【イレーネ先輩観察日記】
「あら、ハンナちゃん。何を書いているの?」
「えっ!? あっ、いやっ、何でもないです!」
受付カウンターの隣の席から覗き込むイレーネ先輩から、私は手元のメモ帳を急いで閉じて胸に抱いた。
自分でも下手なごまかし方だと分かっているけれど、イレーネ先輩はいつもの笑みで「ふ~ん」と言いながら席に戻り、掲示板に張り付ける任務票の作成を始めた。
私はメモ帳を机の引き出しの奥に突っ込み、みんなの分のお茶を淹れることにした。お湯を沸かす時も、ポットに茶葉を入れる時も、横目で自分の机を盗み見る。不審に思ったイレーネ先輩があのメモ帳を取り出すかもしれないから。
あのメモ帳は先輩だけには絶対に見られるわけにはいかない!
***
「ハンナちゃん、ファーレン君のお仕事が気になるの?」
三日前、先輩にそう声をかけられたのが事の発端だった。
「はい。『調査』って言っていましたけど、どこに何をしに行くんですか? 毎日のようにどこかに出歩いていますけれど」
「ハンナちゃんはまだイーゲル・騎士ギルドで働き始めて間もないから、知らないのも無理ないわね~。簡単に言えば、依頼内容が正しいか判断するために、ウォリアーに仕事を斡旋する前の調査に向かっているのよ。あとは、その準備のための買い出しとか」
「調査って、ウォリアーの人たちがやるんじゃないんですか?」
「普通はそうね。詳しい話は本業のファーレン君にお任せするとして、気になるなら彼の仕事ぶりを見に行ったらどうかしら。私も見たことがあるけど、なかなか面白いわよ~?」
正直、当時の私はファーレンさんとはあまり接する機会が無かった。一番の理由は、彼が希少なハーフエルフでどう接すればいいのか分からず、自分から壁を作っていたからだと思う。
その日は比較的暇だったこともあり、イレーネ先輩に教えてもらって森に行き、そこで運悪くゴブリンに遭遇してしまったのだ。
助けてくれたファーレンさんとカフェで食事し、その帰り道に言われた。
「イレーネさんは優秀で頼りになるけど、無類のいたずら好きなんです。僕ですらたまに酷い目に遭うぐらいですから、新人でいつも隣にいるハンナさんは一番要注意ですよ!」
「ええっ!? でも、どうすればいいんですか? 私はまだ分からないことばっかりで、どうしてもイレーネ先輩に頼らないといけないですし……」
「うーん、そうですね……」
腕を組み、天を仰ぎながら考え込むファーレンさん。
ハーフエルフの瞳にはこの空がどう映るんだろうな……そんなことを思いながら彼の横顔を見ていると、パチンと指を鳴らした。
「僕と同じことをするのはどうでしょう?」
「同じことって?」
「相手を観察するんです。不安や恐怖は、相手のことを知らないのが一つの原因です。いきなりイレーネさんと渡り合うのは難しいと思うので、まずは少し離れた所から観察してみては?」
なるほど、それはいい考えかもしれない。自分が探偵となり、イレーネ先輩のミステリアスな部分を赤裸々にする姿を想像して軽い興奮を覚えた。
本来なら少し罪悪感を覚えるところかもしれないけれど、これまでに味わったいたずらやセクハラの仕返しと考えれば遠慮することも無い。
とは言え、これはイレーネ先輩の弱みを握ろうとか、そんな目的じゃない。
危険な目に遭ったけれど、おかげでファーレンさんと仲良くなり、一緒に食事や相談を出来る仲になった。今の私はイレーネ先輩の後輩であり、おもちゃみたいなものかもしれないけれど、いつか対等の相手になりたい!
「分かりました! 色々教えてください!」
「もちろん! それじゃ、まずはいつでも持ち歩けるメモ帳とペンでも買いに行きましょうか」
その三日後、つまり今日から〈イレーネ先輩観察日記〉をつけることを始めたのだ。
***
私にはファーレンさんのような交信魔術も無ければ、器用さも知識も無い。だから、まずは分かることからメモしていく。書くと言う行為は情報を整理するためにも必要だとも教わった。
イレーネ先輩の年齢は、たしか二十三歳。私より五歳年上だ。
髪は私と同じ亜麻色。ウェーブのかかったセミロングの髪は色気があって、貴族のお嬢様のように上品だ。近視なのか、視力を矯正する眼鏡と言う珍しいものをかけている。気になって一度借りたことがあるけれど、逆に視界がぼやけて気分が悪くなった……どんな仕組みなんだろう?
身長は私より少し高く、胸は……かなり大きい。私よりずっと大人の女性らしい体つきで、五年後にイレーネ先輩と同じようになれるとは到底思えずちょっとへこむ。
性格はいたずら好き。イレーネ先輩の毒牙にかかっていないのはギルドマスターのディアナさんぐらいだ。特に年下のスタッフへのからかい方が激しく、その一番の被害者が私……。
だけど仕事は出来る人で、イレーネ先輩がミスをした姿は一度も見たことが無い。
他のスタッフのミスで依頼人やウォリアーが怒鳴り込んでくることもあったけれど、先輩が笑顔を向けると途端に気勢を削がれ、すぐに大人しくなってくれるのだ。特に男性に対して効果がある理由は、まあ考えるまでも無いけれど。
「ふう。とりあえず書き始めて見たけれど、既に分かってることばっかりになっちゃったなあ。でも初日だしこんなものかな」
既に終業時間を迎え、イーゲル・騎士ギルド本部のスタッフはほとんど帰っていた。残っているのは私と、ここに住んでいるディアナさんのみ。このメモ帳が気になってイレーネ先輩より先に帰るのをためらっているうちに、最後まで残ってしまっていた。
「でも、今日はちょっと楽しかったな。明日は先輩の秘密の一つでも見つけられたらいいなあ」
メモ帳を引き出しに……入れておくのはちょっと怖いので、鞄に入れて持ち帰ることにした。
このメモ帳を最後まで埋めた頃には、私も先輩みたいな一人前の女性になっているのかな? そう考えると、明日からのお仕事も何だか楽しみになってきた。
***
「なあ、イレーネ。ハンナは何してたんだ?」
ハンナが帰宅し、もぬけの殻となったイーゲル・騎士ギルド本部の一階に二人の女性が下りてきた。
「どうやら、私の観察日記的なものをつけ始めたみたいですよ。今日は何だかハンナちゃんの熱い視線をとっても感じましたから」
「観察日記か。おおかたファーレンにでも吹き込まれたんだろうな。それはいいとして、ジロジロ観察されるのはお前といえど不快じゃないか? 何なら、あたしの方からそれとなく注意しておくが」
「まあ! そんなことはおやめください」
イレーネは自分の上司の唇に指を当てた。
「むしろ嬉しいじゃありませんか~。可愛い可愛いハンナちゃんが、私のことを知ろうと見つめてくれるんですよ? 不快どころか、むしろご褒美ですからあ」
「そ、そうか……」
イレーネは唇から指を離すと、その指を口に含んだ。
「あたしは時々、魔物よりお前の方が怖く感じるよ」
「あら、酷い。こんな可憐でか弱い受付嬢のどこが怖くて?」
その言葉に、ディアナは苦笑いしながら煙草を取り出した。
「自分がスタッフじゃなく、ギルドマスターで助かったよ」