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猿のレストラン  作者: あんまん。
1/5

1 小さな猿のセレン

この作品はレストランなどに勤務してきた経験をふんだんに盛り込んだつもりです。拙い文章ですが、ちゃんと読者様に伝われば嬉しいです。よろしくお願いします。

 

神々の会話

ちょっと、何やってんすか! 勝手に干渉しない方が良いすよ 

大丈夫だって。

大丈夫じゃないですよ。この前だってどんな大混乱が起きたかわかってるんですか?

あーわかったわかった。へーくしょい、あっ! やば…。

どうしたんですか?

え、えーと、な、なんでもないよ。


少しうとうとしただけのはずだが、数百年の眠りから目覚めた気分だった。

揺れを感じ身構えると、急に爆音のような音が連なって頭の中で意味を成していく。声? 聞いたことのあるような声だ。

む、むうー、だれだ、眠りの邪魔をするのは…。

声の主はすぐにわかった。視界を覆い尽くすほどの大きな顔がぬっと現れたのだ。

てぃもでぃになりうティモディニナリウ。

訳のわからないことを言ってその怪物は再び眠りについた。

てぃもでぃになりうティモディニナリウ。耳から離れなかった。怪物越しに見える洞窟の外には、満ち欠け一つない月が消えかかっていた。

本当にここは地球かも怪しい。第一自分は誰なのか。名前すら思い出せなかった。

異世界の扉は洞窟にある。早く帰りたい。美味しいご飯が食いたい。空腹に耐えかねた。怪物は相変わらず地響きをたてて眠っていた。幸い今眠りは深いようだった。

 私は怪物の腹の上にそーっと乗っかかり、目を閉じた。瞼を裏に浮かぶものはおいしい食べ物のことばかりだった。目を開けていないのに目の前にぽっかり穴が開いてそのまま体が吸い込まれた。トンネルともパイプとも判断がつかないがこれで帰れる。しかし着いた所は違った。

耳に喧噪がわき起こった。お皿のカチャカチャいう音。オーダーを元気よく読み上げる甲高い声。客の笑い声が一斉に耳に入り込んだ。

眼を開けるとそこは大きなレストランだった。


          2

良きシェフは食べ手を別世界に案内する。より良いシェフは食材を別世界の旅に連れ出す。しかし一番は自分が食材の身になることである。

(出典不明)


 ホールは喧騒と煌びやかな雰囲気に包まれて、給仕の猿たちはかいがいしく、そしてすばやく春風に舞う花びらのように軽やかに各テーブルのサービスにまわっていた。テーブルにはそれこそいろんな動物たちが運ばれてくる料理に舌鼓を打っては、ああでもないこうでもないと料理に関して薀蓄をたれるのだった。

「ちょっと君」豚の紳士が給仕に声をかけた。

「はい、お客様。いかがなされました?」

豚の紳士は不満げにウサギ肉のソテー山の幸風を指差していった。

「これ、前食べたのと違うじゃないか」豚の紳士はいかにも食通よろしくステッキを小脇に携え、首からぶら下げた片眼鏡をとり出して、そのお皿にきれいに盛り付けされたウサギを津々と見つめながら抗議とも着かぬ抗議を始めた。

猿の給仕は困惑気味に答えた。

「申し訳ありませんが、当店では何時も同じものをお出ししているわけではございませんので…」こういう輩はいつもいるものだ。給仕は自分に言い聞かせた。この豚の紳士は、単純に文句が言いたいだけなのだ。一応一流店と目されるこの店で文句を言うことで、あやふやな自分のステータスを確認したいだけなのだ。この俄か紳士の豚めが! しかし給仕はそんな心のうちを露ともおくびにも出さずに言った。

「それではかしこまりました。料理長に申し上げまして、作り直しをさせていただきますので…」

「?…申し上げる???」豚紳士は微妙な給仕の言い回しを聞き逃さなかった。何か危険を察知したのだ。

「はい、申し上げますが、何か?」給仕の猿は自信を持って言った。紳士には可能性はどこ迄も限りなく、ある方向へと狭められたように思えた。

「申し伝えるとか申し付けるではないんだよね? これは敬語ってやつだよね」

「はい。まちがいはございません。この場合、寸分たがわず申し上げるを使わなければなりません」猿の給仕は胸を反らして言った。

「ということはその対象は…。あ、そう。い、いやいいんだけどね。うん、こういうのもいいじゃないか、なかなか」豚の紳士は俄かに脂汗を全身に流し始めた。

「それではよろしいですか?」

「ああ、当然じゃないか…」

「では失礼いたします。ごゆっくりお楽しみください」

一礼して去り行く給仕を、豚紳士は呼び止めた。

「ああ君、ちなみに、その料理長は…」給仕は首だけこちらに向けて答えた。

「勿論、ライオン様でございますが…何か?」豚紳士は、だらだらとした汗を拭いながらすぐに言葉を埋めた。

「うん、やっぱり。さすがです」

「そうお伝えしておきます」

「あ、ああ。是非よろしく頼むよ」豚紳士は赤くなりながら、もって来たガイドブックらしきものに眼を落としたまま固まっていた。

さるの給仕たちは、くすくすと影で笑い出した。一方の給仕が言った。

「あの豚紳士。きっとまだ紳士になり立てだぜ」

「だろうね。きっとあのクレームもあのガイドブックに書いてあるんだろうぜ。うちの店で大体そんなクレームのつけ方はしないよ。あれは中級店で言うクレームの類だ」

隠してはあるが、遠めに「紳士の振る舞い。レストラン編」と言うのが見て取れた。

「そんなものは通用しないぜ。うちはライオン様の経営する高級店なんだからさ」

  3

「早く持って来い! さるぅ」

厨房では怒号が飛び交い、緊迫感が雪崩のように襲って来た。厨房でも一際小さなセレンは冷や汗をかき、すぐに言われた通り冷蔵庫から指定の肉片を取り出すと、小走りで先輩のところまで持っていった。遅れは文字通り命取りとなった。体躯のたくましいブルドックは肉片を検めるとニコリともせず作業を続けた。そしてセレンを刺すように一瞥すると言った。

「そしたらそこの寸胴、料理長のところへ持ってけ」

「はい」りょ、料理長だ…。セレンは心の中で叫んだ。その響きに胃がきゅーっと縮み上がるのを感じた。昨日から何も食べてなくて空腹の絶頂だったがその空っぽの胃がきりきりした。しかし不安はそれだけではなかった。

「寸胴は?」セレンは辺りを見回したがそれらしきものが見当たらなくてキョロキョロしていた。

「お前の目の前にあるだろが」ブルドックの言葉にセレンはもう一度真正面を見た。セレンの前には見上げるほどの壁が立ちはだかっていただけだった。

「ないですよ? どこですか?」

「だから目の前にあるって言ってんだろうが!」

「えっ?」セレンはもう一度目の前を見たが今まで壁だと思ってたものに違和感があった。それは燻んでいるがよく見ると曲面を描いていた。もう少し引いてみると、

「あ」壁だと思っていたのは寸胴だった。中には材料がいっぱいで水も張られていた。

「こ、これですか?」

「いいから早くお持ちしろ。出来なきゃお前がその材料に加わることになる」

「は、はい!」いわれるままに両手をいっぱいに伸ばしブルドッグの指す寸胴に手をかけたが、それはセレンの体のゆうに倍はあり、地面に根を張っているかのように重くて微動だにせず、セレンの力では一向に持ち上がらなかった。

「早くしろ! 何やってんだ!」どすの利いたブルドックの声だった。セレンは慌てて更に力を入れたが、どんなに気合いを入れても二進も三進もいかなかった。

「早くしないとこうだぞ」ブルドッグは目の前で自分の牙と前足を使って鹿の肉を切り裂き、その肉片をセレンの顔に投げ付けた。

「わ、わかりました」そんな無茶な…、出来っこない。そう思ってもそれを言ったら最後なのは今までの同僚の末路を見て来たセレンには十分すぎるほど分かっていた。セレンは必死にどうすれば運べるか考えたがそうは言っても土台無理な話だった。

「セレン! 棒を使うんだよ」先輩のハナコが小声で囁いて間の手を入れてくれた。棒を下に何本も敷き、進むごとにそれを寸胴の前方下に入れ直しコロにして移動する方法だった。二匹は必死にその寸胴を転がしたが、それもジャガーは遅いと言わんばかりに二匹を突き飛ばして退けて、その寸胴をいとも簡単に持ち上げた。

「ふん、このくらい早く運ばないかい?!」

「す、すみません」二匹は申し訳なさそうに謝った。

「次は無いからな。次はお前がこの中の具になる番だぞ」ジャガーの脅しに怯え寸胴が運ばれた先の厨房の奥を見やると、セレンはぎょっとした。思わず悲鳴をあげそうになった。

大いなる存在が大きく鋭利なる爪と牙を見事に駆使し、静かにしかし豪快に巨岩のような牡牛を細かい肉片に切り裂いていた。もうここに来て一ヶ月、毎日見ているはずだがそれでもいつも圧倒された。そう、そこにいる山のような存在が料理長のライオンだった。セレンは皿を洗いながらもその一挙手一投足を見逃すまいと眼を皿にしてライオン料理長を追った。料理長の動きをエアーで真似てもみた。しかしそちらの方ばかりに気を採られてもいられない。すぐどこでまた他の先輩たちに用を頼まれるかわからない。それに皿の数も鍋もちょっと気を抜いているとすぐ山のように溜まってしまうのだ。下げられた皿にほんの少し残ってるものでもセレンはつまんで味見したかったが、運ばれるお皿の山を前にそんな暇は到底許されなかった。

「あっ」セレンは思わず小さく声を上げた。

手つかずで下げられた料理の皿があったのだ。空腹のセレンはその美味しそうな料理を喉から手どころか胴から足まで出そうなほど欲しかった。しかしそれもすぐさまブルドック先輩が見つけて捨ててしまった。そうこうしているうちに今度はほとんど空の寸胴が来た。セレンの鼻腔にえも言われぬ濃厚なソースの香りが届いた。空と言ってもまだまだソースが付いていた。軽く一人分くらいあるんじゃないだろうか? セレンはその僅かに残ったソースをひとなめしようとした。すると、突然これもまたすぐさまブルドッグ先輩がやって来て中身を流しに捨てた。

「あああ…」無情にも優に一人分以上あった濃厚ソースが流しへと吸い込まれていった。

「なんだ? 何か文句あっか?」

「い、いえなんでもありません」セレンはがっくりした。が、急にセレンの耳に幽かな声が聞こえて来た。

うまいうまい〜

「えっ?」どこから? 下からだ!

「ん? やっぱり文句あんのか?」ブルドッグの顔がにじり寄ってくるのを避けながら必死に否定した。ブルドッグ先輩はご丁寧に寸胴に漂白剤を入れた。

まただ…、ソースを吸い込んだ流しから声が聞こえて来た。いよいよ空腹で幻聴が聞こえるようになったのか。以前にも疲れと空腹が絶頂に達したときにこんなことがあった。セレンはしかし自分の体調を気にしてばかりも居られなかった。

セレンは次々と汚れた皿や鍋が投げ込まれる巨大な洗い場のシンクの周りを縦横に走りながらどれとどれを一緒に洗えば効率的に終わるか考えてお皿をピックアップし洗った。そして洗い終わったものからすぐさま元の位置にすばやく走って戻すのだった。

「さる!」「おい」

二つの声が重なった。最初の勢いのいい声はジャガー副料理長だった。しかしセレンは瞬時にその声を識別してジャガーに一礼をすると、後から発せられた雷のような声の主の方へさっと一目散に駆けつけた。その声は、ライオン料理長のものだった。

「な、なんの御用でしょうか?」

ライオンはギロリとセレンを一瞥した。セレンは心底縮み上がってライオンのお言葉を待った。ライオンの身体はセレンの優に三倍以上はあった。それだけでセレンを縮み上がらせるに十分だった。何を言われるんだろう。緊張して胃が喉元まで持ち上がるようだった。

ライオンは言った。

「厨房を走るんじゃねえ」

稲光の後の雷のようなどすの利いた重低音の声だった。セレンはその声を耳にしただけで全身の毛穴という毛穴が開くような気がしてそのまま心臓が止まるかと思った。「は、はい! すみませんでした」それでも言外に忖度が大事なことはわかりすぎるほどわかっていた。

セレンは恐る恐るしかしきびきびと、切り分けられた肉片を今から使うのと保存するのとに判断して分け、後片付けをまめまめしくこなした。それも走らないようにそれでいて極力速い動きで。ほんの些細なミスも決して許されない。下手をすれば、今度は自分が、こうして片付けている肉片になっているかもしれない。ついこの間も、仲間の猿がほんの些細なミスをしたばかりに、その日のディナーの特別料理に供せられた。その作業の間中も先輩たちは容赦なくセレンを呼びつけ、セレンはその都度必死にその要求に応えていった。

やがてレストランはいつも通り夜の七時から八時頃ピークに突入し、あまりの忙しさに気がついた時には既にラストオーダーの時間だった。セレンはほっと胸をなでおろしていた。ラストオーダーが終わると料理長を始め他の動物の先輩方は帰るので、厨房に残されるのはほとんど猿たちだけだった。とは言えお客が帰った後も後片付けは延々と続き、次の日の仕込みもあり、それでいて交代で番をしている犬の監視員が目を光らせており、ほとんど談笑する余裕もなく店を後にするのはゆうに夜中の二時を過ぎるのだった。

 毎日がこんなに生きるか死ぬかギリギリの戦場にいるような緊張の連続で、この先やっていけるのだろうか? セレンは帰り道を将来の不安に駆られながら歩いた。不安というよりむしろ絶望に近かった。ほんの一ヶ月前にシェフを目指してこのギンザにやってきて下働きとしてこのレストランに雇われることになった。しかしシェフの道は覚悟していたもののそれ以上だった。とりわけ猿にとってこのギンザでは、ただの一料理人になることさえ容易ならざる道であった。それは他の動物にも言えたがとりわけ猿は不利だった。猿はこのギンザでは奴隷なのだ。ギンザ中探しても、猿がシェフをやっている店は皆無だった。そもそも身分は別においてもこの世界で料理人でやっていくには猿はあまりにも非力すぎた。レストランは力の強い動物がやるものだ。中でもとりわけ大型のネコ科動物、それもライオンの経営するレストランが最高ランクに置かれていた。稀にトラが一頭でやっている店もあったが、大所帯ともなるとライオンに道を譲ることが常であった。この国では、ライオンが支配級だったのだ。とはいえライオンだから無条件に支配階級で猿だから無条件に奴隷という決まりではなく、更にその上の支配率が存在した。それこそが料理の上手さだった。料理の上手さが動物たちの序列の全てであり、そのレストランが繁していれば即ちそれが権威の源になり、そのシェフの力を示すことになったのだ。セレンたち非力な猿にとって料理を上手くするにはあまりにも不利なように出来ていたのだ。すべての器具は大きく、とても猿たちに扱えるような代物ではなかった。

