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「わあ……」
ライトアップされた庭園の美しさに感嘆の声が漏れる。
「せっかくだから、この道を通ろうか?」
「はい!」
緑の蔓が絡んだ白いアーチをくぐって綺麗に整理された道を歩く。庭園には人工の滝や噴水があり、花壇には様々な花が咲いていてとてもロマンチックな雰囲気だった。
少しだけ、ほんの微かに、デートっぽいなあ……なんて図々しい妄想をしていたのがいけなかったんだろうか。
わずかな段差に足を取られてゆかりの身体のバランスが崩れてしまった。
「あ……っ」
転んじゃう、というところを端から伸ばされた手がしっかりとゆかりの身体を支えてくれる。
「大丈夫?」
「は……はい……」
思いがけず近づいたために、端正な顔立ちを間近で見つめてしまったが、その目の優しさに少しだけ勇気がわいた。嫌っている相手にきっとこんな表情はしないだろう。雅臣から少し離れて距離を置くと、真正面に向き合い、ゆかりはぺこんと頭を下げる。
「東先輩……ありがとうございました」
「いいよ、滝のほうは危ないからこっちにおいで」
「あ、ええと、今のもなんですけど、さっきも……その、助けていただいて……」
「ああ……君が無事でよかった」
吹き抜ける春の風に髪をなびかせ笑う東先輩の破壊力にゆかりは再び失神の危機を迎えたという。
ああ、これはモテるだろうなあ……と納得してしまう。
実際に『テソロミオ』のなかでもモテモテなのである。東先輩というキャラクターは、文武両道で顔良し、家柄も良しで近寄る女子は後を絶たず。そんななか、男勝りで正義感の強いヒロインだけが毛色が違って見えて好奇心が恋に変わっていくんだったっけ。
「あ、あのー、東先輩に質問なんですが……」
「うん?」
微笑をたたえつつ小首を傾げてくれる雅臣にほっとしつつ、この際勇気をもって聞いてみることにした。
「ちょっと変な質問なんですけど……」
「いいよ、何?」
「……私の顔見てるとその、ムカっとか、イラっとかしますでしょうか……?」
我ながらなんて質問だと思う。こんなことを聞いてどうするんだと思うが、ゆかりは、どうしても『テソロミオ』のセリフを雅臣の口から聞きたくないのだ。どうか否定してほしい。想像だけでトラウマになるまえに。
「……」
雅臣も想定外の問いかけに目が点になっている。いえ、間抜けになりがちなその表情も大変素敵なのですが。
しかしゆかりの不安が顔いっぱいに現れていたせいだろうか、雅臣は、何度か目を瞬かせると、ふわっと笑って否定してくれた。
「もちろんそんなことないけど、どうして? 誰かからそんなこと言われた?」
「えっと、言われたというか、これから言われるかもしれないというか……」
ゆかりがそう答えたとたん、雅臣の目がすっと細くなった。笑っているはずなのに、どことなく冷気の漂う雰囲気に、ゆかりはわけもわからずたじろいてしまう。
「あ、あず……」
「かわいいよ」
「……え」
「誰に何を言われても関係ない。俺は麻野さんのことすごくかわいいと思う」
ぽかんと口を開いたのがいけなかったのだろうか。まっすぐな目をして言ってくれた雅臣の顔が薄闇でもわかるぐらいには赤くなって、次の瞬間には顔を背けるようにしてそっぽを向いてしまう。
「……何言ってんだ俺……」
どうやらひどく照れているらしいと気づいて、遅れてゆかりも頬を赤くしながら、逃げるようにうつむいた。
「……あ、ありがとうございます……」
やや強い風が小枝をゆらしたのをきっかけに、「風邪をひくといけないから帰ろう」と今度はホテルに向かって歩き出した。
さっきまでは先を歩く雅臣のあとをゆかりがついていく形だったのが、今は自然とふたり横並びで歩いている。
「あの、まだ質問があって……、東先輩は、母と東のおじさまがもしお付き合いをすることになったら、反対しますか?」
「……麻野さんは」
「私は応援したいです。私は父をしりませんし、母はこれまで私を育てるためにたくさんいろんなことを我慢してきたと思いますから、母にもひとりの人間として、幸せをつかんでほしいです」
短くない沈黙が落ちた。ライトアップの庭園を抜けると、暗がりが広がり、雅臣の表情が見えづらくなる。
