十四.さらに二人目
足を止め、振り返ってみると、どこだか分からない廊下の真っ只中にいた。弾む息を整えていると、後ろから暁と安眠、そして蛇羅が走ってくる。
「みんな、無事だったんだ。……みかん先輩は?」
「……残念だけれど、彼女は僕たちを逃がすために、一人残った」
追いついてきた蛇羅がそう告げる。談子のこめかみを、汗が伝った。談子たちを庇う、みかんの後ろ姿が、鮮明に脳裏へ蘇ってくる。
「や、やられちゃったって、ことですか?」
誰だって、こんなことに答えたくなんてないだろう。でも、尋ねずにはいられなかった。
「……おそらく、魂を抜き取られてしまっただろう。しかし、あの不意打ちから逃れるには、誰かの犠牲が不可欠だった。月見くん、君が気に病むことはない」
確かに、あの突然の鬼の襲撃から全員が逃げようとすれば、確実に捕まって全滅していたかもしれない。だからといって、みかんがやられて良かったということにはならない。自分のせいではないとは言われても、談子の表情は、みるみる曇っていく。それを宥めようと、蛇羅は優しい言葉をかけてくるが、彼自身もショックが大きいはずだ。
「つーか、お前が囮になればよかったんじゃないか。正直、生き残っても役に立たんだろう」
「うう、酷い言われようだな。確かにその通りだが」
痛いところを的確に突いてくる暁に、蛇羅はたじろぐ。
「だが、僕がこうしてここにいる以上は、できる限りのことをやらせてもらうつもりだよ。この両手が使えなくてもね」
そう言ってギプスに包まれた手を構えて意気込む。蛇羅だって蛇羅なりに事態を良くして行こうと努力しているのだ。その意気込みは伝わったのか、暁は小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「足手まといになるようなことしたら、すりおろして蒲鉾にするからな」
「ははは、肝に銘じておくよ」
そうだ、いつまでも落ち込んでいたって意味がない。今は自分ができることから始めていかないと。談子も落ち着きを取り戻し、顔を上げた。
「みかん先輩の犠牲を、無駄にしちゃいけないもの、あたしたちが何とかしなきゃ」
頷いて、蛇羅は腕時計を見た。そして頭の中で何かを計算し始める。
「現在の時刻は、午後一時十四分。この季節だと、日没は長く見積もっても、六時から七時の間くらいだ。残り約五時間、逃げ延びながら鬼を封印する方法を見つけなくてはいけないな」
「そうですね。もし、今の状態で日没を迎えても、みかん先輩は……」
仮に今の段階で鬼にやられた人間が、みかんだけだとすれば、そのまま日没を迎えた時点で、みかんは死んでしまうことになる。蛇羅もそのことは理解しているようだが、前向きに考えを変えるようにと首を振ってきた。
物語りの智慧を持つとはいえ、鬼を封印する方法なんて、本当に見つけられるのだろうか。談子をプレッシャーが襲う。みんなの命を背負っているのだ、責任はとても大きい。
「あまり、自分を追い詰めてはいけないよ。何にしても、逃げ切ることが大前提だ。万が一、全滅してしまえば、全員の魂が持っていかれてしまうのだからね。そうなれば、ここで犠牲になってくれた夏くんに、示しがつかない」
「何か、心当たりはないのか? 鬼に関すること、色々調べまわってたんだろう?」
「急に、そんなこと言われても……」
頭の整理がつかない。そんなつもりで鬼の封印を探していた訳じゃなし、もし見つけていたとしても、今の談子には、それを的確に思い出せるほどの冷静さがなかった。
「ごめん、分からない」
「まあ、世の中には、思い通りにならないことのほうが多いからね。なんせ目が合っただけで魂を抜き取られてしまうんだ、全員が逃げ延びるなんて至難の業なんだよ」
蛇羅は諦め気味だが、そんな考えのままでは何も始められないことも、談子は分かっているのだ。対極の感情に板挟みにされ、でもどうにもできずに苛立ちが募るのを、何とか押さえつける。俯く談子の頭を起き上がらせるように、暁の強めの声が渇を入れた。