セレンは帰りの道すがら、ふらふらになりながらも両足に重りをつけ、ダンベルをあげて、体を大きくすることに余念がなかった。 

 4

 家にたどり着くまで正味一時間以上。次の日も早朝からだったが店での寝泊まりは固く禁じられていた。少しでも眠ろうとするとすぐに犬がやってきて、猛烈に吠えた。レストランには猿が残っていないように交代で常駐の監視の犬がいる。レストランどころかギンザの表通りには、猿が路上のどこかで眠っていないようにたくさんの犬が監視していた。近くに留まるどころかギンザに残ることさえ厳禁だった。それは猿を疲弊させて反乱を起こさせないためなのだろうかとセレンは思っていた。汽車に乗っていけばほんの十数分もあればついてしまう長屋であったが、セレンにはほんの160グルマンすらも払える余裕はなかった。それでも拾ったお金で一度列車に乗ったこともあったが、あまりにも押し合い圧し合いで混雑するので気分のいいものではなかった。

 ♬昼下がりの午後〜太陽をー背に〜坂を上り♬

 猿が谷に着くとセレンはいつの間にか歌を口ずさんでいた。気分が良いからではなかった。むしろ野生動物がたまに出るのでセレンは緊張していた。野生動物は凶暴な上に言葉が通じない。ここに住み始めたのはレストランに勤めだしてからで時間は経っていなかったが幼い頃隣の旧市街に住んでいた記憶は朧げにあった。

セレンはほとほと疲れ果て、夢遊病者のように家に着くと、空腹も空腹だが疲労による眠気には勝てずそのまますぐに倒れこむように戸を開けた。時計の針はもう、夜中の三時を過ぎようとしていた。

「おかえり。ご飯は食べたの?」セレンの母親はセレンの帰りを待っていたようだ。

セレンは言われるままに、母親の作ってくれたご飯を食べた。朝から何も食べていなかったのだ。レストラン勤めとはいえ猿達が食べられる賄いは一切なかったのだ。

「うん、うんめいや。やっぱり母さんの作るご飯が一番うまいや」

「何言ってるの。そんなこと言ったら料理長に追い出されてしまうわよ」

「はは、そりゃそうだ。レストランの味とは比べられないよ。あれは家庭では出来ないものなんだから。でもほんと、正直母さんのが一番だ」そう言いながらセレンはほとんど店のものを食べたことがないことに気がつき、悲しい気分になった。こないだなんかも、寸胴に残っていたソースを空腹からひとなめしようとした途端、ブルドック先輩はめざとくそれを見つけすぐ流しに捨てられた。ちょっと残ってるものでも直ぐに洗剤を投げられたりしてつまみ食いどころかちょっとした味見さえ許されなかったのだ。それに不思議な出来事も…。しかしそれ以上心配をかけたくないセレンは決してそれ以上触れなかった。

「何言ってるの。ばかねえ」

「でもきっと料理長だって母さんの味はできっこないさ」

「さあ、もう余分なことを言うのはそのくらいにして、歯磨いてとっとと寝なさい」

「うん…」結局セレンはものの十分もしないうちにぐっすりと眠りに落ちていた。

「ひゃあっ! 何時だ! 何時?」セレンはガバッと飛び起きた。日時計は五時をちょうど越えようというところだった。

「大丈夫か…、もう、母さん起こしてくれよ」しかし、セレンの呼びかけに返事はなかった。それに食べたばかりだというのに妙に空腹だった。目をこすりながら、セレンは悲しい現実に気がついた。返事なんかあるわけがなかった。夢だったのだ。セレンの両親はとうの昔に亡くなっていたのだった。それにセレンは亡くなった時は幼く母親の顔もほとんど覚えていなかった。セレンは今まで妄想を膨らまし励みに生きてきたようなものだった。

セレンは夢の余韻に浸る間もなく、目をこすりこすり再び出勤の途についた。


         5

 レストランの勝手口には分厚い鋼鉄製の重い扉が前を阻んでいた。セレンは自分の目蓋より桁違いに重いこの扉を渾身の力で開けなければ中に入れなかった。ある意味それで毎日眠気を吹っ飛ばしていたのだ。その勝手口をくぐると、警備の犬たちによる検問があり、そしてその次に厨房があった。

ぎいい〜ぎいい

やっとの事で扉を開けると、セレンは思わず悲鳴をあげそうになった。セレンの目は完全に覚めた。

頭のない猿の死体があったのだ。セレンは何も声をあげられなかった。逃げ出したい気持ちを思い止まらせたのはそれが昨日まで一緒に働いていた仲間だったからだ。この猿のためにもここで逃げ出す訳にはいかない。セレンは目を閉じ静かに手を合わせた。それでも悲惨に思っている余裕はなかった。それがいつ自分の身に降りかかるとも限らなかった。犬たちは猿の死体には無関心でお決まりの厨房に入る前の身体検査を始めた。とは言っても実質これは猿のみに適用されているようで、それもなんらかの武器を所持していないか検査するだけだった。セレンはいつも父の形見である小さなおもちゃのナイフを没収されないか気が気でなかったが、犬たちに簡単に調べられたあと明らかにバカにした笑いで放り投げ返されるのがいつものお決まりになっていた。

検問も終わるとさあ次は厨房だった。セレンは今日も覚悟して中に入っていった。

「おはようござい」バシィン! 

セレンの挨拶が終わるが早いか、セレンの右ほほに重たい衝撃が走り体は宙を舞い吹っ飛ばされた。セレンは何者かに思いっきり殴られたようだった。

「い…いだい…」セレンは涙目になりながら衝撃のやってきた方を恐る恐る見た。そこにはあらゆる造山活動でもここまで集中して曲がりくねった山脈を作ることは不可能かと思われるほどのシワを顔の中央に寄せ、不機嫌の極みを体現したブルドッグが恐ろしく発達した上腕の先にくっついた拳を前に掲げ、塩缶を持って立ちはだかっていた。丁度何かの塩振りをしているところらしかった。そのブルドッグはセレンの優に二倍以上はあろうかという体の大きさを誇っていた。

「馬鹿野郎早くしめろ。塩が流れちまっただろうが」

「す、すみません」空調の関係でドアを開けると風が起こるのだ。

「それに遅刻だ」

「でも、時間には間に合ってます」セレンはちらと時計を確認をして主張した。

「お前は奴隷なんだ。俺たちより遅い時点で遅刻だ」

ブルドッグの言葉にこれ以上口答えをするのがよろしくないのは十分すぎるほどわかっていたセレンは、深く頭を下げ反省の意を示した。実際ブルドッグの機嫌はいつも以上に悪く、以降、涙目になりながらブルドック先輩の矢継ぎ早の指令についていかなければならなかった。厨房全体に言えることだったがどうやらブルドッグの機嫌の悪い理由は厨房の外の猿の死体にあった。料理長の決断で猿の頭はすぐさま業者に売られ、楽しみにしていた猿の脳みそがお預けになったのだ。一週間に一回くらいの買取巡回訪問がたまたま早い時間にあったのだ。それで今度はセレンがターゲットにされたのだった。もっとも料理長の決断もセレンの犠牲を計算に入れてのことだったかもしれない。

「次そこのジャガイモの皮、いますぐ剥け。10分以内だ」ブルドッグの声は尖った氷のつららのように冷たく鋭くセレンの耳に突き刺さった。

セレンは必死に剥いた。ジャガイモは、セレンの体が軽くすっぽり入るくらい大きな箱に今にもあふれんばかりにいっぱい積まれていた。この皮むきの作業は本当につらいものだった。嫌で嫌で堪らなかった。どうしてもうまくいかない。早く出来ない。他の動物のように猿には鋭い爪も無ければ牙も無かった。包丁を使えばいいじゃないかという声が聞こえてきそうだが、このレストランには、いやこのギンザには包丁がなかった。より正確には無いとされていた。だからセレンのように爪の鋭くない動物にとってジャガイモの皮むきさえ、本当に一苦労の作業だった。

と言っても、たとえ包丁があっても、土台短時間で剥ききれる量ではなかった。そして五分も経たない頃だった。

「もう出来てるんだろうな?」ブルドッグのいかつい顔がセレンの顔のすぐ背後からぬっと横に現れ、セレンは思わず頭を下げて座り込んだ。

「そんな!…、まだほんの少ししか経ってないですよ」

ブルドック先輩はもみくちゃの顔をより一層険しく山脈のようにお互いの皺を寄せて、山脈が天から降ってくるかのように自分の顔を上から覆いかぶさるようにセレンの顔に近づけると、ギロリと睨んだ。

「まだ終わらんとはふざけるなよ猿、わかってるんだろうな?」

「は、はい。もうすこしまってください」セレンは恐怖で身をすくめた。

来る。噛みつきの刑だ。ブルドッグは特にこの噛みつきの刑を楽しみにしている節があった。ブルドック先輩は容赦なくプレッシャーを掛けてくる。

「もう遅いわ。刑執行!」

セレンの耳たぶに激痛が走った。容赦のない噛付きの洗礼だった。

「痛い、痛い、痛い痛い痛い! 先輩痛いです」セレンの右耳に激痛が走った。あまりの痛さに耐えられず右耳を押さえもんどり打った。

「てめえ、先輩だあ?」

「先輩でなければなんと?」

「てめえは、奴隷だ。ブルドッグ様だ! ブルドッグ様と呼べ」

セレンは素直に言い直そうと口を開きかけたが、遮るようにブルドッグは続けた。

「そもそもお前に一生コックなんて無理だわ」

セレンはしかしそう言われると、今までとは一転して、きりっと睨み返した。

セレンの反抗的な目、そのくりんとした目が、ブルドック先輩は気に喰わなかった。

「何だその眼は、ああ? この非力猿が!」

セレンは悔しくて更ににらみ返そうとしたが、側にいたハナコがセレンの肩を抑え、セレンはなんとかぐっと感情を抑えられた。

「ふふふ、まあいい。次終わってなかったら耳を噛みちぎるからな」ブルドッグはそう言って、満足そうに向こうの方へ行ってしまった。だがセレンが血をだらだら流しながら、皮むきを続けなければならないことに変わりはなかった。牙や爪が他の動物ほど発達していない猿にとって、こういった作業は絶望的に難しかったのだ。せめて自分にもあのライオン料理長のような鋭い爪がついていればよいのに…。セレンはしょんぼりしてうな垂れた。しかし落ち込んでいる暇も無かった。あと五分もない。気合を入れて顔を上げた。どう考えても無理そうだがやるしかない。ん? セレンは何か心に引っかかるものを感じもう一度顔を下げた。そしてもう一度顔を上げた。視線の動く途中、ゴミ箱の中にあるものが目に入った。

「あっ」ゴミ箱に長い爪がこんもりと打ち捨てられているのに気がついたのだ。

そうだ! 

セレンにいいアイデアが浮かんだ。これだ! ライオン料理長の爪だ。料理長は頻繁に爪を手入れするため、一つ一つはごく小さいながら大量の爪の破片が残されていたのだ。しかしそれでもセレンには十分の大きさに見えた。セレンはそおっとその爪の一つをゴミ箱から取り出すと、それを使ってジャガイモを剥くのに使ってみた。今度は面白いようにそれが剥けた。

「おい、さる! ジャガイモの皮むきはまだか?」ブルドック先輩が確認に来た。セレンはすかさずその爪を隠した。

「まだです」ブルドック先輩は剥いたジャガイモには一瞥もくれずにいやらしい笑いをセレンに目でくれた。何も信用してない様子だった。

「なんだったらその首からぶら下げているおもちゃを使っても良いから早くな」

セレンは言われて思わずきっとなったが、すでにブルドッグはそこにいなかった。形見のナイフのことを言われるとセレンは途端に我を忘れてムキになる傾向にあった。それはお父さんの形見だった。とは言ってもそれが言われたようにおもちゃで何の役にも立たないのはセレン自身が一番よく知っていた。何度も試してみたが、肉は愚か、柔らかい豆腐のようなものでも切るのが困難だった。それだったらさすがの非力のセレンでも素手で切った方がましだった。おまけにペラペラとして紙のおもちゃのように脆そうだった。

「今から五分で剥き終われ。それが出来なければ、今日のランチはサルのソテーだ」

明らかにブルドッグ先輩よりも野太い、嵐のような低く唸るような声だった。セレンには見なくてもどこからその声が発せられているのかがわかった。今度はライオン料理長だった。いくら爪のおかげでスピードアップしたとはいえまだ箱の中には丸のままのジャガイモが三分の一以上残っていた。無理な話だ。しかし、こうなったら今度ばかりは耳を噛みちぎられるだけではすみそうもない。その料理長の言葉がでたらめでないのは確かだった。セレンがこのレストランに入った当日も、同じ理由で猿がその日のディナーのメニューに上ったのだ。

「無理ですよ。そんな、誰がやったって二十分はかかります」

「そうか、わかった。ありがたい。ジャガイモの代わりに、お前が食材になってくれると言うわけだな?」ライオンの目は冗談を言っている目ではなかった。そもそも冗談だろうが何だろうが一匹の猿の命など何とも思っていない。冗談で殺されることも普通にある。そのことはセレンが一番よくわかっていた。

「い、いえ。全力でやらせて頂きます」セレンはがむしゃらだった。従わなければ本当にライオンの言うとおりになる。だからと言って五分でできるわけがない。

 厨房内ではいつもよりみんなのテンションがあがっていた。理由は簡単だった。久しぶりにサルが食べられるからだった。いくら奴隷とはいえ法律でサル食は一応禁止されていた。業務上やむをえない場合あるいは犯罪者等以外、サルは奴隷として有益なため無闇に食べられないように制限をされていた。しかし現実には何らかの理由をつけては食されていたのが実際のところだった。とりわけ、サルの脳みそは珍重され、その値段は天井知らずであった。特にセレンのような若いサルは珍重された。たまたまサルでもある一定の年齢を生き残ると案外長寿を迎えるものもあったが、大抵は若年のうちに散々奴隷としてこき使われた末、頃合いを見て食されると言うことがしばしばだった。そして、犯罪者であるサルが処刑されたときなどは、刑務所の門にサルの脳みそを買い求める業者が、長蛇の行列を作るというのが慣わしになっていた。その犯罪もほとんど言いがかりに近いものだったと推察される。

ブルドック先輩やジャガー副料理長などは料理長が先ほどミンチにした牡牛の肉を、いろいろな地域で採集された木の実のスパイスや遠くアラリヤ海で取れた塩、そして地下の貯蔵庫で熟成を重ねた特製の調味料で調味しながら、流行歌を鼻歌交じりに踊っているような始末だった。

(冗談じゃない。俺は料理されるためにここにいるんじゃない。料理をするためにここにいるんだ。こんなところで料理にされたんじゃ本末転倒だ)

