3
帰宅後、机に向かうとゆかりはノートを広げた。
覚えている限りの『テソロミオ』の展開を整理してみようと思ったのだ。ラブコメシーンが生鑑賞できるならしたいし、リスク回避のためにライバル視されそうなシーンは避けたい。
「まずは主人公のなつめちゃんのクラスが知りたいな。これはクラス発表の掲示でわかるから明日調べよう。にしてもまさかゆかりと秋前くんが同じクラスだったとは……ふむん、ゆかりがミナトくんに惹かれたきっかけは同じクラスだったからなのねきっと」
ふむふむとひとり納得するゆかり。
『テソロミオ』はヒロインのなつめちゃんが小学生の時に行き違いのあった初恋相手のミナトくんと中学で再会して物語が始まる。
なつめちゃんは過去の自分の発言を謝ろうとするのだけど、意地っ張りな性格が邪魔をしてうまくいかない。
そんななかふたりの共通の友人が気を利かせてふたりきりにするものの、なつめちゃんが意地を張って喧嘩。ふたりは喧嘩別れをしてしまう。
泣きそうななつめちゃんの前に、なつめちゃんがこの世で一番苦手とする犬が放し飼いでやってきて、足がすくむなつめちゃんを戻ってきたミナトくんが助けてくれる。
在りし日の行き違いをようやく謝って、ふたりは仲直り。
意地っ張りななつめちゃんが素直になったら、恋人になろうって約束するんだけど、しっかり両想いで好き合ってるのに付き合ってはいないふたりの間に割り込もうとするのが東先輩と麻野ゆかりなのである。
まあ、ミナトくんはゆかりに告白されてもまったくゆらがないから、自分が振られたことに納得いかないゆかりが一方的になつめちゃんにライバル宣告するんだけど、この辺は起こり得ないイベントである。
ミナトと直接会ったところで、今のゆかりの感情がラブの方向に動くことはなかったし、雅臣とも『テソロミオ』のような険悪な雰囲気はない。
「むしろ結構仲良し……いやいや気にかけてもらってるぐらいかな。お母さんと東のおじさまのこともあるし」
自分でノートに書いた雅臣の名前をじっと見つめるゆかり。
雅臣がなつめちゃんを好きになるのは、日直をさぼろうとした男子生徒を正義感の強いなつめちゃんが追いかけまわしているのを見かけたことがきっかけだったような気がする。
それが具体的にいつのことなのかは作中では言及されていなかった。
机に突っ伏すと頬に少し冷んやりとしたノートの感触が伝わってくる。
(雅臣……なつめちゃんのこといつ好きになるんだろ……)
そのことを考えると、なぜだか釈然としない気持ちが込み上げてくるのだが――。
ピンポーン。
突然のインターホンの音にちょっぴりセンチメンタルだった雰囲気が霧散する。
むくりと身体を起こしてリビングに向かうと、オートロックの解除を終えた蓮見が受話器を置くところだった。
「蓮見さん、配達の人?」
「いいえ、ひかりさんですよ」
「え……連絡あったっけ?」
急な来訪に驚いたが、この家もひかりの家のため異論はない。
慌てて玄関を開けるとキャスケット帽を被り黒いサングラスをかけたひかりが大きな袋を持って廊下を歩いてくるところだった。
「やっほう、ゆかり」
玄関のドアを閉めてから訊ねる。
「どうしたの、お母さん、今までは急に来ることなんてなかったのに」
「そりゃあ、今までとは違って近くなったしねえ、可愛い娘の顔ぐらい見にくるわよ。入学おめでとう、ゆかり」
そういうと同時に持っていた袋を渡される。
大きな荷物の正体は……。
「お寿司!!」
「ケーキもあるわよ」
「ケーキ!!」
「ほほほ、お母さまとお呼び」
「ありがとう、お母さま!!」
「ただいまー、蓮見さん」
「おかえりなさい、ひかりさん」
ダイエットのこともすっかり忘れてご機嫌になるゆかりのことを、ひかりと蓮見がくすりと笑った。
「お寿司……おいしい……」
「わかる……海なし県出身だから……お寿司は特別……」
