ったモンだろうに」

豚紳士は間違って掃き溜めから出てきた場違いな汚物でも見るようにセレンを見た。しかしこれは何も特別な蔑視というわけではなく、実際、一般の猿に対する見方と言うのはそれと五十歩百歩だった。セレンはもう本当これ以上小さくなれないだろうというくらい小さく縮こまっていたが、豚紳士は更に車掌に畳み込んだ。

「それでは他に席を用意してはくれないかね?」

「いやあ、そう言われましても、この満員でございます…」

そう言って車掌は手を広げ全体の客席を示し、空きが一席もないことを示してみせた。

「正規に購入した私がなぜ、拾い物をした猿と同席しなきゃならんのか。あるいは盗んだものかも知れない。よく調べた方が良いのではないかね?」

セレンはその言葉を聞くと、何も言い返せず、言っていることが当たらずとも遠からじとと思い、またこれ以上注目を浴びたくないこともあって、とにかく今すぐ逃げたい気持ちでいっぱいだった。しかし、その時だった。そのセレンの向かいから毅然とした声が発せられた。

「ちょっと」鹿の娘だった。

「さっきから黙って聞いてたら何なのよおしゃべり豚さん。その切符私があげた物よ。それなら文句はないでしょう? 豚さん」思わぬ会話の闖入者に豚の紳士は目をぱちくりさせた。

「し、失礼な。豚とは何だ豚とは」

「豚じゃなかったら何なのよ?」

「見てわからないか? 私はれっきとした豚紳士である。喋れない家畜の豚とは違う」

「つまり喋る豚でしょ? ちゃんとさん付けもしてるんだし、文句無いでしょう?」

「ぶぶぶ、豚と豚紳士は違うのだ」豚紳士はぶんぶくれていた。

「一緒よ」二匹の口論に耐えかねて、セレンは鹿の娘を制するように割って入った。

 「すみません。すぐ降りますから。豚さん」

「だから豚ではないと言っておるだろうが!」豚の怒りは怒髪天を突き抜ける勢いだった。豚紳士の激昂に、二匹は笑いをこらえきれない様子だった。

「そもそも豚紳士というのは言語を習得した後、訓練を経て厳正なる審査を通過した…」

「はいはい、紳士の豚さん」鹿の娘は被せ気味に返した。

豚の紳士は憤懣やる方ないと言った感じだったが、一応『紳士』の言葉を聞いて、怒りの矛を渋々収めた。セレンと鹿の娘はくすくす笑いが止まらなかった。

豚紳士は露骨に嫌そうな顔をセレンに向けた後は、再び黙ったままだった。

ふうー、とりあえずは大丈夫だったみたいだ。セレンは幾分気が晴れた思いだったが、あまり目立つのもやはり考えものだった。鹿の娘に軽く会釈をすると、鹿の娘はしかし再びツーンと顔をそらした。セレンに再び孤独の波が襲って来た。いたたまれなくなったセレンは窓の外を見た。陽炎がそこにいた。セレンは誰彼とも話す存在がないので、その陽炎に小声でお話をしてみた。不思議なことに、陽炎はセレンの問いかけに答えてくるようだった。セレンはびっくりしたが、それはどこか懐かしい感覚でもあった。セレンは急に楽しくなった。

紳士はそのやりとりを怪訝な顔をしてみていたが、今度は鹿の娘がかえってセレンに興味を持ち始めた。

「へえー…」

セレンは鹿の娘の視線を感じたが、それは悪い感じではなかった。

「あんた名前は?」

セレンはドキッとした。名前を名乗る? しかし指名手配書の中に名前は書いてなかったはずだ。猿は奴隷であって、元々レストランにも名前は知れてなかった。というより言っても覚えてもらえなかっただろう。

「セ、セレン」セレンはおずおずと答えた。

「セレン? あんた女の子なの?」そう言って鹿の娘はゲラゲラと笑い始めた。

「う、うるさいな、お、おれはれっきとした男だよ!」

セレンはムッとしたが、鹿の娘は矢継ぎ早にセレンに質問を浴びせた。

「あんた猿が谷に行くんでしょう? 何しにいくの?」

この質問にはさすがにセレンはどぎまぎした。そんなこといったらますます素性が怪しまれるし、怪しまれないにしても猿が谷でおりるということ自体馬鹿にされるに決まっている。しかしセレンには鹿の娘のどこかに馬鹿にした調子を探しても一向にそれを見いだせなかった。豚の紳士もときどきちらりとセレンの方を伺っているようだったが、そちらの方は明らかにセレンのことを馬鹿にしているようだった。

「え、い、いや別に…、家に帰るんだよ」

「家に帰るって、その割には初めて行くみたいな感じなんだけど」

「そ、そんなことないよ。上等席に座るのが初めてなだけだい」

「ふーん…ところであんたどこのレストランで働いているの?」

「えっ…」セレンは戸惑いを隠せなかった。

「何驚いてるのよ? 猿なんて大抵働き口はレストランくらいしかないじゃない」

「あ、ああ」セレンはそれを聞いて少し安堵した。

「最近やめたところなんだ。それで家に帰ろうと思って」

「ふーん、それじゃ次の働き口あるの?」

「いや、まだ決めてないよ。あるかなあ、猿が谷にも」

「さあ、最近いろいろと変わっているみたいだからね。詳しくは知らないけど」

「ああ、でも働ければどこでもいいや。シェフになれれば」

一瞬、何かセレンは場が凍り付いたような気がした。ざわついた社内が一瞬静まったかのような。

「今何て?」

「だから、働ければどこでも」

「その後よ!」

「え? シェ、シェフだけど…」

「シェフですって?」

「お、俺まずいこといったかな?」セレンは視線が一斉に自分に集まるような気がして、小さな身が更に縮こまって、今度こそ塩をかけられたナメクジのように消えてしまいたいような思いだった。

しかし鹿の娘はその大きな目をくりくりとしたままセレンを見つめた。何か深く感動した様子だった。なんだかわからないがセレンはそれだけで気持ちが大きくなり、体まで再び大きくなるような気がした。

「おかしい?」セレンは言ってから急に恥ずかしくなっていた。

「ううん。でも、シェフという肩書きが付くレストランだったら、ギンザにしかないよ」

「ふん! そんなのどこだってーー」

——次は猿が谷—、猿が谷—

車内アナウンスは次の停車駅が猿が谷にであることを告げた。尚もアナウンスは続く。

——次の猿が谷につく前に、検問を行いますーー。

セレンはアナウンスの検問という響きに血の気が引くような緊張を覚えた。

「検問? 変ねえ、何かあったのかな?」

鹿の娘は特に気にする様子ではなかったが、セレンはそれこそ気が気ではなかった。その何かが、自分に関することだと想像するのはセレンには容易だった。

セレンはあたりを見渡した。反射的にどこか逃げ出す道を探した。

「ねえ、よかったらーー」

セレンは鹿の娘が何か言い終わるうちに席を立とうとした。

「検問、検問—」列車の隣の車両からドアーが開いて、犬の官憲が入って来た。

「指名手配を探しております!」官憲が叫んだ。

「や、やばい」心臓のバクバクが止まらなかった。

「ねえ、どうしたの?」

「ぼ、ぼくいかなくちゃ」

「え、どこへ? 今から検問よ。ちゃんと席についていなくちゃ疑われちゃうわ」

そうこうしているうちにも官憲が端の席から切符と身分証を検めていたが、順番でもなくそれはほとんど猿類等に限定されていたようだった。といっても猿類はほとんどいないのでセレンの順番に一足飛びに近づいているのがわかる。というよりほとんどセレン目がけてやってくる。セレンはおもむろに立ち上がると車窓をガッと全開に上げた。

「え、ちょっとどうするつもりよ?」

「僕、指名手配なんだ。ありがとう」

「えっ?」セレンはイチかバチか車窓からガッと飛び降りた。

「ちょっとセレン!」鹿の娘の叫びがセレンの耳から遠ざかって行った。

汽車は前に進み離れていった。もはやここまでか。セレンは自分がスロー再生をしたようにゆっくりと回転しながら落ちていくのを感じた。その間に様々な思念が頭をよぎった。そのまま危険を冒さずに席に居た方が良かったのではないか。やっぱり変な格好付けはやらないほうが良い。後悔しても遅かった。体があらぬ回転をして頭から落ちていくのが自分でもよくわかった。もう終わってしまう。そう思った瞬間、肌色の物体群が見え、セレンはどことなく懐かしいような、それでいて確実に臭いものを嗅いだような気がした。そしてセレンはその肌色のものに頭から激突した。

いてっ

それは豚の背中だった。思いの外痛さはなく、「いて」なんて自分が言ったか何処かから聞こえたのかわからないが、セレンは豚の背を何度もバウンドして、やっと柔らかな草地に落ちた。一瞬の豚小屋の混乱も、すぐに豚達は何事もなかったように草を食み、時折ブヒブヒと鳴くだけだった。助かった。豚小屋を出ると、そこは猿が谷旧市街だった。


25  絶望の猿が谷


♬昼下がりの午後〜太陽をー背に〜坂を上り♬

自然と鼻歌がセレンの口をついて出た。

ここまで来れば大丈夫。猿が谷の旧市街地は久しぶりだった。ギンザ外だから野生動物に気をつけなければいけなかったが、厳重な監視を逃れた開放感と幼い時以来の地元で心が躍った。

だが、異変は街に入ったときからすぐにわかった。街が異様に静かなのだ。猿がいない。猿どころか生き物自体がまばらだった。まるで打ち捨てられた廃墟のようだった。うら寂しく、時折ネズミが道を通り過ぎるくらいだった。

どうしたのだろう? セレンは大通りを行き見知った店々を覗き込んだが、何処も彼処も戸がしっかりと閉じられていた。セレンは途方に暮れた。

確かこの辺り…、もうずいぶん来ていない。ギンザには新市街から通っていたが隣の旧市街には毎日が忙しすぎて全然足を延ばす余裕などなかった。セレンは幼い頃の記憶をたよりに歩いた。

セレンは店の前で立ち止まった。

ここだ! 幼くして両親のいなかったセレンをよく面倒見てくれたのがここにいた猿夫婦だった。建物は相当古くなっているがそれ以外は昔と変わってない。だが、やはり店は閉まっていた。

「ごめんくださーい」セレンは久しぶりでどんな顔をしていいかどきどきだった。ただそれもやがて別種の不安に変わりつつあった。返事が無い。気配はある気がするが。

「誰かいないのかい?」セレンは必死に中に向かって呼びかけたが、何の返答もない。

「オーイ、オーイ…」どんどんどんどん。戸を叩いても一向に返事が無かった。気のせいだったか。もう長い年月が経っているので引っ越したのだろうか。

これ以上粘っても外で目立つのでセレンは足先を変えることにした。考えてみればセレンの知っている猿が谷にはまだほんの幼い頃で、その頃から比べれば随分といろいろ変わってしまっているのだ。無事であることを祈ってセレンがとぼとぼ歩き始めて数歩のことだった。さっきの店の扉が静かに、まるで誰かを恐れているかのように幽かに開いた。そして二つの眼がセレンを見た。その眼はしばらくすると急に大きくなり、大きな丸になった。

「セレン? セレンかい? セレンじゃないか!」セレンは懐かしさに小躍りした。

「おばさん! 居ないのかと思ったよ」

「大丈夫だったのかい?」おばさんは久しぶりの再会に素直に喜んだが戸は半開きのままだった。セレンは話したいことが山ほどあったが、何から話せば良いのか分からなくて口に出たのはありきたりなものだった。

「ああ、なんとか大丈夫だよ。それよりおばさん。おじさんは? 一体全体この町はどうしちゃったんだい?」

「色々とね…………」おばさんの返答は歯切れの悪いものだった。

「他の猿たちはどうしちゃったんだよお」

「…処刑されたんだよ…」おばさんは力なく告白した。

「しょ、処刑!! どういうことだよ?」

「みんなあの新しい王様が悪いんだよ。自分の美食のために、あたしら猿をかっさらっていくんだよ」

「……」セレンはそれを聞いてまるで内臓が重いフライパンでブン殴られた気がした。

「じゃあ、おじさんも…」

おばさんはセレンの言葉に、悲しそうにうなずくだけだった。

「俺がいけないんだ。俺が指名手配になったばっかりに…」

「そんなことはない。猿はいつだって目の敵にされるのさ。今の王様は特にひどいけどさ…」おばさんは続けた。

「どちらにしたってここはもう猿にとって安全な場所ではないよ。特にセレンは。もっと別の…あ! セレン! 行って!」急にセレンの前で戸がをぴしゃりと閉まった。

「えっ? あっ…おばさん?」いきなりのおばさんの行動にセレンは戸惑った。

「いいから行くんだよ。早く」戸の向こうからくぐもった声だった。

「ええー?」セレンは仕方なくその場を急いで立ち去るほかなかった。

「セレン、ごめんよ、ごめんよ」扉の向こうの声はすすり泣いていた。

「よしなりへ」幽かに戸の奥から聞こえて来た。

「よしなりヘ行けば…きっと」

「よしなり?」セレンは首を傾げた。 

「はやく」それっきり戸の向こうは微かな嗚咽を残して沈黙した。いきなり何だろう?

すぐにセレンには理由がわかった。

「そこにいるぞ、若い猿だ! こりゃあいい」声の主はオオカミの官憲だった。セレンは身を隠し一目散に逃げ出した。大通りから裏へ入り、路地から路地へと逃げた。結局ギンザでの逃亡生活と全くかわらない。ただいくらか変わったとはいえ幼い頃から勝手知ったる猿が谷。その分セレンにとっては地の利がある。オオカミはそんなセレンの微かな希望を嘲笑うように、矢のようなスピードでセレンを追っかけてきた。セレンはオオカミを撒くように、この迷路のような猿が谷の街を逃げた。

 セレンは息を切らしてぜえぜえいった。もうどこにもオオカミたちの姿は見えない。少し落ち着いて周りがようやく眼に映るようになった。

「うわ…」セレンは思わず目をそらした。首の無い猿の死骸が累々と重なり、故郷は無残な姿に変わり果てていた。セレンは自分を悔やんだ。あの時、自分が料理長の目を突かなければ…。料理長のミンチを手伝わなければ、そもそもつまみ食いをしなければこんなことになって無かったかもしれない。自分だけ助かって、何も関係のない同族の猿たちが犠牲になっている。セレンは手を合わせた。

セレンは警戒して歩きながら、さっきおばさんが言った言葉を繰り返していた。

ヨシナリ、ヨシナリ…ってなんだっけ? よしなり…。セレンは立ち止まった。

そこに行けば…。幼い頃何回か連れて行ってもらった場所だが記憶は朧で、行き方となるともはや見当も付かなかった。この猿が谷からとてつもなく遠い道のりだったような気もする。どちらの方向へ行っていいかさえ分からない。ちょうどセレンの顔にビルの谷間から日がさし、眩しくて目を瞑った。

大通りを太陽を背にして♪

こんなときでもなぜだか歌が口をついて出てきた。こんな時に歌っている場合じゃない。セレンは自分のあべこべの感情に苦笑したと同時にハッとした。

 大通り…太陽を背にして?…セレンの記憶が急に開けた。

そうだ! 確かに手を引かれて大通りを歩いた。太陽を背にして…、大通りを連れて行かれた。そして、そう…、そうだ、思い出した! 表札のない小さくて磨き抜かれた古い門があって…、そこをくぐると店があって、そこで、よしなりで食べた料理…

 坊や。どうだ? 美味しいかい?