セレンは本当に必死だった。カリカリとライオンの爪を使って、周りからセレンのところだけ切り取ってコマ送りをされているのでは?と言うくらいそれはものすごいスピードでジャガイモの皮を剥きに剥いた。もう後一分あるかないか。それでセレンの一生が続くかどうかが決まってしまう。セレンはとにかくジャガイモに集中した。ジャガイモが口を開いてセレンに話しかけてくるような気がした。死を前にするとそんな精神状態になるのかも知れない。大丈夫だよ。そんな声が聞こえてくる気がする。みるみる箱の中のジャガイモが無くなって行く。手が、増えているかのように。錯覚? 錯覚ではなかった。ハナコが見えないように手伝ってくれていたのだ。しかし時間は容赦なく過ぎていった。

「時間だ」セレンの背後から刺すような声が聞こえた。もはや死刑宣告に等しかった。


「出来たか?」それはライオン料理長の野太い声だった。

「どうなんだ?」容赦なくライオン料理長は箱の中を覗き込もうとする。

「で、出来ました!」実際はまだだった。箱の中にはまだ三つが手付かずだった。

セレンは残りの三つをライオン料理長が覗き込む前に見えないように箱を傾け、渡す時にすかさずエプロンの中に隠した。

厨房内のみんなの目がいっせいにセレンに向けられた。とても信じられないといった面持ちだった。

「うそをつけ。そんな早くできるわけがない」ブルドック先輩が疑いの目でセレンの傍まで駆け寄って来た。

「本当ですよ。見てください。何も残ってないです」

ブルドック先輩は信じられないと言う顔をして箱を見ると、向き直ってセレンをもう一度上から下へとねめつけた。異変に気づくのはそう長くかからなかった。エプロンの右腿の辺りが三こぶほど盛り上がっていた。

「ふふ、これはなんだ?」ブルドック先輩はセレンのエプロンのポケットの三つのこぶの正体を突き止めようとポケットに手を突っ込んだ。おしまいだ…。セレンの顔から血の気が引いて行った。セレンはエプロンからその三つのジャガイモが出ないように必死に抵抗したが所詮無駄な抵抗だった。エプロンごと引きちぎるように、ブルドッグのゴツゴツモコモコした前足がむんずとその三つの物体を捉えるや、そのサルの食事の引換券となる三つの歪な球体を厨房のスタッフの面前に晒した。

「ほら見たことか!」

セレンは目をつむって叫んだ。

「ええい、もうなんでも好きに料理してくれ!」

おおー。おおー。おおお。

歓声が聞こえた。思う存分喜ぶがいい。

「………」「………」「………」

しかしその後はなぜか沈黙だった…。セレンは、そんなに沈黙するほど嬉しいかと訝った。もうどうにでもなれと覚悟を決めた後だった。

沈黙の中、やっとの事で誰かが口を開いた。

「そんなばかな」「ど、どういうことだ?」

ややあって、料理長らしき野太い声の声がした。

「…デザートの時間には早いぞ?」

「絶対インチキですよ」

「ジャガイモは大地を失ったか? 出来すぎた冗談だ」

?????

セレンは一連の会話が何を言っているのかわからなくて目を開いた。

そこにあったのは三個の真っ赤なリンゴだった。

あっ! セレンは声にならない嘆声をあげていた。セレンは信じられなくて思わず視線だけで辺りを見回した。セレンの目の端に、ジャガイモがそろりそろりと作業台の床下を転がり込んで消えて行く最後の瞬間が捕らえられた。誰かがすり替えてくれたのか。悔しがるブルドック先輩をよそに、セレンは早く早く奥の方まで行って完全に見えなくなれとジャガイモに念を送った。

「待て」今度は甲高くも野太い声が割って入って来た。ジャガー副料理長がジャガイモを数えていたのだ。

「ジャガイモが三つ、足りないぞ」セレンは胃が口から出てくるような心地がした。

「そんなはずは…」セレンはジャガーがどうして数を知ってるのだろうと不思議だった。もしかして鎌をかけているのかもしれない。下手なことを言っては怪しまれる。油断はできなかった。

「大体が三つ足りないって、元々の数を知っているんですか? 副料理長」

「知らない」セレンはホッとしかけたが、ジャガーは余裕の笑みを浮かべていた。

「しかし…」そう言ってジャガー副料理長は目線を斜め下の方に向けた。言葉を継いだのは野太い声のライオン料理長だった。

「で、あれは何だ?」ライオン料理長は先ほどじゃがいもが転がり込んで行った作業台の下をその鋭い爪のある迫力のある前肢、いや巨大な手で指差した。セレンは緊張と絶望で顔がこわばった。もう本当に終わりだ。

一同は一斉に身をかがめて作業台の下を覗いた。そこには確かに3個のジャガイモほどのいびつに丸いシルエットが鎮座ましましているように見えた。

「てめえ、やっぱりごまかしやがったな」ブルドック先輩は即座にライオン料理長の意を汲んでかがみ込み作業台の下に手を伸ばして、あるはずのジャガイモを探した。セレンはその間何も出来ずに立ち尽くすしか無かった。茫然自失のセレンの耳にチュウチュウという音が聞こえてくる。

「ん? ねずみでもいるのか? ふん、ネズ公になんか渡してたまるものか」

作業台の下ではネズミ達がそのジャガイモを目のあたりにしてチュウチュウしきりに喚き立てているようだった。

「よし、あったぞ。お前わかっておろうな、ごまかすということがどういうことか…」

セレンの顔から血の気が完全に引いた。本当に本当、自分が食材になるんだ。

キッチンはいやが応にも盛り上がって来た。若い猿が新鮮な食材に変わろうとしているのだ。ブルドック先輩はジャガイモ三個を一気に一掴みで持つと、それをスタッフの前に見せた。

「どうだ!」そこには確かに、皮付きのジャガイモが三個あった。

「これで言い逃れは出来ないだろう」キッチンは今晩の賄いのスペシャリテが確定したことに、もはや興奮で収拾がつかないようだった。セレンはすべてを覚悟した、まさにその矢先だった。

「剝けてるよ」

「剝けてる?」セレンは思わずその声のする方向を見た。しかしそこには誰もいない。

「剝けてるだと? ふざけるな」ブルドック先輩はせせら笑うようにジャガイモを確かめたが、セレンもそんな訳がないことは、自分自身が一番よくわかっていた。

「確かに剝けている…」今度も空耳かと思ったが、しかしそれを言ったのはブルドック先輩だった。ブルドック先輩の手のひらで、三つのジャガイモははらりと音を立てるように、ドレスを肌けるように皮を脱いだ。それには寧ろセレンが一番驚いたがそれを悟られまいと、口を突き出してさも得意げの表情を作った。

「くうう、副料理長…、そんなバカなはずは…、絶対イカサマですよ?」

副料理長は言われて二匹のところまで見に来た。副料理長は、少し複雑な表情をしたが仕方ないといった様子で言った。

「少しは出来るようだな。まあ今日のところは生き延びた。しかしさる。うちの一番の裏スペシャルはサルの脳みそのラグーだと言うことを忘れるな」そう言ってジャガーの副料理長はセレンをぎろりと睨み、天井を焼かんばかりに盛んに燃え盛る大きな炎にずっしりとくべられた大きな大きな大寸胴を指差した。その地獄の釜のような大寸胴の中には、大きな牛の頭骨がぐらぐらぐらぐらと煮え立っていた。まるでそこがお前の最終的な行き場所だと言わんばかりだった。

それにしても不思議なのはあのジャガイモだった。それにリンゴ。誰がやってくれたのだろうか? ハナコ? そんなに俊敏に動けるとも思えない。

「ん?」微かに下から鳴き声が聞こえた気がして、セレンはジャガイモが消えていった先ほどの作業台の方を改めて見た。その下からは、一匹の小さなネズミがひょっこり顔を出していた。目があうと、一瞬セレンにウインクをしたような気がした。

「おい、さる。いいから早くもって来い」

「はい」今度は料理長だった。次から次へと忙しい。セレンはライオンの爪を大事に

ポケットにしまうと、すぐにジャガイモの箱を料理長のところまでハナコに手伝ってもらって運んだ。

とりあえずなんとか命拾いはしたらしい。一安心すると、ふとセレンに疑問がわいた。そもそもどうして今日はこんなにもジャガイモを使うのだろう? 取り立てて大きなメニュー変更の予定はないはずだった。ジャガイモの使う料理は限られている。これほどの量を使うことは今までなかった。きっと何かの仕込みに違いないが何を仕込むんだろう? 特別の予約があるのだろうか? セレンはだんだんとそのことが気になって仕事に手が就かなくなって来た。それはそれで身の危険なのでセレンは意を決して料理長に聞いてみることにした。

「す、すいません。料理長…」言ったそばからセレンは後悔をした。ライオン料理長は返事をする代わりに、ものすごい迫力で、セレンを見据えた。それだけで、セレンを固まらせるに十分だった。

「す、すみませんでした」慌てて発言を撤回しようとしたが意外にもライオン料理長から普通の返事が返ってきた。

「何だ? 言ってみろ」

厨房では各々が自分のポジションで自分の仕事をこなしていたが、みんなの耳がぴくぴくとセレンとライオン料理長の方に向けられていた。セレンは思い切って聞いた。

「あ、あの。このジャガイモ、いったい何に使うのですか?」

「どうしてだ?」ライオンは少しでもセレンの言動に落ち度があればいつでも料理してやろう、そんな意図があったかないのか、穴があくほどセレンの顔を睨みつけた。

「いえ、いつもこんな量使ったことないと思いまして。初めて見たものですから、何かなと思いまして…」セレンは聞かなければよかったと思った。余分なことは言わずに言われたことだけやっていればいいのだ。案の定、他の動物は興奮し始めていたようだった。これでライオン料理長の逆鱗に触れれば、いよいよ今度こそサル料理のおこぼれに預かれるのだ。

「お前には関係ないだろ」ライオンはにべもなく言ったが、その眼はセレンを刺すようだった。セレンはおしっこを漏らしそうになった。

「すいません。忘れてください」しかし言うが早いか、ライオン料理長は返事をした。

「大会があるんだ」一転楽しそうな口調だった。

「た、大会ですか!?」何だか知らないが、ここはひとまず助かったっぽい。

「そうだ。大会だ、一年に一回、ギンザの料理自慢が集まる大会だ。そこで天下一の料理人が決まる」

「えっ、ギンザ一料理大会に、出るんですか?」セレンの目は一瞬にしてぱっと輝いた。

「それって、去年の優勝者は誰だったのですか?」

「わからん」

「わからないですって?」ライオン料理長の風貌にはそれ以上聞いてはいけない雰囲気が現れていた。

「あ、ありがとうございました」興味は尽きなかったが、どこで逆鱗に触れるかわからないし、これ以上刺激するわけには行かなかった。

しかし分からないと言うのはどういうわけだろう? セレンは以前にもどこかで、その大会の噂を耳にしたことがあった。だがそれはあくまで噂であり、確かに一度も実際にその大会を目にしたという者を知らなかったし、半ば都市伝説の扱いでそんな話をしようものなら笑われるのが関の山だった。


その日はその後、何回か危ない場面もあったが、いつもに比べれば比較的安穏とした一日だった。帰り道、街は穏やかで一番心休まるひと時だった。勿論体の疲れはピークに達し、今にも倒れんばかりだった。それでもセレンは料理長の言葉が気になって思い出していた。ギンザ一料理大会。あれは単に料理長が俺のことをからかって言ったのだろうか。それでもひっかかることはあった。あのジャガイモだ。野菜は大抵ブルドック先輩の扱う分野だった。もっとも以前は馬やロバがやっていたらしいのだがよく盗み食いをするため、ブルドック先輩の管轄に回されたらしかった。そのときは罰としてディナーのメインが馬肉やロバの肉に書き換えられた。

ともかく今日のブルドック先輩は、一度もジャガイモに触れていなかった。ジャガイモを扱っていたのは専ら料理長だったのだ。しかも、良く考えたら今日の料理長は何も実際のオーダーに関わってはいなかった。オーダーのオペレーションはジャガー副料理長が指揮をしていた。だったら本当に料理長は、あのギンザ一料理大会の準備をしていたのだろうか? それにしたって優勝者が分からない、あるいは存在しない大会なんて在るのだろうか? セレンはしかし既に自分がその大会の参加者になることを夢見ていた。いつかそんなときが来れば…。

 いつの間にか、セレンは夢遊病者のように歩きながら夢の中にまどろんでいた。しかし歩みは確かに自分の長家にセレンを連れて行った。途中、田園風景の中に豚小屋やら牛小屋やら、このギンザの食を支える家畜地帯を通るのだが、今晩は心なしか、彼ら家畜もそんなはずはないのだがセレンに話しかけてくるかのようだった。家畜や野生動物は話せなかった。でもそう言えば子供の頃、といっても今とあまり変わりはないがその頃はこうしてお話をしていた気がする。セレンはまるでお酒でも飲んでいるかのようにいい気分だった。


     7

「おはようございます!」

セレンは勢い良く無人のキッチンに挨拶をした。誰もいないキッチンに挨拶をするのがセレンにとってつらい一日に鞭を打つ唯一の気合の入れ方のような気がして、そうしていたのだ。しかし――

「遅いぞ!」なんと、セレンの前にすでに、料理長を始め厨房のいつものメンバーが勢ぞろいしていたのだ。

「え、そんな」セレンはあせった。すぐさま厨房のデシャップ台の上に備え付けられた銀製の掛け時計を見た。一瞬遅刻したのかと思った。しかし時計は間違いなくまだ6時を少し越えたばかりだった。しかし時計が遅れているということもあるかもしれない。セレンは不安でいっぱいになった。

「今、6時ちょっと過ぎじゃないんですか? あの時計は間違っているのですか?」

「いいや、あっている」

「なんだ、それじゃなぜ?」セレンはそれを聞いて安堵したが、それでも疑問よりも不安の方が大きかった。いつもはセレンがほかの動物よりも一時間は絶対早く出勤しているはずだった。そうでもしなければ仕事が終わらないのだ。昨日も妙に早かった。今日の出勤も一時間早かったのか?

