十六.鬼 VS 忍者
体育館から外に出て、石でできた階段を駆け下りると、広いグラウンドに出られる。プールが設置されている場所は、ここから校舎を挟んで、ちょうど向こう側にあるのだ。
「見て、あそこ!」
一番にグラウンドの砂を踏んだ談子が立ち止まり、遠くを指差す。ここからだとフェンスしか見えないプールだが、その側に、なにやら蜃気楼のような奇妙な揺らぎを見て取ることができた。
それは大きな球形をしていて、側に液晶画面のような横長の長方形が、一緒に浮かんでいる。その画面の表示は、デジタルカウンター。カンマ区切りの数字が勢いよく減っていく。きっと、あの揺らぎが消えるまでの時間を表示しているのだと悟った。
残り時間は、八分二十四秒。
「急げ! 間に合わなくなるぞ」
談子を追い越し、陸上走りでグラウンドを分断するように駆け抜けていくのは暁だ。
その後ろを、身軽な安眠が続いて行く。どちらも、信じられない速さだ。
「ちょ、ちょっと、待ってよ……」
数瞬遅れて、談子も走り出す。しかし短距離が苦手な談子には、この直線は、かなりきつい。しかも筋肉痛ときたもんだ。まだ半分も走っていないのに、談子は既にバテ始める。
「無理をしてはいかん。これで鬼との戦いが終わるとは限らんのだ、体力はある程度、残しておかんと」
後ろから、鬼外が忍者走りでやってきた。男子なのだし、体力はありそうだ。行こうと思えば暁と同じくらいのスピードで走れそうなのに、彼は最後尾に気を配りながら、ゆっくり進んでいた。
談子の隣に並び、平然とした表情をしている。ドレッドヘアが風に靡いて、天日干しワカメのようだ。
「き、鬼外先輩、先行ってください。間に合わなくなったら大変……」
息を切らしながら、談子は言う。鬼外は歯を出して笑った。
「別に拙者は、外界へ出たいわけではない。それに女子をひとり、こんなところへ残して行くわけにもいかんだろう」
「な、なかなか、かっちょいいこと、言うじゃないですか」
少し鬼外を見直した。しかし顔が赤いのは決して惚れ直したからでも照れているからでもない。
「はっはっ。これぞ忍びの極意! できれば水浴び場までお連れしたかったところだが、ここは遠くからでも目立ちやすい。身を隠すものが何もない開けた場所であるからして、もし拙者が刺客ならば、迷わず狙うであろうな」
プールの入り口まで、あと少しに迫った。前方では暁と安眠が立ち往生している。きっと扉が開いていないため、どこから入り込むか迷っているのだ。とにかく談子は、追いつけて安堵する。それとは正反対に、鬼外の眼光が細く鋭くなる。
突然、上空で凄まじい破壊音が響き渡る。心臓が跳び出るかと思った。驚いて見上げると、何かが降って来る。
――光の雨。
そう見えるほどに眩しい小さなものが、バラバラと落ちてきた。
それが太陽の光を浴びて輝いた窓ガラスの破片だと気付いた時には、目の前が真っ暗になった。
「目に入ると危険でござる、下を向いておれ」
談子の視界を塞いだのは、鬼外の制服の上着だった。訳が分からず上着を取ろうともがいていると、ドザーと大雨のように、細かい粒が地面に大量に降り注ぐ音と、頭に何かが大量にぶつかる感触が襲ってきた。
霰に降られた時のことを思い出す。その感覚に、よく似ている。
音も感触も止み、頭から上着をどける。
あたりの景色が、数分前とは一変していた。大量のガラスの破片に埋め尽くされ、半透明に輝く校庭。見上げれば、グラウンドに隣接する校舎三階の窓ガラスがほとんど割れ、淵しか残っていなかった。
そして目の前では、風呂敷を頭からかぶって硬い雨を凌いでいた鬼外の姿が。
道具を収納していたものを使ったため、周囲の地面にはガラスの粒と混ざり合って、大量のガラクタが散乱していた。
「だ、大丈夫ですか先輩。これはいったい……」
「む、来るぞ!」
談子のか細い声を遮り、喝を入れるように鬼外が怒鳴る。直後。
バァン! 先ほどと同じ規模の破壊音。今度は同じ階の別の窓が勢いよく割れ、地面に降り注ぐ。談子たちのいる位置からかなり離れていたため、被害を受けることはなかった。
しかし、この時降ってきたのものは、ガラスだけではない。砕けた破片を身に纏い、勢いよく落ちてくる大きな塊。
鬼だ。