うん、うめいや! こんな美味しいの二回目。

二回目? 他で同じくらいうまいの食べたのかい? ギンザとか?

ギンザ? それなあに?

ギンザを知らないのかい? ぼうや。

うん。それって美味しい?

美味しい? はっはっは、ギンザとは場所の名前だよ。美食の聖地さ。

へえ

ところでその一回目はどこで食べたのかな?

わかんない。でも母さんが作ってくれたの。

お母さんが! そのウエイターは目を白黒させた。

母さんの作るスープ、ほんっとうにうまかった。

うまかった? 俺も食べてみたいものだな。最近は作ってくれないのかい?

…母さん、もうこの世にいないんだ。

そうか…、それは悪いことを聞いてしまったかな?

うん……おじさん、シェフは?

…シェフは今留守なんだよ。ちょうど出かけてて、いつ戻ってくるかわからない。どうしてだい?

俺、シェフになる!

シェフに!?

どうすればなれる? 俺一等のシェフになりたい。

それだったらもっと大きくなってからな。力をつけることだ。

力がなければシェフになれない?

……ああ、重たいものも沢山あるしな。結構重労働なんだぞ。

うん、じゃあいっぱい食べて大きくなる! 

……ん、ああ。そうだ。そしたらシェフになるのも夢じゃないぞ。

**ンシェフは?

グ**シェフ? 何処から聞いた?

聞いたことあるよ。一等のシェフが*ラ*シェフなんだ。俺、***シェフになる。

……だったら、ギンザに行くことだ。

ギンザ…。

現実に戻ったのはそこが、確かに見覚えのある町だったからだ。



26

 経年劣化というにはあまりにも廃れてしまっていた。ヨシナリは当時それでも古都としてギンザに匹敵するくらいの美食の聖地だったのだ。あのレストランもこれじゃ、もう残ってないんじゃないだろうか? 不安がセレンの胸をよぎった。

あった! すぐにわかった。それは幼き頃の記憶の中のレストランそのものだった。

レストランはかなり古ぼけているがここ最近の王様の圧政にも屈せずにいたようだった。ただ記憶と違い門には見慣れない特徴的な丸い花の紋章がついていた。門をくぐると、使用人とおぼしき年配の猿がこちらに背を向けきれいに道を掃き清めている。

「あ、ちょっと! まだ準備中だよ」さっきの使用人らしき猿が気づいて声を掛けた。

「食べに来たんじゃないんです」セレンは構わず引き戸をがらがらと開け、言い放った。

「ごめんくださーい。ここで働かしてくださーい!」言いながら中へ入った。

「誰もいないよ」さっきの猿が呼びかけてセレンは振り向くと、思わず顔を見入った。

猿に見覚えがあった。しかしその年配の猿はセレンを見てもピンと来るものがないのか、釈然としないようだった。

「おじさん! 覚えてない? 僕だよ。セレンだよ!」

「セレン?…」猿は首を傾げるばかりだった。そして猿はセレンではなくその斜め後方を見廻した。セレンは気になって猿の視線をなんとなく追うと一瞬ぎょっとした。そこにあったのは自分の指名手配のポスターだった。

セレンは思わずその場を逃げ出そうとしたが、かろうじて堪えた。きっと正直者は救われる。セレンは意を決し告白した。

「あれ、あのポスター、ぼくです」そのサルの形相は一変した。

「何い?」セレンはその猿の表情を見て心底後悔した。猿はセレンを値踏みするように上から下まで見てくる。このまま公安に密告されたら終わりだ。

「あれがか?」猿はポスターの方を指差した。正直者は救われない。何となく猿の手は微妙にセレンのポスターとは違う方向を指しているような気がしたが、それほどに怒りは収まらないのだろう。セレンは小さくなるほかなかった。猿ヶ谷もこの町も、自分のせいで潰れたようなものだ。

「ずいぶんと写真と違うなあ」

「それはもう…前の写真なんで」

「違いすぎじゃねえか?」抗議するように猿は再び力強く指をさした。

「いやそんなですか? 確かにひげは無かったですけど」セレンはそこまで自分が変わったかと訝しんだ。しかも明らかに残念という調子が猿の反応から見て取れた。

「ふざけるな、だましやがって」セレンは黙って聞いていた。それはそうだろう、自分のせいでいろいろな猿を犠牲にしたのだ。この猿の身内にも不幸があったのかもしれない。セレンは頭を垂れる以外無かった。公安にしょっ引かれるのも止む無しか。セレンは半ば覚悟した。

「セレンちゃんが男だったとは、詐欺だよ」

「へ?」言っている意味が分からずセレンはもう一度その猿の指差す方を眼で追った。やはりそこには確かにセレンのポスターがあった。髭はなくともどう見ても男の子だろう。俺ってそんな女の子ぽい風に見える? セレンはそこには敏感で憤慨した。大体唯一、飲食店で納得いかないのはシェフでもない限り髭が許されないことだ。

「どう考えても女じゃないですよ」

「何開き直ってるんだよ…、そんな…、あんまりじゃないか…」

「え?」

「セレンちゃんを…、あたしの青春を返せ!」猿は涙目だった。

「え?」猿の剣幕に推され、セレンは頭がこんがらがってもう一度ポスターの貼ってある壁をみた。

あっ! セレンのポスターからそう離れてないところに、もう一枚のポスターが小さくあった。それはマイクを持った可愛い猿のアイドルの写真だった。下にはセレンとあった。

「え、いや。やっぱちがいます」こっちかよ! セレンは一人心の中でつぶやいた。そういや名前を教えたことなかったかも。

「そりゃそうだよな。だってセレンちゃん。愛しのセレンちゃんがこんな坊主だったらがっかりだもん」

猿はすっかり元気を取り戻し、両手を硬く握り合わせ片足を腿の付け根まで跳ね上げ小首をかしげていた。その目はポスターを見つめ、もはやハートまで出ていた。

「で、なんのようだっけ?」指名手配はいいのかい!

セレンは安堵したような、苦笑いをしたいような複雑な気持ちだった。

「だからここで働かせてもらいたくて」

「おお、そうかいそうかい」

「じゃあ、働かせてくれるの?」髭もじゃのセレンの顔がぱっと明るくなった。

「いや、だめだ」急に行く手を閉ざされたようだった。セレンの顔は曇った。

「え? どうして? 髭なら剃るよ。なんでもします。給料だって要らないです」

「だめなもんは駄目だよ」

「お願いです。一流のシェフになりたいんだ」聞いた猿の目が瞬間やや大きくなった。猿の心の硬い岩にヒビが入ったようだった。

「はあ?! 一流のシェフだってえ?」

「はい。ここのシェフって今日はいますか?」

「いや、それは…」猿は、セレンをまじまじと、今日初めてと言っていいくらい見つめた。

一瞬沈黙が流れた。

「あっ!」猿は大きく目を見開いた。

「おお、お前か、あのときの!」ようやく猿はセレンのことを思い出したようで破顔した。

「わかった?」

「ああ。グランシェフだったな。そんなことお前くらいしか言わないからな」

「グランシェフって? とにかく一流のシェフになるのは本気だよ」

「はは、まあ良い、何年ぶりかな…、大きくなったけど力ぜんぜん無さそうじゃないか?」

その猿はセレンの体をぺたぺたとはたいた。

「沢山食べて鍛えてきたつもりだけど、全然大きくならないんだ」

「ふふふ、ところでお前セレンという名なのか?」

「うん、言ってなかったっけ?」セレンは俄然期待で目を輝かせた。

「知らなかった。随分と女の子らしい名前だなあ。そういえばあの時は言わなかったもんなあ。何度聞いても恥ずかしがって」そうだ。セレンは自分の名前が嫌で、その時は名乗らなかった。それもこれもセレンという女の子らしい響きが嫌だったからだが、それも物心がつくころには、いや正確にはハナコというもっと女の子らしいオスの仲間に出会って、前より気にならなくなっていたのだ。

「そんなこといいから。それより働きたいんだ、給料なんてどうでもいいから」

「はあ?」猿はセレンの顔が冗談でないことを悟り始めた。

「今日もシェフはいないのかい?」

猿は困り顔でセレンに答えた。

「シェフはいないよ。お前が幼い頃来たずっと前からな」

「えっ?」

「とにかく…帰るんだな。うちはもう従業員雇ってないんだ」

「帰るとこなんてないよ…、俺、指名手配だし」

「指名手配たって、みんな同じようなもんさ。連中は猿とゴリラの区別だってついてるかわかんないんだ…。とにかくシェフはいない。帰った帰った」猿はセレンをあしらったがセレンはそれでも食い下がった。

「お願いだよおじさん」頑なに拒否をするおじさんにセレンは言った。

「一流のシェフになるんだ」


27

「今度はどんな奴だって?」

「王の目を突いたらしい」

「王の目を? どうやって…、警備も厳重だろう」

「なに、たまたまさ。勤め先の料理長が王になっただけのことだ」

「それで逃亡してきたってわけか」

「ふん、犯罪のエリートってことか。そんなのここじゃごまんといるんだ。大したことじゃねえよ、上帝案件じゃあるまいしな」

「可愛がってやるか。へへへへっへ」


セレンは食らいついて試用を認めさせた。首になったらすぐにギンザに戻ると言うのが条件だった。厨房に入ると、いきなり大きな存在が立ちはだかった。ゴリラだった。

「よ、よろしくお願いします」ゴリラはセレンをギロリと睨むと上から覆いかぶさる様に圧力をかけた。体の大きなライオンに何度も死ぬ様な目に合わされたセレンだったが、ゴリラの迫力もそれに勝るとも劣らなかった。ゴリラはそのまま何も言わずに何処かへ行ってしまった。意外と厨房は従業員が多かった。殆ど猿だったが他にチンパンジーもいた。厨房の各作業台には何本かの武器、いわゆるナイフが剥き出しのまま置かれていた。ここでもやはりいつ狼たちが襲ってくるか分からないんだ。セレンは緊張感を持って臨んだ。

「今日から入りましたセレンです。よろしくお願いします」厨房のスタッフに元気よく挨拶したセレンだったが、一瞥されただけで誰も返事をせず忙しそうに動いていた。セレンは居心地の悪さを覚えた。

この店ではシェフではなくリーダーのゴリラが仕切っているようだった。幼い頃来たときもこんな体制だったのかセレンには不思議な気がした。それでもゴリラ以外セレンよりも極端に体が大きくて獰猛そうな動物もいなそうだった。

「セレン君、カンシローだ。よろしく頼むよ」

「よろしくお願いします」挨拶をしてきたのは眼鏡をした爽やかそうな青年猿だった。セレンはやっと自分の場所を見つけた、そう思った。

「まず何をやりますか?」セレンは言われた事は何でもやろうと気合を入れた。

「まず、君にはレシピを覚えてもらう」

「レシピですか?」

「そうだ。うちにはレシピだけで数千種類を持っている。まあ君に覚えられるかな」青年は冷笑した。セレンはムッとしたと同時に面食らった。いきなり厨房に立たせてくれるとは思わなかったが、それでも最初は洗い場とか掃除とかそう言う下働きとばかり思っていたからだ。

その日は店の奥でひたすらマニュアルを見ていたが字を見ていても一向にセレンの頭に内容が入って来なかった。実際これは覚えられるものではないと思った。


「何でこんなマニュアルを書き写さなきゃなんないんだ」セレンはぶつぶつ言いながら写経のように書物を写していた。

「覚えられたかなセレン君」涼しい顔をしてカンシローが入ってきていた。

「無理っすよ、こんなの意味あるんですか? 実際やった方が早いですよ」

「無理もない。これを覚えられるのは猿界ナンバーワンを自認するこの私くらいのものだからね」

「そんだったら洗い場とか掃除とかやらしてください」セレンはイライラしていた。

「…良いだろう。だったら洗い場に入れ。ただし三日でマスターしなければ、首だ」

「そう来なくっちゃ!」見たところギンザのレストランと比べ重そうな鍋もお皿も無かった。街が廃墟同然だからか客もそれほど多くなさそうだったが、時折ライオンやトラなどが来店して頼むのも大量なのでその時はてんやわんやになるようだった。

「これなら出来るぜい」セレンは勢い勇んで洗い場に向かった。洗い場には同じくらいの猿が一匹いた。

「よろしくお願いします」

「ああ、じゃあお皿をお願いね」周りがなぜかセレンの方を見てニヤニヤ笑っているのが気になったが、早いとこ片付けて厨房で調理をしたい。セレンは片っ端からお皿を洗い始めた。

「あ、そう言えば。水出しっぱなしはしないでね」

「わかりました」セレンは考えうる最大のスピードで洗った。

「おかしいな…」洗えど洗えど一向に皿が減らないのだ。それどころか増えている。今までせいぜいセレンの胸の高さまでだったお皿の山が今では頭の高さを超えていた。確かにどんどん洗い物が下げられているのはわかるのだが増えるなんてあるか?

セレンは死に物狂いで皿を洗った。いくら洗い物がジャンジャン追加されてもさすがに少しずつお皿が減り、やっと自分の目線くらいの高さになったところで、

「あれ?」水が止まった。蛇口をさらに捻ったが、「出ない」

「だから言っただろ。もういいよ」セレンは洗い場から追い出されてしまった。水はヨシナリではあまり豊富ではなく、よほど素早く洗わないと水が足りなくなるのだ。

しかし暫くしてから代わりに洗い場に入った猿はそれほど素早い動きに見えなかったが、あれよあれよと言ううちに洗い物がなくなった。

「あれでグランシェフ目指すって?」「ギンザでやってたってね、ふふふ」セレンの耳に容赦ない誹謗の噂が突き刺さった。

悔しい。セレンは二度と遅れをとるまいと洗い場の猿の動きを逃さず観察した。何となく動き方は分かったし、動きは自分の方が明らかに速いにも関わらずその後セレンが洗い場に入ると一向に片付かなかった。それどころか催促をされる始末だった。

「ギンザにいたからっていい気になってんじゃねえよ」「何が一流のシェフだ」

ギンザにいた頃は皿こそ一枚一枚がとてつもなく重厚だったが高級店ということもありこんなに皿の枚数に追われることはなかった。それがヨシナリでは一枚一枚の皿こそ軽いが枚数が桁違いだった。厨房で活躍する前に洗い場で終ってしまう。こんなことでは本当に首だ。試用期限は後二日だった。

「おーい新入り。こっちも手伝え」

「はい。何をやるんですか?」セレンが駆け付けたのは別の先輩のところだった。

「この木の実、皮を剥いといてくれ」そう言って木の実たっぷり入った大きな箱を渡された。物凄い量だったが、今までライオン王のところで遅れたら命を取られる体験をしてきたセレンにとってはお茶の子さいさいのはずだった。

「あれ?」思いの外全然うまくいかなかった。

「ああ、ダメダメ。それじゃあ木の実が傷ついちゃう。うちは肉や魚をあまり扱わない代わりに木の実や山菜がメインなんだ。そんなにいい加減にやられちゃ困るんだよ」

「すみません」

「木の実はこう、話しかけるんだ。そうすると美味しくなるんだ」セレンは先輩の言うことを微笑みながら聞いていた。わかるからだ。

「お前、何がおかしいんだよ。馬鹿にしてるだろ」

「え、そんな。馬鹿になんかしてないです」

「ふん、どうせギンザで働いてたからっていい気になってんだろ。お前なんかにゃ無理だよ」そう言って先輩は嘲るように去っていった。セレンは不貞腐れながら木の実の皮をひたすら剥いたが、その後途中で違う仕事を手伝わされた。

