二十一.全滅……
どこをどう落ちてきたのか。
明るい場所に出て、床にぶつかる。
出口はどこかの天井だったらしく、真っ逆さまに落下した。
叩きつけられた身体に痛みが走り、その場に俯せに横たわる。
身体より、心のほうが痛いと感じた。
「――月見さん!?」
驚きを含んだ、しかし柔らかな声が耳を翳め、朦朧としていた意識が、徐々に戻ってくる。
「どうしたの、何があったの?」
声の主は、慌てて談子の身体を起こす。視界もはっきりしてきた。
目の前に、談子の顔を覗き込む時雨と暁の姿が。ここは接客室のようだ。図書室は、職員室の真上にあったらしい。
暁が談子の落ちてきた天井を見上げる。今は既に天井は閉じていたが、そこだけ他の天井と色が違うので、からくりは分かったといった様子で頷いていた。
「隠し扉か。で、秋田には会えたのか?」
その何の悪ぶれもない単調な問いかけが、今の談子にとてつもない苦痛を伴わせた。瞬きすれば浮かんでくる、数瞬前の光景。
談子の目尻が熱くなる。堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、顔を濡らして行く。
「って、おい、ちょ……」
突然泣き始めた談子に驚き、言葉を詰まらせる暁。時雨が背中を撫でて、宥めようとする。
「月見さん、落ち着いて。ゆっくりでいいから、何があったのか教えて」
「先輩がっ……、い、イナホ、先輩が……」
それが精一杯だ。時雨にしがみついて、談子は大声で泣きじゃくる。そうすることでしか、胸のうちを明かすことはできなかった。ただ込み上げてくるいろんなものを、出るがままに吐き出すしかない。
時雨と暁が、困惑したように顔を見合わせていた。そして最悪の事態を想定し、理解したらしく、互いに頷き合う。
「辛い思いをしたのね。もう大丈夫よ、ここにはみんないるからね。安心して」
時雨に頭を優しく撫でられ、少しずつ落ち着きを取り戻す。嗚咽はしばらく続いたが、途切れ途切れに、ゆっくりと自分が見たことを説明した。
思い出すたびに、止まったはずの涙が溢れてきたが、それでも最後まで諦めず、全てを伝えきった。
「そう……。「呪い定めの書」は、そういう用途で使われるものだったのね」
話を聞き、時雨は肩を落とす。それによって、友人の意図がはっきりと理解できたようだ。彼女の友人は、儀式に失敗したのではない。成功したからこそ、目覚めなかったのだ。
そして、今度はイナホが。
陽が落ちれば、図書室に横たわる、イナホの死体だけが発見されるだろう。それを思うと、息が詰まり、また涙が流れる。ハンカチが濡れ過ぎて、使い物にならないくらいだ。
暁が、無言で自分のハンカチを差し出してきた。それを無言で受け取り、鼻をかむ。今度は後で返せとは言わなかった。
「月見さん。私の友人も、そして秋田さんも、私たちを助けようとして書を使ったのね」
「でも、どうしてそこまでして……。どうして先輩や、先生のお友達が、死ななきゃいけなかったんですか」
「分からない?」
「分かりません!」
半ば八つ当たり気味に声を張り上げる談子に、時雨は優しく語りかける。
「私は、何となく分かった気がするわ。「呪い定めの書」は、誰にでも使える書物ではないでしょう? なら、それを使える自分が何とかしなくちゃって、彼女たちは同じように考えたのでしょうね。それを使って、自分に何かできるならって」
「で、でも、だからって……」
無理に使う必要なんてなかったはずだ。使ったからと言って、事態が良い方向へ流れるわけでもない。結局、同じことが繰り返されるだけなのだ。
「私、思うんだけれどね。あの儀式を行うには、物凄く勇気がいるし、とてもリスクが大きいわ。全滅してしまえば元も子もないわけだし、何より死ぬ覚悟なんて、常人には絶対できっこないもの。でもね、私たちが必ず生き残ってくれる、そう強く信じてくれたから、彼女たちは少しでも不安を払拭し、それが実行できたのだと思うの。秋田さんだって、月見さんならきっと生き残って、他のみんなを生き返らせてくれる。そう信じたからこそ、犠牲になろうと決めたのよ」
時雨の表情が厳しく、そして強くなる。