「そっ、そんな!」
有り得ない、あんなところから追いかけてくるか、普通。
驚く談子、しかし鬼外の言う通り、このような目立つ場所をトロトロ走っていて、鬼の目に止まらないはずがなかったのだ。
鬼は魂を持つ人間たちを目ざとく見つけ出し、執拗に追い詰める。
その魂を食らい尽すまで。この地から、人間がいなくなるまで。
「ようやく、おでましか! ここは拙者が引き止める、お主は早く、出口へ向かうのだ」
鬼外は勇ましく吠え、固まってしまっている談子を抱き上げた。
「えっ? あのっ!?」
「そらっ、行くがいい!」
そして両手で一気に投げ飛ばした。狙いは正確、談子は鍵のかかったプールの入り口にまっしぐら、突っ込んだ。
その先には、暁と安眠の姿がチラッと見えた。フェンスを登って中へ進入しようとしているところだった。
「ぎゃああああ! ぶつかるー!」
「うおっ、何だ!?」
フェンスの頂上に足をかけた暁に激突。そのまま、プールサイドへ突っ込んだ。頭でスライディングして制止した談子は、思いっきり擦れた額をさすりながら、上体を起こす。
「いったー。何てことするのよ、もう……」
「そりゃ、こっちの台詞だ! いきなり飛んできやがって、どこのミサイルだお前は!」
同じく上体を起こした暁が怒鳴る。背面を打ったらしく、しきりに背中を押さえている。
「そんなこと言ったって、あたしは何も……」
「ぐうぐう!」
一人、身軽にフェンスを跨いできた安眠が声を上げ、腕を伸ばした。言い合いを中断してそちらを向くと、水の張られたプールの向こうサイドに揺らぎが。
あれを越えれば、外に出られる! 胸に期待が膨らんだ。
しかし安堵する暇はなく、隣のタイムカウンターの数字を見て、二人は飛び起きる。
「急げ、あと十秒!」
そして全速力で駆け出した。
▲□▲□▲
午後の太陽が降り注ぐ、広いグラウンド。足元に散らばった、素晴らしき対・鬼兵器の中から、水泳用のゴーグルを拾って装着するドレッドヘアの男――福内鬼外。
これも戦略の一つだ。半透明の膜に覆われた、太陽の光をも遮る水中眼鏡をはめていれば、向こうにこちらの眼球運動を悟られにくい。したがって、相手に動きを読み取られたり、うっかり目を合わせて魂を抜き取られる確率も、ぐんと低くなるのだ。
「この地に流れ着いて、早幾年。拙者は、この時を待ちわびておった」
鬼外は笑う。両手には、十八番である水を操る文明の利器、水鉄砲が二丁。引き金を引く寸前の状態で構えられている。
その銃口が向かうは、すぐ前方の輝く大地。大小、多数のガラスの破片を身に纏った白髪の夜叉に、しっかりとポイントされていた。
「拙者の名は、福内鬼外。その名に鬼の名が刻まれているのは、鬼のように強く大きく、そして鬼よりも繊細で懸命な忍となるよう望まれ、この世に生を受けたため。その由来を知ったときから、拙者の夢は唯一つ! 目指すべく鬼と対峙し、乗り越えて真の強さを得ることにあり。その夢叶うことなく見知らぬ土地に行き着いてしまったが、よもや、このようなところで捜し求めた鬼と戦うことになろうとは、数奇な巡り合わせよ。ここであったが百年目、今日この地で貴様を倒し、忍の世を統べる王となろう!」
鬼外は構える。その奇怪な姿を、鬼が睨みつける。
鬼の表情は、経てして変化しない。まるで仮面でも被っているようだ。その赤い裂けた三日月状の口から、潰れた咆哮が迸る。低く、重い音波が鬼外の周囲の空気を震わせた。
凄まじいプレッシャー、常人ならば、その場に腰を抜かして失禁しそうな恐怖感が、辺りを包みこむ。
鬼の威嚇行動に、鬼外が臆する気配はない。逆に挑発するように、ゆっくり足を前へ押し出した。
鬼の声が止まる。目の前の怪しげな男の動きに反応し、一瞬の隙を見せる。
鬼外の好機。
逃さず突進する。
グラウンドが抉られ、小さな穴が点線を描くように直線に延びる。その僅か上空には、纏まって綺麗に飛び散る、砂の塊。鬼外が地面を蹴り進んだ跡だが、その残像は全く見えない。
微動だにしなかった鬼が、反応した。その瞬間には、既に鬼外は鬼の懐の中だ。
「貴様には、これで充分!」
水鉄砲を懐にしまい、ズボンのポケットから取り出したのは自動火打石。ライターとも言う。
「食らえ、火遁、火遁、大爆発!」
