~麦の番人~ Ⅱ
戦闘描写は暫くありませんが、世界観と主人公たちのちょっとした謎について楽しんでお考え下さい。
少年に促され、案内された場所は待合室のようだった。用意された椅子にいまだ眠っている連れを座らせ、背嚢《はいのう》を抱えて自分も座り、部屋を見渡す。
やはり、屋敷の見た目に相応しい内装が散りばめられており、床に敷かれた見慣れない異国の絨毯は不思議な模様で目を惹かれる。見事な装飾と着色がされた大皿はさぞかし高名な職人が作った作品であることが窺えた。壁にかかったタペストリーには立派な体躯をした白馬—、いや、一本角があるためおそらく様々な物語で登場する神聖な生き物とされる一角獣だろう。そして、壁際の暖炉の炎がパチパチと音を立て、冷えた体に熱風が気持ちよく当たる。
それはさておき、ここは明らかに高位貴族の邸宅だ。一泊の恩義の代わりに何を要求されるのか分からない。例え人が好い貴族の子息や、客人だ!と喜んで寝室の用意をする使用人の老婆であったとしてもだ。
そこでガチャっと扉が音を立てたため、意識が音の方へ向く。
扉の前に立っていたのは先程の少年と老婆だった。
失礼にならないように立ち上がる。
「ま、待たせてしまってすいません。ら、来客は久し振りなもので。あ、あと、申し遅れました。ボ、ボクはカルデア子爵家のアドット・カルデア。そ、そして使用人のモイナです」
名を呼ばれた老婆が恭しく頭を下げる。
この屋敷の家具などから、なかなかの高位貴族と思ったが、子爵と聞いて驚いた。子爵は五等爵の第四位であり、多くの財を持つ者はほぼいないと言っていいくらいだからだ。
大規模の鉱山などの余程の産業が興らない限りは…。
「ど、どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
表情を自然に笑顔へ戻し、何でもないように取り繕ってアドットが取り入る隙をなくす。
ここで、ある違和感に気づいた。客人を招く際には大抵当主が面会するのだが、当主らしき姿をした者はいない。病に倒れている、暗殺された、もしくはこの少年が…はないと思うが、そのような何か言えない事情があるのかもしれない。そして利用できる情報があれば、身を守るために必要になるので差しさわりのないように聞いてみる。
「先程は失礼なものの言い方をして申し訳ない。こちらこそ、初めて出会った者の家に泊めてもらうという運命神の導きに感動して私も自己紹介をする機会を逃していたのだ。私はジルン。そして私の隣で猫のように身を丸くしているのがジーナ。つかぬことを申すが、貴殿がご子息であるとお見受けしたのだが、当主の方はご在宅ではないのだろうか?ぜひお礼を申し上げたい」
アドットの視線がジルンの顔と椅子上の時折モゾモゾと動く外套を行き来する。
「え、えっと、お父様は収穫祭で必要な祭物を拝借してくるために神殿に行っているんです。しゅ、収穫祭が始まる前には帰ってきます。あっ、あとアドットで構いません、
言葉遣いも丁寧じゃなくて大丈夫です」
そして少し照れたように体をもじもじと動かした。
「それならば、婦人は?」
ジルンは何気なく質問をした。
しかし、返って来たのは返答ではなく、沈黙であった。
俯いた顔は半分が影となっていたが、見えるもう半分の表情からは今まで笑顔だったアドットの顔と打って変わって青白くなり、痛々しいものが伝わってくる。気づけば老婆の使用人モイナの雰囲気も沈んでいる。
ジルンは気づいた。気づくまで分からない、踏み込んではいけない薄氷を踏みぬいてしまったのだと。さらに、自分は放浪する旅人であり、余所者である。それがなおの事たちが悪いと気づく。なぜなら、こちらは一定の場所に逗留しないため手に入る情報は地元の住民と比べると圧倒的に少ない、つまり、地元の人が知っていることを私たちは知らない。
それは、アドットとモイナも分かっているはずで、ジルンのことを怒れずに過去の出来事を悲しむことしかできないのだ。知らなかったとはいえ、この状況を作り出したのはジルン自身。
ジルンは少し温まった体に流れるヒヤッとした冷や汗を感じて、貴族という肩書だけで警戒していた心を急いで収め、雰囲気を変えようとしたとき、
「ジルン様、良いのです。貴方様は旅人であり、当家の過去の悲劇などご存じなくても仕方のないことですから…」老婆の使用人は冷淡にも聞こえる声で答えた。
「いや!これは謝らなければならないことだ!知らなかったとはいえ失礼な行為をしたことをお詫びする!」と、思わずジルンは焦って普段の礼とは違い、王国貴族に伝わる最上位の礼を取り、謝罪をした。
