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ゆかりは、以前ゆかりではなかった。
漫画や小説が大好きな女の子で、テソロミオはその中のお気に入りの漫画本のひとつであった。
少し気が強い女の子が恋をして、好きな男の前ではとってもカワイイ女の子になってしまって、東雅臣は主人公の女の子に一途な思いを向けるお金持ちのイケメン先輩のキャラクター……。
そういえば、主人公カップルの男の子のほうにアタックするキャラもいて、その子の名前は……麻野ゆかりじゃなかっただろうか?
東雅臣と麻野ゆかりは互いに美男美女でお金持ちでそれぞれ主人公カップルに横恋慕するので、ヒロインが似た者同士のふたりをくっつけようとして引き合わせるのだけど、ふたりは互いを一目見て、
「なんだ? この女は。見てるとそこはかとなく腹が立つな」「やだあ、ゆかり全然タイプじゃな~い、こんな人」とそれは見事に反発しあう。
ガラスが床に叩きつけられるようなショックを受けながら、ゆかりは身を起こした。
自分が漫画の登場人物としていつの間にか生を受け、生きてきたこともそれなりに衝撃的だったが、テソロミオという漫画をかつて愛読していたころの自分のことはそれ以上詳しく覚えていないのでわりと一過性。
それより漫画を読んでいたときから好きで、実物としても素敵な東先輩に今後漫画のワンシーンで見たように、さらりと数コマで嫌われてしまうことに大きなショックを受けていた。
『なんだ? この女は。見てるとそこはかとなく腹が立つな』
腹が立つ、腹が立つ、はらが……うう、つらい。
あの爽やかで紳士な東先輩からの無慈悲な戦力外通告。いや、東先輩はヒロイン以外の女の子には一貫してクールなところがまたいいのだけど……。
「あら、起きたの? ゆかり。あんた、倒れたんだって? どーしたのよ、頑丈なあんたが」
ゆかりが寝ていたベッドの端で腰かけていた美女が振り向く。さながらぱあっと大輪の華が咲き誇ったような圧倒的な美貌だったが、ゆかりはとくに驚きもせずに瞬いた。
「お母さん」
「ひさしぶりね、かわいいあたしの娘」
薔薇のごときほほえみがゆかりに迫り、ぎゅうっと力強く抱きしめられる。うっとりするような高価な香水の香り。その細い肩越しの向こうのテレビ画面に同じ女性が映っていた。完璧な笑顔を浮かべながら、シャンプーの名前をカメラに向かって宣伝している。それと同じ声、同じ顔。
ゆかりの母親はドラマの主演を毎クールのごとくこなす人気第一線級の女優であった。……それも未婚の。
世間的にはゆかりの母、七瀬ひかり(芸名)は三十代になってもかわいく清潔感あふれるお姉さん路線でその名をはせているが、実際はゆかりという今年中学生になる娘がいるし、そのせいで親から勘当されているが、ざっくばらんな性格で、細かいことはいいのよ! が信条である。
ゆかりが母親からの熱いベーゼをこれでもかと受けていると、蓮見が驚いた顔を出した。
「ゆかりさん! よかった、目を覚まされて……! 心配したんですよ、急に目をまわすものだから……」
お水飲みますか? 起きられますか? と甲斐甲斐しい蓮見に申し訳なさを感じながら、ゆかりは改めて自分の居場所を見まわした。
きれいで生活感のない部屋である。
「ホテル?」
「ええ、覚えてますか? ゆかりさん、ホテルへ向かう途中の車内で突然目をまわして、うわごとをたくさん言ってらして……あの頑丈なゆかりさんが……もう、私生きた心地がしませんでした……」
「蓮見さんまで、お母さんとおなじこと……と、ごめんなさい」
ふたりして頑丈頑丈って、そこは丈夫とかさー……と突っ込みたかったが、そのふたりに眦を吊り上げられたので口をつぐむ。心配かけてごめんなさいでした。
「く、車酔いかなーーって、てへっ」
……言えない。急に、この世界は少女漫画のお話のなかの世界なの! それを思い出して、びっくりしちゃって……なんて、言い出したら、控えめに言って、頭の具合を心配されてしまう。しかも自分はその漫画に出てくるライバル令嬢なんてさ。
「あれ?」
ふと顎に手をやり考える人になるゆかりに母のひかりと蓮見の視線が集中する。
「どうしたの?」
「ねえ、お母さん……私って、お嬢さま……だっけ?」
そう言ったとたんに、ひかりと蓮見の顔色がさあっと青くなる。
「蓮見さん、病院っ、医者っ! ゆかりの頭がおかしい!」
「はい今すぐ! ああっ、どうしましょう、私がついていながら……っ」
「あーはい、ごめんなさい、なんでもないなんでもないの、だからお願いふたりとも落ち着いてええええ」
こんな一言でこんな大騒ぎになるんじゃ、それ以上のことなんて言えない……。心のメモに書き留めておくことにする。
ベッドに仁王立ちで立ち上がり、私は元気です! アピールをこれでもかとし、ようやく場も落ち着いてきたころ、部屋の電話がなった。
すっと自然に蓮見が近づき、受話器を持ち上げる。
「はい、蓮見でございます。――はい、はい」
ひかりが未婚の母であることを知る人は少ない。だから、ゆかりはこれまで県外の人口の少ない村で蓮見と暮らしてきたのだが、中学への進学をきっかけに母のいる東京で生活をすることになった。
しかし母の住む芸能人御用達のマンションで暮らすわけにはいかない。どこで秘密が漏れるかわからないからだ。
そのため家が決まるまで当面は蓮見とホテル暮らしと聞いていた。だから、いまホテルにいるのは理解できる。久しぶりに母と再会できたのもうれしい。でも少し気になることがあった。
ひかりの恰好だ。
いまの母は、いつもの気楽な恰好じゃなく、テレビで見かけるときのような、きれいでかわいい女優――七瀬ひかりそのものである。
ゆかりはそのことを訊ねたかったが、蓮見に耳打ちされると、ひかりは面倒そうな顔で受話器のもとへ行ってしまったためタイミングを逸した。
「もしもし、はい、七瀬です」
豹変した声色ですぐわかる。今ひかりは、芸能人七瀬ひかりとして電話に出ている。
「……ね、蓮見さん、誰からの電話?」
そうっと訊ねると、蓮見もこそっと教えてくれる。
「東グループの東社長ですよ。ひかりさんが出演しているドラマのスポンサーさんです。ひかりさんの大ファンだそうですよ」
思わず叫びそうな口を両手でふさぎ、両目を見開く。
それって、もしかして……?
