ゲロから始まる恋もある
「それじゃあ、お疲れ様です。」
相手の労苦をねぎらう言葉は、自分が思っていたより疲れた感じがした。
今日は給料日後の週末ということもあって、お客さんがいつもより多く来店し常に満席に近かった。何十人もの酔っ払いからオーダを取り酒と料理を持っていく。そんな状況で働いていては疲れるのも当たり前だと思う。お客さんの量が一定以上だと賃金が増えるとか、そういう制度ができたらまだ元気が出るんだけどな。
そんなことを思っているバイト大学生からねぎらいの言葉をかけられた長身の筋骨隆々な男性は怪訝そうな様子で答えた。
「お疲れ様って何だ?なんか元気ないな。」
「あんな大勢のお客さんの相手をしていたら疲れますよ。」
「あのなぁ、お前は俺より若いだろ。若者が何言ってるんだ。」
「ゴリさんの体力が異常過ぎるんで…あ。」
「次からお前の時給半額な。」
「そんな!ここの時給そんなに高くないのに。」
「俺がその呼ばれ方が嫌なの分かってるだろ。」
この店の店長ことゴリさん。
珍しすぎる苗字と風貌から仲良くなると必ず一度は「ゴリさん」と呼ばれてしまう。ただ、本人はあまりこのあだ名を好ましく思っておらず、初めて会う人には店長呼びか下の名前で呼ぶように毎回注意している。なお、注意を受けたのに「ゴリさん」と呼んでしまうと、野生の本能が刺激されるのか不機嫌になってしまう。
いつもは心の中で思っていても、言わないようにしていたのに口が緩くなっているようだ。どうやらそれだけ疲れているらしい。ゴリさんはそんな俺の様子を見て察したのかため息をついた。
「まぁ、いい。本当に疲れているみたいだし気を付けて帰れよ。」
「え、あぁ、はい。國崎これより帰宅します!」
奇跡的にお許しを得られたようだ。だが、しばらく機嫌が悪いだろうから、さっさと立ち去ろう。早々と従業員用の裏口へと向かう。
「あ、そーだ國崎。」
「なんですか。」
ドアノブに手をかけたとき、ゴリさんの不機嫌そうな声色が俺の耳に届いた。
「最近、この辺に不審者が出てるらしいから気を付けな。」
「…男の俺を襲うアホはいないと思いますが。」
「一応だ、一応。社員とバイトの全員に伝えてるんだよ。ほれ、さっさと帰んな。」
「はぁ。おつかれさまです。」
裏口から外に出ると秋から冬への季節の移ろいを感じさせる冷たい空気が満ちていた。そろそろダウンかコートがいるかもしれない。
既に日付を回っている駅前の大通りは少しだけ喧騒にあふれている。耳障りだと感じながらも気にせず歩く。すると、街灯の数が少しづつ少なくなっていくのに比例して喧騒も聞こえなくなり静かになっていった。
駅前から自宅までは歩いて20分〜30分程度。街灯の光量が減ったせいか手に持ったスマホの光が自己主張を強めた。
「…やっとか。」
スマホ画面の中では蛇のような形のモンスターが球体の形をした捕獲装置をぶつけられまくっていた。ぶつけられた回数が2桁になる直前、観念したモンスターがようやく捕獲装置の中に大人しく収まった。
目的を達したソーシャルゲームのアプリを閉じ。メッセージアプリを開くと帰宅している最中に母親から届いたメッセージが表示されていた。
『最近、寒くなってきてるけど、風邪とか引いてない?』
『いや、大丈夫だよ。』
『そういえば、彰人がそっちに行ってから1年くらい経ったけど、彼女とかはできたの?』
「…。」
返信を打とうと思った親指の動きが止まる。
できたの?という問いに対しての答えは『NO』である。昔からイマイチそういう恋愛方面に意識がいかない…というより気力を向ける気がなかった。
スマホの画面に目を向けたまま歩みを進める。
今の生活は楽しい。
地元を離れ、遠方の大学に入学した当初は周りに当然友人などおらず、不安という気持ちが体全体から離れなかった。しかし、幸いなことに気の合う友人とも出会うことができ、自分の学びたい学問に取り組める。
そうして、何も起きず1年が経った。
最近は漠然とした焦りのようなものが少しだけ出てきた気がする。何だかんだ20歳になりお酒も飲める年齢になってしまった。ふと思う「彼女ってどうやったらできるんだろう?」
姉貴が読んでいた少女漫画や居間でポテチを食べながら見ていたドラマだと些細なことをキッカケに仲良くなり話が展開していた…と思う。
普段は祈らないが、今くらいは神様に祈っていいかもしれない。『どうか恋愛初心者な俺に難易度低めの出会いを下さい』と。
母親に『残念、できてないよ。』と返信を送りポケットにしまう。
「おぇ…」
女性とのささやかなキッカケがあれば何とかなると思う…多分。
「は、はー…あー、ヴゥ!」
駅前で落し物を拾ってあげる、道に迷っているのを助ける、なんだったらベタにパンを咥えながら通学している時にばったりぶつかるでもいい…。
「おぼぼぼぉぉおおぼぼぼお」
ところで、さっきから聞こえる異音はなんなの?