ホテルへの入り口に手をかけるまで雅臣は口を開かなかった。当たり前のようにゆかりを先に中へ促す雅臣の顔を見上げると、彼はようやく迷ったような口ぶりで、ため息まじりに口を開いた。
「俺は……正直複雑……。けど、年下の君がしっかり親のこと考えてるのに、俺は自分の気持ちばっかりだったんだなって、気づいたよ。俺子どもだなあ……」
「中学生はまだまだ子どもだと思いますよ。私も東先輩も……それに立場が違えば考え方も違うの当たり前です」
「そうだね」
自嘲気味に笑ってみせると雅臣はそれ以上この話題に触れず、「そういえば」と言葉を重ねた。
「どうして、俺は『東先輩』なのかな」
「それは……同じ学校の先輩ですし……?」
「出会いの場が学校だったらそれもわかるんだけど、麻野さんと俺は今日が初対面でここは学校じゃない。それも君は入学前だ。俺にまだ後輩はいないよ」
『テソロミオ』の時から東先輩って呼んでたから、つい癖で呼んでたけど、今のゆかりがそう呼ぶのは少し不自然だったかもしれない。
「あ、そうですね……。えっと、それじゃあ……東さん」
「それはちょっと」
にこっと軽く笑って否定される。
「……雅臣さん……?」
「さんはいらない」
「雅臣くん……」
「それもいらない」
「……ま、雅臣……?」
「疑問符もなし」
「……っ、雅臣……」
笑顔なのに逆らえない、そんな雰囲気のせいで、ゆかりはタジタジになりながら、雅臣の名前を軽く拳を握りしめながら呼んだ。
酸素はあるのに精神的に酸欠で、顔は赤くなるし小刻みに震えてもいる。そんなゆかりを見て雅臣が横を向いて噴き出した。
「っ!? も、もしかして、からかってます!?」
「まさか」
そう答える癖に、雅臣の顔に浮かんでいるのはにやりとした人の悪そうな笑みで。
「…………っ!」
(それでも、そんな表情もするんだ素敵とか思っちゃう私ってバカ!?)
このあと東親子はホテルに泊まらず都内にある家に帰るとのことで、ゆかりはロビーを通り過ぎると、宿泊客だけが抜けられる自動ドアやエレベーターのまえで何度も見送りは大丈夫だと言ったが、そのたび雅臣に「心配だから部屋まで行くよ」と笑顔で押し切られていた。
(私って……もしかして東先輩の笑顔に弱すぎでは……?)
「あの、今日は本当に……ありがとうございました」
部屋のまえで、頭を下げると、「こちらこそ」と返された。今度はゆかりが見送る態勢を見せたが、雅臣はゆかりを見つめたままだ。
「えっと、東せんぱ……あ……」
さっき注意されたばかりなのに、また呼んでしまったと焦るゆかりのくちびるに雅臣の指先が触れ、ゆかりはゼリーのように硬直した。
ゆかりの目をのぞき込むように屈んだ雅臣の今日一番のよい笑顔が間近に迫り、囁かれる。
「――敬語も禁止」
ひゅ、っと息をのんだゆかりが動けるようになったときには、雅臣は背を向けてエレベーターに向かって歩き出していた。
あとから思えばいいようにしてやられたことが悔しかったんだと思われるが、そのときのゆかりにはそんな分析を行う余地はない。
だから、
「またね、雅臣!」
振り返った顔に向かって渾身のあっかんべーをすると、ゆかりは逃げるようにホテルの部屋に滑り込んだ。
オートロックの扉にもたれて、暴れん坊だった心臓をなだめていると、「おかえりなさい」と蓮見が現れる。
「ただいまあ……」
エナメルのパンプスとストッキングを脱いで、ふかふかのスリッパに足を入れると、一日の疲れがどっと出て、ゆかりは広いベッドに身を投げ出した。
「こらこらお行儀が悪いですよ、せめて着替えてください」
「ごめんなさあ~い」
「それと、ゆかりさん」
「なあに?」
「ホテルの廊下って、声が結構響くので、気をつけたほうがよろしいかと」
「え……?」
シーツにうずもれていた顔を持ち上げると、澄ました口調の蓮見に微笑まれる。
「東の坊ちゃまと、ずいぶん打ち解けられたみたいで……ふ、ふ、ふ」
「え……! や、ち、違う違うの!」
「初恋とは甘酸っぱいレモン味……あ、お風呂入れてきますね」
慌てて否定したが、あまり取り合ってくれずにバスルームに消えてしまう蓮見に聞こえないと知りながらゆかりはつぶやいた。
「だって、東先輩が好きになるのは……ヒロインのなつめちゃんだから」