三話【冒涜する夜の主】
「オ……オォ……」
まるで腐り果てた腕そのものがうめき声を上げているかのように、土の中から苦し気な声が聞こえる。その声が次第に大きくなっていることに気付いた。
囲まれている。いや、霊園中の地下から発せられている。一本、また一本……腐敗した腕や、肉が分解されて骨だけになった腕が次々に生えてくる。
「ファーレンさん、何なのこれ!?」ハンナさんが僕の腕にしがみつく。
「これは、ゾンビとスケルトンです」僕は口元を押さえながら答える。「簡単に言えば、動く死体がゾンビで、動く骸骨がスケルトンです」
血液恐怖症の僕にとってグロテスクなゾンビは天敵だが、そうでなければこの二種類の魔物は見た目ほど大した脅威ではない。肉体をほとんど失っている彼らは動きが緩慢で力も弱いからだ。
僕らを驚愕させた点は、魔物の強さとは別にある。
一つは数だ。この霊園には何千、何万人の死体が埋葬されているか分からない。この場所から視認できる魔物の数は十体程度だが、何体まで増加するか見当がつかない。
もう一つは時間帯だ。ゾンビとスケルトンが生まれるには、死体に霊が取り憑く必要がある。この発生数からして霊を操る何らかの魔物が存在する可能性が高いが、それらの魔物は決まって夜に活動する。雲一つ無い青天の日中に現れるわけがないのだ。
そもそも、このような事態が発生しないように、霊園には定期的に教会で祈りを捧げられた聖水が撒かれている。ムラがあったとしても、これほど多くの魔物が発生することなどありえない。
なぜだ? なぜこうも発生するはずのない魔物が発生している?
「ファーレン君、考えるのは後だ!」ゴルドさんに声を掛けられ我に返る。「今は霊園を脱出することが先決だ。俺たちが殿を務めるから、君は皆を連れて逃げてくれ」
ゴールドランクに上り詰めた歴戦のウォリアーは、この異常事態でも決断が早い。護身用か、ポケットに入れていたナックルダスターを手に装着する。打撃による攻撃力を上げると共に、拳を保護することができる小型の武器だ。
「せぇいっ!」
「ふんっ!」
二人の拳がスケルトンを砕き、丸太のような脚が這い出すゾンビを蹴り飛ばす。その姿はウォリアーと言うより格闘家と呼ぶにふさわしい。
「すみません、殿よろしくお願いします!」腰が抜けている数名のギルド職員を鼓舞しながら立たせる。「速やかに霊園を脱出し、救援のウォリアーを呼びます! 決して僕から離れないようについてきてください!」
僕、職員、ボス、ウォリアーの順に並び、霊園の出入り口に向かって駆け出す。
想像以上に魔物の増加が速い。心なしか、出入り口に近づくにつれて密度が増しているように感じる。やはり知性のある魔物が糸を引いているのだろうか。
「うわあぁっ! 何だ、こいつらはっ!?」
誰かの悲鳴が聞こえる。
声の方を向けば、他の市民たちがゾンビに襲われていた。少ないとはいえ、広大な霊園には墓参に来る人たちが散見される。
「どっちでもいい! 助けに行くんだ!」
ボスが二人のウォリアーに指示を出した。
「し、しかしお嬢! それではこちらの守りが!」
「あたしたちの守りは一人で十分だ! それより、目の前で襲われている市民がいるのに、あたしたち全員が尻尾を巻いて逃げるつもりか!」
ボスの言葉が鋭く突き刺さる。ついさっき、墓石の前で手を合わせた時に、僕らは「人々を魔物から守る」と改めて誓ったはずだ。
この窮地に、戦いたくても戦えない自分に虫唾が走る。
「……失礼しました。お嬢とご家族の前で、ウォリアーとしての矜持を失うところでした」
「分かったらさっさと行け!」
「承知!」
四十代とは思えない、細くしなやかな肉体のキームさんが素早く列を離れ、市民を助けに行く。
彼の無事を祈りながら、僕は視線を巡らせた。一瞬の景色の中から、魔物が少なく、かつ最短で脱出できるルートを選択する。
右にゾンビ二体、左にスケルトン一体――そこの墓石の陰にゾンビが一体――ここをまっすぐ進んで、その墓石で左に曲がる――みんなはついてきているな――このペースでみんなの体力は持つか――?
地中から脚をつかもうとする魔物や、みんなの体力にも気を配りながら進む。危機の最中の情報処理に頭の中が焼き切れそうだ。
しかし、少しでも立ち止まれば途端に魔物に囲まれてしまう。そうなればウォリアー一人では太刀打ちできない。
「持ちこたえろ、ファーレン! もうすぐだ!」
朦朧とし始めた意識がボスの声で明瞭になる。
霊園の門まであと五十メートルほど。正面に魔物はいない。まっすぐ全速力で脱出し、すぐに動けるウォリアーを集めなければ!
「待て、ファーレン!」
駆け出そうとした瞬間、ボスに襟首をつかまれて動きを止められる。
フワッ
その直後、目の前に半透明の人間が落ちてきた。後ろで誰かが悲鳴を上げる。
違う、これは人間じゃない。幽霊だ。落ちて来たのではなく下りてきただけで、ゴーストは僕らの目の前で振り子のようにゆらゆら揺れている。
「上を見ろ!」
僕らが頭上を見ると、そこには数十体のゴーストが浮かんでいた。まるで海の中を漂うクラゲのように、青空の中をふわふわと優雅に浮かんでいる。
そのゴーストの群れの中心に、黒い布切れのような物が浮かんでいた。黒い物体はゆっくりと下降し、それに伴って無軌道に浮かんでいたゴーストが付き従うように周囲を渦巻き始める。
目線の高さにまで降りてきたそれを見て、僕はこの異常事態を引き起こした魔物の正体を知って戦慄した。黒いローブに身を包む骸骨は青白い炎を内包し、落ちくぼんだ眼孔からは瞳のように小さな炎が揺らめきながら僕らを見定める。
「これがリッチか……」
リッチとは、いわば自ら死体となった狂気の魔術師。魔術の探求のため、肉体を精神を縛り付ける器に仕立てた永遠の探求者。そう言えば聞こえは悪くないかもしれないが、遅かれ早かれ魔物に変貌してしまう。歴史上例外はない。
リッチはゾンビやスケルトンとは格が違う。高度な魔術を使ううえに、骸骨をいくら傷つけてもダメージを与えることはできない。専用の装備がなければゴールドランクのウォリアーですら歯が立たない相手だ。
「そ、そんな……」
ボスが今までに聞いたことがないような悲痛な声を上げる。
気持ちは分かる。こんな真昼間に、「夜の主」とまで称される上位の魔物と遭遇するなんて非常識にもほどがある。
しかし、それが勘違いだとすぐに気づいた。ボスの目はリッチではなく、浮遊するゴーストを見ていた。
「ロベルト……アーノルド……!」
僕も写真を見せてもらったことがあるから覚えている。
リッチの隣にいる、線の細い男性とまつ毛の長い赤ん坊のゴースト。ボスの夫と息子だ。