「いえ、お気になさらないでください。時間も遅うございます、寝台をご用意しましたので、今夜はお休みください」老婆の使用人はこの雰囲気を変えるためにとジルンを急かす。
一方、顔を下に向けたジルンはさらに焦っていた。最上位の礼は王国貴族でも高位貴族が相手だったりしたときや、最上級の気持ちを表すためのものであり、知っているのは貴族だけだ。
自分が貴族や貴族に準ずる者―実際には違うのだが―だと勘繰られてしまう可能性があったからだ。暖炉の炎が横顔を照らすのを感じながら、額から落ちる一筋の雫や取り繕った表情がまずいといった気持ちを表すものに変わっていくのを感じる。下を向きながら見えない相手の気を探ると、今の礼に対して気にはしてはいない…ようではあった。
相手側の繊細な部分にずけずけと踏み込んでしまったのだからこちらも一つ、弱みを見せるべき、いや、連れのためにも温かい寝台で眠らせたかったのもあると、ジルンは心を誤魔化して落ち着けた。
また、ジーナの容姿は中々隠し通せるものでも無いので打ち明けたほうが気持ちが楽だ——、そうジルンは先程の二人のお人好しな性格や、今の反応を見て裏表のない良い人たちだと信じて口を開いた。
「厚かましいことを承知してお願いしたいことがあるのです」
今までとは違う、引き込まれるような語りに目の前の二人の視線がジルンに向く。
「実は私の連れのジーナは、外では目立ってしまう容姿をしていまして、昔から他の人より疎まれ、酷い思いをしてきたのです…。もし、この子の容姿を見て、それでも泊めていただけるならば、この子にどうか、どうか…、優しく接して頂けないだろうか」
ジルンはその言葉とともにジーナの頭部の外套をゆっくりと剥いだ。
そこに圧倒的存在を放つ少女が顕われた。
アドットとモイナの眼が大きく見開かれる。外套から出てきた少女がこの世の者とは思えない容姿をしていたからだ。
それは仕方のないことであり、この世界で言い伝えられている七柱の神々の中でも美を象徴する三姉妹の女神たちのように神聖ささえ感じる美しさである。見慣れているジルンさえも綺麗だと思わずにいられない。
しかし、二人の眼が見開かれた理由はそれだけではないだろう。
応接室は先程の沈鬱な空気とは変わり、驚きと困惑の沈黙に満ちた。
「その子、いや、その方は…」老婆の使用人は仕える者に紹介されたときより、片膝をついて恭しく頭を下げた。最初に気づいたのはモイラであったようで、遅れてアドットも頭を同じように片膝をついた。
「いや、この子は違うのだ。勘違いされるのも無理は無い。この容姿をしているものは例外なく、エイシュヌ正教で『聖女』という天から遣わされた存在だ。しかし、この子―いや、ジーナは聖女であった事実など一度もない。聖女の候補ではあったのだ―エイシュヌ教を信奉する者に保護されていればな…」
バチリ!と暖炉の中に置かれた太い木が割れ、火花が飛び散る。
ジルンの優しかった声は喋るたびに怒りが静かにこもっていくようであり、過去の忌々しい出来事を思い出しているようでもあり、また、ジルンの左の握り拳は勢い良く燃える炎とは反対に影を濃くなっていた―。
***
エイシュヌ正教。この世界で最大の宗教組織であり、大国と同等又はそれ以上の絶大な権力を誇る。その起源は人間が生まれた時と同じだと提唱する学者もいれば、古代帝国エンシェルナードの成立前、または成立後とも言われている。
創造神を筆頭に、双子の兄で太陽と同義の生命神、妹で月と同義の冥府神、三姉妹の長女の豊穣神、次女の心律神、三女の戦神、男神の智慧神、運命神の八柱を崇めている。
しかし、唯一創造神は性が決められておらず、その容姿の詳細が伝えられていない。そのため像が無く、創造神は神々を統べる超越した存在であり、神の枠組みに囚われない存在として創造神を創造主と呼び、その他の神々を七柱の神々と呼ぶ。
エイシュヌ教国の聖都リィエンティアの中央には教皇庁の役割を果たす大神神殿があり、信徒たちは一日に三度、屋外から神殿内の聖域に向かって礼拝を行わければならない。
その信徒たちを導く教皇は、神の声を聞くことができ、御告げを伝える義務があるという。そして、その御告げより聖女を選定する。聖女は天界に住まうとされる神々に仕える天使の生まれ変わりとされていて神々しい姿と高い魔力を持っている。
聖女が使う高位の光魔法の治癒魔法は千切れた手足を繋げ、不治の病すら治すことができ、各国を訪問し、救いを求める者たちへ施しを行う。
正教というのは、以前にエイシュヌ教内で分裂した名残であり、今も抗争が続いているが、神々はこの対立を知っているのだろうか…。
『人間種の社会』~フンヴォ・ベッケル~
基本宗教ってキライって思う筆者。