「ようは、鬼を倒せば済むんだ。二年前に決行した方法が使えなくたって、他にも退治する方法なんて、いくらでもある。俺と安眠で鬼の体力を削っていくから、お前らはとにかく逃げろ。それで運よく日没までに封印できれば、儲けもんだろうが」
キョンシー使いは、結界内に魂を持たないので、鬼と目を合わせようが触れられようが、決して死ぬことはないらしい。
みかんに見せてもらった、鬼ごっこマニュアルの下のほうに、そう書いてあったのを思い出す。
みかんから聞いた話によると、キョンシー使いの一族は、魂を身体から分離させた状態を維持できる特異体質なのだという。暁の魂は、現在自分の家に保管してあり、そこから遠隔操作しているそうだ。だから、どれだけ鬼と真っ向から戦っても、その魂を持っていかれることはない。キョンシーの安眠だって、既に肉体が死んでいるため完全な魂を有しておらず、それを鬼が食らうことはできないという。
鬼と戦う際には、とても力強い戦力だ。ただし、暁たち以外の全ての人間が鬼にやられてしまえば、全滅したことと、変わりなくなってしまうらしいが。
つまり結界内では、暁と安眠は魂を持った人間として、鬼にカウントされないわけだ。暁たちが鬼の注意を引き、かつ退治できれば、それが一番いいのかもしれないが、暁の物言いは、どこか投げやりで、苛立ちを感じさせた。
何かを焦っている風な態度と、とにかく何でも一人で解決してしまおうとする姿勢が、談子は気に入らない。
「何言ってんのよ、さっきだって、逃げるのに精一杯って感じだったじゃない。無理して大怪我でも負ったら、鬼とか関係なく本当に死んじゃうかもしれないんだよ? そんなことになったら身も蓋もないでしょうが」
気付けば、文句を言い返していた。でも事実だ。いくら魂が食われないとはいえ、ちゃんと生きているのだから。鬼と戦って負傷すれば、ただでは済まない。
「さっきは、不意を突かれて万全の体勢で挑めなかっただけだ。こちらから先制攻撃を仕掛ければ、きっと倒せる」
「どこからそんな自信が出てくるの? あんたのお兄さんだって倒せなかったんでしょう? キョンシーだって、すぐに腕がもげるくらい脆いんだもの、あの鬼には敵わないよ」
「あんな奴と、一緒にするな! お前がキョンシー使いの何を知ってるって言うんだ」
「まあまあ。双方、落ち着きたまえ」
まだまだ続きそうな口論を抑えるように、蛇羅のギプスが割り込んで制裁に入る。
「鬼退治に関して、どうすることが一番いいのか、なんて誰にも分からない。ここで揉めていても、答なんて出ないよ」
ただ現状を淡々と述べるだけの蛇羅に苛立ちを覚えたのか、暁の怒りの矛先が移る。
「お前、二年前も鬼にやられたんだろう? 悔しくないのか、今度こそ倒してやる、みたいな、決意とか意気込みってもんはないのか?」
「リベンジ精神ってやつかい。そうだな。そう言ったことを考えられるほど、僕は強くはないようだ。一度、魂を抜き取られて分かったよ。僕は攻めるよりも、守りに入るほうが向いている人間だとね。鬼に仕返しをしたいとは思わないし、また死にたいとも思わないよ」
「死ぬって、どんな感じなんですか?」
談子の問いに、蛇羅は「何も」と応えた。それは何の感想もない、という意味ではなく、本当に何も感じなかったのだという。
「何もないんだ。魂を抜かれた瞬間、何だか自分が宙を漂っているような感覚になるんだけれど、身体がないから空気に触れられない。それが気持ちいいものなのか、気持ち悪いものなのかも分からないし、上も下も右も左も分からない。温度も重力も、全ての感触がないんだ、それだけが理解できる。何が何だか分からなくなって、だんだん存在が消えていく、そんな気がしたのだけは、覚えている」
遠い目をして、蛇羅は廊下の向こうを見据える。心なしか、腕が震えている気がした。
「本当に怖かったのは、魂が自分の身体に戻ってきた時だ。空気、音、質量、ありとあらゆるものが、どっと押し寄せて、僕を覆い潰してしまおうとするんだ。今まで当り前だった感覚が、とても恐ろしく思えた。息をすることが、あれほど苦しいとは、想像もしなかった。あの感覚だけは、嫌でも忘れられないな。体験していない君たちが想像するのは、難しいだろうけどね」