「それじゃあ皆さんどうしたんですか? こんなに早く」

「ばかやろう。今日は料理長が大会に参加される日だ。だから大会の準備時間確保のために前倒しで、今営業の準備をやっているのだ」事実、料理長は既に真っ白なキッチン服に身を包み、ぐらぐらと煮え立つ料理長の体とそうは変わらないほどの大鍋の前にかがんで、その下にめらめらと燃え立つ炎の調節に余念がなかった。

「お前、この中に入りたいのか?」料理長は寸胴に向かい、セレンの方を一瞥だにくれず言い放った。

「ひ、とんでもない。すみません遅れまして」

地獄から聞こえてくるようなバリトンの効いた言葉にセレンは震え上がり、ただでさえ小さなその体が塩をかけられたナメクジのように余計に一回り小さくなった。

「ふはははっはあ。規定では指定された動物以外の使用は今大会予選では禁止されている。残念だがな」

それを聞いてセレンはまた生き延びた気がした。

「そ、そうでしたか」どうやら本当にセレンの剥いたジャガイモは今日の料理大会に使われるようだった。既にそのジャガイモは茹でられた上で細かく潰されて、小判型に整えられている。セレンは急に興味を抑えきれなくて、とりあえずは自分自身が食材に使われることもないという安心感も手伝って、質問をした。

「でもどうしてジャガイモなんですか? もっと高価な食材を使えばいいじゃないですか」

周囲はセレンの興奮とは別の意味で興奮して、ライオンと猿とのやり取りに注目した。

ギロリとしたライオン料理長の目は、セレンを射すくめるように見据えた。周囲はいよいよセレンの公開処刑が始まるのではと期待と興奮は最高潮に高まった。正直、事故とすればいくらでも理由はでき、それ以上お上がとがめるとも思えない。この時ほどセレンは自分の調子に乗りがちな性格を後悔したことはなかった 。 

しばしの沈黙があった。セレンは逃げ出そうと片足を外側に向ける準備をした。

ライオン料理長の大きな口が開き始めた。セレンをいとも簡単にくわえこみそうな大きな口。セレンの目の前にその口の中がどんどん大きくなり視界を覆う。セレンは恐怖のあまり顔をそらし、身を翻した。

「課題で使うのだ」周囲の期待とセレンの恐怖とは裏腹に、その大きな口からは言葉が発せられただけだった。

「料理大会は課題料理と自由料理からなる。その課題料理がジャガイモを使った肉料理と言うわけだ。肉は会場で捌かねばならん」案外ライオン料理長の返答は淡々としたもので、猿肉を楽しみにしていた周囲をがっかりさせた。

セレンは思わず次の質問を浴びせた。何かライオン料理長の言葉を返さなければならないという気持ちがわき起こってきたのだ。

「で、では、自由料理は何ですか?」

「自由料理は課題料理の予選を通過してからの話だ。予選で捌いた肉と合わせてメインを作る。もちろんメインの素材は用意されているが、特に縛りはない。自分で用意する分に限っては、どんな食材を使っても許される。ということは、わかるな?」

そう言った料理長の眼光は突然、今迄にまして鋭くセレンを射抜いた。

「え?」セレンは分からない態でとぼけたが、その意図はいやというほどわかって、恐怖のあまり身をすくませた。

不安に駆られて、セレンは更に恐る恐る質問をした。

「では…、もし予選通過したら、な、何を食材に選ぶ予定ですか?」

「ふっふっふっふっふっふ、もう決まっておる」

「猿でも大丈夫なんですよね?」ブルドッグが要らぬ間の手を入れた。

「うむ。それも悪くないな。はうわっはっはっはっは」

勿論セレンにとっては笑い事じゃない。セレンは気が気でなかった。本当にやりかねない。もし料理長の課題料理が予選を通過したら…。セレンは暗澹たる気持ちになった。いくら猿を食材に使うのが禁止されていても、きっと何やかやといちゃもんを付けて俺を殺そうとするに決まっているのだ。

思いのほか、準備は早く終わったようだった。

「じゃあ行ってくる」料理長は助手もつれずに、ジャガイモの詰まった大きなコンテナを、片手で軽くひょいと持ち上げて、厨房を出ていった。

「予選通過ってそんなに難しいんですか?」副料理長のジャガーはもちろん到底セレンのかなう相手ではなかったが、それでも大きな体躯をしたライオンから比較すると大分緊張なしで話すことができた。

「バカやろう。予選通過がどんなに大変か、うちの料理長が十年チャレンジしてまだ一度も通過したことないんだ。それだけでわかるだろう? でも料理長はこの一年で驚異的に体を大きくされた。今年はひょっとしたらもしかしたら…いずれにしても生半可な物ではない。予選通過は本当に難しいんだ」

セレンはそれを聞いて少し安心したのかいろいろと想像をたくましくしていた。セレンの頭の中では、ライオン料理長を何倍にも大きくしたライオンが、ライオン料理長と攻防し、さながら格闘技大会のように圧倒しているところだった。

「すんごい力自慢がいるんですね。その大会」セレンには正直、別世界すぎて知りようがなかったが想像してなんだかわくわくしてきていた。このギンザはセレンにとっては本当に広く、世界そのものなのだ。そんなギンザでギンザ一なんて言うのなら、世界一、いや宇宙一と言うに等しく、それならどんなおいしい料理が出来上がるのだろう。ほっぺたって本当におっこちてしまうものなのだろうか。考えるだけでセレンは楽しくなってきた。いったいどれだけおいしい料理があるのだろう。

本当においしい料理は別世界へ連れてってくれる。

どこで仕入れたかわからない言葉がセレンの頭の中に浮かんでいた。あの料理長がかなわない相手ってどんな料理を出すんだろう。そもそもここのレストランの味って。

セレンは料理長どころかここのレストランの料理を食べたことがなかった。もしつまみ食いが見つかりでもしたら今度は自分がつまみ食いされるどころか丸ごと食べられてしまう。洗い場の残り物でも味見をしようとすると様々な邪魔が入り到底不可能だった。ただ一度だけ、片付けの時にお肉の塊のラグーの垂れたしずくが偶然口に入ったことがあった。空腹も手伝ったか知らないがその時は飛び上がらんばかりのものすごい衝撃を受けたのを覚えている。それは信じられないほどの濃厚さで、一頭や二頭煮詰めたどころでは足りないのは何となく想像でわかった。

セレンは次から次へと疑問がわいて矢継ぎ早にジャガー副料理長に質問をしていた。

「でも本当にあったんですね? 噂だけだと思ってた。去年は誰が優勝したんですか?」

ジャガーは少し考えてから、答えにくそうに言った。

「…わからん」

「わからないですって?」

「いや、本当のことだ。恐らく料理長にだってわからないに違いない。そんなこと聞いたこと無い。あの方はああ見えて隠し事の出来ない素直な方だ」

「優勝者が分からないなんて。それじゃあ大会の意味があるんですか?」

ジャガーもそこで初めて、不思議そうな顔を浮かべた。

「確かにな…、しかしわれわれには関係ないことだ。お前なんか特にな。何せ大会に勝ち抜けるのはとてつもなく力のある動物だけだ」

「わかってますよ」セレンは明らかにしょげ返っているようだったが、すぐに気を取り直して再び質問をした。

「でも大会は料理の腕前があれば誰でも参加できるんじゃないんですか?」

「建前はな。しかし実際は沸騰するほどの熱いお湯の入った、大きな料理長ほどの大きさの寸胴を持ち上げて、かつ、それを一定の距離運ぶのが参加資格だ。そんなことできる動物は本当に限られている。そんなの俺でも、逆立ちしたって到底できっこない。出来るのはライオンか虎くらいのものだろうし、実際はその中でもとりわけ大きなライオンかトラに限られているといってよい」

「どうしてそんな?! 仮に料理が上手くても、力がなくちゃ参加資格すら与えられないということですか?」

「ああ? どんなに小手先の料理がうまくたって、力がなくてどうやって料理を進められるんだ? 助手も許されないんだ。寸胴ひとつ持ち上げられずに、ミンチ一つ出来ずに料理がうまく出来るといえるのか?」

セレンは少し考えてから言った。

「確かにそうかもしれませんが…、でも母さんの作った料理は絶対に美味しかったです」

「はは、お前がそう感じたのを否定するわけではないが、お前の母親が大柄な動物を捌いて料理出来たのか?」

「いえ、さすがにそれは…」

「だろう? お前の母親の料理が本当にライオン様やタイガー様を満足させると思うか? まさか野草や小動物の肉で彼らが満足するとも思えない。いくら猿の間では美味くてもこのギンザは現実にライオン様が支配する世界なのだ。その現実は絶対だ。それによく考えてみろ、仮に頭でどんだけ美味しい料理が作れたってそんなの現実に見てないものを誰が評価してくれるんだ? 実際作ってなけりゃあ誰だって何でも言える。そして現実に作るにはどうしても力が必要なんだよ」

セレンは悔しくても二の句が注げなかった。納得出来ない、そういう表情だった。それでも母さんの料理はライオンでも満足すると。しかしやがて頭を切り替えたのか、再び次の質問をした。

「でも優勝者も分からないなんて、どういうことですか?」セレンは未だまるで次は自分が参加するかのように詳細を知りたがった。本気のようだ。

「だから知らないっていってんだ」セレンはジャガーの怒気を感じ、これ以上首を突っ込まない方が良いと感じた。しかしジャガーは案外おしゃべり好きな性格なのか思案顔で言葉を継いだ。

「ただなあ、入賞者は分からんでもない」

「入賞?」

セレンは目をぱちくりさせて聞き入った。

「予選通過者のことだ。予選を通過すれば、そのレストランはどうやら評価がうなぎのぼりに上がるらしいのだ」

「どうやって? ですか」

「それはお前、あれだよ。たとえば最近流行の噂鳥が飛んできて」

「噂鳥?」

「い、いや噂鳥映えするとかさ。言うだろう? 豚紳士が言い広めるとか言う」

セレンには何のことだかさっぱりだった。それはジャガー副料理長も同じらしく、早くこの話題を切り替えたい様子だった。

「でも、どうしてそんなに間接的なんですか。正式な発表は一切ないんですか?」

「それは無い。聞いたことはない」

ジャガー副料理長は、ここは力強く断言をした。しかしセレンには全く納得がいかなかった。どうして、なにか知られてはいけない秘密でもあるのだろうか?

「ただ、チャンピオンは王様になる、という噂もなくはない」

「チャンピオンが王様に!? 初耳だ。ということは、じゃあ現王様も料理大会の優勝者ということですか? 王様は十年以上前の大会に出られていたと?」

「わからん。だからこれは噂だって言ってんだろう。支配階級のことは俺にもわからん。あまり嗅ぎ回らないほうがいい。それにお前なんかどんなにあがいたって、参加することさえ出来ないんだから、いいから仕事しろ!」

「すみません」言葉では引き下がったもののセレンは悔しそうだった。

セレンは仕方なく仕事を始めた。

ハリージはガイドブックを片手に街を徘徊していた。

(ここはきっと表通りなんかねえ。それにしても…)

街並みは一見、銀行や官公庁のような頑丈な作りの建物が続いていて無愛想に見える。だが、実は建物に入っている多くは様子が違った。やたらめったら飯屋が多いのだ。とは言ってもグランメゾンのようなちゃんとしたレストランばかりではなく、ちょっとした定食屋や居酒屋やバルなど業態は様々だった。しかしどこをみても、表通りも裏通りも飲食店がひしめきあっていた。店はどこも重厚な扉が恰も客を拒んでいるかのようであった。そうでもないのはガイドブックを見れば分かったが、実際扉を開けるにはそこそこの力が必要のようで、非力な動物には入れないように無言の圧力を掛けていた。ついでに補足しておくとメスはもちろんオスよりも非力だったが扉を開けるのはもっぱらオスの仕事で、たとえメス一匹でも給仕が代わりに開けてくれるのでその辺はすくなくともメスにとっては問題はなかった。

(さっき行ったとこはなんと言うか…、なんかこう真に迫って美味だったなあ。大会の予選通過店っていうけどなんの大会だろ?)

ハリージは楊枝をシーシー言わせながら今日も街を冷やかしていた。資金はいくらでもあった。

10

 お日様は地平線に飲み込まれまいと、最後にオレンジの光を出して抵抗していた。お店の扉が開かれると、レストランの全スタッフが緊張に包まれた。空気が斬りつけるようにひりひりする。料理長が戻ってきたのだ。

「お帰りなさいませ。料理長!」

「お帰りなさいませ!」みんな顔をこわばらせ、料理長を出迎えた。

「おかえりなさいませ料理長、お疲れ様です。いかがでしたか?」

ジャガー副料理長がはじめて挨拶以外の声をかけた。しかし心なしかいつもより緊張しているようで表情が硬かった。どうやらこれは、何時も毎年の恒例になっていたようであった。予選通過をするのは生半可なものではない。ライオン料理長も心なしか、あまり聞かれたくないかのように目をそらしたかにみえた。

「明日の仕込み、どうしましょう?」ジャガーはまるで、大会のことなど最初から何もなかったかのように、話題を変えることに努めた。

「ふふふありがとう。副料理長。気遣いは結構だ」

「いえ、そういうわけではなかったのですが」

「いいんだ。明日の予約なんだが申し訳ないがキャンセルしてもらってくれ。くれぐれも丁重にな」

「キャンセル…でございますか? 確かに明日はそれほど大きな予約もありませんが、他に重要なご予約でも?」

「いや、明日は休みにする」

「えっ? どういうわけでございますか? 休みといいますと?」

料理長はそこで初めて得意そうな顔をした。

「明日は本戦だ。お店は休みとする」

「えええー、本当でございますか? とうとう、とうとうとうとう、予選通過でございますね!」厨房だけでなくお店全体が、このニュースに、飛び上がらんばかりに喜びわいた。

「ついに、ついにわがレストランが予選通過に!」

「それじゃあ明日は我がレストラン総出で応援ですね」

「それがな、本戦は非公開につき、一切の応援は認められんのだ」

「そうなんですね」一同のテンションは下がった。応援に行けないのもそうだが、公然と外出してどんちゃん騒ぎが出来るという期待が裏切られたのだ。しかし料理長の表情はみんなとは反対にそこまで残念そうではなく、依然として威厳を保っていたが、どこかいつもと違って表情の弛みがあった。予選通過という事実を前にすればもはやそんなことは些末なことなのだろう。何だかセレンもつられて嬉しくなってくるようだった。これは付随してみんなの身の回りの世話等から解放されるだろうという期待も含まれていた。

「料理長! おめでとうございます」「おめでとうございます! 料理長」

お店のスタッフから一斉にお祝いの言葉が続き、引き切ることがなかった。

さすがのライオン料理長の表情もシリアスな形を維持するのが難しくなったと見え、すっかり精悍だった険しき王者の風格は消えうせ、緩みに緩んだその頬は、もはや締まることがなかった。

「それでは料理長! お祝いといっては何ですが…」

「うむ、分かっておる。今夜は無礼講だ」

そう言って、お酒の用意をさせた。もうお店中お祭り騒ぎが始まった。しかし小さな声がライオン料理長に語りかけた。

「あのう…」それはセレンだった。

「何だ? さる」さすがの料理長もこの時ほどセレンに穏やかな表情をした時はなかった。

「あのう、まだ明日、本選があるんですよね?」

「勿論だとも」

「だったらお祝いは早くないですか? 明日の準備もあるんじゃ…」

「何だ、そんなことを心配しておるのか? 明日の準備はばっちりだ。このコンテナに今日大会で捌いたばかりの極上の肉を入れてきた。これを明日は使う。冷蔵庫で吊るしといてくれ。熟成はほとんどできないだろうがな。はっはっは」そう言って料理長はセレンにコンテナを手渡したが、あまりの重さにセレンは尻餅をついた。

「はは、お前、料理長の計らいがわからんのか?」ブルドック先輩に続いて、ジャガー先輩も口を挟む。

「お前はどんだけ予選通過が凄いことかまだ知らないのだ。お店が予選通過するということはなあ、ガイドブックに堂々と掲載されてだなあ。それから大繁盛してお金ががっぽがっぽ入ってだなあ。そしたら毎日。もう、あんな食べ物やこんな食べ物も…」

