四話【シラヌイとの対話】
近づいてみるとよく分かる。ドラゴンという魔物の存在感が。山に住む獣たちが逃げ出すわけだ。僕だって逃げ出したい。
だけど僕は騎士ギルドの一員であり、リサーチャー。僕が一分一秒でも長くシラヌイと向き合い、僅かでも情報を引き出すほど討伐作戦の成功率は上がる。
「はじめまして」胸に手を当てて軽く頭を下げる。「僕はファーレン・エアハルトと申します」
「そうですか。私は人間の名前に興味はありませんので、おそらくすぐに忘れてしまうと思いますが。あらかじめ言っておきますが、私に名前はありませんよ」
「勝手ながら、僕らはシラヌイと読んでいます。とある国で見られる謎の灯が由来です」
「シラヌイ……そうですか。構いませんよ」
シラヌイは本当にどうでも良さそうだった。名前そのものに無頓着なのか、意外と気に入ったのか。
ただの自己紹介を済ませただけなのに、薄氷の上を渡る気分だ。魔物たちに見つからないように痕跡を辿る普段の仕事とは異質な緊張感に感覚がおぼろげになる。
「……質問していいですか?」
「どうぞ」
「なぜ、僕の存在に気づいたんですか? 僕は猟師で、普段はこの山に住む動物を狩って生計を立てているんですが、この数日はなぜか調子が悪くて、その原因を調べていたんです。運が良ければ獲物にありつけると思って気配を消していたのに、まさか見つかってしまうなんて」
「先ほども言ったでしょう? 嗅ぎ慣れない匂いを感じたからです」
「匂いですか。それも気をつけていたつもりなんですが」
「私たちの種族は鼻が利くのですよ」
そう言ってシラヌイは自慢げに鼻の穴を広げ、ぶふうと鼻息を吐き出す。
山の複雑な気流を考慮すれば、風下にいた自分の匂いも感じ取れるかもしれない。もしくは、僕の嘘と同じようにシラヌイも嘘をついて、嗅覚とは別の方法で察知したのか。
「この山に来た理由は?」
「理由というほどのものはありませんよ。この近辺を飛んでいて、ちょうど快適で動物たちも多そうな場所を見つけたから、しばらくの寝床として選んだだけです。結局動物たちも逃げてしまったし、長居する気はありませんよ」
晴天が続くメテオアはドラゴンにとっても居心地がいい場所だろう。シラヌイが寝床として整地したのか、周囲の木々は切り倒され、鋭い爪と巨体でほぐされた木々の繊維と葉が体の下に敷き詰められている。僕の足元の土まで耕されたようにふかふかで、ベッドのように整えられていた。
問題は、長居する気がないということ。何もせずに立ち去ればこの地方の危機も去るが、別の街が狙われるリスクを放置することになる。シラヌイにまだ成長の余地があるとすれば、最上級のウォリアーたちですら太刀打ちできるか分からない。
こいつは、ここで倒さなければならない。
「私からも訊きたいことがあります」
「……あ、はい。何でしょう?」
「ファーレン。あなたは本当は、私を倒しに来たのではないですか?」
シラヌイの口調は変わらない。それなのに、首筋に爪を突き立てられたかのように血の気が引いた。
「猟師と言う割に、あなたからは動物の血の匂いが感じられません。それに、私の呼びかけに応じてのこのこと近づいてきました。猟師に限らず、一般人なら逃げ出すかもっと怯えそうなものですが、あなたには――勇気を感じる。まるで、最初から私に会いに来たかのように」
……驚いた。咄嗟についた嘘だったとはいえ、全てお見通しとは。予想外のことばかりで浮足立っていたため上手い嘘ではなかったが、シラヌイの知能は想像以上だ。
しかし知能の高さと嗅覚の鋭さは把握できた。戦いにおいて重要な要素だ。
問題は、こちらの思惑が暴かれた状況でどうやって情報を持ち帰るかだが……。
「面白い。あなた一人では無理でしょうから、仲間を連れて私を倒しに来るといい」
「……何ですって?」
あろうことか、シラヌイはこちらの思惑に乗ってきた。
「正直に言って、あなた一人で私を倒せるとは思えませんし、自分でもそれは分かっているのでしょう? つまりあなたはただの尖兵。この国には魔物と分類される者たちと戦う人間たちがいますが、あなたの後ろにはその者たちが控えているのでは?」
「……いや、驚きました。声をかけられた時から驚きっぱなしですが、まさか全てバレていたとは」
確信した。シラヌイは僕を殺さない。ウォリアーたちを連れて来させるため、僕を無事に帰すだろう。口調は丁寧だが、その裏には人間を見下す傲慢さと踏みにじろうとする野蛮さが隠されている。
このまま大人しく帰るのが賢いけれど、僕も一時はウォリアーだった身。最後に一つ仕返しでもしてやろうと考えてしまった。
ポケットに入れておいたギルドの職員証をシラヌイの顔に向けて掲げる。
「僕はイーゲル・騎士ギルドのリサーチャー、ファーレン・エアハルト! シラヌイ、お前の望み通り、お前を倒せる人たちをここに連れてくる! 人間の力を甘く見たこと、すぐに後悔することになるぞ!」
啖呵を切ると共に、上げた右足で地面を思い切り踏み込む。
その直後、シラヌイの体の下にある柔らかい土がずるずると外側に動いていく。
「これは……魔術ですか?」
驚くシラヌイの下でなおも土が移動し、僕とシラヌイの周囲を土手のように囲っていく。移動した土の分だけ地面はえぐれていき、やがて僕の予想通り、地面の中から白く尖った物が見えてきた。
それは竹の断面。正確にはシラヌイが作ったであろう竹槍だ。シラヌイの寝床の周囲を囲うように落とし穴が仕掛けられ、さらに穴の底には竹槍が設置されていた。知らずに攻め込めば致命傷を負う恐れがあったし、無傷で済んだとしても動きを封じられたところを炎の息で焼かれていただろう。
「それではごきげんよう。逃げ出したりしないでくださいね」
「ええ、もちろん。楽しみにしていますよ」
交信魔術を解くと、周囲に盛り上がった土が穴に戻り落とし穴を塞いだ。さすがにバレた落とし穴を再利用するとは思えないが、別の罠に差し替えたところで交信魔術で暴けばいいだけだ。
シラヌイの視線を受けながらその場を後にする。まだ緊張は解けないが、最後にシラヌイの鼻を明かしてやったおかげか体が動く。万が一背後から襲われても逃げきれそうだ。
しかし予想通りシラヌイに襲われることはなく、無事に下山することができた。木に繋いだ馬は耳を後ろに伏せて、僕を見つけた途端ブルルと激しく鼻を鳴らす。「ドラゴンの気配がする山に繋ぎやがって!」と文句を言っているのかもしれない。
「悪かったよ。帰ったらニンジンやリンゴをたっぷり食べていいから。でも、僕だって怖かったんだからな」
山中の移動よりもシラヌイの前に立っている時間の方が汗をかいた。今日も露天風呂に浸かって、疲れを取ってから明日ゆっくり帰ろう。