二話【ゴブリンの痕跡探し】
街の西側には数ヘクタールに及ぶ広大な畑が広がっている。ヒューゲルの領主が所有する農地で、毎年一定の使用料を支払うことでその一部を自由に使うことが出来る。
市民の胃袋を満たす農地は街の生命線であり、それを荒らす害獣や魔物を野放しにすることは出来ない。今回〈イーゲル・騎士ギルド〉に依頼に来た男も、西の農地を耕す市民たちの代表として依頼に来たわけだ。
ゴブリンが現れた場所は、畑の中でも西の森にほど近い場所。そのポイントに足を踏み入れれば、春の日差しを受けて空に伸びていくはずの小さな芽がいくつか踏み荒らされている。
その場にしゃがめば、子供のような小さな足跡がいくつも残されているのを見つけた。肩に乗っていたイガグリが土の上に降り立ち、クンクンと鼻をひくつかせている。
「ああ、分かってる。人間の子供の足跡なら、街から畑に向かって素足か靴の足跡が残っているはずだ。だけど、この足跡は森に続いている。何より土踏まずが大きく細長い。未知の魔物でなければ、十中八九ゴブリンだな」
ペンと依頼書のメモを取り出すと、「一匹」の記述にバツ印をつける。
「危惧していた通りだ。わずかな違いだけど、数種類の足跡が確認できる。リーダー格の大きな足跡が見つからないと言うことは、三匹程度で下調べに来たんだろうな。このまま放置すれば、近い内に十匹以上の群れでやって来る。畑が踏み荒らされるだけならまだしも、街までなだれ込んでくる可能性も高いぞ」
森の方を睨む。日差しを浴びる森は一見のどかだが、その奥には僕たちの生活を脅かす魔物が潜んでいる。
ゴブリンの足跡が残された土に手を置き、目を閉じる。
「豊かなる土よ――萌える草木よ――この土地を見守る精霊たちよ――」
手のひらから伝わる地面の熱が徐々に増していく。手のひらから根が伸び、体と地面が接続される感覚が全身に広がっていく。
〈交信魔術〉それは自然と共に生きる種族であるエルフだけが行使できる特殊な魔術。自然と交わることで情報を交換するこの術は、調査士である僕にとっての生命線と言っても過言ではない。
もっとも、僕はヒューマンの父親とエルフの母親との間に生まれた〈ハーフエルフ〉。純粋なエルフほど強力な術は使えないが、足りない分は知識と経験で補える。
「我らに恵みをもたらす大地よ――この地に踏み込んだ魔の者の痕跡をつまびらかにしたまえ――」
全身に満ちた魔力が水のように土へと染み込んでいく感覚。加減を誤れば魔力を吸い取られ過ぎて立ち上がることすら困難になるリスクがあり、小さい頃は実際にへたり込んでいた。
僕の魔力を吸い取ると、時間と共にあいまいになっていた足跡がくっきりとした輪郭を取り戻す。森に続く地面にもボコボコと強調された足跡がくっきり刻まれ、下草はたった今踏まれたかのように折れ曲がる。
過去の痕跡を再現する交信魔術。それが僕にとって最大の武器だ。
「さて、ここからが本番だな」
イガグリを肩に乗せ、再現された痕跡を追って森に踏み込む。
ゴブリンの足跡を見逃さないよう、時折足元を見ながら森の奥へと踏み込む。森の中には野生動物の痕跡が多いため、ここから先は交信魔術よりも知識と五感が頼りになる。
エルフの血が半分流れているおかげか、街中にいるよりも感覚が研ぎ澄まされていく。その万能感を上手く操りながら、今回の依頼に必要な情報を随時メモしていく。
「ゴブリンの目撃現場から西に百メートル直進――沢の上流に向かって三匹の足跡が続く――足元は少しぬかるんでいるため、特に重装のウォリアーは要注意――」
