暗闇の記憶
ちょっと描写きついかもしれません。読み飛ばしていただいて構いません。
目を覚ましたのはどれくらいぶりだろうか―霧のようにもやもやとした思考の中、意識を失っている間に見ていた夢を思い出していた。
わたしは光の中にいたはずだった―
◇◇◇
わたしはと山間にぽつんと建つ家で生まれ、過ごした。
貧しい農家の家系でお父さんは、わたしが頭の上まで昇ったお日様に気づいて起きた時には畑仕事に行っていて、お日様が沈み始めた頃に、土と汗が混じった匂いと採って来たばかりの青々とした野菜と共に帰って来ていた。
そんなお父さんを見送り、朝から晩まで片時も私から目を離さずに居てくれたお母さんは、布を切ったり、繋いだりして服を作ったり、お父さんが持ち帰って来た食べ物を料理してくれた。
そんなお父さんとお母さんが大好きであり、わたしの全てだった。
◇◇◇
あるとき、お父さんの片手にはよく空を飛んでいる鳥が両足を縄で縛られ、逆さに吊られていた。初めて、そんな恰好をした鳥を見た。火で焼いて食べた鳥は、お父さんの持ってくるどんな野菜より噛みづらく、お母さんの作るどんなスープよりも、美味しい汁が口の中に広がった。鳥はこんなに美味しい汁を体に持っているのだと知った。
同時に、疑問に思ったことがあった。どうやってこの鳥を捕ったのだろうと。でも、すぐに分からなくなって忘れた。
お日様が昇っているとき、お母さんはなぜかわたしを外に出してもらえなかった。
でも、そのわけを聞くと少し困ったような顔をして、“あなたは可愛すぎるのよ、私の子、○○○。お月様―冥府神―はそんなあなたをたくさん愛しているせいで、お日様―生命神―は羨ましくなっちゃったのよ。お月様とお日様は兄妹だから、お兄ちゃんは妹に愛して欲しくて、あなたをお日様の下を歩けないように悪戯しちゃったのよ”と、笑った。
“わたし、お日様に嫌われてるの?いやだ!お日様の下を歩きたいのに…”
“いつか、許してくれるわ、○○○。きっと―いいえ、必ずよ”そう言って、ほんのり温かい母に抱かれた…。
お月様が昇っているときは、お空いっぱいにきらきら光る宝石―お母さんに教えてもらった―を飽きることなく見続けた。どんな宝石よりも大きくて輝いているお月様は、お日様が雲に隠れるよりも自然に、元々そこに月なんか無かったかのように姿を消したり、痩せて虫に食われたように穴が開いたようになったり、何日か経つと、また丸くなったりしてそれを繰り返していることが―数えながらたくさん見続けて―わかった。
◇◇◇
あるとき、そのお月様は初めて見る色をしていた。赤かった。何度も何度も見た。
わたしが転んで泣きわめいたとき、切れた所から出てくる赤い血が肌に赤い線をひいたときのように。―お月様がけがをした!イタイイタイってあまりの痛さにわたしをじゃますることなんてできっこないわ!”―そう、思わずにはいられなかった。
次の朝、お日様の光が漏れた木の扉の前にいた。お母さんはまだ寝ていて、今までこんなことは無かった。お日様がわたしを呼んでいるようだった―勢い良く扉を開けると、お月様の柔らかく優しい光が見せた世界とはまるで違う、強くも優しい光がわたしと世界を照らした。
わたしは細い手足をこれでもかと大きく動かして山を下った。
暗くてよく見えなかった草木の生い茂った山道の隅々、地面を這う小さな六本足の生き物。澄んだ川の中にいる魚がお尻を動かし、その近くの岩の上にいるゲコゲコと鳴く気持ち悪い生き物。上を見れば青が、そして、眩しすぎるお日様が。見えづらかったが何もかもが輝いていた。わたしは光の中に確かにいた。
暫くすると、体中の肌がひりひりする感覚に襲われた。手足を見ると、肌は赤く染まって一部は膨れ上がって自分の体とは思えなかった。
怖くなって、来た道を戻ろうとすると横の草むらからガサッという音がした。
音がした方を向くと、人が二人いた。わたしと同じような背丈をしていて、お父さんとお母さんよりも明らかに若かった。初めて見る両親以外の姿に驚くも、声を掛けようとすると―“バっ、バケモノー!!?”と、大声を上げて一人が逃げ出し、もう一人も一瞬こちらを見て、それでも怯えた様子で逃げて行った。
『バケモノ』という言葉の意味が分からなかったが、二人がわたしを見て、怖がっていたことだけが分かった。
再び肌がひりひりと痛む。それだけの痛みかは分からなかったが、とにかく家に帰りたくなって、来た道を一生懸命に帰った。
帰って来ると、お母さんは裸足のまま家の前にいて、青ざめた顔で“○○○~!どこにいるの!?○○○~!” と、わたしの名前を叫んでいた。
わたしを見つけたお母さんは、叫ぶのをやめ、今までで見たこともないような速さで近づいて来て―わたしの右側の顔に衝撃が走った。
あまりの出来事に驚き、お母さんに平手で叩かれたことに気づくまで少し時間がかかった。
なぜなら、お母さんは優しいからだ。わたしの知る限り、お母さんは怒ったことが無かった。叩いたことなど尚更だ。呆然と立つわたしはなんで、と考える前に悟った。わたしは悪いことをしてしまったのだと。
たくさんの雨粒が屋根を伝って途切れることなく落ちるように、赤く腫れているだろう頬を濡らした。お母さんは―わたしの心情を察したのか―わたしの涙を掬うように優しく包み込み、“居なくなってしまったと思ったのよ。ちゃんと見ていてあげられなくてごめんね。お願いだから、離れないでね―”と次々に言うと、俯いたまましばらく動かなくなってしまった。
