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out of ink

作者: 雨森 夜宵

 じいちゃんは今日も一人、卓袱台に向き合って黙々と絵を描いている。台所にいる俺には背を向けているけど、じいちゃんが何に取り組んでいるかはもう分かっていた。真っ白なスケッチブックに絵を描いている。でも、マス目すらもないただの白紙には、線の一本すら書き込まれていない。


 じいちゃんが紙の上に滑らせているのは、とうの昔にインクの切れたボールペンだから。


 ボケについて詳しいわけじゃないけど、それにしたってじいちゃんのボケ方は不思議だった。足腰もしっかりしてるし背筋も伸びてる。読み書きもばっちりだし絵も描くし、家事も問題なく出来て、人の顔と名前も分かるし、変にふらふら出歩いたりとかもしなかった。総じて、安心して一人暮らしを継続してもらえる程度にはしっかりしている。なのに、何故か喋ることだけをやめた。

 俺の言葉にも大抵仕草だけで応じ、それでも足りない時にはメモを書く。その字だって綺麗なものだ。俺がこうして様子を見に来る度に買い物と料理を引き受けるけど、毎度ちょっとしたペン字のお手本みたいな買い物リストを渡してくる。

 でも、喋らない。

 といったって喋らないだけで、飲み食いは普通にするわけで、来てもらっている訪問のお医者様は気分の問題だろうと言う。気分の問題ならいいか、と思う。俺も喋ることを強制するつもりはない。だから、ここ数ヶ月くらいは誰もじいちゃんの声を聞いていないはずだった。

 それを補うように、じいちゃんは絵を描いている。とうの昔にインクの切れた掠れさえ残さないペンで、絶え間なく。


 まるで白紙の中に消えようとするように、じいちゃんは描き上がったらしい紙をスケッチブックから外しては床に置いていた。エアコンと併用している扇風機の風で時折それが舞い上がり、決して広くはない部屋の床をじわりじわりと覆っていく。俺がそれを片付けてもじいちゃんは特に咎めなかった。とはいえ、箱に入れたり紐で縛ったりすると、次に来る時にはまた崩れた山に戻っている。だから、最近はただ積み直しておくだけにしていた。それでも、ちらりと目を上げたじいちゃんが左手をちょびっとだけ上げるのを、俺は知っている。あれはきっと、じいちゃんの無言の「ありがとう」なんだろう。

 もう随分慣れた。

 ばあちゃんの七回忌の時にじいちゃんがあんまり喋らなかったもんだから、心配した親戚連中に時々様子を見に行ってくれと言われて通いだして、それからもう半年になる。最初の頃は雪の降るような日があったのが、いつの間にか過ぎ去って、桜が咲いて、散って、長めの梅雨が明けて、積乱雲と蝉時雨の季節になった。今日もじいちゃんは絵を描いている。描いているけど、何を描いているのかは分からない。


「――じいちゃん」


 声をかけると、じいちゃんはのそりと、ほんの少しだけ姿勢を正した。つるつる頭に浮かんだ陰影が少しだけ動く。俺の方を振り返ったりはしない。


「夜、玉子焼きにする? ゆで卵がいい?」


 じいちゃんは目玉焼きがあまり好きじゃないから、最初からだいたいその二択だ。玉子焼き、と繰り返すとじいちゃんは微動だにしない。ゆで卵、と繰り返すと、今度は微かに頷いた。じゃあ今日はゆで卵だ。


「分かった」


 ゆで卵は少し多めに作ることにしている。とはいえ夕飯を作るにはまだ早くて、かといって買い物も済ませたし、掃除だってしっかりされてる。じいちゃんはまたゆっくりと紙の上へ屈み込みながら、熱心に絵を描いていた。テレビは前からあまり好きじゃなかったから勝手につけるのもちょっと憚られる。となると、どうしようか。本棚には近代日本文学の全集が入っているけど、好きなものは大体読んでしまった。やることがなければ帰ればいいんだけど、絵を描くことに集中している日のじいちゃんは大抵食事を疎かにしがちだから、今日は夕飯を食べたのを見届けてから帰った方がいい気がする。

 どうしようかな、とまたぼんやり思いながら、じいちゃんの背中を眺めている。

 じいちゃんの背中は、日に日に細くなっていくような気がする。肩甲骨だけでなく、背骨の出っ張りまでうっすら浮かび始めている。昔から細身ではあった。背が高くてひょろひょろした人だなーと、ずっと思っていた。でもこの背中は何か、もっと根本的なところで痩せ始めているような気がする。筋肉や脂肪というよりももっと大切なものを、少しずつ少しずつ、失くしていっているような気がする。