確かに、思い浮かべても具体的なイメージは浮かんでこない。でも、それを直に体験した蛇羅は、とても恐ろしい思いをしたのだろう。みかんも今頃、そんな感覚に襲われているに違いない。それを考えると、少し怖くなった。
それが、「死ぬ」とうことなのか。
「過程はどうあれ、あんな思いは、誰にもして欲しくないね。もちろん春眠君、君にも」
真剣な蛇羅の表情。暁も押し黙った。鬼は倒したいが、死にたくはない。その気持ちだけが、唯一共通する本音であるのだから、その意志を邪険に扱うことはできないはずだ。
空気が落ち着いたのを見計らい、蛇羅は自分の提案を切り出した。
「とにかく、今、学校にどれだけの人間が閉じ込められているのか、そしてやられてしまった人間が夏くん以外にも存在するか、全体図を把握してみるのが一番効率がいいんじゃないかな。もし生き残って隠れている人がいるなら、合流する方法を考えてみるのもいい。その辺りから手を打っていったらどうだい? まだ時間はあるんだ、できることから行動に移しながら作戦を練っていっても、遅くはないと思うんだが」
「でも、校内に何人の人間がいて、どれだけの奴がやられているかなんて、いちいち確認してたら日が暮れるぞ」
ただでさえ、校内はみかんの発明のせいで、ややこしい状態になっている。構造を把握するだけで、一日が終わってしまう。
文句を垂れる暁に、蛇羅は心配ないと腕を振って見せた。本当は指を振りたかったのだろうが、そのギプスでは無理な話だ。
「僕に抜かりはないよ。安眠くん、僕のポケットから、ホイッスルを出しておくれ」
「ぐう?」
一番側にいた安眠に指示する。言われたとおり、安眠は蛇羅の制服のポケットから、銀色のホイッスルを取り出した。
「よし、それを思いっきり吹いてくれ。僕は手が使えないのでね」
「ぐう!」
頷き、安眠は大きく息を吸い込んだ。そのままホイッスルを咥え、一気に息を吹き込む。
ビピイイイイィィィィィィィ!!
「うわっ、耳が潰れる!」
「安眠、もっと、そっと吹け!」
あまりにけたたましい音に、談子と暁は聴覚の危険を覚えて、耳を塞ぐ。蛇羅も慌てて耳を塞ごうとしていたが、ギプスが邪魔してほとんど音は遮断できず、失神寸前で何とか意識を保っていた。安眠の一番側にいたのだから、ダメージは一番大きいはずだ。
「ぐぐう?」
吹いた本人は、さほど気にはかけていない。キョンシーはほとんどの感覚器が機能していないので、痛覚が働かないのだ。
「ごっ、ご苦労様……。ホイッスルを、僕の、ポケットに、また、しまっといて、くれたまえ……」
今にも倒れそうな青い顔をして、蛇羅が言う。指示通りに、安眠はポケットにホイッスルを収めた。安眠は、蛇羅とは反対に、思いっきり笛が吹けて満悦した表情をしている。
「……で? 今の行動に、何の意味が?」
暁が訊ねると同時に、天井の板が外れ、上から人が落ちてきた。音もなく床に着地し、片足の膝を床につけ、もう反対側の膝を立てた体勢で、しゃがみこんでいる。その首は、まっすぐ蛇羅を向いていた。
「お呼びでござりまするか、殿!」
目を輝かせ、声を張り上げる、謎の男。着ている制服から、本校の生徒だろうと予想はつくものの、その登場方法は普通とは言いがたい。というより、非常識だ。談子たちの不審な視線をものともせず、慣れた様子で、蛇羅はその男にねぎらいの声をかけた。
「うむ、よく来てくれたね。ご苦労様」
「誰だよ、こいつ」
暁は警戒心を込めて男を睨みつける。
「ああ、君たち一年生は、会ったことがないだろうから紹介しよう。彼は、福内鬼外くん。常に天井裏に身を潜め、人前には滅多に出てこないので、暁君も会ったことがないはずだが、彼も生徒会役員なんだよ。二年で美化委員長。趣味は密偵、特技は闇討ち。友達少ないから、まあ仲良くしてあげておくれ」
