二十五.生と死の狭間で
暗い。というより、何も見えない。
談子は足場もない壁もない、虚無の空間を漂っていた。無重力の宇宙を浮遊するような感じだろうか。肌には何の感覚もないので、良く分からない。意識だけがはっきりし、まるで自分が意思だけの存在になってしまったようだ。
その状態に、違和感はない。嫌だとか、気持ち悪いとも思わない。
ただ、強く実感できた。これが、死なのかと。
ふわふわと漂っていると、急に視界が開けた。
赤い。空間一面が、赤かった。
その鮮やかな色に刺激されたのか、談子の感覚器が、一気に目を覚ます。
嗅覚が訴える。これは、血の匂い。錆びた鉄が発する、あの独特の匂いが湧き上がり、生暖かい感触を起こす。
赤い血は、徐々にどす黒さを帯び、動脈を流れる二酸化炭素を多く含んだような色に変わった。
なんとも、おぞましい光景。足元に、生暖かい感覚がした。
談子は、血だまりの中に足をつけて立っていた。膝下まで完全に赤く染まっている。気持ち悪いという感覚が戻ってきて、少し嫌な感じがする。
ゆっくりと、辺りを見渡した。風景も背景もない。ただ、赤い空間が広がっている。その向こうに、陸が見えた。陸といっても、ほんの小さな、公園の砂場くらいの大きさの敷地が、血溜まりから盛り上がっているだけだが。
そこに、誰か人がいた。胡坐をかき、手に赤い糸を絡ませて、休む間もなく動かしている。
柔らかな雰囲気の青年だった。着ている服は、談子と同じ、仁鳴高校の制服だ。
「あの……」
恐る恐る声をかける。しかし男子生徒からの返事はない。こちらに気付いているかも分からない。
なので、率先して話を切り出した。
「何やってるんですか? こんなところで」
「あやとりだよ」
男子生徒は即答してきた。外見と変わらず、優しそうな声色。保育士なんか向いてそうな人だなという印象を受けた。
でもそういうことじゃなくて。赤い糸を指で操り、東京タワーなんかを作っているのは、見て分かるが、別にそれが知りたい訳ではない。
「どうして、こんなところにいるんですか? ここはどこですか? どうしてあたし、こんなところにいるんでしょう?」
多々の疑問をぶつけてみる。中には彼にだって分からないだろうものもあるが、聞かずにはいられなかった。そんな手前勝手な質問に、男子生徒は優しく返答してくれる。
「君はもう、全部分かっているんじゃないかな。ここは血の池。何もない、鬼が魂を保管するためだけに作られた、地獄の一番上の階層。冥土とも言うね。君も僕も、鬼に魂を抜き取られたから、ここにいるんだよ」
そうだ。談子は思い出した。あたしは、死んだのだ。
我を忘れて鬼に向かっていき、あっけなくやられた。
あの時、生き残っていたのは自分だけだったのに。
全滅してしまったのだろうか。みんな、死んでしまった?
みかんも、蛇羅も、鬼外も、イナホも、時雨も、そして、由喜も――。
みんな、自分のせいで死んでしまった。取り返しのつかないことをしてしまったんだ。
「……どうしたの、なぜ、泣いているの?」
男子生徒が尋ねてくる。談子の頬は、透明な水で濡れていた。
「あたしのせいなんです。あたしのせいで、みんな死んじゃった。みんな、あたしのことを信用して、命を託してくれたのに、あたしは自分のことばかり考えて、その気持ちを踏みにじってしまった……」
談子は泣きじゃくる。男子生徒は手を止め、その姿をじっと見ていた。二重の、少し眠そうな黒い瞳が細められる。
笑顔だ。
「まだ、鬼は封印の中へ戻ってきていないよ。現世に留まっている。それは、まだ全滅していないということじゃないかな?」
談子は顔を上げた。もし何かの偶然で、まだ学校内に人が生きていたとしたら――。虫のいい考え方だが、そうなら、どれだけ有難いか。
だが、全滅を逃れられても、談子の心の痛みは治まらないだろう。
「でも、もしこのまま日没まで全滅しなかったとしても、あたしはやっちゃいけないことをしてしまったんです。自分から鬼に飛び込んで、魂を抜かれて、みんなに迷惑をかけて。何より、綺羅姫に無意味な罪悪感を押し付ける結果になってしまった……」