次の日、昨日の猿の動きを思い出して再びセレンは洗い場に挑戦した。が、最初の方こそセレン自身気合のスピードで洗い物をこなしたが、営業が佳境に達すると再び洗い物はたまり、そして厨房の使える皿がなくなった。

「引っ込んでろ役立たず」セレンに怒号が飛び、セレンはそれに従うほかなかった。セレンはその日もうなだれて帰って行った。


「坊主はどうだ」年配の猿は従業員に尋ねた。

「どうもこうも言うことは聞かないし使い物になるかもわかりませんね。検閲もまたそろそろ来ますよね? 売っちゃいましょうか」

「売るって、お前も元々お尋ね者だろう」

「それはそうですけどね、へへ。俺はその中でも生き残りですよ」

「今度の検閲は、多分王じゃない」

「王じゃないって…、まさか!」

「ああ、マニュアルを徹底させろ。それ如何で店は終わる。ん?」おじさんは段ボールを指差した。

「「木の実剥いちゃいました」って売ってたっけ?」

「え? そんなのないですよ。全部うちで剥いてますけど?」

「じゃあこれは誰が?」

「昨日あの新人が…、えっ、こんなに…あの時間でそんな馬鹿な」

「しかもすごく綺麗」おじさんと先輩は顔を見合わせた。

28

 いくら毎回大量に皿を使うからと言って自分がついて行けないなんて。スピードだけを見ても決して自分が劣っているとは思えない。今日の猿だって動きは全然速くなかった。でも迷いがない。まるで次に来る皿を予め知っているかのような…、知っている? はっ、ひょっとして…。セレンははやる気持ちで寝付けなかった。

 セレンは朝一番に誰もまだいない厨房に入ったが目的はその奥だった。

「やっぱり」セレンは夢中であるものを貪り見た。


 カンシローは得意げだった。この複雑な工程をマニュアル通り覚えるのは並大抵このとでなかった。しかもそれを工程ごとにお皿に移してはまた戻してその度にお皿を替えるのだ。それは様々な食材を均一に火入れするために絶対に必要だった。ここヨシナリでの調理は殆どがそういう作り方をしていた。それが洗い物が異常に発生して多い理由だったのだ。一つの調理を終えるのに百枚を超えることもザラだった。

カンシローはチラリと洗い場を見た。洗い場には今日もセレンが悪戦苦闘をしていた。

「カンシローさん、奴は今日で最後ですかね、ヘッヘッヘ」

「ふふふ、どうかな。スピードはあるがな」

「どうですか? むしろ今までで一番遅い。限界ですね」

「?………」カンシローは違和感を感じたまま自分の調理に没頭して行った。


「絶対こうしましょうよ。その方がもっとマニュアルに忠実になります」

「しかしそれでは洗い物は今より10倍も20倍にもなるぞ」

「そんなの問題じゃないですよ。マニュアルさえ頭に入れてしまえば」

「だとするとお皿を相当増やさないと。それに洗い場も頭数を増やす必要があるぞ」

「それには心配及びません。洗い場を厨房に立たせる試験にすれば良いのです。それが第一うちの店を守る力にもなります」

カンシローは昔のことを思い出していた。

「カンシローさん!」

「うん?」

「オーダー溜まってます」

「あ、ああ」カンシローは鬼神の動きで工程ごとにフルに新しいお皿を使って料理を仕上げて行った。セレンにとっても今日厨房に立てなければ首だった。

「ヘッヘッヘ、よりによって今日が最終日とは奴もついてないね」

「ふふふ、今日は1週間で一番忙しいんだからな。今まで何匹もの粋がったサルを見て来たことか。なまじ手の早い者、スピードのある者ほど疲労から動けなくなる。しかも今日は金曜日だ」カンシローは笑った。

店はやがてピークに突入した。カンシローは調理に集中した。集中している時のカンシローはいつも以上に微に入り細に入り事細かく最適なお皿を使った。それゆえ洗い物もいつもより多くなった。それが1週間で一番忙しい日に来るのだ。しかしそれゆえにマニュアルを忠実に守るのは困難でこんなことができるのはカンシローだけと言えた。そんなカンシローでもヘルプが欲しかった。そのくらい忙しかった。

「手伝います」カンシローが見上げると、そこにいたのはセレンだった。

「手伝う? バカな! 君は洗い場をやらないと。お皿が間に合わないだろう」

そう言ってカンシローはイライラして洗い場を見た。

「え?」

「洗うものないです」

「まさか」実際に洗い物は殆どなく、足りない皿もなかった。

「ど、どういうことだ。できるはずがない」

「カンシローさんの言う通りでした。マニュアルは大事です」

「…ありえん。そんな短期間で、あるとしたら…」

セレンはそれに直接答えずに厨房で調理を始めた。他の猿たちは唖然としていた。

「イカ様じゃないですか?」他の猿がボソッとカンシローに言いに来た。カンシローはすぐさま洗い場をサブでやっていた猿の方を見た。その猿は言った。

「奴は確かにオーダーのマニュアルを把握してます」猿たちは顔を見合わせた。

 洗い場は晴れて合格したものの、すぐに親切に厨房の仕事を教えてくれるわけではなく、何も教えてくれない先輩にセレンはかじりついていくしかなかった。

「おう、新入。そこの包丁研いでおいてくれ」

「ホウチョウトイデオイテ?」セレンは正直何を言われているのか分からなかった。

「何処ですかそれ」

「だから包丁、目の前にあるだろ」随分と年季もののナイフが目の前に入った。

「これ…、武器ですよね?」手に取るとずっしり重い。さすがにセレンの持っているナイフとは雲泥の差だった。確かにいつも閉める時研いでいた気がする。

「はあ? 何物騒な事言ってんだ。武器じゃなくて、料理人の命だろうが」

「命?」セレンは改めてその包丁を見た。何処か懐かしいような気がした。

セレンは訳わからずその包丁を砥石にあてがった。

「ああーそれじゃ駄目だ駄目だ。やり方知らねえのか。もう二度と触るんじゃねえ。この包丁は貴重なんだから」すぐさまダメ出しを喰らい包丁を取り上げられた。先輩はその包丁を45度の角度に向け、水を含んだ石の間に10グルモーン硬貨2〜3枚入るくらいの隙間を作りスイスイ研いだ。

「難しいんですね」

「簡単そうに見えるのが一番難しい。特にうちのはなんてたってプリンスの作。絶対誰にも言うなよ」そう言って先輩の猿は包丁の刃を光に当てて研ぎ具合を確認した。

「何ですかそれ」

「もう殆ど残ってないが伝説の鍛冶職人だよ。多分うちにしか現存してない。お前には興味ないだろうけど。査察では勿論隠すからな」

「査察?」セレンは後で研がれた包丁をそっと野菜にあてがってみた。

「うわっ」野菜は何も力を入れていないのにすっと切れた。

 いよいよ明日から厨房だ。セレンはダンベルを終え寝床に着いた。

 

29

結局ゴリラが滅多に顔を出さないお飾り的管理者だとわかるのに時間はかからなかった。この厨房を実際に管理しているのはカンシローだった。セレンは初めてのポジションを与えられて緊張した。徹夜で必死に勉強したがとても全部のマニュアルは読みきれなかった。洗い場の時はそれでも主なオーダーの皿の種類だけ覚えれば良かったのだ。

「カンシローさんは今日はお休みですか?」

「もうすぐ来るよ。それまで頼むよ」

オープン前に納品、そして仕込みがあった。まずは肉だろうか? しかし肉らしきものは見当たらなかった。

「肉どう言うの使ってるんですか?」セレンは辺りを見渡した。

「ねえよ」

「え、でも小さいころ肉料理あったような。マニュアルにもあるし」

「昔のこたあ知らねえよ。うちは魚と木の実と野菜料理の店なんだメニュー確認しただろ」そういえば確かにメニューにはなかった。セレンはそれでもなんだかんだワクワクした。新しい料理が学べる。セレンのいた店はなんだかんだ肉料理がメインの店だった。

「じゃあ下処理でもやりますか?」

「おうやっとくれ」

セレンはどんな魚が来るのか期待した。きっと山のような怪物のような魚が来るんじゃ?

三枚の卸し方どうやるんだっけ? 鱗はうまく取れるかな。期待と不安が交錯した。

「じゃ、これ剥いといて」

「え?」セレンの前に出されたのはパッケージされた小さな魚の切り身の山だった。

「これ、どうするんですか?」

「だから袋から切り身を出すの」

「へ…」セレンはそれを半ば呆然としながら触った。

「冷たっ」冷凍食品だった。

「ああ、それ容器に並べといてくれればいいから」

「あの」セレンは先輩に質問した。

「魚って他にどこにあります? こんなのじゃなくて、ありますよね?」

「それだけだ。いいから早くしろ」セレンは拍子抜けしてギンザが急に恋しくなった。

 

 きっと野菜がものすごいんだ。肉がなくて魚があんな冷凍食品だけとは予想もつかなかった。どう考えても幼いころ食べた、記憶のヨシナリではなかった。

 かぼちゃに人参、セロリに長ネギ、瑞々しいレタス、ぷっくり肥えたキャベツにピーマン! セレンは輝かんばかりの野菜の山を前にしてしたり顔になった。

「こうでなくちゃ」やっと本領が発揮、いや勉強が出来る。どんな料理ができるんだろう? さすがにマニュアルはまだ全部把握できていなかった。正直肉やまともな魚がないのは不満だがそれでも未加工の食材を扱えるのは嬉しいことだと思った。

セレンは野菜のヘタを取ったり簡単な処理をすると次の作業の指示を仰いだ。

「じゃあこのコンテナに入れて」野菜たちは外に出され、厨房に妙に色の薄い数個を残して綺麗さっぱり消えていた。

「これだけ? 今日の営業で使う分はどうするんですか?」

「ああ、それは」先輩は冷蔵庫からカット野菜のパッケージを持ってきた。

「これうちで加工してるんですか?」

「いや、加工したのはギンザから直送してもらってるんだ」

「え? なんで、今のは使わないんですか?」

「ああ。未加工のはギンザに送られるのさ。そう言う決まりだよ」セレンは首を傾げた。

「ただし連絡があって、「野菜の旨煮込み」の野菜だけ産地でトラブルがあって配送されるまで間の分かな、送られてきたんだ。それがその分。あとでまた加工処理済みのものが送られてくる。だから5食分それで作るよ。マニュアルわかってる?」

「…わかります」セレンはそのマニュアルをたまたま覚えていた。

まずは仕込みで野菜を煮る作業だ。

もういいよ。もうそれ以上は

セレンは振り返った。

「なんか言いました?」

「は?」他の猿たちが鳩が水鉄砲三段撃ちを喰らった顔をしたのでセレンは首を傾げた。マニュアルではもう3分煮込むはずだ。

やめて〜

野菜からだ。まさか、でも。セレンはすぐ火を止めた。

ありがと

それきり野菜から声が聞こえることはなかったが、セレンは懐かしい気持ちに満たされた。仕込みが終わると、いよいよ営業に突入していった。


「はい。確かに完熟で送りつけました。間違いなくベストは3分以上手前でしょう」

「あれは特に見た目の青さと違うからな。引っかかれば良いのだがな、まあそうであればとっくに潰れておったかワハハ」

「はい。今ではなかなか馬鹿正直に守るものですから」

「もっとも昔のようにカイレンが居れば一発だったろうにな」

「やはりあそこがカイレンのいたところなのですか? カイレンは死んだはずです」

「確かに。少なくとも痕跡は完全に消えたが、かつてはな」

「想像つきません」

「ああ、昔はそれだけじゃない。マートルがいたんだ」

「マートル! マートルは完全に足を洗ったんじゃないですか?」

「だがそもそもあの店の料理長はマートルだった」

「でもヨシナリも今ではすっかり変わりました」

「徹底的に排除したんだ。当然だ。猿の総本山は死んだ。あれは猿の矯正教育施設だ」


「ちょっと君」VIP席にいた虎がウエイターを呼び止めた。


30

セレンは気が気ではなかった。ほんの五つとは言え自分が作ったのは大丈夫だったろうか。今までギンザの店では料理にタッチする事は決して許されなかった。

「おい小僧!」突然洗い場をしているセレンの背中に天地がひっくり返るような怒号が突き刺さった。滅多に顔を出さないゴリラが物凄い剣幕で迫ってきた。

「なんだこれは? 煮込み時間を守れ!」ゴリラが突き出したのはセレンがさっき出したばかりの皿だった。

「2度とやるな」ゴリラはドスの効いた声で言い放つと姿を消した。

「どうしたんですか?…」セレンは残った皿の煮込みを口にして首を傾げた。落ち込むセレンにカンシローが声をかけてきた。

「セレン君、マニュアル外とか勝手な真似はやめた方が良いな。どう見ても煮込みが足りない」

「でもそっちの方が…おいしくないですか?」

「現にクレームが来てるんだ。どの道マニュアルを超えることなんて不可能なのだ。もういい」

「ええ…」セレンは現場を離れマニュアルを写経させられた。。


「ふん、勝手なことを」カンシローはぶつぶつ言いながら代わって料理を仕上げた。

「カンシロー、あの勝手な真似をさせるんじゃない。2度はないんだぞ」

「わかってます。次やったら首にします」おじさんはなんとなく気になってか残っていたセレンの仕込んだ料理を口にした。

「何だこりゃあ?」

「ですよね。それではクレームも当たり前です。動物の中で猿は最もマニュアルに忠実だから優れているんです。小僧は徹底的に矯正するべきです。尤も完璧にそれをこなせるのは猿の中でも僕だけでしょうが」カンシローはメガネを得意げに光らせた。

「いや、そう言うことじゃねえ。逆だ」

「え?」

「知らないか? 今日の食材、発送元で事故があっていつもと違うんだ。未加工だし、産地が違うし、これならマニュアル通りにやると確かにうまくはいかねえはずだ。どうやらこれは…ベストだ。こんなことは…まさかな」

「でも自分が使ったのは普通でしたよ?」

「ああ、最初の5個でもう終わってる。俺が奴に言っておかなきゃいけなかった。ひょっとしたらあの連中、わざとそれを知っていて注文したのかもな」

「それじゃあいつは、いや、誰が忠実にマニュアル通りやってもダメだったと。むしろあいつは本当の正しいやり方を実行したって言うんですか?」

「そうかも知れん。でもどの道査察だし、違反なのは変わらない。奴らにとっては調理の正しさではなくマニュアルを守らせることしか関心がねえ。もしかしたら違反させることが目的だったのかも知れねえ。しかし今度違反したら次はねえ」

「まぐれだ、絶対にまぐれだ……」カンシローは虚空を見つめた。


セレンはそれでも首になるまいと懸命に働いた。首になったらもういくところがない。洗い場こそ卒業したが納品、朝の木の実の皮むきから始め、マニュアルの写経をして掃除をし営業を手伝って、それから最後片付けて包丁を研いで1日を終える。それまでにこなす仕事の量は下手したらギンザ時代より多かった。