思考の渦から抜け出し俯いていた頭部を前方に向ける。視線の先、街灯の下で照らされていたのは電柱に肩を預けながら口の中から吐瀉物を滝のように流しているスーツ姿の女性だった。
神様…お願いしてからのこの対応速度は流石です。ただ、祈ったものと大きく内容が異なっているのは気のせいでしょうか。この場合、クレームはどこに提出すればいいんだろう。
明後日の方向に向かっていた思考を正常に戻す。街灯の灯りに照らされながら、四つん這いで色々なものをコンクリートの大地に返している女性をマジマジと見る。酔っ払い…だよな?確かにうちの居酒屋でもお酒を飲みすぎたサラリーマンがこれに近い挙動を示したことは何回かある。それでも、ここまで酷くはなかったぞ。
俺は知っている。この手の状態になった人間は非常に面倒くさい。バイト先でも絡まれたことはあるが、あれほど対応に困ることはない。しかし、ここは賃金を貰うために仕方なく労働する場所ではなく、嫌なら関わらなければいいだけだ。何食わぬ顔でその場を立ち去ろうと止まっていた足を進める。
しかし、これほど泥酔した原因はなんだろうか。横目に写る彼女を見ながらふと考える。この女性が死ぬほどお酒が好きなのか、それとも…
「何か嫌なことでもあったのかね。」
ぼそりと呟いた一言を聞いて、下を向いていた女性の顔がグリンと勢いよくこちらを向いた。長い黒髪が頭部の動きに合わせて動き顔にかかる。髪と髪との間から2つの血走った目玉がこちらを凝視していた。
フラつきながら女性は立ち上がり、こちらへ…近づいてきて…る?うぉ、ビビってるせいか足腰が動かな、あ、え、もうすぐそ…こに。
「う、ゔ…。」
「う…?」
「ゔあぁぁーん、聞いてぐれるぅぅー!?」
両肩をガシッと捕まれ、涙で顔がぐちょぐちょになった女性が泣きながら俺に喋りかけてくる。うわ酒臭っ!!っていうかゲロ臭っ!!
「いや、あのすいません。とりあえず一旦離れていだけませんか?」
臭いので
「あどね、うぢのグゾ上司がべ…。」
聞いちゃいねぇ
この後、彼女は30分以上お酒とゲロの香りをぷんぷん飛ばしながら職場での愚痴を語り続けた。話を要約すると、最近そのクソ上司とやらに定時間際に仕事を常に押し付けられ続けられており今日も2時間前に仕事を終わらせたはいいものの、ついに溜まりに溜まったストレスが爆発。適当に入った居酒屋でしこたまアルコールを摂取していたらしい。
ちなみに、この話をしている間に正面からゲロをブチまけられた。おかげで上着が大胆な柄と香りになってしまった。
「あぁ、それは大変でしたね。」
「でじょー、もゔ酷いんだよー。」
俺は自動相槌マシーン。そう俺はただひたすら肯定する機械なのだ。いつの間にか肩を組まれ、延々と喋り続ける彼女を俺はもう仏のような悟りの境地で対応していた。脇あたりに柔らかい感触がぽよぽよとしている気がするが、酒とゲロの香りでそれどころではない。
「あぁ、でぼぎいてぐれてありがとう。ぢょっとらく…にな…。」
いきなり彼女の身体から力が抜けた。そして、あれだけうるさかったBGMが聞こえなくなった。ふと、横を見ると女性は目を閉じて健やかに息を立てていた。
「この状況でよく寝れるよ。」
しかし、この人どうすればいいんだ。さっさと、置いて帰る?そうすれば明日から何事もなく日常を過ごせる。
『最近、この辺に不審者が出てるらしいから気を付けな。』
あーでもゴリさんが帰り際にそんなこと言ってたな。不審者からしたら今の彼女は格好の獲物だろう。
自身の中の天秤が揺れる。
「あぁ、もう…。」
くそ、自分のお人好し加減が恨めしい。ゲロにより斬新な色合いとなった自身の上着を眺めながら、最低でも上着のクリーニング代は出してもらおうと固く誓った。そうして俺は自宅への道を歩む…酒とゲロにまみれた酔っ払いを連れて。
カーテンから漏れる陽の光が目蓋の奥を刺激する。心はまだ睡眠を欲していたが、身体は刺激を受けて司令塔である頭を覚醒させていく。上体を起こし毛布代わりにしていたであろうバスタオルを押し退け上体を起こす。
結局昨日は彼女を連れて帰ってから、布団にぶち込んですぐに寝てしてしまった。本当はゲロがぶっかかった上着をせめて水洗いしようかと思ったのだが、疲れがドッと押し寄せてきてしまい倒れるようにカーペットの上で意識が途切れてしまった。だが、最期の力を振り絞ったお陰で上着は床に投げてあった洗濯カゴの中に収まっている。
この部屋の主人の寝床を不法占拠している輩を見つめる。長い黒髪に包まれた頭部が呼吸により静かに動いている。昨夜は疲れと酒とゲロの香りで気にもしていなかったが可愛らしい顔をしている。身内補正が入るがうちの姉貴といい勝負だと思う。まぁ、姉貴はどちらかと言えば綺麗系なんだがな。