「それにあの子やあの子までよりどりみどりで」

ブルドック先輩もよだれを垂らしながら妄想にふけっているようだった。

「お、おほん」ライオン料理長の咳払いに、ほかの動物たちも居住まいを正した。

「とにかく…」

ほかの動物たちは神妙になった。

「無礼講で!」

脱落した。

それからは、のめや唄えの大騒ぎ。どんちゃん騒ぎは終わらなかった。とはいえ、勿論。セレン達猿がこのどんちゃん騒ぎに参加することは許されなかった。さすがに時計を見ると既に夜中の二時を回ろうとしていた。ジャガー副料理長を始めブルドッグ先輩や厨房の動物たち、サービスの動物たちもほとんどが酩酊していた。

「あのう、そろそろ帰っていいですか?」

ライオン料理長はもう何時間も飲み続け、それでもさすが、百獣の王の貫禄で、先ほどまではかくしゃくとしていたものの、今ではすっかりダウンしたようで、これまた大きな花ちょうちんを膨らませてプースカクースカとまどろんでいた。ジャガーやブルドックも相当飲んでいたものの、基本的にはライオン料理長のお酌に回っていたためか、まだかろうじて目を開けていられるだけの体力が残されていた。

「なんらって? かえる? 駄目らよ。お前明日が大事な大事な大会だってころをちってるろら?」

「で、でもう。もう時間が」

「とまりに決まってるのら…」

「いや、だって泊まるの禁止じゃあ…?」

「今日はいいのら…片付けだけしておくのら」そのままブルドック先輩とジャガー副料理長も眠りこけてしまった。番犬たちも今夜ばかりは眠りこけるのが早かった。いつの間にか、帰るに帰れず後片付けをする前にセレンも眠り込んでいた。

 目をさますと小鳥がさえずっていた。酒の入っていないセレンがなんだかんだ一番目覚めが早かった。セレンが寝ぼけ眼をこすって見渡すと、料理長やジャガー副料理長、ブルドック先輩はまだ大きな花ちょうちんを膨らませていた。ハナコも端の方で寝息を立てている。並ぶととやはり料理長の花ちょうちんが一番大きかった。周りを見渡すとセレンは飛び上がった。

やばい! あたりにはどんちゃん騒ぎの残骸がそこかしこに残ったままだった。これを残すのは生死に関わりかねない。先週も先輩の猿が後片付けができていなかったということで処刑され、メイン料理に回されたばかりだった。

セレンは必死の思いで片づけをはじめた。

11

「ま、間に合った」

やっとのことでがんこな洗い物を済ませ、一息ついた。料理長は相変わらず大きな花ちょうちんを膨らませて当分起きそうもない。起こすべきか否か、セレンは迷った。確か大会は昼過ぎなので時間はまだあるだろう。下手に早く起こせば、これまた雷の直撃を免れない。準備は終わっているというし…。

 セレンはふとその準備がどんなものか確かめたくなって、冷蔵庫の中をそおーっとのぞいて見た。そこには、いつもは見たこともない肉の塊がたくさん、部位ごとに細かく分けられていた。セレンは感心した。ここまで細かく各部位に綺麗に分けることが出来るのはやはり料理長しかいない。これにはとてつもないほどの力、そして研ぎ澄まされた鋭い牙と爪が必要なはずだ。

冷蔵庫の真ん中には大きなコンテナが入れてあった。これが言っていた大会で今日使うものだろう。

セレンは恐る恐る、そおっと音を立てないようにコンテナのふたを開けて中を見てみた。

「わあ!」

セレンは思わず声を上げ、すぐにはっと我にかえって自分の口を押さえた。それは小豆色の下地にうっすら白いさしが入った見事な脂肪交雑の巨大な肉塊だった。

でけえ…。セレンは一度でいいからこんな肉を厚切りにして口いっぱい頬張って食べてみたかった。しかもこれは…、ひょっとしてキングロインというものではないか。あの肉の中で唯一、キングの称号を持つという。

セレンは目を輝かせた。同時に好奇心が俄かに自分の心の中に芽生えるのを抑えられなかった。一口だけなら大丈夫だろう。今まで何度、この瞬間を夢見たことか。一度で良いから最高といわれる肉を味見してみたかったのだ。せめて自分が肉として食べられる前に。

セレンは、コンテナーから肉の塊を取り出そうとしたが、その自分と同じくらいの大きさの肉の塊はそこに根でも生えているかのようにびくとも動きもしなかった。

やっぱり上等な肉を食べるなんてのは夢の夢で、最後は自分が肉の塊となって冷蔵庫に入る方がありえるか。セレンはなんだか悲しくなってため息をついて座り込んだ。

「いてえ」セレンは声にならない声を上げた。お尻に激痛が走ったのだ。お尻のポケットから血が出ていた。

そうだ! セレンは思い出したようにお尻のポケットをまさぐると血にまみれたあるものを取り出した。それは料理長の爪だった。

ひょっとしたら、これを使えばいけるかもしれない。

その大きな極上の肉を、料理長の爪でもって一部切り取った。意外なほどすっと肉は切り取られた。セレンはその肉をフライパンで焼いてみることにした。

 肉に塩をして、フライパンを熱して…、油を引いて…。セレンは普段から料理長のやる仕事を目を皿のようにして観察していた為、大体の動きはわかっているつもりだった。ジュっと言う音がすると、セレンはこの音で誰かが起きてくるのではと気が気ではなかった。料理長や、その他誰かが寝返りを打つだけでびくんとした。それでも確実に肉には火が通って行った。セレンは、ここだという頃合いで肉をひっくり返すと、焼き色はちょうどいい具合でそれは美味しそうに見えた。初めてにしては上出来だと思った。上等の果実酒を注ぎ入れ、フランベした。

「あっちち」炎があがり、セレンの顔は炎に包まれた。セレンはびっくりしてフライパンをひっくり返しそうになるのをなんとかこらえた。チリチリと毛が燃えるのを感じ顔の毛や頭が丸まって散り散りになった。めげずに続けると、湯気とともに美味しそうな匂いが立った。セレンは、その匂いが料理長や他のキッチンスタッフを起こしてしまうのではないかと気が気でなかった。それでなるべく出てくるにおいを自分で吸い込むようにした。いい匂いだったがその煙でめまいがした。

 完成だ。肉からは輝くような美味しそうな肉汁がしたたってくる。セレンは恐る恐る肉を手に取った。これがライオン様をはじめとする支配階級が食べている料理なのだ。セレンは心して肉を口に入れた。

「おいし!…ぃ?」セレンの感嘆は急速にしぼんだ。周りを起こすまいと言う警戒からだけではなかった。どちらかといえば最上の肉を前にそんなことはすっかり忘れていた。少なくも心の中で絶叫する準備はできていたが正直そうはならなかった。肉はとてつもなく柔らかかった…わけでもなかった。どちらかといえば、いやかなり歯ごたえがあった。そして肉汁が口いっぱいに広がる…ほどでもなかった。思った以上の量だった…わけでもなかった。そして肝心の味は…、おもったよりぱっとしない。やはり見るのとやるのとでは違うのか。やり方が間違っているのかもしれない。セレンはどうしても、もう一度焼いてみたくなった。今度は頭の中で、忠実に普段料理長がやっていることを思い出し、丹念に焼いた。だが完成して口に入れると、やはり味はそれほどでもなかった。

 何が間違っているのだろう? こんなはずではない。大会で予選を通過するほどの肉なのだ。まさかこんな味の訳がない。きっと何か秘密があるに違いない。

もう一度。いやこれも違う。

もう一回。今度は塩の掛け方にこだわった。上からパラパラパラとまんべんなく降り掛かるように細心の注意でふりかけた。

塩よ均等に降り掛かれ! しかしセレンの願掛けとは裏腹に塩は何かに押し出されるように横に流されていく。どうやら空調が微妙に邪魔をするようだった。

何をしているんだよ。セレンは心の中で塩に怒りを向けた。

「何をしているんだ!」


12

「え?」明らかに自分の声でなかった。

セレンは一瞬にして全身の血の気が瞬く間に引いていくのを感じた。再び後ろから小さくも野太い声がした。やばい! セレンは前方に逃げようとしながらも誰なのか確認のために後ろを振り返ろうとすると、その声の主はいった。

「振り返るな!」

誰? 抑え気味ながらこの声は副料理長かブルドック先輩か。いずれにしても見つかった以上捕まったら自分が食べられるのは確実だ。セレンは逃げ道を目だけで確認しようとしたが、少なくとも前方にはどこにもなかった。もう本当に終わりだ。

「何を焼いてるんだよ」

「本当にごめんなさい。ちょっと味見がしたくて」セレンは目をつぶったまま覚悟をして答えた。謝ったところで許してもらえないのはわかっていた。

「俺にもくれよ」

「は、はい、それはもちろん。でもその後は…、俺も食べちゃうんでしょう?」セレンはどうせなら最高のステーキを焼いてから自分を食べてくれというあきらめの気持ちでそう答えた。

「うーん、どうだろうな。それも悪くないが。でもセレンなんか食べたくないよ」

「???」俺の名前を言った。そんなのは猿の仲間以外言われることがない。しかもどことなく聞き覚えのある声、確実にどこかで聞いたことがあるような声だ。

「同じ奴隷なんだし」

「???同じ奴隷」

セレンは怪訝に思いながら必死に最高のステーキを焼いた。セレンは自分史上最高の焼き方で肉を焼き上げると、なんだかとても満足した。

「できました!」あとは食べられるだけか…。その前にもう一度食べてみたいなあ。いやだけどもしかしたら逃げるチャンスあるんじゃ。瞬時にいろいろな考えがセレンに浮かんだが、セレンに聞こえてくる声は意外なものだった。

「しっ! 声が大きいよ。ばれちゃうよ」

「え?」セレンが思わず振り返るとそこにいたのは豚、いや「なんだハナコかよ!」

「や、やあ、あはははは」ハナコはちょっと小太りの、甘いものが大好きな豚のような雄の猿だった。ハナコは笑いながら人差し指を口にあてがった。セレンは安心して腰が抜けたような気がした。

「でもセレン、そんなことして大丈夫なの」

「いや、あんたがさせてるんでしょう?」

「いやその前にやってたのセレンじゃん」

「それはそうだけど、いや少し食べてみたいじゃん」

「まあ、そうだよね。どれ一つ僕にちょうだい」そういってハナコはセレンが苦労して焼き上げたステーキをペロンと平らげた。

「うーんやっぱキングロインは違うなあ」ハナコはうっとりとして言った。セレンは首をかしげた。

「でも、何かこう、やっぱ思ったのと違うんだよなあ」

「そうかなあ、すごく美味しいと思うけど」

「うーん、どうもイマイチ」

「じゃあもう一枚焼いてみれば? やっぱりステーキだからちまちま焼いたら美味しくないんだよきっと…ある程度の塊じゃないと」

「そういえばそうか。なるほど! わかった」セレンたちはその後、何度もそのやり取りを繰り返した。そして気がつくと2匹はお腹いっぱいになりすぎて、それぞれ自分の体が二匹分のようになった。

「セレン、まだやるかい? さすがにそろそろお腹が…」

「もう一回やろう。今回がこれで最後」

「りょうかーい。肉取ってくる」ハナコは冷蔵庫まで向かった。

「あれっ? ねえ、セレン」

「ん?」

「これは違うんだよね?」そう言ってハナコは今までとは別の白っぽい肉をセレンに示した。

「え? それは確か、筋とかだよ。第一、ほとんど肉ないじゃん。キングロインはもっとやわらかそうな奴だよ」

「じゃあさっきので終わりだよ」ハナコはことの重大さに気がついてないのかあっさりと言った。

「エー!! それはまずいまずいまずい。いやどこかにあるよね?」

「無いよ、だってさっきの塊全部使っちゃったから。見て」ハナコは空っぽになったコンテナの中身を見せた。

「ええー! 早く言ってよ」セレンは小さく絶望の悲鳴を挙げたが、自分達の今にも飛んでいきそうな気球のように大きく膨らんだお腹を見て納得せざるを得なかった。

「大会が…」

「どうしよう?!」ハナコにもだんだんことの重大さが身にしみてきていた。

「絶対殺される!」みるみる二匹の顔から血の気が引いていきました。

「ど、どうするんだよセレン?」

「そんなこと言ったって、ハナコも食べ過ぎだよ」

「そんな、焼かれたらそりゃ食べるよ」困って困って困ったセレンとハナコ。残った一口大の肉片を前にしてセレン達は途方に暮れた。やばい、代わりになる肉はないか。

もしや、と思いセレンは一縷の望みをつないで、冷蔵庫に向かった。どれも見た目があまりに違いすぎる。セレンは各肉の塊を検めたが、どれもあの見事なおそらくキングロインと思われる肉とは似ても似付かなかった。

「どうしよう…、似たようなのもないや」

「これは? シャントなんとかって…」

「いや違うだろ。そもそも肉じゃないし」普段肉を扱うことのないセレンでも違いは一目瞭然だった。あきらめかけて逃げようと準備を始めたそのときだった。

「あれセレン、ここって冷凍庫じゃなかった?」

「そうだよ。でも冷凍肉じゃさすがにもう間に合わない」

「でもほら、温度が」そこだけ温度計が高くなっていた。セレンとハナコは顔を見合わせて勢いよく扉を開けてみると、普段の冷凍庫の一部がたしかに冷蔵庫にかえられていた。いや、故障かなんらかの理由で温度が上がっていたのかもしれない。

ハナコが奥の奥をごそごそと動かしていたときだった。

「あ、あった!」大きな肉の塊が、まるまると恰幅よく、奥の方にましましていた。セレンの体を十分に二人分にしたような大きな大きな塊だった。セレンは喜び勇んでその体いっぱいを使ってえんやと肉を転がしてみた。

しかしその肉はよく見るとやはり、先ほどの肉とは肉質が明らかに違っていた。筋張っていたのだ。しかも大きな骨がついていて、いかにも硬そうなだった。これではバレると思ったセレンは、骨を外して整形する事を思いついた。セレンとハナコは、その肉塊をやっとの思いで運び取り出した。それを、どうにかこうにか見よう見まねで、ライオン料理長の爪を使って引きちぎろうとしたが、その肉は先ほどのキングロインとは打って変わってびくともしなかった。さっきの肉とはわけが違う。骨がついていて…。どだい、セレンやハナコの力ではいかんともし難かった。

「どうしよう…」セレンは、あたりを見回した。この肉は、料理長の信じられないほどの強い力が入った牙や爪、あるいはブルドック先輩のような、強いあごのついた歯でもなければどうしようもない代物だった。セレンは、料理長や先輩をもう一度見た。二匹、いや二頭とも、もの凄い地響きをたてていびきをかいていた。まだまだ起きてきそうにないのが救いだった。

「逃げよう…」セレンとハナコはそろりそろりと、出口の方へ向かった。厨房の扉を抜けようとする瞬間、ふとセレンの足が止まった。ここで逃げたら自分の夢は…。でもこのことが原因で食べられるのならその前に逃げるしかない。セレンは自分に言い聞かせた。

