九話【交流魔術】
「交流魔術……?」シラヌイの顔に皺が寄る。「何だ、それは?」
「すぐに分かるさ」
掲げた杖を下ろし、自分の額に先を当てる。
「どういうつもりだ?」
シラヌイが疑問に思ったのは無理もない。不審な動きをする敵が、戦いの最中だというのに目を閉じたのだから。
当然のごとく訪れる暗闇。肌にまとわりつく熱気と、肉と植物が焼ける匂いがより鮮明に感じられる。しかしもう一つ、昔一度だけ使用した交流魔術と共に芽吹いた感覚が湧き上がってくる。
「時間がかかるなら、こちらから行くぞ?」
シラヌイの宣言。まだここまでブレスの熱気すら伝わらないが、口の中では吐き出される直前の炎が滾っているだろう。
もう少し――つながるまでもう少し――。
ゴウッ!
吐き出された業火の音が聞こえる。焼けるような熱気と共にまぶたの向こうが明るくなる。もしも僕と同じことを他人が挑戦すれば、恐怖に耐えきれず目を開けるか逃げ出すだろう。
ボワァッ!
でも、僕は動かなかった。放たれた炎の塊は僕の横一メートルを通り過ぎて地面を焼いた。熱イ――熱イ――不明瞭な悲鳴が足元から聞こえてくる。
つながった。久しぶりの交流魔術で時間はかかったけれど、ようやくつながった。
「……おじけづいて動けなかったか? それとも、それがお前の魔術か?」
シラヌイはもう一度炎を溜めると、今度は連続で火の玉を撃ち放った。
その一つ一つが目を閉じても見えている。本物の炎よりも赤い球状の塊が暗闇の中を迫ってくる。それらを避ける度、遠くでぼんやりと白く光るシラヌイのシルエットに苛立ちを示す赤黒い光が混ざる。
「小癪なッ!」
少し間が空いて放たれた炎は、僕の体をすっぽり覆う大きさの巨大な火球。ウォリアーの大盾でも防ぎきれない攻撃に対し、竜血の杖の先を地面に向ける。
「今、立ち上がれっ!」
杖を天に掲げると同時に地面が盛り上がり壁となる。カープを描く壁は火球の勢いを外に受け流し、後方に飛び火して木々を焦がした。役目を終えた壁は崩れ落ち、露わになった前方には白よりも赤が目立ち始めたシラヌイのシルエットが浮かぶ。
「……そうか、分かってきたぞ。お前の言う交流魔術の正体が」
「悪いけど、答え合わせは勝手にやっててくれ」
目を閉じたまま前に走り出す。絶え間なく放たれる炎を自分の脚と土の壁でかわしながら、燃え盛る炎と煙の壁へ突っ込んでいく。
交流魔術は、一言で言えば交信魔術の上位の術。大自然と精霊の力をほんの少し借りる交信魔術に対し、交流魔術は自然と一体化して意のままに操る。人の感覚を超えた知覚で、目を閉じていても半径数十メートルなら地中だろうが後方だろうが感じ取れる。しかし目で見るほど明瞭ではないので、血液恐怖症の僕が魔物と直接戦うには最適な魔術だ。
だけど、当然怖い。どんな魔術を使おうが、既に優位に立っているドラゴンに立ち向かうのは自殺行為に近い。一歩一歩近づく度に引き返しそうになる足を前に向けられるのは、この戦いの火ぶたを安易に切ってしまった自責の念のおかげだ。
そして、ようやくたどり着く。
「今、この戦場を握るっ!」
炎の海の中心――シラヌイの足元に杖を突き刺す。魔術に呼応して地中が蠢き、粘土を乱暴にこねるように地面がうねりだす。かき混ぜられた土は地中の火種を押しつぶして瞬く間に炎を消し、混乱の中で穴に落ちたウォリアーたちが地上に押し出される。焼け焦げた匂いに血の匂いも混じる。
彼らの怪我を確かめないと! そう思って一瞬目を開けそうになるが、この惨状の真っただ中で目を開ければ卒倒するだろう。ぎゅっと目を閉じる。今は自分にできる最善を尽くさなければ。
「これは土ごときでは防げぬぞ!」
シラヌイの前足のシルエットが持ち上がり、頭上から振り下ろされる。
「操れるのが土だけだと思うなよ!」
杖を通じて目いっぱいの魔力を放出する。硬度を増した壁の形成に加え、周囲の木々から伸びる枝がシラヌイの全身に巻き付き、地面を覆う大量の灰が濁流となって相手の目を襲う。勢いを削がれた一撃は容易く弾かれた。
「ごふっ!」
攻撃を完璧に防いで無傷――にもかかわらず、僕は血を吐いていた。加えて意識が遠のいていく。強烈な貧血に似た症状かと思えば、布団の中で眠りに落ちる安堵感もある。
五分と持たないことは分かっていた。術者の魔力を急激に吸う竜血の杖による体への負担。自然と融合するに従って希薄になっていく意識。心身を蝕むこの戦い方を五分も続ければ確実に死ぬだろうし、もっと早く切り上げても後遺症が残るかもしれない。
それでも構わない! 僕一人の命で数万人の命が救われるなら! きっとここが僕の命を使い切る場所なんだ!
