五話【ファーレンにできること】
「いい風が吹いているな」
地上二十メートルの物見櫓の中から街を見下ろしていると、絶え間なくぬるい風が山から吹き下ろしてくる。さらりと乾いた風は心地良く、全身を薄手の毛布にくるまれているようで眠気を堪えるのが辛い。今頃、ベルクの市民は自分の家で、ペトラと兄さんは宿でぐっすり眠っていることだろう。
物見櫓完成の夜から、僕は最低限の食料と持参した望遠鏡を櫓に持ち込み、夜の街を監視していた。目標のコカトリスは決まった活動時間がないため、深夜に街中に入り込む危険もあるからだ。
コカトリスの厄介な点は石化のブレスだけでなく、そのしたたかさにもある。自分より弱い相手は積極的に襲うが、武装した人間などが迎え撃つ態勢を整えていた場合、決して近づいたりしない。そのため、これ以上の被害を防ぐことは、この街の駐屯軍の力があれば難しくはない。
しかし、今回は既に石化被害が出ているため、治療のために捕獲して血を抜き取らなければならない。しかもコカトリスは運動能力にも優れているため、立体的な山地で捕らえるのは難しい。つまり、街におびき寄せて捕獲するのが、危険だがベストな選択だった。
「だけど、この作戦で被害が増えたら駐屯軍だけでなくイーゲル・騎士ギルドの評判も大きく下がる。これ以上ベルクの物流が滞るのも避けたい。僕が見張るしかないんだ」
街灯以外の照明が消え、寝静まるベルクの街を見下ろす。
路地裏を歩く猫、酒場の前で眠りこける泥酔者、カーテンの隙間から見える子供の寝顔――僕の目には夜の街の子細が見えていた。夜目が利くエルフの長所が僕の体にも生きている。ヒューマンが持ちえない素質だ。元から建てられていた高さ十メートル弱の物見櫓でも兵士が目を光らせているが、山に潜む魔物を見つけることは難しいだろう。
昼間の調査でコカトリスの生息地にも目星がついているので、街に侵入する場合どこから現れるのかも予想できる。その情報は使者を通じてシュラーゲン大尉にも伝えてはいるが……。
「駐屯軍の兵士たちは僕の話なんて聞かないだろう。向こうもこれ以上の被害は防ぎたいから、いざという時は助けてくれるだろうけど、それ以外は僕任せだろうな。ペトラと兄さんにも頼れないし」
これは僕にしかできない仕事だ。それなら、自分のやるべきことを全うするしかない。
眠気覚ましに、苦くて硬い木の実を口の中で転がしながら、風の音と動物の鳴き声しか聞こえない街を夜通し見下ろしていた。
やがて朝を迎えた。漆黒に近い群青の空に光が広がり、鮮やかな瑠璃色に染まる。しばらくすると空は輝くような黄金色に変わり、夜の終わりを告げる。街を挟む山脈がなければ、まぶしい太陽が地平線の彼方から現れる姿を見られただろう。
僕は一睡もしていなかった。規則正しい生活を心掛けているだけに、我慢した眠気が重りのようにまぶたにのしかかる。一番危険な時間帯を過ぎたことで「仮眠をとってもいいかな」と思いそうになる。
それを、僕は自分の頬を思い切りつねって防いだ。被害は昼にも起きている。むしろ、街から出入りする商人たちが襲われないか見張らないといけないため、より広範囲に目を光らせる必要がある。
僕に付き合って眠気を我慢していたイガグリが「キュウ?」と心配そうに目を向けるので、大丈夫だよと頭を撫でる。
「兄さんが『この任務に最適な人材がファーレン』と言っていた理由が分かったよ。ヒューマンより体が強く、魔物の生態に詳しい。コカトリスの動きを止められるイガグリを連れている僕は、おあつらえ向きってぐらい最適だ」
眠気はまだまだ我慢できる。空腹もほとんど感じない。あと一週間程度なら万全の態勢でコカトリスを迎え撃つことができる。
夜からずっと口の中で転がしていた木の実を噛み砕き、袋に入れた次の木の実に手を伸ばした。
五日経った。コカトリスはまだ現れない。
監視を始めてから、僕は一睡もしていなかった。櫓の上に持ってきた水と食料は三日目には底をついたが、監視を続けたままロープを下ろして水と食料を結び付けてもらい、その場で回収していた。
意識はまだはっきりしている。幻聴も幻覚も表れていない。それでも、日が落ち、夜を迎えるたびに眠ってしまいたい衝動に駆られる。
「さあ……今日ももうひと踏ん張りだ……」
望遠鏡で山肌を見る。ストネの草は、あの調査の日以来全く減っていない。僕の予想では、そろそろコカトリスが食事のために山を下り、邪魔な人間たちを石化させて縄張りから遠ざけようとする頃だろう。
商人の街というだけあり、ベルクの夜はヒューゲルよりも明るく、夜更かしだ。それだけに、建物から照明が一つ、また一つと消えていく時の寂しさはひとしおに感じる。
僕に付き合ってくれているイガグリも、今日ばかりは自分が夜行性ということも忘れて眠りこけている。そのまんまるな姿に癒されつつ、櫓の壁に両肘をついた。