扉を抜ける時にちょうど、同じ猿族の給仕長のげんさんが寝ているのが目に入った。

「玄さんさようなら、お世話になりました」セレンが寝ているげんさんに小声で挨拶すると、ハナコはぼそっといった。

「玄さん、代わりに食べられちゃうかなあ」セレンはそのつぶやきに思わず足を止めた。

「えっ? どういうこと?」

「いやあだからさ、連帯責任とかってやつで」

「え? げんさんは全然関係ないじゃん?」

「でもこの前も関係ないのに同じ猿というだけで腹いせに殺されてたし」

「…………」セレンはそれを聞いて完全に歩みを停止してしまった。

「セレン、もういかなきゃ捕まるよ。セレン」セレンは重たい石のように固まってその場を動かなかった。

「セレンったら」

「いけないよ」

「じゃあどうするんだよ」

「ハナコだけでも逃げてくれ」

「セレンここにいても食べられちゃうだけだぜ? どうするんだよ。玄さんならきっと大丈夫だよ。今まで生き残ってきたわけだし。肉はもうどうしようもないよ?」

「いや、でも…、わかった。じゃあ…」沈黙があった。セレンは必死に考えを巡らせているようだった。ハナコはセレンが次に何を言ってくるのか固唾をのんで見守った。

「祈ろう」

瞬間、それを聞いてハナコはこけそうになった。セレン自身、自分の言っていることがめちゃくちゃだなと感じていた。

「はあ〜? 祈る? 神頼み」こんなときにこんなことしか言えない自分が申し訳なくて恐る恐るハナコの顔を伺った。自分でもなんで祈るのかわからなかった。

「だよね」意外にもハナコは怒るかと思いきやなぜかその言葉に満足したようだった。不思議な猿だ。セレンはいつもハナコのことをそう思っていた。


13

 おもむろに、セレンはお守り袋から父の形見を取り出した。困った時には、いつもこうして父の形見を取り出し、願をかけた。もちろん何も起こったためしはなかったが、本当に困ったらこうしなさい。それだけはセレンが覚えている遺言だった。

藁にもすがる気持ちだった。セレンの父親の形見、それは戦士であり鍛冶職人だった父の戦闘用のナイフのレプリカ、ようはおもちゃだった。何度も何度も実際使えるか試したが柔らかいものでも全然切れないし、そもそも刃がついていないのはセレンが一番良く知っていた。しかしそれを見ては、セレンは父に思いを馳せた。セレンの父親像は全てこれまたおぼろげな母親からのものだった。セレンが生まれた頃、既に父はこの世に居なかった。セレンは願掛けに父の形見を肉の上に置いた。そして鞘から抜いた形見の刀そして肉に向かって祈りを捧げた。祈りの文句は幼い頃、母親が口ずさんでいた内容で、セレン自身ほとんど内容を理解していなかったが、すらすらと口をついて出てくる。それを声に出さないように唱えた。

当然と言えば当然だが、肉には何の変化も現れていなかった。

「ねえ、なんてお祈りしてるの?」

「え? なんてって? 正直自分でもよくわかってないんだ。子供の頃からの子守唄で」

「口に出して言ってみなよ。それじゃあ聞こえないよ」

「別に祈りだから声に出さなくても」

「でもそれじゃあ神様はわかってくれないよ」

「えっ…」セレンはそういうことじゃないだろうと思いつつ渋々軽く声を出して唱えた。

「それじゃ声が小さいよ」

「いや声出しちゃ起こしちゃうじゃん」

「そうだけど仕方がないよ。向こうの方は防音しておくから」そう言ってハナコは料理長達が眠っているホールに繋がるドアのところに毛布を引っ張り出して腕を広げて覆った。セレンは仕方なくもう少し大きな声で呪文を唱えた。いくら後ろでハナコが防音のために毛布で覆っていると言っても、とてもそれが役にたつとは思えなかった。他に開いてるところがたくさんあるし向こうからも丸見えだった。

 肉に変化はなかった。願いをかけてもそりゃもちろん無理だよな、この場合。現実逃避より現実に逃避…でもそれじゃ仲間に迷惑がかかる。半ば諦めながら、覚悟を決めようかというその時だった。

らららら

軽やかに歌う声。

「ハナコ、こんなときによく鼻歌なんか歌ってられるな」

そう言ってハナコを振り返りきっとにらむと、ハナコはとんでもないという顔をした。

「僕は何も声なんかだしてないよ」

「え、じゃあ今のは?」

「誰か起きだしたんじゃあ」心配になってみると隣の部屋では相変わらずみんな高いびきで寝ていた。

「それじゃあ、今のは…」その時だった。

「あ、あれ見て! セレン」

信じられないことが起こった。なんと、どれだけがんばっても硬いゴムのような、いや、ダイヤモンドのように硬くてびくともしなかった肉塊が、きれいに半分に分かれていたのだ。

「え?」セレンは訳が分からないという顔をした。どうやら置いていた例のナイフのレプリカが、いとも簡単に肉を半分にしたのだ。

「あ、あれま」

「どういうこと?」

「もしかしてそのナイフ、すっごい切れるんじゃないの?」

「いや、そんなはずないんだけど……第一これはぶっちゃけおもちゃだし…」

「どれ、もう一度やってみようよ」

ナイフを半分になった片方の肉塊の上に置いて、もう一度祈りを捧げようと口を開いた。

「あれ?」今度は祈りを捧げる前にナイフは肉をさらに半分に分けた。

「祈りいらないじゃん」

「きっと一回祈ればいいんじゃない?」面白くなったセレンは、何度も何度もそれをやってみた。

すると切れる。切れる切れる。今度は手に持って実際に自分の手で肉を切ってみると太い骨も簡単に取り外せた。面白いように切れる。でもこれ以上切ったら、逆にやばい。しかしそれでもセレンは止められなかった。まるでナイフに、あるいは肉そのものに導かれるように手が止まらないのだ。セレンが夢中になって肉と戯れているそのとき、セレンの頭上にぽっかり穴が開いたような気がした。決して天井に穴が開いた訳ではなかった。

♪らららきれろきれろりん、うまくなれうまくなーれるん、わけろわけろんろん、うまれろうーまれろれんれん、ふえろふえろんろんらららららー♪

 セレンは楽しくなって、思わず歌いだした。それはセレンの口から自然に出てきたようだった。そして歌うようにそのナイフを肉の上で踊らせた。セレンがどこからともなく歌うその歌は何かに導かれているようで、正確に言うと肉の方が歌っているようで、セレンはそれに引きずられて歌ったのだ。そしてあら不思議。あの大きな大きな肉の塊が、見る見る見る、今まで見たことが無いくらいに細かく出来ることに気がついた。

 どうなってるの? 面白くなったセレンは、夢中で肉片をを更に細かくしていた。

ハロー、セレン。ハローハロー、踊ろうセレン♪

セレンはまるで肉の妖精と戯れているようだった。そして美味しくなるように美味しくなるように話しかけた。するとお肉の方からも、何か語りかけてくるような気がした。一つの肉のかたまりだが、複数の声が重なって聞こえてくるようだった。

セレンは歌った。肉もそれに応えた。お肉とセレンは戯れた。

「セレンってば」セレンの背後からハナコの声がした。セレンはびくんとして楽しい気分が吹っ飛んだ。どうやら何回も呼びかけられていたらしい。夢中で全然気がついていなかった。

「何をやってんだよ?」

「え?」まだセレンは事態が飲み込めていなかった。

「それって、料理長が持っていく奴じゃあ…」

「うん…」

「それじゃあミンチだよ! ヤバイじゃん、ミンチじゃなかっただろう。どうするよ。もうやめとけよ。料理長、起きちゃうよ」

「やばい。どうしよう」セレンはようやく事の重大さに気がついた。

慌ててセレンは、出来上がったミンチをこね、元の肉片のように見せかけて整形してコンテナの中に入れた。

しばらくすると料理長はじめ、ブルドック先輩、ジャガー副料理長も目を覚ましキッチンに入って来た。

「う、ううー頭痛い…」

「あ、料理長おはようございます」

「今何時だ?」

「いけません、もうこんな時間です」セレンはコンテナの中を検められないように出立を促した。

「何! 10時か!」時計を見た料理長は、さすがにあわてて目を見開いた。

「昨日のコンテナを用意するのだ!」

「こちらに用意しました」セレンは中身をしげしげ検ためられないようにコンテナーのふたの上に覆いかぶさるようにしていた。

「おおそうか!」しかし料理長はそんな意図があるとも知らずおかまいなしにセレンを片手で払いのけると、そう言ってコンテナーの蓋を取って中を見た。そしてそれからセレンの顔を見た。

大きなたてがみを蓄えた顔が一瞬真顔になり、セレンの顔に迫ってきた。

「ありがとう」

「と、とんでもありません」セレンの声はほんの少し上ずった。料理長もあわてていたためか、そう不審に思われることはなかった。料理長は満足そうにうなずくと、物凄い速さで身づくろいをした。

「出発だ!」

「お供します!」

「いらない。禁止されている。店を出るところからが審査の対象だ」

申し出たセレンはにべもなく断られた。料理長は店を出た。

脇にはセレンの仕込んだミンチが入ったコンテナーを、軽々抱えていた。料理長の後ろ姿を見送りながらセレンは今の自分では到底大会に参加することなんて出来そうもないなと思って、力瘤を作ってみた。それよりも今は、帰って来てばれたらどうしようと言う心配の方が強かった。



「システム構築に時間はかかったがな。あとはどれだけの逸材が出るかだけだ。いい加減余にのみ頼るのではこれからが心もとない。現王はそう言った意味では物足りないからな」

「そろそろ潮時ですかね。今回有力な候補がいますのでご注目ください」

「ふふふ、あいつか。確かに実力をつけてきたのは間違いなさそうだが。なんかもっとこう…超新星を期待したい」


14 力を駆使した豪華な料理の競演


 ばん、ばん、ばん、ばーん。


 鐘を鳴らす音が響き渡ると、それを合図に大会参加者たちは一斉に食材を選び始めた。

セレンのレストランのライオン料理長は他の参加者に負けじと、ものすごい勢いで前方にある大きな台の動物を引っ張り出した。

台の上は壮観で、家畜動物野生動物を問わず、野菜も野草も数えきれないほどの海千山千の食材がずらーっと並べられていた。

特に牛や豚などの家畜動物、野生動物などは仰向けにされた状態で四つ足を縄で一結びにされ、参加者が比較的持っていきやすいように陳列されていたが、その光景はさながらどこか異国の辺境の市場のようだった。違うのはそこにあるそのどれもがもれなくとてつもなく巨大であるということであった。

料理長がまず選び出したのは、大きな大きな黒毛の雌牛であった。

「おおっとお!」アナウンサーの声が、大会場に響き渡り、こだました。声が歓声によってかき消されることは決してなかった。なぜならそれは観客が誰一人いなかったからであった。その中継は全て、ある誰かのためのみに向けられていた。

「きましたきました、ゼッケン一番、ギンザサッチョウの料理長、ライオン族ロオン選手! 勢い良く取り出したるは、羊だ。羊だあ。これは獰猛な牡羊! 首を振り振りしています。さあロオン選手、その一頭を、とてつもなく獰猛なその牡羊を、引っ張り出したあ。引っ張り出してねじ伏せました! さあ、ナカザワさん?」

「ナカザーワです」

「失礼しました。ナカザーワさん。この後、ロオン選手、どういった展開が繰り広げるのでありましょうか?」解説者らしき老虎猫にアナウンサーは聞いた。当のアナウンサーは、黒目がちな犬のチワワであった。

「それはあんた、あのロオン選手は、名うての怪力ですからなあ。さしづめミンチにして、クロケットにでもするかもしれませんよ。いやミンスコトレットか」

「クロケット…? ミンスコトレット?」

「要するにコロッケやメンチカツです」

「あー、なるほど…」アナウンサーは、その解説者の物言いに見下したようなニュアンスを感じ取ると刹那身構えはしたものの、すぐに気を取り直して冷静にアナウンスを再開した。チワワのアナウンサーはこのような大会は初めてで緊張していた。

「あっ、見てくださいナカザワさん」

「ナカザーワです。何ですかな?」

ナカザーワと呼ばれる解説者は、ムッとしながら、アナウンサーに促されるままその方向を見やった。

「あっ!」そこには、セレンの所属するレストランの料理長であるサッツカが、その片手にとてつもなく大きく立派で威風堂々たる体躯の雄牛を抱え、勢いよく堂々と雄々しく歩いているところだった。

「これは凄い。もしこれを捌けたら優勝するんじゃないですか?」

犬のアナウンサーは興奮した面持ちで言った。それをナカザーワと言われる猫の解説者が冷ややかな目を犬に向けて答えた。

「はは、確かに凄いですが、今日は決勝大会ですよ。捌けるだけでは力不足、いや実力不足というべきか。とにかく仮に捌けたとしても、まあ次期王というにはまだ…」

「え? 今なんて言いました?」チワワは目をぱちくりさせた。

「あ、い、いやなんでもありません」そういったきり解説者の言葉がとまった。

「今ジキ何とかと言われましたね?」

「う? ああ、そうだったっけね」そう言ったきり、トラ猫はそっぽを向いてしまった。

アナウンサーは、どのみち追求しても無駄だと思い、気を取り直して話題を元に戻した。

「とにかく、あれは凄いですね。あの選手…。手元の資料によりますと、あのゼッケン八番の選手、どうやらギンザのレストラン・カネサークの料理長だそうで、決勝進出は今回が初めてのようです」

「ほう…10回目で初の予選通過ですか」トラ猫はあまり興味なさそうな返事をした。

「しかしあの様子だとなかなか有望そうですね?」 

「どうだか…。ポーズはいくらでも取れますからなあ。あれから捌いて調理をすると言うことが大変なのであってね、牛を持っていくことなんて、私たち猫でも出来ます。はは、兎にも角にも捌けてからが勝負ですよ」

「はあ…」


料理長は、なんとかその大きな牛を仕留め、さばきに取り掛かるところだった。

「どうやらサッツカ選手やっと捌きに入るようですが、大分苦戦しているようですね」

「ふん、そりゃそうでしょう。逆に今回の優勝候補の彼、ケルーアックを見てくださいよ。ちょうど隣なので比較が容易にできます」アナウンサーはその、今大会優勝候補の最右翼と目されたライオンを見た。

そのライオン、ケルーアックは、ギンザの一等地にある高級グランメゾンの総料理長で、今大会ナンバーワンの実力の持ち主と目されていた。その前肢の筋肉、背筋など全身の筋肉の隆々さたるや、さすがの料理長も圧倒されそうだった。

 料理長もはなからこのケルーアックには歯も立ちそうにないことはわかっていた。ここはひとまず予選を突破しただけで十分なのだ。そこで料理長は、思い切って捌くだけでも一苦労しそうな、とても大きな大きな、一番の大きなサイズの牛をさばいて度肝を抜こうとしたのだった。