ゆかりの零れんばかりに見開いた目に向かって、蓮見も目で頷いて見せる。
「そうです、先ほどの坊ちゃまのお父様だそうです」
(東先輩のお父様が、お母さんのスポンサー!?)
驚きおののくゆかりにさらに蓮見から爆弾発言。
「実は今日、ひかりさんと東社長の会食だったそうです。……ごく個人的な。それでゆかりさんと東の坊ちゃまも同席の予定だったんですが……」
「えっ、東先輩と!? 何それ行きたい……!」
思わず声を張り上げて、しまった! と口をふさぐももう遅い。
蓮見はあちゃーって顔をしているし、電話中のひかりは呆れ顔である。
「……社長がよろしければ予定通りでお願いしますわ」
なんとなくしかめ面で受話器を置くひかりに慌てて謝った。
「ごめんなさい、お母さん……私の存在は隠さなくちゃいけないのに、大声出したりして……」
「何であんたが謝るのよ。あんたはあたしの都合で日陰者として扱われてるんだから、謝るのはこっちのほうじゃない」
苦笑するひかりに抱きつきながら、ゆかりは必死で否定する。
「そんなことないよ! 私お母さんのこともお母さんの仕事も好きだし、応援してるもん! そりゃあ、ずっと離れて暮らすのは寂しかったけど……これからは同じ都内だもん。これからはもっと会えるよね?」
健気な笑顔を見せるゆかりに、ひかりの目に涙が浮かぶ。
「ゆかりいいいっ! ああ、なんていい子なの……っ! お母さんもゆかりのこと大好きいい……っ」
むぎゅーっと抱きしめられて、白粉のにおいのする白い頬をすりすりと寄せられる。
母娘の感動の抱擁を味わっていると、それをふいに壊すような楽しげなひかりの声が降ってくる。
「そ、れ、で、ゆかりちゃんは東の坊ちゃんのことどう思ってるのかしら?」
「え……?」
なぜか、目を輝かせるひかりに思いきりたじろぐゆかり。
「東の坊ちゃんといつの間にやら知り合ってるなんてさ~、奥手な娘だと思ってたのにね~」
「ち、違う違う! それは蓮見さんが駅で……」
「車で気を失ったゆかりさんをここまで運んでくださったんですよ、東の坊ちゃまがわざわざお姫様抱っこで」
さらに楽しそうに蓮見が追撃し、ゆかりは顔を真っ赤に染め上げた。
「は、初耳……!!」
「坊ちゃんやるう」
口笛を吹く元清純派女優である母親のにやにや笑顔と、微笑ましいものを見るような蓮見の穏やかな笑顔に耐えられず、ゆかりは枕に赤面を埋めシーツに籠城した。
「って冗談はここまでにして……もともと今日の会食にはゆかりを連れてくつもりだったのよ」
「東社長にゆかりさんを紹介するつもりだったんですか?」
シーツにくるまりながらひかりと蓮見の会話に耳を傾けるゆかり。
「そうずら。こんな大きな娘がいるって言えば、さすがに諦めてくれると思って……」
「それはどうでしょうねえ……向こうも息子さん連れですし。結構本気なのでは?」
「……七瀬ひかりに中学生の娘がいるのよ? 幻滅ものじゃない?」
ふたりの会話からすると、東先輩のお父さんはひかりに対して、結構本気のお付き合いを申し込んでいるのではなかろうか……。
というか、テソロミオにはこんな設定出てこなかったはずだ。もしかして裏設定なんだろうか。
初対面のはずの、東先輩と麻野ゆかりが一目見るなり相手を嫌ったのは、思春期のふたりが親の男女交際を受け入れられなかったから……?
そう考えると、何となくしっくりくる。
ちなみに現在のゆかりは、ひかりに恋人がいようが再婚しようがどうぞどうぞである。変な男じゃなければ、お母さんを幸せにしてくださいとちゃんとお願いできる。やはり、現在のゆかりはテソロミオの登場人物として純粋な麻野ゆかりとは違うようだ。
だってまだ会っていない主人公の彼よりも、実際に見て話をした東雅臣という人物のほうが好きなのだもの。