「だから、託された私たちは、なんとしても生き抜くの。できれば、私だって誰の犠牲もなく済めばいいと思うけれど、これ以上はどうすることもできないから。最小限の犠牲に留めることを考えるので、精一杯」
辛そうな時雨の表情を見て、談子は思う。
先生だって、悔しいんだ。友達の仇だって、とりたいと思っているだろうし、何より教師として教え子を救えない気持ちは、とても痛みを伴うものかもしれない。どうにもできなくて、ただ流れに乗って進むがままに行くことしかできない自分自身に、もどかしさを感じているのだ。
談子と、同じじゃないか。
いや、談子以上に、時雨先生は苦しんでいる。そう思うと、いつまでもメソメソしている自分が恥ずかしく思えてきた。
「……そうですよね、先輩の気持ちを無駄にしないように、今できることをやっていかなくちゃ、ですね」
まだ目尻に溜まる涙を拭い、頑張って笑顔を見せる。それを見た時雨も、少し笑顔を取り戻した。頭では、まだ完全に納得できていないが、いつかきっと、理解できる時が来るだろうと、考えることにした。
「下の階にも、降りられる抜け穴がある。いざって時は、ここから逃げればいいな」
話に区切りがついたのを見計らって、暁が割って入り、話題を変えた。
ちょうど、談子が落ちてきた天井のすぐ真下の床が、取り外せるようになっていた。開ければ下の階へ逃げられるようになっている。
「少しは、落ち着いたか?」
暁に訊ねられる。突然のことで、一瞬思考が止まったが、大きく頷いて見せた。
「そうか」
あっけなく納得して、またそっぽを向いてしまう。彼なりに心配してくれたのだろう。
相変わらず無愛想だが、その気持ちが何だか嬉しくて、自然と笑ってしまっていた。
そんな様子を見て、時雨もまた、柔らかな微笑を浮かべていた。
静かな時間。しかしそんな束の間の休息も、さほど長くは続かない。
「ぐうっ! ぐううっ!!」
外にいた安眠が、接客室に飛び込んできた。物凄く焦っている様子が、はっきり伝わってくる。
「どうした、安眠……?」
暁が聞き返すと共に、ドアの向こう側で悲鳴が上がった。そして、何かが砕ける激しい音、威嚇するような聞き苦しい咆哮。
それが耳を掠めると、身体が大きく痙攣を起こした。まるで拒絶反応を起こしたかのように。
「今の声……。まさか、由喜ちゃん!」
「畜生、こんなところまで、鬼が……!」
談子と暁が立ち上がり、隣の部屋へ向かおうとした。
「駄目よ、止まりなさい!」
しかし、時雨によって制止される。すかさず彼女は、壁に立てかけてあった箒を握り締め、ドアを塞ぐ。
「危険な場所に、わざわざ出向くことはないわ。あなたたちは、その抜け穴から逃げて。ここは私が引き止めますから」
「でも、まだ無事な人を避難させないと」
確かに、駆けつけたところで何もできないだろう。しかし助かるかもしれない人たちを見捨てていくなんて、残酷すぎる。
「そんなことをしていたら、鬼に追いつかれるわ。それで全滅したら、秋田さんに示しがつかなくなるわよ」
談子は何とか説得しようとする。だが、時雨も頑固だ。その場を離れようとしない。
「必ず生き残って。みんなの命、あなたたちに託すわ。信じてるからね」
ドアが勢いよく閉まる。扉の向こうへ飛び出していった時雨の姿が見えなくなっても、悲痛な叫び声や何かが壊される音が絶え間なく響いてくる。
談子の心が追い詰められていく。それに従って、耳が研ぎ澄まされる。物語りの智慧が、談子に声を送ってくる。
人間だけでなく、鬼に破壊され、見る影もなくなったであろう机や、棚の断末魔の叫びまでもが、頭に入り込んできて、思わず頭を押さえて蹲る。
「おい、しっかりしろ!」
暁と安眠に宥められ、なんとか吐くのはこらえる。しかし胸焼けのような気持ち悪さは治まらない。
「とりあえず、逃げるぞ。先生の言う通り、全員やられたら、元も子もない。恐らく、生き残っている魂を持った、人間はお前だけだ」
暁に腕を引っ張られ、何とか立ち上がる。
その頃には、扉の向こうが静まり返っていた。
みんな、やられてしまった?
由喜ちゃんも、時雨先生も、他の生徒達も。
みんなが苦しんで、魂を抜き取られていっているのに、あたしだけ逃げてばかりでいいの?
