七話【ウェンの真意】
「うん……」
まぶしさに耐えられなくなり、目を開ける。窓から差し込んだ光がまっすぐ僕の目を突いていた。
サイドテーブルの置時計を見れば、短針は九時過ぎを指していた。こんな時間に目を覚ますのは久しぶりだ。毎朝の日課の瞑想を始める気力も湧かない。自分のいる場所が宿屋の一室だと思い出すのも時間がかかった。さすがに丸五日間、一睡もせずに気を張っていれば疲労が大きいか。
とりあえず顔を洗いに行こう。水道は一階で共用なので、服を着替えてドアを開けたところで彼女と遭遇した。
「おはよう、ペトラ」
「おはよう、やっと起きたのね。そろそろ起きるかと思ってパンを買ってきてあるんだけど、食べる?」
「ありがとう。お腹ぺこぺこだから、さっそくいただくよ」
顔を洗って自分の部屋に戻ってくると、ペトラと兄さんが朝食を用意して待っていてくれた。淹れたばかりの紅茶の湯気がふわりと漂い、窓から差し込む光を浴びながら宙に消える。まだ温かそうなパンの香ばしい匂いが充満し、安い宿屋の一室は喫茶店のような和やかな空気に満ちていた。
「お疲れ様、レン君。正直、レン君がここまでやれるなんて思っていなかったよ」
「酷いな、兄さん。僕を指名しておいて」
「でも、レン君が無事で良かった。今は俺たちに労わせてくれ」
兄さんがコップに紅茶を注いで渡してくれる。一口含むと、胃が空っぽだと実感できるほど体の中を液体が流れていく感覚を味わった。胃の輪郭までくっきり分かるぐらいだ。
「体力自慢のハーフエルフといえど、さすがに疲れたんだね。丸二日も眠っていたよ」
「二日!?」思わずお茶を噴き出しそうになる。「そんなに眠っていたのは初めてだ……そうか、それならこんなに体がダルいのも納得だよ。それじゃあ、捕獲したコカトリスは?」
「既に運搬の準備はできているらしいよ。レン君が指示を出せばすぐに運び出せるはずだ」
駐屯軍とイガグリの協力で捕獲したコカトリスは、ヒューゲルへ運ぶようにその日の内にギルド本部へ伝令を出した。僕が力尽きたのはその直後だろうが、宿に戻った記憶は残っていない。ひょっとしたらその場で倒れて、兄さんかペトラに担がれていったのかもしれない。
二日もあれば輸送班がベルクに到着し、街の外に運び出す準備も終わるだろう。
「そうか。それなら、朝食を食べたら彼らと一緒にヒューゲルに戻ろう」
「もう戻るの?」
「なんだ、ペトラ。まだベルクで遊び足りないのか?」
「わだすは別にいいけど、あんたはずっと働きっぱなしだったじゃない。せめてもう少し休んでいったら?」
「観光に来たわけじゃないからね。それに、休むなら移動中にもうひと眠りすればいい。石化した人たちを一日でも早く元に戻すためには、これ以上ゆっくりしていられないよ」
「レン君は本当に真面目だねえ。でも安心して。そうなると思って、レン君に持たせるお土産は買っておいたから。もちろんイーゲル・騎士ギルドの職員の分も用意してあるよ」
「わだすとウェンの二人で街中回って選んできたのよ」
「……二人はもうちょっと真面目になった方がいいんじゃないかな」
「だって、特にやることなかったんだもん。ねえ?」
「ねー」
僕が寝ずに働いている間に、二人はすっかり仲良くなったようだ。嬉しいけれど複雑な気分……。
先に朝食を終えていた二人は、パンを少しずつかじっている僕に向けて戦利品を見せびらかしていく。ただの観光客同然になった二人の姿を見ていると、僕の今回の仕事ももうすぐ終わるんだなと実感が湧いてくる。その実感はパンやお茶よりも僕の気力を回復させてくれた。
帰りの支度を整え、駐屯地に囚われているコカトリスを引き取りに向かう。石化のブレスを吐くコカトリスを安全に閉じ込めて置ける場所はここしかなかったからだ。閉じ込めておくだけなら、魔物の相手に不慣れな軍人でも難しくない。
敷地内に入ると、見知った顔の輸送班の面々が僕たちを迎えてくれた。ウォリアーとしての一線から退いたものの、サポート役としてギルドの力になってくれるベテランたちだ。既に荷台の上には、足とくちばしを縛られて檻に入れられたコカトリスが載せられている。狡猾なコカトリスたちは観念したのか、体力が尽きているのか、抵抗するそぶりを見せず枯れ木のようにうなだれていた。
「もう行くのか?」
彼らから少し離れた所に立っていたシュラーゲンさんが声をかけてきた。軍服に隠れているが、僕の鼻は彼から漂う血の匂いを感じ取っていた。