森の中はひんやりと涼しいが、交信魔術を使った影響もあり体力の消耗が激しい。手ごろな岩に座って汗をぬぐい、持参した水筒のお茶を飲む。わずかな疲労でも感覚を鈍らせる原因となるため、ペース配分を怠ることは出来ない。
「あれは――」
飛び石のように沢の流れを遮っている岩の上に、濡れたゴブリンの足跡が残されていた。交信魔術を使っていなければ、どれだけ目を凝らしても見つからなかった痕跡だ。
その足跡の前にしゃがむと、あまり気は進まないのだが、舐めてみた。シャリシャリとした砂の不快感に混じって、ほのかな塩味を感じる。
「この塩分からすると、足が軽く汗ばんでいる程度――と言うことは、地形の影響を鑑みて三百メートルくらい先にゴブリンの巣があるな」
足元に目を凝らせば、沢に沿う足跡と、沢から離れる足跡に分かれている。足跡の数を合わせると六匹分。ゴブリンのボスは約半数を防衛のために残す習性があるため、総数は十二匹程度と思われる。
「フシュッ!」
肩に乗っているイガグリが強く鼻を鳴らし、全身の針を逆立てた。
「来たか!?」
イガグリは僕以上に危険に敏感な妖精だ。危険が近づくと針を逆立てるので感知器になる。
急いで岩陰に身を隠し、交信魔術の要領で気配を消す。「ファーレンと言う名のハーフエルフ」から「岩の一部」に擬態することで、無警戒の相手なら多少視界に入っても誤魔化しが利く。
沢の上流から現れたのは五匹のゴブリンと、二倍の体躯を持つホブゴブリンだった。ホブゴブリンは通常種よりも筋力・知力共に高く、それでいて神経質だ。僕がまっすぐ巣に迫ってくる気配を敏感に感じ取ったのかもしれない。
ゴブリンたちはしばらく周囲を警戒すると、何も無いと判断したのか、頭を掻きながら上流へと帰っていった。
「……ふう、ここらが潮時だな。ゴブリンの数と巣の位置もだいたい分かったし、依頼人に調査結果を報告しに行くか」
調査が終わった後は、依頼人に調査結果を報告し、依頼内容の更新の手続きを進める。勝手に更新すれば当初の見積もり額と大きく異なる額を請求することになるため、トラブルの原因になるからだ。
もちろん、調査結果を聞いて依頼を取り下げることも出来るが、その後悲惨な結果になることは目に見えているので絶対におすすめしない。そのあたりの交渉術も地味に求められる。
「ちょうど昼ご飯の時間だな。早く終わって良かったよ」
「フシュウ」
「分かってるよ。後で活きの良いミルワーム買ってやるからな」
帰り道も油断してはいけない。見回りから戻ってきたゴブリンと鉢合わせする可能性はあるし、大きな痕跡を残せば警戒心を煽ることになってしまう。その結果巣を移されたりすれば今回の調査が無駄になってしまう。
ゴブリンは視力こそ人並みだが、大きな鼻と耳が示す通り嗅覚と聴覚に優れる。嗅覚対策としてギルドを出る際にシャワーを浴びて体臭を消し、この森の草花のエッセンスを混ぜた香水をつけてきた。あとは足音と足跡だけ気を付ければ問題無いだろう。
しばらく歩くと森の切れ間が見えてきた。ずっと張りつめていた気が緩む――その時だった。
「キャァッ!」
森の外から女性の悲鳴が聞こえ、イガグリが針を立てて丸くなった。彼にとって最大の警戒態勢だ。
それに、今の声――まさか!
肩のイガグリを落とさないよう胸ポケットに入れ、悲鳴の方向へ走り出す。森と畑の境目で、一人の女性が棍棒を構えるゴブリンを前に腰を抜かしていた。
走ってきた勢いのまま間に割り込むと、ゴブリンは後ろに跳んで再び構える。くすんだ緑色の肌が赤黒く染まっていくのは、ゴブリンが戦闘態勢に入ったことを意味する。
「大丈夫ですか、ハンナさん!」