正直もはや料理長は昨日の時点で満足していた。決勝に出ることだけでもそれは名誉のことなのだ。あとは存分に大会を楽しむだけだ。

そして一つの前から温めていたアイデアを思い浮かべていた。

もうあまり余分なことはやるまいとして、なんとか捌ききったあとは肉片をミンチにして、そこに昨日の予選でさばいた肉を合わせるだけにしようと考えていた。

ダブルスタンミート。二つの異なる肉を合わせて調理する。これは結構自信あるぞ〜。密かに料理長はほくそ笑んだ。ここで料理長は規定通りにお品書きを出した。


15 ダブルスタンミート


「あれは? ナカザワーさん、あれは何ですか? 肉を肉で巻く?」

「…ほう、ダブルスタンミートですか。やっぱりケルーアック選手とかぶってますな」

「な、なんですか? そのダブルなんとかというプロレス技みたいなのは…」

「力技と繊細さの融合した最高峰と呼ばれる肉料理法の一つです」

「それが、ケルーアック選手とサッツカ選手が奇しくも選択が被っているということですね。でもどうやらサッツカ選手の牛の方が大柄ですよ。これはひょっとしてひょっとするんじゃないですか?」

「万に一つもありません」解説者はにべもなく即答した。

「え、え、どういうことですか? あんな大きな牛、それだけで美味しそうじゃないですか」

「ノンノンノン。逆です。あんな大きな牛、見てくれは豪快ですが、うまいわけないじゃないですか。それに昨日の予選で使った牛も比較的大柄の牛だったはずですよ。その肉と合わせるわけですから、考えれば考えるほど期待できません」

「でも、力の誇示は大事な要素ですよね? 現代の料理界においては」

「それはそうですが、今日は決勝ですよ? 力の誇示は予選だけで十分です。決勝は力だけで通用するわけではありません。なぜこの大会が放送されないのか、考えたことはありますか?」言って解説者はすぐ自分で自分の口を押さえた。

「え、放送されない理由?」

「あ、いや、今のは忘れてください。失礼いたしました」どうやらつい口が滑ったようで口をつぐんだ。

アナウンサーは何かこれ以上突っ込めない雰囲気を感じ、そこはスルーして話を進めた。

「で、では、ケルーアック選手の方は? 隣のサッツカ選手のに比べると結構小さな牛だと思うのですが」

「ふふん。わかってませんな。あれで良いのです。あれがベストな選択です。あれは見事な肉質の未経産の雌牛です。ケルーアック選手の選択は、さすがに見事という他ありません」

「本当ですか? 私にはあのサッツカ選手の牛の方が見事に思えるのですが」

「まったくもう、これだから素人は…」

「素人ですみません」チワワは黒目を潤ませた。

「あ、いや無理もありません。この大会はご存知の通り二日間に渡っていて、初日の試合は力くらべに主眼を置いているので大きい牛が多いのですが、実は正直あまり味としては大味で良い牛ではありません。これはケルーアック選手もご多聞にもれず大きな、おそらく出場選手の中でほぼ一番大きな牛を捌いていました」

「確かに。しかしサッツカ選手も、初日はケルーアック選手とほぼ同じか、それに準ずる大きさの牛を捌いていたようですが…」

「初日はそれで良いのです。もちろん基本、あまりにも大きすぎても、硬くて大味であまり美味しくないし、かといって小さいのは比較的柔らかくて美味しくても、これでは予選通過できません。しかし初日は、あくまで予選通過のためには力を見せておかなければならない。問題は二日目なのです」

「今日の二日目も、大きいもので良いのではありませんか?」

「二日目に見るポイントは、ずばり味なのです。ですが、規定により、初日と二日目の両方の肉を使わねばなりません。ここが味噌です。正確に言うと二日分の肉を使った総合的な味で判断するのです。ですから二日目は徹底的に味にこだわらなければダメです。そのために二日目に用意している牛は、初日とは比べ物にならないほどの、最高クラスの牛を用意しています。その中にはそれでももちろんダメな牛もあるのですが、あのサッツカ選手。よりによって、なりは最大ながらその最も不味そうな牛を選んでいるんですよ」

「…それでも初日にケルーアック選手は一番大きな牛を捌いています。サッツカ選手より大きいのだから、サッツカ選手からしたら二日目に逆転のために、より大きな牛にチャレンジするのは悪くないのでは?」

「だあ、かあ、らあ、」解説者は呆れ顔で、鈍臭い者を諭すようにさもバカにして続けた。チワワはまた瞳を潤ませた。

「初日と二日目とでは、質が違いすぎます。初日のものは大きいのも小さいのも実際どれも肉質にそこまで大差はないのですが、二日目の牛には結構な差があります。これは二日目の牛選びを失敗すると到底常識的にはリカバリーすることはできません。ですから二日目は特に慎重に吟味して、質の良い牛を選ばねばならないのです。それをあのサッツカ選手は、よりによって一番大きくて肉質の良くない牛を…」

「なるほど…、話はなんとなくわかりました。でもそれと、会場を非公開にしていることと、何か関係が?」

「……わかりません」明らかに一瞬トラ猫の表情が強張ったようだった。

「わかりません? どういうことですか!」

「それは社会のあれ、いや、だからわからないと言っているでしょう。これ以上あなた、関わらないほうが身のためですよ」

チワワのアナウンサーはそう言われてしぶしぶ引き下がらざるを得なかった。


「あー、すごい! ものすごい、ナカザワさんみてください。ものすごいスピードですよ、あのケルーアック選手!」

「ナカザーワです」

「失礼いたしました。ナカザワさん。でも本当に圧倒的に早いですねケルーアック選手は」

実際ケルーアックの牛を解体して捌くスピードは圧倒的だった。既に解体を終わり、ダブルスタンミートの中身用に捌いた肉をミンチに変えているところだった。

「当然でしょう。大会ではダブルスタンミートは捌くのがとても難しくスピードを要求されるものですが、なぜそうかと言われると、それは実は火入れの問題があるのです。火入れに時間がかかるので、時間内に収めるにはその前になるべく早く捌かなければなりません。しかし確かに見事なものです。間違いなく優勝候補ナンバーワンですからね。一方、見てください」

解説者はそう言って、セレンのレストランの料理長、サッツカを指差した。といっても人差し指ではなく、猫特有の肉球をわずかに開いて、それだけでは判別が難しかったが、話の流れから誰を指しているのかわかるのにさほど苦労はなかった。

肉球を指されたサッツカの方は大きな大きな牛を前に、豪快に捌こうとして動きは大きかったが、解体は遅々として進まず攻めあぐねているようだった。

「あ、これはサッツカ選手、かなり苦労しているようですねえ。大丈夫でしょうか」

「大丈夫じゃないでしょう。あれからミンチにするのはさすがに至難の技ですから。しかもよりによって最も硬そうな肉ですからねえ。あれじゃあまともに焼く時間もなくなってしまいますよ。いずれにしてもこれは全くもって期待できません。食べなくてもわかりますよ。まあ本人も、予選通過で大満足といったところでしょう」


大きなスタジアムの特別室から、大会を見る4つの目があった。黒目と細目がめまぐるしく入れ替わっていた。そこではアナウンサーと解説者の話している声がよく聞こえるようだった。

「ケルーアック選手、これはひょっとしたら10年ぶりの交代もあるのではございませんか。もう10年も彼はチャンピオンです。今回は特に力が入っているようですし」

「まあ、慌てるな。実際にこの舌で、確かめてみんことにはな。フォッフォッフォ」

「ん? あのサッツカというもの…、あれはダブルスタンミートではなかったですか? ミンチ間に合いそうにありませんな。それによりによってあんな大味な雄牛。あれでは大会の主旨を理解するだけで向こう10年は要するようですね」


 サッツカは大きな、自分よりも大きな牛を捌くのに手間取り、焦っていた。しかし心底焦っているといえば、そうではないように見えた。すでに予選を終えただけで満足してないと言ったら嘘になる。あとはこの恐らくこの観客のいない、歓声のないスタジアムでは一番の大物をさばききれば、優勝もあるのではという気持ちもあった。しかし、ここからミンチにするのが困難なのは、サッツカ自身が一番分かっていた。どうにか形だけにでもしたい。サッツカの思いは今はそれだけだった。

隣では今大会優勝候補ナンバーワンのケルーアックが優雅な動きで肉をミンチにし終えるところだった。サッツカは、正直これは敵わないという気持ちだった。

ようやく、やっとの事で牛をさばき切ったサッツカは、今度はそれをミンチにする作業に取り掛かからなければならなかったが、問題は終了時間まであとわずかということだった。焼く時間を考えると本当に時間がない。

 試しに今捌いたばかりの肉を軽くミンチにしようとしたが、筋に沿って裂くことは簡単だが切り分けるのはとてもとても、ほとんど、否、全く歯が、いや爪が立たなかった。まさか昨日の肉をミンチにするわけにも…。通常肉は捌いてから死後硬直が始まり今が一番硬くなっている頃である。ライオン料理長もさすがに昨日の肉が味的にもまた実際の物理的可能性としてもミンチに適さないことくらいわかっていた。

 サッツカは、おもむろにコンテナの中にある、昨日捌いた肉を取り出そうとした。これを外に使って、今捌いたばかりの肉を、ミンチにするのがダブルスタンミートの定石だが…、

「あれっ?」サッツカは思わず声を上げた。違和感を感じたのだ。肉片を取り出そうとすると、肉は簡単にちぎれてしまった。(これは…、えっ、ミンチになってる…)

昨日、大会初日に捌いた肉がミンチになっていたのだ。サッツカは昨日そんなことをしたっけ、と記憶をたどったが思い出せなかった。いや寧ろそんなはずはないが…。でも俺様のことだから酔っている間に勢い余ってやったのかな。まあ何はともあれ、これでどうにか間に合いそうだ。サッツカは通常では逆だが、このミンチになっていた初日の肉を中身にして、なんとか今さばいたばかりの肉を外の肉にして中身を包んだ。

よし、これであとは時間ギリギリまで焼くだけだ。

しかし時間を見るとあとわずかしかなかった。どう考えて時間がも足りなかった。

「まあいいや。がっつり最強の火で」料理長はあとは鼻歌交じりの上機嫌さだった。料理長の夢は広がった。とにかく予選通過すれば確実に店は有名になる。名実ともに有名店になるのだ。ついに俺の店が…。

料理長の妄想はとどまることを知らなかった。そうしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。

「あ! 真っ黒黒だ…やばい」料理長は黒焦げになった物体の表面をカリカリと削った。


「なんなんだ…、あれ食わせる気じゃあないだろうな」

「まさか。あ、でも必死に削ってますよ」」

「論外だわ。見てくれだけでも繕ってくれないとな。予選通過どころか失格処分にするところだわ」

「いやあ食べる気しませんね。しかもあの肉じゃあ。でも急に早くできたのはどういうわけでしょうね」

「いや待て、ミンチを用意していたようだ。初日の肉をミンチに使ったのか! まさか…、バカな! ありえない」

「ははははは。話になりませんな。私は嫌ですよ試食は。外側に使うのならともかく、中身に初日の肉を使うなんて、以ての外だ」

16

 後ろの、山のような存在に同時に完成品を一部分け与えていた。すると数ある皿のうちある一つの皿だけが綺麗に平らげられていた。

「ものすごい勢いだ。完食だ。あの皿は…? とうとうあのチャンピオンか」

「本当ですね。これは久しぶりなことです。その他はほとんど手をつけませんね。やはりケルーアックのでしょうね。見事なダブルスタンミート」

「それに引き換え…、奴の皿はどこでしょうか? 楽しみでしょうがないのですが」

「何がだ?」

「久しぶりの失格者が出るのではと思いまして」

「…それは特例だ。数年前の一件と、そして遡ること数十年前のあの事件だけだ。思い出したくもないが」

「失礼いたしました。しかし今回それが再現されることも」

「再現? お前は知らないのだ。あれは特例だ。このシステムを根底から揺るがす恐れのあったあの事件のことを」

「何か毒物の混入があったとかなんとか…」

「まあ良い。封印した歴史だ。二度と紐解かれることはない」

「申し訳ございません」

「だが、決勝にふさわしくない皿もまた、失格の対象にするのもこのシステムを維持するために必要なこと」

「では…」

「すくなくとも工程を見た限りではな」


大会は一時間で勝負が決し、審査も終わって結果発表だった。料理をなんとか時間内にやり終えたサッツカは満足感に打ちひしがれていた。

(最後がちょっと雑になった気もするけどいっか。あんな豪快な焼き方、誰もまねできないぞ)

 「それでは、優勝を発表しますが、その前に失格者を」

場内に響き渡る声の主はトラだった。しかしそれがどれだけ響いているのかは正直判断がつかなかった。ただ、選手間で一部どよめきがあった。トラの顔は、料理長のサッツカもテレビでどこか見覚えがあった。

(ものすごい筋肉! もしこんな力のありそうなトラが出ていたら、到底俺の敵う相手ではない)

ライオン料理長はその筋肉を見て身震いした。それは筋肉のためばかりではなかった。

「失格者って? そんなのあるのか?」失格者とは? サッツカは戸惑った。この期に及んで失格なんてことが意味あるのか?

「失格って、もう何年も出てないよね」

「ああ。そうそうあるもんでもない。形だけの」サッツカは周囲の会話に耳をそばだてた。

「でも取り潰しだろう? あまり雑に仕上げたりするとお上の怒りの鉄槌が下りるとか」

「ああ。それでも10年に一度もあるか」それを聞いてサッツカの表情は俄に強ばった。

「でも今回は…」なぜかサッツカは視線を感じるような気がした。

取り潰しって…。そんなことがあったのか? そんなことは初耳だ。どうしよう…。

「文句のつけようが無い。こんなの初めてだ。確かに間違いなく優勝だ」

「しかし彼らは信用できるのですか?」

「システムの根幹を揺るがすような発言は許されないぞ」

「確かにそうですが…」

「そもそも彼らの舌を疑うこと自体意味がないことだ」

「も、申し訳ありません」

17

「優勝は…レストラン——」

料理長は安堵し半ば、ぼおっとしていた。失格は無かった。しかし気分がいいもんだ。良くぞここまで来た。料理長の頬は、緩みっぱなしだった。予選に通過した店は間違いなく大繁盛。もう一生成功が約束されたようなものだ。しかし優勝したところって、何で今まで分からないんだろう? 去年までは予選で敗退していたし、決勝進出者はそれぞれ決勝のことも決して他言無いよう箝口令を敷かれていた。

料理長は周りを見渡した。

凄い騒ぎだな。え? どこだって? 優勝レストランは。

料理長は妙に自分が注目されていることに不思議な気持ちだった。

どうしたんだろう?