貝好きのゆかりがミルガイのこりこり感を味わい、イカ好きのひかりがなめらかな食感に頬を染めている。
ふたりとも今にもはうーんとでも言い出しそうな雰囲気である。
蓮見はひかりがこれまた持ち込んだクラシックビールを飲みながら、
「最初はマグロの赤身からですよねー」
とガリで醤油を軽く払った寿司をつまんでいる。
三人でもりもりとお寿司を平らげると、ゆかりはつやつやにコーティングされたイチゴがふんだんに盛りつけられたタルトを、ひかりと蓮見はスナックを肴に酒を飲んでいたが、ふとひかりが足を組むのをやめ、ゆかりを見やる。
「? とってもおいしいよ?」
「見りゃわかるわよ。そうじゃなくて、東さんと付き合うことになった」
「……(もぐもぐ)」
「って言ったら、どうする?」
バニラビーンズが効いたカスタードとミルク感たっぷりの生クリームとイチゴの甘酸っぱさのハーモニー(最高)に舌鼓を打つのを中断する。
「今さら~? お母さんが彼氏つくるのなんて珍しくないじゃん。反対なんかいたしません」
と答えた。
七瀬ひかりに清純派のイメージがあったのは若い頃の話。二十代の半ばを過ぎてからは恋愛スクープは新作のたびに出ているし、半分ぐらいは事実らしい。
ゆかりがそう言うと、ひかりの手に握られていたビール缶がめきっとへこみ、タルトを食べるのを再開しようとしていたゆかりの動きが止まる。
「なに……?」
「んー……結婚するかも」
さすがにゆかりも押し黙った。
ひかりは困ったような顔でゆかりの顔を見つめている。言い寄られて困っているのではない(嫌なら断るから)。この話を聞いたゆかりの感情を心配しているのだと悟って、ゆかりは一呼吸置いてから、
「……早くない? 話早くない? え? そういうものなの……?」
戸惑いを口にした。するとここまで黙っていた蓮見が、「三十過ぎますと、電撃婚が増えますよね」と冷静な顔でゆかりの疑問に答えてくれる。
「え、なんで?」
「早く子ども産まないと、とか世間の目が気になってくるとか同年代の結婚出産ラッシュなどなどがありまして」
「え、でもそういうのってデリケートな人が気にするんであって……」
視界に入るひかりの目が据わってきたのを見て口をつぐむ。
「結婚を前提に……って申し込まれたの! 真一さんに!」
「受けたの!?」
驚き聞き返すと、ひかりが首を振って否定する。
「結婚となると私の一存じゃ決められないわよ。さすがに……。真一さんもね。だから、まずはあんたに話を通してから、進めようと……」
「いや、ふたりがいいなら私はいいよもちろん」
「あっさりしてるわね、あんた」
「さすがひかりさんの娘」
「蓮見さんひどい!!」
(あとは、雅臣がどう思うかだけど……)
ゆかりが、雅臣の反応を気にしていると、
「私のお役目もこれまでですね」
いつのまにか入れたほうじ茶を飲んで一息つく蓮見が、突然ぶっこんできた。
「……は?」
ゆかりが口をぽっかり開いて、ひかりを見る。ひかりも同様に口も目も開いて蓮見を凝視している。
「なんでそーなるのっ!?」
同時に叫んだひかりとゆかりに、蓮見が伏せていた目を上げ、ふたりをゆっくりと見返した。
「おふたりが東家に入られたら、私の仕事はなくなりますから」
ひかりが何かを言う前にゆかりが声を上げる。
「え、私、東家には行かないよ!?」
「は!?」
ゆかりが口をはさむと、今度はひかりと蓮見が目を見開く。
「だって、お母さんが結婚したとしても、私のことは別の話でしょ? 七瀬ひかりが結婚発表するのと、七瀬ひかりに中学生の子どもがいるのはやっぱり別問題だよ。私はついていかないほうがいいと思う。いや、生活が苦しいっていうならべつだけど」
「資産家の東グループとひかりさんに限ってそれはないかと」
「なら、これまでどおり私と蓮見さんが暮らして……」
「ちょっとあんたたち、勝手なことばっかり言わないでよー!!」