闇討ちを十八番にするような人間と、どう仲良くなれというのか。やっぱり流行の遊びは闇討ちごっこか。
顔を引きつらせ、談子は動揺して視線を泳がせる。ふと、隣の暁と目が合う。その複雑そうな表情から察するに、きっと考えていることも酷似しているに違いない。
「よろしくお頼み申す。主らのことは、拙者が全ての力を駆使して鬼の手から守って差し上げよう」
周囲の考えとは裏腹に、嬉しそうに合掌して頭を下げる鬼外。色々と奇怪な趣味特技を持っているらしいが、読心術は身につけていないようだ。その点は安心した。
「彼はね、遠く戦国時代からタイムスリップしてやって来た、本物の忍者なんだよ」
「先輩の頭がタイムスリップしてるんじゃないですか? 嘘つくなら、もっと面白い嘘ついてください」
談子は、しれっとした目で蛇羅と鬼外を視線で嘗め回した。暁もそんな様子で、とにかく全く信用していない。
「嘘じゃ、ないんだよ? 中々、信じてくれる人はいないけれど、彼は忍装束姿で学校の裏山で倒れていたところを、僕が助けて連れてきたんだ。それ以来、僕を命の恩人として忠誠を誓ってくれているのさ」
「忍者村のインストラクターのアルバイトが遭難したんだろ、ようはエセ忍だ」
「いやいや、そんなことは決して……」
「とにもかくにも、その頭で忍者と言われても、説得力がありません」
腕を組んで、隙を見せずに直立する鬼外の頭を見れば、おそらく誰もが談子と同じ考えに行き着くはずだ。
鬼外の頭は、忍者としてどうなのかと思えるほど見事な、ドレッドヘア。細かく編まれた三つ編みが、幾重にも絡み合って蛇のように頭から噴火している。ギリシャ神話で有名な化け物、メデューサを思い出した。
「失敬な。これも修行のうちである。忍とは、隠密行動が人生のほとんどを占める。したがって、寝床もなく風呂にも入れず、とにかく過酷な生活を強いられるのである。それに慣れるため、我らは常に身体や髪を襲う隔靴掻痒に耐える訓練をせねばならぬ。しかしこの平和な時代では風呂に入るのは日課であるからして、何ヶ月も湯浴みをせぬと不潔扱いされてしまう。それで蛇羅殿のご助言をいただき、頭を洗わなくても嫌がられない髪型を創案したのでござるよ」
前に読んだ雑誌に、ドレッドヘアの人は頭が洗えないので香水などをつけて臭いをごまかしていると書いてあった。だからと言って風呂に入らない理由にはならないと談子は思ったが。
「まあ、頭は百歩譲るとしても、身体はちゃんと洗ったほうがいいですよ」
「むむ、女子にそう言われると、何やら説得力がありけり。しかしご安心せよ、拙者とて、若い娘にもてたいゆえ、湯浴みはちゃんと行っておる。熱湯に耐えるのも修行のうち。見よ、この洗練された拙者の身体を!」
そしてバッと素早く制服のシャツの胸元を開いて見せた。割れた腹が露になる。自分が清潔だとアピールしているらしいが、夜の公園で同じことをしたら露出狂と間違われること請け合いだ。
「さて、自己紹介も済んだところで、本題に入ろう。実は学校に着いた時に、彼を呼んで学校の現状調査を頼んだんだ。彼は天井と床の間を自在に移動するから、鬼に見つかることなく情報収集できるのさ。で、福内くん。頼んでおいた校内の人物集計は完了しているかな?」
「完璧でありますぞ、殿!」
鬼外が取り出して広げたのは、巻物のように丸められた、長細い半紙。筆と墨で描かれた学校の見取り図が現れる。みかんの発明により、今やその配置は理解できないほどにメチャクチャだが、ここに書かれているのは、普段の正常な校舎配置だった。所々に赤い×印や青い○印などが、小さく記入されている。
「本日、この校内には我々を含めて、計十三人の対象者がおります。青い印は、今も鬼の脅威から逃れるために身を隠している者たち。赤い印は、残念ながら……」
悔しそうに、鬼外は肩を落とす。皆まで言わずも、それが示す意味は、よく伝わってきた。
「やはり、犠牲者なくして鬼との戦いは不可能なのだね」
「とにかく、この青い印の場所へ行ってみませんか? 生き残っている人と合流できれば、それなりに心にゆとりがもてるだろうし、何かいい案が浮かぶかもしれないし」