「あんまりジロジロ見ても悪いか…。」
床に散らばっている週刊誌を踏まぬようにキッチンに向かう。電子ケトルに水を入れ沸騰させた後、コップにインスタントコーヒーの粉を入れる。お湯を注ぐとキッチンを独特の香りが漂う。本当はドリップ式がいいのだが、毎回使うのは貧乏学生には辛い。牛乳を適量入れ、コーヒーが溢れぬように気を付けながら部屋に戻る。
部屋に戻ると、不法占拠者が布団から上体を起こしていた。まだ、寝ぼけているのか、半目状態だ。ここは堂々としていたほうがいいかな。とりあえず、朝の挨拶をすることにする。
「おはようございます。」
「…。」
朝は弱いのだろうか。どうにも反応が鈍い。
「といれ…。」
彼女はゆっくりと立ち上がりふらふらとした足取りで、ドアを出てすぐ左手にあるトイレに入っていった。
「よく、場所が分かったな。」
まぁ、よくある1Kの間取りだし、なんとなく分かったのかもしれん。小さな疑問は頭の中で検討の必要無しと判断されゴミ箱に入れられた。
その数分後、トイレからガタッと音がした。
トイレットペーパーでも落としたのかなと思い、身体をドアの方向に持っていく。しばらくすると、キッチンとリビングを隔てるドアが恐る恐る開かれていく。ドアと壁の隙間からそぉーっと彼女が顔を出した。
「貴方はだ、誰ですか?」
警戒するのが遅くないだろうか。おはようの時点で気にしなさいよ。
「昨夜、泥酔したあなたを介抱したものです。」
「え?泥酔…?」
「昨日の夜のことって覚えてます?」
「昨日?…えぇと、昨日は…課長に仕事押し付けられてイライラして…あぁ、そうだ。居酒屋に行ったんだっけ?」
そうして彼女は少しずつ思い出すように独り言を呟いていく。
「そんで…その後は居酒屋から出て帰ろうとして歩いてたら、途中ですごく気分が悪くなって休んでて…。そうして…どうしたんだろ?」
「誰かに会いませんでしか?」
「あ!そうそう。通りがかった人が私の愚痴を聞いてくれて…。え?…あれ?私その人にゲロ…ぶっかけなかった?」
確認するようにこちらを見た彼女の顔は少しだけ青くなっていた。俺はそんな彼女に、床に置かれた洗濯カゴに放り込まれ今も微妙な香りを漂わせている上着を指差して、最大限の笑顔で答えた。
「その節は大変お世話になりました。 」
「誠に申し訳ございませんでしたー!!!」
すごい綺麗な土下座だ。こんなに綺麗な土下座を見たのは、小学生の頃に俺がブチギレて吉田くんが見せたとき以来だな。
「本当にすいませんでした!!愚痴を聞いてもらっっておいて本当にごめんなさい!!あぁ、上着すいません…クリーニング代出します!!」
「…見ず知らずの人に言うことではないですが、お酒はちゃんと適量を飲んで下さい。人に迷惑をかけてまで飲まないで下さい。」
「仰る通りです…。次から気を付けます。」
説教もほどほどに済ませ、クリーニング代は払ってもらうことにした。そんな高い服ではないが払ってくれるなら払ってもらう。そうして彼女はクリーニング代を渡そうと自身の財布を開けて、固まった。
「昨日飲みすぎて手持ちのお金ない…です。」
2人の間に微妙な空気が流れた。
「また、後日伺うので連絡先を教えてくれませんか?」
困ったような表情でそうお願いをする彼女が一瞬可愛いと思えてしまったのは、昨日からの疲れだということにしておいた。その後、連絡先を交換し彼女は玄関へと向かった。一応、見送るために俺も付いて行く。
「すいません、また後日改めてクリーニング代を払いに来ます。」
「分かりました。また、その時は事前に連絡をお願いしますね。」
そうやって、彼女は玄関の扉を開けて部屋から立ち去…らず、何故かドアを開け外の様子を見たまま固まっていた。
「ど、どうかしました?」
「え…うそ?」
「ん?」
彼女はそう呟き玄関からアパートの入り口まで走り出した。入り口でこちらを振り返り建物全体を眺めるように視線を動かしている。そして、またこちらに近付いてきた。
彼女は表札で部屋番号を確認した後、財布から運転免許証を出した。そして、住所欄を指差しながら困ったような表情を浮かべてこう答えた。
「あの、すいません。私の住所…ここの真上でした。」
そこには、ここのアパートの住所と俺の部屋番号に100が足された番号が書かれており、その上には「篠原千夏」という名前が記載されていた。その名前は先程交換した連絡先の名前と一緒だった。
あの日以来、俺の変わらなかった日常の合間に彼女との思い出が挟まるようになった。
彼女に恋心を抱くようになるのは…まだ、もう少し先だ。
2019/3/18
評価、感想ありがとうございます。
まさか初めての作品で頂けるとは思っていなかったのですごく嬉しいです。