十七.攻略失敗
流石に、水に飛び込むことは憚られ、プールサイドを通って談子たちは遠回りを強いられた。
カウンターは、残り十秒を切っている。緑色だった数字の表記が赤く変わり、点滅を始めている。
ドバーン!
もう一息で揺らぎに辿り着くという時、強烈な水音と共に、プールに波紋が広がった。
「なっ、何!?」
足は止めず、慌ててそちらを見る。しかし、向こう岸の様子は水の飛沫でよく見えず、何が起こったのかさっぱり分からない。
「あと五秒、間に合うぞ、急げ安眠!」
「ぐう!」
暁と安眠がラストスパートをかけた。談子はともかく、お目当ての不眠というキョンシーを連れてくるには、安眠の協力が不可欠なのだそうだ。不眠は天の邪鬼で、おまけに反抗期らしく、暁の言うことを全然聞かない。しかし安眠とは仲が良いため、彼女の言うことなら、たいてい聞いてくれるらしい。
暁が揺らぎに手を伸ばす。もうすぐ届きそうだ。残り三秒。二、一……。
「ぐっ!」
安眠が転んだ。濡れていた地面に足を滑らせたのだ。身軽な安眠は、その拍子で暁の背中に思いっきり突っ込み、共に倒れる。揺らぎのすぐ真下だった。
零。
ビーっと、サイレンのような音が鳴り、カウンターの表示が黒くなる。同時に、揺らぎがすうっと消え、その場には目に見えない、しかし強力な結界が再び張り巡らされた。
立ち止まり、談子は「あちゃー」と頭に手を当てる。
出口が消えてしまったことも大変だが、安眠に対する暁の風当たりのほうが、もっと大変だ。心配そうに二人を見守る。
「ぐ……。ぐっ、ぐぐう! ぐう!」
起き上がった安眠は、すぐに自分が転び、そして暁を巻き込み、更には最初で最後かもしれない絶好の機会を逃してしまったことに気付いて、焦り始めた。
安眠は賢い子供だ。何でもすぐに理解するし、素直で善悪の判断も、しっかり区別できる。
だがそういう子供は、自分が起こした不祥事について、必要以上に罪悪感を抱いてしまう。
抱えなくてもいい責任や苦痛を背負い込み、悪い事は悪い事だと理解しているから反論もできず、ただ謝ることしかできないのだ。
それを知ってか知らずか、談子の予想通り、暁は身体を起こした途端に安眠を怒鳴りつけ始めた。
「――どうして、お前はいつもいつも、大事なところで邪魔をするんだ! ぐずで、のろまで、おまけに弱い。お前がもっとしっかりしていれば、こんな苦労しなくても、鬼にだって勝てたはずだろう!? ただでさえ役立たずなのに、最後の最後でへましやがって。この責任、お前はどうやって取るつもりなんだ!?」
「ぐっ、ぐうう……」
「唯一の出口は塞がれた、不眠を連れてくることはできない。このままじゃ鬼も倒せない! やりたい放題されて、全員がやられていくのを黙って見てるつもりか、お前は!」
「ぐうぐう、ぐうう!」
首を振り、安眠は必死で否定する。今にも泣きそうな、とても辛い顔をしている。
しかし、キョンシーは泣けない。悲しいのに、悔しいのに泣けないというのは、とても苦しいことだろうと思う。
そしてそれ以上に、安眠がそこまで苦しむ必要もないだろうと、談子は強く思った。
「も、もういいじゃない。アンちゃんは反省してるよ、そんなに怒らないであげてよ」
「うるさい、他人が口出しするな! 何も知らないくせに、何の責務もない環境でのうのうと暮らしてきた人間が、偉そうな口を叩いてんじゃねえ!」
割り込んだ談子に、暁が怒鳴りつける。安眠が身体を震わせて、談子の後ろに隠れた。それほどに、暁の剣幕がいつもに増して激しいと言うことだ。
余裕のない、精一杯の主張。それが暁が出した数少ない本音だと理解する。
暁だって、実際に鬼と対峙してみて、自分自身の実力不足を痛感している。だからこそ、強さを求め、うまくいかなければ焦りと苛立ちに苛まれる。
自分を、無能だと認めたくないのだ。まだやれると、可能性に縋っているのだ。
だが怒鳴り終えて、暁はばつの悪そうな表情で俯いた。自分の言動が過剰だと理解している。彼もまた、賢い人間だ。
ならばきっと、談子の言い分も理解してくれるに違いない。そう確信して、勢いよく暁の胸倉を掴んだ。その行動に驚愕の顔色を見せる暁だが、談子は特に怒るでもなく、そのままの体勢で静かに口を開いた。
「あんたの事情なんて、知ってるわけないじゃん。知らないから口出しできるの、知らないから、普通に考えて間違ってることは、ちゃんと注意してあげられるの。あんたやアンちゃんが、どんな世界で暮らしてきたかなんて、分からない。だけど、あんただって、あたしがどんな環境で暮らしてきたかなんて知らないでしょう? そりゃ、のうのうと暮らしてきたって言われても、否定はしないよ。本当のことだし。だけどさ、辛いことの基準なんて、人それぞれ違うんだから、自分だけが不幸なんだとか、考えないでよ。何でも悪い方向に考えないで。鬼が倒せなくたって、何もできないわけじゃない。方法が見つからないからって、全滅するとは限らないのよ。あたしは死ぬ気ないもの。綺羅姫を助けてあげるまで、絶対に死んでやらないんだから」