「ふん。カイレンの店か…とうとう引っ掛かったわ」

「カイレンはもういないはずでは?」

「鼠野家との取引の結果だ。奴め、奴は違反なく取り締まれば通貨の供給を止めると脅してきたのだ。もうだいぶ昔のことだがな」

「その御当主も先の戦いで亡くなっているはずですが」

「ギンザ中の子供たちが通貨の発行をとめることになっておるのだ。しかし今回は…、次違反があれば取り潰す。香ばしかったからな。匂いが消えるまで…」

「ようやくですね。陛下は疑わしきは罰せずの精神をお持ちでおいでですから」

「法を守っている以上酷い事はしたくないが、違反があるようではな…くっくっく」

「陛下のお施し以降、今まで猿の店におけるマニュアル遵守は徹底していましたが…これで次違反があればお取り潰しですね」

「もちろんだが、やっとこれで確認ができる」

「レシピの書でございますね? もはやこの世に存在しないのではありますまいか?」

「いや、あるはずだ。反逆の芽は潰しておかねばならん…今週、確認に行くぞ」


31

あのクレームの一件以来、セレンはカンシローからの監視を強く感じた。

「それ違う!」「茹で過ぎだ」カンシロー以外もセレンへの監視が強くなっていた。セレンはもはや黙々とマニュアルに従って作業を続けるしかなかったが、納得のいかないセレンとカンシローの間でとうとうその対立は起こった。。

「でもどうしてマニュアルを守らなければいけないんですか?」

「そう決まってるんだ。違反は許されない」

「もし実際よりマニュアルが間違ってたらどうすんだよ。それじゃ食材は喜ばないよ」

「食材が喜ぶ? そんなの関係ないだろう。お客が喜ぶのが大事だよ」 

「そうかもしれないけど…、それじゃ意味がないんだ」セレンは握り拳を固く結んだ。

「そんなんじゃ…一流のシェフにはなれないよ!」セレンは言い切った。

「はあ? 何を言ってるんだ?」これは他の猿だった。周りも反応したがカンシローは様子がちょっと違うようだった。

「まだそんなことを言うのならわからせるしかないな。一番はこの私だということを」

「一番たって猿で一番なだけじゃ意味ないよ。そんなの結局奴隷でしかない」

「なにい…」カンシローは怒りを辛うじて抑えた。

「それなら、納得いなかないなら、ぽとふうを作ってみろよ。それでマニュアルとどっちがうまいかやってみよう」おじさんが間に割って入った。カンシローには自信があった。散々作ってきた。これだけは、このマニュアルほど完璧なものは他にない。そう心から言えたからだった。


 ぽとふうは野菜の煮込み料理で一切肉や魚を使わず代わりに豆などのタンパク質を使うのが特徴の料理だった。

「ほれ遅れてるぞ、そんなんでは完璧なぽとふうは無理だ」カンシローは開始の合図とともに怒涛の勢いでぽとふうを作っていった。

一方セレンの方はと言えばぶつぶつ野菜に語りかけるだけで一向に調理が進んでないようだった。

「だめだ」セレンは何かに絶望しているようだった。一方カンシローは無駄な動き一つなくみるみるぽとふうを完成させていく。

セレンは半ば諦めたように調理を進め始めた。間に合わない。

「出来た。これでダメだったらやめてもらうぞ」

セレンは焦った。

「ふ、さすがに勝負あったな。いくらなんでも無理だ」

「お願いだ、口を開いてくれお願いだ」セレンは調理を進めながらも必死にぶつぶつ話しかけていた。

「時間だ! それまで」審査はその場の従業員がブラインドでやることになった。皿を待っている間も猿たちのセレンを見る目は鋭く悪意があるように見えた。

「ジャッジ8対2でカンシロー」


32

 セレンは罰でマニュアルを書き写していた。後悔していた。もう内容を見てすらいなかった。字面だけを追っている状態だった。ほんの一瞬でも自分が食材と会話できるなんて錯覚したのが間違いだったのだ。よく考えられたマニュアルには到底叶わない。このまま首なのだろうか? もう本当に行くところがない。ギンザに戻るのは不可能だ。その前にヨシナリを出たら官憲達に食い殺されてしまうだろう。

「あん?」セレンは疲れて一休みしようと顔を上げると書いてたマニュアルが目に入った。ちょっと字面の並びに違和感がある。と言うよりかなりある。

そしてその間違いに気がついたのはもう残り最後の一枚だった。

「やば! 全然違ってる」セレンは書いてきたものが昨日までのと違うことに気がついた。タイトルも違っている。

「シャント…? なんだこりゃ」どうやら元の渡されたマニュアルが違うようだった。セレンはその内容を一度反芻してみた。これも間違いでは無い、そう感じたがやっぱりどう考えても今日の教わったものとは違っているようだった。

「やり直しかも」セレンは必死に修正にかかった。

ドアの向こうから喧騒が少しずつ侵入してドアが開かれ、先輩とおじさんが入ってきた。

「おい坊主、店を出ろ」

「首確定ですか?」

「ああ」店長は少し歯切れが悪かった。

「ま、まだ書き終わってないよ」

「いいから、今すぐこの店を出るんだ」

「そんな…」セレンは青ざめた。

「…ギンザにいけ」

「ギンザ…」セレンにとってそれは死刑宣告と言っても良かった。

「急げ。お前は指名手配公示3ヶ月以内だ。今度の査察でどの道お前がここにいたら食われてしまう、早く!」料理の世界は厳しい。セレンは追われるように強制的に追い出された。

「ちょっと、待て」出ようと門をくぐるセレンをおじさんは呼び止めると何か紙包の入った袋を渡した。紙包には「カイレンのところへ」とあった。受け取った時セレンの視界に映った門は以前の懐かしい門だった。


「奴が作ると何故だかこの豆が生きてるように感じてくる」

「冷凍がですか? 無駄ですよ」

「確かにな…。でもこれが本当に生きていたら…」

「完全に私の負けです。いつの間にか マニュアルを守るのが第一になってた」

「仕方がないさ。そうしなければ店は守れなかったんだ」

「ええ。でも、本当はそれがシェフの望みではないでしょう」

「上帝に変えられたからな」

「それ以前にですよ」

「マニュアルは変えていくもの、と言うことか?」

「ええ。あのレシピは処分しました」カンシローは店長に言った。

「ありがとう。…カンシロー、本当にいいのか?」

「はい。私にもプライドがある。覚悟はできてますよ。店長こそ大丈夫なんですか?」

「俺か? 俺にとっちゃ、やっと肩の荷が降りる思いだ。これでやっとカイレンや料理長に顔向けできるさ。あとはセレン次第だ」

「あいつに目を覚まされました。私はただ、完璧にマニュアルを守るだけだった。そこへ行くとやつは、セレンはマニュアルを書く側だったのかも知れません」

「いや、セレンhはマニュアルを捨てる側なんだろう。奴は一流どころか、グランシェフになる奴だ。これこそマートルやカイレンが待っていた奴だ」

「…もはや猿族の命運はセレンの肩に」

「ああ。そろそろ、時間だ。上帝たちが来る頃だ」厨房には結局ゴリラを除いて全てのスタッフが揃っていた。


「まずは探せ!」

「探して、それで無かったらどうなさいますか?」

「ふふふ、完全に潰せ。もう用はない」


33

この辺は確かに覚えがあるぞ。

追われたセレンは、こんな状況でかえって幼いころの記憶がところどころ鮮明によみがえってくるのを感じた。ひょっとしたらその幼い頃も何者かに追われていたのだろうか? そこまでははっきり思い出せなかった。

「おい、あそこにまだ猿がいるぞ」

セレンが息をつくのもつかの間。すぐさま別の狼の官憲が二匹、セレンを遠くで見つけた。セレンはすかさず逃げた。しかし狼はさすがに早かった。ものすごい勢いで一足飛びでセレンを追ってくる。セレンはヨシナリの迷路のような街を路地から路地へ縦横に逃げまわった。しかし狼は確実にセレンとの距離をつめていった。セレンが右の路地に入ればすかさず右に、左の路地に入ればすかさず左に。テールトゥーノーズのおっかけっこが延々と続いた。

 地の利ではしかしセレンの方が僅かながら勝っている。猿ヶ谷から少し離れているとは言えヨシナリが地元には変わりはない。記憶はあいまいでも間違いなく一時期はこの辺で育ったのだ。

 セレンは角を曲がり見えなくなる瞬間、右に曲がると見せかけて頭を下げて左に曲がった。上にジャンプして上に乗っかって再び左。そしてあるホテルを見つけその中に入った。セレンは一度だけ、ここのロビーに子供のころに入ったことを思い出した。ここに泊まるのがあこがれだった。しかし既にそこは廃墟になっていた。

 セレンはめいいっぱい走った。いくつもいくつも階段を駆け上がった。そして最上階にたどり着くと、とうとう極上スウィートの一室を見つけた。

 ここ泊まりたかったんだよなー。

セレンは大きなベッドに飛び込むと、ふかふかの感触をぼんぼんと転がりながら、そしてトランポリンのようにはねながら確認してみた。筵でしか眠ったことの無いセレンにとっては、それは到底この世のものとは思われない心地よさだった。あるとスレば、ギンザのレストランに勤めていたときに一回だけ客席で寝泊りをしたのだが、その客席のソファは本当に柔らかくてふかふかだったが、このベッドの心地良さはそれ以上に感じた。その客席は普段は絶対に猿たちが座ることは愚か、近寄ることさえ許されないVIP専用の椅子だったのだが、それはもう溶けかけのソフトクリームのように柔らかくてそれでいて作りたてのゴムのように弾力のある、この世にこんなものがあるとは到底思えないような代物だった。


こつこつこつ


休むのも束の間。ドアの向こうからどかどかと足音が聞こえてきた。狼が早くももう追っかけてくるようだ。 

「こっちだぞ」

もうなんてこったい。セレンはドアをしっかりと施錠していることを確認して、そこに更にいろいろと物を置いてうずたかく積み上げて、すこしほっとした。

しかしそれも長くはなかった。


ぎいー、ばたん。

こつこつこつ、こつこつこつ。


ドアを開ける音と足音が二重になって聞こえて来る。


ぎいー、ばたん。


しばらくするとまた足音が聞こえ、ドアを開ける音。

セレンは隠れる場所を必死に探した。

追っ手はどうやら一室ずつ部屋を調べているようで、足音と捜索音が聞こえるたびに確実に今現在、セレンのいる部屋へと近づいて来る。あと三部屋くらいか…。

ギイイイー。

近い! 今度はひときわ大きかった。どうやら抜かして隣の部屋まで捜索の手が伸びていた。

セレンは息をのんだ。

バタン!

次だ。セレンはそう確信した。

こつ、こつ、こつ

足音はセレンのいる部屋の前で止まった。

がちっ、がちっ。

ゆっくりとドアノブが回され、それが鍵がかかっているが故に鈍い音を立てるのがわかった。

ガチャガチャガチャチャ

ドアノブを回す音が激しくなった。開かないと見たか、今度はドアががんがん打ち鳴らされた。でもどうしてここにいるとわかるのだろう? 

あっ…。

セレンは自分で頭を引っぱたいた。単純な事実に気がついたのだ。鍵をしたために却ってここにいることを知らせているようなものだと言うことを。

へっへー、でも無理無理。

セレンはここに来て余裕をこいていた。

ドアの向こうからはひそひそ声。何か相談しているようだった。いくらなんでもこの部屋は重厚なスイートルームで頑丈そう。そう簡単に開くわけが無い。

 しかしやがて、何かを打ち付けるような音が聞こえてきた。

ドスン、ドスン、ドスン

振動が伝わり、セレンの表情が変わった。

ドアを隔てた向こうでは、狼の官憲が二匹交互に、肩から体当たりを食らわしていた。

セレンはさすがに困った。外を見た。窓の外には、どこまでもこの町の廃墟が続いていた。レストランは見えるだろうか。確かあっちの方向。セレンはその一点に釘付けになった。ヨシナリだ。

そのヨシナリのレストランが唯一、壊されずぽつんと立っていた。

セレンはカンシローの、店長の言葉を思い出した。ゆくゆくはあのレストランもほかの廃墟の中に飲み込まれるのか? いや、マニュアルを守っている以上大丈夫か。だから俺は追い出されたんだったな。セレンはぼんやりそんなことを考えていた。

バスン

セレンは再びドアの方に注目した。

ドアをうちつける音はさっきよりも強く鈍い音になってきた。いくら木製とはいえ、このドアーはパワーのある動物にとっても突破するのは容易なことでは無いだろう。

 しかしこの音は肉のぶつかる音じゃない。

バッスン、バッスン、バスス―ン。

明らかに音が変わってきた。


「おい、後ろしっかり持ってくれよ」

二匹の狼はどこでみつけたのかわからないが、お寺の鐘を突く木のくいのようなのを持ってそれで思いっきりドアを突いていた。案の定、見る見るドアにひびが入っていく。

「よし、もう少しだ。せえの」

どすーんんばっきりりりー!

 いっきににドアは破られて、うずたかく積み上げられた物置のバリアーはものの見事に散開し、二匹は雪崩のようにセレンのいるスイートに入り込んだ。

狼二匹は辺りを見回した。

「どこだ?」

「絶対にこの部屋にいるのは間違いない。猿臭い。指名手配のセレンかも知れないぞ」

二匹はありとあらゆる扉を開けた。そしてとうとう、

「あれ…」

セレンのいる机の大きめの引き出しががたがたがたと音がして、激しく振動し始めた。

「おい、これあかねえぞ。鍵かかってるかもしれない。手伝ってくれ」

狼がもう一匹に応援を要請した。

「せーの」

セレンは必死に開かないように力を込めて抵抗したが、開けようと言う力がセレンにとって想定以上で、セレンの手はもげそうなほど衝撃が襲った。思わず悲鳴を上げそうになった。

「固いなここ。でも、ふふふ、ノコでも出すか」

「ふふ、刃物はまずいって。はは、でもセレンがギンザから逃げ出したのは確かだ。まだ誰にでもチャンスがあるってわけだ」

セレンは必死に開けさせまいとこらえながらも、会話の内容を考えてみた。ノコって? チャンスとは何だろう? それだけ特定に俺だけを追っているということだ。だとしたらどこへいったって捕まっちゃうじゃないか。

「まあ持ってちゃいけないんだけどね」

「ああ、当たり前だ。ないことになってる。まあもっとも今の王様はあまりそういうの頓着なさそうだけどね。それよりやるぞ。これはやっぱ鍵かかってる感じじゃない」

「それ、せーの」

心の臓が口から飛び出しそうだった。セレンは開けられまいと必死に力を込めたが、抵抗むなしくセレンは頭をしたたか引き出しの上の壁に打った。もうだめだ。意識がなくなるし、見つかる。その時だった。

きいいいいー。

大きなブレーキ音だった。遠くから車の音だ。


34

「誰だ? あんなところに車が乗り入れるなんて」

狼のうちの一匹が身を乗り出して窓の外をみた。

「ん?」

もう一匹もその車の方に注目をした。引き出しにかけた力が急に弛緩した。セレンにとっては千載一遇のチャンスだった。狼が気を取られている隙に…。

「あ、あれは。上帝のご紋だ。どうしてここに?」

「じょ、上帝…うわさには聞いていたが。最近この辺に出没するというのは本当だったんだ」

「そう言えばヨシナリに行かれるという噂も」

「どうする? 巡査車を置いたままだ」

「やばいぞ。管轄外のことをしているのが親衛兵にでもばれたら」

「管轄外と行っても、指揮系統がな。それでもすぐ戻ったほうが良いな。新衛兵にご挨拶に伺わねば…」

セレンは、そおっと引き出しをすこし開けて、外を伺ってみたが、すぐに狼たちが振り返った。すぐ引き出しを引っ込めた。そして再び渾身の力をこめて、ひきだしが開かないように上と下を押さえた。疲れもピークだった。しかし、セレンのの努力はもはや必要なかった。狼たちの足音と話し声は遠ざかっていった。 