「でも、ここまでどうやっていくんだ。教室の配置はめちゃくちゃだぞ、適当に動き回っていても体力を消耗するだけだ」
「けど、ここでじっとしていても……」
言い返そうと口を開いた談子だが、その後出てきたのは、途切れ途切れの喘ぎだけだった。一瞬、息をするのも忘れてしまう。鬼外もその気配に気付いたのか、目を鋭く細め、身体をピクリと震わせた。
「あ、あれ、あれ……」
談子は真っ直ぐ指をさす。その先は、ついさっき走ってきた廊下だ。
何事かと、全員が向き直る。そして表情を一変させた。鬼がこちらを見ている。まだかなり距離があるが、それを詰めるように、こちらへ歩いてくる。
「さっきのホイッスルで、居場所が割れたのかもしれない。みんな、早く逃げるんだ!」
蛇羅の声を合図に、みんないっせいに駆け出す。
「殿! どうされた、早くこちらへ!」
鬼外の声で、談子は立ち止まって振り返った。迫り来る鬼を目前に、壁のように廊下に立ちはだかっている蛇羅の姿が見えた。
「蛇羅先輩! 何やってるんですか!」
「ここは僕が食い止める! 君たちは、必ず生き残るんだ!」
談子たちに見せた蛇羅の横顔は、強気に笑っていた。だが、筋肉の引き攣りは隠しきれない。
恐怖を押し殺したのか、それとも開き直りか。蛇羅は二度目の死に向かって飛び込んでいったのだ。
死ぬ苦しみを知っているはずなのに、あんなに震えていたのに。
「蛇羅せんぱ……」
蛇羅のもとへ駆け寄ろうと、助けようと、談子の足は後退していた。しかし、その身体を鬼外に抑えられ、手で目を塞がれた。鬼と目を合わせない為の配慮だろうか。それとも、彼が〝終わる〟姿を見せないためだったのか。
どちらにしても、結局何も確認することもできず、引きずられるように談子は廊下を前進していった。
▲□▲□▲
鬼外が談子を連れて、駆け出す。獲物を逃がすまいと、鬼は速度を上げて突進してきた。
蛇羅は廊下のど真ん中に仁王立ちして、鬼を待ち構える。
こめかみを汗が流れる。まるで丸太に括り付けられ、公開処刑の執行を待つ罪人にでもなったような気分だ。とても心地が悪い。
「俺達が食い止める。お前はさっさと逃げろ」
覚悟を固めたその時、蛇羅を庇うように前方に飛び出してきたのは、暁と安眠だった。こんな役立たずな男を助けるために、わざわざ残ってくれたらしい。
蛇羅は笑って、暁の肩をギプスで軽く叩いた。
「さっきは、足手まといが囮になればいいと、言っていたじゃないか」
「だからって、無駄死にする必要はないだろう。足手まといにも、できることがあるんじゃなかったのか?」
「僕にできる最善の道は、ここで足でまといを終わらせることだよ。君はまだ戦える、月見くんを守ってあげなきゃ。さあ、早く行くんだ!」
強い眼光を、暁に突き刺した。
その意志を、暁は理解してくれたらしい。少し渋っていたが、頷いて納得の意を表してくれた。
「……行くぞ、安眠!」
安眠に合図を送り、並んで後退する。先に逃げた二人を追いかけて、その場を去っていった。
それを見計らって、蛇羅は左手のギプスに噛み付き、歯の力で無理やり外した。硬いギプスが床に転がる音が、廊下中に響く。
向かってくる鬼。
相打ちで構わない。
この命が食われる前に、この手が少しでも奴に触れられれば、鬼は永い眠りにつく。
今度は、あの時のようなヘマは決してしない。
蛇羅なりに、けじめをつけようとしていた。二年前の失態は、大きな犠牲は、自分が引き起こしたものだから。
「今こそ、償いますよ。だから見ていてくださいね、夏祭先輩」
蛇羅の表情に浮かぶのは、笑み。
鬼が目の前に迫る。風に触れただけで痛みの走る左手を、思いっきり鬼に向かって突き出した。
その手から、痛みが消える。
一矢、報いることはできたのだろうか。いや、無理だっただろう。手応えがなかった。
また、あの感覚が襲ってくる。
何もない、しかし他にたとえようのない、この感覚が。
空気が恋しい。でも、怖い。
触れるのは、御免被りたいな。