一気にまくし立てて、談子は呼吸を整えて、暁に笑いかけた。
「だから、もっと良い方向に考えようよ? まだ絶対、方法は残ってるんだから。ね?」
「…………」
暁は無言で、目を逸らした。態度は曖昧でも、絶対に頭の中では理解してくれているはずだ。
言うだけ言って満足した談子は、暁の胸倉から手を離した。
「……ぐううー」
安眠が、談子の姿を見て、うっとりしていた。あそこまで、勢いづいて暁に言いたいことを物申せる談子に、尊敬の念を抱いたのだろう。
「……安眠、こっち来い」
静かに、暁が指示する。安眠は一瞬身体を強張らせたが、その声に、もう怒りがこもっていないことを敏感に感じ取り、そっと暁の側に寄る。
安眠の顔に、暁の手が伸びる。殴られるかと思ったのか、閉じたままの目蓋を、更に強く閉じる。痛みは感じなくても、恐怖はあるのだろう。
「鼻、折れ曲がってるぞ」
ゴキリ。暁の親指が安眠の鼻を押さえ、骨格を元に戻す。転んだ拍子に、鼻骨が折れたらしい。
普通に考えると凄く痛いはずだが、安眠は血も出ないし、気付いていなかったらしい。
キョンシーの痛みのないところは、いいなあと談子は思う。腕がもげるのは、困りものだが。
「ぐう、ぐうぐう」
安眠が必死に何かを訴える。暁に謝っているのかもしれない。暁は何も言わず、ただ安眠の帽子に手を載せた。それだけで、充分だったのだろう。安眠の表情はみるみるうちに笑顔に戻った。何にせよ、仲直りしてくれてよかった。談子も嬉しそうに二人を見ていた。
その時。突然プールが激しく波打ち、中央に水の竜巻が発生した。
「こっ、今度は何?」
驚いて構える。高さ数メートルに及ぶ、太くて長い竜巻。水の縄のようにも見えるし、螺旋階段にも比喩できないことはない。それくらい、大規模なものだった。
圧倒されていると、すぐに竜巻は収まり、塩素をふんだんに含んだ水が、大雨のように降り注ぐ。プールをはみ出し、サイドにいた談子たちにも豪雨のように水が落ちてきた。高い場所から一気に落下したほとんどの水は、地面にぶつかった勢いで跳ね上がり、津波のように側面へ押し寄せてくる。
「わわわ、うわー!」
談子たちは慌てて駆けだし、校舎裏と隣接するフェンスによじ登って難を逃れた。フェンスの隙間から、苔混じりの大量の塩素水が外へ流れ落ちて行く。呆然としながらプールを再度見ると、どこかで見たような人間が、妙な格好で横たわっていた。
「あれ、鬼外先輩だ。何でブリッジしてんだろ」
「つーか、髪型が変わってないか?」
器用に頭を支えにしてブリッジをするアフロ男に変貌を遂げた鬼外を見ていたが、その側に迫り来る、もうひとつの影に、目を疑った。
「おい、鬼が……」
先ほどからの轟音、大量の水飛沫、竜巻、津波。その災害めいた事象が、鬼外が鬼と激しい戦いを繰り広げていた証なのだと、談子は悟った。
自分たちのことで精一杯で、周りに目が向けられず、気付かなかったのだ。
鬼が、あんなに近くにいたなんて。鬼外が、命懸けで足止めをしてくれていたなんて。
「鬼外先輩、逃げて! やられちゃうよ」
談子の辛辣な叫びは、虚しくも、鬼外の断末魔の悲鳴によって遮られた。
力が抜け、プールサイドに倒れて、鬼外は動かなくなる。その上に馬乗りになった鬼が、その姿を覆い隠す。
「や、やられ……」
身体から、血の気が引いていくのが分かる。目の前でまた、知った人間が命を奪われた。それがとても辛く、耐え難い。
「……鬼が、動かない? 鬼は、かなり消耗しているみたいだ。今のうちに逃げるぞ」
鬼外の上で身体を倒した状態で制止してしまった鬼を見て、暁が気付いた。
落ち込んでいた談子も安眠に励まされ、面を上げる。
確かに、鬼はその場から動こうとしない。遠目にも、何だか苦しそうに肩で息をしている様子が見て取れる。
それだけ、鬼外との戦闘は過酷なものだったのだろう。
何にしても、鬼はまだ、談子たちの存在に気付く気配もなく、気付いても追いかけてこれるほどの体力も持っていない。
逃げるなら、これほどのチャンスはないだろう。
そうだ、こんなところで滅入っている場合ではない。まだ方法がなくなったわけじゃないんだから、時間の許す限り、立ち止まってはいけない。フェンスを乗り越え、三人は裏庭を抜けて、校舎の裏側へと向かった。