セレンは深い安堵のため息をついた。なぜだか知らないが助かったようだった。しかしここにいてもいつあの狼たちが戻ってくるのかわからない。あるいは別の狼が来るかもしれない。危険なことには変わりはなかった。セレンは引き出しから出ると、一度窓越しにその例の車を確認した。窓からは狼たちが血相を抱えて走って近づいているのが見えた。たいそう高級そうな車だった。が、誰が乗っているのかは皆目見当がつかなかった。黒塗りで、外からはまったく見えないようになっている。王様か、王様の側近だろうか? 門にあったのと同じ花の紋章があった。

セレンはとにかくこの場から一刻も早く立ち去る必要を感じた。食料さえも手に入らないこの故郷にいるより、やはり言われたとおりギンザに戻るしかないのか? セレンはスイートを出た。


「あいつは俺の忘れていたことを思い出させてくれました。店長、もう良いですよ。これは俺のケジメです」

「馬鹿野郎。カンシロー、お前こそ逃げろ。もう他の奴らは逃したぞ。助手もいない。もうお前がマニュアル通りやる気ねえのはわかってるんだ」

「ふふふ、お互い様ですよ」

「ふ、ここで死ねれば本望よ」

「覚悟が出来ているようだな」

「お、お前がじょ、じょう…」

「ふふふ、余分な他言は無用。マニュアルに従う気もレシピの書を渡す気もなさそうだな」

「ああ、最後の晩餐だ」

「それ使い方間違ってるぞ」


ひたすら目立たないように路地から路地をめぐった。この猿が谷は、ギンザとはまた違った迷宮だった。ギンザのそれが、元々は精密な区画だったのが崩れてなった一方、猿が谷は古来、一度も区画された形跡はなかった。それはあたかも堂々巡りの迷路だった。

時折、狼の官憲がセレンを見つけては追っかけてくるのではと案じたが、不思議とあれからは静かだった。セレンはビルのちょうど谷間になっているところから覗ける大通りを見ていた。そこはさっきセレンが寄ったレストランヨシナリに通じていた。もう既に黒塗りの車は去っているようだった。異変を感じたのはその時だった。黒い影がひっきりなしに店に突入するのが見えた。なにやら怪しい動き。突然悲鳴が聞こえた。程なくレストランから狼の官憲たちが出てきた。それぞれ手に何かの肉を携えているようだった。中にはすでに口にくわえ咀嚼しているものもいた。

「か、カンシローさん! 店長お」セレンは思わず叫んだ。

セレンはその意味するところを理解し目を開けていられなくなった。

もうどこにも行けない気がした。出口はわかっているのに出てはいけない。それどころか再び官憲たちの活動は活発になったようだ。自分が王様の目を刺さなければ。セレンは自分を責めた。セレンは途方に暮れた。このヨシナリはもはや地獄の成れの果てだった。

再び足音が忍び寄ってきた。セレンは逆方向に逃げた。いくらこの辺の地理に明るいといっても、数の違いで不利は明らか。どこにも逃げようがない気がしたが、それでも逃げるほかなかった。逃走する暗闇の中でセレンは必死だった。とりあえずさっきは助かったが、危険な状況に変わりは無しだった。むしろ王様に助けられた形だった。本当はこの俺を捕まえるのが目的だろうに。上帝か…。王様のことなのか? ただ、セレンの空腹の頭の中で、あの独特のお花の紋章が走っている間、ずっと巡っていた。


35


 ライオン王の立派な鬣が怒りで小刻みに震えていた。王の傷ついた片目は完全に閉じられ、もう片方もひどくゆがんでいるようだった。

「まだか? まだ見つからんのか? 褒美はいくらでも取らすのだぞ」

「は、ははあ」

トラの侍従はかしこまってライオン王の前に跪いていた。しかしその力強い風貌は、ライオン王に自分と同等か、あるいはむしろ自分より上なのではないかと思わせる程のものだった。何よりあの上腕二等筋。それはどう見ても自分を凌駕しているようにライオン王には見えた。何しろこの世は、力がすべてなのだ。ライオン王はそれが自明のことと考えていたし、事実それが真理のはずだった。そして力において誰にも負けないはずの王である自分が、たかだか侍従に負けているのではというその不安が、よりいっそうライオン王を苛立たせた。この俺が、ライオンであるこの王族であるこの俺が、いくら親戚であってもこの侍従であるトラに負けるわけがない。あってはならん。

「どうなっておるのだ? 申してみよ」

「は、王様。セレンなる者ですがヨシナリでそれらしき者目撃の情報はありましたがそれ以降情報は途絶え、現在、ギンザはもちろん、周辺も含み全力を挙げて全官憲一斉に捜索させているものの、誠に残念至極ではございますが、依然報告はあがっておりません」侍従の物言いはへりくだっているものの決然として迫力があるためか、ライオン王にとってはこれ以上突っ込めない圧を感じていた。

「うーむ、あれだけサル狩りをしてもだめか?」

「ギンザの境界付近はもとより、ヨシナリも厳重に警備をして、ありの子一匹漏らさない構えですが残念ながら今のところ」

「ふふふ、ヨシナリか…。例の小ざかしい指導とやらがあったというが…あちらのほうも用は済んだようだな。例のお方ももはや何も言ってこんわ。そもそも決まり事が多過ぎる。しかしその他、懸外ということはあるまいか?」

「懸外といいますと、更に外ということにございますか? それでしたら心配するに及びますまい。おおよそ猿ごときが野生の中で生きていくことはどう考えても不可能。懸外を始め辺境や野生地帯などは文明化されない野獣が跋扈してございますゆえ」

「それでは余の気が治まらない。生け捕らねばならぬ」

「まあその辺は気をつけるように言っておりますゆえ。それにそうそうこの世界から抜け出すことはゆめゆめ叶うことではありません。必ずこの世界のどこかに潜んでおりますでしょう」

「ううむ、セレンのやつ。どこなんだ? 見つけ次第八つ裂きにして、その脳みそをけちょんけちょんにして味わってくれる!」

王様はとは言えセレンのことは多数いる猿のうちの一匹であり、レストランの料理長の時代にはわざわざその名前を覚えていなかった。後から調べて知ったのだった。

「は、よりいっそう厳重に警備をいたします」

「うむ」

ライオン王は、言い終えると、少し表情が緩んできた。そして一度緩むとそれを止めることはもはや不可能のようだった。

「時に侍従よ」

「は、なんでございましょうい?」

「今日のご飯なあに?」

さすがの侍従も少しずっこけた。

「きょ、今日はですねえ、なんでしょう?」

「もうー、ほんとにおいしいんだから」

ライオン王は両手をほほに突き刺して、小首をかしげた。が、トラの侍従が厳しい顔をするが早いか、ライオン王は緩む頬をなんとか釣り上げ急にまた目をきりりとさせシリアス顔になった。

「だけど侍従よ」

「なんでございましょう?」

「余は思うのだ。今ではなんでこの余が王になれたかと」

「それは王様が一番の力持ちだからでしょう」

言い終えてから侍従は何かまずいことを言ったと自覚したのか、自分と王の体をさりげなくチェックして言葉を続けた。

「ま、何より料理のうまさです。天下の一番を決する料理大会で優勝された王様が王になるのは当然のこと」

ライオン王は考えあぐねた。

「その辺の仕組みが今一わからんのだ。余は確かに今回優勝したが、大会は毎年あるのであろう? だったら毎年優勝者が変わるたびに王様が代わるということではないのか?」

「そういうことでもないらしいです」

「どうしてだ? 前から疑問だったのだ」

「それはわたしにもわかりません。ただ、たとえ毎年優勝者があっても毎年王様を代えるわけには参りません」

「だったら結局何で王が代わるのだ? 前の王の在位は10年だった。その前となるともっと長かったか自分の幼い時故、記憶が曖昧になっている。一体全体どういうタイミングで代わっているのだ? これは自分のことだから真剣に知りたいのだ」

侍従は考えた挙句言った。しかしライオン王にはそれが何かを隠しているかのように感じられた。

「だから力ですよ。力が一番。いくら大会で誰かが優勝して一番の力を示してもそれが王様に敵わなければ王様が代ることはないのです。前の王様の力は確かに強大でしたが、全盛期は過ぎやはり寄る年波には勝てなかった。そう言うところではないでしょうか。詳しくは存じ上げませんが」侍従は早口でまくしたてたあと思わず口に手を添えた。

ライオン王はそれを聞いて少し複雑な気持ちだった。

「だったらおぬしがやればよかろう。見たところおぬし、わしと同等かそれ以上の力を持っていると見た」

ライオン王の前にいるトラの侍従は実際王が圧倒されるほどの筋肉量を誇っていた。しかしトラは恐れ多いといった感じで頭を垂れ、手を何度も振って見せた。

「滅相もございません。料理はそんな単純ではないではありませんか。力は確かに重要ですが、必要なのはただ力の強さだけではありません。ひょっとして力では確かに現時点で私が優れている点もあるかもしれません。それでも大概の王様は就任時から時を経るにつれて強く逞しくなって行かれます。しかしそれでも料理がうまくなければ仕方ないでしょうから。それに力は総合的な強さなのです。私など、そういった点から言って、とても王様にかなう相手ではございません」

王様はその言葉を怪しんだが、それでもそういわれてうれしくないと言えば嘘になった。

「それに我々虎はライオンに従うのが古来よりの定め。確かに数度、過去にトラが王位につきました。しかしそれは例外中の例外。その時は国内はうまくまとまりませんでした。そして一部の腕自慢の一匹虎たちは辺境におりますが、どのみち集団ではライオン様にはかないますまい。少なくともこのギンザでは、たとえ力がどうあろうともその関係はかわらないのです。力は必須条件ではありましょうが、決してそれだけでは料理はできますまい。だから大会での王様の料理が飛びぬけていたのでございますよ、きっと」

それを聞いてライオン王は再び神妙な顔つきになって侍従に聞いた。やはり何か侍従の言葉に歯切れの悪さを感じたのだ。

「しかし侍従よ」

そして、ライオン王の質問は唐突に響いた。

「聞くが、上帝とは何者か?」

侍従の顔は一瞬、強張った。

「それは…、あまり詮索されないほうがよろしいかと」

「どうしてだ? どうしてこの王が知らない者がいるのだ? いったい上帝とは何者なのだ?」

「しいて言えば、上帝陛下は、大会の審査委員長でございますよ。きっと」

「うーむ」

ライオン王はさらに渋い顔をした。

「王の任命に決定権があるのはその上帝のみというわけだな?」

「そういうことになりましょうか。しかし、それ以外の権限は何もございません」

「それがあれば十分だ。自分の気に食わなければ首を挿げ替えればよいのだからな。それにこの王に対する決まり事の多さは何だ。上納金も払わねばならん。法律もガチガチだ。全然自由ではないではないか。本来それを全部取り仕切るのが王ではないのか!」

「ま、まあまあ王様」侍従はいきり立つライオン王を宥め、冷静な口調で言った。

「上納金ではなく協力金です。それに決まりは決まりとして古くからあるものであり、王様がこの国の一番であるのは間違いありません。それに王様。私の見たところ、今まで上帝陛下は一度も好き嫌いで王様を決めたり罷免したことはございません。それは単衣に料理大会の結果それのみであるようです」

「うーむ、料理のうまさか…」

ライオン王は複雑な顔をしたが、おなかが空いたのか、侍従との会話は今晩のおかずにすっかり変っていた。それは本当にライオン王にとって嬉しい時間だったが、なぜか時折セレンの顔がふと浮かんで、その度にライオン王は顔をしかめた。


36

市民の会話

うわあ、あがる…あがるわあ。これがトンネルなんやね 意外と柔い 何で出来てんかなあ?

いや、夢でできてるんやけどこれはパイプの中やで。でもトンネルもパイプも一緒のことやんな。ただ向こうの世界と繋がってるかこの世界の中で完結してるかの違いや

昔は至るところギョウさんあったんやってな?

そうやで。今みたいにギンザだけやのうて世界中至る所にや。今はギンザと離れた辺境んとこにしかあらへん。ギンザもあとごく僅かや。辺境にごっついぶっといの一本あるけどそれもいつまであるかなあ。今じゃごく僅かな夢しかあらへんよって怪物はんがお守りしてるっちゅう話やけど。

昔はイタリーにもぺっキンにもセオルにもニュイアークにもパリイにも、それこそ無数にあったらしいでえ。それが今じゃギンザとその周辺。全部あいつが悪いんや。

世も末や

ほんまや

まあ限られた機会やし良い夢見してもらいまひょ。

それな


 セレンはすでにギンザに戻っていた。どうして戻って来れたのか、思えばセレンにとっては未だに信じられらない、不思議な出来事であった。

それはもう昨日の事になる。ヨシナリを出て陥った四面狼歌を救ったのは、ハリージとの出会いだった。

 ハリージはとても奇妙な生き物だった。セレンが今まで生きてきた中で一度も出会ったことのない類の動物だった。とはいえ外見が取り立てて変わっているというわけではなかった。路地裏で追い詰められ息を殺し身動きが取れないセレンをたまたま通りかかったハリージが、見つけ、語りかけた。話をした、会話ができたという事実は、ハリージにとってどうやら想像以上に痛く感激する出来事だったらしい。ハリージがそもそも独り言のようにセレンにつぶやいたのを、セレンが答えたことが甚くハリージを驚かせたのだ。

セレンはハリージにこの場を離れたい旨を伝えると、造作もないことだといって、意識もない内にいつの間にかこのギンザに戻りついていたのだ。そして次に気が付いた時にはもうハリージは目の前からいなくなっていた。あれは幻だったのだろうか? でもそれだったら今ここにこうしている理由は何だろう? 今まで夢でも見ていたのだろうか? 

どこへ行きたい?

聞かれた時セレンは迷った。そのままどこか遠くへ行ってしまいたい衝動に駆られたが、カンシローや店長の顔が浮かんで、ついて出た言葉はギンザだった。かといって後悔しているかと言えばそうでもなかった。ギンザに来ても今まで以上にまた追われるのがわかってるのに、自分のことながら不思議だった。


37

冬枯れのギンザの街を最新の注意で歩いていた。指名手配であることには変りがないので再び身を隠さなければいけなかった。表通りはさすがに歩けない。満月が煌々とセレンを照らした。

くっそう

セレンは思わずつぶやいた。裏路地からまた裏路地に出て、鹿の家族が経営していると思われる小さな小さなレストランの脇を通るところだった。でももう閉店しているかもしれない。そこでは小さな明かりが漏れてきていた。路地の真ん中くらいまで。中からは幸せそうな家族の団欒中の会話が聞こえてくる。

「さあ、今日は野菜のご馳走よ」

「どんなに野菜だけ食べてもお嬢様には叶わないけどな」

「まあ、あなた。当たり前よ」

「わははは」

セレンは吸い寄せられるように目の前まで来ていた。腹が死にそうに減っていたセレンの目に見覚えのある顔が飛び込んだような気がした。

「リカさん?!」

「誰?」

お上さんが気がついて、ドアを開けた。セレンは思わず身を隠した。こんなところにいるはずがない。幻覚か、昨日から色々と奇妙なことばかり起こる。

「変ねえ…、お客さんじゃないのかしら…」

「止せよ。乞食かなんかだろう。最近はいろいろと物騒だし、関わらないに越したことはないよ」

そう言って牡鹿はドアを閉めた。

どうすりゃいいんだ?