無駄だと分かっていても、これ以上逃げるのは嫌だ。暁の手を振り払い、談子は駆け出した。制止も聞かず、ドアを押し開く。
その向こう側の空間は、まさに地獄絵図。凄まじいまでに破壊された職員机たち。その上に倒れていたり、壁に叩きつけられて絶命している、たくさんの人間。
今度は、視覚からの情報が、嘔吐感を誘発させる。
足元では、時雨が物言わず横たわっていた。優しげな笑顔も、今は恐怖に怯えたような、歪んだ顔のまま、時間が止まっている。
その向こうに、鬼がいた。壊れた机たちを掻き分けながら、何をするでもなく彷徨っている。
「……どうして、こんなことするの。どうして、みんながこんな目に遭わないといけないの?」
先輩達も、親友も、先生たちも。
綺羅姫も。
お前さえいなければ、誰も苦しまなくて済んだのに!
談子の中に怒りが込み上げる。許せない、鬼が許せない。絶対、許さない。
鬼と話ができたら、仲良くなれたら。そんな初々しかった時の気持ちは、完全にどこかへ消えてしまっていた。今はただ、全てを奪っていく鬼が憎い。
憎くてたまらない。
「うわあああああ!」
時雨の側に落ちていた箒を拾い、談子は鬼へ向かって突進する。机を踏み越え、高くジャンプし、鬼めがけて箒を垂直に振りかざす。
直撃した。鬼の顔面に箒の柄が直撃し、箒はへし折れる。鬼も少し怯んだように頭を下げるが、悲鳴一つ上げず、ダメージを受けた素振りは見せない。
鬼は顔を上げた。垂れた目蓋の下から除く、黒い大きな瞳が談子を睨めつける。その瞳の奥が見えた。仄暗い世界が一気に広がり、談子を飲み込もうと襲い掛かってくる。
身体の体温が奪われてゆく。頭に上った血が一気に冷え下り、徐々に冷静さが戻ってくる。
そうなって初めて、自分の行いの愚かさに気付き、後悔が身体中を電流のように駆け巡った。
イナホの期待を、裏切ってしまった。また綺羅姫に、重い枷を背負わせてしまう。
全てを、元に戻さなければならなかったのに、全てをぶち壊してしまった。
あたしは、なんて愚かなんだろう。
暗い、暗黒の底のような冷たい水晶に、だんだん吸い込まれていく感覚に、体が少し重く感じた。魂はマイナスの質量を持っていて、死んだ人は生前より若干、体重が重くなるらしい。
絶体絶命の時なのに、そんなことを冷静に考えている自分が、なんだかおかしい。
蛇羅の言った言葉の意味が、何となく分かった。本当に何も感じない。空気の暖かさも、冷たさも、触れるものなんて何もない。
でも、怖いとは思わない。むしろそれが自然すぎて、違和感がなさ過ぎて、妙にしっくりきた。
本当に、無とは、こういうことなのだ。だんだん世界が遠くなる。
ずっと遠くで、自分を呼ぶ声を談子は聞いた気がした。ものすごく聞き慣れた声。
嫌味が多くて、ひねくれているけれど、時には真面目になったり、頼りにも感じられる、そんな人間の声。
でも、きっと気のせいだ。
こんな身勝手なことばかりする人間に構っている余裕なんて、あいつには、ないはずだろうし。
▲□▲□▲
地獄という比喩が相応しい、凄まじい惨状の職員室。
暁が飛び込んだ時には、もう手遅れだった。鬼と対峙し、向かい合う少女――月見談子。
その身体が、静かに崩れていく。
「お前が死んだら、誰が鬼を封印するんだ。全滅しちまったら、元も子もないだろう!」
必死で呼びかける。しかし、それに反応する素振りは、返ってこない。
「死ぬな月見! 死ぬな!!」
大声で怒鳴る。だがそれも虚しく、願いは届かず。談子の身体が、壊れた机の残骸の上に落ち、横たわる。視界が開け、鬼の姿がよく見える。額と髪の付け根に、赤い痣ができていた。談子が最後のチャンスにかけて攻撃した跡だろう。そこから、顔面に向かって小さな罅が入っていたように見える。遠目で、確認は取れなかった。そうする前に、鬼は小さな、悲しげな唸り声を上げ、教室の扉を蹴破って、出て行ってしまったのだ。
一瞬、鬼の横顔に、光沢のある液体の筋が垂れていたように感じた。
涙か?
そうなのかもしれないが、気のせいかもしれない。
だが、そんなことは、この際、どうでもいい。
終わってしまった。結界内の人間が、全滅してしまった。すぐにでも鬼の封印は、すべての魂のエネルギーを以って、再度封印されるだろう。
だが、もう誰も、甦りはしない。
「俺が、もっと強ければ……」
「ぐうう……」
暁は地面に膝をつき、脱力した。
GAME OVER