シュボ、シュボっと連続で火を起こす。その小さな熱に驚き、怯む鬼。その顔が、突如として炎に包まれた。
直後に耳を劈いた爆発音。ライター本体が強烈な炎を巻き上げ、爆発したのだ。
本来、ライターには爆発するような仕掛けも素材も使用されてはいない。これを鬼外に渡したみかんが、何らかの仕掛けを施した可能性もあるが、その原因のほとんどは、鬼外の自然現象を操る能力にあった。
火遁は最も危険で苦手な技だが、この程度の規模の炎を誘発させることなど、寝ながらでもできる。
爆発の直後、その高温の熱のせいか、強烈な爆音と煙のせいか、鬼は顔を抑えて悲鳴を上げた。
身体が引き裂かれそうな、高音の叫び。あまりにも強烈過ぎて、先手を打った鬼外も怯み、その後の連続攻撃に繋げることができなかった。
耳を押さえても聞こえてくる、激しい声。妙な超音波を出しているらしく、校舎一階の窓ガラスに罅が入り、中央から割れて砕け散った。
「くううっ、何と非常識な……」
人のことは言えないまでも、鬼の放つ技の威力は、桁違いに凄まじい。
鬼外は自分の手が震えていると気付いた。
ゼロ距離で暴発を促したせいで、鬼外の身体もダメージを受け、手や制服は、火傷や煤で真っ黒になっている。
自ら身体を張っての攻撃と、それに対する予想以上の反動。
有利かと思われた戦況だったが、じわじわと悪化の道を辿っている。
「あの衝撃を受けて、無傷だと言うのか……?」
大きく舌打ちする。鬼の髪や着物など、燃えやすいものは多少焦げていたが、その硬い鱗のような肌には、焼け焦げ一つ付いていない。
鬼はもともと、火山口付近で生活をする種族だと言い伝えられている。熱には、めっぽう強いのかもしれない。
「ならば、やむ負えん、拙者の最終兵器を食らえ! そら、水遁、水遁!」
懐から取り出した水鉄砲の引き金を引く。
ピューピューと水が飛び、鬼との間の地面を濡らす。だがその攻撃は、乾燥したグラウンドでは、間抜けで無駄な行為にしかならなかった。
いかんせん、水量が足りない。雨でも降らない限り、水は火のように空気中に分散しない。大技を使うには、それ相応の体積の水が必要となる。幸いにも、背後にはプールがあるのだが、果たしてそこまで逃げ切れるか。
だがどう頑張っても、水鉄砲では鬼に太刀打ちできない。最終兵器を封じられ、また少し鬼外は怯む。
その弱気になった魂を、鬼は決して見逃さない。
反撃が開始された。
こちらへ向かって突進してくる。
「ちいっ! 仕方がない、いったん退却……」
逃げようと背を向けかけたその時、偶然にも、その光景を目に留めてしまった。
追いかけてこようとした鬼の動きが、何やらぎこちない。
スピードが格段に落ち、足元がおぼつかず、ふらふらしている。何事かと地面を見てみれば、鬼はグラウンドの乾いた砂だけを、一生懸命踏みしめて進もうとしていたのだ。
鬼外の顔が、歓喜に綻ぶ。
「成程な。見つけたぞ、鬼の弱点!」
素早く印を結び、固定した両掌を、地面に叩き付ける。
瞬間、グラウンドが砂丘に変貌した。平らに均されていた地面が鬼を頂点に膨張し、小さな山のように盛り上がる。
「土遁、無頂点!」
再び印を結ぶと、小山が破裂し、鬼が上空へ吹き飛んだ。おぞましい姿形をしていても、身体は童女のものだ。小規模な爆風で、かなり高くまで砂と一緒に巻き上げられる。
それを見計らい、鬼外も跳んだ。あっという間に鬼と同じ高さまで上昇し、飛び上がる前に手に入れておいた長い棒を、鬼めがけてスイングする。
これはかつて、孫悟空も使ったとされる伸縮自在の如意棒だ。と鬼外は思っているが、実はただの物干し竿である。みかんの配慮で、若干は伸び縮みするようだが。
棒は鬼の背中を直撃、ダメージを受けたかは、手応えから謀り知ることはできなかったが、小さな身体はその反動で、勢いよくかっ飛ばされた。
鬼が飛んだ場所は、先ほど談子を投げ飛ばしたプール。
プールサイドを一生懸命走っている人影が三つ、空の上から確認できた。
影が向かうその先には、外界へと繋がる揺らぎの扉。
その側につけられたデジタルカウンターは、既に十秒をきっている。談子たちは無事、潜り抜けることができただろうか。それを確認する余裕は、残念ながらなかった。