セレンはうなだれたまま、とぼとぼと路地を歩いた。歩いているものもまばらで、いくらギンザが賑やかといえどもそれは表通りの話だった。裏路地は寂しいものだ。そこにいるのは元々そこにひっそりと生息いているもの、あるいは時折間違えて表通りから迷い込んでくる者好きな動物、それに若干の猿の浮浪者だった。それらが主な路地裏の住人だった。あの鹿の娘はどうしてるんだろう。時折思い出す鹿の娘の顔も今は飢えにかき消されそうだった。

 セレンの空腹は臨界点に達していた。残飯を漁ろうにも表通りでもなければそんなのはなかなか見当たりそうもなかった。いっそのこと表通りまで出てみるか? せめて表の大通りでなくてもその向こう、反対側をいけば、きっと何かあるはずだ。

セレンは顔を上げて、それでも慎重に歩を進めた。と、そのとき。何か小さなささやきをセレンは聞いた。


おなか空いてるのかい?


セレンは辺りを見回した。誰もいなかった。いよいよセレンは自分が空腹でおかしくなってきたんじゃないかと疑った。


こっちだよ。こっち


再び小さな声がした。セレンは音のする方を見るがやはり誰もいない。空腹は精神をも蝕む。


だからこっちだってばあ


「ああーもう。うるさい!」

セレンは必死にその声を掻き消そうとするが、一向にその声は鳴り止まない。


「よく見ろよ! この馬鹿猿」


セレンはしっかりと声のする方を見てみた。そこには小さなねずみが一匹いるだけだった。ネズミが喋る訳が無い。セレンはとうとう自分がおかしくなったのだと思った。

 しかしそれは、懐かしいような気分でもあった。そういえば昔はこうして何とでも、しゃべるはずのない動物とも話をしていたような気がする。それは本当だったかわからないおぼろげな幼い記憶だった。その後も何度か言葉を話さない動物と本当に話をしているような感覚に陥る時があるにはあった。でも何時の間にか大きくなってそんなこともすっかりなくなっていった。それが大人になるということなのだ。そんな、決められた文明動物以外の動物が話すわけはないのだ。最良の料理人は素材と話をするというがそれはあくまで比喩のはずだ。セレンはそう考えるようになっていた。じゃあ、あのヨシナリの野菜の声は? あれはきっと自分の心の声だ。第一、ネズミは食材じゃないし。まさか…、セレンは半信半疑ながら思い切って目の前の小さな存在に話してみることにした。

「なんだ。ねずみさん。どうしたね?」

「あんた、おなかが空いてるんだろう?」セレンの耳にしっかりとネズミの声が入ってきた。

「ああ…」セレンは面食らった。そして、これは夢だと思った。

「いてて」顔の髭を引っ張ると激痛が走った。どうやらそのくらいでは覚める気配もなかった。

「連れて行ってあげるよ。向こうにいいレストランがある」

「あいてて…」

セレンは膝の毛を引っ張られるように連れて行かれた。

「ちょっと、待ってくれ。俺何もお金持ってないよ」

「いいからいいから」

ねずみはそう言ってセレンの心配もお構いなしに次から次へと迷路のような路地を渡り、セレンをそのレストランへと誘った。

「ちょっと待ってくれよ。俺、指名手配なんだよ。お金もないしまずいよ」セレンはつい指名手配を明かしたが、それは相手があまりに小さく、ネズミなのが大きかった。

「そんなこと知ってるよ。別にいいじゃないか」

延々三十分以上歩かされただろうか? セレンの前に、ほんの目立たない、誰も知らないような一軒のレストランがあった。

「ここだよ。さあ」

セレンはネズミに促されるようにレストランの中に入った。中から猿のウエイターが出てきた。

「おっ、ねずみめが」

ウエイターはセレンを直接には目もくれずネズミを見ると、言葉とは裏腹にポケットから紙包みを取り出し、それをネズミに与えた。ネズミはその紙包みを持つとセレンにウインクをしてその場を立ち去っていった。


38

「さ、いらっしゃいませ」

セレンはどぎまぎしてしまった。 

「でも、僕、お金持ってません」

ウエイターはそれを聞いても眉一つ動かすことなく、にっこり笑って言った。

「良いんですよ」

「で、でも…」

「さ、どうぞ」

戸惑うセレンを、猿のウェイターは手を引っ張って店内へと誘った。

喧騒が一気にセレンの耳に飛び込んできた。

店内はお客で賑わっていたが、席にいたのは猿ばかりではなかった。鹿や狸や狐からツキノワグマ、リスと羊、馬など、ありとあらゆるギンザの文明動物で賑わっていた。だが、ライオンやトラなどの猫族の動物は何故か皆無だった。セレンが入ってきても誰も注目するものはいなかったが、セレンは一応みんなから死角になるような席に通された。

「本当にいいんですか? 僕は本当に何も持ってないのです」

ウエイターはうなずくと、特に注文も聞かずにそのまま奥へと消えていった。

セレンはテーブルについてあたりを見回しながら、何がなんだかわからず頭がこんがらがってきた。もしや後で法外な値段を請求されるんじゃ…。あるいはひょっとして注文は店側がしてくる系? セレンは気が気でならなかった。

 まもなくして、もうもうと湯気を上げて、それはもう芳しくえもいわれぬ匂いを発した料理が運ばれてきた。ウエイターはにっこりしたまま黙って、特に何も説明せずにそのまま料理をおいていった。空腹の絶頂にあったセレンにとっては、のどから手が出るほど食べたいものがまさに眼前にあったのだ。

 これは夢か? 幻覚か? そんなことはもうどうでも良いとセレンは思った。夢でも何でも食べなきゃ始まらない。そんな矛盾はお構いなしにセレンは料理を口に運ぶことにした。もしお金を請求されたら働いて返せばいいんだし。でも公安に突き出されたら? 

 セレンに急に恐怖が襲ってきた。しかしその恐怖心は空腹と絶え間ない争いを続け、とうとう最後には空腹が恐怖を克服した。もうこうなったら食べるしかない。食べなきゃどちらにしても死んでしまうのだ。セレンは意を決して食べた。

 一口、口に入れると、一瞬にしてセレンは気を失いそうになった。そしてはっとわれに返ると、思わず絶叫せずにはいられなかった。

「う、うんめえー!」

ドッカーン!

セレンはあまりの美味しさに仰け反りすぎて後ろに倒れた。飛び上がらんばかりの気持ちだった。

セレンは夢中になって、もう一回、もう一回と口に運んだ。セレンはなくなるのがもったいなくて少しずつ味わって食べようとした。それでも手がもう、次の瞬間には伸びていた。とうとう最後の一切れを、余ったソースに残らずつけて口に入れた。口に溶けるようになくなっていくその食べ物。それを名残惜しむように、セレンはじっくりと味わおうとするのだが、無常にもそれは容赦なく、セレンの胃袋へと吸収されていった。セレンの口は、そのときほど自分の胃袋に嫉妬したことはなかった。

セレンが臍をかんでいると、これも又、えも言われぬいい匂いが鼻腔をくすぐった。そしてウエイターが現れ、今度は違った料理が載ったお皿をセレンの前に置いた。

「え! まだあるんですか?!」

ウエイターはうなずくだけだった。

セレンは歓喜の悲鳴を上げそうになった。セレンは忽ち二皿めも平らげてしまった。今度ももう食べたことがないほどのうまさだった。そして食べ終わるころにまた、三皿目が運ばれてきた。三皿目もあっという間だった。

 セレンはおなかをさすっていた。そして最後にデザートが運ばれてきた。おそらく木の実か何かをベースに上質の牛のクリームを使ってムースにした、パンナコッタのような一品だった。プルンプルンと揺れた弾力のありそうなそのムースはしかし、口に入れるとスッとなくなり、かすかな後味を残した。その口溶けは儚く、舌が胃袋の中まで伸びていくようだった。もうセレンは夢のようだった。こんな料理、自分の今までの店でも食べたことがなかった。

しばらくして木の実と果物の飲み物が運ばれてきた。

「いかがでしたか?」

セレンは目を輝かせながら答えた。

「最高でした!」

ウエイターはにっこり笑って言った。

「それじゃあ今計算しますね」

セレンは絶句した。一気に天国から地獄に落とされたようだった。

「うそです」

セレンはずっこけた。

「本当ですか?」

セレンは苦笑いをしながら聞いた。

「料理長のご意向です」

「はあ…」

セレンは一瞬いやな予感が頭をよぎった。もしや…。すかさずウエイターに質問をした。

「あのう、ここの料理長はさぞ力の強いお方なんでしょうね。どんな方が?…、やっぱりライオンさんですか?」

セレンは今やっと、ただで食べさせてくれた理由がわかったような気がした。自分を、猿を食材に使うためなのだ。そのためにこんなやせ細った自分よりも少しでも太らせたところを料理に。セレンは考えただけでも恐ろしくなり、早くも逃げる体制を整え始めた。

「猿ですよ。われわれと同じです」

セレンは驚いて首を激しく振った。吸い込まれるようにウェイターの顔を。そしてまじまじとウエイターの顔を見据えた。ウエイターの顔には一見、不自然なところはなかった。

「もう一度言ってください」

「猿ですよ」

聞き間違いようはなかった。だがセレンは警戒を怠らなかった。これは釣りかもしれない。

「ギンザで猿が料理長なんてありうるんですか? こんな見事な料理を猿が作るなんて!」

ひょっとして猿は猿でも料理長が猿ではなくて、料理が猿なのではないか? あるいはライオンの名前が猿とか…。セレンはいろいろ目まぐるしく頭フル回転で疑った。料理長ではなくて料理腸とかそんな食材を聞かれたとウエイターが勘違いして…。セレンの不安は拭い去れなかった。

「ちょっと…」

後ろから声がした。セレンは声の主のほうへ振り向いた。

「うわあ!」

驚いてその場に尻餅をついた。セレンは目を疑った。そこにいたのはライオン王をもしのぐ大きさのライオンだった。セレンはもはや目を疑いようもなかった。セレンは起き上がるか起きあがらないかのうちに咄嗟に逃げ出していた。


「ちょっと、驚かしすぎですよ。」

「すまん、あんなに怯えると思わなかった」


39

 セレンは昨日のことが全て夢だったのではないかと疑った。ねずみのこと、レストランのこと。料理のこと。全てが信じられない出来事だった。ただ最後のライオンが出てきたところが本当に鮮明で、無我夢中で出てきた。気がつくとセレンは小さな公園の片隅で寝ていた。

セレンはそれでも、昨日のレストランが気になった。もしあのままいたらあのライオンに料理されていたのだろうか? そんなことがないだろうことはなんとなくセレンにはわかった。だってあんなに美味しいレストランは初めてだった。もちろん自分がいたレストランカネサークなど比ではないと思った。

セレンはほとんど記憶がおぼろだったが、それでもかすかな記憶をたどりながらもう一度昨日のレストランに行ってみようと歩き出した。

 だが、歩けど歩けどそれらしきレストランは見当たらなかった。必死で逃げてきたので定かではないが、そんなに遠くまで来たとも思えない。それらしいところがあるにはあるのだが、どんなに目を凝らしても、入り口らしきところが見当たらなかった。ただ、官憲の追っ手もあるので、そこまでおおっぴらにきょろきょろするわけにもいかなかった。やはり昨日のことは全部夢だったのだろうか? あれだけおなかが空いていたのだから、幻想を見ても不思議ではないかもしれない。だが、それにしても不思議なのは、本当にまだ少し満腹感が残っていることだった。とはいってもこれだけ歩き通すとさすがに腹が減ってきた。

セレンは仕方なくとぼとぼと歩いた。すると路地の片隅から心地よい、昨日と同じくらいの素晴らしくいい匂いが漂ってきた。セレンは思わずよだれを垂らした。匂いに吸い寄せられるように歩いていくと、年老いた浮浪者風の猿がちょうど野外で料理を作っているところだった。セレンはあまり見ない振りをして通り過ぎようとした。

ぐううー。

意に反し、セレンのお腹はけたたましいまでの音を立てた。聞こえちゃったかな。セレンが心配しているとその浮浪者は案の定話しかけて来た。

「食べるかい?」

「いや、だいじょうぶです」

セレンはすぐさま断って、そそくさと立ち去ろうとした。

キュルキュルキュルルルルー。

セレンの言葉とは裏腹に、セレンの腹は正直に腹のうちを訴えた。セレンは仕方なくその浮浪者の猿の促しに従った。

「いただきます」

浮浪者の猿はにっこり笑ってセレンを迎え入れた。その浮浪者はよくみると服装からして何かの作業員らしかった。

おわんによそったスープを口にすると、セレンは飛び上がらんばかりに驚いた。

「うまい、すごいよこれ。何で作ったの?」

「残飯だよ」セレンはそれを聞いて思わず吐き出しそうになった。

「といっても衛生と品質にはこだわっておる。心配するな」

「う、うん。でもおじさん何者なの?」

「配管工だよ。今は仕事がないからこの通りだけど」

「配管工? 配管工って水道とかいろいろパイプを繋ぐ仕事でしょう?」

「ん? ああ、わしのはちと違うが…」見たところ工具の類いや装備は無さそうだった。 

お金がなくて売ったのかもしれない。

「特殊な配管ってことだね。おじさん仕事がないなら料理の仕事やったら? これなら絶対料理長になれるよ」

「ふふふ、昔は料理長だったよ」

「料理長? ははは。そのくらいのことはあるよ」

「グランシェフには遠く及ばないがな」

「グランシェフって? どっかで聞いた気がする」

「対話する者。想像して、創造する者だ」セレンにはあまり浮浪者の言っていることが理解出来なかった。

「…よくわかんないや。でもおじさんの料理、実際昨日食べたレストランと同じくらいうまいや」

「昨日食べたレストラン? どこの話だい?」

「それがわからないんだ。この辺だと思うんだけど。昨日あったはずのところに入り口が無いんだよ。鼠がつれてってくれて。でも、やっぱり夢かもしれない。おじさんわかる?」

「それは夢じゃよ、きっと。昨日は確か満月だろう? 満月の時には変な夢を見るもんさ」浮浪者の猿は心なしか、不満げな表情を浮かべた。

「そうか…この辺に詳しいんでしょう? そのおじさんが言うんだから間違いがないや。腹が減ってるときには幻想を見てもおかしくないもんね」

「…でも、腹が減ってるからこのスープが美味しいわけではないぞ」

そう言ってから浮浪者の猿は遠い目をした。そして独り言のようにぼそりと言った。

「あいつは何もわかっていない。食材との対話の本当の意味を…」

セレンはあわてて取り繕った。

「うん、わかってるよ。気を悪くしたらごめんね。でもなんだかこのスープ。母さんの作ってくれたスープに似てるんだ。もちろんおじさんの方がよっぽど洗練されてると思うし、美味しいけどね。でも忘れられない味だから」