「乱暴ですみません!」弱々しい光のシルエットを描くウォリアーたちを魔術で後ろに避難させる。比較的軽傷の者は後回しだ。巻き込んでしまう恐れはあるけれど、僕の魔力を彼らにまで割く余裕はない。
「逃がすか!」
「お前こそ逃げるなよ!」
絡みつく植物でシラヌイの動きを封じつつ、風と土を操り無数の砂利を何本もの触手のように展開する。
深く――深く――この世界に溶けていけ。溶けるほどに交流魔術は力を増す。
シラヌイのシルエットに刻まれた紫色の筋は傷口を表す。傷口、目、口、耳――柔らかい箇所に砂利の触手を突き刺す。川の流れが岩を削るように、砂利を高速で循環させることで肉を削り取っていく。
――――ッ!!
シラヌイの悲鳴に合わせてべちゃべちゃと体に生暖かい血が降り注ぐ。目を閉じていても、赤く染まる自分のイメージと血の匂いに吐きそうになる。交流魔術で意識が遠のいているのが逆に幸いだった。
「このまま……削り続ける。お前の心臓か脳に達するまで……」
操る砂利を通じて肉をえぐる感覚が伝わる。ぐちゅぐちゅと肉をかき分けながら一センチ、二センチ、三センチと潜り込んでいく。
シラヌイの抵抗が激しくなる。木々を引きちぎり、僕を守る土壁にひびが入る。その修復に魔力を割きつつ攻撃も続ける。どちらかが先に力尽きるのを待つ根競べの様相を呈していた。
もう何分経ったか分からない。そんなせめぎあいの中、僕はまた涙を流していた。
……勝てない。僕の命を全て費やしても、シラヌイの命には届かないと悟ってしまった。種族としての頑強さに差があり過ぎる。
「でも……アゥッ……構わない。少し手も時間が稼げれば……反撃のチャンスを作れるのなら……グッ……ここで死んでも、負けじゃない」
今の言葉が口から発せられたのか、頭に浮かんだだけなのかももう分からない。交流魔術の深奥に潜り続け――もうすぐ終着点にたどり着くのではないか。そうなれば、万に一つの可能性でもシラヌイを倒すことが――。
「戻ってこい、レン君!!」
その声で、深淵に沈んでいく意識が一気に引き上げられた。同時に、目の前に現れた薄緑色のシルエットが僕の体を揺らす。
「兄……さん?」
「絶対に目を開けるなよ! 今のレン君、俺が見ても血の気が引くほど返り血まみれだからな」
「う、うん。でも、兄さんこそ大丈夫なの?」
「大丈夫だいじょーぶ。骨が数本折れた程度だ」
「結構重傷じゃないか……というか、僕の目にはもっと重傷に見えるんだけど」
交流魔術はまだ続いている。兄さんの薄緑のシルエットには紫色の痣がいくつも滲んでいる。その奥に今も佇んでいるシラヌイのシルエットを見て思い出した。
「そうだ、シラヌイ! 兄さんと話している場合じゃないんだ!」
「落ち着け。よく見るんだ」
目ではなく意識を凝らして前を見ると、シラヌイは悶えていた。僕が与えた傷のせいじゃない。二つの小さな黄色いシルエットが駆け回りつつ攻撃を加えてシラヌイを翻弄していた。
「あれは、まさか」
「ペトラちゃんとカルボーだよ。ドワーフの打たれ強さは想像以上だな。俺より多くの攻撃を受けたはずなのに、たった二人で奴を抑え込んでいる。ウォリアーでもないレン君の命を懸けた戦いが二人の闘志を燃え上がらせ、限界以上の力を引き出しているんだ。『本職じゃない奴が一人で戦っているのに、自分たちが寝ている場合じゃない』ってね」
兄さんの手が、竜血の杖を握る僕の手に伸びる。取り上げられるのかと思い力を込めるが、予想に反して僕の手をそっと握るだけだった。
「状況が状況だ。この杖と交流魔術の是非については、今は何も言わない。この戦いに勝利するために、レン君の力を貸してくれ。俺たちも君に力を貸す」
「……分かった。一泡吹かせるぐらいじゃ物足りないと思ってたんだ」
悶えるシラヌイは炎のブレスで周囲を薙ぎ払い、まとわりつく二人のドワーフを追い払った。二つの黄色いシルエットは振り返って僕の姿を認めると、ニッと笑ったように見えた。
「言ったでしょ? シラヌイにとどめを刺すのはわだすだって! そこら辺で伸びてる連中に、後で『シラヌイを倒したのはペトラです』って伝えなさいよ!?」
「儂と隊長が嬢ちゃんに後れを取るわけがないだろう? このトカゲはファルケ・騎士ギルドが最大のギルドになるための踏み台よぉ!」
満足に動けそうなのはわずか四人。全員満身創痍だが、全開の交流魔術を行使していた時よりも遥かに力が湧いてくる。「勝てない」ついさっきまでそう諦めていたのが嘘のようだ。
傷口を深くえぐられながらもなお威圧感を放つシラヌイに、三人のウォリアーが武器を構えてにじみ寄る。竜血の杖を敵に向け、力いっぱい叫んだ。
「作戦再開っ!!」