コカトリス捕獲作戦では幸い石化の被害者は出なかったものの、数人の怪我人は出てしまった。二日経ったにもかかわらず血の匂いを漂わせているのだから、彼の怪我は決して軽くないはずだ。それを感じさせない堂々とした立ち振る舞いは、指揮官としての矜持なのか。決して腕っぷしだけで成り上がった人物ではない。
「はい。この度はご協力いただきありがとうございました。あなたたちの助けがなければ、一日で決着をつけることはできなかったと思います」
「一日ではないだろう」
言いながら、彼は親指で物見櫓の方を指差す。役目を終えた櫓は、耐久性の面から倒壊の危険があったためすぐに解体されたと聞いている。
「お間は一人で五日もベルクを守っていた。女のような見た目の癖に、大した奴だ」
「種族の違いです。シュラーゲンさんもハーフエルフなら、おそらく二十日間は余裕でしょう」
「抜かせ。一年でも余裕だ」
軽口を叩き合い、そして笑い合った。初めてあいさつに行った時とはまるで違う和やかな雰囲気だ。僕の努力で、彼らの騎士ギルドに対する嫌悪感が緩和されたのなら嬉しいことだ。今後共同作業することがあってもスムーズに進むだろう。僕らを囲む兵士たちの視線も柔らかい。
「薬が調合できたらすぐに持って行かせます。それでは、お元気で」
「ああ、頼んだぞ」
馬車に乗り込み、コカトリスの檻を引き連れて駐屯地を後にする。姿が見えなくなるまで、僕らも彼らも手を振り続けた。そんな僕らの姿を見るベルクの市民たちの表情も明るい。高額の報酬に釣られるように始めた依頼だったが、魔物の恐怖から解放された人々の笑顔は何より嬉しい。
ただ、まだ疲労が残っているようだ。手を振り終え、ベルクを囲む壁を抜けた頃には再びまぶたが重くなってきた。
任務が終わったら兄さんに訊きたいことがあったのに。だけど急ぎではないので、今はそのまま睡魔に身をゆだねることにした。
日が暮れる頃には、コカトリスを魔物の研究機関員に引き渡し、依頼の完了手続きも全て終えた。ちなみに、ペトラと兄さんが見繕ったお土産の数々はギルド職員に好評だった。薬が完成した時に時間があれば、ヒューゲルの特産品を持って僕自ら手渡しに行ってもいいかもしれない。
そんな呑気なことを考えていると、ギルド本部の二階からボスが下りてきた。受付でハンナさんとイレーネさんを口説いている兄さんを見下ろすやいなや舌打ちした。
わざとらしく大きな舌打ちに、兄さんは笑顔を返す。その瞬間、兄さんがコカトリス捕獲依頼を出した時から感じていた違和感が急に質量を持ったようにのしかかった。
「報酬が三倍だなんて美味すぎる話だと思ったんだ。やってくれたな、ウェン・エアハルト」
「そんな顔をしないでください、ディアナさん。これはイーゲル・騎士ギルドの飛躍につながる吉報ではありませんか。それに、レン君が今回の依頼を遂行できたことで、その資格ありと認められたわけですし」
「それを判断するのはよそ者ではなく、こいつを雇っているあたしであるべきなんだがな」
「ギルドヘッドマスターとはいえ、小さなギルドの長では発言力も小さいということです」
二人の間に漂う険悪な雰囲気に誰も口を挟めなかったが、どうやら僕を巡る話らしいので、脂汗をにじませながら口を開いた。
「ボス、それに兄さん。一体何の話を?」
「簡単な話だ。お前の兄貴はあたしたちを騙していたんだ」
「騙したなんて人聞きの悪い。俺はただ、レン君の力を試したかっただけです」
「力を試して、より危険な道へあたしたちを引きずり込んだだろうが」
「いや……まだ何の話かさっぱり」
僕が困惑していると、ボスは階段の手すりを何度か殴りつけ、深呼吸を繰り返してから語り始めた。その時の声は、ボスが亡くなった家族のことを話す時によく似ていた。
「お前たちがベルクに向かった翌日、ファルケ・騎士ギルドのギルドヘッドマスターから連絡が来た。ヒューゲル付近に強力な魔物が飛来する可能性が高いため、共同で任務にあたって欲しいという依頼――いや、命令と言ったほうが正しいか」
「競合ギルド間の共同作戦――前例は少ないですが、ありえる話ですね。多くは政府直々の依頼で、一つのギルドでは対処が困難な場合に実行されますが」
「本来はあたしたちのような弱小ギルドに声がかかることはないが、件の魔物が近くに現れるとなれば、地理に明るく、さらにお前というリサーチャーを抱えるあたしたちに話を持ち掛けられたのは必然かもしれん」
「それで、その魔物というのは?」
ボスは苦虫を?み潰したような顔をしながら、声を絞り出した。
「……白いドラゴン。おそらく、かつてヒューゲルを壊滅に追い込んだ魔物だ」