浮浪者の猿は驚いたような顔をして言った。

「坊や名前はなんていうんだ?」

「俺? 俺はセレンだよ」

セレンは堂々と答えた。聞いた瞬間、浮浪者は目を今まで以上に見開いたと思ったが、かすかに目に涙がたまっているように見えるのは気のせいだと思った。

ただ一言「連れて行こう」という言葉を残し、セレンを案内した。セレンは不安になって浮浪者の猿に聞いてみた。

「どこに行くんだよ?」

「そのレストラン」

「知ってるの? でもあそこ、ものすごく怖そうなライオンがいたよ」

「ライオン?」

そう言って浮浪者は楽しそうに笑った。

「たぶんそのライオンだったら問題ない」

浮浪者はそう言うだけだった。

セレンの記憶は間違っていたわけではなかった。めぼしいところだと思っていたところは、なぜだか入り口がなくなっていたのだ。だから浮浪者は裏道からの入り口を教えてくれたのだ。しかしそこは絶対に外からはわからないようになっていた。

40

 振り返ると既に浮浪者の姿は無かった。セレンは必死に探したが浮浪者の影すら消えていた。

 セレンは気持ちを切り替えて、意を決してレストランの中へと入った。

「ごめんください」

セレンが声をかけると、今度は見たことのないおじいさんの猿がいた。

「こんにちは」

セレンはおじいさんに挨拶もそこそこに中へと入っていった。セレンにはそれなりに覚悟が出来ていたが、それでもライオンと再び合い対峙するのは勇気の要ることだった。中には昨日のウエイターがいて、セレンを認めると、親しそうに話しかけてきた。

「やあ、よくここがわかったね」

「はい、昨日はご馳走様でした。逃げ出したりしちゃってごめんなさい」

そう言いながらもセレンは、本当にここに戻ってきて良かったのか確信が持てなかった。ひょっとして自分自ら、わざわざ食材になるためにやってきたお馬鹿さんなのかも、そう言う心配も無くは無かった。それにそのまま官憲に突き出されるかもしれない。しかしセレンはそんなことも顧みず意を決していった。

「あのうすみません! 料理長はいますか?」

ウエイターが取り次いでくれた。ウエイターは料理長を呼んだ。セレンはどきどきしていた。

「ほーい」

かすかな返事があった。

キッチンの方向、そのキッチンのドアーからさっきの年老いた猿が、コックコートを着てセレンを手招きしていた。

「料理長です」

ウエイターが言った。セレンはあちこちと見回した。

「どこですか?」

一見料理長らしきライオンはいなかった。

「だからわしなんだけど、料理長」

老猿は自分を指差して歩み出た。

「嘘でしょ? 何で猿が料理長なの? ライオンさんでしょ?」

「でも昨日言ったでしょ。この方が料理長なの」

「本当に?」

セレンは驚きを隠せなかった。本当に猿だ。しかし油断はならなかった。後ろでライオンがてぐすね引いて待っているかもしれない。油断したところを後ろから、がぶりと行かれるのではないか、セレンの不安が募った。

「さ、何を警戒しておる」

「あんた、掃除のじいさんかなんかじゃなかったのか? え、じゃあ本当におじいさんが? 昨日のライオンは?」

「あ、ああ、あれは気にしなくていい、そのうちわかる」

「本当に?」

セレンは恐る恐るキッチンに近づいた。腰が引けていた。まだ信用できないでいた。

「昨日の料理はどうじゃったかのう?」

セレンは答える前にキッチンをきょろきょろと覗いてみた。しかし誰もいなかった。

「もう最高でした。本当に今まで食べた中で一番だ」

「ほう、それはよかった」

「ほんとです」

キッチンには誰もいなかった。おかしい。やっぱりどこかに隠れてるんじゃ…。

「おじいさん、ほかの従業員はどこにいるんですか? 見たところこの規模だと五人くらいは必要だと思うんですが…」

「わしひとりだけじゃよ」

「ええー!、そんなばかな」

セレンは老人のいっていることが信じられなかった。キッチンはきれいに行き届き、セレンの働いていたカネサークほどではないがそれなりに十分の広さがある。ポジションは普通にグリル、フライ、ソテー、サラダ場と、例え暇でも三、四人は必要なはずだ。しかもこれだけ繁盛しているのだ。とても信じられない。

ウエイターがオーダーを持ってきた

「ちょっと待っててな」

老人はウエイターが口頭で読み上げるオーダーを聞くやいなや、疾風のごとき速さで本当に老人一匹であらゆるポジションをこなした。一匹というのは嘘ではなかったようだ。セレンはいてもたってもいられなくなって、思わずキッチンに入っていた。

「僕も手伝います」

老人はにっこり笑って一言言った。

「ありがとう」

それから数時間、セレンは見よう見まねで老人の後を、感覚を研ぎ澄ませてフォローした。数時間後には、老人の考えていることがなんとなくわかるようになってきた。いつの間にか、セレンはこのキッチンになじんでいた。結局、セレンはこのレストランの厨房にお世話になることになった。

41

「いてえ!」

「ほらセレン! サボってんな!」

フライパンがセレンの頭に直撃した。

「何だよ爺さん、そんなに思いっきり! 怪我するじゃないか!」

「うるさい。働くからには妥協は許さん。鍋も磨いとけ!」

これじゃあライオン料理長のほうがよっぽど荒っぽくなかったよ。くそじじい。

セレンはボソッと言った。

「何!」

「い、いえ。なんでもありません」

「うむ、いいか。リズムな。リズム。そしてスピード。猿はただでさえ非力なのだ。力に対抗するにはスピードじゃ。そして一番大事なのは食材との対話だ」そう言いながら老猿は何事か食材に話しかけていた。

「はあい。ブラックもブラック過ぎて別次元にワープしそうだわ」セレンは不平をつぶやきながらも老猿の動きの早さ、無駄の無さに感心した。

「でもおじいさん、よく一人でやってたね」

「仕方ない。継ぐ予定の動物がいなくなったんだ。もう少ししたらハナコがもどってくるんだが…」

「へ? おい爺さん! いまなんて?」

「ハナコじゃよ。ちょっと前から、うちで働いてる」

「ハナコってあの、猿の? 女の子?」

「いや、残念ながら豚の紳士の男の子じゃよ。変わってるだろう」

「それって、指名手配の猿じゃなくて?」

セレンは思わず口を押さえていた。まずいことを言った。そういえばセレンは、この老人に正体を言ってなかったのだ。

「そうなのか?」

しかしその老人の口調は、全然何も気にしていない様子だった。

「そういえばお前もそうだな」

「えっ、何でわかるんですか?」

セレンは再び逃げ出したくなった。やっぱりこの老人はきっと公安の手下だ。

「だってあそこのポスターとそっくりだもん」

「あっ!」

見ると、セレンの指名手配のポスターが、でかでかとキッチンの入り口に飾られていた。セレンは思わず逃げ足になっていた。

「待て! セレン。心配するな。最初から知っておったわ」

「じゃあやっぱり、俺を捕まえるために…」

「お前を捕まえてなんになる? それを言ったらワシ自体が指名手配犯じゃ」

セレンは思わずのけぞった。

「何を怖がってるんだ? お前だって指名手配のくせに」

「そうだけど…おじいさん何したの?」

「わしか?…」

老人は少し考えていた。まるで何か思い出したくないような過去でもあるかのようだった。禁句に触れたのだと思った。誰しも触れられたくない過去はある。

「ワシは…ワシは…」

老猿は苦しそうな顔をした。

セレンは固唾を呑んで老人を見守った。もういいよと言いかけたその時、老人はいたたまれなくなったのか、トイレに駆け込んだ。セレンは、聞いていいことといけないことがあるんだなと悟った。

セレンは今までの逃亡生活を思い、老人のそうであろうものとを重ね合わせていた。俺なんかよりも何十年も逃亡生活をするというのはどんな大変な苦労だろう。

「あー、すっきりした」

老猿は出てくると異様にさわやかな顔をしていた。どこまでも続く青い空のような晴れやかな。セレンはずっこけていた。

「ちょっとおじいさん。本当にトイレに行きたかっただけなの?」

「そうじゃよ。それよりなんだっけ?」

この老人案外軽いな。セレンは思った。

「指名手配の理由だよ」

「ああーそれね。忘れた」

セレンは再びずっこけた。

「もうー爺さん。いままでどうやってやってきたんだよ」

「まあそういきり立つな。指名手配なんてどうということはないよ。どうせあいつら、あまり猿同士の違いなんかわかってないんだ。というよりそもそも善悪というものがわかっとらん」

セレンは苦笑いするしかなかった。

「それよりこんなところで堂々と営業していて、平気なのかい? 猿がレストランをやってるなんて、ガサ入れでもあったら一発で終わりだよ」

「それなら心配いらんよ。普段は表口は開いとらん。それに…、ちょっとあっち向いててくれる?」

セレンは言われるままに後ろを向いた。

「もういいぞ」

何なんだよもう。セレンはぶつくさ言いながら再び老猿の方に振り向いた。

「うわあ!!」

セレンは尻餅をついて、そのまま後じさった。そこにいたのは昨日見たライオンだった。

「ちょ、ちょっと。どういうこと? やっぱり俺を食材にするために!」

セレンはキッチン内を這うように逃げ惑った。やはりあの老人は官憲の手下だったのか。

ライオンはなおもセレンに対して襲い掛かる。そしてライオンはあっけなく、セレンを捕まえてしまった。セレンの身体はライオンの大きな前肢に捕まれて、まさに持ち上げられようとした。が、一向に持ち上がらなかった。

「う、うーん」

ライオンはうなった後、首を振った。そしてライオンの首が外れた。

「あれ? じいさん。びっくりした。おっどろかせやがって」

「わるいわるい」

老人はライオンの被り物をしていただけだった。

「ま、このように。突然のガサ入れにも対応できるわけじゃ」

「まじリアルだわ」

「おまえの分も用意せねばいかんなあ」

「いいよいいよ隠れるから。そんな子供だまし」

「その子供だましに引っかかったのは、どこの子供かのう?」

「うるせえ」

「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ!」

老人は楽しそうに笑ったが、すぐに険しい顔をして言った。

「だがのう…、犬族には注意せねばならんぞ。あいつらの嗅覚はすさまじい」

「うん」

セレンにはそれがわかりすぎるほどわかっていた。

それから老人の下で、再びセレンの本格的な料理修行が始まった。


42 


ライオン王は即位後、鬣をさらに立派に伸ばしていた。この鬣はもとより体毛を生やすのは、王族の、特に王の特権だった。そもそもほかの動物は、基本的には体毛は剃るのが文明動物としての嗜みとされた。しかしライオンはどう見ても見た目でそれとわかるので、それを免除されていたのである。ただ他の動物は文明動物の証として、体毛を剃っていたのである。もちろん例外はあった。それがギンザ以外から時折やってくる野生動物と乞食だった。

鬣が風になびいて、ますますその威厳は天下に轟かんばかりであった。

ライオン王は侍従に聞いた。

「その後のセレンの消息はどうなっておる?」

「はっ! 以前は猿が谷にて、それらしき者の目撃情報も伝わってきておりましたが、それ以降より現在、杳として行方は知れません」

「猿ヶ谷、そしてヨシナリは、もはや今は完全にこっちが捜査しても問題ないのだな?」

「はい、そのようでございます。上帝陛下は既に猿ヶ谷、ヨシナリ地域を見限ったようでご許可が下りてございます。従いまして、既にこの地域の猿たちもほぼ駆除済みといってよいでしょう」

「むむむ、しかし…また上帝か」

「やむを得ません。上帝陛下も干渉は最小限になさると思われます。どうかご堪忍を」

ライオン王は片目を更に歪ませ、自分をなんとか納得させているようだった。

「………で、周辺地域の情勢はどうなっておる? 家畜の間で、きな臭い動きもあるようだが」

「はっ、6丁目豚の乱でございますね。すぐに鎮圧してあります。あれに関しては豚紳士たちが結託して急速に家畜豚たちを教育しているのが原因のようであります」

「無駄なことを。言葉なんぞ覚えなくても良いではないか。食われるだけの分際が」

「しかし豚紳士は、家畜が喋れるようになった結果であり…」

「しかしそんなものはギンザで猿がシェフになるような、あくまで奇跡的な例外のようなものなのだ」

「はい。今後万が一、豚紳士が増えるようになり、下手な動きをするようになりましたら、新規の市民権の制限もいたさねばなりませんでしょう」

「ふっ。まあ猿がシェフの方が確率が低いか」

ライオン王は馬鹿にしたような吐息を発し、言葉を継いだ。

「周辺の蛮族はどうなのだ? あいつらは言葉も喋らんのに愚かにもこのギンザに進入を繰り返す歴史があるそうだが…。幸い余が生まれてこの方、そのようなことは一度も記憶にない」

「はい。昔はあったという話は聞きますが、最近はそのようなことはもうないようです。ご心配なされませんように。何せこの世は力がすべて。そしてその力の最高位にあらせられるのが王様なのですから、何も恐れることはございません」

「そうか」

王様の声がうわずり始め、侍従の言葉に満足そうにうなずいた。

「で、今日の晩餐はどうなっておるの?」

独特のうわずったしゃべり口調は、当初極度な緊張の結果と思われていたが、反対に少なくとも一時的には安堵の現れだというのが次第に周囲にも知られていた。王のふざけているとも取られる発言ににわかに場は和んだ。今ではこのような王の変調も、王宮では愛され始めていた。

「はい。王様の政策により、最近ではかなり猿たちを処刑できるようになりましたゆえ」

ライオン王の眼がらんらんと輝きだした。

「じゃあ猿か!」

「御意にござりまする」

「ほっほー、やった」

ライオン王は飛び上がらんばかりに喜んだ。しかし次の言葉で侍従たちに緊張が走った。

「たまには余が料理するぞ」

「いえいえ、王様はご公務がございますゆえ。料理はお任せください」

「料理はいったい誰がやっておるのだ? いつも疑問なのだが…。あのような絶品な料理は本当に食べたことがない。悔しいが余の作る料理よりもおいしいのではないか?」

「そのようなことはございません。王様の料理が一番です」

「では誰がやっておるのか? さぞや立派な」

「それはちょっと…」

「良いではないか」

「………」

侍従はいいにくそうだったが、ライオン王の執拗な質問にとうとう屈した。

「前王でございます」

「前王? 前王様か?! いまだ直に拝謁したことはないが、前王様とな? それはまた不可思議。それが王家の伝統か?」

「伝統といいますと?」

「つまり王が代わればその前の王が料理担当になると」

「…いえ。そのようなことはございませんが…。料理は基本的には王様が、しかしながら今ぱんご公務が立て込んでおりますから特別に前王様にお願いしているのです。そしてそれを補う形で我々がやるのです」

「立て込んでる? 全然出来るぞ」

「いえいえ…、お任せください」

「ワシはほとんど王になってから料理を作ってない。それにそなたらも作ったのを見たことがないではないか?」

「まあまあ、王様はふんぞり返ってこそ王様です。料理は前王様にお任せ遊ばして…」

「言っていることがさっきからでたらめではないか?」 

「いえ、そのようなことは…」侍従は必死に否定をした。

「まあよい、いづれにしてもご挨拶に参らねばなるまい」

ライオン王が王宮の厨房に行こうとするのを、侍従たちは全力で止めた。

「なりません」侍従が行く手を遮ると王がそれを横に避け通り抜けようとする。侍従がさらに立ちはだかるというのが何回か続いた。

「どうしてだ? 前の王に挨拶に行くのは当たり前のことであろう」

「かも知れませんが、その必要はありません」

「どうして?」

「今回から変わりました。王様が主にご公務を担当していただくので。前王は言わば、ただの侍従でしかありませんし」

「ただの? どういうことだ? 王様に対して失礼ではないか。わしはいくぞ」

そう言ってライオン王は強引に厨房まで出向いた。

「あ、ああ、お待ちください王様!」

侍従たちの諫言むなしく、ライオン王はすっすと厨房に行った。

「開けますぞ」

王は重い扉を開けた。

ガラガラガラ。

「ひっ!」

ライオン王は思わずのけぞった。そこにいたのはライオン王よりもはるかに体格の良い前王が、勢いよく猿たちを捌いていたのだ。


「奴はやはり馬鹿なのか? この期に及んで料理を作ろうとする傲慢さ。せいぜい見栄え良く体を鍛えておけばよいのだ。従業員に自分の爪でもって傷つけられるという恥さらしが」