「おめでとうございます」

「へっ?」料理長はトラに声を掛けられて何が何だか分からなかった。

「おめでとうございます。レストランカネサークの料理長、サッツカ様ですね?」

「あ、は、はい。それが?」料理長は何を言われているのかわからなくてどぎまぎした。

「だから、優勝は、あなたのところに決定いたしました。そしてあなたは明日から___」それ以上頭に言葉が入ってこなかった。料理長は頭が真っ白になって暫くその場から動けなかった。


「わかっているが…、それにしても信じられん…」

「それでは間違いだったと?」

「そうとは言っておらん。解せんだけだ」

「ケルーアックのものも絶品だったと言って良いのではありませんか?」

「確かにケルーアックのダブルスタンミート、火入れが絶妙だ。時間をかけているだけのことはある。外の肉が見事に柔らかく仕上げられていた。一方あやつのは、見ても分かる通り明らかにさっと雑に火入れしているように見えるが、その実反対に…、いやだからこそまさに見事に捌いたばかりの肉の焼き方に結果的にマッチしていた。それにしても圧巻は中身のミンチ。これほど極上の肉は…滅多に…、いや、はじめてだ。あれは…、あの深い旨みは…まさか! そうか! スネ肉だったか!」

「そんな、ありえるでしょうか? スネ肉を短時間でここまでミンチにするなど常識的に考えて到底不可能」

「いや、しかし私の舌に狂いはない。それに…、光物を使えば…。しかしまさかな。とにかく言えることはあのダブルスタンミートは交代にふさわしいということだけだ。熟成具合も含め見事と言うほかない。それにこれは彼らが証明している」

「確かに、それは見事と言う他…、どうしましょう? 何かの手違いでは? それにスネ肉を仮にさばけたところで、昨日の今日でここまで熟成に持っていくのは不可能では? いくらなんでも、このミンチが昨日捌いたものだとは思えません」

「確かにそうだが…、いや、これは間違いなく大会初日の牛、Dマイナーのスネ肉だ」

「…そ、そんなことが…、あり得るでしょうか?」

「間違いない。間違いなくDマイナーのスネ肉が、ミンチに使われている。だからこそ信じられんのだ。私の舌はごまかせん。それはお前が一番よく知っておろう。よそから混入したりもまずありえない」

「だとしたら一晩かけてしたということは考えられませんか? あるいは光物を使って。ある意味違反ですが」

「そうだとしてもそんなことは大して重要ではない。このくらいの細かさだったら、かのケルーアックでもできるかもしれないが、問題はその熟成だ。たとえミンチにできたとしてもだ。そもそもこのD肉は予選用に特別に用意しておいたのだ。この肉を使うのは本来命取りのはずだった。そもそも相当上手に料理したとしても、ミンチにしたところで筋張って食えたものではないはずだ。しかし事実は見事にミンチにされ、しかもしっかりとこの短期で熟成されている。しかし…、そんなばかなことが…、いずれにしてもこれは取り込まねばならぬ。それに、今更覆す訳も行くまい。決まりは決まりだ。システムに誤りはない。殊、あの料理だけは交代させるに足る料理だった。モンスターたちもここ10年来初めてのがっつき方だった。いや、初めての反応だったかもしれない。これは決定的だ。仮に万に一つの偶然だとしてもだ。しかし、ひょっとしたら、いやそれはないか…、いやそれでも確かめておかねばならぬ。もしそうなら…」

その表情は曇っていた。


           18

朝から晩まで飲め食え歌えのどんちゃん騒ぎだった。セレンとハナコは準備やらお酌やら何やらで、当然参加することは許されず大忙しだった。

「おい、セレン! はよ酒もってこんかい」料理長の大きな大きな壷のようなグラスには、ついさっきなみなみ注がれた高級なお酒アバウールが早くもすっかり飲み干され、その深い奥底に紫色の輝きを残すのみだった。料理長は完全に酩酊顔だった。

「しかし料理長。今回は本当におめでとうございます」ジャガーは料理長に取り入るようにほぼ休みなくお酌をした。

「ああ、まあな。正直わしもびっくりしておる。予選くらいだったら確かに今回はいけるかもとは思っていたが、まさか優…あいや、ふふ…相当優秀な成績とはな」

「本当は優勝なんじゃないですか?」 

「っふふん、どうだかなあ。そう言いたいところだがな…」料理長の物言いは奥歯に物が挟まった言い方だったがそれは決して何かを隠したいということではなく逆に言いたくて言いたくてたまらないという感じだった。

「実際今回、どちらのレストランが優勝なんですか?」

「いやあ、まあそれはなあ。言えんことになっているからなあ。ふはははっはは」ライオン料理長の顔は緩みっぱなしだった。

「本当は料理長じゃないんですか?」

「予選初突破のワシが? まさか」料理長の言葉にジャガーは納得したが、ライオンは何故か悔しそうな表情だった。

「でも優勝者って本当謎だったんですよね。今まで誰が優勝してたんですか? 結局」

「おお、まあ一応毎年いるみたいだがな、そういうのは。しかし今回は」

「今回は特別な感じですか」

「いや、まあな」とにもかくにも料理長は上機嫌この上ないと言う表情だった。

全くこっちの身にも成ってくれよ…。セレンは隅の方で甲斐甲斐しく厨房スタッフの宴会の世話をしながらちいさな声でつぶやいた。宴会の後片付けやら洗い物やらてんやわんやで、少しも休まるところがなく、忙しさは通常営業と変わらなかったか、むしろそれ以上だった。ため息をつきそうなのをぐっと堪えたが、それでもほんの少し漏れてしまったのだ。

「あん? サル、なんか言ったか?」料理長の大きな、立派なたてがみを貯えた獰猛な顔が、セレンの顔のほんの目と鼻の先まで迫ってきた。

「い、いや、何にも言ってません。とにかくおめでたいなあと」

「ふん、まあよい。お前ともお別れだ」その瞬間、従業員の目が期待と喜びで鋭く光った。

「すると、やっぱりあれですか?」みんならんらんと輝く目でセレンを追っていた。

「ふふふ、そういうわけではない。もうわしはこの店を離れねばならんのだ」

「えっ、どういうことですか?」

「うむ。実はなあ、まあ…、うん。やっぱり黙っとこう。いずれすぐ分かることだし。それにしてもお前のいいたいことはわかるぞ。次期料理長」

「次期料理長? そんな…、私がですか?」ジャガーは自分の顔を指差して何度も確認して驚いていた。

「もちろん、わしと同格のライオンシェフに打診はしているがそれもすぐではないだろう。それまでの繋ぎというわけではないが実力をあげれば正式に料理長もある。なにせこの世は実力の世界だからな。そうすればグランメゾン初のジャガーの料理長正式就任もあり得る」

「ほ、本当ですか?!」

「ふふふ。だからといっては何だが今日は二重にめでたい。お祝いにはやっぱりご馳走がつき物だ」

「やっぱりあれですか!」ジャガー副料理長などは自分の料理長昇格は未だ信じ難く、半信半疑だった。それよりも、そのご馳走の方がまだ嬉しいようでさえあった。

「ふふふ。まあ待っておれ。その前に冷蔵庫に大会で使った残りの肉があっただろう? そろそろ熟成も進んでいるはずだ。確かスネ肉もあったな」

直にブルドック先輩が気を利かせて冷蔵庫を開けにかかった。探し物が見つからず、ばたんばたんとドアを開閉する音がこだました。

やばい! 悪い予感がしたセレンは抜き足差し足でその場を離れようとした。ハナコにも目配せをした。

「見当たりませんですが」ブルドック先輩は冷蔵庫の扉を残らず開閉しては確認をしていった。

「そんなはずはない、かなりの大きな牛の肉だ」言うなりライオン料理長は冷蔵庫をあらためにいった。

「どういうことだ?」ライオン料理長は他のスタッフを咎めるように尋ねた。

一同は誰もがぶるぶると首を横に振って知らないアピールをした。

「今日は営業を休みにしておりましたし、誰も開ける者はいないはずです。開けるとしたら昨日後片付けをした…」みんなの視線がセレンたちを追い、さっきまでいたはずのそこが虚空だと気がつくが早いか、すぐさまセレンたちの背中を眼で捕らえた。セレンたちはもう少しで視界から消え入る寸前のところまで来ていた。

その刹那、ライオン料理長はくるりと向きを変えると、セレンをものすごい眼でにらみ、一喝した。

「さる!!!」    

大きな落雷が直撃したようにセレンとハナコはびくんとしてその場に硬直した。


19

「こっちを向け! やったのはお前たちだな?」セレンとハナコはその進行方向にオオカミ先輩がいるのに気がついて、ゆっくりとライオンの方を向いた。これでは蛇ににらまれた蛙。いやライオンに見据えられたサルだった。なんとかこの場をごまかそうと必死に頭を巡らせたが,出た言葉は月並みなものだった。

「僕たちやってません」セレンは見え透いた嘘にほんのちょっぴり後ろめたさを感じたがライオン料理長の言葉はそれらを全て意味の無いものにした。 

「ふふ、もはやお前たちがやったとかやらなかったとかこの際どうでもよい。死人に口無しというからな。覚悟は良いな? そう、サルのラグー。いや丸焼きも悪くないか。或いは決勝大会での料理のようにミンチにしてくれようか」

そう言って料理長は少しずつ少しずつ、セレンとハナコの方ににじり寄ってきた。セレンとハナコはがくがく震えながらも、後じさりした。

「どりゃあ!!!!」野太い雄叫びと共にライオンは一気に二匹に飛び掛った。二匹は全力で逃げた。右にはセレン、左にはハナコが右往左往した。料理長はセレンを追ってつかまらないと見るや、今度はハナコを追っかけた。ものすごいスピードだった。料理長の鋭い爪がセレン達を捉えそうになるが、すんでのところで二匹は躱した。そんなことが数度続いた。

「料理長! 私らも協力いたします」ジャガーが申し出た。

「何、それには及ばん。俺様に任せるのだ」ライオンはなおも執拗に追いに追いかけた。

追っかけながら、ジャガーに大きな寸胴にたっっぷりの湯を沸かすように指示した。

ライオンは一気に間を詰めた。反射的にセレンは大きく左に逃げ出したがハナコは出遅れた。ブルドック先輩に通せんぼをされて行き場を失ったハナコは逃げ場を探って立ち往生したが、そこへ風を切り裂くような、いや台風をも巻き起こすかのようなその腕力を秘めた鋭い爪が、ハナコをブウーンと捕らえた。ハナコはその瞬間万事休すかとも思ったが、意外にも料理長のその豪腕は、ハナコを綿毛のように優しく包み込んだ。だが、それもすぐにハナコには、自分が御馳走に生まれ変わるまでの間の短い慈悲、いや下ごしらえの類であると悟った。

「捕まえたぞお」

「ハナコ!」

セレンはもう少しで逃げおおせるところまで来ていたが、ハナコを見て立ち止まった。

「セレン、俺、もう駄目だ。セレン、逃げて!」ハナコは捕まえられながらも必死にセレンに向けて訴えかけた。

「馬鹿言ってんじゃねえ」セレンはハナコに言った。

「ふふふ、もう一匹のサル、お前も一緒だ」ライオン料理長はハナコだけでは飽きたらず、今度はセレンの方にもにじり寄ってきた。思わず逃げ道を探したがドアーの前では、ブルドック先輩が例によって通せんぼをしている。セレンはほんの一瞬迷ったが、諦めたのか、何か意を決したのか、ライオン料理長の方にゆっくりと向き直った。ライオンと猿は対峙した。そしてセレンはきっとライオンの料理長を睨みつけた。が、そんなことをライオンは意に介さなかった。

「覚悟はできたか?」ライオンはハナコを片手で軽々抱え、さらにセレンに手をかけようとしていた。

「ハナコを返せ」

「ん? 何を言っておる?」

「ハナコは関係ない。俺が全部食べちゃった。とにかくハナコは離してくれ。それにひょっとしたらあのミンチのお陰で上位に入れたのかもしれないんだぜ?」

「はん? 何を言っておる?」料理長は一瞬心当たりがあるのか強く否定するように言葉を注いだ。

 「関係ない! それに何時からそんなため口を聞くんだ? 奴隷の分際が! お前もろとも連帯責任だ。観念しろ」

「悪いのは俺だけだよ。それに入賞店なのに許されるのかよ? 勝手にサルを殺すことが。法律は守らなきゃ。入賞したんだよ?」

「法律だあ? 今更そんなの有って無いようなものだ」ライオン王はそんなことを言われても余裕という感じだった。

「それに、そんなもの俺が変える」そう言った刹那、

「うわあ」ものすごい勢いで一気にセレンをも捕まえてしまった。二匹は暴れるも、力の差は歴然としていた。

「うわっはっはっは。いくらあがいても無駄だ。この世にはどうしようもないこともある。うわっはっはっは、はあーん?」料理長は急に足元に違和感を覚えた。

びえーん。びえーん。片方のサル、ハナコが泣いていた。

「きったね」料理長は思わずのけぞった。どうやらハナコが失禁したらしかった。こりゃいい! セレンはこれでしばらく時間が稼げるのではと思った。あわよくば料理をやめてくれるのではないか。しかし次に発せられた言葉は二匹を落胆させた。

「こうなったらさっさと料理してやる。洗浄もなし。熱湯で灰汁抜きだ!」

そう言って料理長はぐらぐらと煮えあがる寸胴の中に、二匹を放り投げようとした。まず後ろに腕をスイングする。ゆっくりと、しかし力強く。料理長の腕が前に送り出され、同時に二匹は確実に前に持ってかれる。

そうらっと。手がはなれようとした瞬間。

「ハナコ! 鬣だ! 思いっきり引っ張れ!」

セレンの声にハナコは従った。必死の、この世の最後の抵抗だった。思いっきりハナコとセレンはライオン料理長の鬣をつかんだ。料理長は引っ張られた反動で自分が熱湯に顔を突っ込みそうになって堪えた。

「いてえな、無駄なことを」セレンはしかしそうしている間もライオンの見えないところでお守りの袋に手をかけライオンに聞こえないくらいの小さな声で呪文を唱えた。

「さあ、観念しろ」ライオンは体制を整え、再びひげを掴まれないように注意しながら二匹をぐらぐらと煮え立つ寸胴の上に入れようとし、かけ声を発した。

「おうらよっ」

その時だった。

「うぎゃあああああ」料理長の片方の目に閃光が走った。ライオン料理長は目を押さえ、二匹は拍子で投げ出され、ギリギリのところで熱湯を免れた。

「今だ! ハナコ逃げろ!」二匹は無我夢中で逃げた。ブルドック先輩は前に立ちはだかったが、たった今起こった出来事に呆然としていたのか、セレンが体当たりをすると思いのほか容易に跳ね飛ばせた。

「ど、どこ行ったああ」料理長は片目を抑えながら追いかけた。セレンは必死に出口に向かった。一心不乱だったのでバランスを失いそうになり持ち物の料理長の爪を落としたが、お守りはなんとか死守した。しかし料理長はすぐそばまで迫っていた。轟音とともにライオンの鋭い爪がセレンの顔をかすめた。しかし寸でのところでかわし、ドアを素早く開けて外に出た。ライオンは閉められたドアをその鋭い豪腕の爪でぶち破った。だが二匹の逃げ足は半端無い。二匹は無我夢中で走り、とうとう見えなくなった。

「おのれえ、絶対に捕まえてやる! 八つ裂きにしてくれるわ」

ライオンは道の真ん中で仁王立ちだった。しかしその足元には見る見る血溜まりが形を広げていた。


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