素早く着地した鬼外は、鬼の後を追うように駆けだし、外壁を飛び越えてプールに潜入。
プールサイドに着地すると同時に、鬼が水の中に落ちた。
「ギャアアアアアアア!!」
凄まじい悲鳴。塩素まみれの水を口の中で泡立たせながら、必死でもがいている。
「やはりな、貴様の弱点は水だ! 敵の弱きを突く、これすなわち卑怯に非ず! 立派な戦法である。悪く思うな」
鬼の暴れる目の前で仁王立ちし、鬼外は勝利に酔いしれる。腰に手を当てて、大らかに笑った。
溺れながらも水をかき、鬼がプールサイドへ接近した。足場へかけられた鬼の手を踏み抜こうと、鬼外の足が油断なく動く。
しかし、その行為そのものが油断だった。
鬼は振り下ろされてきた足首をタイミングよく掴み、人外に相応しい怪力で、鬼外を水中へ引き摺り込んだのだ。
「んなっ、何とォ!」
不意を突かれた。足を滑らせ、水の領域へ真っ逆さま。
衝撃と共に立ち昇った水柱。深部まで引きずり落とされた鬼外だが、水中眼鏡とは、本来ここで使うものだ。水の中でも、鬼の動向がよく見える。
陽光が差し込む水底。まだプール開きには早いが、毎年冬になると、近くの川に飛び込んで寒中水泳を日課とする鬼外にとっては、ぬるま湯と何ら変わりない。
水中で、鬼が暴れていた。必死で泳ごうとしているが、着物が水を吸って、その重みでどんどん沈んでいく。手足を動かすたびに、小さな泡の集合体が生み出され、上へ上へと登っていく。
水の中で、鬼外はほくそ笑む。鬼には悪いが、水中の戦闘は鬼外の最も得意とするところ。
戦闘値が大幅にアップする鬼外のテリトリーに入り込んでしまった以上、逃げることはできない。
水中で素早く印を結ぶ。
『水遁、螺旋流巻!』
術の発動を促した。次の瞬間、プールの水が大きな渦を描いて回り出す。しかもただ回るだけではない。回転はどんどん高速化し、ついには重力による空気抵抗を破壊、上空へと飛び出した。
それは外から見れば、おそらく巨大な水の竜巻に見えるだろう。それに巻き込まれ、鬼が水と共に上昇する。鬼外もわざと巻き込まれ、共に登っていく。
ある程度上昇すると、水の威力も底を突き、滝のような雨となって、がらんどうのプールへと再び帰っていった。
水の舞から放り出された鬼は、溢れた水が波打つプールサイドに叩きつけられ、奇声を上げながら倒れた。必死で起き上がろうとしているが、痙攣する身体はうまく動かないようだ。
その側に、鬼外が無傷で着地する。ゴーグルを目からはずして額に上げる。その満悦した笑顔で鬼を見下し、歓喜の声を上げた。
「ふふふ、やったぞ、してやったり! ついに鬼に一矢報いることができた! これで拙者も世に数多といる強者達と、名を連ねられるというものだ!」
悦に入り、笑いが止まらない。背中を逸らせて、威張り散らしている。
が、その体勢は、いささか命取りだった。
「お? 何だ、頭が重い……」
鬼外は気付いていなかった。頭が火遁の影響で爆発し、金タワシみたいなアフロヘアと化していたことを。さらに、知らなかった。大量に水を吸ったアフロが、どれほどの質量になるかを。
背中がだんだん反れ、必要以上に重くなった頭が、地面に落ちた。想定外の出来事にジタバタしてみるが、ブリッジの体勢から動くことすらままならない。
「くうっ、何たる失態、せっかく、鬼に一撃を与えられたというのに、何とも情けない姿!」
顔を歪めて、己の失態を恥じる。これは、誰が見ても明らかに、格好悪い。
体勢を整え直そうともがいていると、足元から嫌な空気が漂ってくるのが感じ取れた。
寒気を覚えたのは、体中が濡れているからだけではないはずだ。
妙な威圧感。
鬼外は、唯一動く眼球を精一杯下げ、顎を引いた。腹部の曲線が見える。そこから日の出のように登ってきたのは、雫をたらした白髪の束。
荒い息を吐き出しながら、それはこちらへ近付いてくる。ゆらり、ゆらりと身体を左右に揺らしながら。
「ば、馬鹿な。先程まで、満身創痍だったはず。起き上がることすら、できなかったのに……」
――鬼を侮りし者、無様に散り逝く姿は、さぞ見物なり。
昔どこかで聞いた、物語の終わり文句が、頭の中に響く。
だがそれも、すぐにかき消された。
自分の上げた絶叫によって。