綺羅姫の身体を乗っ取った鬼が、談子を食らったと知ったら、綺羅姫はどう思うだろう。
そして、もしみんなが無事に生き返ったとしても、それがイナホの犠牲の上に成り立つ結果であれば、素直に喜べるかどうか。
「綺羅姫は、鬼の容れ物として利用されているだけなのに、受けなくていい心の傷をたくさん蓄えてきたんです。それを何とかしてあげようって、苦しみから解き放てる方法を探してあげようって決心していたのに、こんな結果になってしまって……。綺羅姫に、合わせる顔がありません」
嗚咽を漏らす談子をじっと見上げ、男子生徒は、ポツリと口を開いた。
「本条綺羅姫は、鬼である。過去に生きた者達によって人間の血を注がれ、人と妖との境界が曖昧になってしまった、女鬼である」
談子は、潤ませた瞳を男子生徒へ向ける。視線に対して何の反応も見せず、彼は淡々と続ける。
「君も、勘違いをしている。綺羅姫が鬼であることを、否定してはいけない、それは綺羅姫の存在そのものを否定することと、等しいから。鬼を封じるということは、本来の綺羅姫の人格を心の奥底に押し込むということ。それは人間の平穏を取り戻すためには必要だけれど、それを当然の事象として、軽はずみに受け入れてはならない。彼女という尊い犠牲の上にあるものだと、しっかり理解した上で封印を探し、実行しなければ。そして、目に見えるものだけでなく、全てのものを受け入れられなければ、この連鎖は永久に続く。――君のように、誰かのために一生懸命考え、泣ける人ならば、連鎖に終止符が打てるかもしれないね」
笑いかけてくる。呆気に取られた談子は、興味深く男子生徒を凝視していた。泣くことも忘れて、ただ呆然と。
「あたしに、綺羅姫を救えると思いますか?」
「全てを、受け止められるならば」
綺羅姫は鬼である。
その事象、薄々勘付いてはいた。談子が鬼に対しての印象を語った時に見せた彼女の表情に、偽りがなければと。
受け止める覚悟。そんなもの、最初から決まっているじゃないか。この鬼ごっこに巻き込まれたその時から。
その強い意思を談子が表したこと確認して、男子生徒は微笑んだ。
彼は何者なのだろう? 多くの事情を知っているようだが、なぜ冥土に、慣れ親しんだように留まっているのか。
「……あなたは、いったい誰? いつから、ここにいるんですか?」
「君と同じさ。好奇心で鬼の封印を解いてしまい、あっさりと食われた、憐れな魂。君よりはずっと長い間、ここにいる。僕にはもう肉体がないから、ここにいることしかできないが、君はまだ戻れる。――ここに来るのは、時期尚早だよ。帰らなきゃ」
「帰るって、でも、あたしだって、鬼にやられて……」
「大丈夫、耳を澄ませて。聞こえない? 君を呼ぶ声。君が戻ってこれるように、必至で呼びかけてくれている人たちの声だよ」
談子は上を見上げた。赤い空の一点が、黒く滲んでいる。暗い穴のように奥が深く、吸い込まれそうな感覚に囚われる。
『――見、月見!』
誰かの声が、そこから落ちてくる。聞きなれた声。力強く、そして温かい。
「……暁?」
『戻って来い、月見!』
『ぐうぐう!』
「アンちゃんも!」
間違いない、あの二人が呼んでいる。戻れと言っている。それを確信した途端、身体が軽くなり、血の池から足が離れた。
「良かったね、待ってくれている人のところへ、戻れるよ」
男子生徒は、笑った。笑って、浮かび上がっていく談子を見送っていた。
「ま、待って、あなたは……」
手を伸ばす。でも、その手は届かない。
「形のある命だけが、全てじゃないんだ。目に見えない場所にこそ、答はあるんだよ。頑張って」
男子生徒が手を振った。やがて、黒い穴に吸い込まれて、その姿も見えなくなった。
肌が空気に触れた。すさまじい、いろんな感覚が談子を包み込んで、押し潰そうと襲ってくる。
恐怖。その感情が頂点を制し、自分の身体が震えているのが分かる。
あれは夢だったのだろうか。それとも、こっちが夢?
どちらともつかず、頭の中にいろんな感覚が溢れ返ってくる。
何もかもがある。空気も重力も、人の温もりも。
それが、とても怖い。
談子の身体が、大きく痙攣した。