 大切なもの。声、とか。色、とか。或いはそれは。


 ――命、なのかもしれない。


 つるつるの後頭部を眺めながら、俺は鞄の中に入れた鉛筆のことを思い出していた。

 最近、鉛筆を持ち歩くようになった。小学生の使うような、芯の柔らかい、軽い筆圧でも色のつくやつだ。それをいい具合に削って、鞄の内ポケットに忍ばせている。これでじいちゃんの絵を見ようと思って、だ。

 メモを書く時には必ずペンを変えるから、じいちゃんは意図的にインク切れのペンを選んで絵を描いているんだと思う。だったら別のペンで描いてもらうのは無理だろうし、それはもう諦めた。そうなると、最初から見える絵を描いてもらうんじゃなくて、描かれた絵を見えるようにするのがいい。それで、鉛筆だ。描き上がった絵の上を鉛筆で軽く撫でれば、もしかすると絵を浮かび上がらせることができるかもしれない。

 ただ、今も絵を描いていて、しかも描き上がったものを一枚も捨てずにいるじいちゃんに、『この絵を鉛筆で塗ってもいい?』と訊くのは憚られる。だからきっと、あの鉛筆の出番はじいちゃんの死んだ後になる。じいちゃんが死んでこの部屋を片付ける時に、あの大量の白紙を持って帰るんだろう。そしてそれをひとり、黙々と自室で塗ることになる。

 あの、果たして本当に『黒』と呼んでいいのか分からない金属の色合いの中に、じいちゃんの描いた絵が浮かび上がる。

 それを少しだけ楽しみにしている自分は、とんでもない薄情者だと思う。


 ふと、ペンの音が止まる。

 緩慢に背筋を伸ばしたじいちゃんは暫く手元を見下ろして、小さな吐息の後、湿ったような音と共に紙を切り離した。脇からちらりと見えたスケッチブックは、元々の厚みの半分ほどになっていた。なだらかに崩れた紙の山の上へそっと乗せられた完成品は、やっぱり、白紙にしか見えない。

 でもよく見ると、艶めいたようなペン先の跡が見える、ような。


 ――いや、気のせいか。気のせいだな、多分。


 気のせい気のせい、と心の中で呟いて、細く長く息を吐いた。

 橙色を帯び始めた日差しは、この時間になっても眩しかった。嫌がらせみたいな密度の蝉時雨は窓ガラスを通してさえ耳にまとわりつく。ごうごう唸る空調。ちょっと黴臭いようなその風の匂い。床を満たす白はどこか物悲しい。五感の全てをオーバーフローさせるような濃い夏の中で、喋ることをやめたじいちゃんは、少しずつ何かを失っていく。その左手が床の上の紙を広げながら、慈しむように紙面の絵をなぞる。

 じいちゃんには見えてるんだろう、と思う。

 あれは『絵』なんだもんな。じいちゃんには見えてるんだ。そりゃ、描いてる張本人なんだから見えて当然だけど。でも今、確かにそう思った。初めて実感した。


 そっか。

 じいちゃん、()()()()()()んだ。


 ぎゅ、と背中が痛くなる。なんだか分からない熱い空気が、胃の底からぶわりと膨れ上がって肺を押しつぶした。息が止まりそうだった。やっぱり真っ白にしか見えない紙を持ち上げたじいちゃんの背中が、さっきよりもまた少し小さく見えた。


「ねえ」


 ぴたりと、じいちゃんの動きが止まる。昔ならきっと名前を呼んでくれた。そうでなくても、なんだ、の一言くらいは聞けた。じいちゃんは変わってしまった。でっかい蟻地獄みたいに、自分の内側に向かって沈み込みながら、そうやって少しずつ消えていくんだ。

 でも。でも今は。


「――絵、いっぱい描いたじゃん」


 押し出されるように、そんな言葉が口をついた。じいちゃんは俺の方を振り返らないまま、微かに頷いた。ランニングシャツと背骨の輪郭がTシャツ越しに薄く浮いている。痩せたその背中は、少し、笑っているようにも見えた。

 手にしていた紙をそっと床へ放して、じいちゃんはまた、いつものペンを手に取った。繊維の上を滑るペン先の音は時々、インクに濡れたそれにも聞こえる。念入りに削った鉛筆の尖りきらない先端を思い浮かべながら、果たして新しいスケッチブックを買っておくべきかどうかと考えた。ペンを買い換える必要は、まあないとして。じいちゃんは、あとどれくらい絵を描くだろう。残り半分のスケッチブックを、じいちゃんは使い切るだろうか。

 つるつるの頭に傾きかけの日差しを浴びながら、じいちゃんは、黙って絵を描いていた。

 俺はじいちゃんに背を向けた。ガラスのコップに水を汲んで、夏の日差しにぬるくなったそれを流し込む。目を閉じる。目を閉じて、もう随分と遠い記憶になった、じいちゃんの声を思い出そうとする……。

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