その様子を見たわたしは経験したことのないような溢れんばかりの感情の波に戸惑いながら、せき止めようと思っていても身体の奥底から流れてくるものに耐えきれず、赤くなり始めた空に泣き声を響かせた。
泣く理由は違っても、二人の間には確かに通じるものがあった。
泣き声を聞いたお父さんが土の臭いさえ分からないほど汗を掻きながら帰って来るまで、火傷した肌の痒さや急に動かし過ぎた間接の痛みを忘れて、両頬に感じる温もり以外の全てが感じなくなるくらい泣いた―
◇◇◇
次の日からわたしは昼夜を問わず、外に出ることができなくなった。悪いことをしたから当たり前だと分かっていても、お日様の光が満ちる世界を知ってしまっては、この居ても立っても居られない気持ちを抑えることが難しくなった。しかし、昨日泣いたことを思い出すと、お父さんとお母さんさえ居てくれればいいと思った。そして、同時に思った。―肌が火傷をしたときのように赤くなり膨れ上がったのは、お月様がわたしを許していないからなの?―と。私を後ろから抱き着いている格好になっているお母さんに聞いてみた。
―まだ、許してもらっていないのよ、きっと。でもね、神様の御心はこの黒くて小さい木の実とは比べられないほど白くて大きいの。絶対、許してもらえるわ―
そう言って、食べられそうにない木の実をポイと捨て、私の髪を沿うように撫でた。
◇◇◇
すっかり火傷の痕も無くなった秋の日、お母さんはわたしの容態と反省した様子にすっかり安心して “半刻ばかり出てくるわ” と言って、家を出て行った。
その隙にと言わんばかりの都合のよさに、わたしは外に出たい欲求に負けて外に出た。それでも、反省はしていた。家の屋根で光が入らない地面に座って外の世界を眺めることにした。少し寒かったが、夏とは違った静けさと赤や黄色の葉が見ることができた。
しばらく風景を眺め続けると、森の奥から誰かが見ているような感覚に襲われた。視線を感じる方へ体を向けると、ガサっと草を揺らしながら何かの影が森の奥を走り去っていった。不気味に思い、逃げるように家に入って扉を閉めた。しかし、お母さんが帰って来て“ただいま、良い子にしてた?”いつも通りに言うのだから、気のせいだとすっかり安心して忘れてしまったのだ。そして、この後に起こる出来事などこの時のわたしが気づくはずもなかった―。
***
気が付けば、そこは暗闇だった。
眼を開けば、ぼやける視界には何も映らず、埃だらけの床は霜が降りたように冷たく、身にまとう襤褸切れのような衣服は本来の役目を果たさず素肌を晒し、外気の冷たさすらも遮ることすらできない暗闇。
痣と擦り傷だらけの手足は動く気配も無く、動かそうとは少しも思えず、鼻が刺すような垂れ流した尿の匂いに何度も嘔吐し、さらにきつくなった匂いがした暗闇。
砂利と粘つく唾液が混在する口内は気持ち悪く、乾燥した唇はきっと老婆のように皺を作っている。時折聞こえる、下卑た笑いをして私を見張る男の声が反響する暗闇。
それがわたしの五感が感じる全てであり、全ての思考だった。
ここに入れられて経った時間は今まで過ごして来たどんな時間よりも長く感じた。
時間の経過は一日に一度の固いパンが知らせていたが、数える気力は既に無くなった。
時間の経過はきっと、この暗闇に紛れ込んだ蟻がわたしの精神を葉のように少しずつ食いちぎり、あるのかさえ分からない自分の巣へ持ち帰って行ってしまったのだ。
今より幼かった頃、母が教えてくれたとある吟遊詩人が歌った戯曲を瞼の奥で思い出していた。
◇◇◇
お前を連れては行かない、悪魔に憑りつかれた者たちのようには。
お前を連れては行かない、血と鉄が入り混じる戦場や閉じ籠るだけのお城へは。
白馬に跨る高貴なる王子は白馬から飛び降り、伝説が宿った剣帯と流麗な鎧を泥濘に落とし、平民の少女に歩み寄る。
お前を不自由なことから解き放つだけだ。靴裏で固まった干し草交じりの泥を落とすことがどんなに自由なことか知ってもらうために。
お前を本当に幸せにしたいと思うからだ。慣れない家事によりできたその豆と皸だらけの手は独り寂しく摩ることよりも、愛する者の温かく角張った大きな手に優しく摩ってもらうことがどんなに幸せかを知ってもらうために。
どんな宝石よりも高価で実用的な装備を外してもその高貴な顔はやはり美しく、王子は女性の目の前に跪く。
そして言うのだ。
ただ、お前が隣にいてくれるだけで嬉しいのだ、と。
◇◇◇
記憶の中にいた母の笑顔につられ、私も笑顔を浮かべようとするが、表情は氷のように固まって動かない。
最早五感は失われたのだ。何も感じない。もう、死ぬのだろうか——。
あぁ、創造神様。この哀れなわたしにどうかご慈悲を。
冥府神に魂の平穏を嘆願ください。
そう、心の中で願った。その時、
「確かに聞こえた!お前の歌が!*き**くれ!」
「****、******、*******、『**』!」
薄れゆく意識の中、失われていたと思っていた聴覚は若い男性の神の声を捉えた。
物語に出てくる王子のような言葉を放った神は、御手でわたしを抱擁したようだった——。
どんな世界でも、救世主は白馬の王子様。私にも来ないかな(筆者は男)