ギシッ――ギシッ――
すると、下から音が聞こえた。徐々に近づいてくる。誰かが梯子を上がってきている。
誰だ? こぶしを握って構えながら、梯子をにらむ。
現れたのは、この街ではおそらく唯一の赤髪。前髪を三つ編みにした特徴的な髪型。
「ペトラ?」
「うん! いよっと」
ペトラは背負っていた風呂敷をこちらに放り投げ、自分もくるりと夜空に宙返りして着地する。街で買ったのか、細かい刺繍が施された丈の長いチュニックが風にひらめき、ペトラも女の子なんだなと改めて実感した。
「お腹空いてると思って色々持ってきたわよ! 肉とか、ミルクとか、干し肉とか、燻製肉とか」
「肉ばっかりじゃないか……」
彼女に女の子らしさを期待した僕が馬鹿だった。だけど、ペトラはどこに行ってもペトラで、安心感に疲労を忘れてしまった。
「ありがとう。せっかくだからいただくよ。まだ続くかもしれないし、精をつけないとね」
「そうよ。わだすに感謝しながら食べなさい!」
ミルクがなみなみ注がれたコップと干し肉を受け取り、山肌を見ながら口に運ぶ。干し肉なんてめったに食べない上に、しばらく木の実と水しか口に入れなかったものだから、強烈な香辛料の香りと塩気にくらくらする。強い酒を飲んだみたいな感覚だ。
「だけど、いいのか? 僕の手助けをするのは禁止されているだろ?」
「ちゃんとウェンに相談してきたわよ。差し入れぐらいはセーフだって言ってた」
「そうか。わざわざありがとう」
ペトラもミルクと干し肉を手に、僕の横に立つ。ぬるい風が彼女の髪を揺らすと、ふわりと花のような香りが漂う。風呂上がりだろうか。よく見れば、彼女の肌も髪も艶めいて見える。
「それで、調子はどうなの? 魔物はそろそろ出てきそう?」
「予感だけど、いつ出てきてもおかしくないんじゃないかな。過去のデータを見ても、週に数回は目撃情報が出ているからね。駐屯軍の兵士たちにも、一時的に警備を街中のみに範囲を縮小してもらっているし。ただ……」
「どうしたの?」
「よっぽど騎士ギルドが嫌いなんだね。シュラーゲン大尉も部下たちも、僕の話なんてろくに聞いてくれない。三日目までは、櫓の下から石を投げられたり、罵声を浴びたりしたよ。『魔物をだしにした守銭奴!』とかね」
「何よそれ! 元はと言えば、軍が役立たずだったせいじゃない!」
「いや、いいんだ。思えば、兄さんは『騎士ギルドは他人からどう見られているか』を教えたくて、この任務を持ってきたのかもしれない。実際、僕もショックだったけど、早く知られて良かったよ」
なだめてもペトラの怒りはなかなか収まらない。だけど、僕の怒りを代弁してくれているようで嬉しくもある。
「心配なのは、いざ魔物が出てきた時、兵士たちがきちんと協力してくれるかどうかだけど……」
「その辺りは、たぶん大丈夫じゃないかしら」
「え? そうかな」
「たぶんよ、たぶん。あんたはずっとここにいたから分からないでしょうけど」
「……よく分からないけど、ありがとう。励ましてくれて。実は結構しんどかったんだ」
「別にいいわよ。わだすだって、あの生意気な男どもに吠え面かかせてやりたいって思ってるんだから」
そう言ってくつくつと笑うペトラを見ていると、肉やミルクを口にした時よりも力が湧いてくる。人々が寝静まる中、誰よりも星空に近い場所で男女が二人きり。出来過ぎだと思えるほどロマンチックな状況だが、彼女に対しては女の子というより相棒という表現をしたくなる。そんなことを正直に言ったら、彼女は怒るだろうか?
「それにしても……ここ、何か臭くない?」
「ああ。それはきっと、あれだよ」櫓の隅に置かれた箱を指す。「トイレのたびに降りるわけにいかないから、箱の中に紙を敷いて簡易トイレにしているんだ。そう言われると、すっかり臭いに慣れてたなあ」
「うげっ!? 早く言いなさいよ!」
「仕方ないだろ? それに、僕の排せつ物はそれほど臭わないし、壁で遮られてるから外から見られる心配もないし」
「そういう問題じゃなくてねえっ!」
ペトラがこぶしを振り上げた瞬間、視界の端にうっすら白いものが見えた。
「ちょっと待った!」
彼女を手で制し、望遠鏡で左前方の山肌を見る。山の斜面から麓に向かって、体長二メートルの白い塊が駆け下りていく。一見巨大なニワトリだが、その尾は爬虫類のように艶めく光沢を放つ鱗に覆われている。コカトリスだ。
「いつ出てきてもおかしくないとは言ったけど、まさかこのタイミングで出てくるとはね」
大きく息を吸い、この時のために借りていた角笛に思い切り息を吹き込む。ブオォォーと街中に低音を響かせると、その合図を受け取った兵士たちが松明に火を灯して応える。
「さあ、今夜で片をつけるぞ!」