「は。そうかもしれませんが…。その辺はご安心ください。料理担当は引き続き前王にお任せをしてございます」

「うむ、その方が余程良いわ」

「しかし、あの大会での料理が本物だったのは、間違いないのではございませぬか?」

「…たった一度の、奇跡的なまぐれだ。神の気まぐれだろう」

「しかしそのまぐれが、再び訪れぬともいえますまい。われわれの中に、そのような才能の芽の可能性があるだけでも、喜ばしいではありませぬか? もはやヨシナリ地区の調査も完成したのですから」

「…だとよいのだがな。しかし解せぬ。嫌な予感がするわい」

「何が出ございまするか?」

「そもそもあやつのそれほどの鋭い爪であるが、サンプルを持って来させたところ、とてもアレを作るほどの鋭さがあるとは見えなかった。奴の目を潰すくらいなら出来ようが…」

「それこそ神の気まぐれなのでございましょう」

「……………」


43

 「いけね。今日は満月じゃった…。セレンお使い行って来てくれんか」

セレンはお使いを頼まれた。

 

「どけえ、こらあ」

蹄の音が次第に大きくなって、体躯のいい馬がセレンに迫ってきた。

「うわあ」

セレンはとっさに、ものすごい勢いで突っ込んでくる馬をよけようとしたが、よけきれず豚小屋まで吹っ飛ばされた。

 ぶひー、ぶひー。

豚小屋では豚たちが可憐な泣き声を立てていた。

「なんだ今のは? なんかぶつかったか?」

ライオンを乗せた馬は立ち止まって様子を伺った。

「猿ですかねえ? 小屋の方に吹っ飛んでいきましたぜ」

「あー、くっせえ」

馬は、鼻をひん曲げそうなほどの匂いに顔を背けた。

「早くしてくれよ。こんなところ、ゆっくりされても鼻がひんまがっちまう」

「は、旦那。それはもう。こっちが先にまいっちまいますよ。連中はぶひぶひ言うだけで、飯を食ってりゃいいんですから気楽なもんでさあ」

馬は、背中に体躯のいいライオンを少しの重さも感じないかのように乗せて、しなやかに颯爽と駆けていった。

「すっごいパワーだ!」

セレンは思わずつぶやいた。

ぶひー、ぶひー。

豚たちはセレンが飛び込んできたのも意に介さず、囲いの中でいつトサツされるとも知れず、餌をおいしそうにむしゃむしゃ食んでいた。

あんなパワーは初めてだ。セレンは昔、ギンザのレストランカネサークでライオン料理長とともに働いていたころを思い出していた。ライオン料理長に怒られて、吹っ飛ばされて、死にそうな目にあったことが何度か有った。今の馬の力はそれと同等、いやそれどころではないかもしれない。芝がクッションになって助かった。いや豚がクッションになって。

いててえ。

セレンは頭を抱えた。

「大丈夫かい?」

「大丈夫じゃないよ」

セレンは頭を抱えながら答えた。

「あれ?」

セレンはふと辺りを見回した。しかしそこには豚以外誰もいなかった。

おかしいなあ。今のは誰? 最近どうも幻聴が聞こえるようだ。セレンは気を取り直して立ち上がると、早く誰にも見つからないように買出しを終わらせることにした。豚もいいけど今日は老猿に頼まれて野菜を取ってくるところだったのだ。セレンは塀を這い上がると、何とか豚小屋から脱出することができた。

「良かった。買出し業者じゃなかった」

不意に後ろからセレンにはそんな会話が聞こえてくるようだった。セレンは豚小屋のほうを見返した。耳を澄ましてもこんどは、ぶひーぶひーという鳴き声がするだけだった。セレンは首をかしげた。

「いけね。もたもたしてるとじいさんうるさいからな」

セレンは野菜のなる畑まで、他の動物に目立たないよう忍んで向かった。

 塀の向こうからは相変わらず豚たちの、ぶひーという鳴き声がこだましていた。 


44

 ライオン王は、厨房の扉で呆然としていた。

 「王様! やはり、あなたでしたか…」

 そこにはこの数十年の長きに渡り世界に君臨していた、まさに力の王に相応しい筋骨隆々の肉体を持って未だ衰えるところのない先代の王様が独り静かに無駄のない動きでたたずんでいた。

「いや、今の王様はあなたです。今の私はただの侍従」

ライオン王は、正直なんて言っていいのか困惑した。今まではポスターやオーロラビジョンでしか見ることができなかった憧れのあの力強い王様を、今まさに目撃しているのだ。ライオン王は、ヒーローを、いやむしろ神を見るような眼差しで、その今では侍従と言って聞かない前の王にやっとの思いで言った。

「しかし…あなたの料理は私以上に思える。それに力だって…」

「そんなことはありません。この世は力がすべて。きっとあなたの力は見かけ以上のものがあるのでしょう。してみると私などただの見かけ倒し。それにあなたのあの時の、あの大会の料理は、完全に私の料理を凌駕していた」

「そうですか? いやあ、そうかなあ」

ライオン王は照れていた。

「正直、他の料理は私も自信があるのですが、貴殿のあのミンチ。あれは生半な技術でできるものではありません」

「ミンチ?」ライオン王は言われて一瞬ぽかんと惚けた顔をした。

「正直力では負ける気がしなかったのですが、あのミンチの味、熟成具合、多少荒削りとはいえ、お見事という他無い。あまりご自覚が無いようですが…」

ライオン王はその言葉に絶句した。ライオン王の頭の中には俄に、件の猿の顔が浮かんできていた。

もしや…、いやそんなことがあるはずがない。あれは俺が確かにやったミンチだ。

ライオン王は懸命に威厳を取り戻しそうとした。

「どうかしましたか?」

「い、いやなんでもない。それより侍従殿」

「なんでしょう?」

「ぜひ私にも、あなたの料理を教えてはくれまいか?」ライオン王の片目にすっかり力が戻っていた。

「そんな恐れ多いこと」

「ぜひお願いしたいのだ。私を鍛えてくだされ」ライオン王はほとんど跪くくらいに身を低くして額ずかんばかりに頭を下げた。

前の王だった侍従は驚きを隠せなかったが、ライオン王のそこはかとない情熱に心を動かされたようだった。

 

45


 「セレンよ。そこの孔雀をつれてきておくれ」

老猿はセレンに言いつけた。

「ええー? 孔雀? そんなものどこにあるんだよ」セレンの言葉に老人は、目を上げずに作業を進めたまま言った。

「後ろにいるだろ」

セレンはすぐさまダッシュして冷蔵庫を、そしてそこに無いのを認めると今度は冷凍庫を探した。

「どこにもないよ?」

「無いじゃなくて居るだろ、後ろに」

わけも分からず後ろを見ると、確かにセレンの後ろには丸々と太った、そして綺麗な羽を広げた鳥が。そう、それは紛れもなく正真正銘の孔雀が、きょとんとした面持ちでそこにたたずんでいた。

「…どこにいたの?????置き物かと思った」

セレンは首をかしげた。絶対にさっきまで孔雀なんていなかったはずである。セレンは訝りながらも孔雀を連れて来た。むしろセレンにとっては、孔雀とは初めてのご対面だった。これが孔雀というものか! うわさには聞いていたが、まさか食べ物だとは思わなかった。

「ねえ、じいさん。こんなのいたっけ? さっきまで確実に、いなかったと思うんだけど」

「ああ、いなかったよ」

老猿はあっさりと認めた。

「どういうこと? そもそもここのキッチンはおかし過ぎるよ」

セレンには、このキッチンにいて疑問に思うことが多々あった。今までなかったはずの食材が、いつの間にかそろえられている。それにこのキッチンには、大きな古びた冷蔵庫が四つあるのだが、バターやブイヨンや保存食品はあっても、考えてみれば肉や魚などの生ものが入っているのを滅多に見たことがなかった。もちろんあるにはあるがそれは最低限という感じだった。一体全体どこから仕入れているのだろう?

「ふふふ。うちは食材の新鮮さならどこにも負けないよ」

「そりゃあそうだよ。こんなに活きのいいのをその場で絞めるんだから。それにしてもいつ仕入れているんだよ? ウエイターさんだって表の仕事に忙しいだろうし。届けてくれる業者があるのかい?」

「いや、ちゃんと仕入れに出てるよ」

「はあ?」

セレンにはどう考えてもそこのところが解せなかった。取り立ててこれといった、決まった納品の時間があるわけではないはずだ。それにこの前は、セレン自身が買い出しに行かされている。老猿はその疑問には答えずに、またたたく間にその孔雀を、よく研いである鋭利なナイフで以って華麗に捌いていった。セレンにとっては衝撃だった。ナイフのそんな使い方があったか! しかしセレンは思い出していた。同じように、そう、料理のためにナイフを使ったことがある。戦闘のためじゃなく。それは、あの大会のミンチを作ったときのことだった。老猿は羽をうまく使って飾りにした。それにしても老猿のナイフさばきは尋常を逸していた。その正確な技術は、ひょっとしてライオンを凌ぐのではと思わせるに十分であった。

 セレンは控え室に行くと、今度は自分のナイフを持ってくることにしてみた。それはライオン王の目をこの手で突いたナイフであり、父の形見であった。それは戦士としての父の誇りだった。両親も親戚もいないセレンには、このナイフこそが唯一の自分のルーツとのつながりだった。肉親そのものといっても過言ではなかった。


「おーい。セレン、どこいってたんだ?」

「あ、ごめんなさい」

「いいから牛を一頭連れて来い」

「え? どこの部位?」

「だから一頭」

「ええー! 冗談?」

セレンはさすがにそれはないと思った。冷蔵庫にそんなものはなかったはずだ。しかも一頭まるまるなんて。

セレンは大冷蔵庫をくまなく探してみたが、それらしきものはなかった。そもそも冷蔵庫とはいってもバターやら調味料系の食材を貯蔵する小さな冷蔵庫を除いては冷風はなく、ただの物置になっていた。

「おいセレン、どこ見てんだお前は。後ろじゃ、後ろ」

「えっ? 後ろ?」

もおおー、もおおー

「うわあ、ほんとだ」

セレンは振り返って、思わず驚きのあまり尻もちをついた。確かに良く肥えた牝牛が一頭、柔和そうな顔をして控えていたのだ。

「い、いったいこれは?」

老猿はニヤニヤ笑っていた。なんかのマジックかとセレンは思った。どう考えても今の今まで牛はいなかったはずだ。

「絶対いなかったよねえ、今まで。どういうこと?」

「ふぉっふぉっふぉ。まあいいではないか。さっ、早くもってこい」

牛にはご丁寧に鼻輪までついていて、セレンはそれを引っ張っていくだけで事足りた。本当にこの牛はどこから来たのだろう? このレストランに来てから不思議なことばかりだった。

牛は老猿のあまりに見事なその神業のようなナイフ捌きで少しもわめくことなく絞められていった。

「おいセレン」

「は、はい」

「お前もやってみるか? どうやら自分の包丁を持っているようだからの」

セレンは自分のナイフを取り出した。

「これは戦闘用のナイフだよ。父さんの形見だもん」

「戦闘用? とにかく。そのナイフが調理場では包丁というのじゃ」

「おもちゃだと思わないの?」

「さあ? 昔そういうのを作る職人が一人、いたにはいたが…、それは本物かどうかな。さあやってみるのじゃ。これをもう少し細かくしてくれ」

「ほあ〜い」

セレンは言われるままにその肉塊を切り分けようとしたが少しも切れるどころか後をつけるのも難しかった。

「あまり使い物にならんようじゃの。やっぱりおもちゃか。わしのを使うか?」

「いいよいいよ、今度は絶対にうまく」

セレンはそこで、例のごとくいつもの呪文を唱えた。

「何をぶつくさ言っておる、早く手を動かせ」

「わかってるよ。これは儀式みたいなもんなんだ」

そうしてセレンは既に老猿の手によって細かく部位ごとに切り分けられた牛を、さらに薄くスライスしようとした。

「あれ、うまくいかないな」セレンが思ってたようには全然切れなかった。

「そりゃ間違いなくおもちゃじゃ。それよりも、ああ、だめじゃだめじゃ。危ないわ、そんな持ち方をしては」

老猿はセレンのナイフの持ち方を見るに見かねて、実演をして見せることにした。

「良いか。こうしてこう、手は猫の手じゃ」

「いや絶対今日は調子悪いんだよ。いつもだったらこう、すっと」

「言い訳はいいから見とけ。ほらこうして」

セレンは見よう見まねでやってみるが、なかなかうまくいかない。

「まず持ち方からしてなってなさすぎじゃ」

「そんなこと言ったってよう。仕方ないじゃん。爺さんの包丁とは違うんだから。これはきっと戦闘用なんだよ」

「形は違っても基本は同じじゃ。まあおもちゃじゃ仕方ないがのう」

「でも呪文をいつもなら唱えるとすっと、あれ?」セレンは自分のナイフの異変に気がついた。

「なんじゃ?」

「鞘の中が乾いてるや。ここに餌の油を入れておかないと」

「餌の油?」老猿の表情が一瞬にして変わった気がした。

「…餌の油で刃の表面を塗って微生物を培養しておいて、呪文を唱えると刃先をカバーしていた微生物が反応。移動して鋭い刃が現れる。そんな魔法みたいな包丁を作れるのは世界広しといえどプリンスくらいのものだ。まさかな」

「プリンス? 聞いたことある」

「どこで?」

「ヨシナリだよ」

「お前、そこにいたのか?!」

「うん、短い間だったし追い出されちゃったけど。でもヨシナリももう…」

「わかっている…その包丁貸してみい」

セレンはしぶしぶ老猿に自分の包丁を渡した。

「…あっ!」

老猿はセレンの包丁を見て絶句した。

「こ、これはっ…」

セレンは、老猿があわてた表情をしたのを正直初めて見た。

「どうしたんだよ、爺さん。なんか変なものくっついてるかい?」

「これ、本当に、お前のお父さんの形見なのか?」

「うん、そうだよ。おもちゃみたいだろ? でもいざというときには本当すごい力を発揮するんだよ。それがどうかしたの?」

老猿はセレンの顔をまじまじと見つめた。

「もしやお前は…」

「ん? 俺がどうかしたの?」

「いや、なんでもない」急に老猿は顔を背けた。

老猿は何かを隠しているようだった。

「…良いか? とにかく、よく自習しておけ」

老猿はそういうと黙ったまま牛を捌き、骨をとってだしをとり始めた。しかしいつもと違ったのは珍しく職人肌のような雰囲気だったことだった。いつもは良く喋る老いぼれにしか思えなかったのだが…。何か決意を決めたようなそんな空気だった。

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